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2012-02

原子力発電所問題に関する議論のための材料(ブログ前のサイトから再録)


 今日は、原発問題を考える上で必要と思われる材料について列挙しておこうと思います。
 原発をどうするかという議論はこれからもシッカリとしていかなければならないと思いますが、しかしもちろんその場合感情論だけでワーワー言うのでは、まったく議論になりません。
 また、昔の雰囲気、当時の雰囲気というモノも物事を考える上では考慮しなければなりません。
 いまはなんとなく反原発が正しくて、そしてその意見は昔から、震災の前から国民の中にあったかのような雰囲気で語られてしまっていますが、それは間違いです。
 その辺もキチンと冷静に考えて、議論していかなければならないでしょう。
 
 そういうコトを含め、ひとつ議論の材料になるように、いくつか要点を列挙してみたいと思います。
 
 
■日本の発電事情・発電割合
 
 まず日本国内においての発電は、どのような方法がどれぐらいの割合を占めているのか、キチンと知るコトが必要です。
 こちらの電気事業連合会のページにグラフが載っています
 2009年度の割合で
 
・原子力……29%
・火力(石油+石炭+天然ガス)……61%
・水力……8%
・地熱及び新エネルギー……1%

 
 です。
 火力が最も大きく、半分以上というか、6割を超えています。
 また水力とその他を合わせても1割に届かないぐらいですから、日本の電力というのは、その大部分を火力と原子力でまかっているというコトがここから分かるでしょう。
 
 
■原発前までは環境問題、CO2削減が正義だった
 
 鳩山前総理の25%発言を覚えていますでしょうか。
 国際会議で、国内の事前協議なして急に言い出した、アレです。
 ですからキチンと政治を分かっている人はトンデモナイ発言だと理解していましたが、これは菅直人の浜岡原発停止命令や脱原発発言と全く同じですね、でも国民の多くはけっこうこの発言を支持していました。
 ここも菅直人の脱原発発言と似ていると言えるでしょう。
 浜岡原発停止命令は支持しているっていう世論調査がけっこう出ていましたからね。
 まぁ結局いまでは鳩山前総理の25%発言はどこにいっちゃったんでしょうかみたいな雰囲気になっていますが、少なくとも少し前までの日本では、CO2削減が正義であり、これを推し進めるコトが国是だったワケなのです。
 
 
■発電方法と環境問題
 
 しかし発電方法の割合を見れば、さらなるCO2削減のためにはどうするのかと考えれば、もはや答えは1つしかないと言わざるを得ません。
 日本では、火力と原子力が大部分を占めており、そして火力はCO2を多量に排出するのですから、では原子力を増やしましょうというコトにしか成り得ません。
 そもそも火力は60%超えなのですから、それ以上増やすというのは、様々な意味で現実的ではありません。
 仮に火力100%となっていた時に、急にガスや石油が世界的に高騰したらどうなってしまうでしょうか。
 よって、どのような事態になったとしても安定して電力を供給するという視点から、もはや火力の割合を増やすという選択肢はあり得なかったワケです。
 
 事実、先ほどの電事連のグラフでも、2014年19年の予定では、火力の割合が下がり、原子力の割合が増えています。
 特に環境問題が正義、CO2削減が正義だった世論を前にしては、これはますます実に当たり前の動きだったと言えるでしょう。
 
 
■水力発電とダム開発
 
 日本国内では3番目の発電方法である水力発電ですが、こちらは再生可能なクリーンエネルギーであり、CO2もほとんど排出しません。
 よって素晴らしい発電方法だと言えるのですが、しかし国民はそれを是としませんでした。
 なぜなら、国民はダム開発をイコール悪と定義したからです。
 
 田中康夫当時長野県知事、現新党日本が流行らせた「脱ダム宣言」は記憶に新しいかと思いますが、とにかくダムを造るコトは悪だと、税金のムダ遣いだと、散々言われました。
 そしてその流れを汲んで民主党も、「コンクリートから人へ」というよく意味の分からないキャッチフレーズを使って選挙を戦い、そして与党となりました。
 結局これは、国民もその流れを後押ししたというコトに他なりません。
 国民は、いくら再生可能なクリーンエネルギーとは言っても、とにかくダムを造るコトは悪だと、税金のムダ遣いだと言ってしまったのです。
 前原当時国土交通大臣の八ッ場ダム問題も、つい最近のお話ですよね。
 この問題も国民は前原大臣を応援したモノです。
 国民は、いまともかく、昔はダムを悪だと定義したのです。
 
 ですから、そんな雰囲気では、ダムなんて造りようがありません。
 結局それは、再生可能なクリーンエネルギーである水力発電の割合も全く増えるコトがないコトを指し示しています。
 国民は自らの選択で、日本国内で3番目の発電方法を増やすコトを放棄したのです。
 つまりますます、火力か原子力かの2択問題しか存在させないようにしたのです。
 
 
■その他の新エネルギーの可能性
 
 では、その他の新エネルギーを増やすっていう選択肢もあるじゃないかと言う人もいるかもしれませんが、残念ながらそれはとっても時間のかかる話になってしまいます。
 これを増やすコトには反対はないでしょうが、火力や原子力にすぐに変われるほどの多量な電力を供給する手段とは、まだまだ成り得ません。
 
 例えばソーラーパネルですが、別にこれ、火力や原子力の既得権益がおかされる可能性があるからと秘匿されていたとかいう技術ではありませんよね。
 確かちょっと前から、多分いまでも、ソーラーパネルを設置すれば、ある程度の補助が国か地方自治体から受けられるようになっているハズです。
 ですから、行政も電力会社も、ソーラーパネルが普及するコトにはなんら反対はなかったと捉えるべきでしょう。
 
 でもそれでもまだこの程度の普及率なのです。
 なぜかと言えば、やはり対費用効果が悪いからと言えるでしょう。
 お金をかけて設置しても、それに見合う対価がそこまで見込めないからですね。
 それはやはりソーラーパネルが発展途上の技術だからという点が大きいでしょう。
 ですからこれから何十年か十何年かはともかく、将来的にはものすごい発電量を誇るソーラーパネルが開発されて、しかも安価に設置するコトが出来るようになれば、新エネルギーの割合が増えていくんだろうとは思います。
 いつか原子力や火力よりも割合が大きくなる可能性だってあるでしょう。
 ただそれは、あくまでそうなったらいいなという予想図でしか無く、いまの段階では、それがいつまでに達成されるかというメドすらたっていないのが現状です。
 新しい発明に頼るしかない話ですからね、これ。
 ですから、このような現状では、それは計画に組み込むコトはできません。
 10年後に必ず「それを設置すれば家庭の年間消費電力の全てを発電できるパネル」が開発できると断定できれば、それは計画に組み込めますが、そうではないのですから、あくまでまだソーラーパネルは希望の中の話でしか無く、現実的計画の段階の話ではないのです。
 
 
■もう一度、各発電方法の震災前の現状を確認する
 
 ここでもう一度、各発電方法の震災前の現状を確認しましょう。
 火力発電はすでに60%を超え、またCO2削減が正義であり国是である雰囲気の中では、もはやこれ以上割合を増やすコトは不可能と言っても過言ではなかったでしょう。
 また水力発電は「ダム=悪」論によって、それ以上増やすコトは国民の意思として不可能でした。
 その他の新エネルギーは、割合を増やすコトは希望としては持っていましたが、現実可能性のある案ではなく、計画として立案するコトはまだまだ難しい段階です。
 
 となれば、結局原子力しか選択肢がなかったのです。
 そしてそれは、けっこうな割合で国民の選択でもあったのです。
 
 
■現状で原発を全て廃止したらどうなるか
 
 まだまだ世の中には、「いますぐ原発を全て止めて廃棄しろ」というコトを言う人がいます。
 原発はなだらかに使わない方向にしていくという意見ではなく、いますぐ即刻止めろと言う人です。
 果たしてそんなコトが可能なのでしょうか。
 
 電力が足りるか足りないかの問題は言いません。
 電力会社がいくら足りないと言っても、菅直人のような人間が「資料を隠している」「埋蔵電力があるハズだ」とか言いますから、もはや陰謀論では議論になりませんので、ここでは言いません。
 
 では割合で見てみたらどうなるのかを考えてみましょう。
 現状では、「火力:原子力:水力:その他」は、「60:30:9:1」です。
 よってこれをそのまま原子力が無くなってしまえば、80%以上は火力発電に頼るコトになりますよね。
 ではその際、例えばオイルショックとか起きたらどうなるでしょうか。
 石油だけでなく、全ての化石燃料が値上がりするコトでしょう。
 その時日本の電気料金がどうなってしまうのか、想像するだけでこわいです。
 
 そもそも、日本が大東亜戦争・太平洋戦争に突入した大きな理由の1つが、エネルギー問題・石油問題だったハズです。
 欧米列強に石油を止められて、日本はエネルギーを求めて南方に進出したのです。
 そしてその結果どうなってしまったかは、言うまでもないですね。
 ですから、こういうエネルギーとかは一極集中させてはならないのです。
 様々な選択肢があるからこそ、一方でトラブルがあっても、他がカバーするコトで、全体を安定させるコトが出来るのです。
 つまり、火力発電一極集中にするなんていう行為は、むざむざと日本の弱点を晒しているコトにしかなりません。
 それは大変危険な行為なのです。
 
 
■原子力は人が完全に制御できるのか、という疑問、というか憤慨
 
 「原子力は人が完全に制御できるモノではない。100%の安全は絶対に出来ない。だからやめるべき」と言う人がいます。
 まぁ反動なのでしょう。
 いままで散々電力会社は「絶対大丈夫。事故なんて絶対起きない」と言ってきたのですから、事故が起きれば怒りたくもなります。
 しかし感情だけで物事を考えてはいけません。
 
 よく考えてみましょう。
 そもそも「人間が完全に制御をできるモノ」「100%安全のモノ」というモノは、この世の中に存在するのでしょうか。
 
 
■交通事故死者数、年間約5000人
 
 日本国内における交通事故の死者数ってご存じでしょうか。
 こちらの「交通安全白書」に具体的なデータがあるのですが、タイトルにも書きましたように、平成22年で4,863人です。
 負傷者に至っては、なんと896,208人という、とんでもない数字が出ています。
 89万人ですよ。
 下手な市の人口よりも多いワケです。
 毎年これだけの人が交通事故に遭ってしまっているのです。
 
 果たして人間は、自動車というテクノロジーを「完全に制御」しているのでしょうか。
 果たして人間は、自動車というテクノロジーは「100%安全」なのでしょうか。
 
 日本で初めて商業用稼働した原子力発電所は茨城県にあります東海発電所ですが、これが初臨界したのが昭和40年のコトです。
 いまから約50年も前の話ですね。
 さて、ではその昭和40年から統計が確定している平成22年まで、交通事故で亡くなった人は何人いるでしょうか。
 計算しましたら、なんと465,845人です。
 約46万人です。
 負傷者も計算しましょうか。
 昭和40年から平成22年までの負傷者の累計は、38,471,136人、約3847万人です。
 死んだら2度目はない死者数と違い、こちらは負傷者ですから、2度も3度も事故に遭ってしまった人も重複して含まれているでしょうけど、それにしてもすごい数字です。
 
 もう一度言いましょう。
 果たして人間は、自動車というテクノロジーを「完全に制御」しているのでしょうか。
 果たして人間は、自動車というテクノロジーは「100%安全」なのでしょうか。
 
 
■自殺者数、年間約3万人。殺人件数約1000件
 
 自殺する人すら年間約3万人(PDF)もいます。
 また21年の殺人事件の警察の認知件数は1094件、傷害致死は128件ですから、年間1200件ぐらいは人が殺される事件が起き(PDF)、そして一件で複数人の犠牲者がいる事件もあるでしょうから、ここからもうちょっと多い数字だけの人間が殺されてしまっているワケです。
 くどくなりますから昭和40年からの累計は書きませんが、どれぐらいの数字になるのか、想像はつくでしょう。
 
 そもそも人間は人間ですら「完全に制御」出来ていないのです。
 結局人間は、生きているだけで死ぬリスクを常に負っていて、実際年間たくさんの人が様々な事情で死んでしまっているのです。
 人類が発祥して歴史を手に入れてから、人類は1度たりとも「死因は病気・老衰で100%」という社会を実現したコトなどないのです。
 人間は常に、人間自身が生み出したテクノロジーか、もしくは人間自身の手によって怪我を負う、そして死亡してしまうリスクを負っているのです。
 人間自らがそれを創り出しているのです。
 それが人間の性であり業なのでしょう。
 
 
■「完全に制御」「100%安全」とは?
 
 この世の中に、人間社会の中において、「完全に制御」「100%安全」なんてモノは果たして存在するのでしょうか。
 残念ながら、存在しないのです。
 もちろんこれを追い求めるコトは正しいコトですし、必要なコトです。
 そしてこれこそが人間がやらないければならないコトです。
 
 しかし忘れてはならないのは、未だ「完全に制御」「100%安全」という境地には人類は達成していないという事実です。
 それはいまデータを示して証明しました。
 00%を目指すコトは正しいコトですが、しかし「100%でないからダメ」「完全に制御できないから完全排除」とは決してなっていないというコトを忘れてはなりません。
 自動車はどうでしょうか。
 年間5000人が死に、46万人も負傷しているのにも関わらず、自動車は廃止しようという声は一切聞かれません。
 いままで自動車が発明され普及してから果たして何人が死んだか分からない、少なくとも50万人以上は死んでしまっているのにも関わらず、そのような議論には全くなりませんでしたよね。
 自動車は「完全に制御」も「100%安全」でもありません。
 でも廃止しようという議論にはならないのです。
 
 
■メリットとデメリットを比べて、その上で考える
 
 なぜ自動車はそのような話にならないのかと言いますと、それはメリットとデメリットを比べたときに、それでもメリットの方が大きいと多くの人が考えているからでしょう。
 自動車の恩恵にあずかっている人は、例え運転免許を持っていなくても、ほぼ全ての国民が恩恵にあずかっていると言えます。
 毎日人はコンビニやスーパーや商店などで商品を買いますが、これらはすべて自動車・物流があるからこそ成り立っているワケであり、自動車がなければ買い物なんてできないワケです。
 もっと言えば、ご飯を食べるコト、野菜を食べるコト、お肉を食べるコト、自分が農業を営んでいるワケでもなく畜産を営んでいるワケでもないのに食事が取れるのは、全て自動車やその他交通手段があるおかげです。
 ですから、もはや自動車等がなければ普通の生活などできないワケで、そういう意味での自動車のメリットは大変に大きく、よって「自動車を全て廃止しよう」という議論にはならないのだと思われます。
 
 言い方を変えます。
 いま生きている我々は、交通事故で亡くなった50万人以上の人の犠牲の上に成り立っているのです。
 
 年に5000人死んだとしても、それはそれとして我々は自動車のメリットの方が大きいと、もっと言えば、5000人の命よりも受けるメリットの方が大きいんだという理由で、我々はいまを生きているのです。
 日々を暮らしているのです。
 もちろん事故が起きないようどうしたらいいのか、法整備を進めたり、自動車の方の安全性を高めたりしています。
 それはとてもとても大切なコトで、決していままで交通事故で亡くなった50万人以上の人の命は無駄ではなかったとは言えるでしょう。
 ただそれでもやっぱり、未だに事故を0にするコトは不可能なのが現実で、そしてそれでも自動車を使い続けるのが人間なのです。
 メリットがデメリットを超えているとの人間の選択なのです。
 50万人以上の骸を乗り越えての結果なのです。
 
 
■原発のメリット
 
 本当は原発だって、全ての国民がそのメリットを享受しているという、自動車以上にメリットの大きなモノのハズなのです。
 自動車を運転したコトが無いという人はいるでしょうけど、電気を使ったコトが無いという人は日本にはまずいないでしょう。
 だから本来はものすごく大きなメリットを、国民は原発によって受けているのです。
 ただそれが、あまりにも空気のように当たり前になっているので、実感しづらくなっているだけでですね。
 
 自動車は直接目に見えますから、あったら何が便利になって、無くなったら何が不便になるのか、想像が付きやすいです。
 もう直接的に、自動車が無くなったら通勤が出来ない、買い物も出来ないっていう人は多いでしょう。
 だから自動車はそれだけメリットが分かりやすく、だから廃止というところまで考えが至らないのです。
 でも電気だって、本当は無くなれば大変なコトになります。
 それはもういちいち説明するまでもないですよね。
 電気が無くなれば、そもそもやえもこうやってみなさまに文章を読んでいただくコトもできなくなりますし、ご飯だって農業を営んでいるワケではないのですからすぐに食べるモノがなくなってしまうでしょう。
 お風呂だって入れなくなる人は多いでしょう。
 何も出来なくなるっていう人は少なくないハズです。
 本当に大変なコトになってしまいます。
 
 
■原発のデメリット
 
 原発のデメリットは、やっぱりいまのように、事後が起きたときの影響の大きさでしょう。
 自動車だと1台の事故ではせいぜい多くて10人ぐらいの影響で終わりますが、原発が1基事故するだけで何万人という単位で影響が出てしまいます。
 放射能の影響はやはり大きいです。
 人体に直結してくる問題ですからね。
 
 
■原発と自動車のデメリットを敢えて比較する
 
 でも敢えて言います。
 原発は事故した時の影響が大きいから廃止すべきだと言う人がいますが、では果たして自動車の場合、その事故の影響が本当に原発より小さいと言えるぐらいのモノなのでしょうか。
 上で言いました。
 交通事故での死者数は、日本国内における原発の商用運転が始まった昭和40年から数えても、すでに46万にもなっているのに、それでも原発のデメリットより小さいと言うでしょうか。
 交通事故による負傷者なんて3847万人ですよ。
 その関係者の方や家族の方も含めたら、どれだけの人が自動車の存在によって悪影響を受けてしまったか、この数は本当に原発よりも小さいと言えてしまうのでしょうか。
 
 
■人が数人死ぬよりも、原発事故の防止の方が優先されている現状
 
 実は断層の上に原発はいっぱい建っているんだという話がありますが、しかしそれはまぁそうなのかもしれませんけど、でもその上に人も住んでますよね?
 これ、なんか変じゃないですか?
 つまり人なら数人死ぬだけで済むけど、原発が事故を起こしたら大変なコトになるから、断層の上にある原発は止めるべきだと、そういう理屈ですよね。
 こうハッキリ言う人はいませんが、つまりはそういうコトです。
 菅直人が止めた浜岡も、そういうコトですよね。
 その辺は大きな地震が来る可能性が高いのでとりあえず止めたというのが浜岡原発を止めた理由ですが、しかしそこに住む人達に対しては何もしないんですかと。
 結局は、人が数人死ぬよりも、原発が事故した方がまずいっていう、そういう比較にしかなっていないワケです。
 
 人のために原発があるのに、人命よりも原発事故の方を優先させてしまっているのです。
 でもなぜ原発事故を防ぐよう努力するのかと言えば、それは人命のためです。
 変なループになってしまっています。
 
 
■人が生きる上で背負うデメリット
 
 大津波が起きた地域もそうです。
 あの津波で亡くなった方、未だ行方不明の方は併せて2万人ぐらいで、とんでもなくたくさんの方が被害にあったワケですが、しかしその後、海岸線は危険だから住むのをやめよう運動は全く起こりませんでしたよね。
 2万人ですよ、2万人。
 これだけの人が一気に死んだり行方不明になったりしたのに、それでも未だに日本全国海岸線近くに住んでいる人はいっぱいいます。
 もし『「完全に制御できない」「100%安全ではない」、だから全てやめてしまおう』という考え方が正しいのであれば、海岸線に住むコトも、断層の上に住むコトも、いますぐやめなければならないのではないでしょうか。
 それとも人は自然を「完全に制御」できると思っているのでしょうか。
 そんなコトはありませんし、少なくともいまはできません。
 
 こういうコトを言い出すと、結局どこに住むのだって、必ず一定のデメリットはあるワケです。
 日本は地震が多いですが、他の災害が多い国や地域もあります。
 アメリカなんかよくハリケーンとか起きていますよね。
 また災害だけでなく、普通に犯罪率や治安が悪い国はたくさんあって、逆に日本ほど治安の良いところはないのですから、深夜でも女の子がひとりで歩いても何もされないというのは世界的に見たら珍しい方なのですから、そういうコトも含めて、ある程度のデメリットは、生きている人間は全員背負っているのです。
 どこに行っても、どこで済んでも、デメリットの無い場所なんて存在しないのです。
 
 そしてそれは自覚しなければなりません。
 みんなデメリットを背負っているのです。
 これを0にするコトは出来ません。
 
 「デメリットがあるから全部止めよう」
 「完全に制御できないから全部止めよう」
 「100%安全でないから全部止めよう」
 もしこの理屈が本当に正しいのであれば、人間は生きてはいけないでしょう。
 
 
■原発は貴重な輸出産業
 
 原子力発電の技術は、日本にとって海外に大きなアドバンテージを持っている貴重な輸出産業の1つです。
 これはいま現在の菅内閣のもとでも行われて、完全に菅直人の二枚舌になっているのですが、トルコやインドやベトナムなど、いまでも日本は原発セールスを続け、日本の輸出産業として成り立っています。
 言うまでもなく日本は輸出の国であり、自動車等輸出産業が死んでしまえば日本経済は危機になると言えます。
 その中で原発という輸出産業は、1基造るだけでもお金の規模はかなり大きいでしょうし、決して無視できない産業だと言えるのではないでしょうか。
 
 原発問題を考える上においては、ここも考える必要があるでしょう。
 日本のエネルギーの問題というだけではなく、輸出産業という意味においてです。
 果たして世界トップの技術を誇るこの輸出産業を、みすみす放棄して、中国などの国にシェアをあっさりと明け渡してしまって良いのでしょうか。
 
 
■原発放棄は原子力の技術の放棄でもある
 
 原発を放棄するコトは、原子力に関する技術を放棄し、日本において技術がロストしてしまうコトを意味します。
 もしそうなった場合、輸出産業が1つ消えるという意味においても大変憂慮すべきコトですし、また、日本がもし将来において核兵器を保有しようというコトになった際にも、大きな障害になってしまうコトでしょう。
 少し前まで、なにかあれば「日本も核武装すべきだ」と話題に上がっていましたが、それは日本が高い原発技術があるからこそ現実味を帯びて主張できる論なのであって、もし原子力技術がロストしてしまえば絵に描いた餅にしかならない話になってしまうのです。
 
 日本には高い原子力技術があるからこそ「核武装しよう」という主張は外国にとって驚異となり、それは同時に抑止力にも繋がるのです。
 人によっては、日本の技術を持ってすればすぐに核兵器は作れると言う人もいます。
 しかしそれはあくまで原発を基礎とした原子力の技術を現場で実地出来るからこそ得られている技術であって、もし原発が無くなればその技術は失われ、核兵器への説得力も無くなってしまうコトでしょう。
 それは同時に、抑止力の大幅な減退を意味します。
 
 原発の問題は、国内エネルギー問題だけにとどまらず、輸出産業という日本の経済全体に影響を与えて、さらに国防問題にすら発展するのです。
 単に電力が足りる足りないだけではなく、もっと多角的にこの問題は見なければならないのです。
 
 
■無事だった女川原発
 
 宮城県に女川原子力発電所という発電所があります。
 宮城県ですから、やはりあの時の地震で被災しています。
 その規模は、こちらの記事にありますように、同等程度だったと考えられています。
 まして津波は、
 

 福島第一原発を襲った津波は高さ14メートルを超えたが、女川町を襲った津波は17メートルクラスだったとする調査結果が出ている。

 
 とのコトで、福島原発よりも強烈な津波が襲っていた可能性があるという、大変厳しい被災を受けていた原子力発電所だったのです。
 
 でもですね、女川原発はこれに耐えきったのです。
 原発被災の話になると福島原発の脆弱性ばかりがピックアップされ、全ての原発が福島原発と同じだと思われがちになっていますが、事実はそうではありません。
 キチンとこの大震災に耐えきった原子力発電所があり、キチンと設備等備えれば耐えきれるというのは、実例を持って証明されているのです。
 もちろん福島と全ての状況が同じだったワケではなく、「同原発の主要施設の標高は14.8メートルあり、10メートル前後だった福島第一より高い」等の好条件もあったのでしょうし、運というモノもあるのだろうとは思いますが、しかしそれは津波の高さの誤差でほぼ変わりが無くなる程度の違いでしかなく、やはい適切な備えをすれば防げた範囲内と言っていいのではないのでしょうか。
 逆に言えば、これを教訓にすれば、今後どのような対策を取ればいいのか福島と女川との違いを検証すれば、より適切な対策が取れるようになると言えるんだと思うのです。
 
 
■原発の存在が悪なのか、事故を起こしたコトが悪なのか
 
 防げた事故だったのに、それが防げなかったというのは、責められて当然の責任です。
 今回の原発事故というモノは、これなのです。
 ここを間違えてはいけません、冷静に考えなければなりません。
 決して、どうやっても今の人間の力ではどうしようもなかった、人間の力を超えて起こった事故、ではないのです。
 人間の力で防ぐコトが可能だった、実際防いだ原発もあったという事故だったのです。
 
 ですから、事故を起こしたコトは、これは悪です。
 防げる事故を防げなかった責任は、東電は重く認識しなければなりません。
 しかし、メリットとデメリットを考慮した上で、防げる事故だったというコトも踏まえた上で考えた時、果たして原発の存在が悪だと言えるのかどうか、それを建設したコトが悪だったと言えるのかどうか、これはかなり疑問に思わざるを得ないのではないでしょうか。
 自動車にしても、自転車でも死者は出てしまいますし、未だに自殺も殺人も無くならない、そういう中でこのデメリットを敢えて受け入れてメリットを享受して人間は生きている以上、なぜ原発だけデメリットだけがピックアップされて全廃でなければならないのか、原理主義が許される合理的理由というモノは見つからないと思います。
 
 繰り返しますが、いまを生きる我々は、それだけで50万人以上の命の犠牲の上に成り立っているのです。
 それを忘れてはなりません。
 
 
■原子力発電所が建設されていたコトは国民全員が知っていた
 
 原子力発電所の存在は、これは秘密でもなんでもありません。
 国民全員が知っていましたよね。
 いままで、東日本大震災が起こるまで、日本の中に原子力発電所があったコトを知らなかった人は、物心つく前の子供以外では誰一人としていなかったハズです。
 
 日本で初めて原子力研究開発予算が国会で提出されたのは昭和29年です。
 この時の政治は、改進党とか自由党とか日本民主党とか、そういう時代の話ですが、それから果たして何回日本では選挙が行われたでしょうか。
 テレビや新聞やマスコミ等で何回原発や原子力が話題になったでしょうか。
 何度核実験が行われ、まして大気圏内での実験という危険な実験が何度行われたのでしょうか。
 チェルノブイリ事故など、原発事故も世界で何度か起こっていますよね。
 果たしてこれだけのコトがあって、日本の原発があったと知らなかったとはとてもじゃないですけど絶対に言えません。
 
 これだけをもっても、原発を建設したコトが悪とは言えないでしょう。
 もし言うのであれば、それは国民全員の責任です。
 国民が原発建設を容認し、そこで作られた電気を国民全員が享受していたのです。
 
 
■いまどうするか。100年後ではなく、いまをどうするか
 
 エネルギーの問題を考えるのであれば、100年後どうなるかは分かりません。
 それは、あくまで科学技術の話でしかないからです。
 道筋の話ではないのです。
 簡単な話、100年後に原子力に匹敵する発電量を誇るスーパーソーラーパネルが発明されれば、原子力発電所は廃止すればいいでしょう。
 火力発電所も、ソーラーが代替となれれば、そちらの方がいいでしょう。
 太陽光・風力・水力・地熱だけで、日本国内の全ての電力が賄えるようになれば、それは素晴らしいコトだと思います。
 
 しかしそれは、まだまだ計画に移すコトも出来ない、ただの希望の段階です。
 言ってみれば、あと何百年後にはドラえもんが誕生してどこでもドアを出してくれる、と言っているのと大差ありません。
 科学者がその夢に向かって努力するというのならまだしも、政治家が夢想だけで済ましてしまうというのは大問題です。
 まして仮に100年後それが達成できると分かっていたとしても、その間の100年間を放置していいコトには全くなりません。
 未来を見据えるのも政治家によっては必要ではありますが、それは同時に足下のコトをこなしてこそです。
 
 科学者でも発明家でもない政治家がやるべきコトは、100年後の夢想ではなく、いまをどうするかという現実論です。
 
 
■原発の問題は原発だけの問題ではない
 
 原発を止めれば全ての人がハッピーになる、なんて単純な話ではありません。
 また同時に、原発を動かせば日本がハッピーになれるという話でもないでしょう。
 この問題は二者択一の問題ではないのです。
 様々な問題が複雑に絡み合い、また人が利便性を求めた結果、そのメリットデメリットがどう人に作用しているのか、それは原発だけでそれを判断するコトは難しい問題になってしまっているのです。
 
 でも、政治とは全てにおいてそうなのです。
 分岐点がAかBかだけの2択しかないような問題なんて存在しないのです。
 世の中の問題とは様々な複雑な要素が絡み合って存在している、というコトを理解した上で、解決に向かって考えなければならないのです。
 原発問題もそうです。
 難しい問題ですが、だからこそシッカリと考えていかなければならないでしょう。 

震災対応・原発対応は100%民主党政権の責任


 今朝のテレビでの報道バラエティでみのもんたさんがこんなコトを言ってました。
 
 「頑張ろう日本という言葉は溢れかえっているが、未だガレキ処理は進まない。一体政治は何をしているのか」
 
 最近マスコミお得意のどっちもどっち論、既成政党はダメ論の変形バージョンです。
 都合の良い時は政府と名指しして批判するのに、これが民主党になると「政治は」と全てをごちゃまぜにして批判する、卑怯な手です。
 マスコミはどうしても民主党に肩入れしたいようですね。
 そしてなによりこの言い方というのは、国民の責任から逃げようと目をそらせようとしている行為にしかなりません。
 そうするコトが一番政治にとって悪い結果にしかならないのにです。
 
 少なくとも、ガレキ処理に関しては、これはもう完全に民主党政権の100%の責任です。
 この震災や原発の問題を言うと、民主党やその応援団は「ただの震災対策ではない、原発事故が大きいんだ、そして原発を推進したのは自民党ではないか」と言い出しますが、それとこれとは話は別です。
 いま言っているのは、震災が起きた後、事故が起きた後の対応についての責任のお話しです。
 決して「なぜ事故が起きたのか」という部分の責任論ではないのです。
 それは別で議論すべき問題ですが、この場合は「事故が起きた後、どう政府として対処すべきだったのか」という問題について議論しなければならないのです。
 
 例えば、かの関東大震災の時には、なんと発生からたった2日後に帝都復興院が作られ、その対応に当たりました。
 当時は戦前というコトもあって今よりマンパワーが強い時代でしたからという理由もあるのでしょうけど、しかしそれにしても阪神淡路大震災の時だってその帝都復興院に相当する「阪神・淡路復興対策本部」の設置はと興基本法は約1ヶ月で成立しています。
 これが早い対応なのか普通なの対応なのかの議論はあるでしょうけど、さてでは今回の東日本大震災の対応はどうだったでしょうか。
 復興基本法の公布は6月24日ですから3ヶ月以上の後、そして復興庁なんてなんと11ヶ月もかかっているのです。
 まして基本法は自民党案が大部分のベースになっているのです。
 いったいぜんたいこの能力の無さとスピードの遅さはなんなんのでしょうか。
 
 これは100%民主党政権の責任です。
 なぜ事故が起こったのかという部分は関係がありません。
 過去のコトはどうであれ、いま起こったコトに対してそれに対処する能力と責任を追っているのが政府なのです。
 決して、この出来事は過去の政府の責任だから自分達は何もしないよっていうのが許されるコトは絶対にありません。
 どんな政府であっても、仮にいままで過去に国会の議席すらもっていなかったような政党の政府が誕生したとしても、現在起きているコトに対する責任はその時の政府に全てあるのです。
 そもそも天災なんて、その原因は誰の責任でもありません。
 でも、それでも、それが起こった後にどう対応するのかというのは、それは政府に責任があるコトですよね。
 そのために政府という組織が作られているのですから。
 この責任を忘れてはいけません。
 
 そしてなにより、民主党政権を作ったのは国民自身です。
 それを扇動したのはマスコミです。
 それなのにみのもんたさんがどの口で政治批判をするというのでしょうか。
 いまの現状を招いたのは、あなたの口が大きな原因なのですよと言いたいです。
 
 例えば、数ヶ月前に一度、衆議院の解散総選挙のチャンスがありました。
 結局菅総理が「一定のメドがたったら辞める」と言ってズルズル引き延ばして無駄に時間だけを浪費したアレですが、もしあの時解散総選挙していたら、確かに選挙期間の1ヶ月ぐらいは国会が空白だったかもしれませんが、それでも今よりはよっぽど良くなっていたと思いませんか。
 だいたいにして衆議院を解散したとしても、政府が空になるワケではありません。
 衆議院議員がいなくなるだけで、国会自体も参議院議員がいるワケですし、そもそも民主党はとっとと国会を閉会してしまったのですから、国会が開かれないという意味では解散とそうは変わらないコトを平気でやってしまっているのです。
 でもその責任も全然追及しようとしませんよね。
 言うのは「どっちもどっち」だけで。
 
 結局こういうコトをやっていると、そのツケを支払うのは国民なのです。
 マスコミが無責任に言葉を発し、それを国民が鵜呑みにして、その結果出来た政府によって対応が遅れて、結局そのツケは国民が支払うのです。
 いま被災地で対応が遅くて苦しんでいる方がいると思いますが、それも結局国民のせいで引き起こっているというコトに気付かなければなりません。
 あの時、被災地の住民中にもテレビカメラの前で堂々と「いまこんなコトをしている場合じゃない」って自民党批判していた人いっぱいいますよね。
 どうでしょうか、それが今のこの結果です。
 
 政治は政治家の責任だけではありません。
 基本的には政治は国民の責任なのです。
 「政治はなにやっているのか」ではありません、「国民はなにやっているのか」です。
 マスコミも散々ですが、もっとこういう構図からキチンと理解しなければ、また同じコトを繰り返してしまうでしょう。

自民党が消費税に関する3党協議に乗ってはいけない8つの理由


1.「消費税増税は議論すらしない」-民主党には消費税論議の資格無し
2.開かれた場で、国会の場で議論すべき
3.選挙の際の選択肢を隠すな
4.まずは民主党内がまとまってから
5.民主党の決定とは何をもって決定というのか
6.民主党は嘘を付く政党
7.消費税は選挙の後でも時間は十分ある
8.閣議決定後でも修正は出来る

 
 
1.「消費税増税は議論すらしない」-民主党には消費税論議の資格無し
 民主党は衆議院選挙の前に「消費税増税は議論すらしない」と言っていました。
 次の選挙まではこれを守る義務があり、そもそも民主党には消費税論議をする資格はありません
 
2.開かれた場で、国会の場で議論すべき
 消費税という大きな議題は、国会というフルオープンの場で議論すべきです。
 3党協議だと誰が何を言ったのか全て非公開になってしまい、責任の所在が曖昧になってしまいます。
 
3.選挙の際の選択肢を隠すな
 3党協議の後に作られた法案では、どの政党がどう主張したのか分からず、国民にとっては選挙の際の選択肢を潰す行為にしかなりません。
 選択肢があるからこそ民主主義の選挙が成り立つのです。
 結果だけを見てはいけません。
 民主党も自民党も消費税を増税するっていう結論だけを見てはいけません。
 その間には様々な手続き論や時期のお話しや細かい相違点はたくさんあるでしょう。
 その相違点をどの政党がどう主張したのか、ここをキチンと見るコトが政治を見るというコトなのです。
 
4.まずは民主党内がまとまってから
 3党協議とは読んで字の如く政党間で交わす協議です。
 個人間の協議ではありません。よってこの行儀が成り立つ前提としては、各政党が自分の政党内の意見をまとめておく必要があります。
 協議者は個人でその場に出席しているのではなく、政党として出ているのです。
 しかし民主党は消費税に関してまとまっていません
 これでは協議する以前の問題です。
 
5.民主党の決定とは何をもって決定というのか
 民主党は消費税議論以前の問題としてそもそも「政党としての決定」がどう行われるのか不明確です。
 党内手続きを誰も明確に説明できません。
 つまりその人が意見を言ったとしても、それが民主党としての意見なのか、それともその人個人の意見なのかが分からないのです。
 これでは政党間協議など出来ません。
 
6.民主党は嘘を付く政党
 過去、予算に関する3党協議と、そしてその結果まとめるコトができた3党合意を、民主党はあっさり翻しました
 合意文章に書いてあるコトを守らなかったのです。
 つまり3党合意を反故にし嘘を付いたのです。
 嘘を付く政党とどう協議して約束しようとするのでしょうか。
 
7.消費税は選挙の後でも時間は十分ある
 消費税は一日一秒を争うほどの時間を要する問題ではありません。
 選挙をする時間ぐらいは十分にあります。
 まずは選挙で民意を問うてからでも十分です。
 少なくともいまの民主党政権でやるべき問題では全くありません。
 
8.閣議決定後でも修正は出来る
 閣議決定された法案でも、国会において修正するコトは可能です
 というか当たり前ですよね。
 法律はあくまで国会が作るのであって、いくら政府の閣議決定があったからと言っても、法律を作るという作業ではそんなモノは一切の拘束力を持ちません。
 国会の決定の方が上です。
 よって当然、閣議決定後の法案でも、修正をした上での再提出はあり得ます。
 そして事実として、過去のこのような例はいくらでもあります。
 政府が法案を閣議決定した後に提出し、国会の中で議論がなされ、その後問題点が明らかになればその時に改めて各党協議を行って、その場で問題点を潰した法案を作り直して、それを国会に再提出して成立させればいいのです。
 むしろ、これが本来のあり方でしょう。
 
 
 というかですね、1つの理由で拒否するならまだ一考の余地はあると思うんですが、実はこんなにもいっぱい挙止すべき理由があるワケです。
 よくテレビなんかでは、1つだけ適当に理由をポンと挙げて、そんなのは国民のため国家のためとか言って無視しますが、それはとんでもないコトなのです。
 ここまで理由が揃っていれば、むしろ受ける方が国益を損なうと言うしかないでしょう。
 マスコミには騙されないようにしたいですね。
 
 この他新たな事実や気づきが出てきましたら、随時更新していきます。

手段と目的・院政・死刑廃止論


 今日はいくつかの話題について簡単にコメントしたいと思います。
 
■「手段は正しいけれど目的が間違っている」の方が正しい
 手段と目的のお話しについてコメントを頂きました。
 

政治とはいかに多くの人間を幸せにするか、というものだと思っています
手段が間違っていても目的が正しい
手段は正しいけれど目的が間違っている
この場合は上の方がより上位となるでしょう
手段も目的も正しいのが理想的ですね、
理論上は理想的な支配者の方がいいのは当然の事といえます

 
 広い意味での政治という意味では、どうですかね、「手段が間違っていても目的が正しい」のと「手段は正しいけれど目的が間違っている」ではどちらが正しいか、どちらが上位かと決めるのは、難しいと思います。
 この命題というのは、革命やクーデターによって多くの血が流されたとしても政治体制を変革させるコト、そしてそれを認める社会を作っておくコトが、最終的に国民のため人間のためになるかどうか、というかなり究極的なお話しですから、将来のコトまで考えるとなかなか難しい命題です。
 理想的な支配者が現れる確率と、その次の代はどう継いでいくべきなど、問題も多いですからね。
 特に日本においては、クーデターはあっても革命というのは有史以来発生したコトがないワケですし。
 
 で、これが現代の日本においてはって話になりますと、これは明確に「手段は正しいけれど目的が間違っている」の方が上位になります。
 なぜなら、目的が主義主張や思想になりますと、それが本当に正しいか間違っているかなんてコトを普遍的な定義として定めるコトなんて出来ないからです。
 なかなか世の中、これが正しいと全ての人が認めるような価値観は、そうは多くありません。
 
 その上で、その主張をしている本人はもちろん自分の考えが正しいと思っているワケですから、そのギャップをどうするかという問題です。
 それが「手段」なんですね。
 すなわち、「こういう手続きを踏めば貴方にその考えを実行する権利を与えましょう」というのが民主主義なワケです。
 選挙であったり法令で権限が大きくなりすぎないよう抑制していたりですね。
 普遍的な思想的価値観を定めるコトができないからこそ、手段・手続きによって一定の定義を定めるコトによって、万人に対する普遍性を担保しようとしているワケです。
 その中で目的を達成するなら許容しますよと。
 
 だから現代日本においては、とにかく手段は正しくしなければならないのです。
 それが「前提条件」なのです。
 前提条件を満たさないのであれば、あとは全て否定するしかないと、そういうお話しなのです。
 
 
■橋下市長「僕は(調査内容は)全く問題ないと思っている。(凍結は)野村顧問の判断だ」
 記事をご覧下さい。
 

大阪市、職員への組合・政治活動調査を凍結
 
 大阪市の職員約3万4000人に実施されていた組合・政治活動実態調査について、調査を担当する市特別顧問の野村修也弁護士が17日、市役所で記者会見し、寄せられた回答の開封や集計を凍結することを表明した。
 「思想・信条の自由を侵害し、組合運営に介入する不当労働行為だ」と反発する市労働組合連合会(市労連)などが大阪府労働委員会に救済を申し立てたことを踏まえ、「当面は推移を見守ることが妥当」と判断した。
 府労働委員会は22日にも調査の一時差し止めの可否などを判断し、さらに数か月以上かけて調査中止を市に命じるかどうか最終決定する見通し。事実上、回答結果は集計・公表されない公算が大きくなった。
 
 この日の会見で、野村氏は「残念だが、(府労委の)法的手続きが開始された以上、調査は凍結する」と説明。現時点で職員の回答率を含めて一切集計していないとした。ただ、組合の政治活動などについては、職員から内部告発を受けていることを明かし、実態解明は今回の調査とは別に継続する考えを示した。
 凍結について、橋下市長は報道陣に、「僕は(調査内容は)全く問題ないと思っている。(凍結は)野村顧問の判断だ」と述べた。

 
 橋下市長が特に公務員組合の政治活動・選挙活動について、最終的にはこれを潰す気なのでしょうけど、その前段階としての調査に関する記事です。
 もちろん公務員の公務中の政治・選挙活動は認められていませんからこれは厳格に禁止すべきだと思いますが、ただそれを業務命令で調査するという行為について疑問が呈されたワケです。
 まぁその是非は、やえはぜひとも裁判によって明らかにしてもらいたいと思うのですが、この記事において気になったのがこの点です。
 

凍結について、橋下市長は報道陣に、「僕は(調査内容は)全く問題ないと思っている。(凍結は)野村顧問の判断だ」と述べた。

 
 んー?
 橋下さんが調査をやれと言い出して、しかし凍結したら現場の責任にするのですか?
 んー?
 やえこの前なんて言いましたっけ。
 「例えば大阪維新の会が国政で与党になったとして、しかし政策が実行できなかったとしても、橋下さんとしては「政策が間違っていたのではなく、議員が力不足だったため」と言えてしまう構図を残してしまいます」って言いましたよね。
 あれー?
 
 念のためにもう一度言っておきますよ。
 なぜ院政がダメなのかと言いますと、最も権力を持っている責任をとらなければならない人間が後ろに隠れるコトによって、権力は持ちつつ責任は別の人間に押しつける形になってしまうからです。
 こんな歪んだ形は許してはならないでしょう。
 はい。
 
 
■だから死刑を廃止すべきっていう論拠を示してください
 こちらの記事をご覧下さい。
 

元少年の死刑に反対=国民新・亀井氏
 
 国民新党の亀井静香代表は22日の記者会見で、山口県光市で起きた母子殺害事件で元少年の死刑が確定することに関し、「どんな犯罪者の命であっても尊い命であることには変わりない。それを国家権力が奪うことは、私としては許し難い」と、反対する見解を示した。亀井氏は「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長。

 
 亀井静香ちゃん先生が死刑廃止論者っていうのは有名で、著書も出されておられますから過去にやえも買って読んでみたコトもあるのですが、それでもやっぱり死刑廃止論の論拠が分かりませんでした。
 今回のこれもそうです。
 「どんな犯罪者の命であっても尊い命であることには変わりない。それを国家権力が奪うことは、私としては許し難い」なんて、これ全然論拠になってないんですよね。
 
 命が尊いというのは、これは完全に主観です。
 なぜなら、「なぜ尊いのか」という論拠がさっぱりないからです。
 命が尊いというコトを自分で勝手に定義して、それを聖域化して論拠に使うというのは、これはほとんど詭弁としか言いようがありません。
 もしくはマッチポンプかですね。
 
 例えば、「人間は生まれながらに自由という尊い権利を有するから禁固刑はあってはならない」なんて言ったらどうでしょうか。
 もし「尊い」という主観的な理由が誰にも犯すコトのできない神聖不可侵な概念になり得るのであれば、この論だって守らなければならなくなります。
 こういうコトだって言えますよ。
 「亀井静香は存在が尊いので終身国会議員にすべきだ」
 バカバカしいですね。
 この論を正当化するためには、まず「なぜ尊いのか」という論拠を示さなければならないでしょう。
 よって「尊いから」というのは、死刑廃止論の論拠にはなりません。
 
 このように、やえは一度として死刑廃止論のまともな論拠を見たコトがありません。

死刑論と冤罪


 先日、光市母子殺害事件の最高裁判決が下りました。
 死刑です。
 この事件については他にたくさん解説しているサイトがありますから詳しく言いませんが、殺人犯が当時18歳だったという点について死刑にできるかどうかが最も争われた裁判だったと言えるでしょう。
 特に一審二審と無期刑を言い渡したのにも関わらず、最高裁においてそれが覆ったというのが、大変印象深い裁判だったと思います。
 やえはこの死刑判決を全面的に支持します。
 
 この事件に限らずですが、死刑がピックアップされると必ず出てくるのが「死刑廃止論」です。
 読んで字の如く死刑は廃止すべきだという論ですが、これ当サイトとしてもずっと昔から取り扱っている題材でして、しかし残念ながらやえは今までまともな死刑廃止論を見たコトも聞いたコトもありません。
 もっと言えば、死刑を廃止すべきまともな論拠を聞いたコトがないのです。
 いつも言ってますよね、主張があるなら必ずその論拠があるハズです。
 死刑を廃止すべきだと主張するのであれば、その論拠が必ずあるハズなのです。
 しかし死刑廃止論は、その論拠がないのです。
 どう考えても、死刑は廃止すべきだという結論が先にあって、その理由を後付けで考えているとしか思えないモノばかりなのです。
 
 一番よく聞く死刑廃止論の理由らしきモノは、「冤罪があるから」です。
 つまり、死刑は命を奪う罰であり、殺してしまってはもし冤罪だった場合には取り返しが付かなくなるから廃止すべきだ、という論調です。
 
 やえには全く理解ができません。
 
 賛成できません納得できませんではありません、理解ができないのです。
 だって「取り返しが付かない」というのは、死刑に限らず全ての刑罰でも同じだからです。
 お金ならまだしも、全てにおいて「時間」はどうやったって取り返しが付きませんよね。
 ですから、全ての刑罰において冤罪の可能性を言うと「取り返しが付かない」という論拠がもれなく付くのですから、ここに死刑だけを特別扱いをする理由が1つもないのです。
 
 そしてなにより、そもそも冤罪というのは運営の問題です。
 日本の法体系の中でも、運営の中で起きるエラーです。
 それなのにそれをシステムに転換するというのは、実は大変に無責任なコトだと言うしかないでしょう。
 システムに責任を転嫁させれば、実は運営の問題であるにも関わらずその運営の問題に目がいかなくなってしまう、つまり運営の責任を問わなくなってしまうからです。
 そしてやっぱりですね、この理由からもさっきと同じように冤罪は死刑問題に限らず全ての犯罪において起こり得るコトとしか言いようが無く、だからこそ「冤罪があるから死刑は廃止すべき」とはならないのです。
 これが仮に「冤罪があるから全ての刑罰は廃止すべき」であるなら、まだ論としての筋は通っていると言えるでしょう。
 
 この辺の詳しい内容は過去の更新(死刑論死刑執行)を読んでいただくとしまして、もう1点言っておきたいコトがあります。
 死刑廃止論が出るとほぼ必ず冤罪のお話しがでるワケですが、であるなら、まずは冤罪撲滅の動きこそを熱心に先にやるべきなのではないですかというコトです。
 論拠が「冤罪があるから」であれば、結論としては「死刑を廃止すべき」ではなく「冤罪を無くそう」というコトになるのが当然の流れのハズです。
 死刑を憎んでいるのではなく、冤罪を憎んでいるハズなのですからね、この論拠でしたら。
 であるなら、もっとやるべきコト、やれるべきコトはあるんじゃないでしょうかと言いたいのです。
 
 例えば痴漢冤罪事件です。
 これ近年の日本の司法史においては、もっとも多発している冤罪事件と言えるでしょう。
 どうしてこれを熱心に取り扱わないのですか?
 例えば今回の母子殺害事件については、加害者に死刑の可能性が出てきたという段階で全国から安田氏をはじめとして多くの弁護士が集結しました。
 言うまでもなく、死刑を阻止しようという動機からです。
 しかし、果たして痴漢裁判で冤罪の可能性が出たときに、この人たちはこのような動きをするでしょうか。
 いえ、したでしょうか。
 答えはNOですね。
 まぁ全ての弁護士が冤罪を理由にしているとは言いませんが、それにしても冤罪が理由であるのであれば、この差はなんなんでしょうかと言いたくなります。
 
 さっきも言いましたように、冤罪は運営の問題です。
 もっと言うと、警察と検察そして裁判所の人間の問題、つまり警察官と検察官と裁判官の個人的資質や能力にほぼ100%依存する問題です。
 簡単なお話です、死刑を廃止しても冤罪は1つも減らないですからね。
 であるなら、冤罪を論拠として持ち出すなら、では冤罪を無くす努力をしましょうってお話しなのです。
 
 死刑廃止論においては「冤罪があるから」というモノは一切論拠とはならないのです。
 最低でも、冤罪事件を撲滅するために最大限努力しなければ、こんなモノは論拠として持ち出せないのです。
 痴漢冤罪事件が多発している中、証拠も何にもなく被害者と自称する人間の証言だけで判決が下っている異常事態が続いている中でこれを放置している人が、どんな理由で「冤罪があるから死刑は廃止すべき」と言えるのでしょうか。
 結局そんなのは冤罪を理由に利用しているだけじゃないですか。
 つまり、死刑廃止という結論が先にあり、その理由をでっち上げるために冤罪を利用しているだけとしか言いようがないのです。
 冤罪を撲滅したいのが目的ではなく、冤罪はどうでもいいから死刑さえ廃止させられればいいやっていう、そういう構図です。
 そんな理由では死刑廃止論は成り立たないのです。

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