コメントレス

2012年4月15日

 今日はひさしぶりにコメントレスをしようと思います。
 最近してなかったですから、かなり前のコメントもレスしたいと思いますので、話題があっちいったりこっちいったりするかもしれませんがご了承下さい。
 
 

 まあなんだ、テロの否定は原理主義的すぎるかなぁ、とは思う。主張の正しさと手段の正しさは別だし。主張が正しくとも手段が正しくないから総合的に認められない、と、主張が正しくとも手段が正しくないから主張の正しさそのものを認められない。これは別。

 
 橋下大阪市長の院政批判に対するコメントです。
 ちょっとここは頭の整理が必要なのですが、やえは決して「首相公選制」という論自体がもうこれでダメだっと言っているワケじゃないんですね。
 あくまで「橋本徹が主張する首相公選制」は論ずるに値しないと言っているのです。
 ですから、別の方がそれを主張するのであれば、それは議論の対象です。
 
 「誰が言ったのか」、ここはハッキリさせておかないと大変なコトになります。
 「主張の正しさ」が免罪符になってしまうからです。
 「自分達は正しいコトをやっている言っているから何をしてもいいんだ」と、そう勘違いしてしまう輩がどうしても出てくるからです。
 これはもう歴史が証明している以前の問題で、とっても身近な問題としてあるハズです。
 これ前も言った気がするんですが、体罰なんて問題はまさにこれでしょう。
 「叱るコトは正しい」というのは、それは主張としては正しいですし、中身によっては叱るべき場面というのは教育においては絶対にあるコトです。
 しかしだからといって、無制限に殴って蹴って大けがをさせてはいけませんよね。
 体罰は程度の問題であって、時に痛みを知らしめる必要はあると思いますが、しかしそれを免罪符として滅茶苦茶する教師がいたコトは事実としてあります。
 だからこそ、「主張の正しさ」は免罪符にならないというコトを、常に明確にしておかなければならないのです。
 
 政治にしてもそれ以外の主張などにしても、その中身の大切さは当然としても、さらに「誰が言ったか」というのもやはり大切なコトです。
 増税するという主張だけとっても、「任期中は議論すらしない」と公言していた民主党議員が言うのと、堂々と「日本経済は全治3年。その後増税させていただく」と言った麻生総理とでは、同じ「増税」でも説得力や納得しやすさは全然違います。
 また、当サイトにいつもお越し下さっている方というのは、ある程度やえの言っているコトに信頼を置いてくださっている方だと思うのですが、これがもしやえが常に嘘を付きまくっているようなブログだったとしたら、多分こんなにも多くの方に起こしくださるブログにはなっていなかったでしょう。
 最初はニュートラルの気持ちで意見を聞くという姿勢は大切だと思いますが、しかし言葉を積み重ねていく中での信頼性というモノもやっぱり大切で、むしろそれこそが説得力の重要なファクターになるワケで、特に政治家なんてそうですよね、ここは絶対に無視できないのです。
 この問題はここについて考えてもらいたいワケなんですね。
 院政を敷いて責任逃れしたまま実権を握ろうとしている人間に、どのぐらい説得力があるのかというのは、やえは大変に疑問に思わざるを得ないのです。
 
 

 毎日消えた年金消えた年金とかニュースでやってますが、民主党が選挙前に言ってた消えた年金問題はどこへ行っちゃったんでしょうね

 
 そういえばそんな言葉もありましたね。
 確かこれ当時やえも言った記憶があるのですが、あれって「消えた」ではなく「重複しているために分からなくなっている年金記録」なんですよね。
 決してお金が消えてしまったワケではないワケで、そもそもこれは世界どこでもそうなのですが、役所というのは申請主義なのですから、あの問題のそもそもの原因は、年金の種類が変わった時にキチンと手続きをしなかった国民が悪いのです。
 次に、まともに仕事をしようとしなかった公務員労組のせいもありますね。
 だからああいう風に政府の責任かのように言うのはかなり的外れで、結局、これはいまの総スルーの雰囲気を見ても、「自民党を叩くための道具」でしかなかったと言うしかないでしょう。
 
 というかこういうモノっていっぱいありますよね。
 「後期高齢者医療制度」とか「任命責任」とか「庶民感覚」とか「閣内不一致」とか、もうなんかいい加減にしろって感じです。
 少なくともマスコミは、自民党時代の言葉を民主党政権に言わない限りは、公平公正な立場ではないと、民主党に肩入れしているとしか言いようがないでしょう。
 マスコミは政治活動をしているのです。
 
 

 あまり関係ないですが、総統の国会実況楽しんでみてます!

 
 あ、どうも(笑)
 
 

 論拠の話は大変共感しました。なぜそのような結論になったのかという道筋(論拠)がわかると議論できますよね。相手がどのように考えているのかというのがわかります。論拠がわかると結論が自分の結論と違っていてもある種の共感というかわかりあえることができると思います。「あの人はこう考えているんだな」って。結論だけで話し合うのは、時間の短縮になっているようでその実は遠回りしていると思います。論拠を積み重ねていったものが結論だと思うので、面倒でも時間をかければ話し合えしわかりあえると思っています。結論というか言いたいことをいいあうのは議論じゃないなと思います。長くなって申し訳ありませんが、論拠の大切さって論文の学生だけの次元の話ではなく、話し合いの基本なんだなぁということです。

 
 結論だけでは本来議論にはならないハズなんですよ。
 例えば「増税すべきだ」と「増税はすべきではない」のこのふたつ、これだけの結論だけでは、これ以上どうやったって先には進みませんよね。
 よくて多数決が出来るぐらいで、でももし同数だったとすれば、ますますこれ以上は進みません。
 
 だからこそ、議論する場合は、論拠が必要なワケです。
 「なぜ現状ではダメなのですか。増税しなければならない理由を教えてください」と論拠を問い、そして答える方も「現状ではこの通りお金が足りないからです」と論拠で返します。
 ここでもし「なぜ増税が必要なのか」という問いに対して、「増税が必要だからだ」と結論で返すと議論になりませんよね。
 でも実はこういう言い方してしまう人はけっこう多いのです。
 ちゃんと論拠で返せば次に進めるのに、結論しか言えないっていう人いるんですよね。
 本来は「しかしここの部分は不必要な支出ではないのですか」とか「あなたはそもそも増税しないと言って国会議員になれたのですから、増税するのであればもう一度国民に信を問い直すべきではないのですか」と理由と根拠を言わなければならないのであって、こうやって論拠を交わすコトによって議論は深まっていくのです。
 
 ここにも脱線してしまう可能性があるコトに注意です。
 例えば「信を問い直すべきだ」という発言にしても、それはあくまで「あなたはそもそも増税しないと言って国会議員になれたのですから」という論拠があるからこその主張であり、結論であるワケです。
 ですからここをさらに反論するのであれば、「解散なんてしねぇよ」という「信を問い直すべきだ」について言うのではなく、「増税しないと言ってたじゃないか」という論拠の部分に反論しなければならないのです。
 
 議論ってそうやって深めていくモノなんですよね。
 こらえ性がない人もいて、「多数決が民主主義のルールだ」と言って、すぐに結論に対して多数決で決着を付けようとする人がいますが、それはちょっと乱暴というか、勘違いと言うしかありません。
 多数決の民主主義のルールとは、最後に手がない時にどうするのかというルールであって、当然のようにその前段階として議論があってしかるべきです。
 時にその議論が多数決を越えるコトにだって成り得ます。
 例えば少数や弱者の権利を擁護しましょうというモノは、決して多数決だけでは決められないコトですよね。
 そういうモノは、結論に対する多数決だけで決まったモノではなく、議論を詰め重ねて得られたモノですよね。
 多数決は1つの紛争解決ルールではありますが、絶対正義ではないのです。
 
 議論によって必ずしも結論が得られるワケではありませんが、しかし議論するコトで問題点が明らかになるコトも多々ありますから、それだけでも議論する必要性というモノはあるハズです。
 分かり合えるかどうかはともかくとしても、問題を解決したいと本当に思うのであれば、すぐに多数決に逃げるのではなく、議論する必要があるのです。
 それによって、第三の道が拓けるコトだってあるのですから、
 
 自分が勝つコトだけを考えるなら多数決もいいでしょう。
 しかし問題を真に解決したいと思うのであれば、議論は必要不可欠だと言えるのです。
 
 
 ごめんなさい、結局web拍手でいただいたコメントだけになってしまいましたが、なんだか長くなってしまいましたので、今日はこの辺で。
 これからもぜひぜひ御意見くださいね~。