政治において「正しい」とは

 政治において「正しい」とはいったいどのような状態を指す言葉でしょうか。
 
 本来「正しい」とか「正しくない」とか「間違っている」という言葉を明確に定義するコトは非常に難しい作業です。
 自分が正しいと思うコトは出来ますが、しかし他人にとってそれが正しいとは限りません。
 よく言いますよね、戦争は正義と悪がいて起こるのではなく、一方の正義ともう一方の正義がぶつかり合うから起こるんだと。
 片方は相手を「間違っている」と言うでしょうし、その相手は相手で相手を「間違っている」と言うワケで、この世に普遍的価値観なんてないのですから、「正しい」とか「間違っている」とかいう概念を簡単に定義するコトは非常に難しいワケです。
 
 それでも政治の場においては、ある程度「正しい」と「間違っている」を判断しなければなりません。
 なぜなら、現代日本においては民主主義政治が布かれているからです。
 選挙の際には国民は多かれ少なかれ複数の選択肢から選ぶという行為を迫られ、またその場合のほとんどは、現政権政党かそれ以外かという選択肢というテーマが内在していますから、それは小選挙区制以外でもそうですね、与党系議員しか立候補者がいないというコトはあり得ませんから、有権者は選挙の際にはほぼ必ずと言って言いほど「正しい」か「間違っている」かの判断と選択をしなければならないのです。
 
 では、政治において「正しい」とはいったいどのような状態を指す言葉でしょうか。
 
 やえはひとつ、「間違っていない」というコトに対して「正しい」という表現を使ってもいいと思っています。
 なぜなら、絶対的に正しいと言える状況なんてあり得ないからです。
 
 例えば麻生総理のリーマンショックに対する経済対策をどう評価すべきでしょうか。
 これを「絶対に正しかった」と表現するのは、おそらく多くの人が躊躇われるでしょう。
 日本ではどうしても政治を褒めるという行為が恥ずかしいモノだと認識されている、政治はほどほどに貶して、それを酒の肴にして仲間内で盛り上がるというのが、これは現代政治に限らず、江戸時代やもしかしたらそれ以前からずっと行われてきた伝統的な考え方だからです。
 でも内心では、おそらくこれを「間違っている」とはなかなか断定出来ないでしょう。
 結果的に世界の中でもリーマンショックの影響が最も小さいのが日本だったと言われるぐらいで、それはやはり時の総理であった麻生総理の対策が最も効果を発揮したというコトなのでしょうから、それが最もよい手段だった、これ以上ない最上手だったとは言いませんが、でも間違っていたとは言えないでしょう。
 
 ここが重要なんですね。
 確かに「最上手」だったとは言えないでしょう。
 なぜなら可能性だけ考えれば、いくらでも想定はできるからです。
 特に後から考えればもっと出来たであろう手段なんていうのは、経済に限らずあらゆる場面で起こるコトですよね。
 ですから、あの時の麻生さんの判断が、唯一にして絶対の手段だったとは言いません。
 
 でもですね、そんなコトを言い出したらキリがないですよね。
 
 「唯一絶対の正しい」に到達しなければ政治的に評価出来ない、と言うのであれば、そんなのはもはや人間の手による政治とは言えなくなるでしょう。
 結局そんなのは「じゃあお前がやってみろ」という世界にしかならない、もしくは神の降臨を願う宗教国家になるかのどちらかです。
 そんなモノは現実的ではないのですから、よってどこかで妥協して政治を評価しなければならないのです。
 
 ここの線引きが「間違っていない」というところなのではないでしょうか。
 ある意味「間違っている」というのは結構分かりやすい基準です。
 例えば鳩山総理の在沖縄米軍基地問題は、誰がどう見ても……鳩山総理以外の目から見れば誰がどう見ても失敗のシロモノです。
 また他にも、民主党がことごとく達成出来ていないマニフェストも、これも完全に「間違っている」「失敗している」政治ですね。
 よく民主党や岡田大臣なんかが「バラ色と言ったのは小泉総理も同じだ」とか言ってどっちもどっち論で逃げようとしていますが、しかし小泉総理の郵政民営化は達成した政策であり、民主党のマニフェストは達成出来ていない政策ですから、この両者をそもそも比べるのが間違いであり、つまりですね、小泉総理の郵政民営化は正しいかどうかは人によって判断が分かれるけど、民主党のマニフェストは誰がどう見ても間違っていたと言えるという点で全く別モノであるワケです。
 政治というのは、案外この点、正しいかどうかはともかく、間違っているかどうかというはハッキリと分かれる点だったりするのです。
 
 やえは、「間違っていない」のであれば「正しい」と表現しても差し支えないと思っています。
 政策を評価とひとことで言っても、場面場面や細かい部分、また見る場所や視点によって評価というモノは随分変わってきますから、例えばひとこと「郵政民営化」と言っても、場合によっては間違っていないと言えるでしょうし、場合によっては間違っていると言える部分もあろうかと思います。
 ですから「間違っていない」という評価はそう簡単ではないのですが、でもそれでも、やえは郵政民営化だって「正しい部分もあった」という評価は出来ると思っています。
 職員の意識が変わりサービスの質が上がったのは確かですし、小泉さんが言っていたように、法人税収は確実に0からはあがっているでしょうしね。
 ですからこれは、「間違っている」と表現するのではなく、「正しかった」と表現するべきだと、それが部分的であっても、少なくともその部分は「正しかった」と言うべきだと思います。
 
 これが民主主義でなければまだ構いません。
 その場合所詮政治は他人事だからです。
 しかし民主主義の場合、政治を他人事だと考えるのは100%間違いです。
 国民は主権者であり、当事者であり、最終責任者です。
 政治は他人事ではなく自分のことなのですから、ここで必ず評価が必要なのです。
 その中で「正しい」が存在しない評価なんてあり得ないでしょう。
 やえは、国民こそが政治を「正しい」と言う勇気を持つべきだと思います。