公共工事悪論の害悪さ

 公共工事悪論ってたまに聞く……たまにじゃないかもしれませんね、よく聞きますけど、では具体的に何が悪なんでしょうか?
 いつも当サイトは言っていますように、全ての論は論拠がなければ成立しません。
 悪という結果を導き出すには、必ずそれを納得させうる論拠がなければなりません。
 悪というからには「なぜ悪なのか」という部分をキッチリと提示するコトが義務とも言えるでしょう。
 
 昨日あまおちさんがチラっとだけからんだ次の議論にこのようなフレーズがありました。
 

 どうなんでしょうね。昔からの土建・利権体質+小泉以降の狂気&尻ぬぐい(事態の収拾)は、自民では手に負えず、焼栗を民主が握って(後略)かとも。
 
 いや、それは、地方の現場をみていれば、はっきりしています。依然、根本体質は土建党です。
 
 話があまりに、旧自民党支持者的、利権誘導、揚げ足取りで堂々巡りですから、このタームでやめにしたいものです。
 
 申し訳ありませんが、貴殿があまりにも従来型に馴染んで、そのバリエーションすら考えられなくなっているのでは・・・
 
 ここに至っては失礼にも限度がありますね。従来の土木・再開発事業翼賛は、私にはできません。

 
 議論の評価に関してはそれぞれみなさん読んで判断していただければと思いますが、この方「大学教員」を名乗っておいでなのですけど、ここから察するにとにかく「公共工事=古い=悪」というのが前提になっているとやえは感じました。
 またこの大学教員の議論相手となった方も、「では土木ではない別の良い方法はあるのか?」と聞いても
 

 従来型でない、合意形成と経年変化、地域の風土に適合した、規模の小さい、数の多い、ローテクかつ堅牢なインフラ&都市整備。まちのコンテンツやコミュニティをたわめない、産学官の対等かつ柔軟な発想に依るもの。

 
 という、毒にも薬にもならない、「みんなで頑張りましょう」という一言を小難しく言うだけに終始して全く具体的な提案をされなかったので、正直この大学教員への方に対する強い不信感にも繋がってしまっています。
 結局「古い自民党は駄目だ。これからは新しい方法を作って、みんなで幸せになろう」と、これだけ長い文章を書いているにも関わらずそれだけのコトしか言っていないのです。
 自民党と公共工事を論拠もなく罵倒しておいて、しかし自分は綺麗事だけの中に逃げているという、かなり卑怯な言い方としか表現出来ません。
 
 公共工事の何が悪いのでしょうか。
 古いというだけでは悪の論拠になりません。
 自民党が進めたというだけでも悪の論拠になりません。
 いまこのような論が当たり前のように論じられてしまっていますが、こんなのはただのレッテル張りであり、批判ではなく罵詈雑言の卑怯者のやるコトです。
 悪と言うからには論拠が必要です。
 
 では、公共工事の中でも道路について言います。
 道路はよく血管に例えられます。
 
 すごく基本的すぎるお話なんですが、お金とはどういう状態が一番いいのかと言えば、それは「流れている状態」です。
 お金とは貯めるコトを目的とするのではなく、循環させるコトを目的としなければなりません。
 例えば景気を良くしたいと思うのであれば、実は一番簡単で一番効果的なのは、法律によって強制的に貯蓄を禁止するコトです。
 少なくとも貯金や預金を禁止して、その月に得た収入は全て使いなさいというコトをすれば、一気に景気は良くなるでしょう。
 もちろんこんなコトは実現不可能ですが、しかしこの考えに基づいた施策が、麻生総理の経済対策でした。
 様々な税制優遇や、家電・住宅などのエコポイント制度、そしてそれらとセットとなった定額給付金など、これらは全て「お金を使わせて市場にお金を循環させるため」の施策です。
 そしてこれらはかなりの効果を上げました。
 つまり、マクロ経済って言うんですかね、大きい目で全体として見たときの経済とは、お金を儲ける方法を考えるのではなく、いかにお金を全員に使わせてお金を循環させるかを考えなければならないのです。
 
 道路はそのための血管です。
 道路は人を運び物を運び時間を短縮してお金を回す基本的インフラです。
 簡単なお話です。
 工場があって小売店があったとしても、道路がなければ工場から商品を小売店に運べませんから、お金が流通しません。
 また同時に、客も道路がなければ小売店に行けませんから、やっぱりお金が流通しません。
 人や物が移動しなければお金も移動しませんから、お金を流通させるためには道路は必要不可欠なのです。
 ですからお金は血液であり道路は血管にと例えられるのです。
 
 ハコモノはともかくとしても、道路の公共事業というモノは、この観点から「道路を作るためのお金」以上の意味を持ちます。
 例えば10億円の工事をすると、その10億円は必ず材料費や人件費などによって民間にお金が流れて、それに関わる人のお給料とかになるワケですが、道路についてはさらにその先の付加価値もあるワケです。
 もちろん道路の規模や場所などによってその価値の大小は変わってきますけど、不景気の時に公共工事をというのは、この部分も大きいんですね。
 ものすごく単純な例えを出すと、仮にいま首都高速道路を全部撤廃したらどうなるか、経済のどれだけのダメージが出るか想像が付くでしょうか。
 つまり道路とはそれだけ大切なのです。
 上から下にお金を流すという意味から、公共工事は多くの人が関わる分野だから裾野が広いという説明の仕方をよくされますが、その裾野の広さというのは、さらに工事が終わった後も強い経済効果があるという部分も含めてのコトなのです。
 
 また、道路は経済だけではありません。
 例えば救急車が通る、パトカーが通る、自衛隊が通る、お金に換えられない価値になる時もあります。
 ですからこれ以前にも言ったコトがあるのですが、価値の大小はともかく、無駄な道路なんてモノは存在しないんですね。
 そこに人が住んでさえいれば、無駄な道路なんてモノは存在しないのです。
 
 こういうコトを考えれば、「公共工事=古い=悪」なんていう図式は全く当てはまらないんですね。
 日本中もう1本も必要ないほど道路が整備されているっていうのでしたらまだしも、そうでないコトは昨日説明した通りです。
 ですから道路を作るという意味の公共工事を古いだなんて形容詞で悪論化させるのは、まったくもってレッテルでしかなく、罵詈雑言の類でしかないのです。
 むしろ古いというコトは昔から効果のあるモノとして認められているからこそ、数ある経済対策や国家政策の中で生き残ってきたとすら言えるのですから。
 
 もうひとつ言っておきたいコトがあるのですが、例えばハコモノ批判は根強いモノがあるのですけど、あれもむやみに「工事のための工事だ」と言ってしまうのは早計だというコトです。
 昨日のお話を思い出してみて下さい。
 予算とは、その現場の人が必要だと感じたからこそ計上されたモノだというお話です。
 つまりですね、そのハコモノは結果的には失敗したかもしれませんが、計画の段階ではその地域の活性化に繋がると信じた人が多数いたからこそ予算として計上されたという事実は忘れないでほしいのです。
 もちろん結果が出なかったコトに対しては結果責任を負わなければなりませんが、しかしそれをもって「はじめから工事のための工事だ」と言ってしまうコトは、それは予算の構図から間違いだというコトなのです。
 そこにいる人の思いは無視してほしくありません。
 中には成功したハコモノだってあるのですからね。
 
 例えば公民館は、あまおちさんがTRPGの関係でよく利用しているようですが、ちょっと公民館のサイトを見てみて下さい。
 だいたいの公民館系の会議室などは、週末は全部予約でいっぱいですよ。
 しまった予約が遅くて取れなかった、なんてコトもよくあるそうで、つまりそれだけハコモノである公民館が国民に利用されているというコトなんですね。
 
 だからテレビに流されやすい人は公共工事=ハコモノみたいに捉えて、さらにハコモノは全て工事のための工事であって全て失敗しているかのように、半ば洗脳されてしまっていますが、それは間違った見識なのです。
 自分が使わないから不要な工事だと思うコトは危険です。
 それは独裁の考え方です。
 予算があるところには必ず「人の思い」があるコトは絶対に忘れないでください。
 そう考えれば、絶対に公共工事悪論は成り立たないコトに気付くでしょう。
 少なくとも、古いとか自民党的とかそんなのは論拠にならないのは一目瞭然です。
 
 この問題、今後も続けていきたいと思います。