無責任なのは匿名ではなく考え方

 はるかぜちゃんをめぐる問題について、その一端に過ぎませんがちょっとお話したいと思います。
 はるかぜちゃんを知らない人はこちらなどをご覧ください。
 はるかぜちゃん、かわいいですよね。
 
 で、はるかぜちゃんについては賛否両論様々あるワケですが、少なくともやえは、現代ネット社会に起こる様々な諸問題をその身に一手に引き受けている、是非はともかくとしてのある種の傑物であるコトは間違いないと思っています。
 それが本人にとって良いコトかどうかもこの際関係ありません。
 例えばモーツァルトだっていまでこそ幼少期のエピソードが神童の証明かのように言われていますが、普通で考えたら子供ながらにマリー・アントワネットに求婚する等、当時の視点で考えれば空気が読めないマセ過ぎた子供の行為でしかないですよね。
 しかしモーツァルトが天才であり、その賞賛の声には惜しみないのは変わりないワケで、人間の人生なにが素晴らしいと位置づけられるかなんて誰にも定義付けなんてできないのですから、「自分はこうだったらイヤだな」って思うのは勝手ですが、他人の人生を捕まえて「こうあるべきだ」と言ってしまうのは違うのではないでしょうか。
 よって、よく「こんな子供に育てた親や周りの大人が悪い」という言い方もたまに見られますが、それは「子供は子供らしく」という一般論に過ぎず、一般論に当てはまらない世界に生きている人間を捕まえてその批判というのは当てはまらないでしょう。
 もちろんそれが社会悪の行為であれば責任は追及されてしかるべきですが、突き詰めれば「子供らしくない」というコトを指して責任を追及するのは違うと思います。
 そもそも先のコトなんて誰にも分かりませんし、やえは芸能界には明るくないから分かりませんが、もし仮にはるかぜちゃん美空ひばりさんのような英雄になったら、いまの言動は神童としてのエピソードの一端になるでしょうしね。
 
 さて、今日はそんなコトを言いたいのではなくてですね、ひとつ「無責任とはなにか」というコトを考えてもらいたいと思っています。
 というのも、これははるかぜちゃんに対してだけではないのですが、特にツイッターで顕著なのが、ある有名人に対して批判をする際に、明らかに捨てアカウントで行なっている人がいるんですね。
 とんでもないコトや、ちょっと普通では考えられないような言葉を投げかける人のアカウントを見に行くと、過去の発言がたった数個だったり、そもそもその発言しかなかったりするようなアカウントがままあるんですね。
 これってどう考えても無責任なワケです。
 
 なぜ無責任かは言うまでもありませんが、ただ間違えてはいけないのが、これをもって決して「匿名だから無責任だ」と言ってしまうのは違うというコトです。
 この場合の問題、すなわち「捨てアカだから」という理由の場合は、あくまで「自分に対する批判が来ても、はじめから逃げる気まんまん」という姿勢だからこそ批判されるべきなのです。
 ですからもっと言えば、過去の発言が1つだけっていうだけでも、批判の理由にはなりません。
 本当にこれからツイッターを真剣に始めようとしていただけかもしれませんから、まぁそれでも有名人を名指しするのであれば、ある程度責任の所在を明確にするためにはある程度時間がたってからの方がいいとは思いますが、それでも発言が少ないというだけが理由では批判の論拠にはなりません。
 あくまで「自分に対する反論や批判なんて聞く耳持たない」という態度が批判の対象となり、論拠になり得るのです。
 
 「匿名=無責任」にはなりません。
 実名でも無責任な人間はたくさんいるからです。
 なにより実名で無責任な人間がいるからこそ犯罪が起こるワケで、責任を持たせるためにネットは全て実名にしようという言葉が正しければ、それはリアル世界で犯罪が起こっていない社会にだけ通用する論でしかないのです。
 もちろん実名がある程度の抑止力になるのは否定しません。
 ただ無責任である本質は、実名とか匿名とかにはない、ここに論拠を求めるのは無理があるというコトは忘れてはいけません。
 その言葉に責任を持つというコトは、結局その人の言葉に対するその人の姿勢の問題にしかならないのです。
 
 ネットで実名を出す出さないは、それは突き詰めれば「実名を出した方が有利になるか否か」にかかっています。
 例えば、残念ですが大学教授っていう肩書きの人がその肩書で実名を出してネットでブログを書いた方が、匿名で活動するブログよりもより多く支持を得られやすいというのは想像に容易いですよね。
 結局ネット上の実名や匿名は全てここに集約されるのです。
 実名を出している人というのは、たまたま自分の肩書きがネットで有利に働くからと実名を出しているだけであって、それ以上も以下も無く、ただの戦略上の違いでしかないのですから、匿名を匿名だからという理由だけで批判する材料には一切ならないのです。
 ここの微妙な違いは注意したいところです。
 
 そして捨てアカは、ここから一線を画する存在です。
 ネットに意見を書くコト、いえ意見に限らず何かを表現するというコトは、それは公の場で公開するという意味そのものであって、どんなコトだってあらゆる人からの批判や反論をされるのが前提での行為です。
 それはリアル世界での街頭演説に等しいです。
 街頭演説している人に対して反論した際に、もし「自分が言いたいだけなんだから反論するな」と言い出したらどう思うでしょうか。
 無責任極まりないですよね。
 そしてその行為は、実名や匿名に関わりがありません。
 公共の場に絵を展示して、それを下手だなとかなんて言ってはならないと言いますか?
 違いますよね。
 公の場に表現するコトは、誰からでもあらゆる批判や反論を受ける可能性があるというコトであり、その覚悟を持つというコトが責任を持つというコトなのです。
 
 当然ですが、人の尊厳に関わるような、また違法行為は論外です。
 しかしそうでないのであれば、論拠がしっかりしているのであれば、公の場に表現すれば、誰からでも批判や反論や意見は受ける必要があります。
 ここの覚悟と責任を持つコトが、無責任かどうかの分岐点です。
 そして捨てアカは、はじめからそれを放棄していますよと宣言しているのですから無責任なのですし、それは匿名か否かでも判断されるコトではなく、無責任かどうかというコトは批判を受け止める覚悟を持つ責任を負っているかどうかなのです。
 
 かたや有名人だからと捨てアカで罵詈雑言を投げかける大人と、それでも全ての言葉を受け止めて活動している子供のはるかぜちゃんと、なにがどう無責任なのかよくよく考えてもらいたいです。