想定できるのだから対策を

 先日、「想定できなかった」と「想定しなかった」は全く違う、というお話をしました。
 想定外とは、人類史上想像を絶する出来事であってこれを防げなかったのは致し方ないという意味であるワケですが、しかし例えば東日本大震災においては、過去に同規模の大津波が発生していて、それを警告する石碑が残っているなど、決して「想定できなかった」ワケではないというお話です。
 結局想定できていた、想像はできていたコトなのに、それをしようとしなかったからこそもたらされた災厄であって、その点は致し方ないと言うのではなく、想定するよう考えを改めてシッカリとした対策をとらなければならないというお話です。
 「想定外」と逃げていては、いつまでたっても前進しないでしょう。
 
 そういう中で、やはりおかしいなと思うのが、同じ核というモノを扱うのに、より容易に想定し得るコトよりも、「可能性はゼロではない」という極論を旗印に騒ぎ立てる人が少なくないという点です。
 前者は北朝鮮による核兵器であり、後者は原発問題です。
 
 原発は、シッカリと対応すれば東日本大震災レベルの地震や大津波でも耐えれるコトが実証されています。
 実際女川原発は耐えたのですからね。
 また今回のコトをさらに教訓にすれば、さらなる対策を「想定の範囲内」として実行するコトが可能です。
 前回言いましたように、震度5とは外国であれば壊滅状態になり得る規模であるにも関わらず、日本では被害をほぼゼロにしてしまうコトもままある程度でしかなく、これはたまたまでもなんでもなく、普段からの対策をしているからこそ、高い建築基準などがあるからこそ成し得ているワケです。
 シッカリと「想定の範囲内」として考えていれば、外国からすれば「地震が多発する日本なんて住めたもんじゃない」と思っているコトでも、日本人は平然と暮らしていっているのですからね。
 結局これは「想定にしているかしていないか」だけの問題でしか無いのです。
 
 ですから原発だって、科学力次第でどうとでもなるでしょう。
 繰り返しますが、耐えた実証もあるワケですからね。
 こういう現実を目の前にして「安全が100%ではない、事故の可能性はゼロではない」という誰にも絶対に証明できない、まして「安全100%」なんてモノは現実世界には存在しないにも関わらず、それを論拠として使うのは、これはちょっと卑怯というべきでしょう。
 「想定外」に逃げても何もなりません。
 そんなコトを騒ぎ立てるのであれば、もっと「想定内」の出来事を考える方がよっぽど建設的ですし、「安全100%」に少しでも近づけるというモノです。
 
 北朝鮮による核兵器は、たったひとりの人間が決断するだけで日本人が生きている頭の上に爆発させるコトが出来るのです。
 その災厄度は原発の比ではないでしょう。
 原発はそれでもまだ爆発や放射能が広がらないよう設計が施されていますが、原子力爆弾はむしろ爆発を誘発させ放射能を広げるように設計されているモノです。
 それが、ある程度場所を特定して撃ち落とすコトができるのです。
 「想定度」はどう考えてもこっちの方が上でしょう。
 
 もちろん日本はけっこう対策を施しています。
 ミサイル防衛システムとかですね。
 でも出来るコトってまだまだたくさんあるハズなんですよ。
 その過程には憲法の改正とかありますが、でもそれは決して現実不可能な極論なのではなく、想定の範囲内での出来事です。
 そう考えたら、未だに国民からの空気によって再稼働ができていない原発問題ばかりに批判が集まり、いつ撃つか分からない北朝鮮の核兵器に対しては次の手を打とうとしないのは、矛盾にも程があると言えてしまうのではないのでしょうか。
 
 どっちかだけをすればいいっていうモノではありませんが、しかし想定できるモノに対してしようとしないのは、もはや罪とさえ言えてしまうコトです。
 ましてもしあの震災や津波を想定外と言ってしまうのであれば、ますます北朝鮮の核兵器は想定内です。
 時に日本人は「想定したくない」という心理から現実に目をそらしてしまいがちですが、そうなってしまえばますます危険はじわじわとはい寄ってくるコトでしょう。
 ひとつのコトだけを特別視してそれだけしか見えない、それだけが全てだと凝り固まってしまうのではなく、色々な面を多角的に見た上で、さまざまな想定をした上で対策を取って行かなければならないのです。