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2013-08

憲法解釈の最終判断は司法府


 『はだしのゲン』の話題が続きましたので、今日はちょっと別の話題にしましょう。
 今日はこちらのニュースです。
 

 「法制局に決定権」は不正確 小松長官インタビュー要旨
 
 意見を述べるにあたっては、法治国家としての法的安定性、整合性、継続性を十分に勘案しなければならない。(集団的自衛権の行使には)歴代長官も有力な学者も極めて慎重にすべきだ、と述べている。今までの政府見解もそう書いている。それを総合的に勘案して、最後は内閣が決定する問題だ。内閣法制局が最終的な決定権を持っているという認識は法的に正確ではない。「内閣が『右』と考えているのに、法制局が勝手に『左だ』と決めている」という認識は正しくない。政府見解は何度も閣議決定されている。

 
 「法制局」という言葉を最近よく耳にすると思います。
 憲法改正や、集団的自衛権の憲法解釈に関する話題でよく聞く、特に安倍総理が内閣法制局長に「容認派の人」を据えたというコトでよく話題になっているところです。
 ではですね、そもそもこの「法制局」とはどんな機関なのかというところを考えてみましょう。
 
 まず日本において「法制局」と言うと、2つの種類が挙げられます。
 正確に言えば3つの「法制局」がありまして、1つは「内閣法制局」、もう2つは「衆議院法制局」と「参議院法制局」になります。
 どちらも仕事の大まかな内容は一緒なのですが、この3つの一番の違いは、それぞれの所属する組織です。
 内閣法制局は内閣(内閣府ではありません。総理以下全大臣としての「内閣」です)に所属する機関、衆議院法制局は衆議院に、参議院法制局は参議院に所属する機関となります。
 よって、内閣法制局と衆参法制局は、微妙に立ち位置が変わってきます。
 
 立ち位置を説明する前に、では法制局とは何をする部署なのかを説明しましょう。
 法制局とは、法案化する前、つまり国会に提出する前の法案を審査する機関です。
 簡単に言えば、「その法案草案は法案として適切な形に整っているかどうか」を審査する機関なのです。
 
 なぜこんな審査が必要なのかと言えば、理由はいろいろとあるのですが、1つは、国会に正式に提出した法案が成立したら、その法案の文章は1文字も変えられるコトなく法律となるため、逆に言えば、国会での審議段階で1文字でも訂正するコトは不可能、もしどうしても修正したいのであれば改めて「修正案」として提出しなおさなければならないため、国会の提出する法案は法律化される前の段階でも法律として過不足ない文章となっていなければならないからです。
 簡単に言えば、法案を法案として提出する段階においてすでに「法律としての文章」になってなければならないから、です。
 当サイトでも何度か法律解釈については取り上げてしますが、法律とは一般的な文章よりも多少書き方に難解なルールがあったりします。
 ですから、法案化させる段階においても、そのルールをキチンと適合させておかなければならないんですね。
 政治家が理念だけ書いてもそれを国会に法案として提出するコトはできないので、法制局は、その提出される文章が法律文章として適切かどうか、キチッと整っているのかどうかの審査をしているワケなんです。
 
 また法制局の仕事はこれだけでなく、例えば他の法律との兼ね合いも調べなければならなかったり、書き方によっては本来の理念とは別の運用がされてしまわないかという、法律文章の文法チェックという点もあります。
 例えば、新法を制定しようとする場合、しかし他の既存の法律とかぶってしまったり矛盾してしまったりすると、社会秩序に大きな害悪となってしまいますから、その辺の整合性をとらなければならないのです。
 また、ちょっとした表現や文章の書き方によって、法案を立案している人の意図からかけ離れた運用がされてしまう可能性も考えなければなりません。
 先程言いましたように、法律の文章というのは多少一般的な文章と文化が違いますから、表現の仕方をちょっと間違えるだけで運用が180度変わってしまうなんてコトもあり得るコトです。
 ですからそうならないよう、法制局は事前にその辺の審査をしているワケなんですね。
 
 さてここまで説明すると、内閣法制局と衆参法制局となぜ2つ(厳密には3つですが)あるのかが見えてくるのではないでしょうか。
 この2つの一番の違いは、「法案提出者」の違いであり、もっと言えば「法案提出者の立場の違い」でもあるワケです。
 すなわち、内閣法制局は、行政府である内閣が提出したい法案草案を審議する機関。
 そして衆参法制局は、立法府である国会議員が提出したい法案草案を審議す機関なのです。
 ここが両者の一番大きな違いです。
 
 では最初の記事の話題に戻りましょう。
 特に記事のタイトルを見て下さい。
 「「法制局に決定権」は不正確」とあるのですが、ここまですれば、こんなのは本来は今さら言うまでのコトもない当たり前のコトだというコトが分かるでしょう。
 だって内閣法制局にしても衆参法制局にしても、それらはあくまでそれぞれが属する組織の一機関でしかないのですから、決定権は、閣議決定や国会の議決というそれぞれの決定にあるからです。
 しかし最近マスコミの報道の仕方によって、さも法制局長が(解釈変更の)GOサインを出せば日本国家としての決定になるかのような言い方をしてしまっているので、前法制局長がわざわざこんな言い方をしたのでしょう。
 「法制局はそういう機関ではありません」と、これはその組織の最終決定機関ではない機関の人間としてはごくごく当たり前の、民間会社で言えば「部長の決定はあくまで内部決定でしかなく、会社としての最終決定は取締役会にあります」ぐらいの、当然すぎるコトを言っているに過ぎないのです。
 新聞は散々ミスリードを誘うようなコトを書いた上で、敢えて白々しくもこんな記事を載せるワケなんですね。
 
 で、これまでの説明を振り返ると、つまり内閣法制局は内閣所属の機関で、衆参法制局は立法府所属の機関だというコトですから、よって三権分立の観点から考えれば、日本国家としての憲法の最終判断はどこにあるのかという問題については、これまた中学校レベルで習う社会科の授業に出てくる程度の知識で簡単に分かると思います。
 当然、内閣法制局も衆参法制局もその法律(や憲法解釈)の成否を最終的に判断する立場にはありません。
 そして既存憲法の判断という点においては、法律を作る立場の立法府である国会でも、既存の法律の範囲内で権限を振るう立場の行政府である政府(総理大臣)でもありません。
 憲法をどう解釈して判断するのかという国家としての最終判断は、司法府である裁判所の権限にあるのです。
 
 各法制局は、確かに法案草案を審査する機関ですが、しかし言うならば内部審査に過ぎないワケです。
 ですから、法制局が通ったからと言って、絶対に裁判所が合法だと判断するという保証はありませんし、法的根拠も当然ありません。
 もしそんなモノがあったら、裁判所の違憲立法審査権は形骸化しますし、過去に出された違憲判決っていうモノはなんなのかっていうお話になっちゃいますよね。
 全ての法律は法制局のOKが出ているのに、なぜ裁判所がそれにNOを出したのか?ってお話です。
 この「違憲判決」という部分だけ持ってしても、法制局の権限の限界や、憲法法律の最終判断者の権限はどこにあるのかっていう問題は、簡単に分かるハズです。
 ここは統治機構のお話として、主権者たる国民は知っておく事項でしょう。
 
 特にマスコミが変な印象操作をしようとしますから、注意が必要です。
 さっきも言いましたように、さも法制局がGOサインを出したら国家としてのOKだという印象を与え、その上で「安倍総理は自分の意向に従う人を法制局長に据えた」と報じ、つまり「安倍は独裁政治を仕様としている」という印象操作をしようとしているワケです。
 でもキチンと統治機構のシステムを知っていれば、それがいかにデタラメなのか簡単に分かりますよね。
 最終的な憲法判断は当然として裁判所の権限であり、これは三権分立のシステムであって、誰かが独裁できるシロモノではないのです。
 国民全員が支えている日本国家のシステムなのです。
 マスコミには騙されないようにしましょう。
 

何のためのその表現なのかをひとつひとつ丁寧に検証を-『はだしのゲン』閉架問題


 頂いたコメントで申し訳ないのですが、この件に関して最もやってはいけない言い方の例示をします。
 

 随分とお手軽に思想弾圧という強い言葉を使うんですね
 子供がお手軽に見るには相応しくないからそのまま棚に置くのは止めようというのが思想弾圧なら
 エロ本に紐をかけるのも思想弾圧ですか?

 
 なにがいけないのかと言えば、前回言いましたように、「エログロの問題」と「思想の問題」をごっちゃにしてしまっているところです。
 やえは前回、思想問題についてそれを規制するのは思想弾圧だと言ったのです。
 エロのお話なんて、エロ本への紐かけなんて、話題にすらしていません。
 ここは明確に分けて考える必要があります。
 この匿名さんの2行目は思想の問題なのかエログロの問題なのか分からないのですが、もし思想の問題だとしたら、しかし「供がお手軽に見るには相応しくない」とは一体どういう真理でふさわしくないと結論づけられるというのかという問題になってしまうワケですよ。
 あくまで匿名さんが自分の意見として「子供にふさわしくない」と考えるのはいいんです。
 しかしそれはあくまで一個人の一意見でしか無く、それが公権力を動かす論拠にはまったくなりません。
 前回言いましたように「偏っている」というのも論拠にはならないのです。
 ここの線引きはキチッとしておかなければなりません。
 
 さて今日はエログロの問題に触れたいと思うのですが、まず先に言っておくコトがあります。
 それは、「事実誤認の問題は事実誤認の問題として扱い、それは最優先される」というコトです。
 これは最初からずっと言っているコトですが、『はだしのゲン』は事実と異なる描写も多々あり、表現の自由も「無かったコトをあったかのように書く自由」なんて保証してないワケですから、ここについては最優先として改善させる必要があると言えます。
 まず前提条件として、ここを付け加えておきたいと思います。
 
 ではエログロの問題ですが、もしですね「時代がそうなんだから仕方ない」というコトでしたら、これは由々しき認識だと言わざるを得ません。
 やえは決して、そんなあやふやなモノに表現の線引きを委ねていいとは思えません。
 もちろん時代によって考え方は変わってきます。
 倫理は変化していきます。
 ですからこれを全く無視しろとは言いません。
 ただ、それにただただ流されるというのも、思想の放棄になるのではないのでしょうか。
 
 深く考えます。
 エログロの問題は、ただ一言エログロの問題と言っても、作品によってエログロの立ち位置というモノは違ってきます。
 大きく分ければ、「エロ・グロが目的の作品」と、「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」とで分けられるコトができるでしょう。
 前者は簡単に言えばエロ本とかですね。
 そして前者の場合は、時代の変化の影響をモロに受けてしまうと言えるでしょう。
 例えばヌード写真集も、昔はアンダーヘアが1本写っているかどうかで大騒ぎしていたような時代がありましたけど、いまではヘアなんて写したい放題ですよね。
 また逆に、「多くの目が集まる場」でのエログロ表現がだんだん厳しくなっているという状況もあります。
 もっと正確に言えば、「厳しいコトを言う人が増えてきた」と表現できるかもしれません。
 実際問題、エロ本的な媒体は昔の方が目に触れやすかったかどうかというのは疑問が残るところだからです。
 昔はある程度キチンとゾーニングできてましたが、いまは18歳の規制がかかってない媒体でも簡単に性描写を載せてしまっていますからね。
 こう考えれば、果たしてここ数十年の間に「規制が厳しくなった」と言えるかのどうかという部分も議論が残るところだと思いますが、まぁその部分も含めて少なくとも「時代の変化の影響をモロに受ける」というのは違いないでしょう。
 
 ただ果たしてそれを流されるがままにしていいかどうかというのも議論が残るところです。
 「エロを未成年に見せてはいけない」という建前は、まぁこれは常識論で正しいと言っても差し支えないのかもしれません。
 なぜだと議論を突き詰めてもいいですし、時に必要な議論だと思いますし、むしろ一度キチンとここも議論すべき議題とは思うのですが、未成年に「エロのためのエロ」「性的欲求のために性描写」を見せるのは良くないという線引きはまずあろうかと思います。
 
 その上で次に「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」について考える必要があります。
 『はだしのゲン』はここに当てはまります。
 よもや『ゲン』をエロ本と同じく、そういう欲求を満たすための作品と受け取る人はいないでしょう。
 それはうがち過ぎというモノです。
 そしてこういう作品に対しても、「時代の影響を無批判に受け入れて良い」と言えるのかどうかというところは考える必要があるのではないでしょうか。
 
 もっと言えばですよ、『ゲン』などの作品におけるエログロ表現というのは、エログロそのものが目的なのではなく、そういう描写を踏み台としてもっと先に考えるべき主題があるからこそのエログロ表現なワケです。
 一番分かりやすい例で言えば、原爆投下直後の熱線で皮膚が焼きただれた人の表現でしょう。
 原爆の問題にある程度興味がある人はその描写を見たコトがあると思いますが、あの描写は決してああいう姿を見せるためだけに描いているのではなく、もっと言えば、その姿そのものへの興味からの表現なのではなく、その先にある「原爆とはどういう結果が待っているのか」というコトを突き付けて考えさせるための表現なワケですよね。
 逆から説明すれば、「原爆とはどういうモノか」というモノがまず主題としてあり、それを表現するためにはどうするのかというコトを考えると、ああいう人間が焼けただれた姿を描くという手法に、自然となったワケです。
 エログロは目的ではなくあくまで手段であって、目的は「原爆の現実」なんですね。
 いわゆるエロそのものが目的であるエロ本とかとは、その作品の根本思想が違うワケなのです。
 
 でも近年はそういう表現も、例えば原爆資料館などで蝋人形を撤廃しようという動きがあるように、規制しようという方向に行ってしまっています。
 本当にこれも腹立たしいコトなのですが、いったいなんのためのそういう表現なのか分かってないんです。
 「エロ・グロが目的の作品」と、「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」とが違うってコトは、キチンと認識すべきでしょう。
 そして後者の問題についてまで、「時代がそうなのだから仕方ない」とただ流されるだけなのは、もはや思想の放棄とすら言えてしまうのではないのでしょうか。
 
 こういうコメントをもらっています。
 

 はだしのゲンは読んだことがないので個人的な感想は言えませんけど、女性を犯した後、性器に一升瓶突っ込んで子宮を破壊がのシーンがあるそうで、それだけ聞いたら、そこらのエロ漫画よりも道義的に酷い内容に思えてしまいます。たぶん、その当時の不条理を描いているだけなんでしょうけど。

 
 ネットでは問題のあるコマだけを切り取って連続して羅列するのでインパクトばかりが残って作品に対する冷静な判断が出来ないという問題かありますので、特に『はだしのゲン』という特異な漫画に対しては一度ならず何度かキチッと読んで欲しいなと思うところなんですが、なぜその表現がその場面にあるのかっていうところを読み取ってから判断してほしいところです。
 もし、その場面だけをもって「エロ漫画よりも道義的に酷い内容」と判断して規制対象にするが妥当だと判断されてしまうのであれば、やはり蝋人形とかそういうモノが「時代の流れ」というあやふやなモノで規制されてしまうコトになるでしょう。
 それは決して「作品への評価」とは言い難いモノです。
 そしてではこの場合、原爆の悲惨さや“現実さ”というモノをどうやって伝えていけばいいのでしょうか。
 現実から目を逸らしながらで現実をどう受け止められると言うのでしょうか。
 
 ただ、文章上でこの辺の問題をキッチリと線引きするコトは難しいコトです。
 悪意ある人によれば、本来「エロ・グロが目的の作品」なのに「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」として見せようとするコトもあり得ます。
 だからこそ、これはキチンと作品ひとつひとつについて丁寧に検証しなければなりません。
 そしてやえはその上で言っているのです。
 
 『はだしのゲン』は実際に検証して実証できる作品なのではないのですか?
 
 と。
 ただただ空気に流されるのではなく、論拠をキチンと付けましょうと、さらに『ゲン』はそれをするにうってつけなんじゃないですかって言いたいのです。
 『ゲン』はエログロが目的の作品ではなく、あくまでエログロは手段でしかない作品です。
 その上でその表現が本当に子供に悪影響があるのかどうか、調べられるのですから調べてから判断してください、とそう言っているのです。
 
 やえは別に、「「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」の場合は無制限に公開すべきだ」なんてコトは言ってません。
 ずっと言ってるコトは、調査できるのですから調査しろってコトですから、故にそれは「調査した結果」には従うという意味です。
 もし実際に調査して本当に子供の発達段階に悪影響があると断定できるのであれば、閉架措置は仕方ないと思います。
 ただやえの実感として、調査してもそのような結果は出ないでしょうとは思っていますけどね。
 しかしそれは調査自体を阻害する意見ではありませんし、調査しようの無いモノをしろと言っているワケでもありまんせし、少なくとも公権力を行使するのであれば調査できるのですからしなければならないハズだと言っているワケで、その上でキチンと調査して結論が出るのであればそれには当然として従うべきです。
 
 少なくとも調査できる段階において、しかし「時代の流れ」なんていうあやふやな空気がそれに勝り規制しなければならないなんていう意見には、やえは到底納得はできません。
 『ゲン』の問題に限らず、「実証されるデータ」と「ただの空気」とどっちが優先させられるべきかというのは、思想言論活動に身を置き論理こそ重要視する身としては、当然前者を優先すべきだと主張します。
 これは本来「エロ・グロが目的の作品」でもそうだと思います。
 実証可能かどうかはともかくとしても、もし本当に科学的検証において未成年に性的欲求のための性表現が発達段階に置いて一切悪影響は無いと断定できるのであれば、やえはすぐさま「18禁の撤廃を」と主張するコトでしょう。
 「なんとなく」という空気的論拠は、科学的検証よりも優先させられるべきではないからです。
 
 繰り返します。
 これが検証不可能であればやえはここまで言ってません。
 でも『ゲン』に関してはできるハズです。
 その上で『ゲン』は「主題が別にあり、流れの中で必要な表現の作品」です。
 だからこそ、何のためのその表現なのかをひとつひとつ丁寧に検証をした上で、丁寧に真摯に議論してその扱いを考えなければならないのです。
 果たして松江市教育委員会はどのような論拠を持って今回の措置に踏み切ったのか、やえには「単なる思いつき」にしか思えないのです。
 そしてその思いつきは、『ゲン』を愛読していた人間の人格をも否定しかねないコトなのです。
 そのコトすら松江市教育委員会は想像が及んでいないようですが、こここそが一番腹立たしいところなのです。
 

思想に合わないから規制、は思想弾圧-『はだしのゲン」閉架問題


 『はだしのゲン』閉架問題ですが、この問題、色々な問題がごちゃ混ぜに語られてしまっている部分がかなり多くあります。
 そしてそれをごちゃ混ぜなままに語ってしまっているので、騒ぎだけが大きくなって、本質が語られないままになってしまっているように見受けられます。
 ので、キチンと線を引いて考えてみましょう。
 
 まず、「エログロの問題」と「思想の問題」は、もうまったく別問題です。
 『はだしのゲン』で言えば、「首を切り落としたり強姦するシーンがあるから問題だ」と言うのと、「天皇を否定する発言があるから問題だ」と言うのとは、問題そのものが別次元ですね。
 そして今回の松江市教育委員会の閉架問題は、前者を理由とした問題です。
 ですからこれを期に後者の問題で併科の賛否を言うのは、これは便乗としている言論と言わざるを得ません。
 言うならば、「そんなコトは問題になってませんよ」っていうコトです。
 
 ただ困ったコトは、思想を理由に閉架は当然だと言う意見が少なくないってコトです。
 ちょっと意外でした。
 ですから、本来今回の問題はここは関係がないのですが、今日はこっちについて軽く触れておきます。
 結論から先に言えば、それは「思想弾圧」そのものですよ。
 
 「自分と考え方が合わないから存在自体を許さない」と言ってしまうのは、思想弾圧・言論弾圧です。
 よくこういう場合、「極端に偏ってるから問題だ」とさも自分は公平かのような言い方をする人が多いのですが、しかし偏っているかどうかなんていうのは所詮立ち位置の問題でしかなく、真反対の立ち位置から見れば偏っているように見えるかもしれませんけど、それと同じ思想でも近い位置から見れば全く偏っているとは言えない見方になるでしょう。
 偏っているかどうかなんていうのは、あくまで「相対論」でしかありません。
 そしてなにより、相対論だけを論拠には善悪を断言するコトはできないのです。
 「偏っているから悪」とは言えません。
 もしこの論拠の使い方が正しければ、一昔前のサヨク的な空気が支配する日本において、朝鮮半島に対しては讃美のみしか許さないとしていた空気の中では、「韓国は日本に敵愾心を持っている」「北朝鮮は拉致事件を引き起こした」と言っていた当サイトも悪だというコトになってしまいます。
 立ち位置だけでは善悪を判断する基準にはなりません。
 ましてそれが公権力を伴うならなおさらです。
 自分の意見として「それは間違っている」と言うのは自由ですが、公権力として「それは間違っているから禁止」と言ってしまうのであれば、それは法治国家では無く人知国家に成り下がり、思想弾圧国家と言われても全く反論ができない状況になってしまうコトでしょう。
 
 事実誤認は事実誤認として訂正する必要はあうかと思いますが、思想の問題はどう書こうが自由です。
 まして一マンガなのですから、それだけで人格の全てが決定されるコトなんてあろうハズがありません。
 むしろそんな人がいれば、その人の性格の方が問題ありと言うしかないでしょう。
 広島ですら、『はだしのゲン』はあくまで自由時間に読めるマンガであって、授業の中のコトではありませんから、その受け止め方は全然違いました。
 ですからそういう意味から、もっとも公権力に近い形で人格形成に直結する形で『はだしのゲン』を読ませるコトはやえは反対しているところです。
 つまり、『はだしのゲン』を教材として使うコトには、これは前にも言いましたように、やえは反対です。
 教材に使うというコトは、これは教師や学校が「ここに書いてあるコトは全て事実で正しいコトですよ」と言っているコトと同義になりますから、そういう意味であれば、やはり『はだしのゲン』は問題でしょう。
 広島市は、『ゲン』の一部だけのようですがこれを副教材として使っているようで、やえとしては一刻も早くやめるべきだと思っています。
 このマンガはあくまでマンガとして読む人自身が内容を受け止めて考えて消化すべきマンガです。
 
 やえはこの件に関して一番言いたいコトは、「『はだしのゲン』は特に広島市を中心として多くの子ども達に読まれている漫画だけど、問題があると言うのであれば実例としてデータを提示して実証して見せろ」という部分です。
 ここに関しては、エログロも思想問題も同じです。
 今回は思想問題に焦点を当てていますので今回はここだけを言いますが、「偏ったまま成長する“だろう”」とか「~~になるに“決まっている”」とか、推測で語るのはやめてほしいのです。
 それに何の意味があるんですか?
 これがまだ『ゲン』がここ数年で出版されたモノであればお話は別ですが、いったい何年前から『はだしのゲン』は連載され単行本化され、特に広島市において学校図書館で子ども達に読まれてきたのでしょうか。
 そして子供の時『はだしのゲン』を読んで育っていま大人になっている人が果たして何人いるでしょうか。
 まして『ゲン』に関しては、広島市で教育を受けた子供とそうでない地域では、それなりに差が出ているでしょうから、検証するにはしやすい環境が整っているのです。
 ですから、思想を理由にこのマンガを問題視したいのであれば、「『ゲン』を読んだら極端に偏って思想を持つ人間になってしまう。このデータを見れば一目瞭然だ」と示すべきなのです。
 しかしやえの実感では、広島市民だけが他の地域と比べてやたら偏った思想の人ばかりとは全く感じませんし、少なくとも『ゲン』だけが真実書いている漫画だと信じ切っている人も見たコトがありません。
 もし『ゲン』が、人間の人格形成に大きな影響力を発揮できるマンガであれば、データを取れば何らかの実証が出来るコトでしょう。
 でもそれをしないのであれば、データが無いのであれば、そんなのはただの想像でしかありません。
 少なくとも公権力を行使する力になりはしないのです。
 
 閉架問題についてコメントをたくさん頂いているのですが、やえがどの部分で怒っているのかっていうところがご理解いただけてない人もいるようです。
 やえはですね、実際に広島で教育を受けて、『はだしのゲン』も普通に読んで、それこそ一回だけ流し読みしただけではなく、何度も何度も繰り返し読んできて、さらに言うなら広島の平和教育を受けてきているワケですよ。
 その中において、外から一方的に「『ゲン』を読めば発達段階で異常をきたす」なんて言われているワケですから、そりゃ怒りますよ。
 乱暴な言い方をすれば「お前は異常だ」と言われているような気分ですからね。
 こう言われれば、「だったらその証拠を見せて下さい」と、「やえに限らす何十万何百万の『ゲン』を愛読してきた広島市民がいるのですから、そこまで言うなら実証をして目の前に出してみてくださいよ」と、そうやえは言っているのです。
 

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