放射能を印象やインパクトで語らない

 放射能の問題は、極めて科学的な問題です。
 よって、それを印象やインパクトで語ってはなりません。
 放射能はお化けや妖怪や超常現象なのではなく、科学で解明できる現象なのであり、そしてそれは物理や化学だけではなく、数学や統計学などのこれまで人間が積み重ねて発展させてきた科学全体として、放射能はいま現在解明されている部分もある現象なのです。
 この現実はキチンと受け止めて、そしてそれを活用しなければなりません。
 それが人間の歴史であり英知であると言えると思うのですが、しかしそこから目を向けて非科学的な迷信ばかりを積極的に信じようとする姿というのは、例えばこういうのと全く同じなワケです。
 

 オスプレイ反対派、「安全であってもダメ」と無敵の持論を展開しもはや誰にも止められない

 
 この人はもはや何を言っているのか分からない、その姿は滑稽とすら言えてしまうワケですが、しかしもし「放射能は現代の科学では何も分かっていないんだから全部禁止だ」とか「1%でも危険ならダメだ」とか言ってしまうのであれば、それはこの反オスプレイな人を一切笑えなくなるでしょう。
 科学的な論拠を一切無視して結論を語るという行為は、もはやオカルトだと言うしかない愚かな行為なのです。
 
 「1%でも事故の可能性があるからダメだ」という言葉にも要注意です。
 こう聞くと、それは当然かのように聞こえてしまうのですが、しかしでは逆に問いたいです。
 この世の中に100%絶対だと言い切れるモノがあるのでしょうか、と。
 例えば自動車です。
 もはや現代においては無くてはならないモノですが、果たしてこの自動車という存在は「100%安全」で「1%たりとも危険は無い」と言い切れるモノなのでしょうか。
 違いますね。
 毎日のように事故が起き、交通事故による死者が出ない日は無いと言っていいぐらい、毎日毎日自動車による事故の犠牲者は耐えません。
 果たして自動車というモノが生み出されてから、何百万人の人が命を失ったのでしょうか。
 この現状を鑑みれば、どこに「100%安全」があるのか、口が裂けても言えませんよね。
 でもしかし「1%でも事故の可能性があるのであれば全面禁止にすべきだ」と言う人は、果たして自動車を使わないのでしょうか、自動車による恩恵を一切受けていないと断言できるのでしょうかと問いたいです。
 
 リスク管理や危機管理というモノは、100%の安全を目指すモノだけではありません。
 むしろ、「事故が起きた時にどう対処するか」「事故が起きても、その規模をどれだけ小さくするのか」というコトをマネージメントしてこそ、全体としてのリスクヘッジと言えるワケなのです。
 よく安全神話とか言われるワケですが、もちろん事故前の「絶対安全だ」と言うようなコトが本当に言われていたのであれば、それはそれで問題ですが、同時に「1%でも事故の可能性があればダメだ」と言ってしまうのも、それもある種の「安全神話に取り憑かれている」と言えてしまうでしょう。
 どんなコトでも100か0かではなく、事故が起きた時にどう対処するのか、普段から事故にどう備えるのか、というコトを考えるこそこそがいま求められているのです。
 
 放射能の問題というのは、一般人では分からない部分が多い、それは義務教育や高校までで教えられるコトがほとんどないという部分から来ているのでしょうけど、「知らない」からこそ恐怖を覚えるという部分はあるんだろうと思います。
 日本で言えば軍事なんかもそうですね。
 知らないからこそ極度に恐怖する人がいて、それがアレルギーとして存在してしまっているのです。
 これを打開するためには、やはり「正しい知識を持つ」というコトが一番でしょう。
 つまり、教育の場においてキチンと教えるコトが大切なのです。
 「危険だから」「恐ろしから」と全てを破棄して記憶からも消去しましょうというのは、本当に愚かしい行為です。
 本来は、「危険だからこそよく知る」のです。
 危ないから遠ざける、では、人間は未だ火の使い方も知らない動物並みの生活を強いられていたコトでしょう。
 そうではなく、こわいからこそ積極的に知るコトによって、人間はそれをうまく活用してきたのです。
 こうやって人間は進化してきたのですから、もっともっと放射能についても知っていくべきではないのでしょうか。
 
 最後に、繰り返しますが印象やインパクトだけで判断する行為だけは気をつけて下さい。
 特にマスメディアが発達した現代では、それがより容易になっています。
 いわゆる汚染水問題ですが、あれもテレビなどからは、果たして漏れ出した結果周辺の海にはどれぐらいの放射線が出てしまっているのか、具体的な数値をやえは聞いたコトがありません。
 やえが普段テレビを見ないからかもしれませんが、しかしただただ「汚染水」とか「流出」とかいう言葉だけを使い、さも一大事だという全体でこのお話は進められていますよね。
 でも本来は、これだけの説明ではこれが本当に危険なのかどうかというのは判断できないんですよ。
 何を基準に危険だと言っているのか、論拠が無いのにそれを語るコトができる人なんていないハズなのですから。
 
 勘違いしてほしくないのは、東電の姿勢は問題ないと言っているワケではないコトです。
 当然、本来流出してはならないモノだからこそ汚染水を別の形で保存していたのでしょうから、それが漏れ出してしまったコトそのものは、当然の重大な過失です。
 ここはどんな言い訳をしても許されるコトではありません。
 しかし、東電の責任の問題と、現実的に安全か危険かという判断基準は、これは全く別だというコトも冷静に考えなければなりません。
 さっきも言いましたようにやえは汚染水が漏れた後の近隣の海の放射線量の数字を知りませんので仮のお話になりますが、漏らしたコト自体は東電は大きな罪ではありますが、もし放射線量がイランにラムサール以下であれば、少なくとも人体には一切影響はないワケです。
 だからといって東電の罪が消えるワケでは決してありませんが、安全かどうかの判断基準はまた同時に東電の罪とは一切関係ないところで判断しなければならないコトです。
 ここをごっちゃにしてはいけません。
 
 言葉はあくまで言葉です。
 「汚染水」も「流出」も、それ以上の言葉を持たずに、それだけでもって「人体に悪影響を与えるモノ」というコトを断定する論拠にはなり得ません。
 そして放射能の問題は難しいからこそ、根拠をシッカリと確認するコトによって判断を下さなければならないでしょう。
 難しいかもしれませんが、決して不可能ではないのですから。