憲法9条をどう変えるか

 憲法9条をどう変えるべきなのか、というご質問を頂きましたので、ちょっと考えてみたいと思います。
 
 一言で言えば「他国並みに戦争が出来るようにする」という答えになります。
 なかなか日本ほど戦争に対して自らの手足を縛っている国は珍しいワケで、中国や韓国だって集団的自衛権を行使するコトは自らの意思だけで行えますし、戦争だって(その戦争を国際社会や国連が認めるかどうかはともかく)起こすコト自体を禁じる国内法はないワケです。
 特に韓国なんて未だ北朝鮮とは停戦条約を結んでおらず、つまり今でも戦争状態であるワケですから(停戦状態ではありますが)、むしろ戦争を自ら封じるなんて言語道断なんですね。
 そして、であるからこそ、軍隊を持つ全ての国は「他国領土を攻撃する能力」を保有しています。
 相手国の政府などが戦闘の意思を消失させるためには、多くの場合は本土を占領する必要がありますから、そのための装備も当然として持っているワケです。
 しかし日本だけが、戦争ではなく防衛のみしか行ってはいけないと自らの手足を縛っているために、専守防衛、相手が撃ち返してきた時のみその弾を防ぐ目的でしか武力を使えないと定義しているので、例え戦争を終わらせる目的であっても防衛を超えて相手国に攻め入って領土を直接叩く行為も、装備も、認めていないんですね。
 
 軍事に関する日本の一番まずいところはここなんですよ。
 日本は未だ「戦争」はできないのです。
 それは、他国の方から攻めてきた時でさえそうなのです。
 戦争とは自分から起こすだけではなく、どんな理由だとしても、それがイチャモンレベルであったとしても、他国から仕掛けられる可能性はいつだってある、望む望まないに限らず戦争に巻き込まれる可能性は、どうやったってゼロにはできないのです。
 そして戦争とは戦争でしか終わらせるコトはできないんですね。
 いくら防衛という名の飛んでくる弾を避け続けたとしても、こちら側の意思で相手の弾を飛ばすコトをやめさせるコトはできません。
 弾が尽きるとかなんらかの事情があるにせよ、その場合ですらその戦争を終わらせるためには相手の意思と事情があってこそであって、よって「戦争という手段」を持たない日本は、相手からの戦争であってもそれを終わらせる手段すら放棄しているとすら言えるのです。
 
 こんなのおかしいじゃないですか。
 
 ですから、具体的に条文をどうするのかっていう部分は法律の専門家に任せる部分があるとしても、趣旨はこうですよね。
 「自らの意思で戦争が出来る状態」に憲法改正する必要があるのです。
 コメントでは、「「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」の部分と、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」の部分を改正するべき」と頂いていますが、そこは必要最低限でしょうね。
 またここさえどう変えたらいいのかどうかっていうのは、法律の専門家というか、また憲法解釈論議になってしまうので、そうならないためにももっともっとキチッと考えるべきだろうとは思います。
 そしてなによりまずは「どういう状態を目指すのか」という部分はハッキリさせておかなければなりません。
 憲法にしても法律にしても、それは「その目標に沿った内容を文章にしたモノ」だからです。
 
 今後憲法を変えるチャンスがあるなら、変に解釈が出来る余地が生まれないようにしてほしいとは思います。
 例えば、必ず「侵略戦争はしない」とか「日本からは攻め込まない」とかいう条文を含めようという声が上がると思うんですよ。
 でも前者はともかくにしても、後者を含めると、現実的にはいろいろな問題が起こると思うのです。
 例えばアフガニスタン戦争です。
 イラク戦争はともかくにしても、アフガニスタン戦争は米国に戦争を起こした正当性があるとやえも思っています。
 これは国連も認めているところでして、もちろん9.11のテロルに対してアメリカは戦争を起こす正当性があると認めたワケですね。
 しかしこのような場合にも、もし「日本からは攻め込まない」という憲法を持っていたとしたら、これは大きな障害になってしまうコトでしょう。
 テロルを「相手国からの戦争かどうか」という「文字上」の問題が必ず起こるからです。
 法律や憲法は必ずこういう解釈が生まれるのは仕方ないコトですが、出来ればこういう議論が土壇場で生まれないように、改正する時にキチッと整理しておくべきだと思うのです。
 この辺は、まず目指すべき姿をハッキリさせた次に専門家に条文を書かせた上で、その条文をたたき台にしてもう一度国民議論すべきコトでしょう。
 
 同じ理由で「国連の決議があれば」という条項にもやえは反対します。
 どう考えても様々な解釈が生まれる余地がありますし、なにより日本は別に国連の属国ではありませんから、どの国も固有の権利として認められている自衛権における戦争をする権利を、国連とは言え他の機関に委ねるようなコトは、独立国家としてはすべきではないからです。
 実際戦争になる場合には国連や様々な事情は出てくるでしょうけど、しかしだからこそ、まず足下である自国の憲法においては、自国の判断のみで自国の機関が動けるようにしておくべきです。
 そもそも国連は別に世界連邦でもなんでもなく、ただ国家同士の利害を調整する機関でしかなく、つまりそこには必ず「他国の意思」が内在しているモノであって、それに自国の意思を委ねるような行為をする方が間違いなんですね。
 まして安全保障理事会なんて民主主義でない形をとっているのに、なぜそこに自分たちの意思を委ねなければならないのかっていうお話にすらなるワケです。
 こういう部分も含めて、日本は「日本のための憲法」を作り替えていかなければならないのです。
 
 「他国並み」が一度の改正で一気にできるかどうか分かりません。
 何事も順序というモノは大切で、いままで縛りすぎなぐらい縛りすぎた憲法を60年も続けてきたために、これを一度に変えてしまうのが現実的かどうかは難しい問題です。
 ただ主張するならここだとやえは思っていますから、つまりは「自らの意思で戦争出来る他国並み」を目指すべきだとやえは言い続けます。
 だって米国やヨーロッパなどの先進国はもちろん、それ以外の途上国だって普通に戦争出来る権利を持っているんですからね。
 他国並みになってはならないとする理由の方がやえには分かりません。