責任ある野次を

2014年6月27日

 都議会での野次問題にからんで、国会や地方議会における「野次」というモノについて一言言っておきたいと思います。
 ただ先に言っておきますが、今回の都議会の野次騒動そのものには言及しません。
 それは都議会で粛々と対応すべきだと思います。
 
 世間では、議会における野次そのものについて、あんなのは不要だと、ただうるさいだけだと、禁止すべきだという声もあるようですが、やえは野次はアリだと思っています。
 なぜなら、いやしくも国民や住民に直接選ばれた議員である以上、その職責の本文である議会での発言であるのであれば、それが野次だったとしてもそれを制限するコトは、議員の存在そのものを縛るコトに他ならないと考えるからです。
 議員の仕事というのは多岐にわたりますが、その一番の仕事は議会での議論っていうところは誰もが認めるところだと思います。
 であるならば、いくら野次とは言え国民住民の代表者たる議員の発言を制限するっていう行為は、やはり行うべきではないと思うのです。
 議会中に議場に入れるのは議員であり、だからこそそこでの発言はどんな形であれ国民や都民を代表する発言であると言えるのですから、野次だってそれぐらい「重い」発言であるべきなんですよ。
 
 しかしだからといって、(その野次が本当にあったかどうかはともかく)あの手のような下品な野次は許されざるべき内容です。
 過去国会においても、いつぞやの松浪健四郎議員が起こしてしまった「水掛け事件」の、その発端となった「扇と何発やったんだ」というような人間そのものの品性を疑うような民主党議員の野次がありましたが(あの時は水掛けばかりがクローズアップされて、野次への非難は皆無でしたが……)、そういう発言をするような人間はやっぱり許してはならないと思います。
 ですから「野次を制限するべきではない」という考え方は、決して「下品な野次を野放しにするべきではない」という意味ではありません。
 
 ではどうするか。
 それは「いやしくも国民や住民に直接選ばれた議員である以上」という議員の立場を考えれば、本来は当たり前のコトなんだと思います。
 つまり、そういう責任ある立場の人間の発言なんですから、その発言をした以上はどこまでも責任を持つべきだ、というコトです。
 野次であれ不規則発言であれ、議員としての発言であるのであれば、それは誰か分からない名無しさんの落書きかのような無責任な発言なのではなく、公的な正式な発言として認識すべきなんですよね、本来。
 もっと言えば、野次と言えどもその野次を誰が発言したのか、キチンと記録しておくべきだと思うんですね。
 
 そうしてこそ「責任ある物の発言」のハズです。
 今回の問題にしても、結局「誰が言ったのか」が分からないから(これを書いてるときはまだ記者会見してませんでした)、問題が混迷してしまっているワケです。
 しかし都議会という最も公的な場所での発言なのですから、その発言はその議員の存在を賭けた、議員としての発言そのもののハズなんですよ。
 だったら堂々と名乗り出て、その発言について責任をとるべきですよ。
 もちろん責任をとるっていうのは辞職しろっていう意味じゃないですよ。
 でも議員としての正式な発言なんですから、議員という職責そのもの責任を賭すべき発言であるという重みは、当然として感じてもらわなければなりません。
 その一歩はやはりというか当然というか、その公的な発言をした議員は誰なのか、自らハッキリさせるべきなんですよね。
 
 そして、民主主義なんですから、有権者はそういう「議員としての行動」を判断して次の投票行動を起こすべきです。
 それが正しい選挙のあり方ですよね。
 議員の責任の取り方とは職を辞職するコトではありません。
 議員としての行動を、誰に恥じるコトもなく堂々と有権者に訴えるコトこそが議員の責任です。
 議員の身分は最後は有権者が選挙で決めるべきであって、本来は議員自身ですら決めるべきコトではないと思うんですね、立候補しないっていう選択はもちろん個人の自由ですが。
 有権者がその発言を是とすれば当選するでしょうし、非とすれば落選するコトでしょう。
 ですから今回の発言だって都議会議員としての発言なのですから、その是非は有権者が決めるべきなんです。
 それこそが民主主義としての本来のあり方ですよね。
 
 やえは発言の内容の是非は今回ここでは触れませんが、むしろ発言の内容がどんな下品なモノであったとしても、そんなコトよりも、こそこそ逃げ回っているというコトの方がよっぽど性質が悪いと思っています。
 都議会議員としての発言をしたんでしょう?
 だったら堂々としてなさいよって思うのです。
 名前すら堂々とできないのであれば、じゃあなんて都議会で発言をしたのか、いえなぜ都議会という場にいたのかすら疑わなければならなくなります。
 都議会は都議会議員の議論の場なんですからね、都議会として堂々とできないのであればそこにいるべきではありません。
 一番責められるべきはここのハズなんですね。
 
 野次の存在についての言及に戻るのでしたら、つまり野次の制限はすべきではなく、議員なのですから議会では何を言ってもいいと思うんですが、しかしその発言者は誰なのかキッチリと記録しておくべきでしょう。
 今回の都議会議員の発言にしても、その内容が正義なのかどうかっていうのは普遍的な価値観などあり得ない以上、ではその正悪を誰が決めるのかと言えば有権者の投票行動そのものなのですから、それを阻害する全ての制度は設けるべきではないのです。
 変なお話、今回の野次の内容も有権者が正しい発言だと判定すれば、それは正しい発言なのであって、それは誰であっても否定出来ないコトになるんですね。
 つまり野次を禁止したり、選挙以外での議員の行動を制限するのは、むしろ有権者の権利である投票権を阻害するコトになるのであり、そうすべきではないのです。
 全ては、「有権者が公平に判断できるような土台」をつくるべきなのです。
 
 野次も議員の正式な発言です。
 それを制度で縛るべきではありません。
 しかしそれはつまり「責任ある発言」なのですから、キチッと責任がとれるような形にすべきです。
 最低限、その野次は誰が言ったのか、正確にはなんと言っているのか、ここを明らかにするような制度を作るべきでしょう。