戦略的核廃絶論

2014年8月11日

 『戦略的核廃絶論』の目的は、「世界各国と比較して日本が軍事的に優位に立つ」コトにあります。
 
 多くの核廃絶論は核兵器の廃絶そのものを目的としていますが、戦略的核廃絶論ではそれはあくまで手段でしかないコトに注意して下さい。
 核兵器がない世界においての各国の軍事力の比較とは通常兵器での総合的な優越による比較になりますので、そうなれば当然、経済強国が軍事の面においても優位に立つコトになります。
 ですから戦略的核廃絶論の絶対条件として、その時が来ても日本は変わらず経済大国であり続けていなければなりません。
 戦略的核廃絶論とは、日本が軍事的にも強国であるために、経済弱国でも簡単に通常兵器を超える破壊力と抑止力を得るコトのできる核兵器というバランスを崩す兵器を無くすコトによって、経済力とイコールで直結する通常兵器による軍事力だけの比較で優位性を得ようとする考え方です。
 よって日本がその軍事強国になるためには核兵器が無く、経済大国であり技術大国であり、そしてできれば普通の国並みに交戦権が認められる憲法を整備する必要があります。
 これが成れば、今の世界で考えれば技術力に劣る中国を抜き、日本は世界第二位の軍事大国になるコトができるでしょう。
 これが『戦略的核廃絶論』です。
 
 「核兵器とは何か」を知る際、「抑止力とは何か」という部分を考える必要があります。
 抑止力とは、下手に攻撃をすればそれ以上の反撃を受けて、自らが望むメリットよりもデメリットが大きくなってしまうと「政府などの為政者」に意識させるコトによって、攻撃を躊躇わせる力です。
 この場合、為政者がどう思うか、為政者にどう思わせるか、という点こそが抑止力のキモとなります。
 極端な例を取りますが、その為政者がものすごく潔癖主義で国民の一人として、それが軍人であっても一人として犠牲者を出さない、犠牲者を出さないためにはなんでもするっていう主義の人であれば、戦闘機の数機だけでも、その国に対しては大変な抑止力となるでしょう。
 すなわちその国の為政者が「たった一人の命」を最終ラインと定めたために、相手国にとってはたったそれだけを目標とする兵器を得れば、相手の行動を縛るコトができるのです。
 逆に、国民の命なんてどうでもいい、何人死んでも自分が死ぬまでは絶対に降伏しないんだっていう為政者の国であれば、当然戦闘機数機程度では全く抑止力にはなりはしません。
 相手の為政者が何を持って恐怖と感じるのか、これが抑止力のはかり方なんですね。
 
 具体的に考えてみましょう。
 いま最も日本にとって相手から攻撃をしてくる可能性を考慮しなければならない国と言えば、まずは北朝鮮ですね。
 では北朝鮮自身はどういう状態こそを恐怖と感じるのかを考えると、それは「キム王国の滅亡」と考えられます。
 国民が多数死んでしまう、ではありません。
 キムジョンウンをトップとする現在の北朝鮮のキム体制が崩壊するコトこそが北朝鮮にとっては「最悪のシナリオ」となります。
 ですからキム体制が存続すれば、その他の国民なんて何人犠牲になっても構わないと北朝鮮は考えるコトでしょう。
 実際そのような政策を北朝鮮は採っていますよね。
 よって、これを成し遂げる装備を日本が調えれば、それは北朝鮮にとっては脅威となり、十分な抑止力となります。
 
 さてではこの攻撃は日本に可能なコトなのかどうかを考えます。
 ハッキリ言えば今の憲法で縛られている日本では不可能ですが、ただしそれが無ければ可能です。
 北朝鮮が持つ兵器では、(9条の縛りの無い場合の)日本の兵器を完全に防ぐコトはできませんから、北朝鮮の国家中枢を叩くコトはそう難しいコトではないでしょう。
 それはアメリカに置き換えれば、いますぐでも可能です。
 よって日米同盟のある現状では、これは北朝鮮にとって大変な脅威であり、北朝鮮に対する抑止力としては十分に機能を発揮していると言えるのです。
 
 ここでの注意点は、ここに北朝鮮が持つ(と思われる)核兵器は、「北朝鮮に対する抑止力」=「北朝鮮が感じる脅威」に対しての考慮のウチには一切入らないという点です。
 北朝鮮に対する抑止力とは、北朝鮮の為政者が自ら定めるデッドライン、北朝鮮の場合は「キム王国の滅亡」なワケですが、このデッドラインを超える実力を相手国が持つかどうか、またそれを自国で防ぐコトができるかどうかにかかっているのであって、よって地上を爆撃するだけに過ぎない核兵器では北朝鮮が感じる脅威を防いだり減少させたりするコトはできませんので、ここでの考慮には一切影響しないのです。
 抑止力はある意味一方通行で考える必要があるんですね。
 相手の装備が自分の装備に対してデットラインを超える能力があると判断される場合に脅威と感じるワケであり、その相手の脅威を軍事的な意味で軽減させる能力のある装備を多く持っているのであれば脅威を下げるコトはできますが、相手を叩くコトしかできない兵器をいくら持っていたとしても、それは相手に対して脅威を与えるコトはできたとしても、自分が感じる脅威を下げるコトには一切ならないのです。
 
 抑止力という言葉を使う場合、どうも攻撃力の比べ合いだけでもって考えている人が多い気がしてならないのですが、ここは大変に注意が必要です。
 例えば日本が開発を進めているミサイル防衛システムがもし100%の精度となれば、ミサイル防衛システム自身は相手国に打撃を与える攻撃力には一切なりませんが、しかし日本に向けるミサイルが一切無効化されるのですから、日本が感じる脅威は大変に小さくなります。
 これは「北朝鮮が持つ日本に対する抑止力」が小さくなっているコトを指し示す事柄なのですが、その一方、ミサイル防衛システムの精度をいくら高めても「北朝鮮が感じる脅威」=「北朝鮮に対する抑止力」は全く変わりません。
 日本は今国防費がかなり大きいですから通常兵器だけで十分北朝鮮に対しては抑止力になっているので、ミサイル防衛システムの精度を上げるだけでも十分意味はあるのですが、これが例えば全く通常兵器ですら相手のデッドラインを超える能力の無い、本当の意味での防御力しか無いような国であったとすれば、北朝鮮からの脅威度は下げる一方、しかし自国からの脅威度も低いままであって、つまり北朝鮮に対しては抑止力を発揮しているコトにはならないと表現できるんですね。
 もっと簡単に言えば、核ミサイルは無効化されたけど、他の兵器によって攻め入るスキはいくらでもあるので、いつ北朝鮮が攻めてきてもおかしくないという状況が続いてしまうのです。
 このように抑止力とは、単なる攻撃力の比べ合いではなく、整える装備の質によっても変わってくる、ある意味一方通行の概念でしかないという点に注意しなければなりません。
 
 ややこしいのが、抑止力とは相手に攻撃を躊躇わす力であるので、実際の攻撃力と抑止力は表裏一体の関係にあるって点です。
 抑止力は「実際攻撃を受けた場合どれだけの被害を受けるだろうか」という概念を元に条件を満たせば「攻撃を躊躇わせる力」が発生しますから、両者は表裏一体の関係ではあります。
 しかし「攻撃を躊躇わせる力」と「実際攻撃を受けた場合どれだけの被害を受けるだろうか」という概念事態は別ですので、抑止力は他の抑止力に影響を与えるコトはできません。
 例えば、北朝鮮が核兵器を持つコトは日本にとっては脅威なので、北朝鮮の核は北朝鮮から見た日本に対する抑止力にはなっているでしょうが、でもこれによって日本の強大な軍事力による脅威度が北朝鮮にとって低くなったワケではありません。
 だって北が核を持つ前に北から日本に攻撃をした場合の「反撃の被害の大きさ」と、核を持ってからの日本に攻撃をした場合の「反撃の被害の大きさ」は変わらない、もっと言えば、核を持とうが持つまいが北朝鮮から日本に攻め込む難易度は変わってはいないのです。
 つまり北朝鮮が核兵器を持つってコトは、日本やアメリカ側から攻撃をしかけにくくする力に作用するのであって、それは「日本やアメリカが脅威に感じる度合い」が増えているのであって、しかし逆に日本やアメリカから与える北朝鮮への脅威度には一切影響を与えているワケではないんですね。
 これが「一方通行」という意味です。
 自分が受ける抑止力と、自分が与える抑止力は、クロスするコトなく一方通行に与えたり受けたりするのです。
 
 もうひとつ、抑止力を考える場合に考慮すべき点があります。
 それは、あくまで抑止力とは相手の為政者自身が決めるデッドラインを越すかどうかによって判断されるのであって、デッドラインを超える力が強ければ強いほど抑止力が高まるというモノでもないという点です。
 例えば北朝鮮に対する抑止力とは「キム王国を崩壊させる力」がラインであって、これは決して核兵器でなければ達成不可能な条件ではないんですね。
 これは戦争というモノを考える上でも同義なのですが、戦争にしても抑止力にしても、相手の国民を全て滅亡させるコトや、国土そのものを消滅させるコトが目的とはならないのであり、その場合、戦争や国家が持つべき抑止力の範囲内において核兵器でしか達成できないという条件は存在しないと言えるのです。
 つまり通常兵器でもできるし、核兵器でも達成できる、ただし核兵器の場合オーバーキルが多分にに含まれる、という状態と言えます。
 ここもよく勘違いされる点なのですが、民族浄化などの戦争ではない行為を目的とするのではない、あくまで戦争という状態を前提にした場合においては、相手の為政者が定めるデッドラインにおいて核兵器でなければ達成できないという状態は想定しづらいです。
 もし核兵器が攻守共に他の兵器より格段に高いモノ、別の言い方をすれば「攻守共にチート武器」であればまたお話は別ですが、核兵器は攻撃力しか高めるコトができない以上、それはオーバーキルをするしかできない兵器としか見るコトはできません。
 少なくとも日本は国家の装備を一都市に全て集中させているワケではないですしね。
 ですから、実際の軍事上において「核兵器でなければならない」という理由は存在しないのです。
 核兵器のメリットというのは別の点、すなわち経済的な部分にメリットがあるのです。
 
 核兵器に一切のメリットは無い、というつもりはありません。
 核兵器を持つコトによってメリットを受ける場合もあります。
 それは、経済弱国の場合です。
 核兵器の最大の特徴は、その大きな攻撃力なのではなく、攻撃力の大きさに対する開発費の小ささです。
 全く具体的な金額ではなくただの抽象的な例ですが、例えば10のお金に対して通常兵器なら10の攻撃力の武器しか作れませんが、核兵器は10のお金に対して1000ぐらいの攻撃力を得るコトができるんですね。
 これが核兵器の最大の特徴でありメリットなのです。
 攻撃力ではなく、通常兵器との比較によって安価に保有するコトができるのが核兵器の最大のメリットなんですね。
 ここの作用によって、経済弱国であったとしても通常兵器だけなら経済力に比例するので経済強国に対して大きな力の差を開けられてしまうところ、安価に作れる核兵器によって経済力の差とは関係なく軍事力の部分において経済強国と経済弱国との差を埋めるコトができるんですね。
 ですから、経済弱国が核兵器を持つメリットはあるのは確かです。
 そこは否定しません。
 
 一方、経済強国が核兵器を持つ必要性は、特に二国だけで戦争をやっていたかのような冷戦体制が終わった今においては、かなり低くなっていると言えます。
 通常兵器だけで十分体制の崩壊は達成できるのに、それ以上の攻撃力を持ったところで、その意味は無いからです。
 特に米ソ時代の核開発競争は、そこに「開発」という文字が入るコトからも、技術力の競争という面があったためにエスカレートした部分もありました。
 でもいまはそんな時代ではありませんし、そもそも米ソ時代だって後期には核軍縮が行われたワケで、これは「必要以上の攻撃力を持っていても意味は無い」とお互いに認めていたからこそだと言えるでしょう。
 結局冷戦時は、軍事でさえ「競争」という意識が強かったワケですが、いまは競争の時代ではなく「脅威から身を守る時代」になっており、具体的にその脅威からどう身を守るのかを考えれば、核兵器は絶対的な必要性が認められる兵器ではないんですね。
 
 「特に二国だけで戦争をやっていたかのような冷戦体制が終わった今」においては、これは大国同士の関係にでも同じようなコトが言えます。
 いまの世界のパワーバランスを考えれば、本当に単純に二国同士が戦争状態になるなんてコトは考えられません。
 必ず複数の大国がどちらかの陣営に付くか、もしくは多数国(世界中)vs一国という状態になるでしょう。
 むしろほとんどの場合は後者になるのでは無いのでしょうか。
 ウクライナの件を見てもそれは分かるコトです。
 となれば、やっぱり核兵器はオーバーキルの道具にしかならず、必要不可欠の存在ではなくなるのです。
 複数の大国の通常兵器達だけで相手のデッドラインを越せるからです。
 もしくは一国だけで世界全ての国を敵に回す場合は核兵器はある程度意味のあるモノになるかもしれませんが、しかしその場合、核兵器があったところで情勢を覆す力にはなり得ないでしょう。
 
 核兵器は「貧乏人の兵器」です。
 経済弱国だからこそ意味のある兵器です。
 例えば日本も含めた全ての国が核兵器補保有していた場合、各国の軍事的優劣を考えると、決して日本が必ず優位に立てるとは言い切れないでしょう。
 むしろ全ての国がほぼ同列の軍事力を有しているかのような、とても不安定な世界情勢になりかねません。
 繰り返しますが、核兵器のメリットや恐ろしさはその破壊力にあるのではなく(もちろんその人道性は広島出身者としてよく分かっているので、それはそれで別の面もありますが)、破壊力に対する「経済的な軽さ」にあるのです。
 ですから日本としては、その秩序を乱すようなコトを易々と見逃すかのようなコトはしてはならないのです。
 日本は今現在、世界秩序の中ではトップクラスなのですからね。
 
 ですから、日本一国だけが核兵器を持っているっていう状態であれば戦略的には反対する理由は無くなりますが、こんなのはあり得ません。
 そしてもし日本が核兵器を持つ事態になるのであれば、その際はもはや核不拡散体制が崩壊している状況でしょう。
 すなわち日本自身が核兵器を持つというコトは、日本自らが自分の首を絞めている、自らの意思で世界秩序の階段を降りる行為に他ならないんですね。
 こんなバカバカしいコトはないのです。
 
 長々と、主に日本が核兵器を持つ意味は少ないというような内容のコトを書いてきましたが、結局『戦略的核廃絶論』を突き詰めて考えると、こういう説明も実はいらないんですね。
 最初に言いましたように『戦略的核廃絶論』の目的は「世界各国と比較して日本が軍事的に優位に立つ」コトにあるワケですから、つまりこの目的のためにはどういう状況が日本にとって望ましいかを考えれば、そう難しい問題ではないのです。
 「現状」と「無秩序に核兵器を保有できる世界」と「核兵器保有の無い世界」とどれが日本が最も国際秩序の中で優位に上位にいるかを考えれば、これはもう答えは出ていますよね。
 もちろん「核兵器保有の無い世界」です。
 この状態こそが最も日本が国際的に上位に立てる世界と言えます。
 だからこそ目指すべきなんですね。
 
 日本に最も有利な状態を目指すコトこそが日本の戦略じゃないですか。
 それを核兵器の部分で突き詰めて考えれば、核廃絶を目指すのが最も有利に働くと考えるのが妥当だと判断されるのです。
 決して感情論でもなく、義務感からでもなく、単純に日本に有利な道を模索した結果、それが最も日本にとってよい結果になると判断されるからこそ、核は廃絶した方が良いと主張するのです。
 それこそが『戦略的核廃絶論』なのです。