右も左も「河野談話」をよく読み直せ

 右も左もこの問題を冷静に正確に読み取ってもらいたいです。
 今この問題で色々と言っている人の多くは、いわゆる「河野洋平官房長官談話」について、その内容をそれぞれ好き勝手に解釈して、自分たちの主張に都合よく利用しているようにしか見えません。
 右は右で「強制性を認めている河野談話を撤回しろ」と言い、左は左で「吉田証言は間違いだったが、河野談話で強制性が認められている通り従軍慰安婦の問題は否定できるものではない」と言っています。
 もう、どちらも河野談話をキチンと日本語として読んでいないとしか言いようがないんですね。
 河野談話は強制性を認める証拠でも免罪符でもないのです。
 
 河野談話については以前かなり詳しく検証を行いました
 その結果、「河野談話」においては日本政府や日本軍が正式な公的な命令として慰安婦を徴用したと、この中では断定も認定もしていないコトが分かりました。
 詳しくはリンク先の検証を読んで頂ければと思いますが、河野談話の中では軍に所属していた人間の個人的な犯罪はあったとは認めていますけど、しかし軍としての命令で慰安婦の強制徴用があったとは全く言っていないんですね。
 それなのになぜ、右も左も「慰安婦を強制連行した証拠」として河野談話を挙げるのでしょうか。
 本当に河野談話の全文を読んでいるのでしょうか?
 
 そもそもこの問題って、極めて政治的な問題と歴史的事実の問題とは別に考えなければならない問題です。
 なぜなら、政治的な問題というのはあくまで歴史的事実に基づいて考えなければ、本来は何も動かないからです。
 例えば織田信長生誕○○○年記念行事を政府で行いましょうってなった時、しかし実は歴史的事実として織田信長か存在しなかったという学術的な結論が出てしまえば、やはり公的機関がその聖誕祭なんて実行できるワケがないですよね。
 全然変な例えと思うかもしれませんが、そんなに大きく逸れているお話じゃないんですよ。
 従軍慰安婦だって、軍による強制性が本当にあればそれはやえだってキチンと謝罪して補償すべきだと思いますが、しかしそんな事実がなければ謝罪も補償も存在自体があるハズもない問題にしかならないじゃないですか。
 存在しないモノに謝罪しろ補償しろっていうのは、いったいぜんたいどんなシャドーボクシングですかと。
 ですから、この問題まずは「歴史的事実の問題」として日本軍が従軍慰安婦と呼ばれる人を強制的に徴用したかどうかを明らかにするコトが全てのスタートであって、そこを明らかにしない限りは責任の問題なんてお話するコトすらも出来ないハズです。
 ここに政治的な問題が関与する余地はありません。
 歴史的学術的なお話として、事実があったのか、それともなかったのか、まずは単純にここだけの問題にフォーカスを合わせるべきなのです。
 それ以外は全て雑音です。
 
 一部の左側勢力、朝日新聞とかは、多少問題をごちゃまぜにして自らの主張を押し通そうとしています。
 すなわち、「広義の強制性」なんていう言葉を造りだし、「とにかく強制はあったんだ」と言い張る作戦です。
 しかしこれも「事実の問題」をぼやかして、ただただ政治的問題にすり替えようとする卑怯な作戦としか言いようがありません。
 政治的に政府が関わる問題に発展させるのであれば、それは文字通り「政府の責任の上で関与が存在するかどうか」という「事実」が存在してこそです。
 例えば朝日新聞の社員である記者が電車の中で痴漢をしたとして、しかしそれに対して「朝日新聞は社命として女性に対して広義の性的強制行為を行った」と批判できるモノでしょうか?
 この場合、もし朝日新聞が正式に業務命令として痴漢を行えと言った事実があれば、その批判は正しいでしょう。
 しかしその事実がなければ、さすがにそれは無理筋です。
 つまりここでも「朝日新聞社としての正式な命令の有無」という事実の問題がポイントとなるワケです。
 事実の有無があってこそ、責任問題が確定できるのであって、逆に責任問題は事実の問題を無視して言えるモノでは決してないのです。
 
 いわゆる「従軍慰安婦」の問題、そしてそれに付随する日本軍と日本政府の責任問題というのは、今現在の段階においては本来は政治が口出すような問題ではないんですね。
 なぜなら、歴史的事実の問題として論争が決着してないからです。
 決着していないと表現するのも語弊があるかもしれませんが、要は「日本軍に責任がある」と断言できる証拠がないですから、責任があるんだと言い張ってもそれはただのレッテルにしかなっていないと言うしかありません。
 誰かを悪人呼ばわりするなら、それなりの証拠を出すというのが、これは法治国家に限らず人間として当然の行為でしょう。
 ですからこの問題はむしろ簡単で、日本軍に責任があると言うのであれば、それを証明する証拠を出せばいいのです。
 そしてここに河野談話は全く関与する余地はないんですね。
 キチンと日本語として河野談話を読めば、そのどこにも日本軍が責任を負わなければならないような命令を下したという記述は無く、よって河野談話を持って日本軍や日本政府が責任をとらなければならないとする証拠とは一切ならないのですから。
 
 一部の凝り固まった人はいざ知らずですが、やえなんかは、もし本当に日本軍が正式な軍令として女性を強制徴用して慰安婦労務に従事させたという証拠があれば、それはそれなりに補償すべきだと言うでしょう。
 もちろんこれは今の常識で計るべき問題ではなく、当時は女だけに限らず男の人も日本政府の命令によって軍師に従事させられ、そして特攻という名のほぼ自殺行為を強要されたのですから、その負うべき責任の重さは女に対するモノだけが重いとは決して言えないと思うので一概には言えませんが、それなりの責任はやはりとるべきでしょう。
 その辺も含めて、この問題はまずは証拠の有無が一番のポイントです。
 ここに政治がからむ余地はなく、単純に歴史の問題として学術的な問題として、もし「日本政府が責任を負うべき筋のある命令」があったというのであれば、それを示す証拠を出すべきです。
 全てのお話は、証拠を出してからはじまるのであって、証拠も無くわめくだけならそれは全て雑音でしかないのです。
 
 つまり誤解をおそれず言えば、事実の有無の点で見れば、河野談話も所詮は雑音でしかないのです。