誤解させる報道

 なんかだいぶ誤解されているようなので、今日も大臣辞任の件の問題について解説しておこうと思います。
 今日は、松島前法務大臣のうちわ問題についてです。
 
 まず最初にハッキリと言っておきます。
 この問題、「あれがうちわかどうか」というのは全く争点としてはどうでもいいお話でしかありません。
 あれがうちわであったとしても、うちわでなかったとしても、問題の本質には一切関係がないんですね。
 
 本質はどこにあるか、これは政治の問題に限りませんが、つまり「何が問題なのか」という点について考えなければなりません。
 では今回の松島さんの“疑惑”は、果たして「どういう問題があると指摘されている」のでしょうか。
 それは結局「金銭に類するモノを不特定多数の人間に配ったのではないか」という部分にあるんですね。
 もっと簡単に言いましょう。
 その辺に歩いている人に政治家が次々と1000円を配ったとしましょう。
 これは問題です。
 まぁ誰にでも分かりますよね、買収になりますから。
 だからこんなコトをする人はいませんし、そもそももしこんなコトがあっても論争にすらならないでしょう。
 でも今回の問題は、まさにここが論点なんです。
 
 「うちわかどうか」が問題なのではなく、「あれが金銭的価値があるかどうか」なんです。
 もっと言えば「もらった人が金銭的価値があると感じるかどうか」でしょうね。
 つまりあのうちわをもらった人が「1000円もらったと同じ感覚を受けた」、もっと簡単に言えば「もうかった」と思ったのであれば、これは買収の罪に問われるコトでしょう。
 ですからこれは、うちわかどうかはたいした問題ではないのです。
 それがどんなモノでも、例えばタオルでもTシャツでもいいんですが、それがタオルであるかどうかTシャツであるかどうかなんてコトは問題の本質なのではなく、そこに金銭的価値が認められるかどうかが問題なんですね。
 
 この辺は社会通念上の常識で判断される問題です。
 うちわに、しかも扇子とかではなく、ほぼ使い捨てのうちわに金銭的価値を見いだせるかどうかを冷静に判断すれば、これは常識で考えてちょっと言いがかりとしか言いようがないのではないでしょうか。
 だってうちわって普通に配ってますよね。
 夏になればちょっと大きなお店なんかに行けば、入口の前で綺麗なおねーさんがうちわ配ってたりするじゃないですか。
 そしてこれ「全ての人が受け取るワケでもない」ですよね。
 つまりうちわとは「その程度のモノ」なんですよ。
 屁理屈ごねで色々と揚げ足を取ろうと思えば色々な言い方はできるのかもしれませんが、でも直感的にパッと「その辺で配っているうちわに金銭的価値があるか」と問われれば、無いと答えるのが常識でしょう。
 むしろもしそれなりの価値があるモノと多くの人が判断するモノであれば、全ての人が受け取るでしょうからね。
 1000円じゃなくても100円でもいいですよ、もし街角で100円を配布していたら、ほぼ全ての人(疑問がる人以外の、それは政治家が配っているという意味ではほぼクリアできる観点でしかなく)が受け取るコトでしょう。
 この問題はここで判断されるべき問題なのです。
 
 こう考えた時、ではアナタはどう感じるでしょうか。
 この問題、マスコミがうまいようにミスリードしているんですね。
 この問題を今回のやえのようにキチンと整理して解説すると、とてもじゃないですけど松島さんを批判するコトはできなくなると、マスコミ自身も分かっているんですよ。
 ですから、松島批判を続けるために、問題の本質なのではなく「うちわかどうか」なんてかなりどうでもいい問題が争点だとミスリードして、「どう見てもうちわじゃないか」という論調で批判しようとしているのです。
 そうしないと批判できなくなってしまいますからね。
 本当に卑怯です。
 
 前回の小渕さんの時にも言いましたように、批判する必要がある場面であれば批判すべきですが、しかしそれはキチンと本質を理解した上で、本質について批判すべきなのです。
 マスコミはどこまでいってもマスコミでしかなく、ここは国民自身が自衛して自分の目で本質を見るしか無いのでしょう。
 騙されないようにしなければなりません。