「喧嘩両成敗」「先に手を出した方が悪い」という悪習

 以前やえは「喧嘩両成敗の考え方は、原因の突き止めの放棄でしかなく、むしろ無責任な考え方だ」というコトを言ったコトがあります。
 人間同士の諍いには必ず発端となる原因があるハズで、それはどんな小さな子供であっても当然で、何もないのにいきなりケンカがはじまるワケもなく、よって諍いを納めるためにはまずは必ずその発端を知らなければならないハズなんですが、しかしこの「喧嘩両成敗」の考え方は、ケンカという結果だけを見て原因を無視して両方に同じ罰を与えるという、むしろ仲裁する人の責任すらぶん投げてしまっている、強引で適当な解決方法でしかありません。
 そしてこんな無責任なコトを子供の頃から教育として植え付けてしまっては、「原因を知る」という重要性を理解できない人間に育ってしまうワケで、やえとしてはこの「喧嘩両成敗」という考え方は悪習でしかないぐらいに考えていたりします。
 
 そしてそれと同じくらい悪習だと言えるのが、「先に手を出した方が悪い」です。
 
 言ってみればこれも、原因を知ろうとしない結果だけを見た無責任な解決方法でしかないんですね。
 「手を出す(暴力を揮う)」と一言で言っても、やはりそこに至るまでの原因が必ずあるハズです。
 それは「自分の欲しいモノを手に入れるため」という自分勝手な原因の場合もあるでしょうし、「相手が気に入らなかった」なんていうデタラメな一方的な原因の場合もあるでしょう。
 しかしそれはそれで「原因を知る必要がある」というコトの重要性はなんら変わりがありません。
 むしろその原因を知るという行為を行ったコトによって、暴力を揮ったというコトよりも、なぜそのようなコトをしたのかという原因を知るコトができ、その結果ますますその暴力が不条理で自分勝手な行為だと知るコトができるワケですよね。
 もちろん暴力の規模によっても罪と罰は変わってくるのでしょうけど、しかしその前に知るべきコトは、やはり原因でしょう。
 
 そして暴力を揮った原因には、「人格を否定する暴言を吐かれた」「自分や親しい者を侮辱された」から暴力に至った、という場合だってあるでしょう。
 この場合、果たして暴力を揮われた“被害者”だけが一方的な被害者と言えるのでしょうか。
 暴力という行為自体は罪だとしても、それが免罪符となって被害者が一方的正義で善人で一切罪も罰も受けない人間になるのでしょうか。
 そんなハズはありませんよね。
 本来そういう暴言があったのであれば、それに対する罪と罰があってしかるべきだと思うのですが、しかしこの「先に手を出した方が悪い」というのは、そういう原因を全く無視して罰を与えるという無責任な行為にしかなっていないのです。
 そしてこれが教育の場であれば、反対に「手さえ出さなければ何を言っても構わない」という大きな間違いさえ与えてしまいかねない大変危険な教育方法とすら言えてしまうでしょう。
 
 暴力を隠れ蓑にして暴言を正当化させるような振る舞いは、それはもはや大罪であると言えてしまうのではないのでしょうか。
 人はケモノではないのです。
 暴力によっても傷つきますが、言葉によっても傷つくのです。
 もし暴力だけを罪と規定し言葉の暴力の存在を否定するのであれば、それはケモノと何が違うと言うのでしょうか。
 特にメディアが発達して言葉が国境すら越えてどこにでも発信できしまう現代だからこそ、もっと人は言葉の強さに責任を持たなければならないのではないかと思うのです。
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、見た目だけにとらわれない原因追及の姿勢を応援しています。