日本は法治国家

 法治国家とは、あらかじめ定められ公開されている法律によって善悪を裁く制度です。
 この根本の精神には、平等性があると言えるでしょう。
 なぜなら、あらかじめ定められ公開されているルールだからこそ、全ての人がそれを基準にするコトができるからです。
 これがもし、人によってルールが変わってしまっていては、同じ行為でも裁く人によって罪や罰が変わってしまうコトになり、それではそこに住む人間がどういう基準で暮らしていけば分からなくなってしまいますよね。
 極端なお話、昨日行った行為が明日罰せられる、他人と同じ行動でも自分だけが罰せられる、なんてコトもあり得るワケで、法治主義とはそんな不平等が起きないように、あらかじめ定められ公開された法というモノを基準にするというのモノなワケです。
 
 法治主義と真反対の概念は人治主義でしょう。
 先ほど言いました、「人によってルールが変わってしまう」というモノです。
 現在の中国がそれで、中国にも法律や憲法はあるようですが、その当の憲法からして「中国共産党の指導を仰ぐ」と明記されており、憲法より共産党の指導の法が上位だと位置づけられています。
 つまり、「憲法ではこう規定されているけど共産党の指導が入ったので逆の判決を下す」というコトもあり得る、あり得るというか、憲法的にそれは合憲の行為であると憲法によって定められているワケなんですね。
 よって中国は「人によってルールが変わる国家」であり、法治国家ではなく人治国家と定義づけられます。
 
 先日から国会において野党が政治資金の問題で色々と大騒ぎしています。
 結局西川農水大臣が「何度説明しても分からない人は分からない」と嫌気が差したように辞任してしまいましたが、その後も雑誌ネタを用いて下村文部科学大臣の“疑惑”を民主党や維新の党は追求していました。
 
 しかし、西川大臣の件にしても下村大臣の件にしても、そしてその他の名前を挙げられてしまっている大臣達も、全て法的にはなんら問題はないんですね。
 これは国会の中でもハッキリしています。
 政治資金を所轄する総務省の高市大臣も一般論としての法律論で違法行為ではないと明言し、また同時に総理までもそれを答弁で繰り返し、そして野党もここの法律論については反論が出来ないままに終わりました。
 最近は「法的には問題ないのになぜ総理は西川大臣を辞めさせたのか」という責任転嫁甚だしい言い方に、民主党自身が変えているぐらいです。
 もちろん日本の三権分立の中では法律論は裁判所の決定を持って公的決定ではありますが、訴訟を行わない中でここまで大臣が答弁し、また追求側でも反論できないのであれば、これはもうほぼ法的には問題ないと断言していいでしょう。
 
 だったらこの問題はもうここで終わりのハズなんですよね。
 法的に問題ないコトをもし裁こうとするのであれば、ではそれは、誰がどんな権限を持って何を基準に裁くのかっていう問題になります。
 そしてそれを突き詰めると、人治主義にしかなりません。
 つまり民主党や維新の党の主張というのは、「法的には問題ないけど、自分が許せないから罰を与える」と言っているワケで、こんなのはもう完全な人治主義ですよね。
 
 よく「道義的責任」なんて言葉もでるワケですが、それも明確な基準というモノはありません。
 もちろん法律だけがこの世の全てだと言うつもりはありませんが、しかし日本国家で最も重い大臣という職に対して「辞めろ」とまで言うのであればこそ、明確な基準のモノに善悪の判断をしなければならないのではないのでしょうか。
 そもそもですよ、そもそもとして本当に道義的責任を問うというなら、問題になってからそのルールを明らかにするのではなく、前もって明示しておかなければあまりにも不平等です。
 逆にもしそれがまかり通るのであれば、どんなコトだって後からいくらでも言えるワケで、結局それは道義的責任という名の人治主義にしかならないでしょう。
 
 ですから本来立法府でやるべき問題は、それが道義的に問題だと思うなら、それを法律化させる議論をすべきなのです。
 人を問うんじゃなくて、まず制度を問うのが法治国家の筋です。
 不遡及の原則からも、違法性のない現在の状態を追求するというのは、不適当です。
 これは政治家や政治資金の問題に限らず、「確かにそれは問題だと思うがしかし違法ではない以上、今回の件は法に裁けないが、しかし同じ過ちを繰り返さないためにキチンと立法化しておこう」とするのが法治国家ではないですか。
 貴重な予算審議の時間を割き、法的に問題がないとハッキリしている行為までを魔女裁判のように定義がハッキリしないモノで裁こうとしている行為は、無駄以上に法治国家として害悪としか言いようがないのです。
 
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