「集団的自衛権は国連が認めている国家固有の権利」というコトをどう考えるのか
さて今日は、システム論のお話ではなく、もっと広い視点での思想的なお話をしたいと思います。
タイトルからして集団的自衛権のお話ですが、よってここでは政治的な動きや、現行憲法下で実現可能かどうかすら関係のないお話となります。
今日の議題は思想という視点でのお話であり、かつ日本国憲法は改正可能ですから、もしその思想が日本にとって有益であれば現行法下で不可能なら改正すればいいだけのコトであって、憲法が改正可能である以上は憲法を超えた議論も必要であるコトは改正規定のある憲法自身が認めているコトにもなるワケで、そもそも自由主義国である日本においては思想的のお話まで憲法に縛られる筋合いはないワケで、こういう視点での議論も必要だと言えます。
現行法下で可能かどうかっていう議論も時と場合では必要ですが、憲法改正も含めた広い視点での議論も、特に国民の側からのモノは必要でしょう。
さて。
集団的自衛権について今さらその中身を説明する必要はないと思いますが、反撃の際にはその国一国だけでなく同盟国の全てで反撃するので、その国を攻撃する費用対効果が悪いですよ、割に合いませんよっていうコトを見せつけるコトによって抑止力を高め、結果的に戦争行為から遠ざかろうという考え方です。
この考え方、やえもその通りだと思っているところですが、また同時に、集団的自衛権は国連が認める「国家固有の権利」だという純然たる事実があります。
集団的自衛権についてはやえはずっと昔から日本もフルで行為すべきだと主張し続けてきたワケですけど、それはその考え方が正しいというコトと、そして国連が認めている権利であるにも関わらずそれを自分で自分の手足を縛るがごとく放棄するっていうのはもったいない、むしろ国連がわざわざ認めてくれるのに日本だけがそれを放棄するのは全世界と比べて相対的に日本の国力と国益を低下させているコトにしかならないと、昔からずっと考えていました。
すなわち集団的自衛権を行使しないと公言している現状は、むしろ国益を失わせている状態だと判断するしかないと思うのです。
集団的自衛権についても、そもそも軍隊にしても、それらを自ら縛っているから日本は「経済大国」から抜け出せないのです。
もちろん経済は強いです。
むしろ軍事よりも強い場合だって多々あります。
しかし単純なお話ですが、「経済のみ」vs「経済+軍事」で比較すれば、後者の方が有利なのは当然の結果であって、まして経済と軍事の力はだいたい比例するモノで、経済が強ければ軍事も強くなるのですから、ますます経済大国である日本にとって軍事を縛ってしまうのは大変もったいなく、愚かなコトだと言うしかありません。
軍事を「他国並み」にするだけで、日本は真の意味で大国となるコトができるでしょう。
そしてそれは集団的自衛権にも全く同じコトが言えるワケです。
軍事にしても集団的自衛権にしても、それを縛るコトは国益を失わせているコトと同義であると言うしかないのです。
国会での議論は仕方ありません、それは現行憲法に縛られるのは当然のお話であり、現行憲法下ではどの程度行使できるのかっていう縛りプレイを強いられるのは仕方ないでしょう。
できるなら憲法改正を望みたいところですが、それはともかく、とりあえずいまは仕方ありません。
しかし国民の議論としては、その縛りは不要です。
最初に言いましたように「現行憲法下で実現可能かどうか」という議題での議論はそれはそれでアリですが、それだけに限る必要もやっぱりありません。
憲法は改正出来るのも制度上確かなお話である以上、では改正も視野に含めた日本のあり方としてはどうあるべきかっていうところも、キチンと議論すべきのハズなんですね。
その上で大変にやえが疑問なのが、そもそもとしての集団的自衛権の権利そのものについて反対している人というのは、いったいぜんたいどういう理屈で反対しているのかっていうところです。
憲法に違反しているからっていう論拠は無意味だというお話は先日しましたし、それは今回の議題ではありません。
もし裁判所で違憲判決が出たとしても、それはそれで淡々と安保法制が廃されるだけで、しかしそれは決して憲法改正が否定されているワケではなく、むしろ日本として集団的自衛権が必要であれば(やえは必要だと思っていますが)憲法改正すればいいだけのお話ですし、さらに言えばいま安倍内閣が提出している安保法制は、集団的自衛権の全ての行使が可能になるのではなく、あくまで一部にすぎないのですから、どっちにしても不足だと思いますから、将来的には憲法改正すべきだとやえは思っています。
ですから憲法の問題ではなく、「日本として集団的自衛権が必要か否か」という思想の部分での議論において、これをどう考えるべきか、そして反対ならどういう理屈で反対しているのか、なによりもし反対なら、ではそれは国連と国際社会が間違っているというコトになるっていう矛盾をどう考えるのかっていうところに、やえは大変に疑問を感じるのです。
哲学などの完全な思考実験と違い、集団的自衛権の概念は現実世界に実行力を持つ概念です。
例えば共産主義も同じような考え方です。
共産主義もただの哲学なのではなく、実際に現実世界に実装するために編み出された思想であって、そして実際それを行った国がいくつもありました。
結果としては共産主義はほぼ失敗したとされていますが、集団的自衛権も形としてはそれと同じで、現在現実世界に実装された思想であり、そして共産主義と違うのが、いま現在の段階では集団的自衛権は有益な考え方として日本以外のほほ全ての国が実装しているワケですよね。
そういう集団的自衛権において、なぜ日本だけ、果たしてどういう理屈で反対と言えるのか、日本の国益を害してまで反対する理由は何なのか、すなわち集団的自衛権を放棄するコトのデメリットを凌駕するメリットがどこにあるのか、やえには全く分からないのです。
もっと言えば、戦争だって国利益になればその行使を考慮に入れるべきです。
国益を損なう戦争はやめるべきですが、国益を得る戦争であれば、まったく考えもしないという思考停止はよくありません。
まして集団的自衛権は文字通り自衛権の概念であり、国内の一部で言われている「戦争法案」とかいうレッテルがもし正しいのであれば、いま世界中で集団的自衛権の概念の元に整えられている自衛権は、全て戦争を起こすためのモノだというコトになってしまいます。
簡単に言えば、集団的自衛権によって戦争が起こされるのであれば、いまごろ大戦争中ですよね。
つまり「集団的自衛権によって戦争が起こる」は現実とは相反する主張でしかないのです。
だいたいにして中国でさえ、自らの集団的自衛権は「戦争をするためのモノだ」なんて主張はしません。
そして日本以外の国に対して、他国が他国に対して集団的自衛権の権利を主張するコトに反対するコトなんてありません。
(なぜ日本には反対するのか、それはその方が日本の国益を損なわせられるからですね。)
それと同じように、戦争という行為についても同様です。
どの国だって戦争が自国の利益になれば行いますし、その権利を有しています(国連的な手続きはもちろんありますが)し、その軍事を背景にした外交を堂々と展開しているワケです。
なぜ日本だけがそれが出来ないのでしょうか。
その理由はなんなのでしょうか。
いまこういう議論から国民は逃げてはいませんか?
ハッキリ言って、国民の側から憲法論を理由にしているのは、単なる逃げでしかないとやえは感じざるを得ません。
国際社会の中の日本としての議論、そして純粋に日本の国益を追求する議論を行うと、反対論の論拠が非常に弱くなってしまうので、ならばと憲法論に逃げてしまってはいたりはしないでしょうか。
しかし憲法論は、結論を出すには裁判所にしか権のない話であり、そうでない者が議論を行っても、それはどうしても水掛け論にしかならないでしょう。
議論に全く意味が無いとは言いませんが、実際もう水掛け論になっていますよね。
ですからそうではなく、直接に集団的自衛権という権利をどう考えるのかっていう思想の議論を国民はすべきなのではないかと思うのです。
技術論は国会に、そして裁判所に任せればいいのです。
そうではなく、もっと広い視点から「集団的自衛権は日本に必要か否か」という議論を、いまこそすべきなのではないのでしょうか。
ディスカッション
コメント一覧
「そうではなく、もっと広い視点から「集団的自衛権は日本に必要か否か」という議論を、いまこそすべきなのではないのでしょうか。」
……いやいや、行使容認の閣議決定の時には、例えば毎日新聞は「そもそも、なぜ必要なのか」と堂々と述べていましたので。
Cf. 現代の精神論(http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/index.htm)
国会で審議中の安全保障法制改定法案を与党は平和安全法制整備法案と呼び、社民党や共産党は逆に戦争するための戦争法案と呼んで反対しています。同じ日本人であり同じような教育を受けながら、なぜこれほど認識が極端に分かれるのか、実に興味ある問題です。
予想通り、朝日など左派メディアはこの法案に反対しています。しかしその反対論の中心は憲法解釈に加え、法案と戦争を直結させ、戦争の恐ろしさを盛んに強調するという旧来の方法です。もっぱら戦争の怖さを感情に訴える方法であり、近隣諸国の軍事的膨張などを前提とした防衛議論など見たことがありません。
簡単に言えば、戦争には攻撃する場合と攻撃される場合があります。朝日や一部の野党などは戦争とは日本が攻撃することだけで起きると考えているようです。しかし現在の脅威は他国からの侵攻の方である以上、国際関係や軍事バランス、相手国政府の将来の変化などを分析・検討した上で議論すべきでしょう・・・かなり複雑な問題ですが、難しいからといって放っておいてよい問題ではありません。
「9条があれば平和が保たれる」といった意見は非常に単純でわかりやすいのですが、これはもう無責任な精神論だと言っても差し支えないと思われます。かつての「日本は神の国だから決して負けない」「精神力で勝つ」と同レベルです。どれも現実性のない夢想に過ぎません。
世論を構成するのは国民ですが、多くの国民は専門知識をもっていないので、複雑な問題を正しく判断するのは困難です。安全保障法制改定法案は11もあり、その分量だけでも大変です。したがって理解はメディアに頼らざるを得ません。ところが左派メディアは「海外で戦争ができる国になる」といった感情論が中心です。広く情報を伝えるメディアがこんな調子ならば、民主主義は複雑な問題に関しては有効に機能しないでしょう。
世論を動かすのは数行のスローガンだ、といわれます。内容を表すのに数百行、数千行を要する課題もありますが、それが世論を動かすのは極めて難しいと思われます。本来それを補うのはメディアによる中立的な解説ですが、最初から賛否を決めた上での恣意的な「解説」では国民のまともな判断など期待しようもありません。
ましてその解説が「精神論」に基くものであれば極端な認識の違い、無益な対立を招くだけでありましょう。誰しも戦争は避けたいものであり、そのためには現実の世界に立脚したまともな議論が必要です。情報の仲介者が政治的な意思を持ち、曲げて伝えることの危険性を改めて感じます。
戦時中、朝日は国民を鼓舞し戦争へと向かわせました。そのとき大きな役割を果たしたのは単純な精神論であったと思われます。それが世論に対して有効であることを朝日は承知しているようです。世を動かすには冷静な議論より単純な感情論・精神論が有効であることを戦前からご存知のようです。さすが伝統ある朝日新聞です。