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2015-08

数字を捏造してむなしさを覚えないのだろうか


 やえ、最近よく思うんですが、というか多分昔からなんでしょうけど、デモの参加者の数字を捏造して、主催者や参加者ってむなしさを感じないのでしょうか?
 
 政治主張は人それぞれですからいいんですよ。
 安保法制や集団的自衛権がイヤだっていうなら、その考え方を持つなとは誰にも言えません。
 だからそれをイヤだと主張するのもまぁいいでしょう。
 でも数字を捏造するってどうなんですかね。
 
 いや、まぁその狙いは分かるんですよ。
 「こんなにも人数が多いんだ」と見せつけるコトによる威圧的な圧力で政府の方針を転換させたいのでしょう。
 日頃国会に対して「少数意見の無視だ」とか「数の暴力だ」とか言いながら、その数の暴力目当てのデモを行うっていうのは強烈な自己矛盾だと思うのですが、まぁそれもいいでしょう。
 デモ自体やえは嫌いで、それは過去にも何度か取り上げているところですが、一応デモという手段は法的に認められているので行うコトは否定できませんし、人数が多いんだと主張したいと願い、その意図についても理解するコトはできます。
 だからデモ主催者がそういいたいという願いは理解はできます。
 
 ただし、そうしたいと思ったとしても、数字を捏造したら、どうやったって「心の中でのむなしさ」って発生すると思うんですよね。
 
 もちろん口には出さないでしょう。
 表には強がる姿勢を絶対に崩さないと思います。
 でも、いくらなんでも3万人程度の人数に対して12万人って無理筋なのは主催者を始め参加者だって分かっているハズで、その上で自らの主張を押し通すために数字を捏造するという意図はまだ分かるにしても、どうやったって心の中で「たった3万人しか集まらなかった」という気持ちは消えないハズですから、そのむなしさって決して小さくないと思うんですよね。
 まして「たった3万しか集まらなかった」だけではなく、それを「12万人集まった」って意図して捏造しているワケですから、そのむなしさはひとしおでしょう。
 
 そもそもデモって民主的な手続きを経ずして見た目だけの数の圧力によって民主的に選ばれた議員の政策を変えようという手段ですから、本来こんなの民主主義とは相反する手法でしかないんですよね。
 小選挙区の衆議院議員一人でもだいたい10万前後の票が入るワケで、つまり議員一人に10万人の意志が托されているワケでして、仮にもしデモに10万人集まったとしても、それは与党全体の意志を買えるほどの数字には決してなり得ないのです。
 それで政策が変わるなら、むしろそれは民主主義の否定なのです。
 デモって常に民主主義を否定しようとしている、そんな行為なんですね。
 
 デモ主催者や参加者は色々と強がっているコトでしょう。
 しかしさすがに3万人を12万人と言い張るのは無理がありすぎる捏造です。
 むなしくないのでしょうか。
 いや絶対に心のどこかでむなしさ、もしくは非力さを感じているでしょう。
 口には出さないでしょうし、むしろそれを反転させて外には攻撃的な態度をとるのでしょうけど、それでも心のどこかでむなしさを感じているワケで、ちょっと可哀想な人たちだなと思うワケなのです。
 

「戦争は悲惨?」そんなモノは戦争の是非を考える上で無用の主張


 最近よく聞く言説の中で大変に違和感のある主張があります。
 「戦争は悲惨だ」
 別にそれ自体を否定するつもりはありません。
 戦争とは人や財産や建物を壊して相手の意志を削ぐ行為ですから、それは悲惨でしょう。
 というか、悲惨だからこそ戦闘という手段が最後の手段であり、そしてもっとも有効な有無を言わさぬ手段であるのです。
 
 しかし、先ほどから「手段」「手段」と言ってますが、では戦争とは何の手段かと言いますと、それは「外交」の手段です。
 最近ここをよく勘違いしている人が多いようですが、なんのために戦争をするのかと言えば、それは「相手国に自国の要求を飲ませるため」に行うのです。
 決して「戦争したいからする」のではありません。
 先の大戦で行った日本の戦争について是非は人それぞれあるにせよ、少なくとも「日本には達成すべき目的があり、その目的のために戦争を行った」というのは誰にも否定できない事実です。
 先の大戦に限らずこの世の全ての戦争とは、あくまで達すべき目的のための手段でしかなく、そしてその手段とは「対外政策」であり外交であって、すなわちそれは「政治」であるワケです。
 
 戦争とはどこまでいっても「政治」なのです。
 
 であるなら、「現場は悲惨」とか、そんなモノは一切関係が無いのです、少なくとも「戦争すべきかどうか」という点においては。
 戦争とはあくまで「政治的観点に立った上で必要か否か」という視点で考えるべきモノですから、感情論はむしろ害悪なワケです。
 例えば「戦争をすべき場面だが、現場が悲惨だからやめよう」という判断を下して、結果的に国益を失ったとすれば、それは政治としては失策以外何者でも無く、むしろ最初から政治をやるつもりがなかったと断じられても仕方ない行為です。
 
 戦争に限らず現場がどうであれ、「必要なら実行する」のが政治であり、国家の役割です。
 まして戦争とは手続きさえ踏めば国連も認める正当な「外交手段」である以上は、国家としてその手段を保有しておく必要があるワケであり、そもそも戦争とは例え自分にその気が無くても一方的に仕掛けられてしまうモノである以上は、自らの意志に関わらず備えておかなければならない、国家とはその義務を負うモノであると言えるモノです。
 自らの意志など全く関係なく、戦争に負ければ是も理も正義も無く一方的に要求を飲まなければならないのですから、そんな理不尽に対抗する手段を常に持っておくコトは、それは政治の最低限の義務なのです。
 
 であれば、「現場の感情」なんてどうでもいいのです。
 
 目的を達成するために最も合理的な方法を模索する上で現場の意見を聞くコトはもちろん大切なコトです。
 戦争であれば、いかに自らの被害を押さえて勝つのかという戦術を現場から聞くというコトは重要な行為でしょう。
 しかしそれと、悲惨だからという感情の問題はここに関係がありません。
 戦争とは「イヤかイヤじゃないか」の問題ではなく、「やるかやらないか」の問題なのです。
 政治的判断として必要なら行う、政治的判断として不要だと思うなら行わない、ただそれだけの問題であり、よって戦争を考える上においては、あくまで「政治目線」で考えなければならないのです。
 
 戦場の大変さ、戦争の悲惨さを伝えるコトが全く無意味だと言うつもりはありません。
 それはそれで考える必要のあるコトだとは思います。
 ただし、少なくとも今回の集団的自衛権のお話は100%政治のお話であって、それ以外の事情を持ち出したところで、そんなのは無関係ですと言うしかないっていうお話なんですね。
 

「相手に付けいるスキを与えたから悪い」と批判する害悪


 先日、安倍内閣が戦後70年談話を発表しました。
 全文はこちらにありますので、ご覧になってみてください。
 今日はこの談話の中身についてのお話ではなく、ちょっと別の角度から別の問題を語ってみたいと思います。
 
 この談話、色々なところで論評されているワケですが、どちらかと言えば保守系には評価が良く、左翼系には評判が悪いような感じで語られているイメージです。
 もちろん評価なんて人それぞれですから、それはそれでいいんですが、ただ中国や韓国のメディアも含めて、どんなモノだって批判しようと思えばいくらでもできるモノだという、これはひとつの証左とも言えるでしょう。
 それは思想の左右を問いません。
 自民党の稲田政調会長も「おわび」という文言が張ったコトに否定的なコメントを出しているようですし、やえも思想的に言えば、先の大戦の世界状況というのは植民地支配と植民地経営は合法だったのですから、大げさに言えばほんの僅かな後ろ向きな発言も必要はない、ぐらいには思っていたりします。
 戦い方には賛否両論、いえ否定的な意見の方が多いでしょうけど、戦ったコト自体はなるべくしてなった、避けては通れない道であって、それを否定的に捉えるべきではないと思っています。
 
 しかし思想的にはそうですが、政治的にはそれをキッパリと一刀両断できるモノではありません。
 結局、おそらく高度成長期後の日本の総理としては最も保守思想寄りの安倍総理をもってしても、未だ日本が行ったのは侵略戦争であり、日本軍によって様々な人に苦痛を与えたという公式見解を否定できていません。
 たぶん安倍総理の個人的な見解はまた違うのでしょうけど、しかし日本の内閣総理大臣というのは歴代内閣を全て背負った歴史の積み重ねの上にある以上、それを無視するコトはできないワケで、ですからそこも含めた公式見解を出さざるを得ないワケです。
 過去の内閣だって国民の選択の上に成り立っているモノなのですから、それを無視するワケにはいかないのです。
 そうした上で、今回の談話もこのような内容になっているワケですよね。
 
 そうなれば、自然とバランスがとられるコトとなり、そしてバランスがとられるというコトは、左右の端の方から見れば見るほど距離が開くというコトに繋がりますから、その結果「付けいるスキが生まれる」というコトになるワケです。
 
 もちろんこのように論理的に批判するならいいんですよ。
 稲田政調会長にしてもキチンと「戦争の終結は(サンフランシスコ)講和条約がすべて。世界にあった日本の財産はすべて没収され、過酷とも言うべき賠償も払い、日本は国際社会に復帰した」と論拠を述べておられますから、正当な批判でしょう。
 むしろこのような冷静な批判によって議論が積み重ねられて、果たして本当に日本が公式的に取るべき態度とはどのようなモノなのかという理解が深まっていくワケです。
 でも世の中には、イチャモンでしかないような批判というか誹謗に近いモノもあります。
 どうしても中身が気に入り気に入らないというコトだけで自らの態度を決める人もいて、どんな内容でも「安倍だから」とか「韓国が絡むから」とかいう理由だけでバッシングを始める人が、やっぱり世の中にはそれなりの人数いたりします。
 
 その手の人たちにとっては、なんでもいいワケですよ。
 とにかく相手がしゃべればどんな理屈であっても、それがこじつけであっても、正しくなくても、中身を読まず精査もしないままに批判をするワケです。
 本来この手の誹謗でしかないような発言は、その存在自体を否定されなければならないのですが、残念ながら特に政治問題だと思想の左右を問わず、ただ「気に入らないから」という理由だけで、どちらもこの手の論法を使うので、なかなか無くなりません。
 何度も指摘しているところですが、先日の世界遺産の件でも、日本政府の発言の中身をキチッと読まず精査せずに、韓国が絡むからという印象だけで大バッシングが起きましたが、そこでよく聞かれた理由が「相手に付けいるスキを与えたから」というモノでした。
 意味が分かりません。
 今回の70年談話だって韓国や中国のメディアは批判的な内容の記事を出していますが、そりゃ何にだって噛み付こうとする人間は、何をやっても噛み付きますよ。
 だったら噛み付いたという事実だけを論拠にして批判して、それが何になるっていうのでしょうか。
 むしろそんな「相手の付けいるスキを与えるから悪い」と言って批判する行為は、結局はその相手の尻馬に乗って、その相手と同じ立場に立つコトにしかなっていないんですね。
 なぜこの矛盾に気がつかないのでしょうか。
 なにより、その愚かな行為によってほくそ笑んでいるのは、何よりその相手でしょう。
 
 批判するな、とは言いません。
 批判するなら中身をもって批判すべきなのです。
 しかし「相手に付けいるスキを与えたから悪い」というのは、全く内容を見ていないんですね。
 見たくないのか、理解する能力が欠如しているのかは分かりませんが、「嫌いな相手が反応しているから反応した」という、全く理屈にならない批判にしかなっていないのです。
 こんなの批判というか誹謗中傷ですね。
 どんな内容であったとしても噛み付く人間がいる以上は、噛み付いたという事実だけをもって反応しても全く無意味なのに、内容がない噛み付きにさらに内容のない同調を加えて、いったい何が生まれるというのでしょうか。
 
 談話を出すにしても、コメントを出すにしても、原発を再稼働させる、法案を成立させる、なにするにしても批判は付きものですし、その中には内容も何もないただの噛み付きでしかないモノも多数あります。
 しかしそんなモノにいちいち付き合っていてはキリがありません。
 そして何より一番問題なのは、そういう行為に萎縮して何も出来なくなるコトなのではないのでしょうか。
 問題を解決するためにはどう行動しなにを発言すべきか、冷静に考えて貰いたいところです。
 

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