河野談話は国民が作らせたのだから他人に責任転嫁は出来ない

 外交問題になっている以上、それは政治です。
 そして政治とは、完全なる勝利とか完全なる敗北とかはあり得ず、それは戦争になったとしてもあり得ず、必ずどこかで妥協が必要なモノになります。
 特に「相手がある」外交はそれが顕著です。
 ですから、理屈や納得いかないなどの感情は分からなくもないですが、しかし現実問題としてすでに外交問題・政治問題になってしまっているいわゆる従軍慰安婦問題は、どこかで「外交的落としどころ」が必要な問題だったわけです。
 
 その上での「政治問題としての日韓合意」だったワケですが、未だにこれに対して色々言う人がいます。
 もちろん政治にせよ思想にせよ完全に全ての人が納得する決着なんてあり得ないですから、どんな問題でも不満や批判はあるワケですが、それでもやえとしては、この批判だけは本当に自分勝手で無責任だと断罪せざるを得ません。
 それは「慰安婦問題を悪化させたのは政治または自民党だろ」という主張です。
 
 無知を罪と言うつもりはありません。
 しかし無知のままにそれを根拠として他人を断罪したり責任を押しつけたりする行為は罪です。
 慰安婦問題、昔は政治家特に自民党の国会議員に比べて国民の方がはるかに「謝罪・賠償しろ派」が主流だったのです。
 
 過去に何度も指摘していますように、河野洋平官房長官談話が発表された時、むしろ世論は「なぜハッキリと政府は責任を認め謝罪し、賠償をしないのか」という論調が主流でした。
 いまでは考えられないほど、日本の空気は「左寄り」だったのです。
 産経新聞社の『正論』でもこの発表を歓迎する論説が出ていたぐらいですし、その数年後でさえ、インターネット上で「韓国は日本に敵愾心がある」と発言するだけで「日韓友好を阻害する売国奴だ」と断罪される時代が確かにあったのです。
 そしてそれは、普通で考えたら当たり前のお話で、いくら河野洋平元官房長官が個人的思想が左翼的だったとしても、突然個人的思想だけで内閣の公式な見解を出せるワケはありませんし、まして世論と真っ向から相対するようなモノを突然ポンと出せるハズもありません。
 世論の一定数以上の賛意がなければ、こんな大きな談話が出されるワケがないんですね。
 どうも河野談話を河野官房長官の思い付きかのように突然出されたモノのように認識している人が少なくないようですが、そんなコトができるほど日本政府は軽くなく、また世論の声も無視できるハズもなく、実際のこの談話が出された経緯というモノは、ずっと前から韓国からの大きな批判の声と、それに同情する日本国民(それはもちろん朝日新聞の記事が大きな原動力になっているワケで)からの批判の声に対して、一定の決着を付ける意味で出されたモノだったのです。
 特に昔は朝日新聞はクオリティーペーパーだったんですよ。
 新聞が嘘をつくなんて想像も出来ないような時代だったんですよ。
 まずこの河野談話は「国民の支持」があったからこそ出すコトができた、という事実は忘れてはならないでしょう。
 
 河野談話の評価は人それぞれでしょう。
 確かに中身をよく読めばギリギリのところで日本の立場は守っていますが、もっと明確に日本の責任なんてモノなんて否定してもいいじゃないかという意見も、それはその通りだと思います。
 慰安婦の存在は決して簡単に肯定できるモノではありませんが、しかしだからといって時代を無視してそれを言うコトはできません。
 例えば奴隷制度は今は否定すべきモノですが、過去の奴隷制度をもって現代の人間を裁くなんて行為は、それこそ野蛮でしかありません。
 ですから、日本はもっと強い表現で責任を否定してもよかったとは思います。
 
 ただし、それは時代と国民世論が許さなかったのです。
 
 世論はむしろ、もっとハッキリとした謝罪と賠償を求めました。
 しかし日本政府は法こそを優先させるべき責任があるからこそ、ギリギリのところで踏みとどまるコトができました。
 河野談話は、そんな世論と法とのギリギリのバランスの産物なのです。
 あの時代を考えれば、ここが「落としどころ」だったと言わざるを得ないのです。
 
 ですから、いまのこの問題に対する日本への不利益は、全て国民本人が支払うべきツケなんですね。
 もしあの時の世論が、いまのような冷静な判断ができる世論であれば、河野洋平さんが同じように官房長官であったとしても、河野談話は生まれなかったでしょう。
 もしくは、もっと日本の責任を否定するかのような談話が出ていたかもしれません。
 これは政治家個人の資質の問題ではないのです。
 全ては世論が要請した結果だと言えるのです。
 
 そして全ての政治の世論のミスは、国民のツケとして国民自身が支払うモノになります。
 それは、時にとても大きく、そして時間のかかるモノになるコトすらあります。
 民主党政権の誕生もそうですね。
 いくら「マスコミが煽動した」とか「民主党に騙された」と言ったところで、選んだ主体は国民自身であって、その責任を他者になすりつけるコトはできません。
 もちろんこの問題に関する朝日新聞の責任はとてつもなく大きいモノですし、これからも断罪され続けるべきだと思いますが、同時に、それを受け入れていた国民自身の責任も決して無視はできません。
 現実を見てください。
 確かに日本国民は朝日新聞の報道を長年にわたって受け入れてきたのです。
 この事実からは決して逃げられないのです。
 
 慰安婦問題の誤解が広まった原因は、「自民党が放置してきたから」ではなく、「日本国民が朝日新聞を受け入れていたから」です。
 ここを間違えてはいけません。
 1990年代から今まで、政府が世論の声を無視し続けるコトなんて出来るワケがありません。
 もしあの時代から一定数の河野談話反発の世論があり続けていたなら、自民党よりも保守寄りの政党が早くから誕生していたコトでしょう。
 ですからあの当時はあの当時の世論があり、そんな世論の上での「一定の決着を図る目的」での河野談話だったワケですし、そしてそれが出された以上は、また政府はそれに縛られるコトになってしまうという歴史をたどってきたワケです。
 あの時河野談話がなければ今の政府を縛るようなコトにはならなかったでしょうけど、しかし河野談話を出さざるをを得ない雰囲気が確かに当時の日本にはあったのです。
 すなわち結局いまでも日本政府は河野談話を継承しているコトになっており、その上での日韓合意なんですね。
 
 ハッキリ言えば、思想的な見地からして慰安婦問題は日本にとって大きなマイナスになったとやえは思っています。
 こういう経緯を無視して原理原則論を言えば、それはもう悪手にもほどがあるでしょう。
 しかしそういう方向になってしまった一番の言動力は、それは国民世論にあるんですね。
 ここを忘れてはいけませんし、だからこそ、その責任は国民がとるしかないのです。
 決して政治や自民党の転嫁できるモノではありません。
 だからやえはそれを政治に押しつけるような物言いはしませんし、するとしたら朝日新聞と国民にすべきだと思い、そう実践してきました。
 
 そしてこういう構図を国民自身が自覚しなければ、また同じ過ちを繰り返してしまうでしょう。
 「国民が間違えたからこそ、不利益を被った」と反省しなければ、そりゃ繰り返しますよ。
 まして「自民党のせいだ」なんて責任転嫁しているようでは、また自分たちの世論のせいで政治を動かし、自覚のないまま繰り返し大きな過ちを犯してしまうコトでしょう。
 同じ過ちを繰り返さないためにも、ここのところをよくよく考えてもらいたいのです。