政治を感情で動かすのは「反知性」ではなかったのか?

 前回の内容にもかぶるところがあるんですが、最近話題になっている「保育園に落ちた。日本しね」と書いたブログが国会で取り上げられたコトについて、一言言っておきたいと思います。
 
 まず、国会で取り上げられた際に「誰が書いたんだ」とか「裏は取ったのか」というヤジに対して批判があるようですが、その批判に対してはちょっと冷静になって物事が考えられないのかと言いたくなります。
 そもそも国会の場では、雑誌の記事を論拠として質問するコト自体がどうなんだっていう雰囲気があります。
 最近安倍総理も「自分は雑誌に隠し子がいるなんて書かれた。デタラメな記事はたくさんある」なんて国会で答弁していましたように、最近は新聞でさえ捏造を疑うべきメディアとして認識されている中で、雑誌なんてもっと信用性が低いワケですが、さらにその上で、なぜ匿名のブログをそのまま国会で取り上げるコトに疑問を持つのが悪だと言われなければならないのか、本当に疑問でなりません。
 内容が正しいか正しくないか以前の問題なんですよ、これは。
 例えばその姿勢は「朝日新聞が書いてるんだから正しい」と言っているようなモノで、最近こんなコト言っても失笑されるだけなのに、なぜこれが主語がブログになるだけで正反対になるのか、もうちょっと冷静になって考えて貰いたいです。
 まして国会とは「国権の最高機関」という、日本で最も重い場です。
 そこで匿名のブログに対して情報元の疑義を出されるコトは、しごく当然のコトでしょう。
 
 ハッキリ言って、これは質問者の質問の仕方が悪いのです。
 もちろん、国民の現状をネットによって知り、それを国政に反映して、改善させるべき点は改善させるというのは、今のネット時代においてはあるべき姿と言えるでしょう。
 しかしそれは、ネットの書いてあるコトを全て正しいと盲信するコトとは全く違います。
 それは一昔前の、新聞やテレビは全て正しいと盲信していた滑稽な姿と全く同じです。
 そうではなく、ではなんのために国会議員という人間が政治を司っているのかを考えれば、それは質問者である国会議員自身がフィルター役になるべきだったんですね。
 具体的に言えば、そのネットの書き込みを見た上で、では現状はどうなっているのかと厚生労働省などに資料を取り寄せて、冷静に分析した上で、是正すべき部分を政府に指摘するっていう姿こそが、本来の国会議員のあり方だったと言えるでしょう。
 逆に言えば、一般国民ならそういう詳細な資料を取り寄せるコトも、それを分析する時間をとるも、なかなか難しいワケですが、そういう権限や時間やスタッフを用意できるのが国会議員なんじゃないですか。
 ですから、ブログの書き込みをただ垂れ流しただけで「どうですか総理」なんて言ってしまったのは、むしろ国会議員としての職務を放棄しているとしか言いようのない失態だったと、その野党の質問した議員には言いたいのです。
 
 だからこれも結局感情に訴えようとしただけなんでしょうねと。
 もしかしたら「日本しね」というインパクトある表現が物事をここまで動かしたんだなんて言い訳する人もいるかもしれませんが、それってつまり「反知性」じゃないですか。
 別にブログにまで感情はダメだ反知性はダメだと言うつもりは毛頭ありませんが、しかし政治は別ですよ。
 「日本しね」という知性のかけらもない書き方はどうかとは思いますが、少なくとも、こんな感情を爆発させただけの文章を国会の場で垂れ流すなんて、知性はどこにいってしまったのでしょうかと言うしかありません。
 
 感情で物事が動くコトは、それは人間の歴史の中で往々にしてありました。
 しかしやえは、感情だけで最初から最後まで突っ走ってしまうのは、決して良いコトとは思えません。
 キッカケは感情でも構いません。
 でも、行動の段階では、知性を持って動くコトこそが、知性を持つ人間の正しい姿なのではないのでしょうか。
 少なくとも、「ブログに書いてあるんだから正しい」という短絡的な感情論には、やえは疑問を持たざるを得ないのです。