「金を出せ」は策でも知恵でもなんでもない

 主権者が国民である民主主義国家において、その国民が政治に何を求めるのか、どこまで求められるのかっていうのは、なかなか難しい問題であるのと同時に、国民もそれはシッカリと自ら考えなければならない問題です。
 
 ひとつ考えて貰いたいコトが、結局のところ「金を出せ」という主張というのは、ほぼなんだって解決する万能の要求であるというコトと同時に、リソースは限られている一番難しい方法だという点です。
 例えば、例の保育園の問題にしても、保育園を増やせとか人員を増やせとか全部公立でやれとかという主張は、そりゃ確かに様々な問題を解決する方法ではあります。
 しかしこれ逆に言えば、出来るならもうやっているコトでしかなく、つまりこれを正確に言えば「やろうと思っていても出来なかった」という方策でしかないんですね。
 だってお金は有限なんですから。
 そりゃお金が降って湧いて出てくるのでしたらいくらでもやりようはある、というか、いちいち細かい策なんて考えずにとにかくお金を突っ込めば解決するのでしょうけど、そんなコトは出来ないのは言うまでもないコトです。
 ですから、安倍総理はあの騒動を受けて拡充に努めると言っているようですが、しかしそれも、結局は「他の分野の予算を削って保育関係予算を増やす」という組み替えの方法論でしかないワケです。
 逆に言えば、この騒動のせいで割を食ってしまっている分野がどこかにあるってコトなのです。
 
 最初にも言いましたように、「国民が政治に対して何をどこまで求められるのか」っていうのは難しい問題ですが、ただ、「お金だけを要求する」っていうコトだけを国民の主張として政治に要求してしまっては、それは果たして主権者として正しいのかという部分に大変に疑問を感じます。
 お金は足りません。
 いまの国家予算の倍ぐらいお金があれば色々な分野で発展や解決が望まれるかもしれませんが、それは不可能なコトです。
 そもそも現状ですら膨大な国債を発行しており、財政再建も重要な政治課題なのですから、それらを無視した予算要求は主権者として無責任だと言わざるを得なくなってしまいます。
 
 「金を出せ」は万能の要求ですが、しかしそれは策でも知恵でもなんでもないのです。
 
 前にも言いましたように、この騒動の一番の悪い部分は、感情だけにまかせて知性を捨ててワッとやってしまったところです。
 野党の質問者が自らの職責を放棄して、ただブログの内容を垂れ流しにしたコトで、知性ではなく感情でしかこの問題が語られなくなりました。
 これは国家にとって大きな損失だと言えます。
 本来なら、お金だけではない別の解決方法、それは社会のあり方とか働き方とか、または法律の改正や、保育園・幼稚園の再定義ですとか、もっと別の方法論もあったかもしれません。
 また保育園の問題だけに限らず、それに関連して給食費の無償化や制服の無料支給などをこの際主張している人もいるようですが、でも共産主義国でない以上、幼稚園や学校にいかなくても食事はとらなければなりませんし、服は着なければならない以上、そこまで国が単に用意すればいいっていう主張というのは、ちょっと違うんじゃないかなと思わざるを得ません。
 だから、「お金を出せばいい」という方法論以外の解決策を本来はシッカリと検討しなければならないハズなのに、この前の悪例は、これを全て感情論で押し流してしまったところに真の諸悪があるのです。
 色々な問題に対してもちろん他の方法はこれからも考えていくべきですが、しかし「とにかく叫べばお金が増える」という方法を前例として作ってしまったコトは、これは大変にまずい悪例になってしまったと言わざるを得ないでしょう。
 
 「昔と違い政治はお金の再配分をすればいいという時代は終わった」と言われてもう久しいワケですが、もしかしたら国民自身こそがまだこの感覚から脱せられていないのかもしれません。
 しかしお金は有限です。
 これからの政治にとって、特にネットなどの発達によって国民の声がよりダイレクトに政治に反しやすい時代においては、国民こそがここの部分をこれからはよくよく考えていかなければならないのではないのでしょうか。