政治活動ならびにその経費である政治資金の問題は理知的理性的かつ論理的に

 広く一般的なお話として考えてもらいたいのですが、政治活動ならびにその経費である政治資金の問題は、その根幹は民主主義の基本である政治・結社・言論の自由などに直結する、かなり重要で奥深い問題であり、単に法律などで規制すればいいという、そんな簡単な問題では絶対にありません。
 
 では、「何が政治活動で、何が政治活動ではないのか」というコトを、果たして紋切り型に言葉でYESとNOだけで切り分けるコトができると言えるでしょうか。
 同じような問題に、「政治家の資質」があります。
 例えば「高い知識」というモノサシで図ろうとしても、ただ単に高い知識だけで判断するなら、そんなのは超難関の国家公務員試験を通ってきた官僚の方がよっぽど資質が高いと言えてしまいますし、そしてその場合、果たしてそれは本当の意味で「国民の代表か」という疑問が残るでしょう。
 また選挙の際には「見た目がいい」「若い」「テレビに良く出る」などの理由で投票する人は少なくありませんが、やえとしてはもっと政治の本質を見てもらいたいとは思っていますけど、しかしそれは決して法などで規制されるべきものではありません。
 なぜなら「政治家は国民の代表」だからです。
 国民の代表である以上は、全ての面で、見た目や年齢や知名度までも含めた「自分達の代表」であるべきだからです。
 低学歴だってだみ声だって田中角栄の例をとるまでもなく国民の代表です。
 むしろ「みんなから選ばれる」以外の条件を付ければ付けるほど、真の意味での「国民の代表」から遠ざかる結果にしかならないでしょう。
 
 つまり「何が政治活動なのか」「何が政治家としての資質なのか」は、もっと言えば「何をもって政治家なのか」は、決して明文化できるようなシロモノではないのです。
 
 そして「何をもって政治家か」が明文化できない以上、どこまでが政治活動なのかというのも、簡単に割り切れる問題ではないのです。
 だって国民から見た目やらなんやらを求められるのであれば、やはり政治家としての行動の中には、見た目に関する支出があってもしかるべきでしょうし、もし「政治家は24時間政治家だ」と言われるのであれば、24時間すぐに対応できる体制に必要な様々な備えについても、政治活動の経費として考えるのが当然のコトだと言えるのではないのでしょうか。
 結局、国民の政治家に対する要請と、それに対する制度が不釣り合いであり、さらに仕事は過大に求めるクセに潔白さや責任も必要以上に国民が求めすぎているのではないかと言わざるを得ません。
 
 「私的な支出は政治資金で払うべきではない」
 その通りだと思います。
 政治資金は政治活動のための経費です。
 当然、政治資金からの支出は政治活動のためだけに出されるべきです。
 
 しかし「何が政治活動なのか」が問題なのです。
 ここが問題です。
 「私的な支出を使うな」は議論の必要はありません(むしろ法律要件ですし)が、なにが政治活動なのかについては全く議論をしようとしません。
 これって完全に片手落ちなんですね。
 
 確かに、さっき言いましたように、これはかなり難しい問題です。
 舛添前知事(あれ、まだ知事でしたっけ?)のお話を出すと冷静さを失ってしまう人がいるかもしれませんが、例えば「知事選挙に出馬するかどうかを、選挙やその後の影響を最も受ける家族と、静かな場所でゆっくりと相談する」というのであれば、それは十分に政治資金から出されても問題のない支出だと思います。
 だって、「舛添要一個人」の問題、ではなく「政治家舛添要一」の行動なんですからね。
 間違えてはならないのが、政治活動とは公共的や政治的に中立を保たなければならないという性質ではないという点です。
 だってそんなモノが必要なら、選挙の結果に関わるような後援会活動なんてできないですからね。
 この辺は法律ですら担保されている(特別職の公務員(議員など)は国家公務員法の大部分が除外される)重要な点です。
 ですから、政治家舛添要一が知事という公職に就くかどうかという重大な決断を下すコトにまつわる行動であれば、それは政治活動ですし、よって政治資金で賄われるべき経費だと言うのが妥当なのです。
 ここをこう言わなければ、本当に民主主義の根幹に関わる、あらゆる自由に関わる重大な問題になってしまうでしょう。
 
 勘違いしないようにしてもらいたいのが、今日のお話は実際舛添前知事の行動はどうだったのかというコトを問う内容ではないというコトです。
 「あれはただの家族旅行だった」とか「他にもセコい支出があるじゃないか」とか言われても、やえには関係のないお話で、そんなコトは今日の内容は一切触れていません。
 例えはどこまでも例えで、もし本当に「政治家の決断の場だった」のであれば政治活動だというコトを説明しているだけです。
 この問題、もっとも難題なのは、こうやって冷静に考えられないまま感情の赴くままにバッシングが吹き荒れてしまったコトなんですね。
 
 政治家の行動に関する問題、政治資金に関する問題は、冒頭に言いましたように、突き詰めれば民主主義の根幹に関わる重大な問題です。
 それなのに、感情に突っ走ったバッシングがメインだったコトは非常に問題です。
 政治家への批判は、理知的理性的にかつ論理的に行われるべきです。
 もし舛添前知事の韓国との様々な問題で政策的に批判するなら、当然そのコトを論理的に批判すべきですし、政治資金の問題なら上記のコトを基本とした上で疑義があればそれを理性的に批判すべきです。
 でも終盤なんて、「どうやったら辞めてくれるんですか」なんて理も知もないようなマスコミの質問を、むしろ持ち上げるかのような雰囲気まで作り出して、ただのバッシングに終始してしまいました。
 批判するなら理性的に論理的に行うべきで、そういう批判ならもちろん健全な民主主義です。
 そうであれば、舛添前知事の辞任だって健全な民主主義の結果だと言えたでしょう。
 しかし果たして今回はどうでしたでしょうか。
 理性的な批判が全く無かったとは言いませんが、少なくとも舛添前知事が辞任した理由は感情から来るバッシングが直接の原因でした。
 ハッキリ言って、これは長い目で見て国民の敗北だと言うしかないモノだと、やえは思っています。
 
 また別の機会で詳しくお話ししますが、普段マスコミに厳しい人たちも、しかしその対象の好き嫌いで態度を変えてしまっています。
 簡単に言えば、安倍総理なら好きだからマスコミに厳しいけど、舛添前知事は嫌いだからマスコミの尻馬に乗って一緒に叩いて辞めさせよう、こうなってしまっています。
 言っておきますが、そういう二枚舌ってまさにマスコミの批判されるべき姿勢ですよ?
 ぜひここのところをよくよく考えてもらいたいのです。