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現行の衆議院議員の定数は、これを削減する積極的な理由や理論的根拠は見出し難い。


 このタイトル、先日公表された「衆議院選挙制度に関する調査会」の答申の一節です。
 答申はこちらで全文公開されていますので、興味ある方はご覧ください。
 
 この調査会、メンバーは非議員の有識者です。
 会長役の座長に東京大学総長も務められた佐々木毅さんをはじめとして、けっこう有名な学者さんたちによる有識者会議です。
 つまりこの答申は、選挙で選ばれる自らの身分に関わるような議員の意志を反映しない形、もっと言えば、いちいち民意なんて気にしなくてもいいモノだというコトに注目してください。
 その答申で「現行の衆議院議員の定数は、これを削減する積極的な理由や理論的根拠は見出し難い」という一節が載せられているのです。
 
 原文そのままを引用するとこうです。
 

 現行の衆議院議員の定数は、国際比較や過去の経緯などからすると多いとは言えず、これを削減する積極的な理由や理論的根拠は見出し難い。

 
 この問題についてはやえはかなーり昔からずっと言い続けているコトなんですけど、いまの日本の現行制度を見ると、議員定数を減らす必要性が全くありません。
 特に、議員定数でよく言われる理由のひとつである「外国に比べて議員数が多い」については、これはまったくのデタラメだと言い続けてきました。
 例えばこちらの記事では、やえが自分で主要国の議員数と人口を調べ、議員ひとりあたりの人口数というモノを算出していますが、その結果は、アメリカは断トツに議員数が少ないのですが、日本はその次に議員数が少なく、イギリスに比べれば約1/2の議員数となっています。
 そしてそれは、この調査会の答申でも表付きで指摘されています。
 
 
 
 下院とは日本で言う衆議院に当たる、どの国でも直接選挙が行われる(上院は選挙でない国もある)議院ですが、そこだけで比べると、日本の世界比較はますます大きくなります。
 もちろん日本の議員数は格段に少ないワケです。
 G7中、日本の次に議員数が少ないドイツでさえ日本の倍の人数がいるんですね。
 これのどこが「外国に比べて日本の議員数は多い」のでしょうか。
 
 もうひとつよく言われるコトに「経費削減」という言葉が出てきますが、しかしそもそも議員数の問題というのは民主主義の根幹に関わる問題であり、単にお金の問題で考えられる問題ではありません。
 少なくとも、議員定数の問題はお金の問題よりも上位にある問題と言えるでしょう。
 なぜなら、そもそも民主主義という制度自体が手間もお金もかかる制度だからです。
 法律1つ作るにも、何百人もいる議員が長い時間を掛けて議論を行い、その上で賛否を聞いて過半数以上の賛成を得なければならないワケで、当たり前ですが決定権者が少ない方が時間も手間もお金もかかりませんが、それでも「民主主義という枠組み」を守るために、時間も手間もお金も度外視でこの制度を採用しているワケです。
 もともと経費がかかるコトを想定した制度が民主主義なのです。
 だからもし、民主主義の価値よりもお金を上位にして考えろというなら、いますぐ民主主義を辞めるべきなんですね。
 でももちろんそんなコトまで考えている人はいませんし、もし本気で民主主義をやめるべきだと言われれば、共産主義者など以外は否定するコトでしょう。
 であるなら、経費削減を理由にこの問題は考えられないハズです。
 
 その上でもし、国際比較として日本が抜群に議員数が多いなら、少しは考慮していいとは言えるかもしれません。
 それでも本来こういうのは比較して成否を決めるモノではありませんからそれも一要素でしかないと思いますが、しかしどちらにしても、日本は抜群に議員数が少ない方なのですから、結局経費削減という理由は議員定数が結論づけられる理由にはなりはしないのです。
 
 よってこの答申も「これを削減する積極的な理由や理論的根拠は見出し難い」と結論づけたのでしょう。
 冷静に理知的に考えれば、日本はこれ以上議員数を減らして良いコトなどなにもないのです。
 ですから本来一票の格差を是正したいのであれば、議員数を増やすのが望ましいのです。
 
 でもこの答申も、その次に急に日和ってしまいます。
 

 (1)一方、衆議院議員の定数削減は多くの政党の選挙公約であり、主権者たる国民との約束である。
 (2)このことから、削減案を求められるとするならば、以下の案が考えられる。(以下略)

 
 政治課題としては、「国民との約束」は考慮する必要もあるでしょう。
 しかし、今回のこの調査会はそういう“議員個人の事情”を排除するために非議員のメンバーにしてあるハズです。
 それなのになぜ、こんな公約なんていう調査会には全く関係ない理由で「理論的根拠」を否定してしまっているのでしょうか。
 これがまだ、この調査会の答申を受けて、政治家サイドで選挙公約を勘案した結果として議員定数削減に踏み切るっていうのでしたら分かるんですよ。
 それなのに、非議員の調査会の段階で公約なんてモノを考慮してしまう、言わば日和ってしまっているコトに、やえは大変な違和感と失望感を感じてしまいます。
 
 ですから、議員でもなんでもないやえは言い切ります。
 仮に選挙公約であったとしても、それよりも民主主義の根幹に関わる議員定数の問題については、それを無視してでもこれ以上議員数を削減するコトはやめるべきです。
 そこにメリットはありません。
 これは、冷静に理性的に考えたら、普通に出てくるハズの答えなのですから。
 
 そしてこれをキチンと伝えないマスコミもマスコミです。
 この答申を報道する内容は、やっぱり議員定数削減の部分だけでした。
 でも「2.議員定数」のトップに来ているのは「現行の衆議院議員の定数は、これを削減する積極的な理由や理論的根拠は見出し難い」であり、非議員がメンバーの調査会の答申という性格を考えれば、この部分こそをもっと大きく報道するべきのハズなのです。
 
 調査会が辺に日和った点、そしてマスコミの相変わらずの態度のこの2点について、やえは声を大きくして指摘しておきたいと思います。
 

議員定数問題-民主主義の正義-


 議員定数について考えます。
 
 ここ最近、議員定数については減らすコトが正義かのように言われています。
 これに対しやえもこの話題については何度も取り上げまして、そして何度も同じコトを言ってきました。
 果たして「減らすコトが正義」となっている論拠はなんなのでしょうか、と。
 「減らすべき」と言っている人は、なぜ減らすべきなのか、減らすメリットはなんなのかという部分をキチンと説明してしません。
 唯一あるとすれば「経費削減」という部分ですが、しかしこの説明だけでは、どの辺まで減らすのが適切なのかという部分を説明しきれません。
 とにかくお金を使わないコトが正義であれば、議員は10人ぐらいにすれば、それはいまよりも格段にお金を使わないコトになりますよね。
 でもこんなコトは民主主義の否定であって、そう考えれば、ではなぜ「いまよりも減らさなければならないのか」という部分には「経費削減」という論拠は論拠として成り立たないのです。
 というワケで、じっくりとこの問題について考えてみたいと思います。
 
 まずハッキリとさせておきたい点があります。
 民主主義という枠組みで考えれば、むしろ「議員は多い方が正義」であるという点です。
 
 もっとも理想的な民主主義とは、国民全員が政治に参加するコトです。
 もっと言えば、全ての議案に対して全ての議員が賛否に投票できる決定権を持つコトです。
 民主主義とは王政などの「一部の為政者だけが政治を動かす」という制度のアンチテーゼから生まれた「国民全てが政治に参加し、その結果についても国民全員が負う」という考えの制度ですから、その理想型は「全ての国民が政治に直接参加する」というモノです。
 例えばここでよく出される例は古代ローマの政治体制です。
 某お風呂マンガでもちょっとだけ触れられていた気がしますが、奴隷などを除くローマの市民身分を持つ人は全て政治に参加する義務を負っていたワケで、これを民主主義の理想型だとよく例に出されるところです。
 
 ただこれを現代にそのまま当てはめるのは様々な意味で難しいので、現在のほとんどの民主主義国は、間接民主主義という手法を用いています。
 別の言い方をするなら、代議員制度です。
 つまり、政治に直接関わる人を国民が選挙によって選び、その国民の代表者によって政治を司ってもらおうという制度です。
 よってこの制度は、選挙という形では一般国民は政治に参加できますが、しかし政治の中身についての決定権は国民は一切関われない制度とも言えます。
 ですから、ここから考えても民主主義の理念から言えば「議員は多い方が正義」なのです。
 政治に直接参加できる人が多ければ多いほど理想に近づくワケで、一番の理想は「議員=国民」という議員数MAXの状態なのですから、「民主主義の理念」という論拠で考えるなら、議員数は多ければ多いほど正義なのです。
 
 代議員制度の質という点を考えても同じ結論が得られます。
 議員の数が少ないというコトは、その議員の背景にいる国民の数が多いという意味になります。
 国民10万人に100人の議員であれば、つまり国民1000人当たり議員1人というコトになります。
 その議員には1000人の意見が集約されているという言い方もできるワケですね。
 しかしこれが10万人に1人の議員であれば、10万人もの国民の意見がたったひとりの議員に集約されるコトになります。
 つまり議員が少なければ少ないほど国民ひとりひとりの声が政治に反映されにくくなる、国民にとってのきめ細やかな政治からは遠ざかる、というコトになるワケなのです。
 ですからこの点から考えても、民主主義の理想に近づく形というのは議員数が多いという状態だと言えるのです。
 
 間違ってはいけないのが、民主主義政治の正しさというモノは「結果が正しい」というところにあるワケではないというコトです。
 民主主義においてはむしろ結果は問題にしていません。
 あくまで民主主義は「全員が参加して全員で責任を負う」という制度ですから、「より多くの人が参加する」という点が重要なのです。
 「王というひとりだけの為政者が全てを決定していては、良い時は最高だけど、悪い時は最悪の結果にしかならない、最悪国家破綻する。だからそうではなく、できるだけ多くの人が参加すればまぁ最悪の結果にはならないだろう」
 これが民主主義なのです。
 
 よってここから導き出される結論としては「民主主義においては議員数が多い方が正義」であるという考え方なのです。
 もちろん最初にも言いましたように、国民全てが議員になっていては様々な部分で問題が起きますから現実的ではありませんのでバランスをとる必要はありますが、ただ原則としては「議員数は多い方が望ましい」という点は確認しておくべき点です。
 ですから考えるべきコトは、現実的な問題を踏まえつつ「どこまで増やせるか」という視点で考えるべきなのです。
 「どこまで減らせるか」は、民主主義の理念に反すると言えるでしょう。

国会の構成を決めたのは国民


 一票の格差問題で最近気になるのが「国会の責任」という言い方です。
 もちろん間違いではありません。
 立法行為に関する行為は大きな意味で国会の行為ですから、その行為に対する責任についてを「国会の責任」と表現するのは確かに間違ってはいません。
 しかしこれは大きなまやかしを孕んだ表現です。
 なぜなら、国会の責任と言ったとしても、その中身をシッカリと見れば様々な事情がハッキリと見えてくるからです。
 
 最高裁がハッキリと是正しろと言い、一票の格差問題を是正しなければならなかった期間の国会は民主党が与党だった時のお話ですが、ではその民主党に与党たる議席を与えたのは果たして誰だったでしょうか。
 そうです、国民ですね。
 こんなのもう説明するまでもありませんが、法律を通すための一番の責任は与党にあります。
 なぜなら、衆議院で過半数以上を持っている(連立)政党が与党になる以上、法律を通す力を持っているのが与党になるからです。
 そしてその与党を与党たらしめたのが国民自身です。
 つまり本来の責任という意味を考えるのであれば、国民から切り離されたかのような物言いでの「国会」と言ってしまうのは甚だ不適切です。
 むしろそういう国民の責任を誤魔化して、むしろ国民の責任から目を逸らす行為にしかならず、甚だ無責任な物言いだと言わざるを得ないのではないでしょうか。
 
 国会議員を選び、与党を選んで、さらに国会議論を注視して必要なら批判してこそ、主権者たる国民の責任です。
 「国会の責任を果たせ」と中身のない空虚な言葉を吐き出すだけではなく、その国会の中で何が起こったのか、どうして法案が成立しなかったのか、なぜそれが起きたのかキチンと理解してこそ、国民の責任と言うべきでしょう。
 決して国会は「他人事」ではありません。
 外からの目線で結果だけを語って「なにやっている」は、主権者のとる態度ではありません。
 これが他国のコトなら「○○国はなにやってんだ」で済みますが、日本の国会のお話であれば当然主権者は日本国民自身であり、自分のコトとして考えなければならないコトです。
 他人の家の中のコトではなく、自分の家で起こったコトです。
 ですから「国会はなにやってるんだ」ではなく、「自分自身のコトとしてどうすべきだったのか」と言わなければなりません。
 
 では当時国会では何が起こっていたでしょうか。
 これについては当時当サイトでも散々取り上げました。
 当時与党の民主党は、一票の格差問題とは一切関係の無い議員定数削減(むしろ削減は格差を広げかねない行為なのは連日指摘している通りです)と比例の連用制という民主主義を破壊しかねない制度をセットにしなければ法案を成立させないとごねていました。
 明らかに与党としての態度ではありません。
 普通与党であれば、仮に定数削減を実行したいと思っていたとしても、まずは一票の格差問題をなんとかするために全力を尽くすコトでしょう。
 本来一票の格差問題と定数削減問題は別次元の問題なのですからね。
 しかしあの時行われたのは、むしろ野党の自民党がそれを主張し、与党の民主党がセットにこだわって、一票の格差問題の是正に抵抗するという有様でした。
 一票の格差問題に関係しない定数是正問題は、連用制の危険性も含めて、これは時間をかけて熟議を重ねて結論を得なければならない問題です。
 しかし一票の格差問題はそうではありません。
 昨日言いましたように裁判所の主張には大きな疑問がありますが、それでも公的システムの中で正式に出された判決を無視するワケにはいきません。
 一票の格差をとりあえず2倍以下にするコトは、これは議論の挟む余地のないコトであって、方法だけを速やかに立法化させる必要があったのです。
 それなのに、別の要素を混ぜ込んで政局化させたのは、他でもない与党である民主党だったのです。
 民主党が今日までの状況を作り出したのです。
 
 もう一度言います。
 民主党を与党にしたのは果たして誰だったでしょうか。
 民主党に騙されたと言う人もいます。
 しかし当時この問題に対しては国民はどう反応していたでしょうか。
 むしろ定数削減ばかりをマスコミは取り上げ、一票の格差問題とは別問題というコトすら誤魔化して、政局ガー政局ガージミンガーと言ってましたよね。
 その上でさらに今になってから「国会の責任」と他人事のように言うのでしょうか。
 
 国会の責任と言うべきではなく、国民の責任と言うべきでしょう。
 もちろん政局化した民主党の責任は重いですが、そもそもその民主党を与党にしたのは誰かというコトはシッカリと自覚しなければなりません。
 いまの段階で過去のコトを言っても仕方ないと言えば仕方ないですが、しかしだからこそ、この過去の反省を活かしていまならどうすべきかを考えなければなりません。
 それは当然、速やかに「0増5減」を実現するコトです。
 繰り返しますが、ここに議論が挟む余地はありません。
 とりあえずは2倍以下です。
 なぜならそれは最高裁判決だからです。
 1.9倍でもけしからんと言うのは、それは主張としては自由ですが、そんなのは後から議論すればいいだけのお話です。
 2倍以下にした後にゆっくりすればよろしいのです。
 まして定数削減はさらにです。
 「0増5減」を実行したら(法律は通ってますが区分けがまだです)もっと倍率を下げるコトが出来なくなる、定数削減も出来なくなるというのでしたらお話は別ですが、実際はそんなコトはありません。
 「0増5減」を実行した後でも、さらに倍率を下げる法律や定数削減を実行する法律を作るコトは出来ます。
 だからこそ今はとりあえず時間がないのですから、「0増5減の実行」を、議論ではなく作業として淡々と速やかに実行しなければならないのです。
 これを進めるのが国会と国民の責任です。
 もしこれを阻害しようとする者がいるとしたら、国民は国民の責任のもとに批判すべきでしょう。
 
 国民が「国会の責任」と他人事のように言って批判するのは、ただの責任放棄です。
 もちろんそれを煽動しているマスコミは言語道断です。
 結局マスコミこそがこの問題も政局にして安倍政権叩きに使いたいだけなのでしょう。
 しかしそれは無責任にもほどがあるというコトを指摘しておきたいと思います。
 特にこの問題はマスコミのミスリードが激しいです。
 騙されないように注意したいところです。

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