内部から見た自由の森

 
 以前オレは、「はき違えた自由」というタイトルで自由の森学園という学校を非難した文章を書いた。
 結構前に書いた文章であったのだが、なんと自由の森を卒業したという方がそれを読んで当掲示板に書き込みをしてくれたのである。
 生の声ほど貴重で説得力のある言葉もない。
 オレは、その書き込みをしてくれたHISTORIANさんに色々と質問をさせてもらった。
 それに対してHISTORIANさんは丁寧に答えて下さり、このまま流すのはあまりにもったいないのでHISTORIANさんに了承を得て、ここに載せることにした。
 ただし、以下に載せる文章はあくまでHISTORIANさんの個人の見解であることを注意して欲しい。
 
 オレが始めにした質問は簡単に言うとこれらである。
 ・あの学園に入ってそして学校や生徒、教師などどんな風に感じたのか。
 ・他の生徒も含めどのように卒業しこれからの人生にどのような影響を与えたか。
 それに対してHISTORIANさんはこのように答えてくれた。
 
 
私も、自由の森学園は最初の段階で道を誤ったと思います。
自分に子どもができても自由の森学園に入学させることはおそらくないでしょう。
 
人間にとっての“自由”とは、
「自己決定能力を持ち、自分の手で人生を切り開いていけること」
であり、従って、自由の森学園はこうした人間を育成する場所であるべきだ
と私は考えます。
 
しかし、自由の森学園の実態は、教師が生徒にほとんど干渉しないため、
生徒が自分の欲求のままに行動できる環境でしかありません。
つまり、“物理的な自由”が保証されているにすぎないのです。
 
本来このような環境は、努力して“自由”を勝ち取った者にこそふさわしいものです。
ところが、自由の森学園では、小学校・中学校を卒業したばかりの
まったくの子どもに対してこうした環境が与えられてしまいます。
要するに、自由の森学園がやっているのは、
運転免許を持たない者に自動車を与えてしまうようなことなのです。
 
自由の森学園の授業そのものは確かに質が高いと思います。
すなわち、非常によく考えられた運転技術習得カリキュラムを持った
教習所に喩えられます。
 
しかし、いきなり自動車を与えられてしまったら、
子ども達は教習などという面倒臭いものには目もくれず、
すぐに運転してみたくなるでしょう。
事実、自由の森学園における授業への出席率は惨澹たるものです。
そして、自由の森学園という名前の教習所は無免許運転を禁じていないのです。
(自由の森学園の教師はナイーブすぎるのだと思います。
 だから、生徒を叱らなければならない局面を避けてしまうのでしょう。)
 
ごく一部の先天的に運転の得意な生徒達は自動車を乗りこなし、
自分の目的地に辿り着けるでしょう。
こうした生徒にとっては、自由の森学園は素晴らしい環境だと
感じられたのではないでしょうか。
 
しかし、ほとんどの一般的な生徒達は右往左往するか、
あるいはその辺を無意味に走り回ることに終始してしまいます。
つまり、学園生活を無為に過ごし、そのまま卒業を迎えてしまうのです。
(私自身はここに分類されます。)
 
そして、一部の無謀な生徒達は暴走行為に及び、その結果として
人に迷惑をかけたり事故を起こしてしまったりします。
このタイプの者は、一般的な社会への復帰が相当困難だと思われます。
 
結局、自由の森学園の教育は多くの生徒を取りこぼしてしまっているのです。
 
私が自由の森学園を卒業してからもう8年になりますが、
本質的には状況はあまり変わっていないでしょう。
 
自由の森学園では、幾人かの心の許せる友人ができました。
楽しい思い出もあります。
そして、母校でありますし、個人的に尊敬できる教師もおりますので
自由の森学園には愛情を持っていますが、
それでも学校組織としては問題があり過ぎると感じています。
 
 
 もちろんHISTORIANさんの視点ではあるが、やはりオレが想像していたような現実があるようだ。
 逆に、親友が出来たり、尊敬できる教師ができたりするのは、このような学校ならではでないかと思う。
 この学園の教師は理想は高いために、分かり合えるのであれば相当深いつき合いが出来る可能性もある。
 さらにオレはいくつか疑問に思ったことがあったので、それをさらに聞いてみることにした。
 質問はこれら。
 ・学園に通っていた学生の時には学園に対してどのように思っていたのか。
 ・間違った(とHISTORIANさんがおっしゃっている)教育をしている自由の森学園に通い卒業したのにいつどのようなきっかけでその間違いに気づいたのか。
 かなり個人的で失礼な質問だったのだが、それにも丁寧に答えてくれた。
 
 
>学園生活を無為に過ごしたとおっしゃっていますが
>学園に通っていた学生の時には学園に対してどのように思っていらしたのでしょうか
 
私自身は単純に、好き勝手できる環境を享受していました。
そして、日本という社会の中に自由の森学園という
“アバンギャルドでアナーキーな空間”が存在することに
大きな価値があるのだ、と漠然と考えていました。
 
ただし、学園創立以来ずっと、教師および生徒の双方から
「“自由”とは単なる無軌道な状態ではない、“自由”をはき違えている人間が多すぎる」
という意見は事ある毎に聞かれました。
“自由のはき違え”という言葉は、自由の森学園の生徒にとっては
“耳にタコ”だと思います。
しかし、こうした声はすぐに多くの子ども達のアナーキーなエネルギーに圧倒され、
かき消されてしまいます。
 
>また、自由の森学園に入園したということは、
>前の学校で様々な事情がおありだったのだと思いますが
>さらに間違った教育をしている自由の森学園に通い卒業したのに
>いつどのようなきっかけでその間違いにお気づきになられたのでしょうか
 
自由の森学園には中学校から高校まで6年間通いました。
志望の動機は大したものではありません。
父親に「こんな学校があるんだけど、通ってみないか?」と勧められ、
当時小学6年生だった私は単純に「なんか面白そう」と思ったので、
特に深く考えもせず受験を決めました。
私の身の回りには、このタイプが多かったように思えます。
「自由の森学園の教育理念に共感して入学しました!!」というような人は
あまり見かけませんでした(さすがに、高校から自由の森学園に入学してきた
人達の中には、こうしたタイプはよくいましたが)。
 
自由の森学園の教育に疑問を抱いたのは大学に入ってからです。
自由の森学園に在学していた頃は勉強など全くしていなかったので、
2浪してやっとのことで3流私大にもぐりこみました。
このときになってやっと精神的に余裕ができ、
自由の森学園での生活を振り返ることができたのです。
 
自由の森学園では自分を解放しやすいため、他者とのコミュニケーションを通して
精神的な面で大きな進歩はあったと思います。
確かにこれは重要なことで、私の人生において宝となっています。
しかし、このような生徒の成長は生徒同士の交流によるもので、
これについて教師や授業はほとんど関与していません。
従って、これを自由の森学園の教育による成果だとは言えないでしょう。
(コミュニケーションの場を提供したことをもって
 これを自由の森学園の教育による成果だとする意見もあるかも知れませんが、
 それはあまりにも教育の役割を消極的に捉えてはいないでしょうか。)
 
また、学校は、自らの手で人生を切り開いていくために必要な
知識や思考力を生徒に身につけさせる場所です。
自由の森学園はこうした期待に応えるに十分なコンテンツを備えているとは思いますが、
それらがほとんど活用されていないのが現実です。
教師は質の高い素晴らしい授業を行なえば
生徒は夢中になって食いついてくると考えていたと思いますが、
一方、多くの生徒は制約のない“物理的な自由”にばかり気を取られてしまいました。
教師側が早々と認識を改めて、生徒を授業に繋ぎ止めるための対応を
取れば良かったのですが、それもなく現在に至っています。
この結果、自由の森学園の校風は、生徒が好き勝手にやるのに任せる
ということになってしまったのでしょう。
 
以上のように、自由の森学園は教育機関としてほぼ機能停止している
と思われるため、その教育に対して私は否定的な感情を持つに至りました。
 
なお、“アバンギャルドでアナーキーな空間”としての自由の森学園についてですが、
自由の森学園がこのような空間として成立するかどうかは
生徒個人の資質に強く依存していると思います。
 
私は、こうした他者や社会の助けの期待できない環境で過すことにより
真にタフな人間が生み出されると考えていました。
 
明確な目的を持ち、そのために努力している生徒にとって、
あるいは明確な目的は持たなくても何らかの努力をしている者にとっては、
全てが生徒の自主性に委ねられている自由の森学園は厳しい環境であり、
自己を大きく成長させる場として機能すると思われます。
 
しかし、やりたいことも特にないような生徒にとっては、
外的規範による強制力の排除された、単なるぬるま湯のような場所
でしかないのではないでしょうか。
毎日遊び呆けていても、誰にも何も文句を言われませんから。
 
後者のタイプに属する生徒がそのまま捨て置かれてしまうことも、
自由の森学園の大きな問題だと思います。
 
 
 一応、学園内にもこの体質に対する批判はあるようだが、ほとんど無視されているのが現状のようだ。
 また、HISTORIANさんは学園自体の建前(コンテンツ)は大きく評価をなさっている。
 これが正しいかどうかはオレには判断しかねる。
 しかし、理想と現実のギャップの狭間で理想のみを選択した結果が今の自由の森の現状であるということは事実であろう。
 いくら理想が高くても現実不可能であれば、その理想は間違っているとも言える。
 特に、
 >全てが生徒の自主性に委ねられている自由の森学園は厳しい環境であり、
 >自己を大きく成長させる場として機能すると思われます。
 の部分は納得できるものの、中高校生にはまだ早すぎるのではないかと思う。
 逆に高校まである程度“自由”を制限された場で過ごし、その中で自由というものの本質を学ばなければ、自由をはき違える結果になるだろう。
 本当の“自由”というものは、責任という制限があってこそ自由なのであるのだから、それはある程度自由を制限された場でないと、そのことを学べないのではないかと思う。
 もしくは、自由というものの本質を正しく捉えた形での「自由の森学園」でなら、それを学ぶことができるのかもしれない。
 ただし、高校生や、まして中学生にそれを完全に理解させられるかどうかも疑問であるし、普通の学校とどれだけ差別化がなされるのかも疑問である。
 少し前の卒業式ボイコット事件があった所沢高校なんかも、自由というものをはき違えていると言えるのだから。
 
 教育とは、その国の本質的な部分に関わるので特に注意して見なければならないと思う。
 オレは自由の森は間違っていると思うし、近年さらに学校の問題が増えてきている現状で、自由の森に対する関心も年々増えてきているのではないかと思う。
 しかし、第二の自由の森をつくるわけにもいかないし、自由の森自体も早く改善しなければならないだろう。
 今まさに教育というものを見直さなければならない時期に来ているのだと思う。
 
 最後に、自由の森のホームページがあるようなので紹介しておく。
 http://www02.so-net.ne.jp/~jimori/
 また、母校を批判されたのにも関わらず書き込みをなさってくれ、また失礼な質問にも快く答えてくださったHISTORIANさんにはとても感謝しています。


2000/10/25