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- オレの祖父は残念ながらすでに他界している。
母の父であるオレの祖父は、若くして事業を手がけ、一代でそれなりの資産と会社を作った。
ワンマン気味の会社ではあったが、しかし社員は皆社長を尊敬し、まとまっていた。
祖父は厳しい人だった。
生まれは何年なのか知らないが、今のオレより若いときに戦時中少年飛行隊に入隊したが出陣直前に戦争が終わった、と言っていた。
出陣できなかったこと、友と死んでやれなかったことを祖父は悔やんでいたようだ。
そのことを聞いたときオレはまだ小学生だったので、否定的にしか捉えることができなかった。
祖母はまだ生きており、今でも家には天皇の写真を飾っている。
祖父が若い頃仕事中、左手を麻痺するほどの事故を負った。
手術すればなんとかなったかもしれなかったそうなのだが、その時間も惜しんで働いたためにオレが生まれた頃には完全に左手は麻痺し、いつも白い手袋をしていた。
さらに仕事中の事故で長男を失っている。
オレの叔父に当たる人は、仏壇にある子供の写真しか見たことがないし、このことについて何も聞いたことがない。
事故があったということを母から聞いただけである。
今も名前すら知らない。
母や祖母に聞けば教えてくれるのだろうが、そのことについて向こうから話をしてくることはなかった。
当然だがやはり祖父にとってもそれは相当なショックだったのだろう。
生前、毎月必ずお寺から住職を招いてお経を上げていた。
オレは父に対して今でも恐怖心を持っているぐらいの厳しい人なのだが、祖父は幼かったオレに対しそれ以上に相当に厳しかった記憶がある。
しかし母や叔母が言っているが、孫ができたというだけであれだけ変わるのかなと驚くぐらい孫に対して、つまりオレや弟たちには甘かったらしい。
男ばかりの兄弟でやんちゃばかりしていたオレ達に対して、祖父はどこであろうと怒鳴りつけ、時には手をあげることもあった。
そんな祖父が母達に対してはさらに厳しかったと言われても、ちょっとオレには想像ができない。
オレが生まれる前、祖父の甥にあたる人が本命の大学に合格することができず浪人したいと祖父に言った時、祖父は猛反対し、言うことをきかないと斬るぞ、と言って日本刀を振りかざしたという。
祖父の家に飾ってある刀を見ながらそんな話を聞いた。
オレの実家も、今時珍しく封建的な家風で、父がナンバー1で長男であるオレが2番目。
母は世間知らずな所が多分にあるが、未だに専業主婦をしており内助の功で父を助けている。
やはり今でもオレは父には頭が上がらない。
弟たちも同様であり、また弟もオレには頭が上がらない。
一番下の弟はオレとけっこう年が離れており、また祖父の影響もあまりないためか、少々わがままで、父も長男であるオレが生まれたのは30になった時であったのでけっこう年をとっており、ましてオレとけっこう年が離れている弟なのだから父も丸くなったせいもあるだろう。
まぁまだ学生だからかもしれないが、一番下の弟は父に対しても少々反抗的である。
しかしオレの言うことだけは完全に聞くようである。
「家で一番こわい人は?」と聞かれたらオレと答え、「尊敬する人は?」と聞かれるとやはりオレを挙げるらしい。
封建的な家風が生きているために、丸くなった父に代わりナンバー2であるオレの影響を強く受けているのだろう。
経済的にもウチは普通の家庭よりは裕福である。
一人一人の思想までは分かるすべもないが、少なくとも表面的には誰も道を外していないし、よくまとまっており、十分幸せと呼べる家である。
オレはこれこそ日本らしい家ではないかと思う。
オレの家に日本というものが存在しているのではないだろうか。
父は祖父の子ではないが、オレは祖父の孫であり父の子である。
二人の「日本の父」の影響をオレが一番強く受けている。
やはり特に祖父の影響は大きかったと今でも感じている。
祖父が直接語らず背中で教えてくれたために、オレは物心付いたときから公共心や道徳というものが、思考ではなく体に染みついていた。
広島という地に生まれたのにも関わらず、幼い頃からいつも反日日本人の言動に疑問を持っていたのも祖父の影響が大きかったのだろう。
今オレがこのような文章を書けることも祖父のおかげであろう。
オレは後悔している。
疑問は持ってはいたが、やはり広島という場所もあり幼かったこともあり、思想で反日思想に反論することはできなかった。
少なからず反日思想の影響を受けていた。
だから祖父が少年飛行隊に所属していたことも、戦友と共に死ねなかったことに対して悔やんでいたことも、天皇に対する敬愛の念も、肯定的にとられることができなかった。
また祖父も戦争のことをオレに語ることは無かった。
しかし今ならそれらを全て受け止めることができるし、色々と聞きたいこともある。
そして感謝の気持ちを伝えることも出来ただろう。
もちろん言葉に出して伝えるのはテレくさいので言わないだろうが、戦争のことを聞くことや態度で伝えることができたのではないだろうか。
オレは祖父にほとんど恩返し出来なかったような気がする。
それを意識してか無意識か、オレは広島に帰るとき必ず仏壇に供えるみやげを買って帰り、まず祖母にそれを手渡し、仏壇に供え手を合わせている。
そして必ず墓に参る。
オレはこんなことを考える以前から、それを当たり前のように行っていた。
祖父が死んで葬式が行われたとき、やはり中企業とはいえ100人近い従業員がいる会社の社長のため、かなり多くの人が葬式に参列した。
その中でかなり高齢の方々の団体が見えていた。
その団体の代表の方が挨拶をする時、同期の少年飛行隊の戦友ということをオレは知った。
今でも軍隊の同期の会みたいなものが存在しているらしい。
代表の方はこう祖父に向かって最後の別れを言った。
「どうして先に逝ってしまったのか」
涙を流しながら、しかし大きく芯の通ったしっかりした声だった。
戦友の方々も皆涙を流していた。
オレはこの葬式の中でどんな人の言葉より、祖母の言葉より、その言葉に胸を打たれ、また感動した。
もう祖父が他界して数年経つが今でもその人のあの言葉だけは覚えている。
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