「穢れと差別」小私考

 
 一般的に葬式から帰ってくる人に対して家に入る前に塩を撒く。これには「穢れを祓う」という意味がある。
 なぜ塩を撒くかと言えば、それは「穢れ」というものを“嫌う”ので、塩でもって「清め」「祓う」のだ。
 では「穢れ」とは具体的にどういうものなのであろうか。
 「穢れ」は塩を撒くことによって祓われるのだから、人間そのものが「穢れ」というわけではないのは確かだ。もし人間そのものが「穢れ」であるのなら、塩を撒かれたナメクジのように溶けなくてはならなくなってしまう。しかし実際は「穢れ」がついた人間に塩を撒いても見た目には全く影響はない。
 塩を撒いても見た目には何ら変わらないし人体にも全く影響はない。しかし「穢れ」が“無くなった”とは感じる。
 つまりそれは同時に、「穢れ」というモノに対し目には見えなくても「存在感」を感じているということだ。
 「穢れ」というものに「存在感」を感じ、それを嫌い何らかの方法でもって「祓い清める」
 これが「穢れ」である。
 例えるならウイルスのようなものだろうか。
 目に見えないが何らかの影響を与える(と信じられている)し、何らかの方法で追い祓うことが出来る、という共通点がある。
 また「感染源」から人へ、人から人へとどんどん拡大していくという共通点もある。
 違う点と言えば、ウイルスはある方法を用いれば目で見ることが出来るが、「穢れ」はどうやっても目に見えないことであろう。
 また「穢れ」もウイルスも、普通の生活を送っていれば感染することはない。「感染するような行為」をしなければ感染しないものである。
 ではどのような行為が感染する行為で、何が「感染源」なのだろうか。
 最も大きなものとしては「死」があるだろう。
 「死」に触れる(直接手で触れることではない)と穢れが感染するのである。
 葬式という「死の儀式」に参加することにより「穢れ」が感染するので、帰る前に塩で清める、というわけだ。
 
 ここまではほぼ一般常識と言っていいことだろう。
 しかし、いまいちはっきりしない点があるように思う。
 それは「穢れの発生源」である。
 「死」が「穢れの発生源」というのは理解できるが、具体的には何から発生するのであろうか。
 「死体」からだろうか。
 これは違う。死体が発生源であるならば、死体にさえ触れなければ穢れが感染することはないという考え方が出来てもおかしくないはずである。
 よって、「死体」が「穢れ」の「感染源」と考えるのは正しくないと言えるだろう。
 やはり「穢れ」とは、“「死」という事象”から発生し、それに関わるモノへと感染するもの、と考える方が妥当ではないだろうか。
 ウイルスで例えるなら、「死」というウイルスにとっての栄養素(発生媒体)が出来たのでそこで初めて発生し、その次に死体や葬式などに感染し、さらに参列者に感染する、ということになるだろう。
 カビ等は実際には空気中にその素が存在しているという違いはあるが、風呂などジメジメしている所とかそういう条件、つまり発生媒体・発生条件が整ってはじめて目に見える存在となる。それと同じ感覚で、「死」という発生媒体が出来てはじめて「穢れ」が発生する、ということになる。決してカビも風呂のタイルそのものがカビ(の発生源)自体ではないし、それと同じで「死体」そのものが発生源でもない。
 つまり、変なというか全くあり得ない話だが、「死んでいない死体」には穢れは発生しないのである。死体そのものが発生源ではないのだから。
 あくまで「死」という事象にから発生し、葬儀や死体等それぞれに穢れが感染するのである。
 もちろん「死」という自称に最も近い「死体」に一番多く穢れが感染する、という考え方は間違っていないが。
 ただ、あくまで「死体」は「死」というものの象徴であり、事象が具現化したものにすぎず、決して「死」そのものではないということである。
 しかし「死」と「死体」は切っても切れない関係ではある。「死体」が生き返ってさらにお祓いでも受ければ「穢れ」から逃れられるかもしれない、そんなことはまずあり得ない。
 重要なのは「穢れ」の発生源は「死」という“事象”や“事実”が発生源なのであるということである。
 
 さて、「死体」そのものが穢れではない、というのがこれまでの結論である。
 しかしこれも、いちいち上記のように考察しなくても理解できるはずのことなのである。
 もし「死体」こそが「穢れ」そのものであるのならば、葬式なんかせずにさっさと浄化させてしまうはずである。
 もちろん「葬式」は「穢れ」を浄化させる儀式ではない。そうならば参列者が家に帰る前に塩によって穢れを祓う必要など無いはずだからだ。
 また、日本人は非常に葬式を大切にする。結婚式や出産より大切に思っている。
 「村八分」という除け者にするという意味の言葉があるが、なぜ「八分」つまり「八割」だけかと言えば、残りの「二分」は「葬式」と「火事」を示しており、その二つはつき合うという意味なのである。
 それほど日本人にとって葬式は重要なのである。
 穢れる危険性があっても、穢れることが分かっていても、例えそれが嫌われ者の葬儀であったとしても、日本人にとって葬式は大切なのだ。
 もし「死体」が「穢れ」の発生源であったとしたら、日本人が最も嫌う「穢れ」を忌避し、そして日本人にとって最重要の儀式である葬儀を共に両立させようとするのであれば、「死体」を葬式に用いらないという方法が採られていた可能性は十分にある。そうすれば穢れることはないし、葬式も執り行える。
 「死体」を葬式の場から見えないところに安置しておくとか、埋葬してから葬式を行うとか、日本人の「穢れ」に対する嫌悪感を考えれば、それぐらいのことはされても不思議ではないはずである。
 しかしそうなっていないということは、「死体」が「穢れ」の発生源ではないと認識されているからであろう。そして同時に“「死」という事象”に関わるモノが発生源であると認識しているからなのである。
 よって例え葬儀に「死体」が用いられなくても、やはり葬式から帰ったときには塩でお清めをするであろう。
 このように元々日本人は「穢れ」というものを感覚として“事象から発生するもの”と理解していたはずなのである。
 
 ここまででは、葬式の例で見たように、「死体」が発生源ではなく「死んだ」という事実から発生し、次にそれに関係してくる葬式に「死体」に感染するという結論だったので、よって『「穢れ」とは「事象から発生するもの」である』という事が言えるだろうという結論を得た。
 さてここからが本題である。
 女性差別というものの種類に、日本古来から続く「一見女性軽視」的な風習がある。
 例えば、女人禁制の山寺や相撲の土俵は女性は上がれないなどの風習である。
 先に断っておくが、これらはいわゆるセクハラ等の女性差別とは全く種類が異なるものであるので、考察する際には切り離して考える必要がある。
 ここでは「日本古来からの一見女性軽視的な風習」だけを考える。
 これら「一見女性軽視」の根拠は、「女性は生理により血を流すから穢れる」という理由である。これによって女性には上記のようなことが禁止されているのだ。
 だからこれらの「一見女性軽視は」イカレタ女性市民団体が言っているような「男が女を下として見ている事によって起きる差別」ではないのである。
 れっきとした「穢れ」という根拠をもっている。
 
 注釈を入れておく。ここでは「穢れ思想」を無くそうという議論は避ける。本題ではないし、そもそも未だに「葬式の塩」に見られるような風習はまだたくさん日本の生活に多く根強く残っている。つまり「穢れ思想」だって文化であるのは確かなのだし、これらの「一見女性軽視」が見られるような場は古来からの日本の歴史や文化風土を一般よりは色濃く残している残そうとしている場なので、無くそうとする議論は別次元でやるべきなのだ。またそのような議論はまず「穢れ思想」を正しく理解してからでないと、全く無意味な感情論で終わってしまうことだろう。だからまずは「正しく理解すること」がはじめなのであり、理解してから次に「無くそう」という議論が行えるのである。特に「差別」という種類の議論は正しい知識無しには決して語れないであろう。
 
 さて、ここではっきりさせなければならないことがある。
 それは「血による穢れ」は、「血が流れる」という事象が「穢れ」なのであって、決して「女性そのものが穢れている」ワケではないということである。
 「穢れ」に対してある程度の知識を持っている人間の中には、女人禁制の理由が「生理による血」と理解している者もいるのだが、そう理解している人間の中にも「血」と「女性」をイコールで結んでしまって、「“生理がある女性が穢れている”という理由で差別している」という言い方をする人間もいてしまうのが現状である。
 ここまで読んでいただいた方には分かるであろうが、これは全くの間違いである。
 上でさんざん書いたように、あくまで「穢れ」とは「事象から発生するもの」なのであって、「生理がある女性」はその象徴でしかない。つまり「死体」から穢れが発生しているのではないと同様に、「生理がある女性」そのものが穢れているのではないのだ。
 あくまで「穢れている」のは「血が流れる」という事象なのである。
 変な言い方だが「生理がある男」がいれば、「生理がある女性」と同じような扱われ方をしただろう。
 これからも日本人は、「女」というものが「穢れている」と認識しているのではなく、「生理がある」「血が流れる」という事象に対して「穢れている」と認識している事が分かるだろう。
 ここを正しく理解して欲しい。
 
 大体、女性が穢れていると認識されていたとするならば、日本人にとって「穢れ」は怨霊と同様に最も恐れられている存在なのに、その“穢れ自体”を抱いたりなんかしないだろう。
 まして子供を生むだけの道具なんて、被害妄想も甚だしい妄言のようなことが有るはずもないではないか。
 古来から日本は女性を大切に扱ってきた文化である。それは歴史を見れば一目瞭然ではないか。
 被害妄想にとりつかれて妄言を吐き散らす女は、多分男に大切にされたことがないんだろう。
 「食事は女が作るものだ」という考え方が日本にはあるが、もし女性そのものが穢れていると考え、「穢れ」の発生源だと考えるのであれば、その「穢れ」が作ったメシなど誰が食べるだろうか。
 あくまで「生理によって自らの意志では止めようがない定期的な流血」という“事象”が「穢れ」なのである。女性はその象徴にすぎない。
 もともとそんなことは日本人は理解していたはずなのに、それが分からず「女自体を毛別している」なんて言っている輩は、それは自らが穢れていると認めていることになってしまうのではないだろうか。
 
 ただし、「生理によっての流血」は「女性」である限り無くすことが出来ないもの、つまりは「生きている死体」が存在しないのと同様に、イコールではないが切っても切れない関係ではある。
 だから「特に穢れを嫌い清浄が必要な場所」つまり高次元の修行が必要な山寺や土俵(元々相撲は神に捧げる神聖な儀式)では「女性」に“遠慮”してもらっているのだ。
 「神々に捧げる大切なものに穢れをつけるわけにはいかない」
 こういう思いから、昔の女性自身も「生理のせいによる“流血という穢れ”を神様への捧げ物につかせるわけにはいかない」と、自覚していなくても無意識的に理解していたはずである。
 だから昔は全く差別だなんて思ってもいなかったのだ。
 人権思想だなんてものが無くても、無意味に抑圧されれば人間は抵抗するものである。モーゼの十戒のような感じで、人権というものが与えられたからこそ差別から抵抗してもいいんだ、と考える人間がいるのだろうか。こう言葉にすればあり得ないような気がするのだが実際には人権思想にとりつかれている人間はこのようなに考えているのだ。アホらしい。
 本題に話を戻すが、元々昔の人は「穢れは事象によって発生する」と理解していたため「死体」や「女性」そのものが穢れているとは全く考えてなかった。
 女性自身も「女性は生理があるから仕方ないね」と思っていたはずだ。
 結局今まで述べてきたように女人禁制や土俵の風習の「一見女性軽視」は、差別であるはずもないし、軽視ですらない。
 このような「一見女性軽視文化」は、怨霊と言霊と穢れ、神々と死者の国である日本の中に存在する、一風土であって社会システムであって仕方ないことであると同時に当然であり自然なことなのである。
 
 一部女性主義者の人間は、「穢れ」という悠久の歴史をもつ日本に古来から存在する社会システムを無くそうとするので有れば、しっかりと悠久の歴史と社会システムを理解してから発言してもらいたい。
 差別ではないものを差別だと騒ぎ立てるのは、自らが差別している自覚があるから差別と呼んでいるのではないだろうか。
 「穢れ」からくるこの手の思想は、女性を差別していないのにそれを差別だと言うのは、その発言者自体が女性に差別思想をもっているからこそそう思ってしまうのだ。逆差別ではないのか。
 まずは「穢れ」というものを正しく理解してほしい。その上でさらに「無くそう」というのであれば、「茶碗や湯飲み」「葬儀の塩」なども含めて議論してもらいたい。
 
 
 最後にもう一度まとめる。
 「穢れ」とは、「死んだという事実」や「血が流れているという事実」といった“事象”から発生するモノであって、「死体」や「女性」という物体等が発生源ではないのである。
 「穢れ」は「事象」から発生し、その次に「事象」に関係する物体等に“感染”していくのだ。
 葬式の例なら、「死んだ」とう事実から発生し「死体」や「葬式」に感染する。そして「葬式」から「参列者」に感染するので“さらに家や家族に感染しないよう”に塩でもって清めるというわけである。
 生理の場合は、女であるなら必ず約一ヶ月ごとに血が流れてしまうので、例えが悪いが穢れ考察的に言えば「動く死体」と言えるので、女性には土俵等の場所によっては“遠慮してもっている”のである。
 そしてそのことは昔の日本女性なら分かっていたはずなのだ。意識していなくても感覚として理解していたはずである。だからこそ昔は「差別だ」なんて事は言われていなかった。
 よって、女人禁制の山寺や土俵には女性は上がれない、といった日本古来から続く風習は決して差別ではないのである。
 その風習がよいか悪いかは別として、そのような議論をする場合はまず「一見女性軽視的風習は差別ではない」という意識を持って議論しなければならない。
 なにがなんでも「差別」という言葉に引っかけて議論するようでは、決して問題の本質を見ることも出来ないだろうし、絶対に問題を根本から解決することも出来ないだろう。



2001/12/5