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四周年の祝辞をいろいろな方から頂きまして、本当にありがとうございました。
もう今ではほとんどの方がやえ十四歳のページになってからお越し下さって頂いた方でしょうから、当サイトがこんなに続いているとはご存じなかった方がほとんどだったようで、意外に当サイトはご長寿サイトなんですよ(笑)
上のフレームにも「Since 1999.7.15」とあるんですが、やっぱりあそこまで見ている人ってあまりいないですよね。
その右にある「めにゅー」っていうやつは各コンテンツのメニューが書いてあるんですけど、実はそれぞれのメニューを選択すると自動でそのコンテンツに飛ぶようになっているんです。
ここまで知っていた方は堕天使の槍マニアです(笑)
右も左も逝ってよし!!
バーチャルネット思想アイドルのやえです。
おはろーございます。
お相撲です。
最近何かと世間をにぎわせちゃっている横綱朝青龍さんですが、ドタバタの末3敗して休場しちゃいました。
三敗目になってしまった日の朝青龍さんの土俵入りでは、会場から罵声は飛ぶは、文字通り座布団は飛ぶはで、相撲の会場では珍しく殺気立ったかなり気まずい雰囲気に包まれていました。
まぁ朝青龍さんの今までの行動を振り返ってみると、先輩力士の旭鷲山さんに前回の取り組みで負けて後その土俵上でぶつかってガンを飛ばし、先日の取り組みではマゲをつかんで反則負けし、その後の風呂でまたガンの飛ばし合いになって、その日の帰り途中にエルボーで旭鷲山さんの車を壊したりと、もう前代未聞とはまさにこのことだと言ってしまえるような横綱の御乱行です。
いくら22歳と若いといっても、これはまさにガキの行動でしかないですね。
思い返してみると、朝青龍さんが横綱になる資格を得た時に、横綱審議委員からは「まだまだ心の部分で横綱としては相応しくない」といった反対意見も出されていました。
その時はまだ今よりは朝青龍さんのことが大きく取り扱われてはいませんでしたから、「それは外国人差別だろ」みたいな反論もよく聞かれていました。
でもよく考えたら今までも曙さんとか外国人横綱はいたんですから、単純な「差別心だ」と言うようなレッテル張りですまされるようなことではなかったんですね。
関係者や専門家の間では朝青龍さんのガキっぷりは有名だったということなのでしょう。
外国人を批判すると、すぐ「差別だ」と言うのは逆差別だと思います。
そもそも相撲というものは歴史を紐解きますと、それは「神への捧げもの」であり、つまり相撲は「神事」だったという歴史があります。
だからこそ今でも角界には独自の文化が残っていたりするんです。
で、相撲は神事ですから、つまり力士は司祭です。
一般的な宗教では、司祭が「祈り」を神に捧げるワケですが、相撲という儀式では「力士」という司祭が「相撲」という戦いを神に捧げるということになります。
では宗教儀式である相撲において、「番付」とはどういう位置づけになるのでしょうか。
現代ではただの「強い順ランキング」に成り下がってしまっていますが、しかし相撲は本来宗教儀式ということを考え直せば、単にそんな強い順のランキングではないことは一目瞭然でしょう。
では何の順位かと言えば、それは「神にどれだけ近づいているか」という順位なのです。
他の宗教でも似たよう理由で階級がありますよね。
カトリックでは司教とか大司教とか枢機卿ですね。
それらはみな、上に行けば行くほど「神に近づいている」のです。
相撲の中で一番神に近づいているのは、言うまでもなく横綱です。
その宗教の中でもっとも高位置に存在する、神の代理人とも言える神格化された存在です。
だからこそ全ての面において優れていなければならないのです。
相撲においては、ただ勝てば横綱になれるというわけではなく、現在では横綱審議委員会にて推挙される必要があります。
なにやらめんどくさく感じるかもしれませんが、しかし他の宗教を見てみれば、やはりだいたい最高位のクラスに在位するためには、複数の長老(年寄)達が話し合って相応しい人物を推挙するっていう形をとっていたりします。
つまりそういう形を取っている相撲も、宗教儀式であるという裏付けになっていると言えるのではないでしょうか。
ちなみに古代の相撲では、元々は横綱という階級はなく大関が最高位だったんですが、現代でも大関も年寄りから推挙されるという形を取っているということからも、同じ事が言えるでしょう。
残念ながら現在ではそんな儀式も形骸化してしまっています。
ただ「大関が二場所連続で二桁勝利」すれば横綱に推挙されてしまいます。
それでも一応審議はしているようですし、貴乃花のようにただ二桁勝利だけでは推挙されない場合もありますが、逆に二場所連続優勝してしまうと、これはもう審議するまでもなく横綱に推挙されてしまいます。
建前上「心・技・体」が揃っているかどうか、とか言ってますが、朝青龍さんの例を見ればそれが形骸化してしまっていることは一目瞭然です。
相撲はスポーツではありません。
現代では「宗教だ」と言おうとは思いませんが、単なる娯楽だけの見せ物興行のスポーツでも決してありません。
時々相撲の人気回復のために、プロレスのようにもっと派手にやれとか言ってる人がいますが、勘違いも甚だしいことこの上ありません。
本当の意味での相撲の人気回復を願うのであれば、もっと厳格にもっと重厚に、「これぞ相撲」と言われるような相撲になることが必要だとやえは思います。
繰り返しますが、横綱とは「最も神に近き存在」です。
ただ強いだけでは、相手に勝てる技術を持っているだけでは、神には近づけません。
もちろん神に近づくためには強さも条件の一つですが、しかしそれだけではないのは言うまでもありません。
だから横綱審議委員会はその力士が横綱に相応しくない、「最も神に近き存在」として相応しくないと判断すれば、いくらその力士が強くても推挙すべきではないと思います。
そもそも他の宗教なら最高位を推挙する長老達というのは、まずほとんどがその宗教関係者です。
しかし相撲においては、直接角界とは関係ない一般人も横綱審議委員会の委員になっておられます。
これは、相撲が一神教的な宗教の儀式ではなく、日本教とも言うべき日本の文化伝統歴史に根付いた日本そのもの的な宗教の儀式だからです。
だからこそ日本教の関係者である日本人の中から、日本の文化や伝統を重んじられる有識者の人から横綱審議委員会の委員を選んでいるのです。
日本教での相撲での最も神に近き存在として相応しいかどうかを、有識者のその日本の文化に根付いた経験の責任において審議するのが横綱審議委員会なのです。
だからこそ、なぜ横綱になるためには委員会にて推挙されなければならないのか、審議する必要があるのか、その意味を原点に立ち戻って考え直して欲しいと思います。
最近相撲の人気が下がってきたと関係者は嘆いていらっしゃいますが、それは相撲をただのスポーツとして見なくなってしまった角界関係者の責任でもあります。
近年の相撲は、ただ勝てばいい、勝つことだけを至上命題にしてきた傾向があります。
それが相撲の本来の意味を忘れさせてしまったのです。
昔なら相撲を取るということ、稽古すること、土俵で切磋琢磨することで、体と共に心も鍛えられていくモノでした。
しかし勝つことだけを目的にしてしまったために、稽古をすることということから心も鍛えるという部分がスッポリ抜け落ちてしまったのです。
以前なら、横綱になろうとするぐらいの力士ならば、それだけの稽古と切磋琢磨をしてきたので、自然に神に近づけるほどの心をも鍛えられてきたのです。
相撲の安易なスポーツ化が、儀式という儀式を形骸化してしまい、今の相撲の低迷につながったのです。
忘れてはならないことは、相撲は神事だということです。
そして力士は神職であるということです。
力士はけっして他のスポーツ選手と同じではないのです。
最近力士の怪我が多いのは稽古量が減っているからだといわれていますが、本来力士は寝る間を惜しんで、いえ力士は寝るのも仕事ですから、遊ぶ間を惜しんで稽古に励まなければならないはずなのです。
力士は神に仕えし人間なのですから。
もし横綱としてその力士が相応しくないなら推挙しないようにして欲しいです。
いくら世論が「二場所連続優勝したのに」と言ってきても、「それだけでは神に最も近い存在としては相応しくない」とキッパリ言えばいいんです。
外面だけを気にして一見さんのファンばかりを獲得しようする考えはもうやめてもらいたいです。
そんなにわかファンは歴史ある大相撲には必要ありません。
体力も技術も心も全ての面において優れている人間こそが、最も神に近いと相応しい力士なのです。
そしてそれをこれからはもっと厳格化してもらいたいと思います。
そうすることによって、横綱もそうですし、それ以下の力士にも緊張感が出てきて、角界全体に責任感と緊張感が出て、その結果相撲というものが本来の意味で盛り上がることができると思います。
「最も神に近い存在」横綱を筆頭に、以下、神にその戦いを捧げる司祭達というのが、大相撲の本当の姿なのです。
この本来の姿を取り戻した時に、大相撲の人気回復につながるのではないかと思います。
バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、大相撲を応援しています。
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