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平成18年4月17日

 地方分権は国のためになるのか

  地方分権について考えてみたいと思います。
 
 まずやえのいまの心境を言っておきますと、この問題に関してはあまり賛成とか反対とか強い意見というモノをまだ持っていません。
 なんだかんだいって、この問題、あまりそこまで具体的な詳しい議論というモノはまだ国民の間でもされてないような気がします。
 いまの段階は、地方分権という言葉だけが一人歩きしているような感じであり、まだまだ結論を出すほどの様々な人の意見や議論を聞いたコトがありませんので、やえとしましまても、どっちかに決めるほどの強い意見は持っていないワケです。
 
 ただし、最近の地方分権に関する意見を聞くに、どうも是非の議論というモノは全然されておらず、むしろ「地方分権=正義」という、すでに結論ありきの意見が横行してしまっているような気がしてなりません
 時には「地方分権にすれば全ての問題が解決する」ぐらいの勢いの意見もあったりします。
 正直これらについてはやえはかなり懐疑的です。
 というワケで、やえが意見を言う場合には、これらのカウンターという場合が多くなりますので、おそらく今日もそうなると思いますので、どっちかと言えば地方分権に反対っぽい意見になると思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 さて。
 最近の日本で地方分権というとほぼ道州制のコトを指し示す感じになっています。
 道州制とは、日本をいまの地方に大きく分けて、そこで地方分権を推進しようという方法です。
 おそらく道州制が導入されると日本は、北海道・東北州・北陸州・関東州・東京都(首都圏)・中部州・関西州・中国州・四国州・九州州・沖縄州と、多くても11州ぐらいになるのではないかと言われています。
 中国四国州や九州沖縄州にしたら9つの州になりますね。
 
 しかしやえは、そもそもこの考え方自体にまず懐疑的なのです。
 どうして地方分権が道州制になってしまうのでしょうか。
 ハッキリ言って、これひとつの区切りとしては大きすぎると思います
 人間が1つとして実感できる区切りとしては、あまりにも地理的に大きすぎるのです。
 
 というのもですね、これは帰属意識の問題なのですが、やえは広島出身なのですけど、道州制となった場合、果たしてやえは「中国州出身」というところに帰属意識が持って行けるのかと考えたらですね、やっぱりちょっと無理なんじゃないかと思っています
 そもそも広島出身と言ってもやえの場合は広島市内の出身ですのでさらに広島市あたりぐらいに限定されるワケで、広島県第二の都市である福山市の人と東京で会ったりして、「同じ広島出身ですねー」という会話はするかもしれませんが、おそらくお互いに内心「ちょっと違うな」という意識が働かざるを得ないところが出てくると思われます。
 まして、こういうのは失礼ですが、広島県の郡部の方は、地名は聞けば分かりますが、具体的にどの辺でどうやったらそこに行けるのか、正直分からないところがあります。
 関東のように網の目のように交通が発達しているワケでもないですしね。
 このように、広島の中だけでもなかなか帰属意識を統一するコトは難しいワケですから、さらに中国州なんて言われても、どうしようもないとしか言いようがなくなってしまうのではないかと想像できるのです。
 
 帰属意識は大切です。
 というより、人間から帰属意識を無くすコトはできません。
 先ほどの例えの「同郷の人」というのも、思いっきり帰属意識がなせるワザですよね。
 また、帰属意識がなければ行政だってうまく行きません。
 結局広すぎる行政区分の道州制が導入され、帰属意識が確立しないような中で行政を進めていったとしても、結局はその中で自然発生的に生まれる帰属意識のコミュニティー間による綱引きが産まれてしまうコトになるのではないでしょうか。
 つまり、元広島人が「なんで元岡山のために税金を投入してやらなければならないんだ」という考え方がどうしても発生してしまうのではないかというワケですね。
 帰属意識があれば、その中のコミュニティー全てのためという考え方が出来ますが、道州制ではそれが出来ないですから、あまり意味のある区分の仕方とは思えないのです。
 結局は同州の中でのさらに細かい区分による綱引きがはじまり、これではなんのために道州という区分にしたのか、それでは今までの日本という枠組みの中の都道府県とどう違うのか、全く意味をなさなくなってしまうワケです。
 
 いえ、まだ日本という枠組みの中での都道府県という区分の方がマシだと言えます。
 というのも、日本という枠組みは、これは人工的に区分されたモノではなく、一部の地域を除いて、自然発生的に日本列島の大部分がもう数千年も前から同じ民族同じ帰属意識を共通して持てる区分けだからです。
 これは日本の歴史・国史のすばらしさであり、幸運さでもあるのですが、日本は自然発生的に日本が生まれたからこそ「一つの日本」として物事を考えるコトが出来やすいところがあるのです。
 徹底された地方分権がしかれていた江戸時代においても、黒船が来てからはひとつの日本としてどうすればいいのかというコトを大なり小なり全ての日本人が考えるコトができたワケです。
 
 しかし外国では必ずしもそうでない国は案外たくさんあるのではないでしょうか。
 イラクなんかはその最たる例で、部族という単位でしか物事を考えられない人もたくさんいます。
 これからどう「イラクというアイディンティティ」を生み出していくのかが“イラク人”にとっての課題となるでしょう。
 また、実は中国も多民族国家であり、今までの歴史においても様々な民族がシナ地域の覇権を握ってきていますし、今でも共産党というイデオロギー、または反日というイデオロギーでなんとか国をまとめようとしているワケです。
 そしてアメリカこそが一番イデオロギーが無ければまとまれない人工国家と言えるでしょう。
 アメリカは人工的に州を区切り、高い自治を与えるコトによってある程度の帰属意識を作り、それらをまとめるコトによって国家として成り立っているワケですね。
 
 しかし自然発生的に生まれた日本という国は、特に特別なイデオロギーがなくても、ひとつの国として意識をまとめるコトが出来ます
 つまりこれは、国家としての統一された帰属意識を人工的に作らなくていいというコトです。
 これは国家を一つにまとめるという本来なら国家機関が最も苦心しなければならない最重要課題を、日本という国は考える必要がないワケですから、こんな幸せなコトはないワケです。
 
 となれば、本来は人工的な帰属意識区分を作る必要は全くないんですね。
 むしろそんなモノは邪魔なだけです。
 道州制にしてしまうと、一番大きな区分けである国というカテゴリーはいいんですが、その次にあるカテゴリーが不自然的なモノであり、しかしその下にさらに自然発生的なカテゴリーがほぼ必ず生まれるワケで、これは完全に混乱の元というか、逆に州の様々な権力争いに奔走して国というカテゴリーをおろそかにしてしまいかねません
 ですから、ある程度地理的な帰属意識が自然発生できる区分である都道府県の方が全くマシなのです。
 そもそも地方分権とはこのような状態に陥りやすいだけに、むしろそれを推進してしまうような道州制はいかがなモノかと思うワケです。
 
 ですからやえは、道州なんていう不自然な区分けにするのではなく、地方分権を進めたいのであれば、むしろ江戸時代にあった藩ぐらいの区分けにする必要があるのではないかと思うのです。
 やえにはどうしても分かりません。
 地方分権とは、その地方の特性にあったきめ細かいサービスを提供するためにするというのが大義名分だったと思うのですが、それなのにその地方の区分けを大きくするというのは矛盾なのではないかと思うのです。
 まして帰属意識が持ちにくい区分けにすれば、さらに「その地方の特性にあった」というサービスは無理なハズです。
 やえには地方分権のために道州制というのがどうしても理解できないのです。
 
 まずここに、最近の地方分権と道州制に対する疑問が生まれるワケです。
 
 
 
 (つづく)

 

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平成18年4月18日

 地方分権は国のためになるのか(下)

 (つづく)
 
 ですからやえは、道州なんていう不自然な区分けにするのではなく、地方分権を進めたいのであれば、むしろ江戸時代にあった藩ぐらいの区分けにする必要があるのではないかと思うのです。
 やえにはどうしても分かりません。
 地方分権とは、その地方の特性にあったきめ細かいサービスを提供するためにするというのが大義名分だったと思うのですが、それなのにその地方の区分けを大きくするというのは矛盾なのではないかと思うのです。
 まして帰属意識が持ちにくい区分けにすれば、さらに「その地方の特性にあった」というサービスは無理なハズです。
 やえには地方分権のために道州制というのがどうしても理解できないのです。
 
 まずここに、最近の地方分権と道州制に対する疑問が生まれるワケです。
 
 
 やえの地方分権・道州制への疑問はもうひとつあります。
 
 道州制への完全移行の理想型として、権限・税源・人の移譲を完全に行うコトが必要だと言われているワケですが、やえが思うに、これを達成してしまったらますます「地域格差」が広がってしまうのではないかと思います。
 簡単な話ですが、権限や税源が完全に同州の地方に移れば、つまりはその地方の人たちだけから税金を徴収するコトになるワケですので、人口の少ない中国州や東北州は税収が少なく、人口が多く産業も発展している関東州や首都圏は税収が格段に多くなるワケで、これでは完全に「勝ち組・負け組」が決まり固定化してしまうのではないでしょうか。
 現在の制度では地方交付税というモノがありますが、実は東京都はこれを受け取っていません。
 もちろん地方交付税が無くても完全に東京都はやっていけているとは言いませんが、しかしそれでも受け取らなくてもなんとかかんとかやりくりできているというのは確かです。
 また、もちろんある程度は人口比率に応じているのでしょうけど、それでも地方交付税は完全に人口比率で綺麗に各道府県に割り振られているワケでもありません。
 人口が少なく、産業も少ない地方都市だからこそ、ある程度税金を投入し発展を促すよう、そういう役割も地方交付税は担っているワケなんですね。
 しかし税源が完全に移譲してしまえば、当然この交付税制度はなくなり、その地域だけで税収を賄うようになるのですから、ますます地方間の格差は広がっていくコトになるでしょう。
 
 最近格差論が盛んですが、まぁやえはあまり好きじゃないんですけどね、この格差と呼ばれているモノが絶対悪で究極的に格差を無くそうとすれば、どうしたらよいとお思いでしょうか?
 これはですね、税率を100%にするコトです。
 国民全ての稼ぎをいったん全て国が預かり、その後完全公平に再分配すれば、これで格差は全くなくなるワケです。
 もちろんこれは極論です。
 しかしこの例が示していますように、税金とは所得の再分配という役割も帯びているんですね。
 それなのに今までの地方税をメインにしてしまうと、これはもう考えるまでもなく、地方間での格差が広がってしまうと言えるのです。
 
 だからといって道州制にしてからもやっぱり国税をメインにしよう、とはならないでしょう。
 いくら権限を移譲したところで、実際にはお金を握られてしまえばそれは単なる有名無実な権限でしかなくなります。
 ですから、権限と税源は必ずセットで移譲しなければ地方分権は達成されません。
 しかしそれを移譲してしまえば確実に地方間格差は広がっていく一方になるワケです。
 
 よく「国会議員は外交や防衛など国家に関わる事項だけを考えればいい。利益誘導に繋がるような地方のコトは考えなくてもいい。だから地方からの選挙区選出もやめたほうがいい」と言う人がいます。
 しかしやえはそう思いません。
 いくら日本人が自然発生的に帰属意識を国単位に統一できる民族だと言っても、それは決してどこに住んでいても全くの単一的な考え方をするという意味ではありません。
 その地方には地方独特の考え方や、その地方の特殊事情があります。
 近代だけで見ても、軍都として栄え一時大本営まで置かれそして原爆が落とされた広島と、長らく日本の首都であり様々な意味で日本の中心を担ってきた東京と、さらに唯一陸上戦となった沖縄と、やはりそれらは歴史的事情もそこに住んでいる人の考え方も全く異なります。
 そして選挙という意味で言えば、広島の一票と東京の一票と沖縄の一票では、やはり意味合いも大きく異なっていると言えるのではないでしょうか。
 日本の国政とは、これらの様々な地方の意見が織り交ぜ合わさって出来上がるモノだと思います
 決して、様々な地方に暮らしている人の事情や歴史観を無視した、全くの無味乾燥な一票だけで国政が作られるとは、やえには想像も出来ません。
 
 本来国会議員とは、こういう地方の特性と、そして国政に目を向ける高い見識を兼ね備えた、絶妙且つ微妙なバランスの元で成り立つモノではないのでしょうか。
 税金一つとってみても、自分の選出された地方のために分配を多くしようと考え、またそれは他の議員も同様で、そこで国政を預かる国会議員として意識を持っている人たちによって様々な折衝がなされて出るその結果というのは、絶妙且つ微妙なバランスが取れていると言えないこともないんですね。
 つまりこの絶妙且つ微妙なバランスによって、ある意味東京都から集まった税金が、過疎地の産業振興のために使われていたりしているワケです。
 そしてそれは、ひとつの国家としての日本として、日本の発展のために役立っていると言えるのではないでしょうか。
 
 しかしこれは道州制では成り立ちません。
 道州制では最終的な権限の問題で結局は道州のコトまでしか考えなくなるようになってしまいかねません。
 つまり地域エゴです
 いくら外交や防衛などを国政に任せると言っても、しかしそれだけでは国家としては成り立たないのではないでしょうか。
 江戸時代の地方分権は、ある意味人間が感じ取れる帰属意識の中の小さな範囲での権限と、現代の国家間ぐらいの厳しい藩と藩との行き来が制限されていた関所の制度と、そして鎖国というほとんど外国を意識する必要がなかったという制度に支えられたコトによってはじめてそれぞれの藩に高い自治を与えても問題は無かったと言えるのではないかと思うのです。
 しかし現代はそうはいきません。
 道州制はこれらに全て反目します
 道州の範囲は広すぎますし、人の行き来を制限するコトは出来ませんし、鎖国なんて以ての外です。
 むしろ鎖国制度が崩壊した黒船来航から開国までの時期というのは、視野が狭く待ってしまいがちな藩制が日本にとってかなり足を引っ張ってしまったというのは紛れもない事実でしょう。
 それなのに、なぜ道州制こそが素晴らしい制度なのか、やえにはよく分からないのです。
 
 国政は外交や防衛だけをすればいいというのは、ある意味現実不可能な理想論でしかないのではないでしょうか。
 一番大切なのは、「足が地に着いた国政」だと思います
 最近また愛国心の議論が盛んになりつつあるようですが、愛国心もまず先にあるのは愛郷心でしょう。
 愛郷心があってこそ愛国心が成り立つんだと思います。
 先の大戦での特攻隊の方々も、国を守るという大きな使命のおおもとには、自分の愛する人、家族・友人・恋人など身近な人を守るためという心からの願いがあったからこそ、あのような壮絶な作戦を取るコトができたのです。
 やはり「地域を無視したような国だけのコトを考える」というのは無理だと思います。
 まずは自分が生まれ育った自分の歴史というモノがあってこそ、それが日本という枠組みにまで考えを広げられるのではないでしょうか
 そう言う意味で、地域から選出された国会議員という存在は絶対に必要だと思いますし、様々な地域の特殊事情をそれぞれ反映しながらの国政というモノも絶対に大切にしなければならないコトだと思います。
 
 最近の地方分権・道州制の議論というのは、ほとんどが経済的メリットや、効率性の問題ばかりが言われています。
 しかし国政というモノは、決して効率的な考え方だけで動くモノでは決してないでしょう。
 そう言う意味で、この観点からも、そして前回の観点からも、やえはやっぱり地方分権・道州制に疑問を持たざるをえないのです。
 
 
 地方分権・道州制の議論をするコトには異を唱えるところはありませんが、しかし最初にも言いましたように、最近は「道州制=善」というスタンスでしか議論がされていません。
 しかしいままでの国民的議論の中で、「果たして地方分権と道州制は本当に素晴らしいモノなのか」という議論や、「道州制にした場合のデメリットはなにがあるのか」という議論がさっぱりされていない気がします。
 本来はまずこういう議論を先にやるべきコトなワケでして、やえはこれがなされない限りはこの問題に関しての結論を出せませんし、賛成も出来ないワケです。
 
 これからも疑問があったら言っていきたいと思います。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、地方分権・道州制を応援できません。
 

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平成18年4月19日

 中身無き格差論争

 もうすでに選挙期間に入ってますので、どっちの候補者がどうだとかなんとか言うつもりはないんですが、しかしあまりにもこれはどうかと思いますので、ちょっと触れたいと思います。
 
 というのも、千葉の衆議院補欠選挙なんですけどね、民主党の候補の人が現在大々的に掲げているキャッチフレーズがこういうモノなんです。
 
 「負け組ゼロへ」
 
 はぁ〜↓。
 格差の議論全体的にそうなんですが、この勝ちとか負けとかいうその基準というのは、あくまで比較論です。
 勝ちがなければ負けもないですし、負けがなければ勝ちもありません。
 つまりですね、この候補者が言っているコトは「勝ち組もゼロへ」っていう意味に他ならないワケです。
 
 日本のどの時期においても「負け組ゼロ」なんて時期はありませんでしたし、世界においてもどこを見渡しても「負け組ゼロ」なんて存在したためしがありません。
 もし唯一あるとしたら、共産主義・マルクス主義の本に書いてある中だけのお話でしょう
 そうです、この候補者と民主党が目指している社会とは、つまり共産主義なんですね
 
 もし「負け組ゼロ」という社会を本当に実現したいのであれば、民主党ではなくて、共産党に投票した方がいいでしょう。
 まぁしかしこんなのは、日本共産党すら掲げていない主張なんですけどね。
 
 もし格差の議論をするのであれば、出来るコトは、勝ち組をいかに少なくするか、というコトが限度でしょう。
 そもそもどのような根拠を持ってどういう定義でもって「勝ち組」とか「負け組」としているのか分からないのですが、変な話、今の日本人の上と下の差をギュッと圧縮したとしても、それでもさらにその中で格差は当然存在するワケです。
 1から100あったとして、それを25から75にしたとしてもですね、やっぱり差はあるワケですよね。
 ですからまぁこの数字の例のように具体的なデータをもって「差を50の間に縮めるコトが良いコトだ」と主張するのであればまだ分かるのですが、しかしただの「負け組ゼロ」では理屈が通らないんですね。
 一体具体的にどうしたいのか、それがさっぱり分からないワケです。
 最近よくやえは「格差の話は好きではない」とよく言ってますが、何が一番イヤかと言えば、このように論拠のないただの印象だけで全てを決めてしまうような、結局は印象操作合戦になってしまうのでイヤなんです
 本来なら、「差が50なら本当に問題がないと言えるのか。ではなぜ100の差はダメなのか。そもそもその1から100という数字は妥当な数字なのか」、こういう議論をですね、まずしてから、その次に、では格差は良いコトなのか悪いコトなのか、もし悪いコトであればどうすれば改善できるのか、こういう順番になるワケです。
 しかし「負け組ゼロ」というキャッチフレーズは、このような本来あるべき議論を全くすっ飛ばして無視して、ただただイメージだけで票を得ようとしている行為なんですね。
 しかも絶対に現実不可能な。
 これは有権者をだましているとも言えるワケですし、さらに本来あるべき議論をさせまいと忘れさせてやろうという悪意すらまき散らしていると言えてしまうのではないでしょうか。
 
 だからやえはこの格差の議論はイヤなのです。
 「負け組ゼロへ」なんていうトンデモナいキャッチフレーズが国政選挙において公然に使われ、しかもこの民主党の候補者はいまのところ優勢に選挙戦を進めているっていうんですから、それを主導する民主党もさるコトながら、国民に対してもやっぱりうんざりしてしまいます
 それが素晴らしい公約だとどうして思えてしまうのでしょうか。
 結局はイメージでしか選挙を考えていないと言うか、「格差議論」も所詮具体的なビジョンのない、イメージだけの、さもすればレッテルだけの押し問答にしかなっていないというのが、これでハッキリしたと言えるでしょう。
 
 選挙にしろ、国会議論にしろ、いつまで中身のない空虚なイメージレッテル論争に終始するんでしょうかね。
 

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平成18年4月20日

 小泉メルマガレビュー

 小泉内閣メールマガジン 第231号 ========================== 2006/04/20
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 [らいおんはーと 〜 小泉総理のメッセージ]
 ● もったいないふろしき
 小泉純一郎です。
 今週火曜日、都内で開かれている「FUROSHIKI」展に行ってきました。
 
 こんにちは、やえです。
 えーと、一瞬「KONISHIKI」展に見えました。
 ごめんなさい(笑)
 
 風呂敷というのは、日本の伝統的な知恵だと思います。一枚の布が、かたちを変えていろいろなものを包む。四角い箱はもちろん、大きなスイカもお酒の一升瓶もすっぽり包める。使わないときは小さくたたんでおくことができる。
 いま、スーパーマーケットなどで使うレジ袋は年間で60万トン、使用後はゴミになっているそうです。
 こういうところに風呂敷を使えば、ゴミを減らすことができるし、ものを大切にする循環型社会を考えてもらうきっかけになるかもしれない。そういう考えで、小池環境大臣が「もったいないふろしき」を作りました。ペットボトルをリサイクルしてつくった布地に江戸時代の花鳥図をあしらった、スカーフにも使えそうなすてきな風呂敷です。
 
 ちょっと前から話題になってますよね、レジ袋をやめてふろしきを使おうっていうの。
 もちろんこれは素晴らしいコトだとは思うんですが、ただやっぱりレジ袋も便利であるのは代え難い事実だとも思います。
 確かにすいかも酒瓶も風呂敷で包めますが、しかしこのふたつを両方包もうとおもったら、それは出来るのでしょうか?
 例えばタマゴとお豆腐と1.5lペットボトルと野菜を同時に包めるのでしょうか。
 やえはちょっとこわいです。
 包める方法があればまぁいいんですけど、どうなんですかね。
 あとやえはレジ袋はゴミ袋として使ってますから、なくなればなくなったでちょっと困ります。
 
 展示会には、「もったいないふろしき」のほかに、このアイデアに共鳴した約30人のデザイナーや芸術家が創作した美しい風呂敷が出品されていました。歌舞伎の隈取りや音楽の楽譜をデザインした風呂敷、いろいろな包み方を描いた風呂敷など、楽しい風呂敷がいっぱいありました。
 昔は、贈り物を届けるときには、なんでも風呂敷に包んで出かけたものでした。届け終えると、たたんでしまって帰る。荷物にならない、家でも場所をとらない、便利このうえありません。
 
 見て綺麗なのはいいですよね。
 しかも日本の伝統的な文化を反映させやすいですし、というかもともと風呂敷が日本の文化ですしね、そういう美しさは大切にしたいですね。
 まぁ結局は場合によるのでしょうか。
 風呂敷に包めるモノは包んで、無理なら他の袋に入れると。
 
 メルマガでは、クールビズや打ち水など、環境問題のために身近で誰にもできることを紹介してきましたが、これからは風呂敷のよさも見直していただいて、日本の伝統文化を味わいながら環境を守っていけるよう、みなさんにも考えていただきたいと思います。
 
 じゃあ小泉さん、まずは小泉さんが風呂敷片手に登院してください(笑)
 そろそろクールビズの季節ですから、かりゆしウェアにスイカを風呂敷に包んで国会議事堂に登院するところをマスコミに報道してもらいましょう。
 絶対に「なにあれ?」と話題性は抜群ですよ(笑)
 
 環境保護と経済発展を両立させる、そのために、ものを大切にする「もったいない」という心をもって、ゴミを減らす「リデュース」、使えるものをくりかえし使う「リユース」、資源を再利用する「リサイクル」の「3つのR(アール)」の運動を進めていきたいと思います。
 
 おっと、また新しい提言です(と思ったら、もともと環境系では常識的なお話のようです)。
 でも正直「3つのR」はちょっと分かりづらいです。
 ので、やえがさらに変化して提言してみます。
 「Re:3」運動。
 ・・・なんだか迷惑メールみたいになってしまいました(笑)
 
 昨日、衆議院の委員会で行政改革推進法案が可決され、今日の午後、衆議院本会議で採決される予定です。
 現在行政が担当している仕事でも、もっと民間に任せることはできないのか、民間の創意工夫を活かすことはできないのか、という視点に立って行政を簡素で効率的なものにする、公務員の定員も5年間で5パーセント純減させる、そういう大事な改革のための法案です。
 参議院における審議でも、質問にていねいに答弁して、一日も早く法案を成立させ、行政改革を加速させていきたいと思います。
 
 ちょっとだけ、菅直人さんとの討論を見たんですが、菅さん相変わらずでしたね。
 いつもいつも菅さんは「総理は答弁をはぐらかす」とか言ってますけど、むしろいつも菅さんの独りよがりにしか見えないんですよね。
 総理以外の答弁者に対しても、その答弁を自分の勝手な解釈に変えて、次の質問の前に「やっぱり〜〜という答弁でしたね」とか言うのです。
 昨日の更新とも繋がるところがありますが、討論をしようと思っているのではなく、ただ国民にアピールしようとしかしていないワケです。
 うんざりです。
 
 ま、それはともかく、小泉さん、次は参議院ですので、がんばってください。
 
 
 
 [特別寄稿]
 ● わが国の存亡が懸かる科学技術
  (独立行政法人理化学研究所理事長 野依良治)
 現代においては、ほとんどすべての経済・社会活動に科学技術がかかわる。「力量ある科学技術」こそ人類社会の持続的発展と、活力ある明日の日本の創生の原動力と言える。他のいかなるものをもってしても、わが国の繁栄の基盤たり得ない。
 
 その通り!!
 
 最近、世界の第一線で活躍する多くの科学者たちが、わが国の基礎科学の発展に敬意を表するようになった。また、国の基礎科学に対する腰を据えた投資姿勢も評価されている。
 
 やんややんや!!
 
 しかし、米国や中国の国全体の研究費は毎年10%以上伸びており、わが国の年平均の伸び率1.8%と比較して一桁多い。科学技術への投資は、未来への投資であり、一歩でも後れをとることがあってはならない。他方、研究社会も国の経済情勢と国際競争の厳しさを十分に認識し、限られた資源を有効に活用して優れた成果を創出し、また鋭意にイノベーションに導かねばならない。
 
 な、なんだってーっ!!!
 
 科学技術は人間の叡智の結集の賜物である。わが国では現実に、過去10年間の投資によって、基礎科学分野を中心に大きな成果が得られた。カーボン・ナノチューブや青色ダイオードの発明、ニュートリノ質量や113番元素の発見、ヒトゲノム全解析を始めとするライフ・サイエンス研究の成果は、国際的に極めて高水準であり、欧米に決して後れをとるものではない。今後の課題は如何にしてこれらの成果を社会還元するかである。
 
 ががーん!!!!
 
 ごめんなさい。
 話が難しくてよく分からないのです(笑)
 だってこの後も、「国益確保に向けたオールジャパン体制の「バトンゾーンの構築」が不可欠である」とか「第2期の21兆円からのプラス4兆円をぜひイノベーションに導く科学技術システム改革にあてていくことが必要と考える」とか、全然わかりませーん。
 とにかく今が大切な時期であるというコトは分かりました(笑)
 
 
 
 [編集後記]
 東京は清々しい新緑の季節になってきました。桜前線も順調に北上して、今は、東北地方に桜の便りが届いているようです。
 先週土曜日、東京の新宿御苑で小泉総理主催の「桜を見る会」に出席しました。八重桜が満開で、天気も良く、すばらしい花見になりました。フィギュア・スケートの浅田真央選手など、スポーツ界や芸能界からも多くの方が招待されていました。私が初場所で総理大臣杯をお渡しした栃東関も来ておられ、来場所は勝てよ、と激励しました。
 
 最近よく言ってる気がしますが、やえのやえは八重桜のやえですっ。
 小泉さん、今度はやえも誘ってください。
 
 ・・・あ、小泉さん、来年はもう総理じゃないんですよね・・・。
 残念です・・・。
 
 私の地元、富山はチューリップが有名ですが、昨日、富山特産大使の3名のお嬢さんが官邸に春の便りとしてチューリップを届けに来られました。となみチューリップフェアは明日開幕します。今週月曜日には立山黒部アルペンルートが開通しましたし、今が一番美味しいホタルイカや白えび、富山湾の神秘の蜃気楼など、本格的な観光シーズンの到来です。今度のゴールデンウィークには、皆さん、是非一度富山にいらして、特産のます寿しを味わってみてはいかがですか。(じんえん)
 
 「3名のお嬢さん」って(笑)
 そしてやっぱり地元の宣伝を小泉メルマガでやってしまうじんえん先生。
 公私混同ですよ(笑)
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、らいおんはーとを応援しています。
 

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平成18年4月25日

 補欠選挙と地方自治体首長選挙の結果

 ごめんなさい。
 ちょっと体調を崩してしまいまして、お休みを頂いていました。
 週末いつも更新しないから一緒じゃないかと思われの方、ごめんなさい(笑)
 というわけで、病み上がりで本調子でありませんので、お見苦しい点があるかもしれませんがお許しください。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 で、先週末は選挙ラッシュで、千葉での衆議院議員補欠選挙が行われ、また同時に各地方においてさまざまな選挙が行われました。
 広島だけでも、二つの市において市長選挙がなされたワケですが、やえは特に東広島市の市長選挙の結果はとても興味深い結果が出たのではないかと思っています。
 
 千葉の補選の方は、「負け組ゼロへ」のタイゾーちゃん先生より若い人が当選したワケですが、これについて「小泉手法がもう通用しなくなった」とか「全開の衆議院選挙の勢いは止まった」とか「小沢への期待の高さが証明された」とかいろいろ言われていたりしています。
 しかし、そもそも補選というのは今回に限らず全てに言えるのですが、全国から注目されるワリには投票率が低かったり、地元の人たち(だけ)は大して盛り上がらなかったり、よってその地元独特の事情が一番よく反映される選挙だったりするモノです。
 ので、補選だけで国政の流れ全てを判断するというのは、あまり適切ではないとやえは思っています
 今回の補選もあれだけなんだかんだとマスコミ的には騒がれていましたけど、投票率は50%に届きませんでした
 その上、票差は1000票以下という国政選挙ではかなりギリギリの差でしたし、これだけで国政の全てをどうこう言うのはやっぱり適切ではないのではないかと思います。
 
 ただ、なにが955票差という僅差を分けたのかと考えたら、それは中央vs地方という微妙な問題が孕んでいるのではないかとやえは今回感じました。
 「負け組ゼロへ」のタイゾーちゃん先生より若い人はこの選挙までは地元の県会議員をつとめていた地元選出の地域密着型と言えるのですが、自民党の候補の人は中央省庁バリバリのキャリア官僚さんで特に千葉にこれと言ったご縁のないいわゆる落下傘候補と言えるタイプです。
 候補者本人的にも、自民の方は官僚オブ官僚という感じだったらしいのですが、民主の方はいろいろな生活臭あふれるスキャンダルなども飛び交うような良い言い方をするのであれば「等身大」の候補者だったと言えるでしょう。
 この差が955票という僅差を生んだんじゃないかとやえは思っています。
 
 これがさらにハッキリ出たのが東広島市の市長選挙です。
 この選挙、自民党系の候補者が2人出てしまった、保守分裂選挙となりました
 今回当選したのは地元県会議員をつとめられていた方で、一方、残念ながら落選した方はあの自民党政調会長中川秀直先生の秘書もされていた実の息子さんでした。
 選挙の仕方も両極端で、記事にもありますように、中川先生の息子さんは中央から続々と自民党の大物が選挙区に入り街頭演説をこなす選挙戦でしたが、元県議の方は県議時代に築いた地盤を中心にじっくりと地元を歩く選挙戦を展開しました。
 その結果、蓋を開けてみれば一万票以上の差を付けているという地方選挙においてはこれはかなりの大差と言える差を付けての元県議の方の勝利であり、中川先生陣営としては厳しい現実を突きつけられた結果と言えるでしょう。
 
 中川先生と言えば、以前は官房長官をつとめ、また現在自民党の政調会長をつとめられ、ちょっと前までは国会対策委員長の任に当たり国対委員長在職期間最長記録まで更新したという、文字通り小泉内閣の屋台骨として活躍しておられる議員さんです。
 一昔前の女性スキャンダルのせいでもはや総理総裁や公職の大臣は難しいと言われていますが、これを逆に言えば、後は自民党の幹事長につくかどうかだけという、中川先生としてもいまこそが絶頂期であると言える議員なワケです。
 しかも広島県で言えば、かの大総理池田勇人の直系を受け継ぐ池田行彦先生はもう既にこの世の人ではなく、また元総理大臣宮澤喜一先生も引退され、さらに悪役ナンバー1として全国に名を馳せた亀井静香ちゃん先生も今は自民党を追われ落ちぶれてしまいました。
 つまり現在の広島県では中川先生が最も力を持っている議員であり、現職としても自民党の幹部であるという、広島に対してはいくらでも力を発揮できる地位にいるワケです
 しかしそれなのに、実の息子の選挙でこのような大差をつけられたワケです。
 これはあまりにも予想外の結果であり、そして国と地方との温度差の存在を改めて見せつけられた結果だとも言えるのではないでしょうか。
 
 前回の衆議院選挙、いわゆる郵政選挙では、小泉さんがゾクゾクと刺客という名の落下傘候補を全国に送り込み、その落下傘候補と地元自民党県連とのねじれ現象も話題になりましたが、それでも小泉自民党が大勝して、中央の強さを存分に発揮したワケです。
 国民の論調の中にも「自民党のトップである小泉総裁が掲げた公約なのだから、自民党議員は従うべきだ」という声が高まり、一定数以上の支持を得られたと言えるでしょう。
 これは小選挙区制の特徴とも言えるワケですが、どっちかと言えば候補者本人ではなく、「自民党なのか民主党なのか」という政党の評価を投票の際の重要な要素として考えるようになった結果です。
 小泉さんの自民党内での政策部分での手法と同じで、いわゆるトップダウンの手法ですね。
 
 しかし今回の千葉の補選や東広島市長選挙は、そのような構図にNOを突きつけた格好になったワケです
 もちろん最初に言いましたように、補選とはそもそも国政の事情があまり反映されない選挙ですし、また市長選挙の方こそ地元の事情が反映されるモノではありますが、どちらも元県議と中央肝いり候補との対決という分かりやすすぎる構図でどちらとも地元密着の県会議員が勝ったというのは、ある意味象徴的と言えるんじゃないかとやえは感じました
 小泉さんはこれで最後の国政選挙となり、来年の参議院選挙は次総理の下で行われるコトになるワケですが、この結果を踏まえ次の総理はどのような戦術をとるのか、注目したいと思います。
 

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平成18年4月26日

 韓国人は本音をぶちまける

 今日はまず、このブログさんの記事をご覧ください。

 大使激怒 日本大使の前で、ヒロシマ原爆をネタに下品に笑う韓国人
 
 韓国が外国貴賓を招いた会での事。
 ビールの泡を見ながら
 『泡が原爆の煙のようだ。広島原子爆弾酒だ』
 と発言。
 それを受けて盛り上がる韓国人達。
 わざわざ別カメラを用意し日本大使の表情を撮影。
 一人、険しい顔で屈辱に耐える駐韓大島日本大使。

 これだけではちょっと分かりづらいですので、詳しくはリンク先をご覧ください。
 
 で、まぁ、なんと言いましょうか、広島出身のやえとしては、やっぱりいろいろと沸々とわき上がる感情というモノが出てきちゃいます。
 もうタイトルにもありますようにあまりにも下品な反応を直にぶつけられているワケですから、なんともしがたい、こういう場では言うのも憚るようなコトを考えてしまいかねません。
 とりあえず、落ち着いて、まずは正論を言ってみましょうか。
 
 これについて、いつも通りに「日本人だって下品なコトを言う人はいる」とか言う人もいるんですが、それはちょっと違うと思います。
 というのも、この発言がされた場というのは、日本の大使を招いた公的な場(政府主催かどうかは分かりませんが、“大島何某さん”ではなく“日本大使”として招く以上は公的な場と位置づけられるワケです)であるのですから、これはそこらの名も無き一般人の発言とはやはり異なります
 また「日本の政治家や役人だって失言はするだろ」と言う人もいるかと思いますが、しかし今回のは日本の大使を目の前にして言っているワケですから、やっぱり事情は異なります
 いくら失言王・森元総理だとしても、さすがに相手を目の前にして悪口失言は絶対にしないでしょう。
 むしろあの人の性格なら、必要以上に相手を持ち上げてリップサービスをすると思います。
 そもそも大使という役柄は、外国における本国全ての象徴と言ってもいいぐらいの存在であり、大使をバカにされるというのは日本国家と日本国民をバカにしていると言ってもいいワケですから、向こうがわざわざ招いた上にわざわざ目の前で雑言たれるというのは、あまりにも悪質かつ悪意をむき出しにしていると言っても過言ではないのです。
 むしろ日本の政治家の失言の場合、多くはマスコミがオフレコであるのにも関わらずそれを無視して公表してしまうという闇討ちまがいな方法で失言が生まれる場合が多いワケですが、韓国の場合は自らが公の場に出てきてしゃべりまくるワケですから、基本的な性質からして全く異なると言ってもいいのではないかと思います。
 この2点において、今回の件が、日本で語られるような一般論では片付けられない点であるワケです。
 
 正論を続けるのなら、このような点から日本は正式に韓国に抗議をするべきでしょう。
 少なくとも遺憾の意ぐらいは表明する、もしくは駐日韓国大使を呼びつけるぐらいのコトはすべきではないかと思います。
 例えこのようなバカ騒ぎをした韓国人が一部の人だけだったとしても、例えばどこかの国で日本大使が拉致された時にその国が「一部の犯罪者が犯したコトなので我が国としては知りません」と言って問題が無いのかと言えば、これは全く無茶苦茶な話ですよね。
 まして今回のは韓国政府の公的な立場に就いている人、それが議員なのか公務員なのか分かりませんが、そういう「韓国を代表する人」という立場の人が犯したコトなのですから、これは相当に問題のある行為なのです。
 これらの点をまず正論というか、公論として、日本人としては頭に置いておく必要があるでしょう。
 
 さて公論はおいときまして、では次に、この件を材料に韓国人という人種について考えてみたいと思います。
 最近・・・というコトでもないですね、だいぶ昔から、まだ日本に保守ブームが来る前から、当サイトとしては韓国のちょっとアレな言動についてよく観察してきましたから、いろいろと蓄積の中で思うところがあるんですけど、もちろん今回の件について「さすがにこれはちょっと…」と思う韓国人もいるワケです。
 例えばこちらの方のような反応をされている人もいらっしゃいます。
 また、いつぞやのWBCの時の、韓国野球協会の会長かだれかが「再戦させろ」とワケの分からないコトを言ったと紹介したときも、某韓国のお友達も「これはひどすぎる」という感想を言ったと紹介しましたね。
 ですから、全ての韓国人が本音からこのように思っているというワケではないのでしょうし、またこのようなアレな言動をする人たちに対して憤りを感じる韓国人もいるっていうは、動かしがたい事実なのは確かだと思います。
 
 ただ、ここにひとつ日本人と韓国人の大きな気質の差があると思うのです。
 というのも、今回の件に限らず、日本人が韓国人に対して「いい加減にしろ」と思うその心理の中には、実は2つのポイントがあって、その中の一つがとても両者にとって大きな差異に繋がってしまっているので「これはもうダメかもしれません」となってしまうのではないかと思うのです。
 
 その2つの点とは、1つは言うまでもなく、発言そのものの内容についての是非です。
 まぁこれについては日本人としてはトンデモナイと普通は思うでしょうし、また韓国人の中にも同様に思っている人がいるようです。
 あまりにも人をバカにしすぎた発言だと言えるでしょう。
 
 しかしもう1つの点において、日本人と韓国人との差異が見られるのです。
 それは「場をわきまえろ」という点です。
 普通の日本人の感覚として、大使を目の前にしてこのような暴言を吐くというのは、ちょっとかなりいっちゃっている人でもなかなか出てこない発想です。
 日本人は「公と私」を使い分ける民族で、これが一昔前には「本音と建て前」なんて否定的な意見で国内では(自虐)批判されていたワケですが、しかし日本に限らず特に欧米先進諸国ではそれなりに公と私の使い分けはするワケです。
 それはちょっと前に言及しましたWBCの時のアメリカと韓国との反応の違いについての文章でも触れましたよね。
 そして韓国はこの使い分けがあまりされていないワケです。
 ですから、韓国人からすれば、確かにこの発言はトンデモナイと思っても、それはそこで言うべきコトじゃないだろうという感覚があまりないんですね。
 思ったことはすぐに口にする、本音を隠さない民族性があるワケです。
 
 野球のお話にしてみましても、オリンピックの時日本は優勝したキューバに勝ちつつも結果的にはあまり芳しくない結果になってしまいましたが、監督とか関係者はそれを内向きに愚痴のように言ったとしても、しかし相手に対して相手に聞かせるコトを前提として「それはルールがおかしい」とか「オレらの方が勝ったんだ強いんだ」とか「もう一回勝負させろ」とか、そんな“非常識”な発信はしませんでしたよね。
 もし仮にそんな発言が出たとしても、必ず日本国内のどこかから「みっともないからそういうコトはするな」という声があがるコトでしょう。
 でも韓国の文化は違うワケです。
 本音は相手にぶつけてこそと思っているのです
 俗に言う「恨の精神」ですね。
 この精神をいくつか挙げるとするのなら枚挙にいとまがありません。
 なにかにつけ国旗を燃やすというのも、かなり直接的な本音のぶちまけでしょう。
 中学生が書いたかなり直接的かつ下品な反日絵というのがありますが、これも書かせる教員や学校もどうかと思いますが、それをおくびにも出さず堂々と公開するというのも、日本人の常識からかけ離れています
 そして韓国の新聞も、いつもいつも本音のぶちまけで、日本では決して発行できないような内容が韓国ではごく普通に売られているワケです。
 日本人はこのようなコトはちょっと出来ません。
 しかし韓国人は、自分と意見が違うモノもあってその場合には「それは違う」と言いますが、しかし本音をぶちまけるという点に関しては特に問題があるとは思っていないワケです。
 新聞等の「公的な媒体」に、このような下品な本音のぶちまけをしても、韓国人からしたら「新聞ってそういうもんでしょ?」という感覚のようなのです。
 
 この点が、日本と韓国との大きなすれ違いを生んでいるワケです。
 そして日本人のさらなる韓国人への不信感に繋がっているのでしょう。
 意見の違いはそれはだれにでもあるコトとは思えますが、しかし日本人が韓国人に対して最近抱く感情というのは「なんでそんなコトを堂々とやってしまうの?」という日本人には全く理解できない感情であり、これでは決して理解し合えない永遠と続く不信感になってしまうんですね。
 
 ほとほと最近やえは韓国に対して「これはもうダメかもしれません」と思うコトが多くなってきているのですが、これはこういう韓国人のメンタリティに対して思わざるを得ないのです。
 意見の違いは、それは人間ですからあって当然ですし、あるなら話し合えばいいだけのコトです。
 しかし韓国人というのはそれだけでない、見境無く本音をぶちまけてしまう性質を持ってしまっています。
 これでは話し合いにすらならないワケで、そうなればどうしても「もうダメかもしれません」と思わざるを得ないのです。
 本音のぶちまけというモノは本来下品でみっともないコトだと、はやく韓国には知ってもらいたい、そう願うところです。
 
 
 関連記事:WBCに見る今後の日本のパートナー観
 

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平成18年4月29日

 警察の違法行為を見逃すな

 おいーす、ひさしぶりー。
 あまおちくんヴァー。
 
 と、軽く挨拶したところで、さっそく本題。

 ポケットの覚せい剤、落ちたのか押し出したのか再検証
 
 大阪府警の職務質問で、半ズボンのポケットのたばこの箱から覚せい剤が見つかり、覚せい剤取締法違反罪(所持、自己使用)に問われた男の公判で、大阪地裁が「警察官はポケットの外から箱をつかみ意図的に押し出した。任意の所持品検査の限界を超えており違法」と、覚せい剤の証拠請求を却下していたことがわかった。
 公判で、弁護側は「ポケットの中を見せるのを拒否したのに、令状なしで身体を捜索された」と主張。署員は「ポケットを下から触った際、被告が身をよじり一歩後退したため、はずみで落ちた」と証言した。このため地裁は、職員を被告に見立て、ズボンの上に半ズボンをはかせて検証したが、箱は落ちなかった。
 朝山芳史裁判長(4月1日付で異動)は3月中の決定で「ポケットは深く、身をよじった程度で2箱も落ちたとは考えにくい。署員が押し出した」と認定。「ポケットに手を入れる捜索と実質的に同じで、令状主義の精神を没却するもの」と批判した。

 職務質問に関するページを持つオレとしては看破できない問題である。
 というかこれは犯罪だ。
 多くの人が理解していないかもしれないが、職務質問とはあくまで受ける側が任意で受けるものであって警察が強制できるものではない
 つまり嫌と言えばそれ以上は警察はその人にまとわりついてはいけないし、当然身体検査などもってのほかである。
 たまになれなれしくさわってきたり、道をふさいで先に進めなくするバカ警官がいるが、これはとんでもない犯罪なのだ。
 この件は、そういう警官の犯罪についてしっかりとした判断を出した、素晴らしいというか、法に照らし合わせればしごくまっとうな判断なのである。
 
 「覚醒剤を持っているような犯罪をするのがいけないんじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、それとこれとは全く話が別である。
 「犯罪を犯した人間には何をやっても良い」なんて理屈が通るのであれば、これはとんでもない社会になってしまう。
 まさに秘密警察の類の再来であり、極論、国民一人一人に監視員をつけて24時間監視をすることにすれば犯罪は限りなく0になるだろう。
 しかしそんなことは許されることではない。
 来週にでも委員会で可決されるのではないかと言われている共謀罪なんかは、相談をしただけで捕まってしまうとんでもない法律だと反対している人も多いようだが、オレに言わせればこっちの警察の犯罪の方がよっぽど重大で、こっちこそ声を挙げなければならない問題なのではないかと思う。
 なにしろなんら証拠が全くない人間に対しても取り調べが出来てしまっているのである
 共謀罪の方はまだ警察が動くには犯罪の計画という証拠が無ければ逮捕されないのだから、法に基づかない、犯罪を犯しても罰せられない存在があるというのは、これは大変おそろしいことなのである。
 
 そもそもこの警官の犯罪というものは、違法な職質をした人間が裁判にかかったから、やっと公に出てきた犯罪なのだ。
 もし職質された人間が犯罪者でなければ、このようなニュースには出てこなかったであろう
 よって犯罪者なのだから違法な職質も仕方ないと言ってしまうのは、これはかなり浅はかな話でしかない。
 この裁判の裏では、何十何百何千というえん罪と犯罪が毎日のように繰り返されているのだ
 残念ながら、この警官の犯罪を告発したところで警察は立件しようとしないだろう。
 だからこそ、このような犯罪者の裁判でしか明らかにならないワケで、本来ならもっと国民は声を上げて糾弾しなければならない問題だろう
 栃木リンチ事件や、この前やっと一審の判決が下った横浜の男性を社内に放置し死なせてしまった事件など、どう考えても警察が身内に甘い考え方しかしない事件が明るみになっているわけだが、そもそもはこれは警察の体質の問題であり、個別の問題ではなく、だからこそこの体質の最もあらわれている違法職質を国民はしっかりとNoと言わなければならないはずなのである。
 個別の問題だけを糾弾するのではなく、警察の体質そのものを糾弾していかなければ、このような問題は決して無くならないだろう
 
 そんなきっかけが犯罪者への裁判というのはとても不条理だと思わないだろうか。
 

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