最近、御意見板が活発でとてもうれしく思っています。
ありがとうございます。
そしてその中には、いくつかお返事を返したいと思っているモノもありまして、また頂いたメールにもお返事をしたいと思っているのですが、なかなか消化しきれていません。
ので、忘れないように、ちょっとここにメモしておきます。
・政治や政策に対する政治側から見た批判と、国民側から見た批判【メール】
・結果に対する受け止め方と、その上で自分の意見を主張するというコトの違い
・主張の中身はその更新だけでも構いませんが、やえの立ち位置やスタンスを問題にするなら過去ログを読んでいただかなくては批評は難しいと思います
随時更新していきます。
右も左も逝ってよし!!
バーチャルネット思想アイドルのやえです。
おはろーございます。
今日は、そんな御意見板のご意見で、人権擁護法案に対する疑問を呈されている方がいらっしゃいますので、それについて回答をしておこうと思います。
この問題やえは、こうなった以上はトコトンやると決めていますので、ご興味のない方もそれなりにいらっしゃるとは思いますが、どうぞお付き合いしていただければ幸いです。
なぜそこまでやえがトコトンやってしまっているのかは、また別の機会、やえの立ち位置の問題の時の更新で触れられるくるモノと思われますので、そちらを読んでいただければと思います。
ではまず、ご意見板から引用です。
(1)そもそも憲法14条があるのに、個別法作るのはなぜ?
(2)その法案を提出する議員に解同、朝鮮人団体の影が疑われ、新たな利権の温床になりはしないかと言う恐れ。
(3)法の委縮効果。(もっとも「権利は自分で勝ち取れ」って書いてあるので、発言する方の問題かもしれない)
(4)最大2万人とも言われる人権擁護委員の財源。彼らを統括する公務員の間接費も含めて。
(5)パリ原則は公務員による人権侵害防止を目指したもののはずでは?
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これらの疑問や批判は、わりとよく見かけるモノだったりします。
ただ、これらは全てだいたい、やえの人権法特設ページを読んでいただければ回答は書いてあります。
特設ページに対して人によっては「長すぎる」とか言われるのですが、しかし法律の問題はそもそもが難しい問題であって、簡単に理解できると考える方が間違いです。
よくある人権法反対サイトは、ウソやデマで塗り固めているからこそ簡単に書けているワケで、真剣にこの問題を考えるのであれば、簡単にはできないというコトは理解していただきたいところです。
その中で、真剣に考えているサイトの中では、やえのページは、手前味噌ですが最も簡単に解説できていると自負していますので、出来れば総論だけでもいいので読んでいただきたいと思っています。
さて、その上で、1つ1つ回答していきましょう。
今回語る人権擁護法は、ちょっとややこしいので太田私案ではなく、その前の平成17年に自民党で議論された法案を元に解説していきます。
太田私案がどのような立ち位置なのか明らかになる前に終わっちゃいましたからね。
ただ、その前に衆議院に提出された法案からは、自民党の部会でいくつか修正されていますので、その辺は注意してください。
その辺も特設ページを読んでいただければ、全て書いてあります。
では、まず(1)からです。
(1)そもそも憲法14条があるのに、個別法作るのはなぜ?
この人権擁護法案という法案(法律)は、被害者が裁判によって権利を回復させるための類の法律ではありません。
この法案は、「行政がどのように動くか」というコトが主に定められている法案です。
具体的には、例えば「事業者が人種等を理由とした不当な取扱い」をした時に、人権委員会という行政組織がそれをやめさせるよう「氏名公開等の措置を行う」等、というコトが定められている法案なのです。
つまり、検察が起訴する刑事裁判や、被害を受けたと主張する民間人が直接訴えるコトの出来る民事裁判などの、いわゆる「裁判を起こす」という行為ならば憲法を根拠として起こすコトも出来るワケですが、この法案はそういう類の法案ではなく、行政がどのような時にどのような理由でどのように動くかを定めている法律ですので、憲法と比べるのにはそもそも考え方が違うのです。
そして憲法14条には、「行政がどのような時にどのような理由でどのように動くか」は定められていませんので、それを可能にするためには法律を作るしかなく、憲法がこの法律の代替案とはなり得ないのです。
このように、憲法があるのだからこの法案はいらない、という主張は筋が通りません。
(2)その法案を提出する議員に解同、朝鮮人団体の影が疑われ、新たな利権の温床になりはしないかと言う恐れ。
これも17年当時から散々言われていて、散々議論されている問題なのですが、そもそも悪人が作ったからといってその法律が必ず悪の法律になるとは、これは言えません。
だいたいにして、法案も国家の中では国民誰もがオープンに見れて、国民の間で自由に議論できるのですから、もし法案に不備があると考えるなら、法案に対して議論すべきです。
悪人が提出した法案だけ国民から隠されるワケでもないのですから、誰が提出しようとも、中身を国民が自らの目でチェックすればいいだけの話です。
また、野中さんや太田先生のコトを色々と言われていますが、とは言っても、両先生ともちゃんと選挙を通って国民の判断によって当選した国会議員さんです。
それを頭ごなしに悪人だと断じるのはいかがなモノでしょうか。
そもそも「疑われ」という段階でしか語っておられないのに、それでは法案までを否定する理由には全くならないでしょう。
繰り返しになりますが、利権の温床になるかどうかは、法案の中身を見て考えるべき問題のハズであり、それ以上に大切なのは法律の運用の問題、国民の監視の目の方が大切です。
もちろん法案文自体に特定の団体のみが過大に利益を受けるような書き方をしていては問題ですが、少なくとも17年に自民党で修正されてからは、そのようには書かれていないとやえは判断しています。
どこにも「同和団代の訴えは必ず正当とする」なんて書いてないですからね。
どんな法律でも運用によっては恣意的に運用できるのが法律であるワケですが、だからこそ制定時には公平を期すコトが大切ですし、そして運用には国民が目を光らせなければなりません。
今の段階というのは、法律の制定の段階での議論ですから、もし法案に不備があると主張されるのでしたら、具体的にどこに不備があるのか指摘すべきでしょう。
そもそも人権擁護法案がなくても利権の温床になっていたという事実がある以上、法律の制定の段階で法律そのものが利権の温床の理由として求めるのは無理があるのではないでしょうか。
これも何度もやえは言っていますが、過去の日本において同和団体が圧力団体のようなコトになってしまったのは、それは国民の同意、少なくとも黙認という形での後押しがあったからに他なりません。
朝鮮問題も同じです。
同和・朝鮮問題は批判してはいけない、語ってもいけない、あの人達は可哀想な人達だから目をつむらなければならない、過去の日本においてはこういうタブー視する空気が国民の間に形作られてしまい、利権などのような歪んだ構造が生まれたのです。
最近になってそれがだんだん崩れていますので、それは喜ばしいコトではありますが、この過去の負の遺産を全て行政や政治の責任に押しつけるのは、やえは大変に無責任な行為だと思います。
これは差別問題だけに限らないのですが、こういう問題は、一朝一夕でポッと生まれ出てくるようなモノではありません。
それなりの長い年月をかけて、だんだんとじわじわ形作られていく問題です。
法律が出来たからすぐに問題が発生したのではなく、色々な様々な理由と状況と経緯があったというコトは、この手の問題を語るときには理解しなければならなりません。
実際に利権があるじゃないか、という、形だけの結果だけを語っても、それは正しく問題を語ったコトにはならないでしょう。
どうしてそのような問題が起きたのか、それを正すためには、過去の歴史の経緯などを正しく知らなければ、さらに問題が歪んでしまうコトだってあると思います。
話がちょっと逸れてしまいましたが、やえは逆に、同和団体の必要以上の圧力に対抗できる可能性を人権擁護法案には秘められているとも考えています。
現状では圧力団体が何かイチャモンをつけてきても、「では人権委員会の場で解決しましょう」とするコトが出来るからです。
さっきも言いましたように、法案自体には特に同和団体だけが有利になるような書き方はしていませんので、公平に運用すれば、国民全体の平均的な正義に利するような法律になるでしょう。
また、人権擁護法案には、不当な言いがかりに対する対抗策もいくつか考えられ、盛り込まれています。
それらを全部挙げていたら大変なコトになりますから、是非特設ページをご覧頂ければと思います。
(3)法の委縮効果。(もっとも「権利は自分で勝ち取れ」って書いてあるので、発言する方の問題かもしれない)
ごめなんさい、最初これ、どういう意味なのかよく分からなかったのですが、後のレスを読んで理解できました。
そちらも引用します。
自主規制が強くなってしまうこと。
その結果、過去の作品のピーとか黒塗りとか、全話カットとか、作品の人格権を過剰に否定しちゃうのではないか?と考えてます。
もっともエロが警察とガンガンやりあって、ここまではセーフ、これからはアウトとやってるように
人権委員会と喧々諤々の討論をやって、ボーダーラインを決めていくのが必要でしょうか。
ただ、その議論を無駄と感じて、全カットでいいやと、余計な揉め事起こすなと委縮してしまう可能性はあります。
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今でも不必要な自主規制ありますよね。
ですから、「法律があるから」と、その理由を法律に求めるのは筋違いなのではないでしょうか。
では今でも「自分の訴えを飲まないと裁判するぞ」という脅しがあるからといって、裁判所制度をやめるべきだという議論になるでしょうか。
なりませんね。
国民側の自主的な動きにまで法律に責任を求めるのは違うと思います。
ちなみに裁判する気がないのに「裁判するぞ」と言うのは、脅迫罪に当たる可能性があります。
民間のこういう動きに対して、そこまで政治に責任を求めるのは、やえは国民の甘えだと考えます。
一言で「揉め事」と表現しますが、実際は差別という非常にデリケートな問題です。
考えるなら真剣に考えなければなりません。
それなのに「討論が面倒だ、無駄だ」と考えるのは、それは国民の側の無責任な態度なのではないでしょうか。
もしこの法案によって自主規制が強くなっても、それは規制する側の態度の問題であって、法律にその責を負わすのは筋違いでしょう。
2の問題と同じですが、差別の問題は国民こそが主体的に議論すべき問題です。
本来差別の問題、人権の問題は、「これはやってもいい、これはやってもダメ」という形の問題ではなく、人の心の問題なのですから、政治に全て丸投げは出来ない問題のハズです。
大切な問題だからこそ、国民が主体的に議論すべき問題ではないのでしょうか。
(4)最大2万人とも言われる人権擁護委員の財源。彼らを統括する公務員の間接費も含めて。
人権擁護委員については、実は、と言うほどのコトでもないのですが、現在も進行形で実際にいらっしゃいます。
ので、その財源については、移行期間にもしかしたら多少かかるかもしれませんが、基本的には今と同じと考えていいのではないでしょうか。
現在も人権擁護委員の方はボランティアです。
また、やえは、最近の「税金のムダ遣い議論」についても、ちょっと疑問に思うコトがあります。
本来「ムダ遣い」とは、システムの運用に必要な費用を超えて使われているお金、そのお金がなくてもシステムが運用出来るのに計上されているお金のコトを指して形容する言葉のハズです。
しかし最近は、「税金が使われるコト=悪」だとしてしまう風潮があるような気がしてなりません。
これは間違いです。
あくまでムダ遣いとは、システムの運用に関係のない部分について指し示す言葉であって、税金の投入そのものが悪なのではありません。
ですから、もちろんそのシステムが必要か否かという議論は必要ですが、しかしそれはまた別議論であって、「お金が使われるからこのシステムは不要だ」と言ってしまうような主張は、論としては成り立っていないのです。
この問題はまた詳しく取り上げたいと思います。
それから、ええと、直接はお金の問題と関係ないと思うのですが、この項目に対するレスで別の懸念を書かれておられますので、そちらもお返事しましょう。
正直、人権派の弁護士とか、思想に偏った人がなりそうな懸念があります。
…って懸念を、「人権擁護法案総論(7)−人権委員会−」で否定されてましたが、これは明確に規定してもらわないと安心できないです。
外国人、特に、日本のお近くの国々は内政干渉を平気で行う国ばかりですから、これは必要だと思ってます。
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とおっしゃいますが、まさか「左翼思想の人間は人権委員、もしくは人権擁護委員にはなれない」と法律で規定できるワケはありません。
それはかなりの思想信条に対する差別と言わざるを得ません。
憲法違反です。
やえの個人的な立場からすれば、左翼思想は多くの部分で間違っていると考えていますが、それを公にシステム的に禁止だとするコトは、絶対にやってはならないコトです。
共産主義も間違っているとやえは考えていますが、共産主義の考えを肯定する人間が存在コトを否定するコトはしてはならないコトでしょう。
間違っているコトを「間違っている」と指摘するコトと、存在自体を頭ごなしに消し去ろうとする行為は、全く別モノです。
特に民主主義とは、多様な考え方を許容するシステムなのですから、ある考え方を持っているからという理由だけで排除しようと公のシステムで決めてしまうのは、これはむしろ危険な考え方です。
この辺の問題は、民主主義という原則で補完すべきです。
民主主義だからこそ多様な考え方を許容し、民主主義だからこそそのルールが原点・原則です。
つまり、いかに公の組織が民主主義の精神に則って作られ運用されているか、です。
ここが一番大切です。
詳しくは特設ページを読んでいただくとして、やえは十分に人権委員会は日本の民主主義ルールが反映されたシステムになっていると判断しています。
確かに人権委員に偏った人が就任されれば、例えばサヨク思想にまみれた人がなってしまったら大変だと個人的には思いますが、そういう事態というのはおそらく、社民党や共産党が政権を取った時、もしくは民主党でもあり得るかもしれませんが、そういう時であって、それは国民の選択の結果なのです。
やえはそうなった場合、政策等の中身については批判しますが、それをシステムや法律そのものに責任を求めるような主張はしないでしょう。
ちなみに、人権委員には外国人はなれないと、明確にされています。
(5)パリ原則は公務員による人権侵害防止を目指したもののはずでは?
必ずパリ原則通りにしなければならない、というコトではないので、あまりこの議論には関係ないかと思われます。
公務員以外の人権侵害については規定してはならない、と書いてあるならまだしもですが、そうではないですから、これに囚われる必要性は見いだせません。
それから
ぶっちゃけ、公務員による人権侵害防止の法案と、私人間の人権侵害防止の法案に分けた方が、法務局もやりやすいんじゃないかなと思うのです。
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についてですが、やえの自民党部会レポでも書いたと思うのですけど、ある有識者の方が、「官と民は分けた方がいいという考え方があるが、では人権委員会を官と民のふたつの対応のためにふたつも作るのか。国民がそれでいいと言うならいいのだろうが、しかしそれはあまりにも無駄ではないのか」というような主旨の発言をしておられました。
やえもそう思います。
また、官の人権侵害が民の人権侵害よりも問題だとも思いません。
どちらも同じように問題です。
わざわざ分けて、「官の方が問題だ(比較して、民の方はそうでもない)」というような印象に捉えられかねないような手法はよろしくないんじゃないでしょうか。
スピードが大切かどうかはまた別の問題ですが、やえはわざわざ分けて議論すべき問題ではないと思います。
民の人権侵害だって官の人権侵害と同じように非常に問題です。
そもそも民と官を分けて考えるという考え方の方が、やえには理解できません。
とりあえず、今回のご意見に対しては以上です。
お返事の中でいくつか別の更新時に捕捉すべき点がまた出てきましたので、その辺は後日改めて更新していきたいと思います。