どうしようもないレッテル

 ジミンガーは論拠もないだだのレッテルだというコトはもうずいぶん浸透してきましたが、未だにこの手のレッテルは消えません。
 例えば「民主党はダメだが、自民党もダメだ」とか、「既存政党はダメだ」とか、果たして自民党がダメな理由はどこにあるのか全く意味不明なこの手のレッテルは、いまメディアでも堂々と存在し続けています。
 やえは一度たりともまともな論拠を聞いたコトがありません。
 その中でさらに悪質なレッテルと言えば、「前回民主党に入れた人間は次維新に入れるかもしれないが、そういう人は小泉時代に自民党に入れている層だ」というモノです。
 
 一見もっともそうに見えますし、層だけで言えば遠からず当たっているとは思います。
 でもこの論というのは中身を全く見ていない、政治家からどういう提案があって有権者はどの部分に共感して投票行動を取ったのかという中身が全く存在しない、そうレッテル中のレッテルと言わざるを得ないのです。
 
 民主党の一番の大罪は、やると言ったマニフェストの、特に目玉政策と言われた部分についてほとんどを実行出来ないままで終わってしまった点にあります。
 子ども手当。
 高速道路の無料化。
 八ッ場ダムをはじめとするダムの廃止。
 天下りの廃止。
 官房機密費の公開。
 最低賃金のアップ。
 後期高齢者医療制度の廃止……。
 いまパッと思い出そうとしただけでもこれだけあり、多分もうちょっと調べればまだまだ出てくると思いますが果たしてどれだけのマニフェストが実行されていないと言うのでしょうか。
 また政権を取った後も、総理や大臣、党幹部の無責任な発言の連発、例えば鳩山総理の25%宣言とかですね、そういう出来もしないコトをやると言って、言っただけで投げ出してしまった案件の実に多いコト。
 民主党の一番の大罪はここにあります。
 やると言ってやらなかった。
 これはもはや、本来政治としては問題外の評価しか出せない行為なのです。
 
 政治とは結果責任と言いますが、それはなぜかと言えば、やると言ったコトは実行しているという前提があるからです。
 政治は政策を何か実行するだけが目的ではありません。
 政策はあくまで手段であって、その先にある目的を達成するために政策があるのです。
 その目的とは、一言で言えば国益ですね。
 国民が幸せに暮らすコト、国家が繁栄するコト、それが政治の目的なワケです。
 ですから例えば後期高齢者医療制度で言えば、これを実行したのは自民党と公明党ですが、この制度を確立するのが目的なのではなく、この制度を手段として、その先の「安定した医療制度を設計し直すコトによって暮らしやすい社会を確立する」というところにあるワケですからね。
 後期高齢者医療制度が目的なのではなく、それは手段であって、目的は社会保障の充実にあるワケです。
 
 だからこそ政治は結果を求められますし、その結果に対して責任を求められるのです。
 
 政治家が提示するのは手段です。
 目的は本来提示するモノではありません。
 だって「国益を損なうタメに政治をします」なんて言って誰が投票するでしょうか。
 ですから共産党だって、共産主義を布けば国民は幸せになると心から信じているからこそ共産主義を主張しているワケで、目的はどの政党だってどの政治家だって国民だって誰が言ったって同じなのですから、そこを判断基準についてもあまり意味のないコトなのです。
 政治家とは、立候補者とは、その言うまでもない目的を達成するための手段を訴えて支持を集めるのであって、国民が判断するのは手段であって、そしてだからこそ政治家は結果についても責任を求められるのです。
 
 これが民主党政権以前の日本の政治の姿でした。
 でもその「政治への評価の前提」を破壊したのが民主党政権なのです。
 
 小泉総理に対する評価は人それぞれでいいと思うんですよ。
 やえだって小泉さんの行為の全てを肯定しているワケではありません。
 むしろやえは、小泉時代にはかなり小泉さんに対しては政策に対して是々非々の批判をしてきました。
 例えば道路公団民営化にもやえは反対しましたし、そもそも公共工事を減らすというコトにも批判的でしたし、もっと言えば「小さな政府」に対してもやえは反対だと、小泉時代に主張していました。
 郵政民営化にも、やえは諸手を挙げて賛成はしていません。
 でもこの部分に関してはやえとは違う意見の人もいるでしょう。
 やっぱり小さな政府が正しいと言う人もいるでしょうし、いまはまだそれが達成出来ていないと言う人もいるでしょう。
 小泉さんにしたって、それが出来ていたとは到底評価出来ないとする人もいると思います。
 そういう様々な評価があるコトは構いません。
 でも間違ってはいけないのが、小泉さんは小さな政府という目的を果たすために郵政民営化という手段を、公約として掲げた上で実行したという事実の部分は見誤ってはいけません。
 実行したその先の結果については様々な意見が合ってしかるべきですが、実行したという部分については誰にも否定出来ないコトなのです。
 
 実行した上で結果について責任を求めるというのは、本来の政治のあり方としては間違っていません。
 ただ間違っているのは、それを民主党の大罪と同列に並べて語る行為です。
 民主党政府は、結果責任を求める以前の段階での問題なのであり、結果責任を追及する段階にすら至っていない、言わば「問題外」のステージにしか立っていないのです。
 本来、小泉さんへの批評と、民主党政権に対する批評は、まったく「別問題」として語らなければならないのです。
 
 ですから、小泉さんに対して投票をした人に対する批判としては、それは主張の相違であり、議論として存在し得る問題です。
 「自分はこう考えるが、アナタはこう考えている、この違いについてもっと深く議論しよう」という会話が成立する問題なんですね。
 ですから小泉さんに投票した人は、小泉さんの郵政民営化の後にどのような結果を日本にもたらしたのかという結果責任について小泉さんを批判をするコトは、健全な民主主義としてどんどんやるべきコトです。
 もし小泉さんに対する投票すら「投票したコトが悪だ」と言うのであれば、それはまぁ国民の責任という広義の意味で言ってしまえばこれも国民の責任と言うコトはできますが、しかし国民の能力としてはかなりハードルの高い責任の追及となるでしょう。
 そもそもそれは、国民の生活に実際に跳ね返ってくるという形で責任をとるワケですしね。 
 しかし民主党政権に対するそれは違います。
 そもそも民主党はやってないのです。
 そしてマニフェストが実行出来ないコトは、選挙前から散々指摘されていました。
 だから民主党に投票した人に対する批判というのは、結果責任という政治家に求められる責任というハードルの高い責任とは全然違う、とてもとても低いハードルに対する批判なのです。
 「なんでそんなコトぐらい分からなかったのですか」と言われてもしょうがない批判なのです。
 結果責任以前の問題への責任なのです。
 自民党がアニメーションでの民主党への問題指摘をしていましたよね。
 いまあの通りですよね。
 これは小泉さんや小泉さんに投票した人に求められる、議論が起こりうる結果責任に対する批判ではなく、結果が出ようもない入り口に入るかどうかという程度の低い問題であって、この有様で両者を比べる行為というのは、レッテルとしか言いようのない次元の違う問題なのです。
 
 もし仮に、子ども手当や高速道路無料化が達成出来ていたら、そこではじめて小泉さんと並べて議論するコトができるようになるのです。
 「小泉さんは郵政民営化を実行した結果こうなったが、民主党のマニフェストの結果はこうだった。さてこれはどちらがより国益に資する方法だっただろうか」
 これなら比べる価値はあります。
 それぞれ別に議論すべき問題にも思えますが、それでもこれなら同じ次元に比べるコトはできます。
 でもいまはそれが出来ないのです。
 「マニフェストの結果」が出ないのですから、比べられないのです。
 ここの評価を間違えてはいけません。
 
 民主党は結果責任すら求めるコトの出来ない低次元なコトしかできていないのです。
 本来はこれは「異常事態」なのですが、これに気付いてない人が多いというのも現状です。
 だからこそデタラメなレッテルが横行していると言えるのですが、この点も騙されないようにしたいところです。