「世襲」もレッテル

 今日はこちらの記事です。
 

 自民公募に「世襲」ゾロゾロ、議員子息が続々と
 
 今期限りでの引退を表明した自民党衆院議員の後継に、議員の子息が名乗りを上げるケースが相次いでいる。
 公募による選考を受ける仕組みにはなっているが、既に2人が決定し、選考で強みを発揮している。自民党は、2009年の政権公約(マニフェスト)で世襲制限を打ち出したものの、「かけ声倒れに終わっている」との指摘も出ている。

 
 よくある「世襲」批判ですが、そもそも論として「世襲」ってなんでしょうかと、これらの件は「世襲」と呼ぶべき事象でしょうかという前提の議論が、いまマスコミやそれに迎合する国民の中でキチンと出来ていません。
 「世襲」って、親や親族の権利や権限を無条件で受け継ぐという意味です。
 ここで重要なのは「無条件で」という部分です。
 例えば天皇は世襲ですが、天皇がお隠れになったあとというのは、東宮(皇太子)がその権威や権限や権利の全てを無条件に受け継ぎます。
 東宮であれば、ここは条件がありません。
 例えば即位するための試験があるとかですとか、誰かからの面接を受けなければならないとか、そういう条件は全くないワケです。
 唯一、東宮である(天皇の親族である)というただ1点の条件だけで、天皇という権威や権限やその全ての地位を受け継ぐコトができるというのが、天皇の地位なのです。
 これを「世襲」と呼びます。
 
 逆に言えば、血縁関係以外の条件があれば、それを世襲とは言いません。
 親や親族と同じ職業に就くというだけでは、普通は世襲とは言いません。
 親がタレント、親が歌手、親がスポーツ選手、いま第一線で活躍している人達の中にも、こういう人達はいっぱいいます。
 でも誰ひとりとしてそれを「世襲」とは言いませんよね。
 たまに「親の七光り」と言う人はいますけど、それは「世襲」とは違うお話です。
 なぜなら、どんな職業であってもある程度は自分の実力が無ければその職業や地位にいられるワケもなく、ある程度の本人の実力があるからこそ第一線で活躍できているのですから、これは「無条件に全ての権限や権利を受け継ぐ」という意味の「世襲」には当てはまらないからです。
 ですから、特にスポーツ選手なんて分かりやすいですが、本人の努力や才能なくしてスポーツ選手なんて出来ないのですから、親や親族に同じスポーツを職業としている人がいたとしても、これを「世襲」とは言わないのです。
 これは正しい言葉の使い方です。
 
 では国会議員の場合はどうでしょうか。
 その政治家が有能なのか無能なのかの評価はともかくとしても、国会議員になれるかどうかというのは全て選挙にかかっています。
 すなわち、選挙で選ばれれば誰でも国会議員になれるというのが、民主主義における選挙の姿です。
 これはこの前の更新でも言いましたよね。
 実際に能力があるかどうかは問われない、ただ国民が「この人を国会議員とする」と認めれば、ただそれだけで国会議員になれるっていうのが民主主義の選挙なのです。
 例えば「この人は能力が劣っているから立候補出来ない」とか「テストの結果不適格だから当選取り消し」とか、そういうコトは民主主義選挙の中ではあり得ないのです。
 民主主義の中の国民の代表者とは、能力のある人を選ぶのでは無く、ただ単に「国民の代表」を選ぶだけだからです。
 そう考えた時、では親が国会議員の人が国会議員になるっていう場合に対して「世襲」と呼ぶべきかどうかというのは、これはもう考えるまでもないでしょう。
 
 むしろこれをなぜ「世襲」と呼んでいるのか、その論拠を教えて貰いたいぐらいです。
 なぜ「世襲」と呼んでるのですか?
 どういう理由で「世襲」なのですか?
 まずここを説明して下さい。
 
 もし親が国会議員の人は無条件で国会議員になれると憲法や法律で定められているのであれば、それは世襲でしょう。
 しかし実際は違います。
 そんな人は、少なくとも日本の中には1人としていません。
 日本の全ての国会議員はひとり違わず全員が、事前に公式に決められている選挙制度の中で行われた選挙を経ている人だけです。
 親が国会議員だろうが、サラリーマンだろうが、なんだろうが、同じ制度のもとで行われている選挙を経ている人、そしてその中で勝った人だけが国会議員の身分を与えられているのです。
 この部分において、すべての人は平等なのです。
 
 こういうとよく「後援会を引き継ぐじゃないか」と言う人が出てきますが、これは視点を全く間違えています。
 後援会は公的な存在ではありませんし、後援会に関して法的に強制されるモノでもありません。
 例えば「1度入った後援会は代替わりしても必ず入会しなければならない」と法律に明記されているのでしたら、これは世襲でしょう。
 でも実際は違います。
 後援会に入るのも出るのも個人の自由意志で決められるコトですから、もし後援会のコトすら世襲と言うのであれば、それは世代交代した後の後援会に残り続けているという選択をした人の自由意志を批判するコトに他なりません。
 世襲とはあくまで「無条件に自動的に受け継ぐ」「そこには他人の意志はもちろん、本人の意志すら介在する余地が無い」からこそ世襲であって、そこに別人の自由意志が介在するするなら、もはやそれは世襲とは全く言えない現象でしかないのです。
 
 まずこの問題は、立候補者の親が国会議員だという事象を「世襲」と呼ぶのは適切なのかどうか、もし呼ぶのであればその論拠はどこにあるのかという、「世襲の是非以前の問題」なのです。
 世襲と呼ぶに適切でないのであれば、そもそもその是非すら問えないのですからね。
 ですからまず、これを「世襲」と呼ぶのであれば、その論拠を聞かなければなりません。
 なぜ「世襲」と呼ぶのですか?と。