核兵器は外交手段である戦争という行為にそぐわない兵器-NPDI広島会合を考える(3)

 核兵器については様々な視点があるのですが、最後に核兵器は外交手段である戦争という行為にそぐわない兵器であるというお話をしておきたいと思います。
 
 前回も言いましたように、戦争とは外交の一種です。
 すなわち、自国の利益を追求するため、それを他国にも履行させるために、武力という手段をもって強制させようとするのが戦争という手段です。
 つまり戦争はあくまで手段であって目的ではないんですね。
 目的は「自国の利益になるための具体的な相手の行動」なのです。
 ですから戦争には一定のルールがあります。
 それは決して国際法だけに限らず、例えば相手国や国民を根絶やしにするような行為をしたとしても、そんなの自国の利益を履行させるコトが不可能になってしまうのですから、戦争に勝っても利益を追求するコトはできず、全く意味はないだけでなく、ただ無駄に戦費を使っただけの損になってしまうコトでしょう。
 ですからあくまで戦争は外交だというコトを鑑みれば、手段である戦争も最低限の一定のルールは自ずと見えてくるワケです。
 
 しかし核兵器というモノは、このルールから完全にはみ出るモノです。
 なぜなら、核兵器は一発だけでその被害があまりにも広範囲にわたりますから、使えばどうやったって非戦闘員を巻き込む形になるからです。
 戦争は外交の一種である以上、そのプレイヤーは戦闘員同士が行うモノです。
 そこに非戦闘員を巻き込んだとすれば、それは国際法違反という以上に、外交行為として意味を成さなくなりますので無意味なのです。
 それなのに核兵器は、はじめから非戦闘員をターゲットにした兵器なんですね。
 核兵器を持っている国、そして持つべきだと言っている人は、ここの整合性をどうつけるのか、よくよく考えてもらいたいのです。
 
 日本は核を持つべきだ、と主張する人は、核兵器で何をしたいのかを考えてもらいたいのです。
 単に核を持つコトが大国の条件だと思っているのであれば、かなり的外れとしか言いようがありません。
 もし日本がまた一国だけで世界中の国を相手に戦争しようというのであれば別ですが、ある程度他国と協調しながらやっていくのであれば、核兵器は、北朝鮮のようなそんな世界を敵に回しているような国に対する抑止力としか使い道はありません。
 そもそも北朝鮮などの国に対して核兵器を持っているコトが抑止力になるのかどうかもやえとしては疑問ではあるのですが、しかし抑止力があったとしても、すでにアメリカがすでに核抑止力の力を持っており、そしてその上日本の自衛隊の軍事力は世界トップレベルの他国と渡り合うのに十分な戦力を持っているのですから、今さら日本が核兵器を持っても、この現状を何ら変わるコトはないでしょう。
 逆に言えば北朝鮮の目線から見れば、日本が核兵器を持とうが持つまいが、北朝鮮が日本に戦争を仕掛けるリスクは全く変わりませんよ。
 仮に日本に核兵器を撃ったとしても、日本が核兵器を持っていてもいなくても、北朝鮮に報復的核兵器が飛んでいくのは変わらないですからね。
 そしてもし日本が世界を相手に戦争をという場合でも、核兵器を持っているいないに関わらずそういう状態になった時点で戦争をしても負けは確定としか言いようがないでしょうから、意味はありません。
 まさか日本が核兵器さえ持てば世界の全てを敵に回しても負けるコトは無い、なんて言う人はいませんよね。
 もし万が一アメリカとまた戦争するコトになったとしても、まぁ対米戦争のために日本が反米盟主となってその証に核兵器を持つっていうのでしたら、それはそれで意味はないとは言いませんが、でもいまのところそこまで考えるのは現実的ではありません。
 「あらゆる想定を考えておく」と言っても、アメリカも含めて全世界を一国だけで相手にするっていうのは、もはや想定を離れた物語のお話でしかなく、そんな備えはアメリカでさえもう不可能でしょう。
 そうなった場合どうするか、という想定は必要かもしれませんが、装備まで全てその段階レベルで整えておくというのは非現実的にもほどがあります。
 そしてなにより日本は、すぐに核兵器を作れるぐらいの技術は持っていると言われています。
 こうした現実を前にしたとき、いま日本が核を持つ理由、持って何をしたいのかっていうコトを極めて現実的に考えたら、果たして本当に核を持つっていうオプションが国益に一番かなう行為かどうかっていうのは、大変に疑問に持たざるを得ないのではないかと思っています。
 
 核兵器を持ったとしても、抑止力としては現状とそう変わらないですし、使ったら使ったで確実に非戦闘員を殺すワケで、果たしてそこまでして守るべき正義が本当にそこにあるのかどうか、ここをよくよく考えてもらいたいです。
 核兵器を持てばバラ色の未来が待っているなんて夢見がちな幻想はやめた方がいいです。
 どちらかと言えば、憲法九条を改正した方がよっぽどか現実的には意味があるでしょう。
 この辺、現実論として、何が目的なのかをキチンと見据えて、手段が目的にならないよう考えていかなければならないのではないでしょうか。