民主主義とは国民が主体的に為政者を選ぶ制度。マスコミが選ぶのではない。

 選挙が近くなったら、さらに言えば少なくとも選挙期間って、政治の報道やめるべきだと思うんですよ。
 こう言うと必ず、国民の知り権利だとか、報道の自由だとか言う人が出てくるのですが、しかしハッキリ言ってそんなモノより「民主主義の根幹である選挙を国民が主体的に行う」方が何倍も重要です。
 そしてそれは、「主体的」こそが重要です。
 民主主義は誰か他人から与えられて、他人に用意されて、他人がやれって言うからなんとなく投票するって、民主主義はそんなシロモノじゃないんですね。
 民主主義とは文字通り、民が主権者の、つまり自分たちひとりひとりが主権者だという制度です。
 他人ではなく自分が責任を持つ制度なのです。
 だから主体的に行わなければ本来意味はないハズなのです。
 
 でも正直、いま国民は政治に対してあまりにも他人事で済ませてしまっています。
 結局のところ、政治なんて自分以外の誰かがどうやるんだろうと、タカをくくってしまっています。
 政治家に対しては簡単に「辞めろ」と軽々しく言うし、「誰がやっても同じ」「まともな候補者がいない」と他人事のように言うくせに、自分が立候補するという選択肢と責任をタナにあげてしまっています。
 そして、こういう考え方って、普段からの政治に対する姿勢から来てしまっているんだと思うんですね。
 
 特に今の時代、情報は自分の手で手に入れるコトができます。
 昔は仕方なかったでしょう、新聞こそが唯一の情報でっていう時代もありましたので、ある程度一般国民が受身になってしまうのも、時代によっては仕方なかったと思います。
 しかし今は違います。
 多くの一次ソースを誰のフィルターにかけるコトなく、自分の目で耳で確認できる時代が到来しているのです。
 だったら、せめて選挙の直前ぐらい、国民のひとりひとりが主体的に選択するような環境を作るべきなのではないのでしょうか。
 
 新聞やテレビを信じるかどうかも国民の選択だ、と言うのは詭弁です。
 それは「騙される方が悪いのだから詐欺罪は必要ない」と言っているようなモノです。
 選挙公報や立候補者の紹介等ならまだしも、政策などについてタレントなどの私的な感想や感情を織り交ぜた、言わば「私感」を垂れ流していい理由は、本来ありはしないハズです。
 まして「町の声」とかテレビ局すら責任を放棄する形の放言を公共の電波に乗せていい理由には全くなりません。
 
 自らの手で情報を得られる手段が現代では存在する以上、マスコミの必要以上の一方的な情報は有害でしかないと言うしかありません。
 テレビとかなくったって、選挙できるじゃないですか。
 もしそれで誰に入れたらいいのか分からないって言うのであれば、それはもう責任の放棄としか言いようがありません。
 自分で調べましょうよ。
 仮に投票率が下がったとしても、それは国民の選択なワケです。
 そもそも投票率を上げるっていう行為自体が、国民の選択を人為的に操作する行為なワケで、それは本来目的にすべきコトではないと思うんですよ。
 投票率は高い方がいいのは否定しません、その通りだと思います。
 しかし低いコトで不利益があれば、それはそれで国民自身の手によるコトなのですから、その責任は国民が負うべきです。
 選挙自体も、その結果も、投票率も、国民が主体的に選択すべきなのです。
 
 そろそろ国民は自らの意志でもって脱マスコミを果たさなければならないのではないのでしょうか。