某イベントでは某サークルにたくさんの方が来てくださいまして本当にありがとうございました。
お陰様で昼過ぎには完売してしまって、買えなかった方もおられたんじゃないかと思います。
ごめんなさいでした。
そしてありがとうございました。
右も左も逝ってよし!!
バーチャルネット思想アイドルのやえです。
おはろーございます。
やえの本が出ているワケじゃないんですけどね(笑)
旧仮名遣いというものがあるじゃないですか。
《「正漢字と歴史的假名遣ひ」の表記をとる思ひは、殆ど此の言葉の中に盡きてゐます。此方では數多あるご批判の中、敢て此の表記方法に拘泥する私の心情をお傳する一助になればと、このレスポンスを差し上げました。》
こういうものです。
みなさんこれスラっと読めるでしょうか?
文章の書き方というのもあるので一概には言えないですが、やえは普通の文章を読むよりはちょっとスピードを落として読まなければ、何が書いてあるかちょっと理解できません。
いわゆる「旧仮名遣い」の代表例として、「思ひ」とか「ゐます」とか、この手の仮名の使い方がまどろっこしいんですね。
でもごく一部の方に旧仮名遣いを信奉しちゃっている人がいます。
旧仮名遣いこそが日本語としての本道であり、美しさであり、これを使うべきだ、と思っている人です。
サイトにも時々そういうサイトがあったりします。
さらに他のサイトさんの掲示板に書き込む時も、その旧仮名遣いで書き込んでいたりしていらっしゃいます、
でもはたしてそれはどうなんでしょうか。
そもそもいわゆる「旧仮名遣い」と言われているのは、コレも所詮明治あたりに使われていた文章でしかありません。
たった百年前のことでしかありません。
悠久の歴史をもつ日本の歴史からすれば百年など微々たる時間です。
古い文章がいいというのであれば、どうして江戸時代やもっとさかのぼって平安時代に使われていた「日本語」を使わないのでしょうか。
それの方がよっぽど「本道」と言えるような気がするんですけど。
そもそも時代によって言葉や文章というものは変わっていくモノです。
平安時代に使われていた文章も、現代使われている日本語と流れは一緒でも今ではそう簡単に読めるモノではありません。
というか「古文」という、勉強しなければ読めないような「日本語」になってしまっています。
そうやって変わり変わって今の日本語というものがあります。
そして現代では様々な諸事情で「常用語」というものが定められています。
義務教育である小学校からこの「常用語」を習いますね。
普段公的な場で使う場合にはこの常用語を使うことになっています。
共通の言葉があってこそ意志の疎通が出来るワケですからね。
ところで「旧仮名遣い」という言葉を見てください。
「旧」なんです。
つまり「旧仮名遣い」という言葉は「普段は使わない文字」という意味です。
そしてその一方では「常用語」というものが定められています。
つまり「旧仮名遣い」は不自然ということなんです。
不自然だからこそ「旧」なんですね。
だから旧仮名遣いを使う時は、それを教える時とか、当時の雰囲気を出すためとか、そういう特別な理由がない限りは使うべきではないんです。
文字や文章というモノは、自分の意志を伝えるためにあるもので、日本という国の中に置いて意志の疎通を図れるようにしているものが「常用語」ですから、公の場で、特に相手に自分の意志を伝えようとしている場合においては常用語を使うべきなんです。
今月の『わしズム』でも、高森明勅先生が書いておられる文章は旧仮名遣いで書かれておられていました。
《かの剣豪宮本武蔵が死を目前にして書いたといふ十九ヶ条の心得の中に、「神仏を尊み、神仏を頼まず」といふものがある。これはどういふ意味か。つね日頃から神や仏を大切にし、敬ふけれども、それらに頼り、依存する心はもたない、というふことだ。》
「いふ」のオンパレードです。
引用するためにキーボードを打ったんですが、「いふ」だと「畏怖」とか「異父」とかに変換されてめんどくさいことこの上なかったです。
たったこれくらい、と思うかもしれませんが、これぐらいだからこそどうしてここまでして旧仮名遣いにこだわるのか分かりません。
読み手にすんなりと自分の意志を伝えたいと思うのであれば常用語で書くべきではないのでしょうか。
まだこれぐらいなら読めますが、例えば日本人向けの文章で英語を使う人はいないでしょう。
それは日本語というものが日本人にとって常用語に他ならないからです。
相手に自分の意志を伝えるために、わざわざ「旧」にこだわったり、「異」国語を使う必要など全くないはずなんです。
冒頭にも言いましたが、やえには旧仮名遣いを使っている人というのはそれを信奉しているようにしか見えません。
さっきの高森先生の文章にはこんな部分があります。
《受験シーズンに神社に行くと、「合格、お願ひ!」などと書いた絵馬がズラーッとかかつてゐたりする。》
「合格、お願ひ!」の部分は絵馬からの引用であるので、もし本当に「お願ひ」と書いてあったのならそれでいいんですが、まず「お願い」と書いてあったと見るのが普通だと思います。
だからいくら高森先生が普段旧仮名遣いを使っているのであったとしても、この場合まで旧仮名遣いを用いるのは間違っています。
引用とは引用元に書いてあるモノをそのままコピー&ペーストするようなものですから、そのまま書いてある通りを書き写すのが普通です。
もし英語とか普通では読めないような状態であるなら、まず原文をそのまま書いて後から注釈として引用者なりが訳文を載せる、という手法をとります。
引用の場合は原文を尊重しなければなりません。
例え明らかに誤字だとしても、「ママ」とかつけて原文を載せるのが普通です。
でも高森先生は「お願ひ」と書いてしまっているんです。
つまり常用語で書いてあったとしてもそれをねじ曲げてでも旧仮名遣いが正しいんだと思っているんじゃないかと想像でき、やっぱりどうしても旧仮名遣いを信奉しているようにしか見えないんですね。
ある種「旧仮名遣いを使わなければならないんだ」みたいな強迫観念に近いような、盲信をしているようにしか見えないんです。
ここまでして文章を読みづらくしている意味というのがやえにはさっぱり分かりません。
もちろん、旧仮名遣いは美しいとおっしゃるのであればそれは価値観の違いでありその考えは尊重したいと思います。
しかし公の場で相手に自分の意志を伝えようとするのであれば常用語を使って頂きたいと思います。
それでも「分かる人だけに分かればいいんだ」とおっしゃるのであれば、それ以上は何も言いません。
しかし旧仮名遣いを使う必要性や理由など全くないですし、それは日本人に向かって英語が読めないヤツは読むな、と言っていることと全く同じであるということをよく理解して使ってくださいね。
最近「保守ブーム」になって、なんでもかんでも古いモノが優れている、という風潮が流行っているので、それはちょっと違うんじゃないでしょうか、というお話でした。
バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、現代語も十分美しい言葉だと思っています。