☆やえニュース☆

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平成17年5月16日

 献血に関する意識調査


 本当はこれ金曜日にアップしようと思っていたんですけど、つくづく思いました、アンケートってむずかしいですねぇ。
 項目考えるだけで数日かかりましたし、その後のチェックとか、なんかいろいろやってたら今日になっちゃいました。
 しかも、結局変哲のない項目ばかり、しかもほとんど重複ばかりで、やえの未熟さがほとほと身にしみたところです。
 というワケで、未練がましくver1.00なんてついています(笑)
 こういうのって統計学になるんでしょうか、専門家の方がいらっしゃいましたらアドバイスください。
 
 ではいきます。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 ちゃんちゃかちゃーん。
 「バーチャルネット思想アイドル十四歳 ☆献血に関する意識調査☆ ver1.00」を公開いたします。
 タイトルは献血に関するとなっていますが、主に「売血」というモノに焦点をあてています。
 ぜひとも、忌憚無きご意見を、そして出来るだけ多くの方に答えてもらいたいとおもっています。
 よろしくお願いします。
 
 注意事項です。
 ・ひとり一回のみでお願いします。
 ・急に「売血」と言っても、聞き慣れない言葉なので戸惑うかもしれません。これは「自分の血液を供与する報酬として金銭を受け取る行為」と思ってください。つまり自分の血液を売るコトです。それ以上の感想等は個人にお任せし、それこそをやえに教えていただければうれしいです。ちなみに、現在の日本では売血行為はすべて禁止されています。
 ・感想を書く系は選択方式を採りませんでした。これは選択項目があることによって予断を生まれるのを回避するためです。しかし長文を書いていただく必要は全くありません。一言でかまいませんのでストレートなお気持ちをお聞かせください(例「Q.なぜピーマン嫌いか?A.にがいから」こんな簡単に一言で全然OKです)
 ・選択肢によって分岐点がいくつかあります。→のリンクをたどってください。
 ・送信ボタンを押したらすぐに送信されます。全体の選択肢が多すぎるため確認画面が出ないようにしていますので、ご注意ください。
 ・感想等をサイト上の更新で使わさせていただく場合があります。ご了承ください。
 
 それからですね、じつはこれフォームメールでして、なんと集計は手動でやるハメになっています(笑)
 選択肢が多すぎるので、どうもうまく合うCGIが無かったんです。
 ですので、回答が多いと死ぬハメになるんですが、しかしどうぞやえを即死させるぐらいの回答をお待ちしています
 100通でも200通でも1000通でもどんとこいですから・・・どんとこいですから、ぜひぜひ、ご興味が今までなかったとしてもご回答ください。
 興味がないという回答でもとても有意義なアンケートになります
 献血に対してどう思っているか、是非お聞かせください。
 よろしくおねがいしますっ。
 
 「☆献血に関する意識調査☆
 
 

平成17年5月17日

 献血をしてみよう


 あ、あ、あ、あまおちさーーーーーん。た、た、た、たいへんでーーーーーーーす。
 
 なんだ?生理でも来たのか?
 
 バギッ!!
 
 ぎゃー、オレの鼻が生理ダー。
 
 ドカッバキッボキッ。
 
 ・・・返事がないただのしかばねのようだ。
 
 自分で言っても意味ないですよ。
 
 しかばねぇなぁ。
 
 うわっ。いますごいコト言いましたよね。これはもうダメですね。おやじギャグ中のおやじギャグです。キングオブおやじです。今年のオヤジギャグ大賞にノミネートされました。おめでとうございます。
 
 ・・・返事がないただのしかばねのようだ。
 
 もういいですから、聞いてください。
 
 む?
 
 すでにアンケートが150通ぐらいきているんですが・・・。
 
 ・・・なっ!?
 
 まだまだ来そうですよこれ。
 
 (((( ;゜Д゜))))ガクガクブルブル・・はっ、それは喜ぶべき事だろ。
 
 そ、そうですよね。みなさん本当にありがとうございます。これからもやえをガクブルさせるぐらい送ってください。
 
 目指せ1000通。
 
 そ、それは、とても気合いを入れないといけないですね・・・(汗
 
 
 
 ところでだなー、この献血の問題だが、まぁなんだ、オレは献血したことないわけだ。
 
 はい。なんでですか?
 
 痛いから(゚∀゚) というか、注射自体が嫌い。前も言ったが、オレは健康優良児で、体にメスを入れる事はおろか、入院や救急車に乗ったことすらないぐらいである。そんなオレが注射だなんて非日常的な痛みに耐えられるわけがないだろっ。結構前に40度以上の熱が出たことがあって病院に行った時、医者に「注射うとうか?」と聞かれて、「それだけはかんべんしてください」と息を切らせながら言ったぐらいだ。どうだ、まいったか。
 
 はぁ。よくわかんないですけど、あまおちさんが子供並というコトはわかりました。
 
 がーん。
 
 で、なんですか?
 
 あ、ああ、あのだな、献血問題を扱うのだから、ここは敢えて献血してみるのもいいんじゃないかと思ってだな。本来はイヤなんだが、献血した後、どんな心情の変化があるのかなかなか興味深いじゃないか。
 
 なるほどー。例えば看護婦さんのお尻ばかり見てて楽しかったとか言いそうですしね。
 
 そりゃおめーだろ。
 
 ちがいますっ!!
 
 いやあもしかしたら「すごくいい事をしたなー。すがすがしいよ。こんなことで一つの命が助かると思うと、なんて素晴らしい事をしたんだと思うなぁ。また献血しよう」とか、さわやかになるひとときのコカコーラを飲んだ後のように清々しい顔で芸能人が命の白い歯をキラッと光らせながらゲッツと言って華麗に去っていけるかもしれないぞ。
 
 どれもこれも微妙に古くて、特に最後は文章的に合っていない気もするんですが、それはともかく、あまおちさんに限ってそれはないです。
 
 なぜ断言するんダー。
 
 そんなの気持ち悪いだけじゃないですか。優しさの入っていないバファリンに価値がないのと同じように、心の澄んだあまおちさんなんて存在価値ないですよ。きれいなジャイアンより気持ち悪いですよ。
 
 ひどい言われようだ・・・。
 
 まぁでも、心がドス黒い冷徹人間のあまおちさんなら、献血した後の感想と、大論としての献血制度の考え方は、ちゃんと分けて考えられるでしょうけどね。
 
 ドス黒いは余計だ。でもまぁ何事も経験だからな、やってみても悪くないとは思う。こんな機会じゃないと一生しなさそうだしなー(笑)
 
 ま、まぁ、いいんじゃないんですか?善意が前提の献血というモノにおいて、ナースが目的という不純動機の場合、果たしてそれは善意と言えるのかどうか分からないですけど。
 
 ま、まぁ、ナースが目的のひとつではあるが・・・いや、そうではないだろっ。確かに善意でやるわけでもないが。
 
 血は血ですしね。いくらドス黒くても。
 
 ・・・。それはともかくだな、ただ、ここに来て、ひとつ問題があるような気がするのだ。果たしてオレは献血出来るのだろうかと。
 
 血がドス黒いからですか?
 
 ・・・それはもういいから・・・。そうじゃなくて、オレ、この前言ったように、手術しただろ。鼻の
 
 あ。そういえばそうですね。でも輸血は受けてないんですよね?
 
 うーん、まぁそうなんだけど、どうなんだろうなぁ。鼻血出まくってたし。
 
 えーと、ここで献血の条件が書いてありますよ
 
 どれどれ・・・んー、一応、手術した人はしてはいけませんとは書いてないな。
 
 でももしかしたら、手術したような人っていうのは、普通常識的に考えて献血には来ないと思っているだけかもしれませんよ?
 
 そうだよなー。まぁでもその場合でも、大量に出血した人とかが対象だろうから、所詮手術時間20分程度のレーザー手術なんて、ここには該当しないんじゃないのかなぁ。歯科治療はダメらしいが、これでも3日間だけの話だしなぁ。
 
 あ、あまおちさん、こんなの見つけましたよ。

 あまおちさん、アレルギー性鼻炎じゃなかったんですか?
 
 あ・・・ホントだ・・・。ど、どうなんだ、これ。鼻炎程度がなんか問題あるのか?もしかしたらオレの血を輸血された人は、アレルギー性鼻炎になっちまうのか?しかもかなり重度の
 
 血はドス黒いですし。
 
 ・・・だからそれから離れろと。
 
 あと、こんなのもありましたよ。

 あまおちさん、いま点鼻薬使ってますよね?
 
 あ、ああ、使ってるな。よくし忘れとるが(笑)
 
 かなりグレーっぽくないです?
 
 グレーっぽいな・・・。
 
 血はドス黒いですが。
 
 けっこうしつこいなおい(笑)
 
 まぁ、それも含めて献血所まで行ってみたらどうですか?出来ないなら出来ないで、それはそれでいい経験じゃないですか。
 
 うーん、それはそうだな。しかしせっかくここまで献血する気になったのに、ここにきて出来ないと言われたら、なんか腹立つな(笑)
 
 じゃあ誰かと一緒に行ったらどうですか?その場で意識調査もできますよ。
 
 ん?おお、それはいいじゃないか。うむ。いいアイディアだ。それいいな。というワケで、「献血オフ」はどうだ。おもしろいじゃないか。オフ名がなんかイヤ過ぎだが(笑)いまならやえもついてくるぞ。
 
 え?やえは十四歳ですから献血できませんよ?
 
 あ、ホントだ。
 
 頑張ってお仲間探してください。
 
 うーむ。まぁ、オフは、なんだ、ともかく、献血の条件見ていたら、こんなの見つけたんだが、これはなんか腑に落ちない気がする。

 あ。あまおちさん、出来ないじゃないですか。
 
 やかましい。そうじゃなくて、これ、レズでもダメだろ。やえはダメだ。
 
 違いますっ。
 
 冗談はともかく、確かエイズって精液も媒介するが、膣液も媒介するだろ。男女のセックスでも女に感染する場合はあるわけなんだからな。それなのにホモだけ禁止っておかしくないか?しかも通常のセックスよりホモセックスの方がエイズになりやすいっていう理屈は成り立たないんじゃないのか。「コンドームを使用しないセックス」であるなら理由としては成り立つとは思うが。
 
 あー、そうですねぇ。うーん、
 
 日本にエイズが上陸したとか言われた時、厚生省が必死に「エイズはホモが感染する病気」とイメージ操作していた時期があったが、こりゃ犯罪だと今でも思っているが、しかしそんな偏見助長が今でも残っているんかいな。
 
 あれは酷かったですよね。ホント冗談でなく、人権委員会に訴えるようなモノですよ。というか裁判モノですよね。
 
 こういうの見ると差別というのはやっぱり根が深いなぁと思うよな。まぁもしかしたら、学術的にコンドームをしない場合の通常のセックスよりもレズセックスよりもホモセックスが飛び抜けて感染率が高い理由があるのかもしれんが。どっちにしても、厚生省や一部企業や一部医師のミスをホモのせいにするのは許される行為ではないわけだしな。
 
 教育レベルでこういう悪意あるすり込みをしていたという話も聞いています。
 
 うむ。ホント当時は最悪だった。まぁその事はまた後日やろう。ところでだな、やっぱりオレは献血できないみたいだぞ。
 
 え?アレルギーですか?
 
 いや、ほら、書いてあるじゃないか。

 輸血を必要とする患者さんへの感染を防ぐため、過去1年間に下記に該当する方は、献血をご遠慮いただいています。
 ■ 不特定の異性と性的接触を持った

 はいはい。
 
 ・・・・・・・。
 

平成17年5月18日

 人権擁護法案総論(7)−人権委員会−


 ひさしぶりにこの話題です。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 前回まででは、この法律が施行された場合、現実的にはなにがどう変わるかというコトを考えていきました。
 具体的には、人権侵害が起こり改善される見込みがない場合には、人権救済措置というモノが発動されるというコトになる、という部分を見ていったワケです。
 この救済措置によって、裁判という非常に手間がかかる手段を使う前に、迅速に人権救済するコトができるようになる、というコトでしたね。
 
 では次に、この救済措置を実質的に行う、人権委員会、そして人権擁護委員というモノについて考えていきたいと思います。
 この法案には長々と法文が書いてありますが、この人権委員会と人権救済措置の部分だけで大半を占めております。
 つまり、救済措置と人権委員会をシッカリと見ていけば、法案としても全体を見渡せられるといえると思います。
 というワケで、今回から、この法案二番目のキモ、人権委員会について見ていきたいと思います。
 
 
 まず、この人権委員会という存在は、いったいどういうコトをする組織なのか、です。
 
 一応ですね、第六条に人権委員会の職務が書いてあるのですが、そこには、例えば「人権侵害による被害の救済及び予防に関すること」とか、当たり前のようなコトしか書いていませんで、これらはさして重要視するような項目もないですから、流しておきます。
 それよりも、この法案のもっとも重要なところは「人権救済措置」が出来るところと何度も言っていますが、人権委員会はその救済措置を講ずるか否かという判断をするという立場におかれるワケでして、よって、この法案において人権委員会のもっとも重要な仕事は、この救済措置の取扱いだと言えると思います。

 (救済手続の開始)
 第三十八条
 何人も、人権侵害による被害を受け、又は受けるおそれがあるときは、人権委員会に対し、その旨を申し出て、当該人権侵害による被害の救済又は予防を図るため適当な措置を講ずべきことを求めることができる。
 
 2 人権委員会は、前項の申出があったときは、当該申出に係る人権侵害事件について、この法律の定めるところにより、遅滞なく必要な調査をし、適当な措置を講じなければならない。ただし、当該事件がその性質上これを行うのに適当でないと認めるとき、不当な目的で当該申出がされたと認めるとき、人権侵害による被害が発生しておらず、かつ、発生するおそれがないことが明らかであるとき、又は当該申出が行為の日(継続する行為にあっては、その終了した日)から一年を経過した事件に係るものであるときは、この限りでない。
 
 3 人権委員会は、人権侵害による被害の救済又は予防を図るため必要があると認めるときは、職権で、この法律の定めるところにより、必要な調査をし、適当な措置を講ずることができる。
 
 4 人権委員会は、この法律の定めるところにより調査をした結果、人権侵害による被害が発生し、又は発生するおそれがあると認められないことその他の事由によりこの法律の規定による措置を講ずる必要がないと認める場合において、当該調査を受けた者から当該調査の結果についての通知を求める旨の申出があったときは、当該申出をした者に対し、当該調査の結果を通知しなければならない。

 一応第三十八条全文を載せましたが、ここで扱うのは、人権委員会が人権救済措置の取扱いをする権限を持っているというコトを示す部分だけであり、この条では、いわゆる「不開始事由」という規定も入っているのですが、これは総論の第2回目で詳しく述べていますので、そちらをご覧ください。
 
 で、救済措置においては、様々な規定の中から侵害者に対して罰則などの措置が講じられていくワケですが、その訴えがあった「人権侵害」というモノが本当に人権侵害なのか、そしてそれをどう救済していくのか、というコトを判断するのはすべて人権委員会の職責になります。
 逆に言えば、人権委員会以外の機関が人権侵害と判断するコトは出来ないというコトになります。
 また、一言で「人権救済措置」と言っても、その中身にはいろいろな種類がありまして、どのパターンを使用して救済していくのかという、そういう判断も人権委員会の仕事になりますし、また、人権侵害かどうかという調査が必要であるという判断や、そのゴーサインも人権委員会の職責でありますから、まさにこの法案の頭脳であり指揮権の全てを持っているのが人権委員会なのです。
 
 つまり、この法案に規定されているすべての職務の判断とその責任は、すべて人権委員会に帰されているワケであり、人権救済措置も人権委員会が認めない限り発動するコトは絶対ないワケです。
 
 
 では、そんなこの法案のすべての権限を認められている人権委員会とは、一体どのような構成になっているのでしょうか。
 条文ではこうなっています。

 (組織)
 第八条
 人権委員会は、委員長及び委員四人をもって組織する。
 2 委員のうち三人は、非常勤とする。
 3 委員長は、人権委員会の会務を総理し、人権委員会を代表する。
 4 委員長に事故があるときは、常勤の委員が、その職務を代理する。

 人権委員会は5人で、その内のひとりは委員長となり、委員会を代表するコトになります。
 また、4人の委員の内3人は非常勤であり、毎日出勤する必要はないとされているワケですね。
 よって、委員長とひとりの委員は毎日必ず委員会の事務所に出勤しているというコトになります。
 
 次に、この人権委員会という人たちはどのような人たちがなるのか見てみましょう。
 具体的に規定がなされています。

 (委員長及び委員の任命)
 第九条
 委員長及び委員は、人格が高潔で人権に関して高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験のあるもののうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命ずる。
 
 2 前項の任命に当たっては、委員長及び委員のうち、男女のいずれか一方の数が二名未満とならないよう努めるものとする。
 
 3 委員長又は委員の任期が満了し、又は欠員を生じた場合において、国会の閉会又は衆議院の解散のため両議院の同意を得ることができないときは、内閣総理大臣は、第一項の規定にかかわらず、同項に定める資格を有する者のうちから、委員長又は委員を任命することができる。
 
4 前項の場合においては、任命後最初の国会において両議院の事後の承認を得なければならない。

 よく「人権委員会委員の選定が不鮮明で、偏った人選がされる可能性がある」とかいう批判があるみたいですが、正直言いまして、そういうコトを言っている人は果たしてこの条文をちゃんと読んでいるのか疑問でなりません。
 その人物が人権委員に適任かどうかという条件と手続きを箇条書きにすると、この3つになります。
 
 「人格が高潔で人権に関して高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験がある」
 「両議員(衆院・参院)の同意を得る」
 「内閣総理大臣が任命する」
 
 特に下の2つが重要です。
 この2つの条文は、日本のトップである総理大臣の任命と、国民すべての代表である国会議員で組織する両議員の同意が必要であるという規定になっているワケですね。
 これは大臣や副大臣などに匹敵するような「厳しさ」であると言えます。
 人権委員会と同格の委員会である公正取引委員会の委員長は天皇の認証も必要となっていますので、本来なら人権委員会の委員長にも天皇による認証をすべきだとは思いますが、しかし実質的な「審査の場」という意味においては、国会の同意を得るという部分において、大臣や公正取引委員会と同等であると言えるでしょう。
 これは、民主主義国である日本国内においては、これ以上のない公平公正な審査なのです。
 
 もしこの制度においても「不鮮明」とか言うのであれば、もはやこれは民主主義日本全てを否定するコトになるでしょう
 総理大臣はもとより、大臣副大臣、また国会で作られる日本の法律全てをも否定するコトにつながります。
 もちろん、そんな主張をするというのであれば、その行為を否定するコトは出来ませんので、そう主張されるのであればそれはそれでいいんですけど、しかし、日本の法律は認めて、この人権法案のこの部分だけを否定するというのは、これは全くの矛盾となります。
 この辺はキチンと理論の一貫性を持って語ってほしいと思います。
 
 氏名公開などの権限を与えられている人権委員会ですが、このように非常に「民主的」な組織だと言えるでしょう。
 
 また、委員長および委員の選定以外の点においても、委員会の民主的な面を保証するような条項があります。

 (公聴会)
 第十七条
 人権委員会は、その職務を行うため必要があると認めるときは、公聴会を開いて、広く一般の意見を聴くことができる。
 
 (職務遂行の結果の公表)
 第十八条
 人権委員会は、この法律の適正な運用を図るため、適時に、その職務遂行の結果を一般に公表することができる。
 
 (国会に対する報告等)
 第十九条
 人権委員会は、毎年、内閣総理大臣を経由して国会に対し、所掌事務の処理状況を報告するとともに、その概要を公表しなければならない。
 
 (内閣総理大臣等又は国会に対する意見の提出)
 第二十条
 人権委員会は、内閣総理大臣若しくは関係行政機関の長に対し、又は内閣総理大臣を経由して国会に対し、この法律の目的を達成するために必要な事項に関し、意見を提出することができる。

 人権委員会が必要と判断すれば一般国民から意見を聞くコトができ、また職務の結果を公表するコトもできます。
 また、年一回は必ず国会に状況を報告する義務を課せられているワケです。
 そして、人権委員会が望む場合には総理大臣や各大臣、または国会に対して、意見を提出するコトも許されています。
 このように、双方向に意見をやりとりできるシステムもここで作られているワケでして、特に第十九条においては国会に報告の義務も課せられているワケですから、もし人権委員会がどのような活動をしているのか知りたい場合は、国会を通じて情報公開がなされるでしょうから、そこで一般国民でも知るコトが出来ると思います。
 
 ここまでして、なお「不透明」と言うのであれば、ではどうすれば満足できるのか逆に聞いてみたいです。
 民主主義においてもっとも「民主的」な人事は選挙という方法ですが、それをすると身分は議員になるワケで、では次に民主的な人事は何かといえば、その民意を付託された国会議員やその代表である総理大臣が任命するという方法です。
 前にも言いましたように、民主主義と選挙という手段は、決して結果が素晴らしいと望まれるから採用しているワケではありません。
 結果が良かろうが悪かろうが最終的な責任は、一部の専制者にではなく、全ての国民に期するようにしているのが民主主義というシステムなのです。
 結果を求めているのではなく、あくまで選ぶときに国民全ての意志を反映させるというコトが、民主主義の基本的思想であるのです。
 もちろんその制度において間違いを犯してしまう可能性を小さくするような選定基準を設けるのは決して悪くはありませんが、しかし例えば議員を選ぶ場合というのは、年齢の基準以外は、犯罪を犯して被選挙権を○年停止とかされない限り無制限であり、つまり日本国のシステムにおいて最も強い権限を持つ国会議員という職業には、選挙以外の選定基準は無い、というコトも頭に入れておく必要があるでしょう。
 自分が独裁者になろうと企むような人間であったとしても、選挙に通れば議員になれるというのが、民主主義の特徴なのです。
 ですから、「この方法で選ばれた人権委員では悪い結果になってしまう」というのは、特に公的な人事の時に対する批判としてはあまり適切ではありません。
 「民主的な手段ではないのでダメだ」と言うのであれば一考の余地はありますが、この人権委員の選定においては「不透明だ」という批判はちょっと当てはまらないでしょう。
 
 むしろここで不適切な人事が行われたとしたら、そんな人選をした議会や総理の責任であり、そしてそれを選択した国民の責任であるのです。
 総理であれ、政治家であれ、国民が選んだ結果というコトを忘れてはいけません
 民主主義の最も基本的なルールは、全ての最終的な責任は、全ての国民にあるというところなのですから。
 

平成17年5月19日

 民主党様


 郵政法案で対決確認 民主、審議拒否も選択肢
 
 郵政民営化関連法案の廃案を目指し、政府、与党と対決する方針を確認した。当面は衆院特別委員会設置に反対し、審議拒否戦術も選択肢に入れながら「メリハリのついた戦い」(岡田克也代表)を進めていく考えだ。

 
 えーと。
 つまりですね
 
 「オレたちの言うことを聞かなければ、協議には参加しないぞ。欠席しちゃうぞ。これで協議は開けないだろ。へへん」
 
 と岡田さんと民主党は言っているワケです。
 
 えーと。
 やえはですね、似たようなセリフをどこかで聞いたコトがあるような気がするんです。
 どこで聞いたんでしたっけ・・・。
 
 うーん
 
 うーん
 
 
 うーん
 
 
 
 ???
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 え!!!???
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 あ!!!!!
 
 
 この人です。
 確かこの人も同じコト言ってますよね。
 
 我々の要望を満たさないと六カ国協議には出席しないニダ。
 
 
 はぁ。
 やっとスッキリしました。
 喉の奥の魚の骨が取れた思いです。
 ふー。
 
 
 
 
 ちょっぴりむなしい感じがするのは気のせいですよね!?
 

平成17年5月23日

 ビザのお話

 
 ええと、人権法案のお話ですが、あれはですね、とりあえず「総論」は全て書き上げておきたいと思っているんです。
 それが完成されればですね、反論が来た場合でも、「それについてはこの部分ですでに触れています」と、これだけで済むようになるワケでして、それぐらいまでは書き上げたいんです。
 別の切り口は今考えていまして、本当ならそっちの方がおもしろそうなんでそれがやりたいんですけど、とりあえずは総論が書き終わってからというコトになります。
 あと数回で終われると思うんですけどね。
 飽きた方ごめんなさい。
 しばらくおつきあいください。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 さて。
 なんだかとっても期待されているみたいなので、ちょっとだけビザのお話をしたいと思います。
 あと、今日、ごめんなさい、かなり忙しくてですね、このビザのお話だけで終わりにさせてください。
 と言うと、なにかやえがこのお話に消極的な印象を持たれるかもしれませんが、そうです、ちょっとこの件に関しては、正直言いましてやえはけっこうどうでもいいです。
 
 と言うと、とてもお怒りになられる方がたくさんいらっしゃるんじゃないかと思います。
 おそらく、中国や韓国の、ちょっと…いや、かなりアレな人がたくさん日本に流入してしまって、日本の治安とかがとても悪くなってしまうんじゃないかと、そういう危惧を持っているのでしょう。
 今までビザである程度変な人間を蹴れていたのに、それを無くすとは何事だ、と、そういうお話ですよね。
 
 いろいろな視点がこの問題にもあると思うんですが、ますはですね、とりあえず「韓国人だから」とか「中国人だから」という言葉ひとつで全てをひとくくりにしてひとりの人間を断じるというのは、やはりいかがなものかと思うんです。
 例えば当サイトでも「中国人なんて」という言い方はよくしますが、こういう場合というのは、中国人という属性で見た場合の全体的な“特徴”として批判なりをしている場合なのであり、決して個人に対してその人を断言しているのではないワケです。
 この辺の使い分けが、言葉だけではなかなか説明が難しいのですが、「日本人は几帳面だ」とよく言われているところでありますが、しかし日本人の中にも几帳面でない人もいるのは当然の話ですよね。
 だけど“総論”としては几帳面であるというコトは間違いでないワケで、つまりですね、「中国人は」とか「韓国人は」とか「日本人は」という言葉でくくって話をする場合には、あくまで全体的な平均を出した総論での話であって、その中の全ての人間が等しくそうであるという意味では決してないのです。
 ここをしっかりと区別しておく必要があります。
 
 で、確かに中国人や韓国人は日本で犯罪を犯しまくっています。
 この表現は間違いではありません。
 しかし、ある韓国人ひとりを捕まえて、例えばヒェミちゃんとかをですね捕まえて、「お前は犯罪者だ」と言ってしまうのは、全くの間違いですよね。
 ビザの問題というのは、個人ひとりひとりの問題であります。
 その人が日本に入っても大丈夫かどうか、ひとりひとり精査するというのがビザの役割として存在しているワケです。
 しかし、その韓国人が犯罪を犯すかどうかというのは、総論では決して言えないワケですからね。
 ですから、一概に「韓国人をビザ無しにするのはどういうコトか」と言ってしまうのは、ちょっと違うんじゃないかと思っています。
 
 ただですね、やえは最初に「けっこうどうでもいい」と言いましたように、上記のような視点がある一方、やはり中国人韓国人の犯罪は無視できないぐらいの規模があるワケでして、そして中国人韓国人を全部追い出せばそれらの犯罪がなくなるというのは確かなコトですから、そういう意味で、やえはやっぱり積極的にビザ無しを賛成する気も起きないのです。
 というか、心情的には「ビザ無し化」はんたーいと言いたいところです。
 個人個人に見れば決して批判ばかりではありませんが、やはり総論としては中国人韓国人に対してはあまりいい感情を持っていませんしね。
 
 政治的な視点で見れば、やはり国と国というのは対等な立場であって、いくら犯罪者が多かろうが、韓国→日本の観光ビザが無しになっている現状からすれば「相互主義」の観点から、日本もそうすべきだろうというのは確かな話です。
 ですから、「日本へのビザ無しは出来ないから、韓国へ行く場合のビザを復活させてもよいよ」と言えば、一応筋は通るワケですが、これではほとんどケンカを売っちゃってますよね。
 よって政治的な面で言えば、おおっぴらに反対は出来ないワケです。
 
 こうなると、政治と思想の問題になっちゃうんですが、このビザ問題の場合、現実無視して大騒ぎするのもどうかなぁと思いますし、日本から韓国に行く場合のビザをとらなければならなくなった場合やえはちょっと面倒だなと思ういますが、その一方、でも韓国→日本のビザが残ってもそれはそれでやえは困らないですし、同時に治安も守れるワケですから、現状維持ならその方がいいと思うワケです。
 やえは、そんないろいろな思惑が交差して、結論的に「わりとどうでもいい」となっちゃっているのでしょう。
 
 
 なんて言いましょうか、日本での外国人犯罪が増えているのは、もちろん日本国内においての警察活動をよりいっそう強化させる必要があるのは言うまでもないコトですが、また同時に、その国に対して「なんとかしろ」とシッカリと主張するというのも大切なコトだと思います。
 日本には今それが一番欠けているのではないかと思うのです。
 国民的な議論からしても、「ビザをどうするか」という議論にいくのではなく、まず中国や韓国人が起こす犯罪がどれだけ数が大きくて凶悪なのか、その辺の国民の下地的な共通認識をまず作り上げて、そしてその上で、中国韓国に向かって「お前らの国の人間によってこれだけ迷惑しているんだ。なんとかしろ。こんなだからビザ無しには出来ないんだよ」と、こう言えるようになる必要があるのではないでしょうか。
 日本政府に向かっては、ビザ無しを決断するかといったような小手先の技術論をどうこう言うのではなく、そのような主張を堂々と相手国に向かって言えるような、言わさせるような空気を作って、背中を後押しさせるコトが大切だと思います。
 
 
 まぁ、そんな感じです。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、えーと、どうしましょう、とりあえず、外国人犯罪撲滅を応援しています。
 

平成17年5月24日

 民主主義の話

 
 んー、今日はだなぁ、人権法の議論でよく見かけた意見の中に、民主主義というものを全く勘違いしているヤツがかなり多いように見受けられたから、これについて語ってみようかと思うんだぁ。あー。
 
 なんだかものすごくやる気がないですね?どうかされました?
 
 あーもーねー、どうでもいいや、つまらん飲みほど疲れるものはねぇよなー。なので、今日はローテンションモードでいってみようかー。
 
 は、はあ。ま、まぁ、えーと、民主主義のお話って、やえも今まで何度かしてきましたけど、なかなか理解されないんですよね。おそらく頭でその場では理解しても、感情が納得しないというかですね。
 
 この対話式はさらに「わかりやすい」と好評いただいているからな。今日でガッツリ納得させようじゃないか。
 
 
 
 まずは〜、どのように勘違いしているのか例示してみようかぁ〜。
 
 シャキッとしてください。ええとですね、人権法の中でこの法を行使する権限を持つ人権委員会というモノがあるんですけど、この人たちの選出条件として「国会の同意」と「総理の任命」の2つを経なければならないんですね。というコトは、これは大臣クラスの選定方法なワケでして、これは十分に民主主義を担保していると言えるワケです。しかしこれに納得しない人というのは、「いくら民主主義が担保されていても人権委員会が暴走する可能性もあるじゃないか」と言っているのです。
 
 うむ。まずはだな、これはやえも何度も言っているのだが、この大前提を忘れてはならない。「民主主義とは結果を求めている制度ではない」という事だ。結果が優れるだろうと期待して作られた制度ではないのである。ではなぜ民主主義が現在最も多く支持されているのか。その最大のメリットというか、特徴を述べなさい。やえくん。
 
 え!?今日はそういう設定なんですか?
 
 つべこべ言わず答えれ。
 
 は、はい。ええと、責任の所在を国民ひとりひとりに帰属させるためです。
 
 そうだ。民主主義とは、まず最悪の事態をどう考えるかというところに視点を置いている。最悪の事態とは国家が崩壊する場合となるわけだが、では崩壊した場合誰に責任があるのかという問題が起こるわな。もしその国家が王制ならば王様が悪いんだろう。王政であるなら、国民・民衆は全く政治に関わることが出来なくて、ただ言われたとおり税を納めるだけだ。それなのにさらに国が滅びて迷惑ばっかり被るのは理不尽だと。だから今度は国民が政治を行おうとなった。それならば仮に国家が崩壊しても、まぁその責任は自分たちにあるのだから、自分たちが全く手が出せない王政よりはいいんじゃないかと。
 
 また、基本的にはひとりだけで政治の全てを司る王政に比べ、複数の人間が政治を司る民主主義の方が、間違いを犯す可能性は少ないのではないかという理由もありますよね。また民主主義は反対意見も堂々と主張できるので、そういう意味からも、政治が極端に走る可能性も少ないんじゃないかという点もあります。
 
 うむうむ。では逆に、民主主義のデメリットはなんだ?やえくん。
 
 はい。複数人で政治を行いますから、どうしてもフットワークが悪くなる点。そして同時に決断しにくくなる点です。全ての国民の意見を聞くというのが基本の民主主義においては、政治は国民の意見の真ん中をとらざるを得ず、結果的にあまり変化を期待できない政治になってしまいます。もちろん変化が少ないというのはメリットになる場合もありますが。
 
 よしよし。で、これらメリットもデメリットもふまえて現代の日本は民主主義を採用しているわけだな。もう一度繰り返すが、民主主義は結果が最良となる可能性が高いから採用しているのではない。むしろ結果を求めるなら王政の方が可能性は高い。そして最悪になる可能性も高いと。内容や結果ではなくて、責任がどこにあるのかという点において民主主義が採用されているのである。で、なんの話だっけぇ?
 
 素晴らしくやる気がありませんね。「暴走の可能性」ですよ。
 
 ああ、そうか。ん?暴走の可能性って、そんなのなんだって暴走するかもしれねーじゃん。民主主義に限らずよー。
 
 そうなんですよね。なぜ民主主義の暴走だけが最悪なのか、そこに触れているような意見は全くないんですよね。
 
 「国民が暴走してしまう可能性は否定できない」って言ってるヤツは、自分もその国民の一部だという意識が欠落してるんじゃねぇのか。せっかく自分の手で政治を行える制度があるのに、他人事のように言ってどうするんだっての。だからな、国民が暴走しても、それは国民が選択した事で、誰の責任かって言えば国民なんだよ。それ以上も以下もないのに、この部分をどう批判できるっていうんだ?国民が暴走する可能性があるから王政にしましょうって言うのか?じゃあその王様が暴走する可能性は0なのか?そしてその場合、口も出せずに圧政に苦しむだけの国民の姿で満足なのかって話なんだよ。
 
 むしろその方が大暴走してしまうかもしれないんですけどね。
 
 何度も言っているように、民主主義は結果を求めていない。よって「暴走するかどうか」という点を見ているのではないのだ。暴走したときの責任が自分たちの手にあるかどうかという事が一番の重要視する点であり、それが民主主義の基本なのである。
 
 乱暴な言い方すれば「暴走してもそれはみんなの責任ですから仕方ないですよ」というコトなんですよね。
 
 まぁ仕方ないというかな、暴走の可能性を0に出来るシステムがあれば教えてもらいたいぐらいだ。王制にしよう、でも暴走の可能性が0ではないから駄目だ、では貴族制にしよう、でも貴族が暴走する可能性はやっぱり0ではないから駄目だ、こまったなぁ、と。じゃあどうせ暴走の可能性が0にならないんだったら、せめて自分の手で管理しようと。一部の人間だけで暴走されてもそれは理不尽だから、せめて国民の手で政治をしようと、これが民主主義なのである。
 
 「暴走したのはひとりの人間だけだった」というのと、どっちがいいんですかって話でしかないんですよね。
 
 しかし最近の国民っつーのは、なんだ、権利だけは大いに主張するくせに、責任の話になったら「民衆も暴走する可能性がある」なんて言ってしまう。こんなのワガママでしかないわけであって、一切権利権限がないけど結果責任も負わないのか、それとも権利がありもちろん責任も負うか、どっちかしかねぇんだが、それがわかんねぇんだよなぁ。
 
 あとおもしろいのがですね、「民主党が政権とったら終わりじゃないか。これも国民の責任って言うのか」みたいなコトを言う人がいるんですよね。
 
 その発言は根本的に矛盾しているのが気づかないのかのぉ。民主党が政権をとるようなコトが起きたら、それは国民が民主党を選んだという事に他ならず、それが民意という事なんだがな。それを暴走と言ったところで国民の選択には違いないんだから、安易に暴走とかレッテルを貼っても仕方ねぇんだよ。民主主義は結果を求めているんじゃねぇんだからな。民主党を選ぶような国民が悪いんだよ。日本国民全員の責任なんだよ。
 
 なぜか国民に責任を負わすような発言をすると怒り狂う人がいるんですよね。不思議ですよねぇ。
 
 現代の日本に生きているという事は、この日本の制度を享受している事なんだから、否定してもしゃねぇんだよな。イヤなら外国に行けって事になる。もしくはクーデターするかだな。
 
 一行でもこんなのありましたよね。「要するにやえたんは国民がアホだから政治は腐ってるといいたいわけか」
 
 そもそも「政治が腐っている」というのはどのような状態を指すのかを明確にする必要があるし、何度も何度も耳たこだろうが、民主主義は結果を求めている制度ではないから、「民意が正しく反映させれている」=「腐っていない」とはならないわけだ。さらに、「国民がアホ」→「政治が腐る」=「民主主義的に正しくない」とはならない。10年前、非自民連合で政権が作られたが、あれはもうひどいというか、腐っている政権だった。しかし民主主義的には国民が選択したのだから民主主義的には間違いではないわけだ。誰が悪いのか、腐った政治はなぜ起きたのか。それは国民がそんな選択をした結果であり責任であると、そういう事だ。
 
 この一行の人は、まず「今の政治が腐っている」という前提で言っているんですよね。しかしその腐っているという意味が、「国民が政権を自民党に渡しているから」という意味であるならば、それは果たして「腐っている」と言えるのかどうかはかなり疑問です。民主主義のルールに則って今の自民党政権が出来ているのですから、制度上ルール上は何ら間違っていないワケで、ですから「腐っている」なんて言われる筋合いはないんですね。
 
 例えば靖国の問題を挙げてみようか。日本の総理大臣が堂々と参拝できなくなってしまっている、この状態、この政策が「腐っている」と言うのであれば、やはり当サイト的には「国民がアホだから」と主張するだろう。先の大戦を一方的に自ら否定し、戦後50年、いくところまで左傾化させてしまったのは、他でもない日本国民自らの手によってなんだからな。未だに朝日のように中国の愚考を肯定するかのような発言をしている輩がいるわけだが、ついぞ10年前までは、それが多数だったわけだ。拉致問題だって、コトアゲするだけで右翼扱いだったわけだ。一応小泉訪朝のずーっと前からこの問題を取り上げてきたオレから言わせれば、拉致が発生してどうしてこんなに長い年月がたつまで放置していたのか、その原因は「国民がアホだった」としか言いようがねぇんだよ。
 
 で、きっかけにもどりまして、人権法では、人権委員の人選には議会と総理のハンコが必要になっていますが、確かに民主党が政権を取ったら、トンデモナイ人が人権委員になる可能性はあります。しかしこれは民主主義的にはルール的には間違いでないワケで、その最終責任は選んだ国民にあるワケです。つれは言わば、だだ単に自分で自分の首を絞めているだけなんですね。
 
 つまり、人権法が民主主義上の法律である以上、その人権委員の選定方法が民主主義のルールに則っていれば大筋で問題はないと言える。民主主義国家だからな。自らを否定する事など出来ない。法律の専門家でないとかなんとかという意見もあるみたいだが、それはしかし法文上に同様の規定があるし、そもそも日本の法律を作っている政治家の選出の際にはそんな規定は無い。法律の専門家でない人間だって法律を作れるわけで、やはり民主主義というのは、そのルールに則っているか、選挙を経ているかという点がもっとも重要な価値にされているのだ。
 
 そもそも民主党が政権を取った場合というのは、人権委員がトンデモナイ人である前に、総理大臣がトンデモナイ人になっているワケですから、もうどうしようもないんですね。もちろんある程度それを押さえるために法や憲法があるワケですが、最終的な運用と言いましょうか、どう使うかというのは人間の手によってなされるワケでして、これはなんにでも言えますよね、いくら素晴らしい自動車でも、運転手がダメなら大事故になるワケでして、民主主義におきましては、その運転手を国民の責任において決定するのですから、ひとりひとりが高い意識を持つしかないのです。
 
 それが民主主義なんだよな。暴走する可能性とか言っても無意味。可能性だけならどんな制度でもどんな法律でもあるわけだし、それを防ぐことは民主主義においては国民の義務であり、責任である。
 
 ですから、「国民が暴走する可能性だってある」という理由では、人権法を否定する理由には全くならないんですね。もしそういう理由で主張するのであれば、「民主党が政権を取る可能性があるようなシステムは間違いだ。今の日本のシステムを根本から壊して作り替えよう」と、人権法より先に言っておかなければならないハズです。
 
 ま、それは、「革命をしよう」と言っているだけだがなー。
 
 民主主義は責任の所在を国民にあるとしているだけです。結果は国民が作るんです。これを忘れてはならないでしょうね。
 

平成17年5月26日

 ミーガン法は感情論

 
 はっはっは。
 今週はオレウィークだ。
 今日はオレ一人でここを進めてやる。
 
 ・・・ん、なんか一人だとやりにくいな。
 まぁいいや。
 でだな、今日はミーガン法についてやろうと思うのだ。
 だからオレなんだがな、とりあえずミーガン法というものをよく知らん人は、過去に特集組んどるから、こっちを見てくれ
 
 では行こうか。
 
 今日発売の『SAPIO』にて、3ページにわたってミーガン法が特集されとった。
 『SAPIO』とは、かの小林よしのり提督が『新・ゴーマニズム宣言』を連載されとる、右派系の雑誌である。
 一応オレは毎週(というか月二回発行なのだが)かかさず買っておる。
 もちろん今回のように賛成できない意見も載っている事もあるのだが、しかしだからといって全否定するのももったいないし、おもしろい記事も少なくない。
 週刊朝日読むよりはタメになるしな。
 
 で、その特集だが、筆者は中央大学法学部教授・犯罪学博士の藤本哲也氏である。
 オレはこの人をよく知らないのだが、けっこうな数の著書を出しているみたいだし、法学に関しては中央大学は日本でもトップである。
 しかも、氏はカリフォルニア大学犯罪学の博士号も持っているという。
 やはり相当詳しい人なのだろう。
 
 しかし、この法律を語る人の常であろうか、氏も感情論でしか語れていないのである
 誠に残念至極。
 
 ではどこが感情論なのか。
 氏の文章を引用しながら指摘していこう。
 
 氏はミーガン法の必要性を説き、反対する意見を3つに分類し、これに反論する形でミーガン法の正当性を唱えている。
 その3つのミーガン法に反対する意見がこれだ。

 1.刑罰を全うして出所したのに、もう一度名前を公表され、市民権を奪われたも同然で生活しなくてはならないのは「二重処罰」である。
 2.性犯罪だけを特別扱いする理由に疑問がある。
 3.名前や顔写真の公開はプライバシーの侵害である。

 そして、これらに対し、氏の反論はこうなっている。

 1.この法による氏名公開等は、刑罰ではなくてあくまで行政処分であり「二重処罰」には当たらない。また、カリフォルニア州などでは抗弁権を認めているところもある。
 2.性犯罪の被害者は、一次被害だけでなく、取り調べや裁判などでさらに犯罪場面を思い出させてしまうような「セカンドレイプ」、さらには心的な要因から社会生活が出来なくなってしまうといった三次被害をも巻き起こしてしまう。このような性犯罪被害者の特殊性を鑑みなければならない。
 3.前科者の人権よりも、犯罪から身を守る権利の方が優先される。

 1と3においては、アメリカの例をとっている形になっているのだが、文脈から、氏がこれに賛成しているのは明らかなので、氏の考えとさせてもらう。
 
 では今度は、オレがこれらに反論していこうか。
 
 3についてはなにも反論するところはない。
 その通りでよい。
 
 しかし2については、かなり感情論にしかなっていないと言えるだろう。
 それをはっきりさせるために、この部分について、氏の文章を引用してみよう。

 しかし性犯罪は一度巻き込まれると、被害者は犯罪そのもので受けた第1次被害の他に、第2次、第3次と、3度にわたって被害を受けることになる。
 まず最初の犯罪で、体と精神に被害を受ける。次の捜査の段階で嫌な場面を再現させられ、さらに裁判でも同じことを繰り返させられる。いわゆる「セカンド・レイプ」である。さらにはその後、恐怖心から学校や会社に行くことが困難になり、社会生活ができなくなる第3次被害も深刻な問題だ。特に奈良の事件やメーガン事件(引用者注:ミーガン法ができる直接のきっかけとなった米国の事件)のように被害者が幼児の場合は、仮に被害者が殺害されなかったとしても、こうしたダメージを以後80年間も抱えていくことになる。性犯罪だけを問題にする理由は、このように性犯罪被害の特殊性にあるのだ。そのことをまず理解しなければならない。

 中身については特に反論すべき点もないのだが、しかしこの文章で一番問題なのは、なにもこれらの二次三次被害というものは、性犯罪だけに限らないという点である。
 いくら二次三次被害についてとくとくと語ったところで、それが性犯罪特有であるという理由には全くなっていないのだ。
 簡単なこじつけ論である。。
 「ラーメンとは、麺・スープ・具の三種類のコントラストによって織りなす食べ物である。だからこそ天堕亭のラーメンはおいしいのだ」と、こんな風に行っているのに過ぎない。
 ラーメンがその三種類によって出来ているのは当然の事であり周知の事実だが、しかしそれだけでもって天堕亭のラーメンがおいしいという理由には全くならないわけだ。
 一ヶ月がたった福知山線の事故の被害者などだって、被害者は、捜査の段階で根ほり葉ほりその瞬間の場面を繰り替えさせられただろうし、これから裁判になればやはり繰り返してしまう事になるだろう。
 また、もしかしたらレイプで男嫌いになってしまうかもしれないのと同じように、もしかしたら福知山線の被害者は電車や公共交通機関に乗るのに恐怖を抱くようになるかもしれん。
 ここまでくると、どっちがより重いのかなんて、誰にも言えないだろう。
 つまり、ラーメンの例でも明らかであるのだが、二次三次の被害があるからといって、それだけで性犯罪が特異であるとは全く言えず、よって、これをもってミーガン法を正当化させる事は全く出来ないのである。
 
 では最後に1だ。
 これ、オレ自身も、最もこの法案の問題点として提起していて、実はオレの独自指摘だと思っていたりしたんだが、やっぱりけっこう多いのね、この指摘。
 と、ちょっとがっかりな1の指摘なわけだが、それに対する氏の反論は「行政処分だからOK」という事だ。
 なにか人権法と重なるような気がしないでもないが、しかしこれも根本的に間違っていると言わざるを得ない。
 
 もちろんこれは人権法でも言えるんだが、もし仮に、行政の処分や判断と、裁判所の判断が真逆になってしまった場合、果たしてどちらが上に来るのかと考えた場合、当然ここは裁判所の決定の方が上と言わなければならないのではなかろうか。
 むしろそうしないと、独立している三権の一角を占める裁判所の存在意義が無くなってしまう。
 人権法で言えば、人権委員会の最終決定に不服があれば、裁判という手段は保障されている。
 つまりそれは、もし人権委員会の決定と裁判所の決定が違っていたら、裁判所の決定に従うと法律上で明言している事に他ならないわけだ。
 また、最高裁が下した判決というものは、裁判所自らが間違いだったと認めるか、もしくは国会が弾劾権を行使するか、国民審査によって否定されるか、これぐらいしか覆る事は無く、勝手にしゃべる分にはともかく、公的には異議を唱える事すら出来ないのである。
 法を司る存在として、裁判所の果たす役割は限りなく大きいのである。
 権限的にも、最高裁の判例というものは、国会で作られた法律と、ほぼ同様同等同格の権限と権威と強制力を与えられているものであるのだから、これからも、裁判所の決定より行政処分の方が「下」であるのは明らかなのである。
 
 そして、その裁判所が「懲役○年」と決定を下したのである。
 ということは、法律上、日本の制度上、その○年で「罪を償った」と公的には言わなければならないはずだ。
 前にも言ったように、人道上(という言葉はあまり好きではないのだが)は確かに一生をもって償わなければならない場合もあるだろうが、しかし少なくとも、その法によって作られている制度の上では、公的な立場においては、「罪を償った」と言わなければ、むしろアイディンティティの危機なのではないか。
 自己否定してしまう結果になってしまうのではないか。
 よって、裁判所が「○年牢獄に入れば罪を償ったことになる」と決定した以上、もしそれを越えて、刑期が追えた後にさらに罰をくわえるという事をするのであれば、つまりそれは、裁判所の決定を覆す事に他ならないのだ。
 そんな行いは、三権分立という大原則の面からおいても、決して許してはならないのである。
 
 以上から、「行政処分だから問題ないよん」と言ってしまうのは、むしろ日本の法律を否定する事に他ならず、すなわちこれもミーガン法を正当化させる理由には全くならないのだ。
 
 
 このように、この「行政処分だから問題ない」という発言は、裁判所の決定や、その拠り所である法律そのものすらも否定している事になるのだが、それを法律学者が堂々と主張しているというのはどういう事なのだろうか
 まさか、中央大学法学部の教授ともあろう御方が、自分がどんな事を言っているのか理解していないとでも言うのだろうか。
 しかしこれだけにおさまらず、氏は、さらにおそろしい事を言ってしまっているのである。

 日本でも刑務所内で性犯罪者の抱く誤った物の見方を正す認知行動療法が行われているが、アメリカでは、それに加えてより具体的な「行動変容セラピー」や「電気ショック療法」が導入されている。たとえば性犯罪者にポルノを見せ、成人の裸に興奮せずに子供の裸に興奮したら、そのとたん電気ショックやアンモニア刺激が発せられるなどというものだ。
 (中略)
 こうした“治療”には人権の観点から反対する人もいるかもしれない。だが、悲惨な性犯罪が連発する今、「日本版メーガン法」の議論とともに、国民レベルで真剣に考える必要があるだろう。

 自分が理解できない人間は生きている価値がないと言わんばかりの、この野蛮な“治療”はなんだ。
 そして、それを肯定するかのような氏の「凄惨な性犯罪が連発しているのだから導入を考える必要がある」という意見。
 まさに感情論が暴走しているいい見本ではないのだろうか。
 とてもじゃないが、法学者の意見とは思えない。
 
 以前、データを自分勝手に解釈して、さも性犯罪者だけ再犯率が高いかのように印象操作している新聞記事を指摘したことがあるが、このように、「凄惨な性犯罪が多発」という免罪符さえ得られればなにをやってもいいと勘違いしとる奴が多すぎる。
 藤本氏の今回の文章も、性犯罪だけが特異な犯罪であるとは何ら全く証明させていないし、にもかかわらず電気ショックをして異常者は消し去るべきだと、ファシスト真っ青なことすら主張してしまっているのだ。
 これが感情論のこわさである。
 いい加減にしてもらいたい。
 
 
 最後に、「じゃあほっとけばいいのか」という意見もあろうかと思うので、建設的意見も述べておこう。
 ミーガン法の最も間違っている事は、性犯罪だけを特異な存在として扱っている部分である。
 しかしそうでない事は散々指摘したな。
 その上で、再犯防止措置を強化すべきと国民が望むのであれば、それならば前科者全てに同様の措置を執るべきだろう
 上でも述べたが、オレは人権がとうこういうつもりは毛頭ないので、犯罪を犯したという十字架は一生背負ってもらってかまわないから、犯罪者全てを一生監視しろって言うなら、そうすればいいと思う。
 そしてその場合には、法改正が必要であろうな。
 刑期○年が終わった後、釈放されるという意味にするのではなく、あくまで仮保釈であり、これで罪が償われたのではないとはっきりさせる必要があるだろう。
 いわば「禁固○年、刑期一生」という判決文を出させるような制度にすべきだろうな。
 こうやってはじめて、ミーガン法の問題点が全てクリアされるのである。
 
 そうそう。
 ミーガン法という監視下に置くという方法ではなく、刑務所の中で教育や治療をし、正常な状態に戻してから釈放という形を取り、治療が終わらなければ終わるまではずっと刑務所の中にいてもらうような制度にすべき、という意見もあろうかと思う。
 それに対しても、オレはかなり懐疑的だ。
 何が正常で何が異常なのかは、そう簡単に決めていいものなのか、簡単に言えば、本当に犯罪者以外の“正常人”は“正常なセックスしかしてない”と断言できるのか、とても疑問にしか思えない。
 シャワー浴びて、キスして、胸もんで、挿入して、フィニッシュ・・・こんなセックスしかしたことがないような奴がいたら、むしろオレはこう言いたい。
 「お前の方がよっぽど異常だ」と
 
 こちらの更新も参考にされたし
 

平成17年5月28日

 人権擁護法案総論−3条委員会と罷免−

 
 いきなりですが、商品のご紹介でーす。
 ボーカルとアコーディオンの二人組という、かなり異色なグループ、ガレージシャンソンショーさんが、セカンドアルバムを発売されましたー
 いえーい。
 と言っても、おそらくほとんどの人がガレージシャンソンショーを知らないと思います。
 どんな曲なのかと聞かれると、なんて言いましょうか、グループ名通りシャンソンっぽくてですね、どこか懐かしいような幻想的な、ノスタルジックな気分に浸れます。
 今流行りの感じでは全くないですから、ハマれない人は全然ハマれないと思いますが、ちょっと懐かし目の曲調が好きな方は、是非聞いてみてください
 やえは今も聞きながらこれを書いています(笑)
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 さて。
 人権委員会について、もう2つほどお話をしておきたいと思います。
 人権委員会の独立性と、委員の罷免についてです。
 
 まずは独立性について。
 人権委員会の扱う人権問題というのは、私人間の問題よりも、むしろ公権力の人権侵害を取り扱う場合の方がより想定されています
 これは、人権擁護法想起のそもそもの発端となったパリ原則からも見て取れますし、人権概念の本場の欧州では、まずは公権力の人権侵害をどうするかのというコトが最も重要なテーマになっています。
 日本の人権擁護法案でも、人権侵害にかかる禁止条項の第3条においては、「イ 国又は地方公共団体の職員その他法令により公務に従事する者としての立場において人種等を理由としてする不当な差別的取扱い」を一番最初に書いてありますように、やはり、まずは公権力の人権侵害が最も重要視されるべき項目であるというコトが、これからもわかると思います。
 
 となれば、人権委員会が公権力、つまり「上」からの圧力に屈するようでは全く意味が無くなってしまいます。
 人権委員会が政府の人権侵害を指摘しようとしたら、「うるさい。お前らの上役であるオレ達にたてつくのか!!」とか言われ、萎縮して告発できないようになってしまいましたら、存在意義が無くなってしまいますからね。
 しかし、かと言って、NGOなどを含めた全くの私的団体にするというのも、やはり、というか、かなり問題があります
 部落解放同盟のような自分たちの私利私欲のためにしか存在してないかのような、むしろ差別というモノを盾にして相手の意見を封じ込めて自分たちの利益を得るかのような団体に、人権委員会のような権限を与えるワケにはいきません。
 よって、人権委員会には、私団体でないある程度民意が反映されていて、かつ政府からも一定の距離を保つ必要のある組織が必要となってきます。
 
 それに最適なのが、いわゆる「3条委員会」なのです。
 
 3条委員会の「3条」とは、国家行政組織法の3条を指します。
 そこにはこのように定められています。

 (行政機関の設置、廃止、任務及び所掌事務)
 第3条 国の行政機関の組織は、この法律でこれを定めるものとする。
 2 行政組織のため置かれる国の行政機関は、省、委員会及び庁とし、その設置及び廃止は、別に法律の定めるところによる。
 3 省は、内閣の統轄の下に行政事務をつかさどる機関として置かれるものとし、委員会及び庁は、省に、その外局として置かれるものとする。
 4 第2項の国の行政機関として置かれるものは、別表第1にこれを掲げる。

 国の行政機関として存在する、いわゆる中央のお役所というものを「省庁」と呼ぶ場合があるワケですが、一般的には、内閣府と、財務省や国土交通省、そして防衛庁といったモノを思い浮かべると思います。
 それらも全てこの国家行政法により定められているモノなのですが、内閣府の下、これら省庁の他に、2項において「行政組織のため置かれる国の行政機関は、省、委員会及び庁とし」と書いてありますように、「委員会」という組織も置くことが出来ると定められているワケです。
 
 人権委員会の他に、この法律を元に組織されている委員会には、何度かこの問題で名前が出てきている公正取引委員会があります。
 公正取引委員会には強い独立性が認められていまして、例えば職員の採用においても、全く独自に行っていたりします
 一応法的には内閣府の外局とされているのですが、これは文字通り形上のコトだけでして、職員の例で言えば、決して内閣府の採用に合格した後に公取に配属されるというコトは無く、全く最初から公取の職員として採用されるコトになっています。
 また、この程度高い独立性を認められている委員会のコトを「行政委員会」と言いまして、公取の他には教育委員会・選挙管理委員会などや、委員会の他には会計監査院などがあります。
 どれも、独立性が高い、むしろ高くないと困るといった内容であるというのは、説明するまでもないですね。
 
 先ほども言いましたように、公的な組織である以上、最終的には、総理大臣と内閣府の総括されるコトになるのは当たり前の話です。
 むしろそうしなければ公的な組織とは言えないワケですから、人権委員会で言えば法務省の外局という形になるワケですが、しかしだからといって独立性が担保されないという主張は、ちょっと根拠薄弱と言わざるを得ないでしょう。
 冒頭でも言いましたように、完全に公組織から切り離された、私団体にしてしまうと、民意からかけ離れた、それこそ暴走する可能性が出てきますので、認められないのは言うまでもないコトです。
 
 というワケで、高い独立性を保ちながら、同時に民意を反映できるような組織が3条委員会、行政委員会であり、人権委員会はとてもこれに最適であると言えます。
 
 「人権委員会が法務省の外局であるのは問題である。内閣府の外局の方が良いのではないか」という意見もあるようですが、しかし、ここまで人権委員会は独立性が担保されているのですから、そこにこだわる必要性はあまり無いような気がします。
 行政委員会に限らず公的団体というモノは必ずどこかの省に属しているようになっていまして、文化庁でしたら文部科学省に属しているんですけど、これは、文化庁の扱う内容が文部科学省の扱う内容だからですし、国税庁は財務省に属していまして、これも国税庁の内容が財務省の内容だからです。
 このように、どこの省に属するかというのは、その庁や委員会の内容によって決められるのです。
 ですから、人権委員会は、もともと人権問題を扱っていた省庁が法務省だったので、法務省の外局に置かれたという、それだけのコトなのです。
 また、事務的な観点から見ても、法務省には現在「人権擁護局」というモノがありまして、地方局もありますから、そういう意味からも合理的効率的だと言えるでしょう。
 例えば人権委員会を仮に内閣府の外局にしたとしても、ノウハウが全くないですからただ現場が混乱するだけでしょうし、そもそも内閣府自体には地方組織がありませんのでやっぱり現場が混乱するだけの可能性が高いのではないでしょうか。
 そういう意味からも、やはり人権委員会は法務省の外局に置くのが妥当であると言えると思います。
 
 もし、これがどうしても問題だと思うのであれば、いっそのコト、人権委員会の長を大臣クラスにしてもいいかもしれません。
 国家公安委員会がこれに当たりますね。
 ここまですれば、もはや組織として人権委員会が暴走するかもしれないという批判も当たらなくなります。
 これ以上民主的な存在は、議員の他にないワケですからね。
 そもそも国会議員が大臣になる場合の方が多いワケですし。
 しかし、人権委員会に与えられている権限を見た場合、はたしてそこまでする必要があるのか、むしろ出来ないのではないかと思います。
 国家公安委員会は、警察などを統括する組織ですが、やはり警察という組織は強大な権限が与えられている組織です。
 これは説明するまでもないですよね。
 それに比べ人権委員会に与えられている権限というモノは、警察よりもかなり小さいモノと言えます。
 中には「警察より強い権限を与えている」なんて批判がありますが、これはほとんど条文を読んでいないような批判でしかなく、人権委員会には捜査令状をとる権利はなく、強制捜査や逮捕権などもありません。
 タイムリーな話題で、橋梁談合事件で逮捕者が出ましたが、これも実際に行っているのは、検察と警察です。
 独占禁止法にも、人権法と同じような調査に関する条文がある(独禁法第46条)のですが、強制的に捜査が必要な場合は検察・警察の手動の元に行われるわけでして、このように、人権委員会や公正取引委員会に強制捜査権があるとは言えないワケです。
 以上のことを鑑みると、やはり公取と同等の権限しかない人権委員会の委員長に大臣クラスを当てるというのは、ちょっと妥当ではないと言えるでしょう。
 
 
 長くなりましたが、つづいて、罷免について書いていきます。
 やえが法務省に確認しましたり、自民党の部会でも説明されましたように、人権委員会は国家公務員であるのですが、しかし人権委員会の方は特別職でありまして、一般の国家公務員法は当てはまらなくなります(国家公務員法第2条の4)
 「の方」とは、後述する人権擁護委員のコトでして、こちらは一般職の国家公務員になります。
 で、特別職は公務員法が適用されませんので、罰則規定なども必要なら個別に書いていく必要があります。
 ですので、人権委員会の方には、罷免についてや守秘義務などの項目があるワケです。

 (罷免)
 第十二条 内閣総理大臣は、委員長又は委員が前条各号のいずれかに該当するときは、その委員長又は委員を罷免しなければならない。

 その前条各号はこれです。

 (身分保障)
 第十一条 委員長及び委員は、次の各号のいずれかに該当する場合を除いては、在任中、その意に反して罷免されることがない。
 一 禁錮以上の刑に処せられたとき。
 二 人権委員会により、心身の故障のため職務の執行ができないと認められたとき、又は職務上の義務違反その他委員長若しくは委員たるに適しない非行があると認められたとき。
 三 第九条第四項の場合において、両議院の事後の承認を得られなかったとき。

 早い話、衆参両議院で承認がとれなかった場合、心身を壊してしまった場合と、禁固刑を受けた場合、人権委員らしからぬ非行があった場合の、この4つの場合に罷免がされるワケです。
 
 人によっては「人権委員は辞めさせられない」と批判している人もいるみたいですし、「条件が厳しすぎる、実質的には辞めさせられないシステムだ」とか言っている人もいるようですが、どうなんですかね、逆に簡単に辞めさせられるようなシステムの方がやえは問題だと思います
 3条委員会の項目で散々言いましたように、人権委員会には極めて高い独立性が認められています。
 これは、公的機関の人権侵害も指摘していく役割を負っているからです。
 となれば、むしろ簡単に辞めさせられるようなシステムにしていたら、それを盾に人権委員会に不当な圧力をかけられるようなコトになりかねませんので、人事に関しても、高い独立性を保っている必要があるでしょう。
 
 「人権委員は辞めさせられない」と批判している人は、そもそもどういう場合を想定しているのか、その辺がよく分からないのですが、例えば誤った判断をした場合はどうなのかと考えた場合、それはもちろん程度にもよりますが、きわめて甚大な判断ミスをしない限り、ふつうは責任を問わないのではないかと思います。
 民間でも公的機関でも、仕事を多少ミスしたぐらいではそう簡単にその職を追われるようなコトにはならないワケですから、この辺は「社会通念上」というコトになるんだと思います。
 もちろん程度が重ければ、それなりの責任はとる必要があるでしょうけど、これは社会問題になりかねないぐらいの、その組織の存在に関わるぐらいの、極めて大きな問題の場合になるでしょう。
 この辺はむしろ、制度の問題というよりは、国民がどれだけ関心を持っているかというコトになると思います。
 大会社でも、公団でも、政治家でも、閣僚でも、誰も強制してその地位を剥奪させるコトはできないワケですが、それは、立場の重さというモノがあって、もしその重要な立場の人間が簡単に辞めさせられるようでしたら、それを利用してやろうという輩が現れかねないですので、立場が重い人ほど簡単には辞めさせられるというコトにしてはならないのです。
 ですから、そういう人たちというのは、一番大切なのは本人の責任感からくる自らの意思と、そして国民の声によって、自分の進退を決めるべきなのです。
 現実的に考えてみてください。
 大会社でも、公団でも、政治家でも、閣僚でも、その職を強制的に追われた人というのは、そうはいないと思います。
 ほとんどの場合、国民の声に押されて、自らの責任において進退を決めていますよね。
 
 正直やえの本心から言えば、人権問題はその人の一生に関わるコトになってきますから、かなり厳しい規定を設けてもいいとは思うのですが、しかし社会通念上から考えれば、これが妥当なのではないかと思わざるを得ないのです。
 まぁ人権委員会に厳しい罰則規定をつけ、そして同時に、不当告発を申し出た人に対しても厳しい罰則規定をつければ、ほとんど言うコトは無くなるんですけどねぇ。
 

平成17年5月29日

 民主主義の話2

 
 わはははははは。オレはしつこいぞー(笑)どうしてもわからんちんがいるから、さらに続けてやる。民主主義の話だ。
 
 でも多分、ちゃんと分かっている人には退屈させてしまうと思いますよ?
 
 すまん。その辺で体育座りして待っててくれ。女子はブルマ希望で。
 
 はぁ、全然意味が分かりませんが。
 
 この前からしているこの話は、言ってみれば基本中の基本の話だ。だからこの基本を押さえている人にとっては、ちょっと物足りないというか、違う側面の問題も見えてくるだろう。しかし、全く理解できないヤツ、もしくは理解しようとしないというか、理解したくない、してしまうと自分の理論の破綻が見えてしまうっていうヤツもずいぶんいるみたいなので、オレはしつこつ言い続ける。覚悟せい。
 
 ま、まぁ、お手柔らかにお願いします。
 
 うむ。
 
 
 
 なかなか反響が大きい問題でな、今回は一行や、その他のサイトでもらった反響を元に更新していこうと思う。では、アシスタントのやえくん。ハガキを読みたまえ。
 
 ええ!?今日はそういう設定なんですか?
 
 つべこべ言うな。
 
 は、はい。えーと、「はじめまして。私は23歳の公務員です。さて今日は美人で可憐で知的なやえちゃんに質問があってハガキを出しました。それは・・・」
 
 まてまてー、ノリがいいにもほどがあるぞ。しかも、美人で可憐で知的なやえちゃんってなんだー。
 
 なんですかっ。せっかくノってきたのに。邪魔しないでくださいっ。
 
 は、はい・・・。
 
 「それは、民主主義のお話なんですけど、やっぱり私は民主主義だからこそ政治家に責任を追求すべきだと思うんです。それが民主主義の原則なのではないでしょうか」あまおちさん、こういうおハガキをいただきましたよー。
 
 お、おう。ご苦労・・・。うむ、えー、あー、んー
 
 ほら、ラジオなんですから、間を開けたらダメです。
 
 ラジオではない。ごほん。それでだな、その「政治家にこそ責任を」という意見だが、まず政治家という存在を考え直してみて欲しい。そもそも政治家という単語に主体性があるのかと言えば、これが無いのである。たまたま民主主義の場合はそれが職業として成り立つので政治家が政治家になってしまうのであってな、ちょっとややこしいが。例えば王制・貴族制の社会の場合、政治家とは誰の事を示すだろうか。
 
 ええと、貴族ですね。
 
 そうだ。貴族という存在が政治を行っているわけなんだが、では次に、貴族制の社会の場合、政治の責任は誰にあるだろうか?
 
 ええと、やっぱり貴族ですよね。
 
 そうだ。では、それは政治家だからか?
 
 ええと、政治家だからというよりは、貴族にしか政治権が無いからと言った方が適切ですよね。これは前回の「民主主義の話」で言われましたように、貴族制は一部の専制者にしか権利が無くて、だから国民はいつもトバッチリしか受けないと。だからせめて国民全てにその権利があるようにしようとしたのが民主主義であるというワケですから。
 
 うむうむ。では今の民主主義において、政治の責任は誰にあるのか?
 
 それは国民です。今の複雑な社会では、国民一人一人が政治を直接行うコトはかなり難しいです。一番の理由に、それではフットワークが悪すぎですからね。ですから、今の民主主義では国民が選挙によって議員という人たちを選び、その人達が国民を代表して政治を行っているワケです。
 
 そういう事だ。つまり、国民の責任の下に政治家がいるわけで、政治家も国民の一部なのである。ここの概念をすっかり忘れてしまっとるヤツが多すぎだが、もう一度言うぞ。「政治家は国民の一部」なのである。よって政治家にだけ責任があるかのような「民主主義だからこそ政治家に責任を」という言い方は、むしろ全く的はずれなのである。
 
 貴族制だからこそ政治家に責任を、というのであればその通りなんですよね。
 
 そうだ。いいか。自分がどうしても責任を負いたくないと思う人がけっこういてしまう現実だが、政治家にだけ責任を負わせるという行為というのは、「自分はただ言われるがままに従うだけの主体性の無い民衆でございます」と言っているようなもんなんだぞ。そしてさらに「口は出すしかし責任はとらない」というのは最悪な行為という事も忘れてはいかん。
 
 欧州ではともかく、日本では、ちゃんとそれぞれの身分で分をわきまえながら、しかしそれぞれの身分でお互いに影響を与えながら、人々は生きてきましたので、政治の責任を負いたくないと思うのは悪いコトではないんですけどね。だからこそ世界でも最も希有なミラクルピース平安時代400年・江戸時代250年が成り立つコトができたワケですから。
 
 ま、それは日本人のいいところだとはオレも思うよ。でもそれがあるからやっぱり民主主義という制度にはどこか違和感があるんだろうな。欧米人はちゃんと責任の所在というものを分かっているからな。ま、ヤツらは血を流して、王を武力で引きずり降ろして作った制度だけに、責任感を持たざるを得ないんだろうが
 
 まぁそんな日本ですから、政治家に対する責任と期待というものが欧米より大きいんでしょうけどね。
 
 だからな、おそらくこの前のオレの言葉を聞いて勘違いしているヤツがいるんだと思うんだが、オレは何も政治家は全く責任を取らなくていいとは言ってないんだよ。政治家は、国民の選挙で選ばれて、それなりの権限を持つことを許された身なのだから、それなりの権限に見合った大きな責任というのは当然ある。政治家は時には国民の声を無視してでも中長期的な国のために決断しなければならない時もあるわけだし、一般の国民に比べれば当然責任は大きい。こんなの言うまでもない事なんだよ。
 
 しかし、だからといって、国民の責任が無いと言うのは間違いだというコトなんですよね。
 
 そういう事だ。もうちょっと国民は国民の責任を考えた方がいい。これは前も言ったが、北朝鮮の拉致問題というのは、国民の意思によって今日までズルズルと来てしまったのだ。政治家の中にはこれをなんとかしようと苦心していた人もいるのだが、しかし朝鮮に対して批判は一切許さないという空気を国民自身が作ってしまい、それを指摘する者には右翼というレッテルを貼って、議論すら許さなかったのだ。いいか。この例を忘れるなよ。国民の責任も決して軽いものじゃねぇんだぞ。最近の若いもんにしてみれば、ちょっと前の話も実感がわかないかもしれんが、当時は朝鮮の話はタブーだったんだ。オレは身にしみている。国民の責任においてこうなったんだ
 
 
 
 
 では、つづいて、関連するようなお話にいきましょうか。前の更新で「例えば民主党が政権をとった場合とんでもないコトが起きるじゃないか」という意見に対しての「民主党を選んだのは他でもない国民の選択なんですから、責任は国民にあります」と言う反論を当サイトとしてしたワケですが、どうしてもこれに納得できない人がいるようなのです。
 
 これ多いな。しかも文章読んでないしな。ちゃんと読まんかい。いいか。民主党が政権を取る、政治を行う、これがなぜイコール悪と断定できるんだ?その根拠は何だ?言ってみろ。
 
 おそらく、自分の主義主張と合わないからだと思います。
 
 そうだ。こういう事を言っているヤツは、全て基準が自分なんだよな。自分の考えに合わないから暴走だと、悪だと。何様のつもりなんだと。いいか、一部分の言葉だけを切り取って意見を捏造しようとするなよ。文脈をちゃんと読めよ。民主党が政権をとったという事実は、選挙によって多数の日本国民が民主党を選んだということなんだよ。民主党を支持する国民の方が多かったんだよ。中身を批判するのはいい。民主党のこういうところがダメだと言うのは全く構わない。しかし、多数の国民が選んだ事を「暴走」とレッテルを貼るという行為は、つまり自分は他人より大きな権利権限を持っているんだと、簡単に言えば、一人一票のところ、自分は10票ぐらいもっているんだから、オレの意見に従えって言っている事と同じなんだよ。そうだろ。国民の多数の決定を暴走って言うんだから、つまり国民の多数の決定より自分の決定の方が正しいんだと言っているわけだ。何様なんだよ。まさにそれが専制者じゃないか。
 
 あー、ええと、絶対に一文だけで判断しないでくださいね。文章全体で理解してください。「いつもあまおちは偉そうなコト言っているのに、他人が言うと「何様だ」と言うお前の方が何様だ」とか「いつも民主党批判しているくせに、他人が言うのはダメなのか」とか言わないでくださいね。それ、文章の意味が全然違ってますから。なんでやえがフォローしないといけないんでしょうか。
 
 はっはっは。じゃあおめーがもうちょっとやわらかく言ってみろ。冗長でもなんでもいいから、ここはしつこく行こう。わからんちんには何度でも言うぞ。
 
 はい。やえも当サイトでなんども民主党批判はしてきたワケです。それは民主党の中身がダメダメだからです。ではなんのために批判をするかというコトですが、それは、民主党が政権を取らないように、一人でも多くの民主党候補が落選するように、具体的には民主党に投票しないように、国民に、つまりここを読んでくださっている方々に訴えかけているわけです。これは選挙とかに限らず、思想の面においても同様で、いつもやえは言っていますよね、やえはジャーナリズムをしているのではないですから、「これが事実だ。これが真実だ」と主張しているのワケではなく、やえはやえの考え方を述べているだけなんですと。そしてそれをどう評価するというのは、これを読んでくださっている読者のひとりひとりの判断なんですと。ですから、もし民主党が政権をとってしまったら、ああまだまだやえの力量が足りなかったなと、どうしたらより多くの人により深く理解されるような文章が書けるのかなと、そう悩むでしょう。でもそれは国民の判断なんですから、民主党政権だろうと、そこで作られた法律などにはある程度従う義務は国民にはあるワケです。批判はしてもいいですけど、全く従わないというのは、やはりそれは専制者の考えですよね。
 
 選挙の結果なのだから、自分とは違う意見を持っている人がより多くいるんだという事実に気づいていないんだよな。しかしこれ前回も言ったよな?「何をもって暴走していると指すのか」と。多数の意見によって選ばれた政権に対して国民の暴走なんて言ってたら、民主主義の否定だわなー。自分も国民の一部であるという意識が欠如しているんだよなー。これも前言った気がするが、しかしここに反論せずに、言葉として分かりやすいセンセーショナルな単語だけを切り出して反論してる気になってるヤツが多すぎ。今度こそ捏造せずにここを理解しろよ。
 
 政権をとった後、本当に酷い暴走政治をしたらどうするんだ、という意見もあるみたいですよ。
 
 それこそ国民議論をもって正論を叩きつけてみろよ。朝鮮を批判できない空気を作ったぐらい国民の意思ならば政治にも反映させられる。それが正しいかどうかは分からんが。
 
 と言っても、多分、自分が言っても何も変わらないとか言う人がいると思いますよ。
 
 そんなの当然の話でな。多数が作った政権なんだから、さらに多い多数の意見が集約されなければそれに対抗できないのは当然の話なんだから、「言っても何も変わらないんだよ」とか言うのは無責任の極みだ。まさに責任を放棄しているだけか、もしくは、自分の意見が多数の意見より尊重されるべきと思ってとる、専制者根性かだな。
 
 そして、やはり選挙の結果が出た以上は、その結果に対しても責任を取らないといけないですよね。「民主党の政権が出来たらそれは国民の暴走だ」なんて切り捨てるのは、無責任にもほどがあります。選挙の結果、その結果責任を国民全体でとる必要があるでしょう
 
 まぁでも、やっぱり上の方でも言ったように、日本人は国民・民衆が責任をとるんだという意識・文化がないんだろうなぁ。ここまでしつこく言っても、絶対いろいろと言って責任を取らないように解釈するヤツ出てくるだろうし。そもそも、10年前の“野党合同政権”が起きてしまった責任を日本と日本国民は取ってない気もするしなぁ。
 
 いや、あれはあれで、「正しい判断だった」という国民の判断なのかもしれませんよ。
 
 ああ、なるほど、そうとも取れるか。10年前の政権が腐っていたというのは、あくまでオレの意見なわけだからな
 
 (つづく)
 

平成17年5月31日

 民主主義の話3

 
 このようなメールをもらったぞ。
 
 やえさんはこのような活動をしている以上、様々な人からの反対意見を目にしているでしょう。ですが、私は8〜9割方やえさんの意見に賛成です。理論が明確で分かりやすい正論だと思っています。これからも応援してますのでがんばってください。
 
 わっはっはー、たまに「サイト的に反論がいっぱい来て大変ですね」みたいな事言われるんだが、そうでもないぞー。もっと反応をくれ(笑)
 
 まぁ反論があってこそ議論も深まるワケですしね。
 
 普段からメールなんて全然こないしなー。もっとくれよ。拍手もくれよ。もっとぼくを誉めてよ。
 
 なんでシンジ君化するんですか?
 
 なんでだろ〜なんでだろ〜♪
 
 ああ・・・そんな人たちもいましたね・・・。
 
 この前テレビショッピングしているの見たぞ。
 
 ・・・ああ、それはそろそろやばいですね。
 
 ゲッツっ!!
 
 ・・・あーあ。
 
 
 
 さて、民主主義の話をつづけるぞ。
 
 けっこう前回ので十分なような気がしますけどね。
 
 かなり好評だったな、前回のは。さすがにあれだけしつこく言ったせいか、文字を切り張りしての捏造批判も見られなかったしな。まぁオレが存在に気づいてないだけなのかもしれないが。
 
 やえは思ったんですけど、そもそも文字切り張り捏造批判ってマスコミの得意技じゃないですか。特に朝日とかの。でも、それを批判している人もやっぱり同じ手法を使っちゃうんですよね。この手法ってマスコミ独自のモノではないと言えるのではないかと思うんです。
 
 そうだな。まぁこれは非常に楽かつ割と効果も上がる手法だからな。ま、それは、今度別の更新でやりなさい。
 
 はい。
 
 それでは、アシスタントのやえくん。葉書を読み賜え。
 
 ・・・またですか?では読みますよ。「はじめまして、可憐で清楚で美人のやえちゃん…」
 
 うがー、もうそのネタはいいっ。さっさと本題に入れ。
 
 ぶーぶー
 
 うるさいっ
 
 えーと、「問題が起きた時に国民の意見で修正できるのが民主主義」。これについてはどう考えるべきでしょうか。
 
 この疑問も前回の更新で全部カタがついてしまっとるな。まず第一に、政治家も国民であるからして、というか、国民の代表者であり国民の意見を集約している存在であるのだから、政治家が問題修正をする事は、それは国民の意見で修正されたと、制度的には言えるわけだ。
 
 今多くの日本人が、政治家を国民の一部と見られなくなってしまっているコトは前回触れましたけど、特に人権法で顕著なのが、なぜか司法にだけは絶大な信頼を寄せている人とかいるんですよね。司法の方が民意をあまり反映していない、国民からは距離が離れている存在なんですが。
 
 専門知識を持っているとかなんとか言うけど、でもそれだと官僚も一緒なんだがな。
 
 なぜ三権あるウチの中の国会のコトを「国権の最高機関」と言うのか、もちろん他の二権の上位にあるという意味ではないのですが、敢えて憲法で定められているというコトその辺を考えてもらいたいですよね。
 
 で、話は戻って、「国民の意見で修正できるのが民主主義」のもう一つの視点だが、これも前回言ったんだがな、政治家でない国民だけで何かを変えようと思ったら、そのように声を挙げればいいんだよ。消費税導入時だって、あれは最終的には政治の責任で押し切ったわけだが、時の竹下内閣は議会を解散させて、結局自民党は負けたわけでさ、あれはまさに「国民の意見で修正」されたと言ってもいいんじゃないのか。ただし、それが正しかったかどうかは別問題だがな。
 
 もちろん「意見の集約」が大前提ですよね。「それぐらい意見が集約されれば政治が動くこともありますと。でも「いくら声を挙げても何も変わらないじゃないか」って言う人は、まずその自分の意見が国民のどれぐらいの割合の支持を得られているのか考えてないですからね。政治家によらない国民の意見で修正というコトは、言ってみれば選挙の結果を覆そうとするワケですから、それ以上の意見の集約が必要なのは当然の話ですね。
 
 
 
 では、次に行こうか。
 
 はい。ええと、制度自体に問題があるんだから、という意見もちらほら聞きます。
 
 んー、これは、どこがどう問題なのかを具体的に言ってもらわないと何とも言えないんだが。ただひとつ言っておくべき事は、オレはそもそも民主主義が至上の制度とは思ってはいない。これは以前、というかえんらい前に書いた事があるが、そもそも日本では、貴族制から民主制に変わった時においても、民主制の主体であるはずの民衆が蜂起したのでは無いというのがとても特異な点だ。そういう意味で、オレは、戦前までの明治憲法下での選挙や政治体制を、日本独自の日本製民主主義だと思っている。今のは欧米のを押しつけられた民主主義だな。つまり、日本人は別に欧米人なんかに“教えられなくても”自分たちだけで世界の流れを敏感に読みとっていたわけで、すなわち、日本人はどんな制度だろうが、それを起用に使いこなす才能があるという事だ。
 
 イラクで果たして民主主義が定着し、正しく機能するかどうか、注目したいところではありますね。
 
 馬鹿のアメリカ人は、「日本に教えてやって成功した実績があるのだから、同じようにイラクでも成功するだろう」なんてトンチキな事ぬかしておったが、もともと戦前から日本には民主主義があったし、日本人は優秀だからなじんだだけで、イラクでも成功するとか短絡的には言えんのだよな。
 
 結局、制度が良かろうが悪かろうが、使う人によって良くも悪くもなるってコトですよね。
 
 そもそも民主政治っつーもんは、紀元前から存在していたわけでな、しかもひとりひとりが直接政治を行う直接民主制という、いわば民主主義の理想型として存在していたわけだが、まぁなんだ、駄目駄目な結果しか得られなかった。プラトンのおっさんすげー怒ったわけね
 
 お友達ですか?
 
 まぁそんなところだ。でな、結局、民主主義だって駄目駄目な結果になり得るわけで、もちろん制度をしっかり一所懸命作るのは大切な事だが、いくら一所懸命つくったところで、駄目になる時は駄目になるってことなんだよな。
 
 ではどうしましょうか?
 
 そりゃ簡単な話、使う人がしっかりするしかないわな。まぁこの辺が難しいところで、民主制を徹底させるとどうしても衆愚政治になるし、だからといってしっかりした人に全てを任したらそれは独裁政治になると。
 
 そのちょうど中間あたりが代議制、つまり今の民主主義と言えるのかもしれませんね。
 
 まぁそんなところだろうなぁ。結局選挙なんつーもんは、得票数と年齢しか制限がないわけで、これは人気投票となんら変わらないわけだ。そこをしっかりさせるために、有権者は「政治家」を選ぶように努力する、選ばれた政治家は哲人となるべく努力する。このお互いの暗黙の努力がない限り今の制度は成り立たないと言えよう。わりとタイトロープだ。ただし、民主制と紙一重の専制政治にならないように、民衆が選んだという選挙で勝った人が偉いんだという原則は守らなければならない。となれば、選ぶ側の責任が大きいというのは言うまでもないことだろうな。
 
 多数の国民の選択で選ばれた人より大きな決定権を持っていたら、もはやその時点で民主主義ではなくなっていますからね。むずかしいところです。
 
 ま、変な話、天皇に国家の最高権限を復活させて、その下に内閣を置くぐらいの形をとっても、日本はこの時代でも十分にやっていけると思うがな。ただ、世界世論はあまりよろしくなくなるだろうが。
 
 こう言ったらなんですけど、現実問題、民主主義の方が危ない気がしたりしますけどね。
 
 危険思想を持たない王があらわれないと断言できるなら、そっちの方がいろいろとメリットは大きいしなぁ。
 
 
 
 さて、では、最後にしましょうか。最近の一行で話題になっている創価のお話ですが。
 
 あー、これ答えないとダメなのか?そもそもここまでくると、これは今現実の問題であって、制度上の原理原則の話じゃないから、この度の話とは趣旨が変わってくるんだがなぁ。
 
 まぁ一応フォローしておいてください。
 
 んー、って言ってもなぁ、まず今の日本、というかネットが顕著だが、自分の好き嫌いと、制度上の正しい間違いを混同してしまっとるんだよね。本来はそんなことしたらいかんのだよ。
 
 と言いますと?
 
 つまりね、いくら創価が嫌いでも、やっぱり一人の日本人なんだから一票には変わりないわけでな、創価の票が入っているからといって、ただそれだけをもって民意が反映されていないとは全く言えないわけよ。むしろ創価の票はダメって言うのは、つまり創価は人間じゃないと言っているようなもんだからな。
 
 ええと、またまた前置きしておきますが、これをもって「天堕は創価を擁護する学会員だったのか」とか言われても困りますからね。全く意味が違ってます。ちゃんと文章を読んでから批判してくださいね。
 
 創価が嫌いなのは別にいい。個人の自由だから勝手に批判なりなんなりすればいい。しかし日本国籍を有する20歳以上の人間には例外なく選挙権を認めているのだから、創価だろうが統一教会だろうがオウムだろうが乞食だろうが朝日読者だろうがあびる優だろうがロリコンだろうがレズだろうがフィギュア萌え族だろうがキリストの生まれ変わりだろうがあまおち総統だろうが、20歳以上の日本人なら等しく一票なんだよ。それでもって「民主主義になっていない」という批判は全く的はずれなのである。
 
 これも前回言ったこととかぶるのですが、創価が嫌いであれば正面から批判をして、創価信者の目を覚まさせるような活動や言論をすべきであって、最終的には創価信者とか受け取る人がそれをどう判断するかってコトでして、そこまでを強制なんてコトは誰にも出来ません。別に信者じゃなくても、一般人でも同じですよね。やえがここでいろいろ言っても、それを強制させるコトなんてどうやっても出来ないワケで、最終的には受け取る人ひとりひとりの判断に委ねるしかないのですから。
 
 あと、連立を組んでいるから云々というのもあるが、そこはどう判断すべきなんだろうな。例えば10年前の“野党合同政権”なんてのが出来たが、しかし当時一番議席を持っていたのは自民党であったワケだし、この辺はもう原理原則の基本論ではなく、技術論になっちまうから、また別議論が必要になるだろうよ。例えば「過半数」という縛りを無くして、とにかく数が多い方が勝ちにするという方法もあるだろうが、しかしそれで果たして「民意を反映している」と言えるのかどうか問題もあるだろうし。だから「過半数」というしばりを作ると。すると「49」よりも「26+25」の方が強くなるわけで、これをどう解釈するかだろうな。確かに両党の支持者が共に納得する政治を行えば民意は反映されていると言えるのかもしれない。
 
 低投票率を問題視する意見もありますが。
 
 いやあ、行かねぇーヤツはどうやったって行かねぇんだから、しょーがねぇべ。行かないヤツが悪い。どういう結果が出ても従いますっていう意味になるんだからな。ま、そもそも、政治に興味のないヤツは無理に興味を持つ必要はないと思うから、それならそれでいいんだがな。
 
 それは当サイト的にいつも言ってますよね。政治に興味が無くても生きていける制度を作っているんですから、決まったことに文句を言わないのでしたら、それでいいですよって。分業ですからね。どこかに過去ログとして残ってると思うんですが。
 
 探せよっ。ま、これ以上言及すると、また別問題になるから、この辺にしようか。んで民主主義の話もとりあえずこの話はここまでという事で。正直前回力入れて語りすぎたせいで、もはやネタが無い。
 
 そうですね。それでは最後に総括をお願いします。
 
 んー、民主主義はその名の通り、最終的には民衆が選ばないとならないわけだし、選んだ人や事は最高のものとされなければならない。そこに善悪を問う必要は無い。国民にしてみれば選挙の一票しか権利がないと不満かもしれないが、まずはそれを最大限責任を持って活用する義務はあるだろうな。
 
 あれ?ボケると思ったんですが、普通にしゃべりましたね。それじゃオチないじゃないですか。
 
 ・・・無茶言うな。
 
 お疲れ様でした。
 
 
 では、そろそろ献血問題だな。
 
 ・・・集計がんばってください。
 
 おめーもやらんかいっ。
 

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