☆やえニュース☆

 胡錦涛来日と餃子問題福田メルマガレビュー主文と傍論人権恐怖病光市母子殺害事件高裁判決光市母子殺害事件高裁判決 (下)「死姦は生き返りの儀式」の出鱈目さを論によって明らかにする裁判の難しさ最近の自民党人権問題等調査会の様子25円議論

平成20年4月16日

 胡錦涛来日と餃子問題

 最近最近マスコミとかではあまり取り上げられなくなっていますが、日本政府としては中国の餃子問題はまだまだ未解決の問題です。
 もちろん政府としては早く解決にしたいと思っていますが、いかんせん、中国という国は法よりも上層部の意見の方が強い権限を持つという国ですから、捜査が思うようにいきません。
 というか、これは対中国に限らないのですが、警察権とは通常自国の中だけで発揮できる権力ですから、日本の警察が外国で捜査するコトは出来ません。
 場合によっては相手国が日本の警察に協力するというのであれば、相手の認める範囲で捜査するコトは出来ますが、もちろんその場合も全て任意で、強制権を発揮する場合はその国の警察の名の下で行われるコトになるワケで、特に今回の場合、中国がそこまで捜査に協力をしようとしないので、日本としては中国が独自で行っている捜査の結果を待つしかないというのが現状であり、未だ満足する解答を中国がしてこないという状況です。
 
 ところで、今年の6月に、中国の胡錦涛国家主席が来日する予定になっています。
 もちろんこれは両国にとってとても大きな出来事です。
 しかし、日本と中国の間には、いまだに大きな問題が数多く山積しており、餃子問題はその際たるモノと言えるでしょう。
 
 さっき言いましたように、餃子問題は正式にはまだまだ未解決問題です。
 ですから、もしこのままの状態で胡錦涛が日本に来れば、福田総理はこの問題を胡錦涛に直接伝えて解決するよう働きかけをしなければならなくなります。
 実はこれ、中国にとってかなり大きなマイナスなんですね。
 なぜなら、これはメンツに関わる問題だからです。
 国のトップが国のトップから直々に「しっかりやれや」と言われるワケですから、メンツ丸つぶれと過言ではないワケです。
 まして日本と中国という大国同士のトップ会談ですから、海外に広く伝わるワケで、「まだ中国は餃子問題でもめているのか」と思われるのは、特にメンツを重きに置く中国としては絶対に避けたいところなのです。
 
 ですから、実はいま中国は、なんとか胡錦涛来日までのこの問題にカタを付けたいと、日本側に色々な働きかけをしています。
 「どうぞ胡錦涛が来日するまでには解決とさせてください」と、日本の内閣府をはじめ、厚労省や経産省、そして外務省などに、働きかけをしているようなのです。
 しかし、中国が出す資料というのは、到底日本が納得できるようなシロモノではありません。
 スポークスマンを通じて出している情報だけでも、実は日本側に問題があったかのごとく言っているのですから、それをちょっと譲歩したところでたかがしれている程度でしょう。
 中国はあの手この手で表向きには強気に出たり、また中国マスコミに日本バッシングをさせて揺さぶりをかけてきていますが、それでも日本政府は「こんなモノで日本国民が納得できるワケがない」と突っぱねているワケです。
 そして、そうこうしているウチに胡錦涛来日の日が近づいてきて、中国はいまとても焦っています。
 なんだかんだと言われていますが、やはり食品系の事件だからでしょうか、日本政府は決して弱腰ではなく、結構強気に出ているのです。
 
 実はこのお話というのは、永田町霞が関あたりのアンテナをちょっと広げればすぐに聞こえてくるお話です。
 チベット問題も出てきてしまった今、なんとか餃子問題には胡錦涛来日までになんとかしたいと中国は焦っているというのが実際のところなのですが、日本のメディアはあまりそういうコトは伝えません。
 むしろ日本のマスコミというのは、総理や政府を批判するばかり、日本は弱腰だとかそういうコトを言うばかり言って、今現在日中間ではどのようなコトが起きているのかというコトは全然伝えようとしません。
 しかし本来マスコミというのは、こういう表に出ないコトを取材によって伝えるというのが本分なのではないでしょうか。
 
 政治には表と裏があります。
 それが交渉ならなおさらですし、まして外交ともなれば、表だけでは出来ないコトはいっぱいあります。
 外交問題がクローズアップされると、「○○ルート」とか「非公式なルートで」とか、ルートという言葉が飛び交うようになりますが、普段からもどっちかといえば表より裏の方がよく使われます。
 なぜかというと、表の外交ルートというのは、正式な公式な外交ルートであり、基本的には一本しかルートはないからです。
 しかも公的なモノですから融通が利かず、様々な駆け引きなどをするのもあまり適切ではありません。
 むしろ公式ルートというのは、セレモニー的に結果だけを公表する場、となるコトの方が多かったりしますよね。
 こういうのは、国家間だけではなく、普通の会社とか組織であれば大なり小なり似たようなコトが起きるワケですが、ですから、ある意味裏のルートをいかに作っていくのかというコトが外交には重要となっくるワケですし、相手の言い分を押さえいかに自分の利が大きくなるかというパワーゲームは非公式の交渉こそで行われるモノなのです。
 
 よって、今回の餃子の件については、今現在中国からこのような交渉をしているというのは、なかなか現役の官僚とか大臣とかがおおっぴらに言えるモノではありません。
 でも決していまの日本政府が弱腰というワケでもありません。
 日本は民主主義国家ですから、出来るだけ国民には正しい情報を与えてから判断してもらうというのが理想ですが、政府としての立場上それができないコトもあるワケで、その場合にこそ役割を果たす立場がマスコミではないのかと思います。
 今は餃子の問題はほとんど取り上げられなくなってしまい、チベットの問題が大きく取り上げられていますが、中国政府の方も日本の世論というのは非常に気にしていて、だからこそ餃子の時は「日本のマスコミは意志的に報道している。なんとかしろ」と言ってきたのですから、日本の世論が怒れば怒るほど中国は重い腰を上げざるを得ないワケですから、日本国民も安易な政府バッシングに終始するのではなく、正しい方向に怒りの矛先を向けて欲しいなと思います。
 世論というのは正しい方向を向けば、なによりも強い力となり得るのですから。
 
 もしかしたら中国のコトですから、タイムリミットぎりぎりに“真犯人があらわれる”かもしれませんけどね。
 


平成20年4月17日

 福田メルマガレビュー

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       福田内閣メールマガジン(第27号 2008/04/17)      
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 [安心して産める社会。福田康夫です。]
 
 安心して産める社会。福田康夫です。
 今週月曜日、東京都世田谷区にある国立成育医療センターを訪問しました。
 「NICU」と呼ばれる新生児のための集中治療室や、緊急性の高い子どもから優先的に診療する小児救急システムなど、先進的な産科・小児科医療の現場を視察しました。
 危険度の高い出産を中心に取り扱っているこのセンターでは、最近、近隣の大きな病院でも産科をやめたため、健康な妊婦さんからの予約が殺到するようになりました。
 
 こんにちは、福田さん。
 産科や小児科などは、仕事がきつすぎて、さらに採算性が取れないなどの理由で、診療をやめる病院やお医者さんが増えている、と言われていますね。
 そうなると、こういう救急の病院しか選択肢が無くなって、しかしそれは救急の治療等が必要な患者さんのフォローが手薄になってしまうワケで、これは悪循環ですねぇ。
 
 ここ数年、子どもの人口が減っているにもかかわらず小児救急の利用数は増えており、特に夜間・休日については、このセンターのような救急病院に利用者が集中する傾向があるとのこと。
 こうした中、産科、小児科の医師の皆さんの中には、重い肉体的・精神的負担のため、病院を辞めてしまう方も増えているそうです。そして、それがまた、残った医師の方々にしわ寄せがいく、という悪循環にもなっているようです。
 
 っと、先に言っちゃいました。
 しかしこれ、産科だけに限らず、最近救急車からの受け入れをいくつの病院にも断られてしまい、結果的に命をなくしてしまったという話もよく聞くように、医療全体にかかる話なのかもしれません。
 
 小児科医療に長年携わってこられたセンター総長の加藤先生からは、設備や人員の面で恵まれているこのセンターはまだしも、地方の医療現場ではこうした産科・小児科の医師不足の問題はさらに深刻であるとのお話もありました。
 「親の皆さんは、産科・小児科医療に『質』を求めるようになっている。」
 私が生まれた時代は病院での出産はまれで、私自身も自宅でお産婆さんの手で生まれました。しかし、加藤先生がおっしゃるように、少子化の現代では、自分の子どもを少しでもいい病院で産みたい、診療してもらいたいと考えるのは、親心なのでしょう。
 だからこそ、産科、小児科の医療体制の充実を急がなければならない、と今回の視察で改めて痛感しました。
 
 お産婆さん、最近全然聞かなくなっちゃいましたね。
 ところで、どこかで読んだかなにかしたんですが、子供の診療って、なぜそんなに手間がかかるのか、どうして精神的負担が大きいのかというと、子供は大人と違って的確に状況を説明できないというのがまずあって、さらに、子供が的確に言えないからといって今度は親が子供よりもしゃしゃり出て、子供がちょっとでも「痛い」と言うと血相を変えてお医者さんに詰め寄ったりするようなケースがけっこうあるからだそうです。
 お医者さんもそう言われたからにはきっちり調べるしかないワケですが、調べた結果やっぱりたいしたコトはないと分かっても、それでも親が「そんなコトはないハズだ。子供が痛いと言っているんだからもっと詳しく調べろ、キッチリと治せ」と、まぁこれはひどいケースなんでしょうけど、そういう親もいるんだそうです。
 まぁそうでなくても、やっぱり子供は、注射を見るだけで大泣きしたり暴れ出したりしますから、通常よりも肉体的・精神的負担が増え、また手間がかかり、よって一人あたりの診療時間が増えて、それは採算性にも関わってくるワケですね。
 
 また、出産まで健診をほとんど受けない妊婦さんが、出産間際になって飛び込みで病院にやってくるケースも目立つようになっており、これも解決しなければならない問題です。
 いずれにしても、安心して産み育てられる社会を作りあげることは、少子化対策を進める上での大前提です。
 
 こういう問題は、政治だけで解決できるモノではないでしょう。
 病院に対する考え方というモノを、いまいちど考え直す必要があるのではないでしょうか。
 
 そうした問題意識のもと、来月中に、産科や小児科の勤務医を増やすための具体的な目標、そのための方策を盛り込んだビジョンをとりまとめ、政策にしていきたいと思います
 そのためには、今後、財源も必要となります。以前のメルマガで、ガソリン税などのいわゆる道路財源について、「救急医療体制の整備や少子化対策などにも使えるようにする」と申し上げましたが、「一般財源化」が実現すれば、いよいよ21年度からは、税収を産科・小児科医療の充実のためにも活用することが可能となります。
 
 病院や医者を増やすと、言うだけは簡単ですが、実行するコトは大変です。
 医療費が近年徐々に負担が増えてきて不満が高まってきているところですが、まず前提として、医療費の7割ないし8〜9割は税金などの公的なお金が出ているという部分を意識している人がいったいどれだけいるのか、ちょっと考えてもらいたいところです。
 例えば風邪を引いて病院や薬局に900円払ったとしたら、3割負担の場合2100円の公的なお金が自分にために出されているワケです。
 これは最近流行りの「税金の無駄遣い」に通じる話になりますが、もちろん必要な場合にはキチンとお金を出す必要があるでしょう、それは医療の話に限らず役所の仕事だって民間の仕事だってその通りです。
 その上で、なにを「無駄」と定義するのか、そしてその無駄が本当にあるのなら、聖域を作らずに省いていく努力をしなければならないのではないでしょうか。
 税金を血税だと言っている人も多いのですが、こうやって自分のために使われる税金もあるというコトも、もっと自覚しなければならないと思います。
 
 「一般財源化なんて本当に実現できるのか?」とのご指摘もいただきましたが、先週金曜日、「道路特定財源制度は今年の税制抜本改革時に廃止し21年度から一般財源化する」ことを、政府・与党で正式に決定しました。
 将来を担う子どもたちのためにやるべきことは山積しています。そのような政策を進めるための財源を確保するため一般財源化は必要です。野党の皆さんとの協議がようやく動き出しましたが、ねばり強く交渉してまいります。
 
 やえはあまり一般財源化に賛成は出来ないんですけどね。
 結局は税金なので、適材適所に投入するのであれば、使い道を限定しようともしなくても同じコトだとは思うのですが、やっぱりこの問題で心配なのは、一般財源化したという事実を持って「道路はもう作らなくていい」とされてしまうのではないか、というところです。
 何度もやえは言っていますように、日本にはもっと道路が必要なところはいっぱいあります。
 もう日本に道路なんて必要ないという意見は、ハッキリ言って都市部の奢りでしかないと思います。
 都市部が優先的に道路が作られただけであって、それがもう必要ないから全体も必要ないだろと言ってしまうのは、傲慢すぎる意見でしょう。
 野党も、「ガソリン値下げ隊」なんて変なモノを作って暫定税率を無くすよう騒ぐだけ騒いで、いつの間にか一般財源化の方にスライドしてしまったようですが、地方には地方の事情があるというコトも理解して議論していただきたいと思います。
 
 
 
 [私の住むまち]
 ● 「雪と共生するまち」沼田町の取り組み
  (北海道沼田町地域開発課地域振興対策官 三浦剛)
 北海道のほぼ中央、空知管内の北部に位置する沼田町は、農業を基幹産業とする人口約4,000人ほどの小さなまちで、道内でも有数の豪雪地帯として知られています。
 例年大量に降り積もる雪は、町民にとって「やっかいもの」でありました。
 この「やっかいもの」を逆手に取って、地域資源として活用していこうと、沼田町では「雪と共生するまちづくり」を目指し、町民一丸となって雪利用への取り組みを進めています。
 
 はじめまして、やえです。
 やえは雪国で暮らしたコトがないので、なかなか雪害というのは実感としてないのですが、やはりニュースとか見たら大変そうだなぁとは思います。
 ちょっと前に、破綻してしまった夕張市で、お金がなくて雪下ろしが出来なかったために屋内プールの天井が崩落してしまったというコトがありましたが、自然の恐ろしさしか言いようがないですね。
 
 雪利用への第一歩となったのは、平成8年に建設した「スノークールライスファクトリー」の成功でした。この施設は、毎年3月にダンプカー約500台分の雪を施設内の雪室に入れ、雪の冷気を送風機でお米の貯蔵部分の周囲に送り込むことにより、温度5度、湿度70パーセントの環境でお米を「籾」の状態で貯蔵する世界初の施設です。ここで貯蔵されたお米は「雪中米」として出荷され、大変好評を得ています。
 この施設の成功をきっかけに雪利用の取り組みが本格化し、今では町内の施設や農産物の栽培など、幅広い分野で雪冷熱エネルギーが活用され、また学校教育の中でも、沼田町独自に「利雪学習」の授業が設けられ、子供たちは授業の中で雪冷熱エネルギーをはじめとする新エネルギーや地球温暖化問題などを学んでいます。
 
 おー、これはすごいですね。
 冷やす力を雪によって得ているワケですね。
 やえは「雪利用」と言われても、やえにはスキー場ぐらいしか思いつきませんでした(笑)
 しかし「雪中米」というのも、響きが良いですよね。
 一回食べてみたいです。
 
 現在町内では、4,500トン以上の雪が施設冷房などに活用されています。雪1トンの利用で28.6キログラムのCO2が削減されるという試算があり、これからすると沼田町は年間約130トンのCO2削減に貢献しているということになります。
 雪はCO2を排出しない、雪国ならどこでも利用可能な優れたエネルギーではありますが、その利用は全国的に見てもそれほど多くないというのが現状です。
 今年7月に開催される北海道洞爺湖サミットは、「環境」が主要なテーマになります。こうしたことをきっかけとして、沼田町が雪冷熱エネルギーを様々な分野で活用し、地域の活性化と地球温暖化防止に貢献しているということを、多くの方々に知っていただき、今後の更なる雪利用の普及につながればと考えています。
 
 けっこう冬でも冷房が必要な場面というのはあるんですね。
 そして雪をエネルギーとして考えるという発想が、まさに発想の転換ですね。
 洞爺湖サミットはやはり北海道の人たちにとっては大イベントなのでしょう。
 こういう“優れた技術”を、もっともっと世界にアピールして、日本の力としたいですね。
 
 
 
 [編集長のひとこと]
 12日、総理主催の桜を見る会が行われました。天候もよく、総理は、功労があった各界の皆さんはじめ出席者と長い時間をかけて歓談をしていました。
 15日から1ヶ月間は「みどりの月間」。総理、官房長官と一緒に「日本さくらの女王による緑の羽根着用キャンペーン」に参加しました。自発的な森林整備活動への支援のシンボルである緑の羽根を着用するこの運動に対して皆さんのご理解とご協力をお願いします。
 
 総理主催の桜を見る会は新宿御苑で開かれているようですが、あそこは八重桜がメインですから、普段馴染みのあるソメイヨシノとはまた違った、迫力ある桜が綺麗なんですよね。
 ちなみに、やえの名前は「八重桜」からきているんですよ。
 八重桜、綺麗ですよね(笑)
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、ふふんを応援しています。


 


平成20年4月18日

 主文と傍論

 思ったより大きな騒ぎになっていないこのニュースですが、一応取り上げておきたいと思います。

 イラク空自違憲の判断 政府の理屈の矛盾突く
 
 高裁判決は「バグダッドは、国際的な武力紛争の一環として行われる、人を殺傷し、物を破壊する行為が現に行われている。イラク特措法にいう『戦闘地域』に該当する」と指摘。空自の活動はイラク復興支援特措法にも憲法9条にも違反するとした。
 今回の判決は、この矛盾点を指摘した。武装勢力の攻撃や、米軍の度重なる掃討作戦を理由にバグダッドを「戦闘地域」と断定。「バグダッドへの空輸は、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」とした。
 
 「それは判断ですか。傍論。脇の論ね」
 福田首相は17日夜、名古屋高裁の違憲判断への感想を記者団に聞かれ、こう語った。そして、空自の活動について「問題ないんだと思いますよ」と言った。

 この記事は、小泉さんが首相の時の自衛隊をイラクの派遣したという判断が憲法に違反するのではないのかと、そういう理屈で裁判を起こした人に対する判決のニュースです。
 引用した記事は朝日新聞のため、いかにも裁判所がイラク派遣に対して違憲判決を下したかのように印象操作しようとしていますが、しかし実際のところは福田さんがおっしゃっているように、実際裁判で最も大切な部分である主文は控訴棄却、つまり一審でも派遣を差し止める必要なし派遣は合法だというのが、今回のこの裁判の判決です。
 「違憲だろう」と言裁判官が言っている部分というのは、文字通り「傍流の論」であり、ある意味あってもなくても判決には全く支障のない、その程度の論であるという意味です。
 傍論のデタラメさはこちらの記事でも書かれていますが、よってこの裁判を最も端的にまとめれば「派遣は合法」であり、言うまでもなく高裁は高裁の名の下に判決文の中でハッキリと「派遣は問題がない」と判断を下しているワケなのです。
 最近裁判官が個人的な「傍論」を述べるのが流行っているのかどうか知りませんけど、それがどんな内容であれ、この裁判の結論は、誰が見ても「訴えた側の負け」なのです。
 
 しかし、それに納得しない人はやっぱりいるようで、例えばこの傍論を持って「裁判所は違憲を認定した」とか言っている人が、それなりにいます。
 また、「傍論でもなんでも、裁判所が出した判断は尊重すべきだ」という人も、けっこういます。
 しかし、やえは一言言いたいのですが、そういう人たちは日本語がキチンと理解できているのかどうか、疑問でしかありません。
 
 仮に、法的拘束力を持たない傍論が、それでも裁判所が出したモノですからそれなりに意味があるモノとしたとしても、それと同じように主文だって尊重しなければならないハズで、よって「派遣差し止めは却下」と裁判所は出しているのですから、これも尊重しなければ矛盾になってしまいます。
 「裁判所が出した判断は尊重すべき」と言っているのであれば、それはなおさらと言えるでしょう。
 となれば、違憲であるという意見と、意見ではないという意見と、並立している状態、ひとつの文なのに矛盾が生じている状態になっていると言えますが、ここで重要なのは、この判決においては「両論併記」の状態になっているのではなく、主文と傍論というハッキリと上下関係が明確される位置に両論は置かれているというコトです。
 言うまでもなく主文が上位の位置ですね。
 つまり「自衛隊の派遣は違憲ではない」という判決が主文である以上、違憲であるという意見を尊重したとしても主文を超えるコトなど絶対に出来ないワケで、全体をトータルで見れば判決は「派遣は合憲」と捉えるのが、普通の日本語感覚を持っていれば当たり前と言えるでしょう。
 シーソーで例えてみてください。
 片方には主文が、片方には傍論が、ひとつのブランコに同じように両端に乗っているワケですが、しかし重いのは主文であり、シーソーはそちらに傾いていてるワケで、よってそれが結論なワケです。
 主文と傍論ではバランスは取れません。
 「反対の方には傍論も乗っている」という事実をある程度尊重したとしても、それでも事実として主文の方が重いというのはどうやっても変えようのない事実であり、少しでも常識を持った人間であるならそれを現実として受け止めなければならないでしょう。
 朝日新聞をはじめとするヒダリ巻きな人たちは、主文よりも傍論を大切にしよう重要視しようと言っているようにしか見えませんが、それはあまりにも日本語能力の欠如としか言いようがありませんし、むしろそういう態度の方が裁判所というモノを馬鹿にしている行為と言えるのではないでしょうか。
 
 まして今回の判決は高裁レベルの話でしかありません。
 最終的な違憲審査の権限を持つ最高裁の判決であればまだしも、高裁レベルの違憲であれば、行政がそれに縛られる必要などありはしません。
 むしろ高裁レベルの判断で行政がいちいち行動を変えなければならなくなったとしたら、それこそ三権分立の危機と言えるでしょう。
 特に憲法に関わる問題であれば、最高裁の判決が必要不可欠です。
 さらにまして今回のコトは、拘束力を持たない傍論程度ですからね。
 原告はこれで上告しない方針のようですが、主文で負けておいて実質的に勝利とか、むちゃくちゃな日本語解釈をしていますが、これはあまりにも卑怯で幼稚でな言い訳としか言いようがありません。
 負け犬の遠吠えとでも言いましょうか。
 本当に心から自衛隊の行為は違憲だと、差し止めするコトが日本にとってよいコトだと願うのであれば、最高裁まで争うべきでしょう。
 しかしそれをしなかったのは、単に倒閣運動・倒閣ごっこをしたかっただけとしか言いようが無く、もはやこの段階でこの原告団の主張は聞くだけ無駄というコトでしかないとしか言いようがないのです。

平成20年4月21日

 人権恐怖病

 小林よしりん先生がやっちゃいました。

日本で人権擁護法案なんか考えている政治家も、チベット問題で中国に抗議一つしない。アメリカも北京オリンピックのボイコットは言わない。結局、人権なんか嘘っぱちであって、「経済」の理論の前には侵略も弾圧も民族浄化もOKなのだ。日本の反戦平和主義者も中国の侵略・弾圧には今まで見て見ぬふりを貫いてきた。実にインチキなのだ。

 これは週刊誌『SAPIO』(4/23号)に連載されている『ゴーマニズム宣言』の欄外に書かれているよしりん先生のお言葉です。
 やっぱり先生も法案を読んでいないクチなのでしょうか。
 というか、それ以前に、重大な勘違いをしていらっしゃるようなので、僭越ながら指摘しておきたいと思います。
 
 人権擁護法案は、あくまでも国内法であって、その以上でも以下でもありません。
 そして、人権擁護法案は新たな概念を作り出すものではなく、あくまでも現行憲法現行法律が規定するモノの範囲の中だけで、認められない許されない行為を罰したり啓蒙したりする法律です。
 すなわち、今の日本の社会の中で憲法の中で、やってはいけないとされていたコトを、今までとはちょっと違う方法で規制や改善をしようとしているだけなのです。
 繰り返しますが、これはあくまで日本の国内法です。
 外国の個別事案は全く関係がありません。
 もし日本の憲法や法律に、人権侵害に係る規定が全くない、つまり国内法で人権侵害が違法だとされていない状態であれば、それは人権擁護法案がつくられる前提にはなっていないと言えるでしょう。
 今の自民党の動きというのは、別に「人類普及的概念法」なんてモノを作ろうとしているワケではなく、あくまで日本国憲法の下にある法律を作ろうとしているだけに過ぎないワケで、もしこの法案に積極的な人が「憲法が規定しているからこの法案を作っているだけでしかない。憲法で規定されていなければ、人権が世界的に大切だと言われていたとしても、国内法を作る気は起きない」と言ったとしても、それは矛盾はないのです。
 
 あくまで、憲法の下での日本の社会の中で「やってはいけないとされている言動」に対しての規制であり、しかし今までの手法ではあまり効果があがらなかったので、その手法を新しく作ろうというのが、人権擁護法案です。
 新しい概念を作り出す法案ではありません。
 つまり動機的に言えば、ここは別に「人権」でなくてもいいワケです。
 例えば、近隣住民の騒音問題やゴミ屋敷問題に対して、今は行政は強制権を持っていないので、自主的に改善させるか裁判を起こすしか手段がありませんが、これを新しい法律を作ってある程度行政にも立ち入り調査権などを持たせて積極的に解決できる手段を与えよう、という考え方と全く同じと言えるワケです。
 ですから「人権問題に熱心だからこの法律を作ろう」ではなく、「法の不備があるから是正しよう」でも全然全く構わないワケで、よってここにチベット問題を絡めても的を射ない意見にしかなりません。
 もちろん、チベット問題はよくよく大切な問題で、日本にとっても影響は小さくないと言えますので、興味を持っていただきたいのはその通りです。
 しかし、それと人権擁護法案とは全く関係がないワケで、よってチベット問題に消極的である人を人権擁護法案を引き合いに出して批判するというのは、全くの筋違いでしかないのです。
 
 右派や保守系の人って、「人権」って言葉に敏感すぎる気がしてなりません。
 人権と名のつくものは全て敵だと言わんばかりに噛み付き始めます。
 しかしその姿というのは、サヨクの「戦争」や「軍隊」という単語を耳にするだけで過剰反応して知性も理性もかなぐり捨ててヒストリックになってしまうような姿と何が違うというのでしょうか。
 やえにはそう見えてなりません。
 
 チベット問題はチベット問題、人権擁護法案は人権擁護法案。
 それぞれは別問題であり、個別に議論されるべきモノであって、いっしょくたにして乱暴な議論にしてしまっていい問題ではありません。
 よしりん先生も、右派・保守系の人たちも、その必死な姿はどこかで見たことがあるような醜い姿になってしまっていないか、頭を冷やして考えてもらいたいと思います。
 

平成20年4月22日

 光市母子殺害事件高裁判決

 やっとこの判決が出ました。
 事件発生から9年だそうです。
 本村さんはこの死刑判決をどのような思いで受け止められたのか、公的に外に向けた発言ではなく心からの良くも悪くも人間らしい感情としてはどのように受けとめられたのか、これは誰にも分からないコトですが、本当に長かったとしか形容の出来ない、今日の判決だったのではないでしょうか。

 当時18歳に死刑判決 光市母子殺害 広島高裁差し戻し審 『新供述は不自然』
 
 山口県光市で一九九九年、会社員本村洋さん(32)の妻子が殺害された事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死などの罪に問われた元少年(27)の差し戻し控訴審で、広島高裁は二十二日、一審の求刑通り死刑の判決を言い渡した。
 犯行時十八歳一カ月の被告に死刑を適用するかが焦点だったが、楢崎康英裁判長は二人への殺意を認めた上で「死刑を回避すべき理由にはならない」と指摘した。

 やえも色々と思うところがあります。
 その中でも一番最初に来る思いというのは、人間を二人も殺し、まして殺した死体をレイプしたという、非人間的行為を犯しておいて、それでも日本における最上級の刑である死刑にならなければ、一体日本という国における社会正義というモノは何を規範にすればいいのか、一審や二審の判決は大変な疑問が残るという部分でした。
 縁もゆかりもないその場で始めてであった人間を、完全な利己的な理由、欲望のおもむくままに乱暴し、殺し、その上レイプまでして、どうしてそれが“日本で最も重いとされる罪であり刑”とならないのか、これでは日本社会において何が「悪」なのか、その順列を壊しかねない一審二審の判決だったと言えるのですが、ここにきてやっと正常な状態に戻ったと言うコトが出来るのだとやえは思います。
 最高裁の判断、そしてその判断を受けての第二次高裁の判断は、そういう意味で安堵の判決でしたし、今後の日本においても良き前例になる判決だったと言えるでしょう。
 
 もちろんまだこれは二審の判決であり、もう一度上告する権利を被告は持っているので確定判決ではありませんが、最高裁は先にあのような判断を下した以上は、かなり高い確率でこの判決が確定するモノだと思います。
 
 この裁判を通じて、一番目に付いたコトというのは、やはり被告の弁護人の言動と、被告本人の言動でしょう。
 この事件と裁判がここまで国民的注目を浴びた一因は、まずは被害者の遺族である本村さんのキャラクター性から来ているというのはその通りですが、それをむしろ逆説的に高めたのが、被告とその弁護士の言動であると言えると思います。
 一審二審とそれまでこの被告には国選弁護人しかついていなかったのに、最高裁が異例の口頭弁論を開くと決定してから、急に全国から弁護士が集まったという21人からなる大弁護団、まずこの異様さが特筆すべきコトでしょう。
 もし本当にこの被告人のコトを思うのであれば、一審からこの弁護団は就くべきだった、一審二審は国選なんですからね、と言えるハズですが、そうではなく、死刑の可能性が見えた段階で急に集まるという異様さが、注目を集めたワケです。
 そして、この弁護人達の言い分も、その異様さをさらに高めた結果になりました。
 
 曰く、首を絞めたのは押さえつけようとした結果であり、手は逆手で押さえつけており、殺意はなかった。
 曰く、子供が泣くのでひもを首に蝶々結びしてあげようとしたら勢いで締めてしまい死んでしまった。
 曰く、死姦したのは生き返られるための儀式だった。
 曰く、子供の死体の押し入れに入れたのはドラえもんに助けてもらうため。
 
 完全に常軌を逸しています。
 
 仮に後者の二点を、本当に被告本人が述べたコトであり、弁護人はそれをそのまま垂れ流ししただけと言うのであれば、まだいいでしょう。
 本当に被告人本人が言ったのかどうかは誰にも分からないコトですから、それを争っても無駄です。
 ですから、それはまだいいとしても、上二つのの「手が逆手だった」「蝶々結びしていたら首が絞まっていた」というのは、弁護人は一体全体どういうつもりで、どういう精神状態で裁判の場で正式に主張したのでしょうか。
 両者寝ている状態で、左手で被害者の腕を押さえ、右手を自分の頭の上側にある被害者の首を逆手で押さえていたなんて、仮に被害者が全くの無抵抗だったとしても殺すまでの力が入るかどうか、まして実際は被害者が文字通り死ぬ気で抵抗していたワケですから、人間的常識を持ち合わせていたら不可能であると考えるのか当たり前でしょう。
 また、リボンを付けようとしてそのまま死ぬまで首を絞めてしまったなんて、こんなの人間として言っているコトが全く理解できません。
 こんな主張というのは、例えば「3本目の腕が生えてきて、自分の意志とは関係なく首輪締めて殺してしまった」なんていう主張とどこが違うと言うのでしょうか。
 
 まず、裁判というモノに対しての考え方として、ここをよく考えてもらいたいのです。
 弁護人というのは依頼者の擁護を全力を持って行う、例え弁護士個人の思いがどうであれ、依頼者がそう主張するのであれば全力で信じて権利を擁護するというコトはその通りだと思います。
 でもそのためだったら、あり得ないウソまでついて公の場で主張していいコトに、果たしてなるのでしょうか。
 もしかしたら、弁護士の世界ではそれも戦術の一つだと言うかもしれませんが、しかし「弁護士の世界の常識」が100%正義だという論拠にはなりません。
 特に、刑事裁判が被害者本人ではなく、公の機関である検察にだけ原告となり得るという制度を日本は取っている以上、刑事事件は少なからず公的な側面があるワケですから、これは決して法曹界の常識だけの問題ではありません。
 むしろその法曹界の閉鎖的な空気に違和感を覚えた国民が多数いたからこそ裁判員制度が出来たワケで、この問題は今後よくよく議論していかなければならない問題だとやえは思います。
 果たして、真実を明らかにするという使命を帯びている裁判の場で、明かなウソをついてもいいのか、そのせいで真実からより遠く結果になってしまっていいのか、そしてそれが「弁護士の権利」という言葉でかき消されていいのかどうか、考える必要があるでしょう。
 
 もし安田弁護士をはじめ弁護団は、単に「この事件や被告人本人のコトなどどうでもよく、死刑という判決さえ回避できればいいという考え方ではない」とあくまで言うのであれば、本当に心から被告のコトを考えて弁護活動していると言うのであれば、ではなぜ最初の一審から弁護人として名乗り出なかったのか、そしてどうして人間として常識を逸している明らかなウソによる主張をしたのか、この辺を明らかにしてもらいたいと思います。
 
 
 長くなりそうなので、次回もこの裁判について語りたいと思います。
 

平成20年4月23日

 光市母子殺害事件高裁判決 (下)

 本村さんの、裁判直後の会見で、次のように述べておられました。
 
 「人の命を尊ぶからこそ、死刑制度があるんだと思います」
 
 やえは、この言葉に深く強く感銘を受けました。
 すなわち、人の命というモノは非常に重いモノであるからこそ、それを奪う死刑という罰が最上の罰としてあり得る、という意味です。
 人の命などどうでもいいと思うのであれば、死刑など意味を成さない刑になってしまいます。
 例えば、池田小事件の犯人である宅間死刑囚は、生前から「早く死刑にしてもらいたい」と公言し、そして前例に比べれば非常に早く死刑が執行されたワケですが、これでは死刑囚本人にとって本当に罰になったのか、それは多いに疑問が残るところです。
 もちろん社会的に見れば、やはり「命は重い」という価値観が一般的ですから、そう言う意味では宅間死刑囚の死刑執行は全く無意味だったとは言えません。
 こういう視点で見れば、最愛の二人を殺された本村さんが発した「人の命を尊ぶからこそ、死刑制度があるんだと思います」という言葉は、本当に本当に重い言葉なのではないでしょうか。
 
 被告人は、裁判が始まった当初、かなり罪の意識が薄い発言を繰り返していました。

 「ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?知ってます。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。…でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし」
 
 「知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」
 
 「オイラは、一人の弁ちゃんで、最後まで罪が重くて「死」が近くても「信じる」心をもって、行く。そして、勝って修行、出て頭を下げる。そして晴れて「人間」さ。オレの野望は小説家。 へへ」
 
 「犬がある日かわいい犬と出合った。…そのまま「やっちゃった」、…これは罪でしょうか」
 
 「五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも」

 これは一審の無期懲役判決後、知人に宛てた手紙の内容の一部です。
 どう好意的に解釈しても、反省しているとは全く思えない内容です。
 
 一審から二審にかけて、被告はこのような心情を持っていました。
 
 それが変わったのが、最高裁の口頭弁論が開かれ死刑判決というモノが現実味を帯びた時からです。
 例の弁護士団が結成されてからですね。
 その一人は、涙を流しながら「こんなに胸を張って弁護できたことはない」などと言い、被告が反省していると繰り返し主張していました。
 ですから、もしかしたら今日の段階で、本当に被告は反省をしているのかもしれません。
 心の奥底から謝罪をし、償っていきたいと思っているのかもしれません。
 それは神ならざる人間の視点では、人間の心なんて見るコトはできませんから、どうなのかは分かりませんが、だからこそ可能性としては反省している可能性もあり得ると言えます。
 
 しかし、もしこの段階で本当にそうであったとしても、過去において、あまりにも事件のコトを正面から見ようとせず、反省がとてもじゃないけど足りない言動を繰り返していたコトも確かです。
 ですから、死刑という刑が現実味を帯びたからこそ、反省する心を宿したのかもしれない、と言うのは、これはあり得る話だと思います。
 だからこそ現在被告は心から反省している、と言っても、それはその通りなのかもしれません。
 
 だけど、だからといって、死刑という刑を軽くしろという論には成り得ません。
 死刑があるからこそ反省したというのであれば、それは今後死刑制度に対する大きな肯定の論拠となり得るかもしれませんが、反対の論拠には全くなりません。
 反省すれば全てが許されるとはなりません。
 更正の可能性があるという理由が、許される理由にも成り得ません。
 はじめから自らが犯した罪に対して反省していたのではなく、死刑にされるからこそ反省するキッカケになったというのであれば、それは社会として喜ぶべき話であり、それはこの被告に死刑が執行されてこそ、死刑制度の存在理由として完結するモノでしょう。
 反省しないまま逆ギレのように死んでいった宅間よりも、よっぽど有意義な裁判であり死刑制度であったと言えるワケなのです。
 
 前回言いましたように、特に刑事事件は公的な観点が強く、また刑法を含めたあらゆる法律は当然国民の元にあるワケですから、よって死刑制度が凍り付いた犯罪加害者の心を解かし、人間らしい反省の心情を呼び戻せるというのであれば、それは社会として死刑制度は利益があり喜ぶべきコトなのではないかと思います。
 命を尊ぶからこそ、死刑は意味を成す。
 法律も裁判所も、命を軽んじていては、死刑制度など無意味なモノとなってしまうでしょう。
 そして被害者も、さらに加害者本人も、命の重みを感じたからこそ、この被告は反省の弁を口にするようになったのですから、お互いに命の重みを感じるているからこそ、死刑が意味を成すのです。
 
 被告は、今後の人生を深く深く反省しながら、己の所業を後悔しながら、生きていってほしいと思います。
 

平成20年4月24日

 「死姦は生き返りの儀式」の出鱈目さを論によって明らかにする

 光市母子殺害事件で被告とその弁護団が言い出した、「死体をレイプしたのは生き返らせるための儀式だった」というトンデモ論は、誰がどう聞いてもトンデモ論であるというのは言うまでもないことだが、ここでひとつ、ただ単にトンデモと言うだけでなく、キッチリと論によって証明してみせよう。
 ちと、直接的な表現を入れざるを得ないが、茶化すつもりは毛頭ないし、また遺族の方が読むとちょっと耐えられない描写があるかもしれないが、その辺ご了承願いたい。
 
 
 まず被告と弁護団の言い分として、「偶発的に被害者が死んでしまったので生き返らせるために儀式を行った」と言うぐらいなのだから、つまりそれは、「善意で死体と性交した」ということになる。
 この論を本当に信じていたとすれば、誰が殺した原因となったのはともかく、他人が殺したのを目撃したとしてもこの被告はその死体と性交するコトだろう。
 多くの人間は死ぬのはイヤだろう、被告自身も生きたいと願っているというのはかなり伝わってくる事実であるし、だからもし可能なら生き返らせてあげたい、そう思うはずだ。
 だから死体と性交することは、言わばライフセービングであり、人工呼吸などの行為と同じであり、それは善意で行ったことになる。
 
 これを逆に言うと、性的な欲求や衝動などは皆無だったことを意味する。
 性欲があったから死体の服を脱がせて膣を露出させ自分の男性器を挿入したのではない。
 そうではなくて、そうするしか生き返らせる手段がないからこそ、致し方なく衣服を脱がせて、致し方なく自分の男性器を露出させ、致し方なく膣に入れたというわけだ。
 言ってみれば、出血した人間を目の前に絆創膏や包帯を差し出す行為と、全く同じ動機と言えよう。
 もし他の方法があればそうしなかったんだろうが、それしか手段がなかったからこそこういう手段を取っただけである。
 性欲など、どこにも存在しないことになる。
 
 しかしここでおかしな点が生まれる。
 性欲がなかったのであれば、なぜ被告の男性器は勃起したのだろうか。
 まして、射精までどうやって至ったのだろうか。
 
 相手は死体である。
 ネクロフィリアの性癖があれば別だが、普通死体を前にするとそんな気など起きはしないだろう。
 死体は一般的には恐怖の対象ではあっても、男が勃起するような、性欲が沸くような対象ではない。
 まして自分が、故意か偶発かはともかく、直接殺した相手である。
 はじめから性欲目的であったのなら、勢いそのままで勃起させ挿入し射精させることは可能かもしれないが、被告や弁護団の言い分では最初からそんな目的ではなかったと言っているのだから、おそらく死んだ直後まで全くその気は無かったわけで、すなわち、被告が男性器を勃起させ性交しようと思い至ったのは被害者が死んでからということになるわけなのだが、そんな状態では、いかに生き返らせるためとはいえ、死体に向かって善意だけで勃起させられるというのは、ちょっと男として考えられない。
 そもそも死体に触れることすら忌避するというのが真っ当な感覚だろう。
 しかも被告は殺す気は無かったのに偶発的に死んでしまったと言っている相手なのだから、それはもう生き返らせるために必死だったことだろうことは想像に容易いが、そんなせっぱ詰まった状態で、全く心に余裕がない状態で、自身の性器を勃起させ、射精まで至らせるなんてというのは、相当に難しいこととオレは思う。
 男のペニスとは、手足を動かすように自分の意志でどうこうできるような器官ではない。
 不要なところで勃起して困ったりした経験は、男なら一度ならずあるだろうし、また童貞が初めての際に緊張して勃起すら出来なかったなんて話もよく聞く話だ。
 それなのに、性欲もなく善意だけで勃起させ射精まで至った、しかも死体相手にである、この被告の精神力は並はずれているとしか言いようがない。
 少なしオレにはこんな現場で勃起など出来ない。
 
 これだけでもかなり疑問が沸く話だが、さらに好意的解釈をしてみよう。
 もしかしたら、死体とは言え、女性の衣服を脱がし下半身を露出させたら意に反して性欲が沸いてくるということもないこともないだろう。
 被告は当時19歳だったわけだし、やりたい盛りだ。
 またもしかしたら本人の自覚がないところで多少のネクロフィリアの気があったのかもしれない。
 だから不本意ながらも、儀式の途中で急に男性器が勃起するぐらいの欲情が沸いてしまったのかもしれない。
 そして、それを助けに、生き返らせたいという義務感かられて、多少の劣情は心に押さえ、目を閉じて一所懸命腰を振って射精にいたったのかもしれない。
 そういうつもりで性交したのではないけど、どうしてもある程度の劣情が生まれてしまったのだ、これは不可抗力なんだ。
 百歩譲って、そういうことにしてみよう。
 
 しかしだ、射精という行為は、その終わった直後、何とも言えない虚脱感、無力感が襲ってくる。
 男なら分かる感覚だろう。
 一部ではこれを「賢者モード」呼んでいるようだが、まさに言い得て妙で、射精後は男はものすごく冷静になってしまう。
 この被告も例外ではないだろう。
 いや、欲情にかられての勢い任せの性交ではなく、義務感で死体との性行為によっての射精に至った後である。
 その後の後悔感や虚脱感、無力感というものは、おそらくオレには想像し得ないモノがあるのではないかと思われる。
 しかもだ、これは生き返りの儀式であり、被告本人は心からそのように思っていたのだから、性交し射精し精子を女性の中に入れれば生き返ると本気で思っての行為なのだから、この後女性は被告の中では生き返らなければならないはずであるのだから、被告はその時を、無断で性交してしまったことにちょっとの罪悪感を持ちながら、待つというのが普通であろう。
 少なくとも、生き返るかどうかの確認はして当然だ。
 被告は、射精後の虚脱感などでものすごく冷静になっているのだから、今まで乱暴に接してしまったことに後悔しつつ、しかし生き返ってよかったと、そういうエンディングを期待していたはずだ。
 
 だが現実は違う。
 そんなことで人は生き返ったりしない。
 普通の人間ならそう思うが、被告自身はそう思っていない。
 なぜなら生き返ることを前提に、死姦に及んだのだから。
 だから生き返らないことに疑念を覚えるだろう。
 どうして生き返らないのか、自分は100%の善意で救命行為をしたのに、どうして生き返らないのだろうか、生き返って欲しい、生き返らせたい……そう思ったことだろう。
 となれば、殺してしまったことには罪悪感を持っているが、しかし救命行為をするぐらいの善意は持っているのだから、生き返らないと分かってしまった次に取る行為は、普通は警察を呼ぶとか、少なくとも救急車を呼ぶなりの行為をするのが当然だろう。
 繰り返すが、今の被告の状態は、罪悪感にさいなまれながら義務感で死体を性交を嫌々ながらも行い、それでも多少の劣情を覚えた自分に後ろめたさを感じながら射精してしまった後の、どうしようもない虚脱感と冷静さのある人間の思考である。
 いくら「死姦すれば人は生き返る」なんてぶっ飛んだ考え方の持ち主でも、救急車の存在ぐらいは知っていよう。
 それを選択する思考的な落ち着きと、時間は十分にあったはずだ。
 よって、生き返らせたいと心から思うのであれば、それらの“次の手”をとるのが当たり前の行為である。
 
 しかし実際はどうだ。
 被告が実際にとった行動とは、本村さんの金を奪い、その金でゲームセンターで遊んでいたというではないか。
 あまりにもそれは矛盾する。
 どうして善意で生き返らせたいと思った人間が、その行為に失敗した後に、のほほんとゲームセンターなどでゲームをするというのだろうか。
 これが、生き返りの儀式に成功していたというのなら分かる。
 謝罪はせずとも、生き返ったのを見届けて、しかし一回は殺したという事実から逃げたくて、現実逃避していたのかもしれない。
 しかし実際は違う。
 生き返りの儀式を行ったのにも関わらず被害者は生き返らず、しかも被告本人は殺す気は無かったかもしれないが、それを反省したからこそ生き返りの儀式を施したのだろう。
 よって、ここで逃げる理由はない。
 ましてゲームに興じるなどというのは論外でしかないだろう。
 始めから乱暴目的ではない上に、射精後のものすごい冷静な頭で考えているのだから、勢いだけでの行動ではないはずなのだから、その後金品を奪うという行為も、その金でゲームセンターに行くという行為も、まずあり得ない。
 でも実際は、盗んだ金でゲームをしていたのである。
 
 このように、どうがんばって好意的解釈しても、矛盾だらけになってしまう。
 これらの被告の一連の行動を一番合理的に解釈すれば、始めからある種の興奮状態であり、欲情からくる動機で被害者を暴力にかけ、殺害した後もその勢いそのままに死姦し、欲望のままに金品を奪って反省のないままゲームに興ずる。
 こうとしか考えられない。
 もし本当に、生き返りの儀式であったというのであれば、安田弁護士よ、この矛盾を説明する義務があるのではないか。
 「死姦は生き返りの儀式である」と言うだけならいくらでも言えようが、しかし弁護士という仕事は思いついたままを適当に垂れ流して言うのが仕事とでも言うのか。
 まぁ当サイトなど読んではいないだろうが、いくら記者会見で吠えたところで、矛盾だらけの論をとなえているだけの滑稽な姿にしかならないのである。

 

平成20年4月26日

 裁判の難しさ

 人権問題の難しさ、そして裁判というモノの難しさが如実に表れている事件があります。

 学校裏サイトに「消えろよ、虫けら」 退学の女性が提訴
 
 携帯電話などの「学校裏サイト」に中傷の書き込みをされ、高校からの退学を余儀なくされたとして、水戸市の女性が書き込みをした同級生2人とその両親を相手に、慰謝料など220万円を求める訴訟を水戸地裁に起こしていることが分かった。
 訴状によると、女性は05年4月に茨城県大洗町の県立高校に入学後、約1週間にわたり携帯電話のサイトに本名を名指しされ、「調子に乗りすぎ」「消えろよ、虫けら」「いい子ぶってると殺すぞ」などと書き込まれたという。
 女性は「本当に殺されるかも知れない」との恐怖心から次第に学校に行けなくなり、同年6月ごろに学校を退学した。
 高校側は、中傷の書き込みをしていたとされる女性2人を、約1週間の校内謹慎処分にしていたという。
 提訴された女性の1人は答弁書のなかで、「女性が学校に行かなくなったことと、サイトの書き込みとの間に因果関係はない」などと反論している。

 それなりにニュースになったのでご存じの方も多いかと思いますが、最近流行っているいわゆる「学校裏サイト」で悪口書き込みをされ、転校を余儀なくされたという事件です。
 今日は、この事件を例に、いかに人権問題が現実問題として解決しにくいか、またそのシステムも不備が多いかというところを見ていきたいと思います。
 
 この裁判、ポイントがいくつかありますので、まず箇条書きで書きだしてみましょう。
 
 ・民事訴訟であるというコト
 ・損害賠償請求であるというコト
 ・裁判の論点が、書き込み自体ではなく、書き込みと転校との因果関係にあるというコト
 
 ひとつずつ見ていきます。
 
 まず「民事訴訟である」というコトですが、これはつまり、刑事訴訟ではないというコトです。
 被害者の方は訴訟するぐらいですから、おそらく弁護士を立てていると思うのですが、この問題、弁護士に相談した上でも、民事訴訟を取るしか手段がなかったと判断したモノと推測されます。
 法的にも常識的にも、本来はこのような書き込み自体が人権侵害そのものであり許される行為ではないハズなのですが、それでは警察や検察は動かないというコトが現実だというコトを物語っていると言えるでしょう。
 次の項目についてにもかぶるのですが、刑事事件であるなら書き込み自体をやめさせられますし、書き込み自体に対して罰するコトもできるのですが、しかし現実とし今の段階ではそれは不可能であるというコトをこれで物語っているワケです。
 
 今はこれぐらい大きなニュースになりましたので、いまのこの段階で警察に相談したとしたらもしかしたら警察も動くかもしれませんが、しかしそうでない段階で「学校の裏サイトに悪口を書かれた。どうにかしたい」と警察に相談しても、まぁやっぱりなかなか取り合ってくれなさそうと言わざるを得ないのではないでしょうか。
 なぜならば、警察が動くというコトは、書き込みをした本人を逮捕するというコトに他ならないワケですから、この問題が「学校内のでのコミュニケーションの問題」という部分と、「相手がまだ未成年である」という部分を現実的に勘案すれば、警察が動く=逮捕(補導)というアクションは、現実問題としてとても難しいと言わざるを得ないと思います。
 ですから、いくら刑事訴訟は検察が行う行為だから被害者の負担は少ないと言っても、安易に取れる手段でもないワケなのです。
 
 次に「損害賠償請求である」というコトですが、これも司法制度の限界を語っているのではないでしょうか。
 本来は、別に被害者もお金が欲しいというワケではないと思います。
 一番良いのは、早い段階で中傷書き込みがされないようになれば、それが一番良かったんだと思います。
 しかし、民事訴訟するためには、こういう訴え方しかできないというのも現実なのでしょう。
 確か自民党の人権問題等調査会でも、有識者の方が「民事訴訟するには損害賠償しか手段がない」という主旨のコトを語っておられたと聞いています。
 ですから今回の訴訟も損害賠償請求となっているのですが、本来は論点が違うハズです。
 本来は、その書き込み次第が問題であって、心身の傷を負ったから慰謝料を払えというのは本題ではないのです。
 そして、ここまで取り返しがつかなくなってしまった状態にまで追い込まれなければ、司法という手段が使えないというコトも表している裁判でもあるワケです。
 ここも、現行司法制度の現状の限界を表していると言えるでしょう。
 
 最後に「裁判の論点が、書き込み自体ではなく、書き込みと転校との因果関係にある」というコトですが、これも先ほどと同じように、論点が違ってしまっているんですね。
 最初にも言いましたように、本来は書き込み自体そのものがやってはならない行為であり、それを止めるコトが本来の解決策であるハズなのですが、この裁判においては論点はそこではなく、書き込みと転校との因果関係が争う点となってしまっているのです。
 この時点で、書き込みの有無自体は、全く司法として問われないのです。
 書き込みしたコト自体は認めているのにも関わらずです。
 すでに本来の問題点から離れてしまっているんですね。
 
 ですから、この裁判の結果の可能性としては、「悪意ある書き込みはあった」けど「因果関係は無いので損害賠償する必要なし」という裁判所の判決もあり得るワケです。
 実際被告側はそのようになるよう主張していますね。
 
 <『提訴された女性の1人は答弁書のなかで、「女性が学校に行かなくなったことと、サイトの書き込みとの間に因果関係はない」などと反論している』 上記記事より引用>
 
 もっと言うと、「被害者の子供が書き込みによって傷ついたコトは事実として認めるが、それが転校するまでのコトでもなく、損害賠償するほどの義務はない」とされる可能性だってあるワケです。
 おかしいですよね。
 ここまでくると、もはや人権問題とは言い難いところまで来ていると言わざるを得ません。
 現行制度の限界です。
 
 以上、このように、現在進行形で起きてしまっている人権問題も、今の制度のままだとキチンと対応できない問題も存在してしまっているのです。
 
 もしこの問題がもっと早い段階で解決する手段を持ち得ていたら、裁判という最終手段を取らずにすんだかもしれません。
 いじめの問題というのは本当に難しい問題で、それを無くすコトはほぼ不可能であるというのはその通りですが、転校を余儀なくされ、訴訟まで起こしてしまうというのは、訴える側も訴えられる側も大変に心が傷つく行為であるでしょう。
 しかし何らかの形で、転校に至るまでに、出来るコトというのはあるのではないでしょうか。
 
 もちろん「学校の先生がしっかりと問題に当たって教育しろ」というのはその通りです。
 正論です。
 本来は教育によってこそ、真の解決があり得るでしょう。
 しかし残念ながらそれは理想論です。
 教育で解決する問題というのは、なにも人権侵害問題だけではなく、言ってみればありとあらゆる犯罪において同様のコトが言えるのではないでしょうか。
 そして、現実的に犯罪は起きてしまうのです。
 だからそれに対する対処療法もやはり必要なのです。
 学校の先生がキッチリと教育して、問題に当たって、それでこの手の書き込みが無くなればそれが一番いいというのは言うまでもないコトです。
 やえもそうなるよう願っていますし、教育の問題はもっともっと、政治においても思想においても考えていかなければならない問題だと思います。
 でも、それが達成されない時のために、さらに救済の網を掛けておくというコトも大切なコトなのではないでしょうか。
 教育だけやっていればいいというコトにはならないでしょう。
 
 その場合、この問題を考えたときに、学校の先生という立場だけでは、強制的に書き込みを排除できる権限を持っていません。
 生徒に「書かないようにしろ」と言うコトはもちろん出来ますが、それで全てが無くなるのであれば今現在ここまで「裏サイト」が問題にはなっていないでしょう。
 警察に相談すれば、もしかしたら警察そのものや、経済産業省もしくは総務省あたりの権限によって削除できるかもしれませんが、そこに至るまでには、相当大変なプロセスを経なければなりません。
 時間もかかります。
 ですから、こういう現実を前にして、もっとよい方法はないのかは、やはり考えなければならないの問題だと思います。
 
 「現実にある問題は現行法で十分対応できる」
 「個別法で対応し、新しい問題が起きたらその時に新しい個別法を作ればいい」
 「日本には重大な人権侵害なんて無い」
 
 果たして本当にそうなのでしょうか。

 

平成20年4月28日

 最近の自民党人権問題等調査会の様子

 最近自民党では、毎週コンスタントに人権問題等調査会が開かれていまして、やえも全てを把握するのが困難になってきましたので、最近レポートが滞ってしまっています。
 ごめんなさい。
 ただ、最近の調査会の様子を伺うに、全然議論は進展していないとしか言いようがないような状況みたいです。
 調査会自体は、ここ数回、人権問題にかかる個別法について、その関連省庁の方に出てきてもらい説明をさせているようなのですが、その後の議員さんの質疑応答があまりそれとは関係ない話の方が多いようで、相変わらずと言ってはなんですが、言いっぱなし議論にしかなっていないそうです。
 議員さんの発言は、やっぱり「そもそも論」にたった、立法自体が必要ないという発言が大多数を占めているみたいです。
 それでも、弁の立つ塩崎元官房長官が執行部側で議論をまとめようとされているので、なんとなくではありますが、前進していると言えなくもないという状況らしいですが……。
 
 ところで、そんな議論を伺っている中で、やえはひとつ、これはちょっと看過できないという意見がありました。
 
 現在の社会の中で、様々な紛争を解決するための手段というのは色々あって、その中でADRとか日本司法支援センターとか認証紛争解決サービスとかというモノがあるんですが、これらって主に弁護士会や弁護士が中心になって、仲介等にあたるシステムです。
 特に「認証紛争解決サービス」は、こちらのサイトにもありますように、その名の通り法務大臣から「認証」された組織が仲介する役目を負う、言わば公的なお墨付きを貰った組織が、ある程度の権限を持って仲介に立って解決を模索するサービスです。
 ですから、この制度をもって、新しい法律なんて不要じゃないかという意見も多々あるようですが、やえはそういう意見の中でもの凄く気になる点がひとつあるのです。
 
 その認証された組織ですが、こちらのページを見てください
 人権問題を扱う機関としては、今のところ「大阪弁護士会」「京都弁護士会」「横浜弁護士会」だけです。
 あれ?
 なんかこれ、問題じゃないです?
 2年前からこの問題をずっと追ってきた身として、この制度を積極的に支持する気にはなれません。
 特に大阪弁護士です。
 2年前、この資料が自民党法務部会に出され、大問題になりましたよね。

 第1 勧告の趣旨
 生徒の「思想・良心の自由」を実質的に保障するためには、入学式及び卒業式における「君が代」斉唱の際、斉唱や起立が強制されるものではなく、「歌わない自由」「起立しない自由」を有することを事前に説明する等して十分に指導する慎重な配慮が望まれるところ、貴殿による事前説明は実施されず、生徒の「思想・良心の自由」に関する配慮が不十分です。
 貴殿に対し、入学式及び卒業式における「君が代」斉唱につき、生徒に「思想・良心の自由」に関する事前説明を実施する等、生徒の「思想・良心の自由」を尊重して十分配慮されるよう勧告します。

 この勧告を出したのが、大阪弁護士会です。
 当時、こんな勧告はけしからんという意見が大勢を占めていて、一部は弁護士会の勧告と人権委員会の勧告をごっちゃにして(正直やえもそう思っていた時期がありました)、だからこんな法案には反対だと言う人はたくさんいました。
 また今でも、偏った考え方を持っている人が人権委員や人権擁護委員になるかもしれない、こんな判断を下すようになってしまうかもしれない、というような考え方で反対する人もけっこういます。
 
 であるならば、その偏った考え方をこのように過去実際に出した、そして自民党でもやり玉に挙がった勧告を出した大阪弁護士会が認定されているこのサービスは、決して肯定し得ないモノなのではないのでしょうか。
 少なくとも、あの大阪弁護士会が出したトンデモ勧告書を否定した人は、大阪弁護士会が仲介するようなサービスは肯定できないハズです。
 「認証紛争解決サービスがあるからいいじゃないか」と言うのは、明らかに矛盾した意見なのです。
 
 特にこれは、稲田朋美先生に言いたいです。
 稲田先生は今まで何度も人権問題等調査会で、「自分の政治家としての発言が人権侵害だと弁護士会から攻撃を受けている」と、しつこいぐらい繰り返し発言なさっていたのですから、人権問題を扱う認証紛争解決サービスの認定団体に弁護士会しか入っていないコトには異を唱えなければ、今まで言っているコトは全部矛盾にしかならないのではないでしょうか。
 このシステムについては稲田先生は特に発言をされてはいないとやえは伺っていますが、いったいどういうお考えを持っているのか、少なくとも肯定は出来ないと思うのですが、どうなんでしょうか。
 
 やえは、むしろ民間に任せるようなシステムにする方が、偏った考え方を持つ人が入り込む可能性は遙かに高いと言えるのではないかと思います。
 それは、この認証紛争解決サービスが如実に物語っています。
 また最近流行りのADRもそうです。
 これは、「裁判外紛争解決」などと言われますが、これもある人を仲介に立ってもらって裁判でない方法で紛争を解決しようという手段なのですが、これだってその仲介者に偏った意見を持っている人がなってしまう可能性はそれなりにあると言えるでしょう。
 少なくとも、人権擁護法案による人権委員会よりは、格段に高いと言えます。
 だからこそ、法律によって公的機関によって、紛争解決の手助けをするシステムをつくるべきなのです。
 法が定めた公的機関だからこそ、法によって公平性を担保できるワケですし(民間、例えば弁護士会とかだと「権力の不当介入だ」と言われかねません)、公的機関だからこそ国民が監視できるのです、
 そして最も大切なのは、この国においての正義である「民主主義」を、どこまでそのシステムに反映させられるか、なのです。
 
 2年前の議論から追っている身として、これらの意見は看破できないモノがあります。
 これは結局、理由もなくただただ反対運動しているだけ、矛盾があろうがどうしようが、反対さえできればいい、廃案にさえ出来ればいいという、そんな議論とはほど遠い、イデオロギー運動にしかなっていないとしか言いようがないのです。

 

平成20年4月30日

 25円議論

 もしかしたらマスコミは与党批判に終始するかもしれませんが、やえにはどうしても、参議院の責任からの逃亡にしか思えません
 確かに参議院の決定を衆議院において決めてしまうというのは、一見すれば越権行為に見えなくもないですが、しかしそもそもは結局参議院は賛成も反対もせずに結論を出さないままだったのですから、まずはそっちの方がどう考えても責任逃れとしか言いようがないのではないでしょうか。
 政治と思想との一番の違いは、それは「結論を出す」というコトです。
 思想は、考えっぱなしで将来解決できればいいという結論もアリですが、政治はそうはいきません。
 一定の期間の中において一定の結論を出してこそ政治です。
 それを放棄した参議院というのは、やえは政治における最もやってはならないコトなのではないかと思います。
 どっちにしても、参議院では結論を出さなかったのですから、これは言い換えれば「参議院選挙に投票した民意は暫定税率維持に反対もしていない」と言えてもしまうワケです。
 実質的にはともかく、形式的にはそう言えてしまいます。
 そしてその形式的な手続きを行う義務を有しているのは一体どこのだれなのか、甚だ疑問に感じてなりません。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 やえが情けないなぁと思うのが、折角数年前、そう麻垣康三の戦いと言われた安倍総理が誕生する前の自民党総裁選挙の際に、増税の議論を前面に出せる政策公約がやっと日本でも出来るようになったと思ったのに、ここに来ていつの間にかやっぱり目先のお金にとらわれる程度の国民意識になってしまっていまっているところです。
 特に自動車税の問題なんて、地方にはまだまだ道路が必要であるという現実を目の当たりにしても、それでも自分の目先の25円に必死になってしまっていてるところなど、もはや「全体の利益」を考えるモノである政治とは、全く相反する私事でしかない私情の垂れ流しと言わざるを得ません。
 しかも、地方道路を作る、税金を直接執行する都道府県知事または市町村長の大部分が暫定税率維持・特定財源堅持を主張しているのにも関わらず、民主党はワケの分からない絵空事を言い、国民はそれすら耳に入れようとしないまま25円しか見えていないという、なんとも滑稽な構図が今展開されているワケです。
 誰が悪いのかはともかくとしても、国民と政治の乖離とは、まさにこのコトでしょう。 
 
 やえの個人的意見で言えば税金の使い道を限定する必要はあまり無いとは思っていますが、今現在のガソリン税などは道路特定財源であり、つまりその道路を最も使っている自動車ユーザーのためだけに使われている税金で、そしてその税金は自動車ユーザーのみが主に払っているワケなのですから、結局は自分のために利益が還元される・還元されているのですけど、それも理解できていない人が思いの外いっぱいいるというのが悲しい現実です。
 ガソリン税関係をさっぱり払っていないあまおちさんとかは、ごちそうさまとしか言いようがないんですけどね。
 政治とは、極端に言えば、一人を犠牲にしても100人を救うコトであるワケですが、こんな調子ではどうやっても政治は語れません。
 
 小泉さんが総理の時、野党民主党はなんて言っていたか、覚えていますでしょうか。
 小泉さんは常々、「自分が総理の時期というのは消費税を上げる時期ではない」と言っていましたが、これは小泉さん個人云々ではなく、自分が総理になっているその限られた期間の中においては消費税増税する時期ではないと、単に時間的な時期的な問題としておっしゃっていたワケです。
 おそらく早い段階から、自民党総裁任期が切れればあっさりと総理の座から降りると小泉さんは決意していたのでしょう、ああいう性格ですからね。
 ですから、「国の中以外の経済状況を勘案してその時期にはまだ消費税は上げるべきではない」と言っただけにすぎません。
 しかし、それに対し民主党というのは「それは無責任だ」と言っていました。
 「小泉さんは消費税の議論から逃げている」と、そう民主党は言っていたワケです。
 小泉さんがおっしゃっていた真意を完全にはき違えている上に、どの口で「無責任」と言っているのか、あきれ果ててしまうしかありません。
 そしていま民主党は何をやっているのかと言えば、なにやら今度は「ガソリン値下げ隊」ではなく「ガソリン値上げ阻止隊」を結成したとかなんとかです。
 果たしてそれが本当に責任ある行動と言えるモノなのでしょうか。
 やえには首をかしげるしかありません。
 
 そもそもこの議論、一体論点はなんなのか、さっぱり分かりません。
 あるのは、「25円がほしいかどうか」だけにしか聞こえないのです。
 思想的な論点が皆無だと言わざるを得ないでしょう。
 まぁ、これは今の時期に関わるコトではなく、おそらく民主主義政治の根本的な問題なのだろうとは思いますが、税の問題ほど世論や国民の意見とういうモノがアテにならないモノはないのです。