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平成20年6月16日

 人権擁護法案 太田私案 中間的まとめ

 月曜から人権法なんて胃にもたれそうでアレなんですが、11日に自民党で人権問題等調査会が開かれ、その様子をお伺いしたところ、やえの思い違いをしていた部分があったみたいですので、その訂正と、今までの太田私案に対する中間的まとめと言いましょうか、整理をしてみたいと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 やえがなにを勘違いしていたかと言いますと、以前の更新で「旧法案の一般救済手続きに係る部分について、太田私案ではさっぱり切り捨てられている」というようなコトを言っていた部分です。
 実はこれ半分くらい違っていまして、というのもやえは、太田私案ではいわゆる「話し合い解決等」しか法律の範囲内に定めていないのかと思っていたところにそもそもの間違いがありまして、実際よく太田私案を見てみますと、話し合い解決等以外にも救済手続きがあるんじゃないかと思われる書き方がされているのです。
 と、ここで「あるんじゃないかと思われる」なんてイヤに曖昧な書き方をしたのですが、それは、でも話し合い解決等以外ではどのような方法で救済をするかというコトが、太田私案ではハッキリと書かれていないコトに起因します。
 
 太田私案では人権侵害の規定を、「話し合い解決等」の措置のある人権侵害問題と、それ以外の措置のある人権侵害問題との2つに分けています。
 しかし、「話し合い解決等」以外の措置の範囲である人権侵害問題に対してはその措置を、「現在でも行っている援助などの任意の人権救済の対象を」とこの程度しか書いていないので、具体的にはどうするかがハッキリとは分からないんですね。
 まぁこれでだいたいどんな措置を取るのか想像は出来ますが、ただそれも、この太田私案全体に言えるのですが、この法案は法律の体を成していないので曖昧な部分多いですから、その辺はこれから具体的に明らかになっていくのでしょう。
 とりあえず今は、こういう曖昧な書き方から想像していくしかないんだと思います。
 
 よって、「話し合い解決等」の対象以外の人権侵害問題はほったらかしになってしまうとやえは言ってしまいましたが、それはちょっと適切な表現とは言えず、それ以外のある程度広い範囲の人権侵害問題も、この法律で扱うようにはなっています。
 ただし、それが具体的にどのような方法かは今のところ不明ですし、また旧法案で扱う範囲よりは確実に狭まっているのは確かです。
 さらに旧法案では特別救済手続きの範囲に含まれていたモノが、太田私案では「話し合い解決等」に含まれなくなってしまったモノもあります。
 正直、この辺の変わり具合がよくよくやえの中で整理できていなかったために、思い違いをしていまいました。
 というワケで、以下に、太田私案を出来るだけ分かりやすく整理してみたいと思います。
 
 
1.太田私案がカバーする人権侵害問題の範囲
 
 太田私案がカバーする人権侵害問題の範囲は、大きく2つのグループに分けるコトが出来ます。
 1つは、この法案(太田私案)の主題である「話し合い解決等」によって救済措置が取られる人権問題。
 もうひとつは、話し合い解決等以外の、もっとソフトな救済措置が取られるであろう人権問題です。
 
 1−A.「話し合い解決等」以外の措置が取られる人権侵害問題の範囲

 ・憲法14条が定める差別
 ・障害疾病による差別
 ・職務上の地位を利用して行う性的な言動
 ・優越的な立場においてする虐待などの人権侵害
 ・名誉棄損・プライバシー侵害

 ちなみに憲法14条は、このように規定されています。

 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 旧法案での一般救済手続きに関しては特に具体的な人権侵害問題の規定はなく、「人権侵害による被害を受け、又は受けるおそれがあるときは」程度しか定められていませんでしたが、太田私案では簡素な救済措置であろうとも、かなり具体的な規定が定められるコトになると言えます。
 また、太田私案の補足説明資料にも書いてあるのですが、「任意の救済の対象から、“近隣の紛争”のようにいずれか一方が優越的立場にあるとは言えない類型を除外した」と、基本的にこの法案は、上から下に対する人権侵害問題だけを扱う法律になるようです。
 旧法案では一般救済手続きなら「騒音オバサンも範囲に含まれると考えられる」とやえは解説したコトがありましたが、この太田私案では含まれないとされるワケです。
 
 1−B.話し合い解決等の措置が取られる人権侵害問題の範囲

 ・公務員及び事業者・雇用主が行う差別的取扱い
 ・公務員が行う虐待、児童虐待、施設内虐待他
 ・反復して行う差別的言動
 ・職務上の地位を利用して行う性的な言動のうち、被害者を畏怖困惑させるもの
 ・差別的取扱いを誘発する差別助長行為、及び差別的取扱いの意思表示

 なお、虐待と差別的取扱いの違いをどう規定しているかにもよるのですが、虐待については公務員だけが範囲になってしまっていると読み取れ、この辺が旧法案と違う部分と言えます。
 
 
 ごめんなさい、とんでもなく長くなってしまったので、ここでいったん区切ります。
 
 (つづく)
 

平成20年6月16日

 人権擁護法案 太田私案 中間的まとめ

2.人権侵害問題に対する措置
 
 人権侵害問題が起き、この法律で定められるであろう手続きを踏んで、正式にそれが「人権侵害」であると認定されれば、人権救済のための措置がとられるコトになります。
 この法案では、以下の2種類の方法による救済措置が定められています。
 
 2−A.「1−A」に対する措置
 
 太田私案ではこの部分を「現在でも行っている援助など任意の人権救済措置」としか書かれていません。
 ですので具体的にはハッキリと分からないのですが、多分おそらく、現行制度下の「主として法務省人権擁護局が行っている活動」のコトを指すモノかと思われます。
 この範囲で言えば、強制性のある活動は一切無いと言えますし、逆に現場の方達からは、もうちょっと権限さえあればもっと救済できた事例はけっこうあるという意見が出ています。
 どちらにしても、特に問題である措置とは言えないでしょう。
 問題があるのでしたら、今現在でも問題が発生し続けているコトになります。
 
 2−B.「1−B」に対する措置
 
 太田私案では、この部分に関する人権侵害問題に対しては「「話し合い解決」等の対象となる」と定めています。
 そして「話し合い解決等」とは、以下のように定めています。

 事実の確認(調査)に基づく調停の仲裁・勧告・訴訟援助等を言う

 具体的には「仲裁」と「勧告」と「訴訟援助」というコトになるのでしょうけど、それ以上の具体的な措置については不明です。
 が、旧法案などから想像するに、

 ・仲裁は、当事者を呼び集めて第三者が間に立ち、両者が納得するように仲直りさせる。
 ・勧告は、行政機関が加害者に対してそれ以上人権侵害をしないよう、場合によっては氏名公開などの罰則のようなモノを用いて、やめさせる。
 ・訴訟援助は、様々な理由から訴訟しにくい人の援助をする

 というコトになろうかと思います。
 もちろん太田私案に明記されていない以上、氏名公開等の措置があるかどうかはハッキリとは言えませんが、少なくとも現行法では対処しきれない、もっと強い権限があれば対処できるだろうと思われている事案に対するモノであり、いまよりも「強い」モノになるのは確かだと言えるでしょう。
 ちなみに後述しますが、調査は太田私案でもあると断定できるぐらいのようですから、氏名公開などの処分もおそらくあるのではないかと思います。
 むしろ、でないと、なんのための調査であり、なんのための勧告措置なのかよく分からないですからね。
 
 
 ※補足
 
 2−A−イ.現在の制度における法的根拠
 
 現行法においては、法務省設置法において、法務省が「つかさどる事務」として「26 人権侵犯事件に係る調査並びに被害の救済及び予防に関すること」と定められていることから、法務省が人権問題系の事務を所管しているコトになっています。
 しかし現行法では、法務省が人権問題を所管するコトは定められていても、具体的にそのためにどういうコトをして、どのような権限を持っているか、という部分については明記されていません。
 一応いまでも、「人権擁護施策推進法」という法律もあるのですが、ここにも結局具体的な方策は全然書かれていないんですね。
 よって現在では、「大臣訓令」というモノを根拠として、人権擁護行政は行われています。
 
 一応訓令も「法令」の一部であるという考え方が主ですので、完全に法制度下以外の存在ではないとは言えるのですが、しかしやっぱり極めて曖昧なモノであるというのは、その通りだと言えます。
 訓令は法律を基にしているモノですが、法律ではないのですから。
 この太田私案には、近年の行政改革の流れに則って、この辺の曖昧さを正して、キッチリと法制化しようという狙いもあります。
 この辺が整理できていない人がたまにいるのですが、簡単に言えば、法律は国会を通さなければ成立しないモノであり、一方訓令は大臣が「そうする」と言ってしまえばそれで定められてしまうモノであり、ここに厳密な違いがあります。
 現実問題としては、訓令はそんなに軽いモノではないので、そう簡単に変えられるモノではありませんが、それでも技術論で言えば、わりと簡単に変えるコトも可能であるのが訓令です。
 大臣の胸先三寸ですからね。
 しかし法律は、そうではありません。
 国会で審議するという大変さと厳密さは、いまこの人権擁護法案ひとつ例に取ったとしても、ものすごく大変であるというコトは簡単に想像できるでしょう。
 つまり、国民の意思決定機関であり、国権の最高機関である国会という場においてこそ定められた最も重い法律によって厳密にキチッと決めようと、人権行政を変えるにしても国民にオープンにされる国会の場において議論しなければ変えられない制度、すなわち法律化させようというのが、太田私案の狙いのひとつだと説明がなされているワケなのです。
 
 2−B−イ.調査と罰則的措置
 
 太田私案には調査の中で「過料」についての規定が特にないのにも関わらず、なぜか「差別的言動に対する調査については、過料の制裁を除く」という一言があります。
 これは逆に読めば、「差別的言動以外に対する調査には、過料の制裁がある」と読まなければ自然とは言えません。
 よって、旧法案にあったようなも調査に非協力的である場合に対する過料の制裁が太田私案でも踏襲されていると読むべきでしょう。
 
 これは旧法案の時の説明から繰り返しになりますが、未だに誤解されているようなので、敢えてここでもう一度取り上げます。
 
 1.過料は、人権侵害問題そのものに対する罰則ではありません。
 過料は、調査を妨げる行為に対して出すモノであり、例えば結果的に訴えられた事案が人権侵害ではないと結論づけられても、その調査を妨害してしまえば過料を科されるコトもあり得ます。
 人権侵害問題と過料は別物だと考える必要があります。
 
 2.過料は裁判所が下すモノです。
 人権委員会などの行政機関がその意志によって過料を下すなんてとんでもないとよく言われているところですが、実際過料を下すのは裁判所です。
 人権委員会の独断とは決して言えません。
 
 3.こういう手法は「間接強制」と言い、裁判でも認められた正当な手法です。
 詳しくはこちらで説明していますが、いまでも同様の手法が日本の制度の中に存在している以上、これだけを否定するコトはできません。
 未だに「過料は令状主義に反している」と言っている人がいますが、ならそれは、裁判で争うしかない事例です。
 そしてその裁判によって間接強制が違憲であると認められるまでは、日本の法制下においては合法です。
 まして一度裁判で争われて合憲だと認められている仕組みであり、それなのに「自分は違憲と考えるからダメだと言ってしまうのは、「自分は民主党支持者だから自民党のもとで法制化された法律には従う必要はない」と言っているようなモノで、そんなのはただの我が儘に過ぎません。
 間接強制そのものの制度についての是非を議論するコトは誰にも止められませんが、しかし間接強制は、それが含まれているからその法案がダメだと言ってしまうような根拠には、全くなり得ないのです。 
 

平成20年6月20日

 当サイトのコトについて

 ご意見板の方でちょっと変な流れになっているようなので、これは何度も言っているコトなのですが、正直、自分のサイトのコトを書くのは、自分語りのようであまり好きじゃないんですけど、この際思い切ってズラズラと書いてみたいと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 やえは結果を決めて文章は書きません。
 やえがどのようなキッカケでその事柄を取り扱うのかと言えば、やえがその事柄が気になるかどうかです。
 それを扱うコトによって結果がどうなろうと、例えば自民党の擁護のような形になろうとも、民主党の擁護のような形になろうとも、そんなの関係ないというか、考えて書いてはいません。
 というか、知ったこっちゃないです。
 結果的に当サイトは民主党批判が強くなっているというのは、やえも自覚はしていますが、まぁそれは結果論です。
 ですが、当サイトは別にジャーナリストをしているワケではありませんので、公平とか中立とか気取るつもりはありませんし、ですからそれを中立の方向に直そうともさっぱり思いません。
 定期的に「公平な記事を」と言われるんですが、そのたびに何度も何度も言ってますように、当サイトはジャーナリストではなく、あくまでやえやあまおちさんの個人での思いや意見を書くサイトであって、それ以上も以下もないサイトですから、公平性を求められても困りますし、今後もそのようにするつもりは一切ありません。
 
 そもそもこれはそれで生計を立てているという意味でのプロであっても、個人の名前において言論活動している人が、全て公平公正な言動をしているとは全く言えませんね。
 それはそうです。
 そんなの個人がしても意味など無いと言いましょうか、個人がする必要性がありません。
 個人が個人の名前で言論活動をする以上、その個人の考え方が最優先であるのは当然のコトです。
 プロの言論家は、その上で消費者のニーズに合致すればお金をもらえ、そうでなければお金を得るコトが出来ない、ただそれだけのコトです。
 公平かどうかで判断されるワケでは全くありませんね。
 当サイトはやえ、もしくはあまおちさんの、個人としての思想などを書くサイトです。
 当サイトには、それ以上の意味も、それ以下の意味もありません。
 
 その上で、やえの思いを言いますと、結果が始めから決まっている文章なんて読んでも、そして書いても面白いのか、やえはあまり面白いとは思えません。
 二大政党制のせいでしょうか、最近は自民か民主かどっちかに凝り固まってしまっているとしか言えないような物言いが世間に増えてしまっている気がしてならないのですが、選挙の際にはそれは現実論として仕方ありませんけど、言論の場面においてまでそんなコト言っても、少なくともやえはつまんないと思います。
 やえは、やえが気になった事柄について、やえの考えを述べるだけです。
 キッカケは入口であって、結果の出口ではありません。
 ですから、例えば皇室典範改正問題においては当時総理だった小泉さんを、正面から批判しています。
 この問題を扱った結果、その出口として小泉さんに反対意見を言うコトになったとしても、実際なったワケですが、そんなのはやえの知ったコトではありません。
 問題は、やえが皇室典範改正問題をどう考え、どのような形が一番望ましいのかを議論し、自分の考えを当サイトでどう主張するか、です。
 政治の、永田町の、誰が得して誰が損するか、誰の擁護になって誰の批判になるかなんていうのは、やえには関係のない話です。
 よく読んでいただければ、過去においてこういう文章はそれなりにあるコトが分かるかと思われます。
 その題材を扱うかどうかというのは、結果から入っているのではなく、その題材がやえの琴線に触れるかどうかが重要なのであり、結果がどうなろうがやえには、そして内容にはあまり関係のない話でしかないのです。
 
 人権法を通じて思い知らされたのですが、結果だけを求めている人っていうのがけっこう多いんですよね。
 恥ずかし気もなく「理由なんてどうでもいい。反対するコトがまず大切」なんて言い切ってしまう人が少なくありませんでした。
 やえには全く理解できません。
 反対するのかその理由がないのに、どうしてどうやって反対をしているのでしょうか。
 でも本人は、そんな矛盾にも目をくれず、大まじめに反対運動をしているんですね。
 結果ありきの態度です。
 
 なぜやえがこの問題を取り扱おうと思ったのかと言えば、まず「人権」というモノを扱う法案が議論されると聞いて、そこに興味を引きました。
 人権法特設ページの冒頭に書いていますように、やえは本来「人権」という言葉が好きではありません。
 ですから、まずここで、やえは興味をひかれたワケです。
 ですから、実は最初の方では、やえはこの法案に批判的な文章を書いていました。
 今でもそれは残してありますので興味のある方はご覧頂ければと思いますが、この問題を取り上げている中でやえは、よくよく勉強して知らなかったコトを知って、法律や行政のあり方を学んで、また法案が途中大きく改正されたというのが大きかったのですけど、今ではやえの個人的な思いで言えば、通っても通らなくてもどっちでもいいというぐらいになりました。
 法律として成立しても、それが問題とは言えない、これがいまのところのやえの結論です。
 このように、結局一番の問題は中身なのです。
 人権擁護法案が提出されたのは小泉内閣の時で、いま福田内閣ですが、そもそも最初は法案に反対で途中からどっちでも良くなったのですから、ここからしてもやえにとっては小泉さんや福田さんというのはこの問題に全然関係が無い問題だと言えるでしょう。
 問題そのものの中身がどうなるかが一番の問題であって、そこに福田さんも自民党も小沢さんも民主党もなんら関係ないのです。
 
 また、仮にやえが自民党員だったとして、多分十四歳は党員になれないと思うんですが、まぁ仮にそうだとしても、だからといってやえの主張している内容に、何ら変化があるとは全く言えません。
 やえが自民党員だったとして、いや仮に共産党員でもいいんですけど、そうだとしてそれで今まで主張していた内容や正当性が変わりますか?
 当サイトは問題を扱うとき、「○○の問題は、□□という理由だから、△△と考えるのが妥当でしょう」と、必ず中身を書いています。
 重要なのは、その□□という理由の部分であって、ここをキチッと明らかにして主張すれば、やえが自民党員だろうが民主党員だろうが共産党員だろうがカープ党員だろうが水銀燈員だろうが、関係ないハズです。
 その問題に対する結果に不満があるというのでしたら、□□という理由の部分を多いに批判してください。
 その方がやえにとっても新たに勉強になって、とても有意義です。
 しかしそれ以外のコトを言われても、その問題には全く関係の話です。
 やえにも関係がありません。
 
 インターネットというのは、リアル世界での立場を気にしなくていいというのが、ひとついいところだと言えるでしょう。
 それは、立場に関係なく何でも言えるからです。
 やえは、当サイトでやえとしての意見を言っているだけで、まさか学校でもこういうコトをずっとしゃべりつづけているワケもなく、そんな街宣車右翼のようなコトはしていません。
 でも十四歳の主張だとしても、大学教授の主張だとしても、サイトの上では平等に内容を吟味するコトが出来ますよね。
 ここがネットのいいところなんです。
 立場がどうであれ、内容こそが重要視されるのがネットなのですが、つまりもし仮にやえが自民党員だったとしても、内容には全く影響がないワケです。
 読んでくださる方々には、内容こそを吟味していただければと思います。
 
 でもやえも、さすがに全ての分野について精通しているワケではありませんし、分野によってやえの興味の引かれ方も違います。
 常々言っていますコトは、経済の分野についてはやえはあまり得意ではないと公言していますね。
 そんな感じで、クラスター爆弾についても、もしこれを取り上げるというのであれば、やえは無責任なコトはしたくありませんから、今やえはこの爆弾についての知識はほぼ0ですので、かなり勉強をして、考えをまとめなければなりません。
 しかしそこまでのモチベーションがこの問題で続くかどうかも分かりませんし、そこまでしても、キチンとした論としてまとまるかどうかも分かりません。
 だから今のところ取り上げていないワケです。
 さらに言いますと、やえからしたら、ひとつの兵器についてを色々と言うんじゃなくて、その前に日本にはやるコトがあるんじゃないですかと言いたい部分も大きいです。
 いつも言ってますよね。
 日本はキチンと憲法を改正して、軍隊を国軍にしなければなりません。
 国防力を上げるという意味でしたら、どう考えてもこっちの方が格段に高いと言えますので、誰の責任かはともかく、いつまでも今の中途半端な状態は脱しなければならないのではないでしょうか。
 
 当サイトに過大な期待を掛けていただくコトは有り難いコトですが、やえも十四歳の乙女、限界があるコトはご理解いただきたいと思いますし、やえはやえの思いでサイトの主筆を任していただいているワケで、感情だってありますから、必ず当サイトをご覧の全ての人の希望に合致できるモノが書けるというワケではないコトもご理解いただければと思います。
 
 すでにかなり長いのですが、もうちょっと続けます。
 ○○の問題より××の問題の方が重要だ、なんて言う人が、当サイトに限らずあらゆる場面でけっこういらっしゃいますが、やえはそういう言い方は全くの無意味としか思えません。
 人権法より国防の方が大切だと言う人がいる一方、国防より国民生活の方が大切だと言う人もいるでしょうし、年金こそが今の日本で最も議論されなければならないんだと言う人もいるでしょう。
 いや消費者庁の問題だ、いや餃子問題だ、いや総選挙だ政権交代こそが今の日本に最も必要なコトだ、と様々な人が色んな立場で言うワケです。
 そしてネットには、人権擁護法案こそが日本の浮沈をかけた最も大切な問題で、そのためには何をしてもいいんだ、この問題を知らない人間はバカの局地だと、そんな風に思ってしまっている人もけっこういたりします。
 しかし、こういう問題に果たして順列を付けるコトはできるのでしょうか。
 結局こういうのは人によって違いますし、そもそもどういう基準で大切がどうかという部分も、人それぞれ全然違ってしまっていますから、議論にすらならないでしょう。
 ですからこんなコト言っても無意味です。
 
 ではどうするかと言えば、当サイトで言えば、やえが書くときはやえが特に興味を持った問題を取り上げるだけで、あまおちさんもあまおちさんの中の順列で文章を書くのでしょう。
 だからあまおちさんはよく警察の問題を、けっこう過激に書きますよね。
 それがあまおちさんのスタイルなんでしょうし、やえにはやえのスタイルがありますし、それは誰だって自分のスタイルがおありでしょう。
 そして人には得意分野と不得意分野がそれぞれ出来ていて、個人で活動する以上、それが最優先されるモノなのではないでしょうか。
 なにより、そういう色々な人間が様々な主張をし、それが混ざり合うコトで、ひとつの世論というモノができあがるのです。
 やえは政治をどうこうするというスタイルではなく、世論形成の段階において、世論に向かって主張をして、その一端にちょっとでも影響が及ばせられればと思っているのです。
 まだまだちっぽけな存在でしかありませんけどね。
 それが当サイトのスタイルなのです。
 
 最後にひとつ言わさせていただきますと、当サイトにおける人権法を扱うネット全体としての相対的な価値は決して低くないと自負していますし、そう信じてやっている部分というのはけっこう自分でもあります。
 例えばクラスター爆弾の話でしたら、おそらく軍事に詳しい人はネットにはいっぱいいらっしゃるので、その手のサイトさんに行けば、それなりの知識は得られると思います。
 ですから、ここでやえが出張ってクラスター爆弾を取り上げなくても、ネット全体からしたらそんなに影響するコトではないでしょう。
 もちろん、やえがふとしたキッカケでこの問題に興味を持つ可能性は否定できませんし、やえ独自の視点でこの問題について聞いてみたいと言っていただけるのでしたら、それはとてもうれしいコトです。
 
 しかし人権法については、ちょっと事情が違います。
 当サイトほど真剣に中身についてキッチリした議論が出来るサイトというのは他にはありません、というぐらいのは自信は持っています。
 言ってしまえば、プロの言説家でいらっしゃる櫻井よしこ先生よりは人権法に関しては断然詳しいと自負しております
 平成17年の時の議論では、当サイトだけでなく、宗匠さんのところですとか、カリーさんのところですとかで、とても有意義な議論が展開されていましたが、残念ながら現在は人権法に関して動いてはいらっしゃいません。
 また、もしかしたら今年からの議論で活動を始められたサイトとかブログさんもいらっしゃるかもしれませんが、しかし17年当時の議論も関わってきたという意味においては、ほとんど当サイトしかないと言っても差し支えないぐらいの状況になってしまっています。
 別にやえがそれを全て請け負うという気概を持っているという意味ではないですし、正直やえとしましては心細いので宗匠さんには戦線復帰を願いたいところなのですが、しかし結果として人権法を当サイトが語る意味と意義というのは、他の問題に比べて決して小さくないと言ってもいいんじゃないでしょうか。
 そしてそれが当サイトの価値の一端を担っているとも言えると思います。
 
 人権法の話題はもうゲップが出るっていう人もいらっしゃると思います。
 ごめんなさい。
 でも、この話題を読みたいと思っている人も確かにいるでしょうし、資料的価値からして当サイトが示す情報が必要な場面や人というのは、これからも多くあろうかと思います。
 そういう意味において、当サイトが、別のサイト・ブログさんに比べて人権法の扱う機会が多くなってしまうというのは、決して悪いコトとはやえは思いませんし、不自然なコトでもないと思います。
 
 人権法より大切な問題があるんじゃないかと思っている人もいらっしゃるとは思いますが、全ての問題を全て背負えるほどやえの背中は大きくありません。
 その中で、やえが出来るコトをやえなりにやっていくコトこそが大切だと思いますし、中でも人権法についてはやえしかでない部分がとても大きいので、本音を言えばもうやめたい気持ちもあるんですが、頑張っていたりしています。
 また人権法の問題は、単にこの問題、すなわち法案の中身が大丈夫かどうか、また法律として成立するかどうかという視点だけでなく、政治に関わるコトに対する覚悟や責任大きさ、また法案文を読む難しさや、法律のあり方・裁判のあり方・行政のあり方、立法府としての国会のあり方、そしてその現実論などについて、よく考えてほしい、よく知ってほしいという期待をやえは込めて語っているつもりです。
 どっちかと言えば、後者の方がやえの中では大きいんですけどね。
 ですから、人権法については最後までやえは取り上げていこうと思っています。
 飽きた方もいらっしゃるかとは思いますが、お付き合いいただければと思います。
 
 と、いつもよりかなり長くダラダラと語ってしまいましたが、というワケで、今後ともこんな感じでやっていきたいと思います。
 どうぞ応援よろしくお願いいたします。
 

平成20年6月21日

 人権擁護法案 太田私案 中間的まとめ(下)

3.制度濫用を防止するための方策
 
 太田私案には、悪意を持って他人を貶めるためにこの制度を悪用されるコトをできるだけ防ぐために、以下のような方策をとると定めています。

 イ.申し立てられる側に不利益となる措置は、その対象を、合理的に正当化できない行為(不法行為)に限定
 ロ.勧告に対しては不服申し立てができる
 ハ.特定の歴史観に基づく被害申し立て等救済の対象から除外すべき類型を列挙する
 ニ.申し立てられる側が、申し立て自体を不当として対抗措置をとれることとする制度を創設し、同一の救済手続きの中で処理するものとする

 3−イ
 不法行為とは法律で定められている用語であり、これが成立する要件としては、「故意・過失」「権利侵害(違法性の存在)」「損害発生」「侵害行為と損害発生との間に因果関係があること」「責任能力」「違法性阻却事由(違法性が正当化される理由)がない」というモノがあります。
 不法行為という概念はけっこう難しいモノらしくて、またこれ勉強するためにはとっても大変な労力を必要としそうでちょっと勇み足なんですが、とにかくこの法案内で考えるべき大切なコトというのは、すなわち“あまりにもバカバカしい訴えは、不法行為ではないという理由で退けられる”と考えるコトが出来るというコトでしょう。
 不法行為という言葉や概念は曖昧ですが、曖昧だからこそ現実の問題に対応できる概念とも言えます。
 
 例えば、よくこの法案の議論の引き合いに出される、銭湯などの入れ墨お断りの看板はどうなのかという問題ですが、どこまでも厳密に「取扱いを差別的にしてはならない」と言葉通りに取ってしまえば、入れ墨お断りも不当な取扱いと言えてしまう可能性も否定できません。
 しかしここで「不法行為」という概念を入れるコトにより、銭湯における入れ墨を理由とする入湯拒否は不法行為でないと現行法下でされているのであれば、太田私案における人権侵害ではないと宣言できるワケですね。
 やえは不法行為に関してはまだまだ勉強不足なので間違っていたら指摘していただきたいのですが、実際問題として「入れ墨お断り」がここまでおおっぴらにまかり通っている現状を見れば、今のところそれは「不法行為ではない」と言えるモノなんだと思っています。
 もしそれが不服であるのであれば、裁判によって是非が争われるべき事柄でしょう。
 そしてこの法案における人権委員会の段階では、その是非は争われずに、不法行為ではからこの法律では扱われないと判断されるんだと考えられます。
 また、もし裁判によってそれが不法行為だと認定されれば、今度は次から人権委員会でもそのように判断されるようになるでしょう。
 ちなみに、「外国人入湯お断り」は、裁判によって差別的取扱いと判決されています。
 よってこれは不法行為と呼べるモノであり、人権委員会でもそのように取り扱われるモノかと思われます。
 
 3−ロ
 これは旧法案においても、同様な制度が盛り込まれていました。
 太田私案においてもこれと全く同じかどうかというのはまだ分かりませんが、もし全く同じだとしたら、なかなか良くできている制度だとやえは評価しています。
 詳しくは、こちらをご覧下さい
 
 3−ハ
 別紙として類型が記されていますので、書き出します。

 救済の対象から除外すべき類型
 
 次のような場合には、人権侵害の申出があっても、救済の対象から除外する事を法律に定める。
 
 @ 申出の内容に、次のような事情が認められるとき
 A 学術上の議論、歴史上の事象又は宗教上の教義についての見解を根拠・前提として被害を受けたと主張するもの
 B 法令が憲法に違反する旨の見解を根拠・前提として被害を受けたと主張するもの
 C これらのほか、その性質上、人権救済機関の調査・措置に馴染まないもの
 
 A 不正な利益を得る目的、他人の名誉を毀損する目的その他の不当な目的でされたと認められるとき
 
 B 被害が発生しておらず、かつ、発生するおそれがないことが明かなとき
 
 C 名誉棄損については、公共利害事実に係わり、かつ、公共目的であったと認められるとき

 @のABによって、よく危険だと言われている例示は、ほとんどここで当てはまらなくなると言えるでしょう。
 例えば従軍慰安婦や南京大虐殺問題とか、君が代斉唱の問題とかですね。
 
 3−ニ
 ここは簡単に言えば、反訴できるというコトでしょう。
 いまの裁判制度においても、訴えるコトそれ自体を目的としているんじゃないかと思ってしまうような訴訟も残念ながらあります。
 そして、悪意ある訴えを完全に無くすコトはなかなか難しい、おそらく不可能ではないかと思われます。
 ですから、「その訴え自体が不当である」と逆に訴えるコトも出来るコトにしているワケで、その制度をこの法案でも取り入れたという形なのでしょう。
 旧法案にはありませんでしたが、やえ的にはこれはこれでいいんじゃないかと思います。
 
 制度濫用を防止するための方策全てに言えるコトですが、これらを導入したからと言って、濫用が0になるコトはあり得ません。
 しかし、0にならないからといって制度がダメだと言ってしまうのも、あまり適切とは言えないでしょう。
 なぜなら、裁判制度だってそうですし、全ての制度においてそれは同様だからです。
 裁判だって、不当な訴えはあるでしょうし、冤罪だって残念ながら起きてしまいます。
 だけどだからといって、裁判制度そのものを廃止しようというコトにはなりませんよね。
 ここの問題というのは、そういう現実的な部分を勘案して、どう現実に対応していくかを考えなければなりません。
 理想論だけではなんともならないというコトは、常に頭の中に入れておかなければならないでしょう。
 
 
 4.その他特記事項
 
 その他の特記すべき事項として、以下の3つがあります。

 イ.「話し合い解決」等は委員会の責任で行い、随時民間ADRを活用する
 ロ.報道機関については特別な取扱いをせず法の下に平等な扱いとし、「話し合い解決」等の対象とするかについては、将来検討課題とする
 ハ.人権擁護委員については現行制度を維持する

 4−イ
 これについては、やえは反対です。
 この手の問題について、その決定に関わる場において民間が絡むというのは不適切だと思うからです。
 おそらく今の制度のままで民間ADRを活用するコトとなれば、大阪弁護士会が絡む可能性が非常に高く、しかし大阪弁護士会というのは人権という言葉をタテにしてトンデモナイ勧告を過去に出したコトのある曰く付きの団体でもあります。
 今はまだ勝手に大阪弁護士会が私的に勧告を出しているだけに過ぎませんが、もしこの法案が法律化されたあかつきには、それが権力を持って施行されるコトになってしまいます。
 詳しくはこちらを読んでいただくとして、よってやえは、ここに関しては大反対です。
 
 4−ロ
 ここも、旧法案から後退した部分と言えます。
 旧法案では、いわゆるメディアスクラムも人権侵害だと規定されていたのですが、太田私案ではさっぱり削除されてしまいました。
 旧法案でも17年当時では凍結という形を取っていたので、実質的にはあまり変わりませんが、しかし後退は後退です。
 残念な部分です。
 
 5−ニ
 結局、現行制度の維持というコトになり、このため、外国人は人権擁護委員にはなれないコトになりました。
 やえは別にどっちでもよかったので、これならこれでもいいと思います。
 
 
 太田私案の、いまのところのまとめは以上です。
 とりあえず今のところ法律としての形となっていませんので、法制化していく中で、また新たな議論しなければならない事項が出てくるかと思いますので、これだけで全体をどうこう言うコトは出来ないと思います。
 まずはこれらを踏まえて、また17年当時の議論も参考にしながら、丁寧に中身を見ていくコトが大切でしょう。
 

平成20年6月23日

 マスコミの正義

 今日は、マスコミの話、特に新聞の一般紙とテレビについてのお話をしたいと思います。
 
 一言にインターネットと言っても、サイトやブログは企業から個人まで様々な人が運営していて、内容も十人十色ですから、どんなサイト・ブログを日頃読んでいるかによってその人の「ネット観」というモノは変わってきます。
 ネットにおいてたまにある事象が流行したりしますが、例えば「アサヒる」なんて言葉が流行りましたけど、メールしかしないような人とか、調べ物があるときしかネットしないような人とか、ある特定のジャンルのサイト(子育てサイトとかペット系サイトとか)しか巡回しないような人とかは、「アサヒる」なんて言葉知らないという人も少なくないでしょう。
 一言にネットと言っても、巡回しているサイトによって、ネット観は全然違ってくるワケです。
 しかし、「アサヒる」という言葉を知っている人は、ネットにおいては半ば常識のような感じを受けてしまって、しばしば「ネットをしているのにどうしてアサヒるを知らないの?」と思ってしまうコトもあったりします。
 人権法だって、ネットの中には存在すら知らない人も少なくないでしょうし、一般的知名度で考えたら全然低いというのが現実です。
 ネットを主な活動の場にしているやえからしたら残念なコトですが、まだまだネットの常識と、一般世界の常識とは完全には一体ではないというのが、実際のところだと言えるでしょう。
 
 ですから、思想系や政治系のサイト、また昔で言うテキストサイト系のサイトやブログをよく巡回する人にとっては、マスコミなんていうのは自分勝手な自分の主張しかしないメディアでしかないと認識しいる人も多いかと思いますが、一方日常的にその手のサイトを巡回していない人の場合には思っていない人もいるワケです。
 
 ではなぜマスコミに対してそう思っていないのかと言いますと、新聞やテレビとかのマスメディアというのは、基本的には公平公正で中立であるというのが建前として存在をしているからです。
 それは、新聞やテレビ自身もそう自認・公言しているところでしょうし、もし「アナタのところの新聞は公平公正を旨としていますか?」と質問すれば、少なくとも一般紙では「そうです」と答えるコトでしょう。
 そして一昔前は、もっともっと新聞とかテレビが持つ力は大きかったと言えます。
 ですから、新聞やテレビは公平公正だと思っている人も、まだまだ少なくないというのが現実なのです。
 
 ネットでの常識にとらわれすぎている状態というのは、情報を得るための出所が固定化しているからです。
 しかしそれは、ネットだけに限った話ではありません。
 ネットが普及する前の時代では特に、そして今でも特に新聞というのは購読していても普通は一紙しか取らないですから、それこそネットで毎日のように様々なサイトを巡回している人でなければ、情報の大部分を自分が購読している新聞から得るコトになります。
 となると、その新聞に書いてあるコトが常識の全てだと思い込んでしまうコトだって多々あるワケです。
 しかも、公平公正と新聞自身が公言しているワケですからなおさらです。
 特に昔は朝日新聞と言えばクオリティーペーパーと信じられていた時代があったワケで、だからネットが普及する前はアサヒ的な思考をする人が少なくなかったのです。
 
 ネットに凝り固まっている人、朝日新聞に凝り固まっている人、思想の方向のベクトルは全く逆の場合も多いですが、その思考構造は一緒なワケです。
 
 話がちょっとズレましたが、新聞もテレビも、建前として公平公正中立を旨としています。
 またそれが、新聞やテレビの価値を高める要素の一つでもあると言えるでしょう。
 例えば、その手の考え方が正しいと強く信じていない限り、しんぶん赤旗とか聖教新聞は一般家庭では取りませんよね。
 全国5紙、もしくは地方紙であれば特にどこをとってもいいと考えている人は多いですが、敢えて赤旗や聖教新聞を取るという人は、その系の人でなければまずいないと言ってもいいでしょう。
 そして赤旗を公立学校で教材として使用して問題となったコトもありました。
 それは、やはり赤旗などの新聞というのは公平な存在ではないと多くの人が認識しているからに他ならないワケです。
 そういうコトからも赤旗や聖教新聞は「一般紙」とは呼ばないワケで、逆に言えばいわゆる一般紙の価値の一翼には公平公正さが担っているからこそと言えるでしょう。
 
 結局ここが一番問題なワケです。
 公平というコトを謳い、そしてそれを売り文句にしているのですから、新聞やテレビは公平にしなければならいのは当然なワケで、しかし一番タチが悪いのは、公平だという顔をしながら、こっそりと自説を織り込んであるような記事があったりしているからです。
 「社説」はまだいいです。
 はじめからキチンと「自分たちの独自の考え方だ」と前置きしているのですから、ここで変なコトを書いても、内容に対しては批判があって当然ですが、少なくとも「公平ではない」という批判は適切ではないでしょう。
 しかし、一般的な公平な事実を報道するかに見せかけて、実は自説を織り込んでいたり、またある方向に意図的にミスリードしようとする記事を、たまにマスコミというのは行うというところが問題なのです。
 読者は、「新聞は公平だ」という前提条件がありますから、ミスリードされているというコトに気付きにくいのです。
 これが政党機関誌なら、はじめから身構えて記事を読みますので、その上で自分が判断すればいいだけの話です。
 しかし新聞やテレビはそうではないからこそ、ミスリードが問題になってくるのです。
 
 やえは、こういうところを、過去に批判をしてきたワケです。
 
 やえは過去一度も赤旗に対して「公平でない」と言ったコトはありませんし、一般紙でも社説に関しては内容を批判したコトなら確かありますけど、「公平でない」と批判したコトはありません。
 テレビでは、番組によって変わってきますが、報道ステーションなんていうのは一般的には「報道」という顔をして建前として売っていますので、公平でないなら公平でないと批判します。
 もし報道ステーションが「古舘伊知郎の自説放談」なんていうタイトルでしたら、「公平じゃない」なんては批判しないでしょう。
 ああ古館さんがまたバカなコト言ってるな、程度で終わってしまいます。
 ただ、やはりテレビ全体として偏る、特に政治や選挙の場面で特定の方向にだけ偏向するのはよくありませんから、そういう意味において批判はするかもしれませんが、少なくとも「古舘伊知郎の自説放談」なら、そんなに頻繁に取り上げたりはしないと思います。
 でも未だに一般的には、報道ステーションはかなり質の高いニュース番組として認識されているというのが現実ですから、しかも視聴率は低くありません、やえとしては取り上げる頻度はそれなりに高いワケです。
 逆に「朝まで生テレビ」なら、それは有識者個人が議論する番組だとはじめから視聴者も分かって見ていますし、そういう主旨の番組なのですから、「公平な内容ではない」という批判はあまり意味を成さないでしょう。
 ただ、ある問題を取り上げる時に、はじめから偏った出演者をそろえるといった、番組の作り方が公平でない場合は、また批判の仕方は変わってくると思いますが、その辺は番組の価値にも関わってくるコトでもありますので、政治・思想を扱う番組としてはなかなか「朝生」は評価は高いですよね。
 
 やえはいつも言っています。
 当サイトはジャーナリズムをしているワケではないので、公平公正を求められても困ります、と。
 それは役割が違うからです。
 個人に対して公平公正を求めるコトは、そもそも筋違いですし、無理な話です。
 個人の有識者の中で、「自分は絶対的に公平公平だ」なんて思っている人はいないでしょう。
 なぜなら、どんな意見の中でも基本的には自分の考え方が一番正しいと思っているハズだからです。
 そうでないと、意見を売り物になんか出来るハズがないですからね。
 ですから、公平公正な個人なんて存在するワケがありませんし、だから読者や視聴者や消費者は、はじめから個人に対して公正公平を求めてはいません。
 そうする必要も無いとやえは思います。
 
 しかしだからといって、公平公正を旨とするメディアに、「自分が公平でないのにメディアにだけ公平を求めるのは間違っている」と言ってしまうのは、適切ではないでしょう。
 役割が違いますし、建前も違いますし、望まれているコトも違いますし、付加価値も違います。
 マスコミに対するそういう批判は、公平で売ってるのに公平でないからこそ、公平でないと批判しているのです。
 批判する人の態度や立場がどうこうという話ではありません。
 簡単な話です。
 八百長でないと謳っているからこそ競馬などで八百長疑惑があれば問題になるのですし、公平だからこそ消費者は競馬にお金を使うのです。
 公平であるという建前=価値が成り立っていてこそ競馬という存在は成り立っているワケです。
 だから公平でないと問題ですし、もし公平でない要素があれば批判されてしかるべきなのです。
 ここが決定的に違うんですね。
 
 そういう意味でも、赤旗とか聖教新聞を「公平でない」という理由では批判しないのです。
 赤旗や聖教新聞は偏ってて当然です。
 そもそもそういう層を狙って作っているのであり、それが売りなんですからね。
 公平であるべきという批判は、新聞であるからとか、公の場に意見を言うから、という基準ではないワケで、ですから「公の場に意見を言うなら全て公平であるべき」という考え方は違うでしょう。
 
 では、新聞やテレビが公平でないというのであれば、どうすればよいでしょうか。
 2つの考え方があります。
 1つは、新聞やテレビが「自分たちは公平な存在ではありません」と公言するコトです。
 もう1つは、読者や視聴者、消費者が、はじめから「テレビや新聞は公平な存在ではない」と認識するコトです。
 
 前者はなかなか難しいでしょう。
 もし公言してしまったら、新聞なんて売れなくなってしまうかもしれません。
 実際朝日新聞なんて、ネットが普及して化けの皮がはがれかけてしまい、部数は相当に落ち込んでいると聞いています。
 ですから新聞もテレビも、自らの価値を高め保持するという意味で、これを公言するコトはないと思います。
 
 よって現実論としては後者の方が実行力として説得力を持つでしょう。
 消費者がはじめから公平でないと気付いていれば、ミスリードなどの問題は起きにくくなるワケです。
 一般紙が機関紙のように一般的に認識されれば、もはや「公平でない」という批判は必要なくなるコトでしょう。
 「今さらなに言っているんだ」と思われるのがオチですからね。
 そして実際、ネットの普及によって、そういう方向に行っているコトも確かだと言えると思います。
 
 やえはよく「当サイトはジャーナリズムをやっているワケではないので、公平でも公正でも中立でもありません」と言っていますが、これはむしろ当サイトの価値を高めるために言っているつもりです。
 当サイトを、ただの事実発信サイトと思われるのはイヤだからです。
 もちろんニュースサイトはニュースサイトの価値があるワケですし、やえもたまにお世話になっていますので、価値がないとは全く思っていません。
 素晴らしいサイトさんブログさんも数多くあると思っています。
 ただ、価値の方向性が全く違うというコトなのです。
 当サイトは、やえやあまおちさんの独自の視点を示すというところに最も高い価値があるのです。
 今でもあるんでしょうか、たまにサイト乗っ取り事件があったりしていますけど、仮に当サイトが他人に乗っ取られたとしても、犯人にまるでメリットは無いでしょう。
 当サイトにお越しになってくださっている方は、おそらくやえの考え方を読みたくて来てくださっている方々だと思いますが、だからいきなり管理人が変わってしまったらそこで当サイトの価値は無くなってしまうでしょう。
 それはものすごくうれしいコトで、そういう人こそ当サイトに来ていただきたいと願っています。
 だからこそ、当サイトはただの情報や知識の発信サイトではないと公言しているのです。
 他のサイトにはない独自の価値がここにはある、というのが当サイトの売りなのです。
 
 そしてその価値が貴重なモノかどうかというのは、読んでくださる方々それぞれが考えていただければと思います。
 やえはやえの考え方を当サイトで示しますが、それに対してどう思うかどう考えるかは、人それぞれです。
 もし当サイトにそれなりの貴重な価値を見いだしていただければ、定期的に巡回していただき、文章を読んでいただければ、とてもうれしく思います。
 幸せに思います。
 しかし最終的にその問題に対して答えを出すのは、読んでくださるひとりひとりなのです。
 
 世の中には公平公正で中立なメディアというのは必ず必要だと思います。
 民主主義国ならなおさらです。
 ですからその役割を新聞やテレビが負っているワケで、だからこそメディアはある意味特権的な権利を有している場合が多々あるのですから、公平公正な報道を心がけてほしいと思います。
 そしてそれが成されていない場合は、やえはやえの立場で批判します。
 これも公平性の担保として必要なコトとも言えるのではないでしょうか。
 結局それが公平であるかどうかというのは、メディア側が一方的に規定して提示するのではないのですから。
 

平成20年6月24日

 所詮は感情論

 ごめんなさい、今日はごくごく簡単に。
 
 大阪で起きていた通り魔事件の容疑者が捕まりました。
 まだ容疑者であり、犯人確定ではないので断定は出来ませんが、とりあえず一安心というところでしょう。
 しかし、秋葉原での通り魔事件が起きた直後というコトもあって、社会に与えた衝撃というモノは小さくないモノがありました。
 
 ただここでひとつ思いますコトは、どうしてJRのホームは使用禁止にしようとかいう話にならないのでしょうか、というコトです。
 と言うと、あまりにも飛躍しすぎだと思われもかもしれませんし、やえもそう思いますけど、でも敢えて言います。
 秋葉原の歩行者天国を禁止した理由というのは、治安を理由にしていたワケです。
 利用者の利便性より治安の方が大切だという理由でもって禁止したワケです。
 となければ、治安を守るために、利便性を捨ててまでJRの利用者には不便を強いてもいいという議論になるのが筋なのではないでしょうか。
 
 もちろん「JRのホームを禁止しろ」と言ってしまうのはメチャクチャな話です。
 ですからやえはそんなコト言うつもりはありません。
 しかし、そうであるなら、秋葉原の歩行者天国禁止も、同じようにメチャクチャな理屈による措置であるというコトも同時に指摘しておきたいのです。
 
 こういう、ある理屈を一方には使って利用し、一方には使わずに放っておくというやり方は、やえはとても嫌いです。
 もし秋葉原の歩行者天国を禁止したいのであれば、そういう理屈にならない理屈を建前にしてやるんじゃなくて、本当の理由をもってすればいいんです。
 例えば、コスプレが嫌なら「コスプレの人がいるから禁止」とか、「撮影会が行われてしまうから禁止」とか、堂々と主張すればいいんじゃないでしょうか。
 それに対して議論が起きれば、正面から議論すればいいだけです。
 それが嫌だからと言って、批判されたくないからと言って、なんとなく雰囲気のままに禁止できそうな理屈ができあがったから便乗してしまうというのは、ちょっと卑怯なやり方ではないでしょうか。
 
 前にも言いましたように、治安が理由なら、なにも秋葉原に限った話ではないハズです。
 全国の歩行者天国を禁止しなければ、理屈としては成り立たなくなるでしょう。
 そして通り魔事件が起きたら、その場の利用を大部分制限しなければ、理屈としては成り立たなくなるでしょう。
 でも、実際はそんなコトしても無駄なのです。
 そもそも通り魔なんて、歩行者天国が必要絶対条件ではないんですからね。
 ただ単に、とりあえず感情論そのままに何か対策した気になればそれで済むというような対策では、むしろ社会全体にとってマイナスしかもたらさないコトでしょう。
 
 秋葉原の歩行者天国を禁止にしたという措置は、本来これぐらいメチャクチャな話であるのです。
 

平成20年6月25日

 シリーズ 日本から見た北朝鮮問題((1)

 ここにきて急に北朝鮮の問題が動き始めました。
 日朝の事務レベルでの会談や、アメリカのテロ支援国家の解除問題、また韓国の太陽政策からの転換も大きな流れの変化のキッカケなのかもしれません。
 こういう流れを前にして、では日本は日本としてどのように考えるべきか、今日から何日かに分けて「シリーズ 日本から見た北朝鮮問題」と題して、書いていきたいと思います。
 
目次(予定)
 1.テロ支援国家解除問題とテロリズムの定義
 2.外交問題としての拉致問題
 3.拉致問題が「解決した」と言えるのはどの地点なのか
 4.今後の北朝鮮とのつきあい方
 5.日本が今なすべきコトは?
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
1.テロ支援国家解除問題とテロリズムの定義
 
 アメリカが「テロ支援国家」から北朝鮮を指定解除すると発表しました。

 米国務長官、北朝鮮テロ支援国家指定解除の意向確認
 
 ライス米国務長官は18日、北朝鮮が同国の核計画に関する申告書を「6者協議の議長国を務める中国に間もなく提出する」との見通しを示した。この申告を受けてブッシュ政権が北朝鮮への「テロ支援国家」指定の解除を議会に通告する方針を、政権高官として初めて公式に確認した。
 「我々は北朝鮮が約束を守るとただ信頼するのでなく、検証作業の大切さを主張する」とも言明。条件として(1)北朝鮮の核関連施設への現地立ち入り調査(2)環境サンプルの採取と分析(3)設計図や詳細な製造法、稼働記録などすべての情報提供(4)北朝鮮の核計画従事者への聞き取り調査などを挙げた。
 6者協議の合意に基づいた非核化の次のステップとなる第3段階についてライス氏は「北朝鮮は最終目標として、すべての核兵器と核計画の放棄に合意した。彼らにその意図がなければ第3段階には進まない」と牽制(けんせい)した。

 もちろんですが、無条件にアメリカが北朝鮮の条件を飲むというワケではありません。
 記事にありますように、手順を踏んで、核兵器を放棄させるようステップを踏めば、アメリカもそれに対応して対処していく、というコトのようです。
 アメリカとしましては、何はともあれ、北朝鮮に核兵器を廃棄させるコトが最も重要な課題です。
 外交は交渉事ですから、一方が無条件に全ての要求を満たすというコトはあり得ません。
 ですからアメリカとしても、核兵器を捨てるのならそれなりに北にも美味しい思いができますよとカードを提示して、非核化に向けさせているワケです。
 そしてそのカードのひとつは、テロ支援国家の指定解除というコトなのでしょう。
 
 これに対し、日本においては釈然としないという人も多いようです。
 「拉致問題があるのに、テロ支援国家解除とはどういうコトだ。それに同調する日本政府もどういうコトだ」と。
 こちらの記事にも、「これまで日本は、北朝鮮による日本人拉致を現在進行形のテロであり、指定解除をしないよう、ブッシュ政権に要請してきた。拉致解決に具体的な進展がないなかでの解除は納得しがたい」と書いています。
 
 しかし、そもそも「拉致」とはテロリズムであるかどうかという部分に関して、やえは疑問を持たざるを得ません。
 9.11同時多発テロから、いやにテロという言葉が流行ってしまい、日本では何にでもテロと付けてしまう、例えば「言論テロ」とか「報道テロ」とか、安易になんでも極端な行動や犯罪的行動にすぐに「テロ」と付けてしまう風潮になっている気がしてなりません。
 しかしテロルには、それなりの定義が存在します。
 
 一般的には、テロルの定義には2つの条件があります。

 1.政治目的を達成するために行う行為
 2.そのために様々な暴力的行為によって、その脅威を盾に使う

 そして、当サイトとしては、もう一つ条件を加えるべきだと考えています。

 3.暴力の対象は、目的達成に直接権限を持っていない相手に向ける

 一般的に考えられているテロリズム、アルカイダなどが行っているあれですね、を考えた場合、ほぼこの3つの条件が当てはまります。
 9.11米国同時多発テロもそうです。
 9.11を当てはめて考えてみますと、

 1.目的は「イスラム社会からアメリカは手を引け」という政治目的の達成
 2.飛行機をハイジャックし、貿易センタービルに突っ込むという暴力的行為、並びに、そのような行為を繰り返すぞと言う脅迫行為
 3.暴力の対象は、米国政府権限者ではなく、一般市民や、さらに外国人(日本人含む)をも含む無差別

 こうなります。
 一般的には3つ目の条件はあまり言われませんが、やえはここを重要視しています。
 なぜなら、だからこそテロルは防ぎがたいモノであり、卑怯なモノだからであり、そして3の条件があるからこそテロルはテロルとして存在し続けるからです。
 
 もし「イスラム社会からアメリカは手を引け」という政治目的を達成したいのであれば、正々堂々と軍隊を率いて宣戦布告し、アメリカの軍隊と戦えばいいのです。
 戦争そのものは国連憲章でも認められている行為ですし、やえも戦争は行ってはならない行為ではないと思っています。
 ですから、正面から軍隊vs軍隊で戦うというのであれば、やえはそのイスラム社会の軍隊も、そしてアメリカに対しても、批判も何もしません。
 どうぞご勝手に戦争してくださいと言うぐらいでしょう。
 
 しかし実際テロリストが行った行為というのは、非戦闘員を暴力のターゲットにしたという卑怯としか言いようのない行為です。
 こうなれば、イスラム社会に手を出すかどうかの権限を直接持つ政府高官、一言で言えば大統領は、イスラム社会に対してどう考えるかという視点ではなく、自国民または自国にたまたま訪れている他国民の命をどうするかという、イスラム社会の問題とは全然関係ない問題において、それを考えなければならなくなってしまうワケです。
 あきらかに歪んだ構造です。
 またテロリストの側で考えれば、その方が安易に安価に目的が達成できると思うからこその行為であり、アメリカの軍隊を相手にすれば勝ち目はないけど、ハイジャックなら出来ると、そんな簡単な考えでのテロリズムを実行でしかないのです。
 とても卑怯なのです。
 だからこそ、3の条件が最もテロリズムを表している条件であり、そしてテロリズムが決して許されない行為である理由なのです。
 
 そう考えたとき、果たして拉致はテロルと言えるのでしょうか。
 
 
 (つづく) 
 

平成20年6月26日

 居酒屋タクシーと言えばいいってモノじゃない

 あれだけ小泉さんのコトを「ワンフレーズ政治」なんて批判していたくせに、そんな人が、これはさすがにその極地としか言いようがありません。
 まぁそれはともかく。
 
 この問題は、かなり色んな問題を含んでいる問題であり、本来ひとつひとつをキッチリと議論しなければならない問題であにも関わらず、全てをごちゃ混ぜにしてしまっているという問題です。
 なぜそんなコトになっているのかと言えば、簡単に批判できるようにでしょう。
 最近の風潮である「税金だから」という、黄門さまの印籠かのような便利な言葉によって、批判されるべきコトでもない問題まで、ごちゃ混ぜにして公務員批判につなげているのです。
 
 やえはこの「税金だから」という言葉が大嫌いです。
 
 お金払ってるのであれば、常識も慣習も全てをかなぐり捨てなければならないとでも言うのでしょうか。
 お金を使う人は、お金を支払っている人が根拠は特にないけどなんとなく気持ちよくなって満足するようなコトしかしてはいけないとでも言うのでしょうか。
 それはある意味、究極の拝金主義なのではないでしょうか。
 もちろん強制的に、義務として支払う税金というモノは、一般の消費とは違うというコトは分かっています。
 ですから、普通よりは高い倫理観を持って当たらなければならないというのは、間違いではないと思います。
 しかしそれも、決して納税者の無意味な満足感を100%満たさなければならないという意味では決してないハズですし、一般慣習までも捨てて、完璧人間にならないなければならいなという意味でもないハズです。
 公務員だって人間です。
 人間は感情に支配される生き物であり、その感情すら否定するかのような物言いでは、決して問題の本質は見えてこないでしょう。
 
 前置きが長くなりました。
 今日も本来は福田メルマガのレビューの日なのですが、どうしても面白くないので、ごめんなさい、パスです。
 うーん。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 いわゆる最近「居酒屋タクシー」と呼ばれている問題について、一言言っておきます。
 
 先ほども言いましたように、この問題は複数の問題がごちゃ混ぜになっています。
 ひとつひとつ書き出しますと、
 
 1.公務員がタクシーに乗るコトそのものについて
 2.タクシー券を外部の人間に渡して自由に使わせるコト
 3.タクシー料金を水増しして、現金をキックバックさせるコト
 4.タクシー料金は正規のまま、現金や商品券をもらうコト
 5.タクシー料金は正規のまま、ビールなどをもらうコト
 
 これぐらい多くの問題をはらんでいます。
 
 とりあえず今回のいわゆる「居酒屋タクシー問題」についてはは、1は飛ばします。
 本題ではないからです。
 ここを扱うと、またけっこうな文章量が必要になってきますので、今回はスッパリと飛ばします。
 
 2と3は問題外です。
 これは明らかに横領という犯罪ですから、ここまでしていた官僚がいたら、厳正に処分するのが当然です。
 論ずる余地もないでしょう。
 
 難しいのが4です。
 現金をもらうという行為は、かなり誤解されてしまうと言わざるを得ません。
 商品券もそうです。
 ですから、ここは高い倫理観を持って自粛すべきところだと言っても、言い過ぎではないとやえは思います。
 
 ただ、これは5もそうなのですが、これに対していくら「税金なんだから」と言ったところで、別に国民は損をしているワケではないというコトは冷静に考えておく必要があるのではないでしょうか。
 いくら現金や金券やビールをもらったところで、本来必要である経費というのは変わりありません。
 金品をタクシーからもらってももらわなくても、税金から負担される金額というのは変わらないワケです。
 ですから、これは横領ではありませんし、だれかが損しているというワケでもありません。
 結局これは、国民が、ぶっちゃけた言い方をすれば「うらやましいな」「自分もサービスを受けたいな」と妬む気持ちからの批判でしかないと言えてしまうでしょう。
 冷静に考えれば、別に誰も損はしていないのですから。
 
 もちろん、タクシー側にそれを強要していたら別ですよ。
 しかしそうでないのであれば、タクシー側のサービスの一環だと言えるのではないでしょうか。
 
 5はまさにそうで、こんなのタクシーのサービスの一環です。
 タクシーとしたらお得意様に対してより良いサービスを行うというのは、経済活動において全くもって自然な行動としか言いようがありません。
 正規料金以外の品物をもらうというサービスなんて、誰でも経験したコトのあるサービスでしょう。
 例えば新聞勧誘なんか、ここまでして大丈夫なのですかとこっちが心配になるぐらい品物を渡されたなんて、よくある話ですよね。
 タクシー側がそれと同様に、お得意様に対してビールを渡して、家に帰るまでの時間を気持ちの良い時間に演出するというサービスを行うコトの、どこが悪いと言うのでしょうか。
 こんなコトまで目くじらを立てるなんて、あまりにも視野が狭すぎるとしか言いようがありません。
 
 もちろんなんでも限度というモノがあります。
 例えば、目上の人のお家を訪問するときはたいてい手みやげを持って行く習慣が日本にはあるワケですが、その際持って行く手みやげがお菓子なら普通ですが、これが現金だったり金の延べ棒だったり、ビール一年分もの量だったりすると、ちょっとそれは「いやらしい」でしょう。
 ですから、程度の問題というのはその通りです。
 タクシーからもらう品物も、常識の範囲内、限度の問題というモノは当然あります。
 しかし常識の範囲内、習慣の範囲内であれば、「税金だから」という理屈だけでそれを非難するというのは、ちょっと飛躍しすぎであり、適切ではないでしょう。
 
 そもそもやえが首をかしげてしまうのは、例えば今日の朝の「とくダネ!」で小倉さんが、「バブルの頃はみんな会社のチケットをホステスに配っていたりしてた」なんて趣旨のコト言ってましたけど、これはかなり横領という犯罪臭い話であり、今回のビールをもらったという話とは別次元の問題のハズなんですよね。
 タクシーチケットをホステスに渡すという行為は、業務とは関係ないお金を私的に流用するという話であり、公務員だろうが民間であろうがなんだろうが、横領という法に触れる可能性の極めて高い行為です。
 しかし今回のただ単にビールをもらっていたという行為は、不用なお金を税金から流用していたワケではありません。
 全然次元が違うワケです。
 それなのにこういう発言は許されてしまうというのは、一方はかなり違法性の高い話で、一方はそうでもない話であるのにも関わらず、かなり歪みすぎているのではないでしょうか。
 「民間だから許される」という問題ではないハズです。
 
 念を押しておきますが、常識を越えた行為や、2や3のような行為は問題外です。
 批判されてしかるべきですし、厳正な処分が必要でしょう。
 ただし、それと5の問題を一緒くたにしてごちゃ混ぜにして、さも公務員が諸悪の権化であるかのようなイメージ操作をするのは、適切ではありません。
 なんでもかんでも公務員を叩けばいいという風潮は、あまりにも歪みすぎています。
 醜いとしか言いようがありません。
 もし本当に公務員の倫理を正したいと思うのであれば、キチンと正すべきコトを正すべきです。
 なんでもかんでも一緒くたにして批判のための批判をしても、それは正しい意味での「公務員の襟を正す」行為とはならないでしょう。
 
 批判するなら正面から正々堂々としてほしいモノです。
 

平成20年6月28日

 シリーズ 日本から見た北朝鮮問題(2)

 そう考えたとき、果たして北の拉致はテロルと言えるのでしょうか。
 
 実は1の条件がすでに当てはまりません。
 北朝鮮が行っている拉致は、これは政治目的ではないんですね。
 テロルとは、その政治目的を達成するために暴力的行為を行い、それを大々的に宣伝して敵方に恐怖を与えて、その恐怖を行動の動機とさせて、テロリストの求める政治目的を達成させる行為です。
 しかし北の拉致は、北が日本になんらかの目的を要求するために行ったモノではありません。
 簡単に言えば「拉致するから金よこせ。拉致されたくなければ金よこせ」とは主張していないというコトです。
 
 テロルというのは、ある程度暴力的行為を公にする必要があります。
 誰にも知られないようにひっそりと暴力的行為を行っても、誰も知らなければ脅威とも感じないワケで、それでは政治目的は達成されず、テロルの意味がありません。
 ですから、テロルにはある程度の注目を集めなければならないワケです。
 テロルが起こるとだいたい犯行声明が出されたりしますが、これはそのためなワケです。
 
 しかし北の拉致問題というのは、むしろ隠された存在でした。
 小泉さんが訪朝するまでは、北は拉致の存在自体を否定していました。
 そして同時に、北は拉致という行為を日本政府に対して脅迫行為にしているワケでもありませんでした。
 北の目的は、人間そのものを得るためであり、拉致そのものが目的であったワケです。
 ですから、北の拉致問題というのは、テロリズムではないのです。
 
 日本人は、まずここを冷静に事実として受け止めなければなりません。
 拉致はテロリズムではありません。
 となれば、テロリズムの問題と、拉致の問題は分けて考えなければならないワケです。
 
 米国のライス国務長官は次のようにも言っています
 
 「米国が人権支援で口をつぐむことはあり得ない」
 
 このセリフは、いまの日本とアメリカの主張のねじれを、端的に表しているのではないでしょうか。
 拉致問題は人権に関する問題です。
 それはその通りです。
 しかし北朝鮮による拉致問題は、テロリズムの問題ではありません。
 そしてアメリカは今、「テロ支援国家」の指定解除について行動を行っているワケです。
 確かにアメリカが日本に対してどの程度北に対する問題に力を貸してくれるか分かりません。
 分かりませんが、少なくとも拉致問題の存在は、アメリカにとってのテロ支援国家指定解除の問題とはリンクするモノではないワケです。
 拉致問題とテロ支援国家の指定解除とは、これは別問題なのです。
 
 ただしそれは、アメリカが拉致問題を無視するという話でもありません。
 別問題だから、別に考えるというコトです。
 テロ支援国家指定の問題は解除の方向に向かっていますが、それとはまた別で、拉致問題を取り上げ北に対して強い姿勢をアメリカがとる可能性も無いとは言えないでしょう。
 そうしない可能性だって、否定できませんけどね。
 
 アメリカがどのような考えで今回の行動になったのか、それは正確には分かりません。
 おそらく核兵器を放棄させるコトをなによりも第一に考えているんだろうというコトは想像できます。
 そしてそれは、決して日本にとって悪いコトだけではなく、もちろん拉致問題が今までより良くない方向に行く可能性も否定できませんが、しかし核の放棄への方向というのは、日本にとってもメリットを享受できるコトとも言えるでしょう。
 
 ここでよく日本人が知っておかなければならないコトは、所詮「テロ支援国家の指定」なんていうのは、アメリカの国内法によるモノだというコトです。
 やえは勉強不足で、どうして一国内法なんかの存在で国際機関の動きが鈍るのか、例えばアジア開発銀行もテロ支援国家に指定されているままだと融資が出来ないようなのですが、どうしてアメリカの国内法で国際機関がここまで影響を受けるのか、この根拠がよく分かりません。
 分かりませんが、しかし少なくとも「テロ支援国家」の指定や解除は、国連とかで決められるモノではなく、アメリカの国内法によって決められるモノであり、そうなれば同然アメリカの国益が何よりも最優先されるというのは言うまでもなく当然の話だというコトは頭に入れておかなければなりません。
 日本との付き合いよりも、他の問題の方がメリットが大きいとアメリカが判断すれば、テロ支援国家の指定や解除なんて、アメリカの思うがままのワケです。
 
 北との問題において日本はアメリカと協力関係を維持しなければならないというのは、その通りだと思います。
 なぜなら日本には力がないからです。
 もしくは力を行使しない、力を誇示しないからなのかもしれません。
 先の例えで出しましたアジア開発銀行には、アメリカは国として最大の出資をしています。
 おそらく、そういう事実をもって、アメリカのテロ支援国家に指定している国には融資をするなと、有形無形の圧力をかけているのでしょう、もしかしたらその結果として明文化されているのかもしれません。
 しかし実は、日本もアジア開発銀行には、アメリカと同じ割合だけ出資していたりしているのです。
 ですから日本だって、例えば日本が「人権圧力国家の指定」などという国内基準を作り、外国にそれを指定して、アジア開発銀行に「人権圧力国家に指定されている国には融資するな」と言えば、同じような効果が得られるのかもしれません。
 でも日本はそういうコトをしていないワケです。
 
 やえは、そういう外交もしてもいいとは思いますが、しかしこれは、日本が北だけでなく全ての国家に対して責任を負うというコトになってしまうコトを意味します。
 例えば「人権圧力国家」であれば、当然チベット問題などによって中国もその指定の対象候補となりうるでしょう。
 果たして今の日本には、そこまで責任を負える力があるでしょうか。
 アメリカは、最後にはどこにも負けない武力があると自信を持っています。
 北が暴発して、「核撃たれたくなかったら指定解除しろやー」と言っても、逆に叩き潰せる自信と根拠を持ち合わせているワケです。
 だからこそ「世界の警察」を自認し、実際そのような責任を持って、時には暴走しながらも行動をしているワケです。
 しかし、残念ながら日本には事実としてそんな力はありません。
 これは武力だけではないでしょう。
 アメリカには資源もありますから、中国との貿易が途絶えても、やっていける自信はそれなりにあるのだと思われますが、日本の場合は果たしてどうでしょうか。
 そういう色々なコトを考えた場合、将来は分かりませんが、少なくとも今の日本にそこまで世界に対する責任を負えるほどの力は持っていないのです。
 
 話がちょっとそれましたが、まず、問題に対処するためには事実を事実として認識する必要があります。
 今回の場合、まず、北の拉致はテロリズムではないというコトを事実として受け止めなければなりません。
 テロルでないモノを引き合いに出して「テロ支援国家の指定解除はしないでほしい」と言っても、実は全然説得力を持たないんですね。
 日本国民は、こういう理不尽な主張をしてしまっているコトに気付くべきです。
 
 そしてアメリカとはやはり協力しなければならないですから、アメリカが納得しうる説得力を持って交渉をしなければなりません。
 なぜなら、テロ支援国家の指定や解除は、アメリカの国内法によるものであり、最終的にはアメリカだけの判断でそれがなされるからです。
 アメリカの国益が何よりも最優先されるワケです。
 アメリカという国は、その国家の成り立ちから建前を重視する、言い方を変えれば「正義」を標榜する国ですから、非正義なコトは公にはしたがりません。
 ですから、「北朝鮮は拉致という非人道的な行為を国家プロジェクトとして行っている」という事実は、アメリカにとっては見捨てられない非正義であるハズです。

 日本としては、そこを上手く政治的な駆け引きとして、アメリカと連携を取らなければなりません。
 しかし、ここに「拉致はテロリズムだ」という、理が立たない理論を持ち出してもマイナスにしかならないのではないでしょうか。
 日本人は、ここを冷静に考えなければならないと思います。
 
 
 (つづく)