☆やえニュース☆

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平成20年12月1日

 第二次補正案が今国会に出せない理由

 えーと、前の更新から第二次補正案が今国会に出せない理由を調べたんですが、後意見板の方であっさりといい解説記事があって、ちょっと涙目のやえです。
 おはろーございます(笑)
 
 まずはその記事です。

 2次補正提出首相先送り表明 『ねじれ』足かせ 廃案回避へ苦渋
 
 首相は提出先送りの理由について、一連の補正予算案編成作業の終了時期が「たぶん十二月二十日ぐらいになる」ためと説明した。しかし、実際は「(審議引き延ばしはしないとの)民主党の言うことを信じて出すと(補正予算関連法案が)廃案になってしまう」(与党幹部)ことへの危惧(きぐ)から、踏み切れなかった。
 予算案は衆院通過後三十日で自然成立するが、関連法案は野党が参院で採決に応じない場合、衆院通過後六十日の憲法の「みなし否決」規定に基づき、衆院再可決せざるを得ない。
 しかし、国会法の規定で通常国会は一月三十一日までに開会しなければならず、事実上、今国会は来年一月二十九日までしか延長できない。同二十九日までに「みなし否決→再可決」を行うには、関連法案を十一月三十日までに衆院通過させる必要があるが、既にそれは不可能だ。
 もしも関連法案を今国会に提出し、「みなし否決」適用前に会期末を迎え、民主党が参院で継続審議とした場合、関連法案は次の通常国会で参院の継続法案扱いとなる。通常国会で関連法案審議が参院で再スタートした場合、否決された時点で廃案になってしまう。

 簡単に言いますと、今国会の延長は最大1月29日までしか延長できず、しかし参議院で民主党が審議拒否をしつづければ今国会での衆議院での2/3再可決する時間は足りないので、いま出しても廃案になってしまう、というコトです。
 結局これもねじれ国会が生んだひずみと言えるでしょう。
 民主党が審議拒否しまくるがどうかは分かりませんが、しかし民主党は実際いままでその実績をコツコツと作り上げてきたのですし、金融機能強化法案ものばし続けている有様なのですから、自民党から信用されなくて当然ですね。
 ですからどっちにしても今国会では成立しないのですから、万端を期して来年の通常国会に提出しようというコトです。
 
 知れば知るほどバカバカしいお話なんですが、実際こんなバカバカしいコトがまかり通っているのが現実です。
 この手の戦術はねじれ国会以前にもあって、やえも何度か指摘し続けてきましたが、衆議院でも参議院でも目立たないところで審議拒否や長引かせをして、最後採決の時に「強行採決だ」と大声を出して自民党は横暴だという印象操作をするという手法です。
 結局その手の内を知りつつも政権批判しか頭にないマスコミはそれに乗り、詳しい事情を知らない国民がだまされて、そしてそれがつもりつもって最近の反自民が常識だみたいな空気が形成されてしまったのでしょう。
 嘘から出たモノが、いつの間にか本当になりつつあるという、本当にバカバカしい状況です。
 
 それにしても、御意見板でも指摘されていますように、この記事は東京新聞なのに(笑)まともな記事ですよね。
 なんだか余計なコトまで書かれているような気がしないでもないですが、まぁでも、こういう詳しく調べないと分からないようなコトをキチンと解説するコトこそが、職業として情報を扱う者の使命であり新聞の常道とも言えるでしょう。
 その事実を知った上で、それをどう捉えるかは、それは読者の仕事です。
 とらえ方までをマスコミがいちいち読者に押しつける必要は全くありません。
 今回の件で言えば、まず参議院で延ばしに延ばしまくったら最大60日は時間を稼げるという事実があり、そこまですると今国会では2/3を使っても再可決できないという事実があるワケです。
 その事実を知った上で、それでも自民党に、民主党を信じて今国会で提出すべきだと主張するのかそうでないのか、それは人それぞれでしょう。
 でも、おそらく、2/3再可決という手法があるコトは知っていても、参議院で審議拒否すれば60日間は粘れるという事実を知っている人は案外少ないのではないでしょうか。
 それでは「正しい判断」は出来ないと思います。
 
 やえは、こういうコトも総理ご自身の口で説明されたらどうかと思うんですけどね。
 まぁ言ってしまったら、民主党の態度がますます硬くなるというのもあるのでしょうし、マスコミが伝えないというのもあるのかもしれません。
 また、やっぱりマスコミですから、提出しないのを民主党のせいにして無責任だと書き始める可能性も否定できませんから、やっぱり総理という立場ではまともっぽり理由を考え出さなければならないのかもしれません。
 でもなんて言いましょうか、これこそねじれですよね。
 やえはこんなコトが続いても、決して日本のためにはならないと思います。
 そもそも総理が仕事が終わった後に息抜きに一杯飲むだけで、その場所でいちいち批判されるなんて、異常としか言いようがありません。
 これもやっぱり、そもそも総理が行くトコ行くトコどれだけの人数が大移動するか知っている人の方が少ないでしょう。
 SPさんだけでも10人ぐらい、さらに記者が30人ぐらいはくっついて行って、総理が出てくるまで店の前でたむろっているんですから、これが普通の居酒屋なら、他の客はこの店は今日はここはやめておこうと思っちゃいますよ。
 だいたいにして、日本という世界第二位の経済大国のトップの人です。
 その人がそれなりの見栄を作るというのも、これは日本のためになると思うのですがどうでしょうか。
 また、公費ではなく自費で飲んでいらっしゃるのですから、「総理大臣になったらいい暮らしが出来る」と思われた方が、よしじゃあ一所懸命勉強して総理になろうと思う若者が増える方がいいじゃないですか。
 スポーツでもなんでもそうですが、裾野が増えればトップの質はどんどん高くなります。
 今の日本というのは、日本国民自身が日本の質を自らどんどん落とそうとしている姿だと言えてしまうのではないでしょうか。
 
 結局、既存マスコミが目を覚ますか、国民が賢くなるか、または政治家側が自らのメディアを持つかぐらいが打開策なのでしょうけど、どれも難しいでしょうね。
 一番やりやすいのは政治家自らがメディアを持つコトなのでしょうが、それに一番適していると思われるネットでも、人権法や国籍法の騒動を見れば、どうしても作ればそれでいいとは言えない状況だと思わざるを得ません。
 冷静な事実を発信しても、結局受け手が、自分にとって気持ちのいい都合のいい情報しか受け取ろうとせず、それだけならまだしも、自分には気持ちよくない情報を攻撃してねつ造して排斥しようとまでするのですから、これではどうしようもありません。
 この構図っていうのは、実は既存マスコミも一緒なんですよね。
 既存マスコミの場合は利益を出すという目的もあるために、排斥されるよりはおもねろうという力学が働いて、正しい事実を伝えるというコトよりも、売れる紙面を作ろうというコトになってしまうワケです。
 そしていつの間にか、事実を性格に伝えるという報道から、読者が受ける内容を目指すエンタメメディアになってしまうのです。
 
 政治もマスコミも国民も、どうしたら一番日本のためになるんでしょうか。
 

平成20年12月2日

 国籍法DNA鑑定論と、経済対策の伝え方と、ネット議論の行方

■国籍法DNA鑑定論に対する慎重論
 
 国籍法に関してDNA鑑定を法令に入れるかどうかの問題ですが、やえはいまのところあまり中身については触れてはいません。
 しかし全く調べていない考えていないというワケではないのですが、ただ、ひとつの論として整理できるぐらいまでの結論を得られていないので、ちゃんと書くコトにためらっているという状況なのです。
 まぁ何度か言ってますが、実際のところはあってもなくてもいいぐらいに思っているというのが今のところの心境ではありますが。
 
 そんな中で、なかなか筋の通った論を見つけたのでちょっとご紹介したいと思います。
 実はわりとこの手の騒動の時にはよく名前が出てくる、人権法の時にはやえは顔をしかめ続けていたのですが、自民党の稲田朋美議員の新聞でのインタビューです。
 この論、国籍法だけの視点ではなく、広く法律や法令、また近代国家としての日本における法令の考え方などを踏まえた上でのご意見とやえは感じたので、一読する価値はあるかと思います。
 一回じっくり読んでみてください。

 【正論】衆議院議員弁護士・稲田朋美 「国籍付与」は国会の重い課題
 
≪DNA鑑定は慎重に≫
 今回改正について多くの反対意見が寄せられた。ほとんどが偽装認知の横行への不安から、DNA鑑定を必須条件にせよというものだ。偽装認知は防がなければならない。だがDNA鑑定を要件とするのは、日本の家族法制度に変容をきたす恐れがないか慎重に検討しなければならない。
 昨年自民党内で民法772条の300日規定が見直されようとしたとき、私はDNA鑑定を法制度にもちこむことの危険性を主張した(昨年4月17日本欄)。民法は「親子関係=生物学的親子」という考え方をとっておらず、法的親子関係は子の安全な成長を確保するための法制度である。安易にDNA鑑定を取り入れることは、生物学的親子関係をすべてとする風潮につながりかねない。
 これに対し、国籍付与の前提としての認知にDNA鑑定を行うことは「血統主義」をとる我が国では当然であり、民法の親子関係に直接影響を与えるものではないと主張する人もいる。
 しかし仮にDNA鑑定を要件とすれば、今までなら父の認知後、父母が婚姻をして準正により当然に国籍を付与した場合にも鑑定を要件としなければ平仄(ひょうそく)が合わない。なぜなら最高裁は「父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得するか否かは、子にとっては自らの意思や努力では変えることのできない身分行為」である。これによって区別することは憲法14条の差別としたのだから、認知しただけの非嫡出子にDNA鑑定を要件とするのなら、父母が結婚した嫡出子にも鑑定を要件としなければ再度憲法違反をいわれる恐れが大きいからだ。
 
≪血統主義にも誤解が≫ 
 しかし、父母が結婚している場合にまでDNA鑑定を要件とすることは、婚姻中に妻が懐胎した子を夫の子と推定している民法772条についても、真実の父を確定するためのDNA鑑定を持ち込まないとつじつまがあわなくなる恐れがある。
 そもそも国籍法上の「血統主義」は子の出生時に母または父が日本国籍であることを要求することである。そこにいう「父」は生物学上の父ではなく法律上の親子関係の発生した父を指す。つまり血統主義だから鑑定を義務付けるのが当然とはならない。
 むしろ国籍付与の条件としての父子関係と民法上の父子関係とは違うとして、国籍付与の場合にのみ鑑定を要件とするという考え方は、法的父子関係を複雑にし、理論上はありえても法制度として妥当とは言いがたい。
 DNA鑑定を要件とすることによる偽装の防止と、民法の家族制度のあり方への影響は慎重に検討しなければならない。衆議院の付帯決議には課題として『父子関係の科学的確認を導入することの要否、当否を検討する』との文言が入った。現時点では届け出の際認知した日本人男性との面談を義務付け、母と知り合った経過を確認するなどして運用面での偽装防止策を充実させる方途を模索すべきである。(いなだ ともみ)

 かなり長い引用になってしまいましたが、なるほどと頷くところの多い論です。
 人権法の時には弁護士とは思えぬ論理のふっとび方でしたけど(笑)、稲田議員は弁護士資格を持っておいでですから、もしかしたら弁護士時代に親子関係の訴訟を扱ったか、そもそもその関係の専門でいらっしゃったのかもしれません。
 特に民法との絡みや、今までの日本独特の親子関係のあり方にまで触れなければならいなという点の指摘は、納得せざるを得ないところだと言えるのではないでしょうか。
 その上でもしどうしても法律上にDNA鑑定を載せろと言うのであれば、これは民法の部分も含めた、ものすごく大きな、そして明治以来の近代日本法律上での考え方を一転されるぐらいの大改革をしなければならなくなると言えるでしょう。
 ちょっとこれは、現実的ではない気がします。
 
 これらを踏まえた上で、やえは、結局これは、「親子関係を証明するためにDNA鑑定する」というのが、まずいという考え方になるのではないかと思いました。
 これを言い換えると、「自分ではないモノの力を借りなければ「親子ではない」と言われているようなモノ」となりますので、この辺が日本人感覚的にそぐわないのでしょう。
 「疑っているのか」と文句の一つでも言いたくなるという心境です。
 ですから、これが「偽装の捜査のため」であれば、DNA鑑定は受け入れられるワケです。
 実際裁判でも取り入れられていますよね。
 ただ「偽装の捜査のため」であれば、頭ごなしに一律で全ての人にというワケにはいかない、つまり国籍法の中に義務として盛り込むコトは出来ない、というコトです。
 
 こういうコトを言うと必ず諸善説とか諸悪説とかいう話になるのですけど、しかし法律と一言で言っても、アメリカのような人工国家と、日本のような歴史が作ってきた自然発生的な国家とでは、国の決まり事の考え方も違ってきますから、二元論的に「諸善説か諸悪説か」みたいな議論は無意味でしょう。
 偽装はもちろん許してはならないですが、日本の風土にあった方法で最大限努力するというのも、それはそれで日本人としての美徳なのではないかとやえは思います。
 様々なところに歪みが出てしまうのに安易な方法にすぐに走るのではなく、みんなが知恵を出し合うコトも大切なのではないでしょうか。
 
 
■経済対策のマスコミの伝え方
 
 なんだか最近のマスコミの、麻生さんの経済対策の伝え方は、二次補正を出すか出さないかばかり伝えているような気がしてなりません。
 しかしこれ、本来はかなりおかしいですよね。
 変な話、もし一次補正で日本の景気が、麻生さんが予測していた以上に良くなっていたら、無理して対策する必要はないのですから、出すか出さないかだけであれこれいうのは間違っていると言えます。
 つまり結局、一次補正は結果的にどうだったのか、まずここを議論しなければ何も始まらないワケです。
 まして今はまだ一次補正の中身の一部である金融機能強化法すら成立していないワケで、どうしてこの段階で二次補正の「出すか出さないか」を議論できると言うのでしょうか。
 
 議論すべきは、まずは一次補正の中身だと思います。
 具体的にどのような中身があって、それを通した結果の予想としてはどうなるのか、そして実際はどうなのか、この辺を議論すべきでしょう。
 中には中長期的な対策もあるのでしょうけど、例えば信用保証協会の100%保証で借りられる枠を大幅に増やした対策などは、実際現場はどうなのか取材すればかなり分かるワケで、マスコミはこういうコトこそをすべきなんじゃないのでしょうか。
 というかこれは職業として報道に携わっているマスコミにしか出来ないコトですよね。
 よくテレビなんかは、政府批判する企業や人の1、2社ぐらい画面に映して印象操作しようとしますが、そうではなくて、全体としてどうなのか分かるぐらいの企業数を取材して、それで結果としてはどうなっているのかというコトを伝えるコトが、真の意味での報道だと思います。
 もしそれで本当に対策がうまくいってないなら、それを是正するのが国のためになりますし、良くなっていたら、この対策は有効なのでもしまた次必要な機会が出てきてしまったら使おうと、こう言えるようになるワケです。
 
 結局マスコミは、政府批判がまず報道の第一動機になってしまっていると言わざるを得ません。
 これは、結果ありきの議論そのものです。
 こんなのでは正しい日本の現状を国民が知るコトはできないでしょうし、日本を良くするコトもできません。
 二次補正を出すか出さないか、そんな政局論に終始するのではなく、日本のために何を伝えるべきなのか、マスコミこそが目を覚まさなければならないでしょう。
 
 
■ネット議論の行方
 
 最初に紹介しました稲田議員ですが、どうもネットの一部では、稲田議員を「国籍法改正賛成派」というレッテルを貼って攻撃している人もいるようなのです。
 特に人権法の時の反対派の急先鋒だったコトもあるので、期待してた分裏切られたという思いからなのか、てのひら返し方はけっこうすごいコトになっている場合も多々あったりします。
 一言、非常に醜いです。
 
 「自分の結論と合わないから全否定」
 こんな低レベルな態度をとる人がとても多い査証とも言えるでしょう。
 本来ならば、保守系議員の意見だからこそ、その主張には真摯に耳を傾けて、知らなかった事実があれば反省して今後の糧とし、相容れない意見だったとしても尊重して参考にするのが、本当の意味での言論・議論と言うべきモノではないのでしょうか。
 やえは正直稲田議員のコトを、人権法の時は「弁護士とは思えぬ理論なき感情論者」と思っていたのですが、今回のこの記事を見てこの考え方は改めなければならないと思っています。
 まぁ是非ですね、もしまた人権法の議論が出てきてしまったら、稲田先生、ぜひ今回のような筋の通った論によって主張をしてもらいたいと思います。
 
 それにしても、ネットはこんなのでいいのかと思わざるを得ません。
 昨日も同じようなコトを言いましたが、自分の都合のいい意見だけを取り入れ、都合の悪い意見は存在すら認めず排斥すらするという態度は、既存マスコミと全く変わりません。
 ネットは既存マスコミのライバルになれると言われて久しいですが、仮にネットがマスコミを凌駕する日が来たとしても、言論の質そのものはたいして変わらないのではないか、むしろ下がるだけなのではないかと言わざるを得ません。
 ネットはひとりひとりが自分の言葉で世界を作っていく場です。
 ひとりひとりが高い意識と責任を持たなければ、質の高い場として認められるようにはならないでしょう。
 
 今回の騒ぎを見ていると、やえは心配にしかなりません。
 

平成20年12月3日

 未だにくすぶる田母神元幕僚長問題

 この問題、やえはすぐに消えて過去の話になるだろうと思っていたのですが、思いの外くすぶりつづけているので、繰り返しな内容になりますが今一度言っておこうと思います。
 どうしてこう、目的のために手段を選ばない行為を認めてしまう人が多いんでしょうか。
 本当にちょっとふと足を止めて、冷静に考えてもらいたいです。
 
 やえがビックリしているのが、田母神氏の中身のついて評価している人が少なくないというコトです。
 確かに、過去の日本の戦争を何かから何まで日本が悪かったんだと断罪しまくる戦後民主主義の歪んだ見方を否定したという点に関して言えば、賛同を得られる一定の層があるというのは事実です。
 でも、その事実だけをもって、中身のある賞賛されるような言説かどうかはまた別です。
 簡単な話、日本の戦争は自衛戦争だったんだ正義の戦争だったんだと主張する人というのは、ネットにはいっぱいいます。
 最近更に国士気取りの人が増えてきていますが、そういう人はだいたい似たようなコトは言っています。
 しかしだからといって、世間を騒がせるぐらいの評価に繋がるのか、懸賞金を得られるぐらいの評価なのかどうのは、全然別問題です。
 この辺を全く考えてない人が多い気がしてなりません。
 とりあえず目立った人が、戦後民主主義史観を批判したというコトだけで、持ち上げてしまっているのでしょう。
 
 田母神氏の主張がいかに低レベルかというコトは、玄倉川さんが分かりやすく語っておられます。
 まずは「田母神元幕僚長の核武装論」や「田母神元幕僚長とキャプテンハーロック」を読んでみてください。
 ひとつ玄倉川さんにレスすると、呆れて果ててわざわざサイトで取り上げるという行為をする気も起きない、という人というのは案外いるんじゃないかとやえは思いますよ。
 やえの中では、もう完全に過去の人でしたし。
 
 で、今回やえが一番ショックだったのが、小林よしりん先生まで、田母神氏を擁護しているコトです。
 曰く「サムライの気概を感じる」「防衛の最適任者」「自衛隊の思想統制を絶対に許してはならない」(『SAPIO』12/17号より)だそうです。
 ホントよしりん先生は政治オンチですね。
 
 例えば、よしりん先生のスタッフが、よしりん先生に内緒で他のメディアで持論を展開していたとしたら、よしりん先生はどう思うでしょうか。
 しかもその内容は、よしりん先生の批判です。
 スタッフという地位にいるコトによる様々な情報を武器に、違うメディアでよしりん先生を批判しまくっていたとしましょう。
 これでもよしりん先生は「言論の自由だ」と容認するのでしょうか。
 
 もしこれで容認したとしたら、やえはよしりん先生のコトを「すごい人だ」と思うよりもおそらく「変人ですね」と思うコトでしょう。
 
 まして今回は、民主主義国家という枠組みの中での話です。
 民主主義の国家においては、その意志決定をするのは選挙で選ばれた議員だけに許された行為です。
 こんなの当たり前すぎます。
 民主主義という言葉が示している通り、権力者の権力の源は国民であり、その国民の意思をある程度集約したモノが選挙であって、だからこそ選挙に当選した人が権力を使う権利を与えられるというのが、民主主義の最も基本的な考え方なのです。
 俗な言い方をしますが、民主主義の国においては、選挙で選ばれたからこそ「えらい」のです。
 選挙こそが、権力の源なワケなのです。
 
 となれば、その選挙を経ていない役人という存在は、所詮は国家運用のための手足であり道具に過ぎません。
 一民間企業であるよしりん企画では、トップが変態的な寛容さで下の人間の言論の自由を守ったとしてもトップの人の勝手ですが、しかし民主主義国家ではそれだけでは済まされません。
 これは民主主義という制度の根幹を揺るがす事件とも言える問題です。
 国民主体ではない、国民の意思が反映されていない人による権力簒奪と、大げさに言えば言えてしまうワケで、これを許すというのはどういう神経なのかやえには信じられません。
 それとも案外、官僚政治を望んでいる人は少なくないというコトなのでしょうか。
 
 主張が正しければ何をやってもいいと言うのは、目的のためには手段を選ばないというコトです。
 そして目的のためには手段を選ばないという思想は、テロリズムをも容認する行為であるというコトを忘れてはいけません。
 

平成20年12月4日

 麻生メルマガレビュー

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  ■○■○■    麻生内閣メールマガジン第9号    ■○■○■ 
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 ●麻生太郎の「強く明るく」
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 [誇り]
 イラクにおける日本の復興支援活動。これまでの活動を振り返るとき、奥克彦大使と井ノ上正盛書記官という、2人の外交官の存在を忘れることはできません。
 先週29日は、イラクの地で2人の尊い命が奪われてから、ちょうど5年。
 奥大使と井ノ上書記官の、イラク復興への使命感と情熱は、現地の外交官や自衛隊員に受け継がれ、今、イラクは、再建への道を、着実に歩んでいます。
 
 こんにちは麻生さん。
 あの事件は衝撃的でしたね。
 未だにイラクのテロリスト共の行為をレジスタンスとかいって持ち上げている人がいますが、目的のために手段を選ばない下劣な輩をどう持ち上げるのか、やえは神経を疑うしかありません。
 
 二つ並んだ、日本とイラクの国旗。
 その両方から伸びた、二つの手は、しっかりと結ばれています。
 日本が修復したイラクのアル・ジョラーン小学校の正門に、「イラクの未来のために」という言葉とともに描かれた絵には、自衛隊が成し遂げた成果が、しっかりと残されています。
 日本にいるとなかなか気づきませんが、道路の補修や浄水場の整備、人や医療物資の輸送など、一つひとつの任務に全力であたってきた自衛隊員の姿が、日本という国のイメージを確実に高めています。
 
 当時やえはいっぱい言ってきましたが、戦争の是非についてはいろいろ意見があるとは思いますが、しかし少なくとも戦争の引き金を引いたのはアメリカであり、その責任はアメリカがかぶってくれているワケですから、日本としてはイラクで頑張って、国家に対しては恩を売って、現地の人たちには好かれるよう行動すれば、これは日本の国益になるコトでしょう。
 ですから、復興支援をやるかやらないかという部分に関しては、ほぼ一択と言えるのではないでしょうか。
 特に日本の技術は高く、また人当たりもものすごくいいワケですから、自衛隊員の皆さんには頑張ってもらって、イラクの人たちにいっぱい恩を売ってもらいたいところです。
 
 先週金曜日、4年半にわたるイラクでの自衛隊による活動を、今年いっぱいで終了することを決定しました。
 家族からも遠く離れた灼熱の地で、黙々と任務を果たしてきた自衛隊員の諸君に対して、心から敬意を表するとともに、感謝したいと思います。日本の総理大臣として、また、一人の日本人として、大きな誇りを感じています。
 
 4年半ですか。
 なんだかとても長かったような気がしますね。
 この活動は必ずや日本のためになるでしょうし、また自衛隊が海外で活動したという実績は、国際的評価と共に、自衛隊の貴重な経験にもなったコトでしょう。
 やえは自衛隊の国軍化こそが今の日本に一番必要なコトだと思っています。
 それを思えば、この今回の活動は、何物にも代え難い大変価値のあるモノだったと思います。
 
 今週月曜日、ロフトという東京都渋谷区にある雑貨専門店に伺いました。
 
 いきなりなんですか(笑)
 
 買い物ではありません。この会社では、今年から、契約社員やパート社員といった区分をなくし、希望者全員が正社員となりました。売り場も、レジも、みんな正社員。直接この目で見て、話を聞きたいと思い、伺いました。
 
 ああ、結構前そんなニュース見た気がします。
 しかし麻生さんはフットワーク軽いですね(笑)
 
 売り場の担当者は、売れ筋の確認から発注まで、自分の目で行います。レジの担当者は、接客にあたって、豊富な商品知識が求められます。
 「やりがいを感じています。」若い従業員の方の言葉からは、仕事への誇りが感じられました。しっかりとした責任と、それに応じた処遇を与えられた人の、顔は輝いていました。
 今回の人事制度の見直しで、新たに4億円以上コストが増えたそうですが、この厳しい経済情勢のもとでも、売り上げは伸びているとのこと。

 
 これ前にも言ったコトあると思うんですが、ある建設業の中小企業の経営者の方が、「ウチの会社は社会保険も完備し社員旅行も会社負担でやる。この業種は確かに3Kの仕事だが、福利厚生が充実しているから、若くて優秀な社員がどんどん入ってくる」と言っていました。
 やっぱり企業にとって、いえ組織にとって、何よりの財産は人材ですよね。
 
 社員が定着して、一生懸命やることに、勝る資源はありません。「人への投資は惜しまない」という、遠藤社長の言葉がとても印象的でした。
 「人」があって「会社」がある。日本型経営の強みを改めて実感しました。
 
 っと、コメントがかぶってしまいました。
 ところでこういうのって、「日本型経営」って言うんですかね?
 むしろ外国はどんな経営方法をしているのか、ちょっと気になります。
 
 その日の夕方には、御手洗日本経団連会長や岡村日本商工会議所会頭に対して、雇用の安定や賃金の引き上げをお願いするとともに、就職内定者の内定取消を行わないように要請しました。
 雇用や賃金は、生活基盤の根本です。厳しい経済情勢となっても、ここは守っていかなければなりません。
 政府としても、雇用保険料の引き下げや、若者の正規雇用化への支援をはじめ、できる限りの対策は講じていきますが、政府と民間が一体となって、あらゆる手段を尽くしていかねばならぬと考えています。
 
 これもニュースになっていましたね。
 総理大臣が民間に対して賃上げ要求をするというのは異例中の異例だとか。
 でもまぁ、政治が出来るコトはどんどんやっていくというのはいいのかもしれません。
 経営破綻するほど賃上げするのは本末転倒ですが、そうでない部分で賃上げできる余地があるのなら、多少強引でも政治がそれを牽引するというのも、ひとつの手かもしれません。
 結局、生活が安定すると、消費しようという気持ちにも向いて、それが結局企業の利益にもなるワケですから、この歯車を以下に上手く回すのかというのも、政治の仕事のひとつだと言えるのでしょうから。
 
 
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 ●編集長のひとこと
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 先月28日、党首討論が開催されました。初めて党首討論にのぞんだ総理は、落ち着いて語りかけ、国民の皆さんにわかりやすい討論になったと思います。
 
 党首討論見たのですが、ごめんなさい、案外面白くなかったですね。
 あの日って、その後本会議が入ってて、その案件が国会延長の件でしたから、麻生さんも攻めに転じにくかったのかもしれません。
 しかしあれをもってマスコミは「小沢さんの大勝利」とか書いてるんですから、あきれ果てます。
 あの日の党首討論は、どっちが勝ちとかではなく、単につまらない討論だったとしか言いようがないでしょう。
 まぁとにかく、今回で終わりなのではなく、出来れば週に一回やるぞぐらいの勢いで、どんどん党首討論してほしいと思います。
 それが一番絶対に国民のためになるのですから。
 
 今週は、斉藤大臣が低炭素社会の実現に向けた取組について紹介しています。地球温暖化を防止するためには、世界の国々が知恵を出し合い公平な国際ルールを作ること、皆さんひとりひとりが行動すること、そのどちらも不可欠です。ぜひ皆さんもできることを実行してください。
 昨日から9日までは障害者週間。今年、北京パラリンピック(障害者のオリンピック)で金メダルを含む3つのメダルを獲得された石井雅史さんの「一緒に戦ってくれる人たちを信じて必死に頑張ると夢はかなう」という言葉に大変感動しました。後に続く人たちにも勇気を与える重みのある言葉です。さらなるご活躍を期待しています。(松純)
 
 この前ニコニコ動画で、麻生さんのインタビューを見たのですが、その関連で麻生さんの動画があると知ってる見たところ、松純先生もちゃっかり紹介されているんですね。
 いつの間にかカメラ好きが有名になってしまって(笑)
 この調子で(?)がんばってください。
 
 
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、ローゼン閣下を応援しています。
 

平成20年12月8日

 国籍法改正法案成立を受けて

 というワケで、国籍法改正法案が参議院でも可決しました。
 これで法律として成立というコトになります。
 これを受けて法務省等役所では、実際にどう運営していくのか、そういう詰めの作業していくコトになるのでしょう。

 改正国籍法成立、未婚でも子は日本籍
 
 これまで国籍法は国籍の取得に出生時に父母が結婚していることを要件としており、未婚の日本人男性と外国人女性の間に子どもができた場合については、出生前に父親が認知すれば日本国籍の取得を認めている。改正により父母の結婚の有無にかかわらず、父親が認知すれば日本国籍が得られることになり、出生後に父親が認知した場合でも国籍取得が認められる。
 ただ、外国に住む女性は子どもの国籍取得によって自らも在留資格を得られやすくなることから外国人女性が、父親とは別の日本人男性に虚偽の認知を依頼する偽装認知が増加する懸念がある。このため虚偽の届け出には、1年以下の懲役か20万円以下の罰金を科すことも盛り込まれた。
 
 参院法務委員会は法案可決に際し、偽装認知防止策として、〈1〉施行状況を半年ごとに国会に報告する〈2〉DNA鑑定導入の必要性を検討する――ことなどを求める付帯決議が行われた。
 改正法は、母親が外国人で、日本人の父親から生後認知された子どもに国籍を認めない国籍法を違憲とした6月の最高裁判決を受けたもの。

 一番今回のこの動きでうんざりしたのは、反対論のデマとアジだらけの中身に対してです。
 この改正が成ると「日本が終了する」と臆面もなくわめき散らしている人が多いですが、とりあえず成立しましたので、そろそろ日本は終了するようです。
 と言ってもギャグにもならないワケですが、こういうデマアジをどうして真剣に信じてしまうのか、そしてそんな人が少なくないと言えるぐらいいてしまうのか、やえには信じられません。
 
 誤解を恐れず言えば、法案の中身見なくても、いわゆる純粋な日本人の数を偽装日本人の数を凌駕するコトなんてあるハズがないと断言できてしまいます。
 こう言うと必ず「根拠を示せ」と言う人が出てきますが、こんなの「1年後に日本に隕石が墜落する」というぐらいのヨタ話としか思えません。
 もちろんそれだけではアレかなと思わなくもないので、念のためにザッと色々調べてはみましたけど、さすがに“日本終了”と言ってしまうのはあまりにも空想論でしかないというのは一目瞭然、むしろあまりにのデマだらけの根拠のないアジテーションばかりが目についてしまって、やっぱりうんざりするワケです。
 国家としては世界最長、法治国家としても明治以来の世界でもかなり長い部類の歴史を持つ日本という国は、新しい概念の新しい法律を作るというのですらなく、既存法律を改正する程度で“終了”してしまうような、そんなヤワな国ではありません。
 まして日本は変わらないコトの方が得意の国です。
 アメリカは政権が変わるとスタッフも総入れ替えするぐらいの国ですから、けっこうガラッと変わりますが、日本は議院内閣制であり官僚制度がシッカリしている国ですから、変えようとしても変えにくいのが特徴なのです。
 それが長所でもあり、時に短所でもあるワケですが、今まで培ってきたノウハウがあるからこそ、ぶっとんだ法律・法案は作られないようになっているのです。
 
 国籍法が改正されて、偽装件数が増えるのか減るのか(そもそも偽装が今現在あるのかどうか知らないのですが)は分かりません。
 でも結局人間が作る社会ですから、どうしてもエラーは出ます。
 何千年かけても人類から犯罪が無くなっていない事実を考えれば、もはやこれは人間が人間として生きていくための原罪とも言えてしまうのかもしれません。
 ですから、もしかしたら今までにない形(つまり結婚していない外国人女性と日本人男性の子供への国籍)の偽装がこれから何件か出てしまうかもしれません。
 でもこれは、大げさに言うと、やえはそんなのたいしたコトではないと言っても差し支えないと思っています。
 
 1,2件偽装が出たところで、“日本終了”にはならないからです。
 そもそもこれは何度も言ってますが、偽装は偽装、違法行為ですから、決して改正されると違法行為が合法になるというワケではありません。
 ですから、日本乗っ取り計画が本当にあったとしても、バレればそこで計画は終了です。
 何か巨大な黒幕がいて、日本を乗っ取ろうと具体的な計画をしている組織があるんだと思い込んでいる人が、これが案外少なくないようでアレなんですが、そこまでするには、年間数百件から数千件は偽装しなければならないワケで、しかしそれはさすがに大がかりすぎていつか必ずほろこびが出てバレるコトでしょう。
 こういう計画は1件でも露見すれば芋ズル式に全容が暴かれますので、数千件数万件が野放しになってしまうと言うほど、日本の行政がダメダメだとはさすがに思えません。
 実際のところ不法滞在者はかなり数がいるようですが、日本乗っ取りならこっちの方が手っ取り早い気がしますしね。
 でも実際は、日々日本のこわい入管のおじさん達におびえる毎日だというのが現実です。
 不法滞在も偽装認知もどっちも犯罪行為なワケですから、所詮は日陰者、バレれば逮捕されるだけであって、宗匠さんのところにもありましたけど、これで日本が終了とか、スラムが出来まくるとか、とてもじゃないですけどあり得ない話です。
 
 この改正の反対の理由として、「ズルして日本人になる人間が1人でも出るコトが絶対に許せない」でしたら、まぁ納得は出来ないコトはありません。
 それを0にしようと頑張る姿は、人間の努力としては間違ってはないでしょう。
 ただ、どうしても人間ですから限界があります。
 例えば不法滞在者を0にしようと言うのでしたら、出来ないコトはありません、外国人の入国を一切拒否すればいいのです。
 鎖国ですね。
 でも現実問題、そんなコトは不可能です。
 なぜ不可能かと言えば、それはいろんなしがらみや、他の法律や、様々な問題が絡んでくるからです。
 確かに鎖国をすれば不法滞在者だけを見れば0にするコトは出来るでしょうけど、しかしこうするコトによって他のまずい問題が色々と出てきてしまいます。
 ですから、これはもう国家運用のコストとして不法滞在者を0にできないコトを支払っていると言えるのです。
 
 間違えてはいけないのが、不法滞在者の存在を黙認しろというコトではありません。
 「簡単に0にする方法はあるけど、それを選択できない」というコトがコストだという意味です。
 不法滞在も偽装認知も、言うまでもなく違法ですから、制度としてどこまで違法行為がしづらい環境を作るかというコトももちろん大切ですが、その後にどう運営していくのか、どう犯罪者を摘発していくかというのも、車輪の両軸のように大切なコトです。
 どんな問題でも、その1つの問題だけのコトを考えればもっと出来るコトはありますが、国家とはそんな単純なモノではないというコトは知っておかなければならないでしょう。
 
 結局は、そのコストが高いと思うか安いと思うかです。
 日本終了となってしまうぐらいのコストであれば高すぎると言うのが当然ですが、その心配は今のところ杞憂だと言えるでしょう。

 違憲判決後、各法務局や在外公館にあった国籍取得の申請は4日時点で129件。

 最初の読売新聞の記事ですが、過去を含めてこれまで申請すら出来なかった人を含めてでも、この程度の件数です。
 例えば、あり得ない数字ですが10%が偽装だと仮定したところでも、その数はたった13件程度です。
 その数字でどうやったら日本が終了すると言うのでしょうか。
 もしそれでも将来が不安だと言うのであれば、キチンとこの数字を監視していけばいいのです。
 参議院では、半年ごとに国会に状況を報告するコトと付帯決議されていますから、なおさらです。
 この数字がいきなり万単位になったら、それは何か背景があると思うのが当然でしょうし、そうであるなら“通常ではない審査”や、時には“捜査”も行う必要があるという風になってくるというのは自然なコトだと思います。
 この数字を監視するだけでも、最低「日本終了」は防げるのです。
 
 こういう現実をふまえた上で、民放を含めた他の法律や法令、様々な諸問題を考えたとき、自分の主張は妥当なモノなのかどうか、自ずと見えてくるのではないでしょうか。
 少なくとも、何が何でも強固に他の問題をかえりみずに100%を求める姿が“日本を救うこと”ではないでしょう。
 やえから言わせてもらえば、あり得ないデマを飛ばして他人を扇動するコト、そしてそれに簡単に乗ってしまう人間が少なくないコト、こっちの方がよっぽど日本にとって危険なコトだと言わざるを得ません。
 もっと広い視野で物事を見て欲しい、語って欲しいと思っています。
 

平成20年12月9日

 人権擁護法で白血病解析プロジェクト!@Team2chが潰される!?

 今日は、宗匠さんのところで書き込まれたコメントに対して、宗匠さんから許可をいただきましたので、横やりコメントをしたいと思います。
 と言うのも、「こういう考え方をする人もいるんだなぁ」と変に興味を覚えましたモノで、ちょっとコメントしたくなったのです。
 国籍法の「なんでそんな細かいコトを法律に明記しようと主張する気になるのか」というやえの出発点からもそうだったのですが、やっぱりなかなか意識の差っていうモノは、人によって案外少なくないんだなぁと最近感じています。
 ですからこういうコトを丁寧に説明出来る時にはしていくコトも大切なんじゃないかと思ったのです。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 ではまず、その宗匠さんのブログに書き込まれたコメントを引用させて頂きます。

 もう一つはwww.3rdmedia-jp.net/~Drandross/SS/r,kirby-SS1.htmlというサイトに書いてあるSSなんですが、こちらは人権擁護法案に反対しているところですがその反対理由としては白血病解析プロジェクト!@Team2chが潰されるというのが挙げられているのです。
 こんな反対の理由は他の人権擁護法案に反対されているサイトには乗ってなく(とはいえ人権擁護法案を最低最悪最凶の言論弾圧法案と見なしている時点で他のと大差無いかもしれませんが)、ちょっと混乱しかけているのですが実際のところどうなんでしょうか?

 「もう一つ」と書いてありますので、これ以外の話題もあるのですが、そっちはやえはあまり興味ないのでパスさせていただきます。
 どっちかと言えばあまおちさんの方がテリトリーでしょうし。
 詳しくご覧になりたい方は、こちらの記事のコメント欄をご覧ください。
 
 さて、というワケで、人権擁護法案についての話題です。
 
 このコメントの主張とリンク先の主張をまとめますと、「人権擁護法が出来ると、2ちゃんねるや、その手のサイトが潰されて、結果的に日本では2ちゃんねる有志が大きく寄与している白血病解析プロジェクトまで潰されてしまうコトになる」というコトです。
 そしてリンク先では、「こんな法律を発案した人たちは頭の悪い連中なんだろうな、絶対。」とまで言っています。
 ちなみにそのサイトにはご丁寧にチャートまで書かれています。

 チャート
人権擁護法案が可決される

差別用語が多い2ちゃんねるが狙われる(逝ってよし、氏ね、虐殺房・厨房の行動など)

2ちゃんねるが経営しているページは即刻消され、さらに多くの2ちゃんねらーが逮捕される。

当然2ちゃんねる以外もアメリカに協力しているが後のはアドレスや検索方法が分かりづらいサイトだけなので日本人がこのプロジェクトに参加できるチャンスが減る。

すると白血病の解析が遅れてしまう・・・・・・

 コメントを寄せられた方はこの主張に対して「他の人権擁護法案に反対されているサイトには乗ってなく、ちょっと混乱しかけているのですが」と言っていますが、やえもこんな理由ははじめて見ました(笑)
 意識の差というモノを感じてしまいます。
 
 まずいきなり結果を言いますと、これはとてつもなくあり得ない話です。
 
 理由は大きく分けて2つあります。
 1つは、2ちゃんねる本体はともかく、個人サイト・ブログが人権擁護法の存在だけで潰されるというコトはまず無いというコトです。
 これは人権擁護法案の中身の話になりますので詳しくは専用ページを見て頂きたいのですが、簡単に説明しますと、人権擁護法案では、そもそもサイトを強制的に削除させる強制権は持ち合わせていませんし、仮に氏名公開などの処分をおそれて自主的に閉鎖というコトになったとしても、そこまでの処分になるためにはかなり多くのハードルを越えなければそこまでの処分には至りませんので、現実問題、個人サイト・ブログまで人権擁護法の対象には成り得ないと考えられるからです。
 具体的に言えば、「個人が特定できるぐらい名指しをして」「人種等を理由とする」「差別的言動」をしなければ、氏名公開等の特別救済手続きは始まりません。
 「あまおちりんは、生まれつき奴隷種族で、外を歩いているだけでも害悪だ」ぐらい言ってしまうと特別救済手続きが開始される可能性が高いですが、こんなの人権擁護法があろうがなかろうが普通にダメですよね。
 もしこんなコトを書いてサイトやブログが閉鎖されたら、それはもう仕方ありません。
 管理人が悪いとしか言いようがないワケです。
 しかしですね、本来あまり好ましくありませんが「A国の人間は犯罪を犯すのが当然で生きている価値はない」なんてサイトやブログで書いたとしても、これは人権擁護法案での特別救済手続きは開始されないのです。
 なぜなら、「個人が特定できるぐらい名指し」ではないからです。
 「A国の人間」では、特定個人ではないので、特別救済手続きの発動条件に当てはまらないんですね。
 ですからよほどのコトが無い限り、人権擁護法案が施行されていない今現在の世の中でも十分糾弾されるべき言動をしない限りは、サイトやブログが潰されるコトはまずないと言っても差し支えないワケなのです。
 ちなみに2ちゃんねるは分かりません。
 やえは2ちゃんねるの全てを見ているワケでありませんし、というか実際のところ滅多に見ないですから、あの巨大掲示板群の中に全く1つもとてつもなく差別的な書き込みがされていないとは断言できませんモノで、人権擁護法案が施行されても特別救済手続きの対象になるかどうかを予想するコトはできないのです。
 けっこうひどい書き込みがたまにあるなんて噂も聞かなくもないですし。
 
 もちろんそのような書き込みが無いのなら、それにこしたことはありません。
 しかしさっきも言いましたように、もし2ちゃんねるや、また個人サイトやブログが、今の常識でも十分差別的だと言えるぐらいの言動を行い、また容認しているようでしたら、これは結果的に潰されるというコトになっても、それは仕方ないと言えるでしょう。
 今回の話をあり得ないと言った2つめの理由が、ここにあります。
 
 たまに感覚がちょっと麻痺している人がいるようですが、よくよく冷静に考えてもらいたいコトがあります。
 それは、「差別的言動は罪である」というコトです。
 
 さっきのサイトのチャートには、「差別用語が多い2ちゃんねるが狙われる」なんてサラっと書いてありますが、さっきも言いましたように、もし本当に差別がまかり通っているようなサイトやブログがあるのでしたら、それは今の法律でも十分に罰せられなければならない、大変な問題であり、それは犯罪行為だと言えます。
 人権擁護法案は、刑法ではなく、行政がどのように動くのかというコトを示した法律(案)ですので、どのような行為が悪い行為で罰せられるのかという概念自体は、人権擁護法案が施行されようがされまいが変わりません。
 何が変わるのかと言えば、人権侵害者に行政が今までより迅速に身軽に動けるようになるというところです。
 ですから、本当に差別的な言動を堂々と載せているサイトやブログがあるなら、それは潰されて当然だと言うのが社会常識人としての義務とも言えるでしょう。
 そういう意味で「差別用語が多い2ちゃんねる」なんて言っているその書き方は、それはかなり眉を細めなければならない主張だと言わざるを得ないのです。
 差別用語(その言葉が実際差別なのかどうかはまた別議論です)が存在するコトが、まずもって許してはならないコトなのです。
 
 その上で、このチャートの前提条件通りに、「2ちゃんねるが経営しているページは即刻消され、さらに多くの2ちゃんねらーが逮捕される」という事態になったとしましょう。
 確かにこうなると、2ちゃんねるユーザーが中心となって動いている「白血病解析プロジェクト!@Team2ch」は、その活動が難しくなるかもしれません。
 結果的に、このプロジェクトも消えてしまうコトになってしまう可能性もあるでしょう。
 
 しかしよく考えてもらいたいのは、「2ちゃんねるが経営しているページは即刻消され、さらに多くの2ちゃんねらーが逮捕される」という事実があった場合というのは、これはその運営者が犯罪者であるというコトを同時に指し示しているコトになるワケです。
 犯罪を犯したから削除されたのですからね。
 もちろん最終的にその人が犯罪者かどうかは裁判所が判断するコトではありますが、ここで冤罪の可能性を言ってたらキリがないので、とりあえず考えないコトにしましょう。
 ですから、いくら白血病の解析のために協力していると言っても、犯罪行為をしてしまえば、その人は犯罪者としか言いようが無く、それは当然罰せられるべきです。
 そのページは犯罪者が犯罪を犯したから削除されたのであって、悪いのは犯罪を犯した犯罪者自身です。
 いくらその人が、別の面では善行を積んでいたとしても、それをもって犯罪行為までを帳消しに出来るとは決してなりません。
 
 言い換えるならこれは、「良い面があるのだから犯罪行為も見逃せ」と言っているようなモノです。
 そしてこんなコトは現代社会では許されない考え方です。
 例えばオウム真理教に対して、「オウム真理教の教えは多くの人間の悩みを解決し、実際に救われたと言っている人がいるんだから、テロル行為は黙認すべきだ」と言ったとしたら、どう思うでしょうか。
 こんなのとんでもない話ですね。
 まぁ実際当時はこういうコトを言っていた人が存在するのがちょっと頭の痛いところですが、それはともかく、良い面があれば犯罪行為は見逃せという主張は、本来はトンデモであるとしか言いようがない主張なのです。
 
 もし人権擁護法案が施行されて、やえが思っているよりも全然多くのサイトやブログが差別的言動をしていてそれらが閉鎖されて、結果的に白血病の解析が送れたとしても、それは仕方のないコトとしか言いようがありません。
 結局、白血病解析プロジェクト!@Team2chは犯罪者の巣窟だったというオチでしかないワケです。
 これに対して「よいコトをしているのだから犯罪を犯していても罰するべきではない」と言いますか?
 そんな主張は、逆に言えば、白血病の解析を盾にして差別的言動を容認しろと言っているようなモノでもあるとさえ言えてしまうでしょう。
 差別的言動は差別的言動、それと白血病の解析は全く別問題であって、犯罪行為を犯したのであれば、それは粛々と罰せられるというのが、現代社会のルールです。
 ただそれだけのコトなのです。
 
 実際やえは、白血病解析プロジェクト!@Team2chのコトをよく知らないのでなんとも言えないのですが、しかし白血病解析プロジェクト!@Team2chの人たちが犯罪者だらけの魔の巣窟とはさすがに思えませんので、というか思いたくもありませんので、よってつまり結論としては、こんなシミュレーション通りに現実が動くワケがない、という結論になります。
 
 この問題を考える場合、「○○が無くなる結果になるから××は良くない存在だ」と考えてしまうコトがまず思考的失敗です。
 この考え方では、××という存在がなぜ良くない存在なのかという理由を、実はキチンと説明できていません。
 この思考方法だと、××という存在が悪い存在であっても○○は無くなりますし、また××が良い存在であってもやっぱり○○は無くなるからです。
 ○○が絶対化されている存在になっていますので、この思考方法だと、○○を邪魔するモノ全てが悪、例えば電気料金やプロバイダ料の存在すら悪だと言えてしまうコトになってしまいます。
 これらが無料なら、もっと協力者が増えるでしょうからね。
 でも本来の正しい考え方というのは、○○という白血病解析プロジェクトの存在は一切関係なく、××という人権擁護法案や電気料金・プロバイダ料の存在は果たして必要な存在なのかどうかというコトを考えるのが正しいあり方です。
 ○○の有無で××の評価を決めてしまうのは、責任転嫁も甚だしいワケです。
 ですから、人権擁護法案の是非を主張したいのでしたら、人権擁護法案そのものに対して真摯に研究をし主張をして議論すべきなのです。
 
 思ったより長くなってしまって、これはやえの悪いクセだなぁと思いつつ、分かりやすくなったかどうかも不安なのですが、いちおうこれで横やりコメントとさせていただきます。
 もし分かりづらかったらまた改めて言って頂ければ幸いです。
 

平成20年12月11日

 麻生メルマガレビュー

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  ■○■○■   麻生内閣メールマガジン第10号    ■○■○■ 
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 ●麻生太郎の「強く明るく」
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 [守るべきは]
 羽田から福岡で飛行機を乗り継いで3時間半。先週末、長崎県五島列島の福江島を訪問しました。
 福江漁港での伊勢エビの水揚げ、特産の「五島牛」を飼育する牛舎。漁師や畜産をやっている人たちの手を握ると、まさに、「働く人」の手。「働いている」という感触が伝わってきました。
 「生業」(なりわい)とは、「五穀が生(な)るように務めるわざ」という意味。その手には、まさに、自らの「生業」への自信、誇りが満ちていました。
 
 こんにちは、麻生さん。
 なんだか古き良き日本の姿って感じですね。
 現代社会は分業制ですから、決して一次産業の人だけがえらいってワケではありませんが、しかしこういう人たちがいなければご飯を食べるコトが出来ないというのも事実です。
 おそらくゴツゴツした、決して綺麗とは言えないのでしょうけどたくましい手の生業の人たちにも、常に「いただきます」という感謝の気持ちをどこかに持ちたいですね。
 
 この島の高齢化率は3割を超えています。離島の生活は不便なことも多いはず。しかし、ここでは、高齢者の皆さんが、笑顔で、元気に、いきいきと働いています。
 こうした日々の生活を守っていくことの大切さと、その責任をあらためて感じました。
 
 離島の生活はやえは経験ありませんが、不便であろうコトは容易に想像が付きます。
 ですから若者が島を離れてしまうというのも、ある意味仕方のないコトだと思います。
 やえが「じゃあ住んでみろ」と言われたら、やっぱりたじろぎますしね。
 でもそこに住みたいと思う人がいるのも確かです。
 また、離島には離島のすばらしさがあるというのも事実でしょう。
 おそらく数としては多くないとは思いますが、こんな人もいたりしますし。
 ですから政治とは、人間の気持ちもしっかりと受け止めて大切にし、なんでも画一的に考えるのではなく、柔軟に対応できるよう、様々なライフスタイルを支えられる存在であるべきだと思います。
 
 本日、参議院での金融機能強化法案の審議が大詰めを迎えます。
 この法案は、地方にある銀行などの金融機関に公的資金を注入できるようにすることによって、「貸し手側」の融資能力を高めるもので、中小・小規模企業への貸出を円滑にする重要な政策です。
 
 はい。
 「補正予算なんて必要ない早く解散しろと」言いつつなぜか「二次補正を早く出せ」と言い、さらに同じ口で「でも国会延長は反対で審議する場は用意しないぞ」と言っている、もはや支離滅裂極まっている主張をしている民主党が、さらに審議拒否しつづけていたためにこんな遅い時期にまでズレこんでしまった一次補正である金融機能強化法案です。
 慎重審議と言えば聞こえはいいですし、本当にじっくりと議論しているなら国民としては歓迎ですが、しかし実際やっているコトというのは、慎重審議ではなく委員会を開催しないというだけの話です。
 しかも生活がきゅうきゅうで二次補正も年内にやればなんとか楽になれる人がいると民主党は主張するのであれば、集中審議という審議時間を確保しつつ日数をあまりかけない方法もあるのですから、さっさと金融機能強化法案を通して、すぐに国会延長の手続きに賛成すれば、おそらく年内に二次補正も成立できたのではないでしょうか。
 でも実際やったのは、ただの審議拒否です。
 これらは全て、民主党の主張の中身でも、まして自民党の主張の中身の話でもありません。
 国会や、人としての、問題に対する態度の問題です。
 政党の主張やマニフェストの中身がどんなに素晴らしかったとしても、現実問題に対する態度がメチャクチャであれば、全て台無しだと言わざるを得ません。
 補正予算を早く成立させろという主張は、ある意味やえも同意します。
 可能であれば、三次も四次も五次でも、それで生活が守れる人が増えるなら、もちろん予算が可能であれば、どんどんすればいいと思います。
 でも、口ではそう言っても、態度ではまったくそれを示すコトが出来ないのでしたら、それは政治家としては失格だと言うしかありません。
 
 第一次補正で手当てした6兆円規模の中小・小規模企業向け「緊急信用保証」がスタートして約1カ月。この間、約6万7千件、1兆6千億円の保証が行われました。
 最近では、「借り手側」の中小・小規模企業の資金需要も増え、1日千億円前後の保証が行われています。年末までに営業日はあと11日。保証枠はあと4兆4千億円残っています。十分対応できる見通しです。
 
 この前、この制度が動き出してから実際の現場は一体どうなっているのか、一、二件見て終わりではなく、統計的に信用できるぐらいのデータと、そして現場の声を拾うべきだと、マスコミは本来はそれが使命ではないかという話をしました。
 結局、というか、予想通りですが、そんな真摯で真剣な使命を持つマスコミなんていなかったワケで、これでは本当の意味で政治とはなんなのか、政府は国民のためになにをすべきなのかというところを、国民は知るコトが出来ないワケです。
 結局これは国民の不利益にしかなりません。
 政府叩きが使命と勘違いしているマスコミは多いですが、結局そんな態度は国民の利益すら侵害しているという事実は、国民が知っておくべきコトだと思います。
 
 この「借り手側」の対策に加え、金融機能強化法案が成立すれば、「貸し手側」の銀行に対する金融支援策の両輪がようやく揃い、年末の中小・小規模企業の資金繰り対策に万全を期すことができます。
 
 政府は万能ではありませんし、特に民主主義の国家というモノは、なんだかんだと制限の多いというのが特徴の国家システムです。
 例えば、資金繰りが大変な中小企業があったとして、では政府が企業に直接お金を貸しましょう出しましょう、なんてコトは出来ません。
 また政府が強制権を持って民間銀行に「金貸せやおらー」とも言えないワケです。
 これは、この前の国籍法の話と同じようなコトで、ある意味民主主義のコストとも言えるでしょう。
 これも以前に取り上げたコトがありますが、新銀行東京のような存在も、貸し渋り0を目指すなら、必要だと言えるのではないかと思っています。
 新銀行東京の場合はちょっとずさんすぎるとしか言いようのない経営のようでしたが、しかし助かる中小企業があるなら、ある程度は赤字を覚悟してでもお金を出せる国営公営の銀行というモノはあってもいいと思います。
 国も地方公共団体も、利益を出すために存在するのではなく、道路を造ったりサービスを提供するなどのようにお金を使うために存在するワケですから、その一環と思えば赤字の銀行でもいいとやえは思っています。
 
 経済は生き物。今後も、国内外の経済情勢、状況変化を見ながら、機動的に対応していかねばならないと考えています。
 
 全体の何割に当たるかというデータは分かりませんが、信用保証協会はOKなのに、窓口の銀行がダメだと言ってお金を貸してくれないケースがあるとも聞いています。
 政治家ももちろんですが、国民も、どうすれば問題が解決する方向に向かうのか、しっかりと考えなければならないのではないでしょうか。
 
 
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 ●法務大臣の森英介です。
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 [裁判員に選ばれたら](法務大臣 森英介)
 「朝、何気なくポストを見たら『最高裁判所』と書かれた大きな封筒が入っていた・・・。」
 今、このメルマガをお読みの方々の中にも、そんな体験をされた方がおられると思います。
 11月28日、約30万人の国民の方々に、最高裁判所から一斉に通知が送られました。この通知を受け取られた方は、裁判員の候補者に選ばれ、来年の夏以降、裁判員として裁判に参加することになるかもしれない、ということになります。
 通知を受け取られて、何となく嬉しく感じた、不安に感じた、また、通知が来なかったことでがっかりした、ほっとしたなど、皆さんの思いはさまざまあるようです。いずれにしても、裁判員制度がスタートに向けて現実に動き始めたわけです。
 
 森大臣こんにちは。
 今日は、最近あちこちでお話を聞きます、裁判員制度のお話ですね。
 やえは十四歳ですから裁判員にはなれませんが、なれるモノならなってみたいですね。
 裁判というモノも実際に見たコトないですし、裁判官がどんな議論をしているのかも気になるところです。
 
 ところで、私が法務大臣に就任してからというもの、裁判員制度について聞かれない日はないというくらい、多くの方々からこの制度について尋ねられます。
 「裁判員になってみたい。」という意欲的な方もいらっしゃいますが、「法律の素人なのに大丈夫でしょうか。」という声もよく聞きます。私自身も法律の専門家ではありませんから、皆さんが心配に思われる気持ちは、とてもよく分かります。
 
 この制度に関してはいろいろと言いたいコトがあります。
 まず、この制度そのものを指して必要ないと言ってしまう人が少なくないというコトです。
 しかしそもそもこういう「一般国民の裁判参加」というモノは、国民自身が望んだコトだというのが事実であり、一昔前、テレビなんかでは凶悪犯のニュースやその裁判のニュースの際にはは、必ずと言っていいほど「裁判官の一般常識の無さ」を批難するコメントが毎日のように流されていた時期がありました。
 そしてアメリカの陪審員制度を持ち出して、日本にもこのような制度が必要だと、意見がよく出されていました。
 それなのに、いざそれが自分の身に降りかかると、そんなのはイヤだと言ってしまう。
 これは、めんどうなコトは全部他人がやればいい、自分は安全な場所で口だけ出したいという、そんなあまりにも無責任な態度だと言わざるを得ません。
 やえ個人の意見からすれば、裁判員制度はあまり賛成ではないのですが、まぁしかし、出来たからには国民の義務としてシッカリと受け止めなければならないでしょう。
 
 しかし、裁判員制度は、皆さんに法律的な知識を求めているものではありません。皆さんは、職場やご家庭でさまざまな経験や知識を積まれていますし、社会で起きた事件や出来事についても、いろいろな思いや意見をお持ちだと思います。そういった日常の中で皆さんが培われた常識や感覚こそが、裁判員制度で求められているのです。
 ですから、通知を受け取られた皆さん、裁判員に選ばれたら、肩の力を抜いて、思ったこと、感じたことを率直に発言して下さい。皆さんの常識と裁判官の法律的な知識が合わさることで、裁判はよりよいものになっていくと、私は信じています。
 
 法律の知識を求めなければならない主張をしているのにも関わらず、調べようともしない人がたくさんいるというのが現実ですからねぇ。
 それから、「自分が他人(被告)の人生を変えるような、例えば死刑という判決を出してしまうのは、あまりにも荷が重く、苦痛だ」と言う人がいます。
 しかしこれはちょっと無責任だとやえは思います。
 というのも、そもそも刑事裁判の場合というのは、これは全て行政という公が起訴するコトになっており、被害者本人は起訴できないワケで、つまり日本国内における全ての犯罪に対する判決というモノは、国民の名の下に下されていると言えるワケです。
 まぁそもそも民主主義国における法律は、全て国民のモノであるのですから、死刑制度が存在する限り、全ての刑事罰が存在する限り、国民は等しくその施行にも責任を負っているのです。
 もちろん心理的なモノが全然違うというのは分かりますが、民主主義の国民としては、死刑をはじめとする刑事罰の全ては、国民の同意によって成り立っているというコトは意識しておいてほしいと思います。
 
 私は、これからも、1人でも多くの皆さんに安心して裁判員になっていただけるよう、最大限の努力をしていきます。
 
 いろいろあると思いますが、どうぞ頑張ってください。
 
 
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 ●編集長のひとこと
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 「国民の雇用を守って」
 「掛け声だけでなく、具体的な政策が必要」
 読者の皆さんから、雇用や景気について、切実な思いや政府への叱咤激励など、様々なご意見をいただいています。
 政府一体となって、離職者の住宅の確保も含め、年内に実施できる雇用対策を早急に実行に移すとともに、二次補正予算と21年度予算の編成など、雇用の安定、景気の維持・回復に向けて取り組みます。
 
 雇用については難しいんですよね。
 金融の話でも言いましたが、政府が私企業に対して強制的に雇用しろとは、王制や社会主義国ならともかく、民主主義国家では言えませんからね。
 また、無理して雇用しても、企業そのものがなくなれば、もっと多くの失業者を出すだけですし。
 ただ、最近話題になっている内定取り消しや不当解雇の問題は、労働基準監督署などがシッカリと対応して、法律に照らし合わせてキチッと対応して欲しいと思います。
 
 今週は、いよいよ来年から実施される裁判員制度について森大臣が語っています。裁判員の候補者に選ばれた方はもちろん、そうでない方からもこの制度へのご理解とご協力を得られるよう、政府は引き続き全力を尽くしていきます。
 「現代の名工」として今年表彰された造管工の福川賀皓さんには、サウジアラビアでの技術指導のご経験を語っていただきました。日本の技術の高さを支えているのは、福川さんのように「ものづくりの心」を持って各分野でその道一筋に取り組まれている多くの方です。技術の伝承が確実に進むよう、後継者の育成にもぜひご尽力いただきたいと思います。(松純)
 
 最近急にさむくなってきましたが、まだまだ国会はこれからですから、様々な批判や中傷や妨害的行為などあるでしょうけど、がんばってください。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、ローゼン閣下を応援しています。
 

平成20年12月12日

 文脈を読みましょう

 たまには流行に乗ってみようと思います。
 今日はこの記事です。

 漢字に続き…麻生、今度は「歴史も知らない」疑惑
 第2次大戦が真珠湾攻撃で!?
 
 先に配信された首相の動画マガジン「太郎ちゃんねる」の第10回で、首相は「1941年12月に第2次世界大戦が真珠湾攻撃で始まるんですけど、10年後に日米安全保障条約なんて想像した人は、たぶんあのとき1人もいない」と発言した。
 しかし、教科書出版大手の山川出版社の用語集では世界史、日本史ともに「第2次世界大戦」は、1939年9月1日にナチスドイツがポーランドを侵攻したことに始まったとされている。別の小中学生向けの参考書でも同様で、首相の話は、大戦の一局面である「太平洋戦争」の解説になっている。

 なんだかいろんなところでいろんな人がこの話題を取り上げていて、麻生批判から歴史の見方としては間違ってないだろ意見から、様々あるようです。
 ですが、やえとしましては、なんかこう、ちょっとどれも視点がズレているんじゃないかと思ってしまいます。
 この話は、一文一文を個別に解釈するんじゃなくて、文脈の流れで全体で判断すべきお話のハズです。
 
 「1941年12月に第2次世界大戦が真珠湾攻撃で始まるんですけど、10年後に日米安全保障条約なんて想像した人は、たぶんあのとき1人もいない」
 
 この文章の主文はなんでしょうか。
 それは、「10年後に日米安全保障条約なんて想像した人は、たぶんあのとき1人もいない」です。
 麻生さんはこの話では、「まさかあの時代の最悪の日米関係の時代に、たった10年後に日米が同盟を結ぶなんて想像した人は全くなかっただろう」というコトが言いたかったワケです。
 世界の多くの国が戦争状態に入った第二次世界大戦の中でも、主役と言っていいぐらいの大きな戦争を最後まで繰り広げた日本とアメリカが、たった10年で同盟関係を結ぶ仲になった、10年と言うと短いようにも思うけど、でも10年で予想すらできない出来事が現実には起こるコトもある。
 そういうコトが麻生さんは言いたかったのだと、普通なら解釈できるワケです。
 
 これが主文です。
 では、「1941年12月に第2次世界大戦が真珠湾攻撃で始まるんですけど」の部分はどう解釈すべきでしょうか。
 それは、10年という年数がどのようなモノだったのか、または同盟を結ぶコトがどれぐらいあり得ない話だったのか、日米関係がどれだけ最悪だったのか、それを強調する一文だと解釈するのが自然です。
 例えば、麻生さんが言いたいコト、つまり主文ですが、主文的には前半の一文は無くても、意味は通ります。
 麻生さんは「10年で予想し得ないコトが起こるコトもある」と言いたかっただけでしょうから、真珠湾攻撃を持ち出さなくても意味は通ります。
 でもその主文をもっと引き立てるために、一般的に奇襲攻撃とされている、そして日米戦争の象徴的な出来事の一つである真珠湾攻撃を例に挙げ、「こんなに日米関係は悪かったんだ」と強調し、より「当時は予想できなかった」というコトを浮き彫りにしているのです。
 つまり、これは修飾文とでも言いましょうか、前半の一文はそんな位置づけの文章なのです。
 
 となれば、第2次世界大戦が真珠湾攻撃で始まっていたのかどうかという細かい定義論は、ほとんど意味を成しません。
 この一連の文章で前半の一文の必要性は、あくまで「日米が戦争をした事実」のところにありますので、第二次世界大戦の開始の詳細な定義などは、この一連の文章においては全く関係のない話でしかないのです。
 まして第二次世界大戦の一部として日米戦争があったワケですから、大きい意味でも事実としては間違っていません。
 日本にとっての第二次世界大戦、もしくは第二次世界大戦における日米開戦は、確かに1941年12月の真珠湾攻撃で始まったワケで、そしてその事件が象徴するぐらいの最悪の日米関係から約10年後には、安全保障条約が結ばれたのですから、10年という月日は、時に人の常識など簡単に覆してしまうモノだというコトが、麻生さんの主張の本来の意味なのです。
 別に麻生さんが歴史の授業をしているワケではありません。
 
 「第二次世界大戦における日米開戦は真珠攻撃で始まった」と言えば正確だったと言えるのでしょうけど、この程度のコトは、普通の会話の中なら良くある齟齬としか言いようがありません。
 この程度のコトなら、お互いに頭の中で補完・訂正しながら、文脈において本題を正しく読み取り、相手が何を言いたいのか読み取り、そして会話を成立させていくのです。
 こんなコトは普通の人なら普通にしているコトですよね。
 それなのにいちいち主題ではない一文を取り出して、さらに細かい定義の問題を持ち出して、それだけのコトで人格の全てを否定するかのような言い方は、あまりにも汚らしいとしか言いようがありません。
 記事では「社会科でもボロを出してしまった」とありますが、これは社会科の問題ではなく、むしろ受け手側の日本語能力の問題と言えるでしょう。
 この記事はただたんに麻生批判がしたかったのか、それとも文脈を読むというコトが出来ない人が書いたのか分かりませんが、言葉狩りしても何も得られるモノなど無いとは言っておきたいと思います。
 
 でも最近文脈を読むという行為が出来ない人が増えてきていると感じてしまいます。
 この記事に麻生批判で反応している人の多くがまさにそうですし、また当サイトに反応してくださる人やサイトやブログでも、たまに素っ頓狂なコトを言っている人も、多いとは言いませんがたまにいるんですよね。
 ただ単に的外れなだけならまだしもなんですが、数行前にその答えは書いてあるのに、結論の一文だけをもって、これはどういうコトだと、事実とは違うではないかと、言ってしまう人がいるんです。
 例えば中でもひどいなと覚えているモノに、人権擁護法案問題での櫻井よしこさんへの反論記事に対して、こんなコトを言われていたコトがありました。
 
 「この記事が書かれたのは少なくとも4月21日以降であるのは確定」とあるが、それ以前にブログで同様のコトを書いてあるぞ。
 
 たったこれだけでやえの論全てに反論している気になっていたような感じのコトを書いてましたが、もうなんだかため息しか出ません。
 いちいち細かくツッコむのもなんだかと思いますが、一応言っておきますと、本当に部分的にブログに載せていたとしても、しかしやえの反論した櫻井さんの『SAPIO』での記事は4月21日の自民党の部会の話を載せているのですから、その日以降に記事に手を入れているのは確定(櫻井さんがエスパーや未来人でなければですが)なワケで、「4月21日までに提出された修正案は当然櫻井さんは知っていますよね?」というコトが、この辺のやえの一連の文章では言いたかったワケです。
 4月21日に書いたどうかを調べる文章ではありません。
 まして、21日のコトを櫻井さんは本文の中で触れているのですから21日以降なのはエスパーや未来人でない限り100%確定なのは動かしようのない事実であって、そんなコトは直前の一文で書いているワケで、なんでこんなワケの分からない反論(?)になっちゃうのか、全然理解不能なんですよね。
 
 まぁこういうコトは、多いとは言いませんが、たまにあったりします。
 でもこんなコトしても、文章として、また相手が存在する会話や議論には成り立たなくなってしまうワケで、全く無意味なコトにしかなりません。
 これはネットが流行ったために起きた弊害なのかどうなのかは断言は出来ませんが、何でもそうですけど、目の前のモノだけに囚われるだけでは、本質など見えてこないでしょう。
 文章は文脈で呼んで欲しいと思います。
 
 結局麻生さんへの記事も、本人は麻生批判しているつもりなのかもしれませんが、自分の日本語能力が低いというコトを自ら発表しているコトにしかならないというところでしょう。
 

平成20年12月15日

 公の場に文章を載せる覚悟

 最近交流が盛んな(笑)宗匠さんに、この前の「文脈を読みましょう」の更新を取り上げていただきました
 ありがとーございまーす。
 正直言いましてこの前の更新、内容的にはとても伝えたいと思っていたモノなのですが、文章がちょっと満足いくモノではなく、キチンと更新として成り立っていたかどうか不安だったので、取り上げていただいてとてもうれしいです。
 また、更に分かりやすい捕捉を宗匠さんが書いておられますので、ちょっと引用させていただきます。

 文脈を把握していれば、文中(話の中)のどこが枝葉末節に過ぎず、どこが主題かは読み取れるはずであるな。話の中で、「この辺りは余談」「ここがこの人の主体的意見」「ここは補足的な引用」という具合で、言葉の「役割」が掴めるわけだ。もちろん、それだけの思考能力も聞き手・受け手になければならないが。
 逆に文脈を理解していなければ、話のどこが肝心要であるかも分からず、結局のところ、聞き手・受け手自身の興味や知りたいという意欲が向いているところだけに注目しがちだ。国会質疑で、肝心な質疑内容よりも漢字の読み間違いばっかり大きく報じられる、という現象も、どことなくこの「文脈知らず」に通じることのような気がしないでもない。

 やえが言いたかったコトを簡潔にまとめておられます。
 さすがです。
 うーん、まだまだやえも修行が足りません。
 
 しかし改めて感じましたコトは、やっぱり大なり小なり、文脈を読まずに文字だけに過剰反応して反論した気になられるという経験っていうのは、他の人も受けるんですねというコトです。
 この現象は最近のモノなのか、それとも昔からあったけどただ単に気付かなかっただけなのか、それは何とも断言できませんが、少なくともやえは最近これをよく感じるようになっています。
 また枝葉末節の揚げ足取りの行為だけに限らず、「この辺りは余談」「ここがこの人の主体的意見」「ここは補足的な引用」という言葉の「役割」を掴めていない文章や人もよく見かけたりします。
 補足的な引用に対して、引用にばかり反論する人とかですね。
 そしてこれが議論になってしまうと、ちょっとずつ主題から話がズレてしまい、いつのまにか内容の伴わないグダグダな言い争いにしかなりませんでしたという結果になってしまいます。
 前回の更新でも言いましたけど、こういう能力というのは、普通の人は普通に会話している中で普通に行っているコトですから、確かに文章になると細かいところまでチェックできるので気になる部分も目に付いてしまうのかもしれませんが、それはやはり文脈として全体を読む力でもって解釈すべきなんだと思います。
 
 やっぱりこういうのって、目的の結果のみしか目に入らなくなってしまい、自分が何を言ってしまっているのか分からない状態になってしまっているんでしょうか。
 主文はどこなのかというところをしっかりと読み取ってほしいと思います。
 
 
 ところで今回もうひとつ気になるコトがあります。
 これもネット上での文章に関わる問題ですが、この問題は確実にネットが出来てから生まれた問題と言える問題です。
 ネット上の自分の文章や意見を載せるというコトに対する責任と覚悟の問題です。
 
 けっこうネットでは、“思うコト”と“書くコト”を同一の行為だと思ってしまっているんじゃないかと思わざるを得ないような主張を見かけるコトがあります。
 自分が感じたコトを推敲もせずにそのまま書き殴るだけならまだしも、「思うコトは誰にも止められない」と言いながら筋も通ってない根拠もないコトを書き散らしたり、時には「ここは私の日記なんだから反論禁止」なんて書いてあるところも、数はおそらく多くないと信じたいのですが、何件か見たコトもあります。
 ネットの慣用句(?)で「チラシの裏に書け」というモノがありますが、これはまさに一部のネットに対する無責任さを批判する言葉ですね。
 
 当然ですが、言論の自由とは、無責任に何を言ってもいいという意味ではありません。
 ネットは公の場です。
 だれでも見るコトが出来る状態にある以上は、書いてある内容について最後まで責任を持たなければなりません。
 政治や思想に関する意見だけでなく、あらゆる言葉について、公の場に公開している以上は、どんな批判や反論もされるというのが、むしろ言論の自由の本質です。
 
 「内心の自由」とはまた性格が違います。
 
 もちろん、全くくだらない、それこそ責任を持っていないとしか思えない揚げ足取りや誹謗中傷までを甘んじて受けろとは言いませんし、受ける反論を全て正しいモノとして受け入れろという意味ではありません。
 そうではなくて、時に他サイトに取り上げられ、時に他サイトに反論批判されても、それを正面から受け止め、間違いだと思うなら訂正し、そうでないと思うならさらに反論する、反論する必要がないと判断すればそれはそれで一つの答えの出し方だと思います、こういう他人の言葉を、受け入れるのではなく受け止めるという覚悟を持つコトが、公の場に文章を載せる責任なのではないのでしょうか。
 簡単な例えで言ってしまうと、反論に対して、背を向けて逃げだす、または反論の存在自体を否定するというのではなく、反論に対してどう考えるのか真摯に受け止める覚悟を持つコトが責任だとやえは思います。
 
 「責任」と言うと、「間違ったコトを書いたら閉鎖する」とか、政治家や経営者に対するような「辞任して責任取れ」みたいな意味での責任という意味だと思ってしまう人が結構多いようですが、ここで言う「責任」とはそういう意味ではありません。
 責任とは、反論でも批判でも、それに正面から向かう覚悟を持つコトです。
 まず自分が公の場に文章を載せた時点で、誰からでも反論や批判を受ける覚悟は持たなければなりません。
 自分に都合のいい反論、もしくは自分が知っている人だけがしてくる反論は受けるけど、都合の悪いモノは誹謗なんだと言ってしまうのは無責任です。
 さっきも言いましたように、自分にくる反論や批判を受け止めたあと、それをどう対応するかは、その批判の内容や自分のサイト運営の仕方などによって変わってくるコトでしょう。
 ですから時に全く反応しないという対応でも、悪いとは言いません。
 そういう反応をどう感じるかというコトは、読者側の判断でしょう、それを含めて「反論に対する対応」であり、責任を背負うというコトでしょう。
 どんな批判でも、まずは存在を認めて、正面から受け止める覚悟が公の場に文章を公開するためには必要なのです。
 
 もしそれがイヤなら、そんな責任を負いたくないと思うのであれば、公の場に文章を載せないコトです。
 言論の自由は、無責任の自由までを許す自由ではありません。
 責任がイヤなら、「チラシの裏」ではないですが、自分の日記帳にでも書いて、誰の目にも触れないところに保管しておけばいいのです。
 それなら誰にも批判されるコトはないでしょう。
 多くの人に自分の文章を読んでもらいたいという欲求が湧き出るコトはやえもよく理解できますが、それはイコールで反論される覚悟を背負う責任を伴うコトでもあります。
 多くの人に見てもらいたいけど、責任は負いたくない、というのはただのワガママです。
 もしそんなモノを無理矢理公の場に引きずり出されて批判されたというのなら、さすがに責任とは次元の違うメチャクチャな行為だと思いますが、しかしほとんどは自分からネットという公の場で意見を公開しているのですから、責任は必ず負わなければならないのです。
 
 やえもけっこう長い年月サイトをやっていますので、時にメチャクチャな批判を受けるコトもあります。
 それは前回の更新でも触れたようなコトもありますし、あれよりももっとひどいコトを言われたコトも何度もあります。
 まぁ時に完全に誹謗としか言いようのない、例えば人権法の時に「あのサイトの管理人は日本人ではないんだろう」なんてコトも書かれたコトありますが、それはもはや主張ですらないので、本来なら許してはならないコトですけど、そうでない、曲がりなりにも意見である場合は、主張するコト自体をやめろなどと言うつもりはありません。
 
 やえの文章に対して文脈を読めないような批判のようなモノを見つけても、やえの気持ちとしては、ため息が出てしまう場合もありますし、また上手く伝えられなかったやえの技術的な未熟さを憂う気持ちになる場合もありますし、他のいろいろな感情を持つコトもあります。 
 そしてそういう反論や批判を見つけたとき、それにどう対処するかというのは、かなりケースバイケースです。
 真っ正面から反論するコトもありましたし、スルーするコトも少なくありません。
 スルーすると決めたモノでも、前回の更新のように、一つの例として挙げて、結果的に反論した形になるモノもあります。
 スルーするモノも、いちいちやえが反論しなくても心ある読者なら理解してくれるだろう、と思っているからこそのスルーです。
 人権擁護法案の時なんかは2ちゃんねるでメチャクチャに書かれていたコトもありましたが、それもやえは正面から受け止めて、そしてスルーするという手段を選択したワケです。
 「こんな程度のモノにいちいち反論しなくても、心ある人なら分かってくれるだろう」と、やえが思ったからです。
 しかしどんな批判であったとしても、それをまず正面から受け止めて、そしてどう対応するのがベストなのか、やえはシッカリと考えて決めているのです。
 
 やえは、文脈を読んで欲しい、中身を読んで欲しいとは思いますし、時にはそのように言いますが、やえに対して反論するな批判するなとは決して言いません。
 いつもやえは批判されるコトを覚悟でサイトに文章を載せています。
 その上でもしやえがその批判に対して反論するコトでより当サイトの価値が高まると思えば反論しますし、批判がメチャクチャ過ぎて、反論してもやえにも読者の方にも全く利にならないと判断すれば、スルーします。
 そして、それらの反応をどう評価するかは、読者の方にお任せします。
 決して批判そのものの存在を否定するようなコトは言いません。
 その批判の中身に価値があるかどうかはやえが判断し、その判断方法をさらに読者の方に判断してもらいますが、やえの文章を批判するコト自体は間違った行為であるとは言えないでしょう。
 そしてその批判が正しいと思えばやえはキチンと訂正しますし、謝罪すべき点があると思えば謝罪します。
 やえは、それが公の場に文章を載せる覚悟と責任だと思っています。
 
 ネットは無責任でいいとか、社会的責任がある人だけに責任がある一般人には無いとか、たまにそのような意見があったりしますが、やえはその意見には同意できません。
 それはむしろネットの良い部分を殺してしまっている意見です。
 ネットというのは、リアル世界からある意味切り離された世界、誰しもがリアル社会の立場やしがらみから離れて、お互い平等の立場で意見が言える世界です。
 リアル世界での議論というのは、例えば上司と部下という立場で議論をすれば、時に理屈よりも立場によって結果が決まってしまうコトがよくあったりします。
 でもネットでは、そんな立場を越えて平等に意見を言うコトが出来るのです。
 政治家でも弁護士でも大学教授でも官僚でも一般人でもニートでも十四歳でも、平等に議論が出来ます。
 それがネットのよいところなのです。
 そしてネットは平等だからこそ、全ての人間は等しく責任を負わなければならないのです。
 平等に責任があるからこそ、平等に議論ができるのです。
 
 本来の意味で言えば、ネットに限らず、公の場で文章を載せるなら、誰しも等しく責任を負うのが当然です。
 ネットというモノが登場するまでは、一般人が公の場で文章を載せる機会が無かったので、社会的地位がそれなりにある人だけが結果的に責任を負っていたというだけなのです。
 どんな場であっても、それが公の場であるなら、必ずその公道には責任を伴います。
 一昔前、ネットでテキストサイトというジャンルが流行った時からネットで文章を上げるコトの責任という問題はよく議論された話題ですが、さらにブログというモノが流行ってますます文章をネットに上げる敷居が低くなり、それに比例するように責任というモノを感じるコトが少なくなってきてしまっているのではないかと、やえは感じています。
 でもどんなブログでも、誰もが平等になり得るネットという世界に文章を載せれば、等しく責任を伴うのです。
 内容も年齢もネット歴も関係ありません。
 
 この前、国籍法に関してシスプリサイトさんへ反論した時に、あの時は「思想サイトではないので取り上げるコトに躊躇するというような前置きを書きましたが、原則論で言えば、どんなサイトやブログでも、文章を上げるコトによる責任はみな等しく平等です。
 思想サイトじゃないサイトの方が責任は軽くていいとはなりません。
 感情的に、普段政治的なコトを書いてない人なら間違えても仕方ないなと思うというのはある意味自然ですが、だからといって無責任が許されるというワケではないでしょう。
 間違いがあれば、それを指摘されるのも当然だと思います。
 また、人権法や国籍法の場合は、むしろ普段は思想や政治のコトは一切触れないようなサイトがこぞってデマをまき散らしているというところが、一番の問題であったりします。
 ですから時に必要とやえが思えば、思想サイトじゃなくても、内容がどんなに低レベルでも、信念を持って取り上げます。
 (シスプリサイトさんが低レベルと言っているワケではありません。あのサイトはむしろやえもよくハッとさせられる内容や切り口で語っておられるので、だからこそ残念だという思いがあったりします)
 普段政治的なコトを書かないサイトがデタラメを言ってしまう状況は、ネットの「場」全体そのものを誤解されてしまうコトになりかねません。
 やえはネットという場がもっともっと良質になってほしいと願っていますので、そのためにはどんなサイトに対しても、信念を持って言うべきところは言うべきだと思っています。
 
 ネットは公の場です。
 そこに文章を載せる以上は責任を伴います。
 責任を背負いたくないなら、文章を公の場に載せないコトです。
 誰しもが目に触れるコトができ、誰しもが反応できるという公の場で意見を言う以上、全てを受け止める覚悟と責任を背負わなければなりません。
 その覚悟と責任を持った人が公の場で発言が出来るのです。
 
 やえももちろんいつもその覚悟を持って当サイトにあたっています。
 文脈が読めない枝葉末節の揚げ足取りはちゃんと中身を読んでくださいと言うしかありませんし、誹謗・中傷の類はやめてくださいとしか言いようがありませんが、内容に対する真っ向な意見や反論や批判なら、いつでもお待ちしています。
 サイトでもブログでもなんでもいいですから、どうぞ中身あるご意見お待ちしています。
 
 文脈にしても責任にしても、ネットでの言論のあり方は、ネットを利用する全ての人の問題です。
 一人一人が自覚してネットをもっともっと素晴らしい「場」にしたいですね。