☆やえニュース☆

 オリンピックをうまく使えばいいのにスポーツ省について考える現行法を破ったコトに対しまず責任をとるべき皇統問題 −皇統とは−皇統問題 −皇統の歴史的事実−日米核密約問題は国民のレベルの指針皇統問題 −なぜ神武天皇家が必要なのか−事業仕分けと朝鮮学校無償化皇統問題 −継体天皇問題−

平成22年3月1

 オリンピックをうまく使えばいいのに

 今日は、先日閉幕しました冬季オリンピックについて少し思いを述べてみたいと思います。
 
 なんと言っても今ホットな話題は、女子フィギュアスケートの件でしょう。
 残念ながら浅田真央ちゃんは銀メダルに終わってしまいました。
 もちろん銀メダルだってとってもすごいコトだと思いますが、でも金の期待が高かっただけにやはり残念だと思ってしまうのは仕方ないのかもしれません。
 でもまだまだ真央ちゃんは若いのですから、これからもさらなる上を目指して頑張って貰いたいと思います。
 
 しかし真央ちゃんのライバルと散々煽られたのか煽ったのかはともかく、キム・ヨナ選手が韓国人だというところで、複雑な思いを持っている人も少なくないようです。
 特にそもそもオリンピックという大会自体が国単位での選手派遣ですから、国対国という側面が否定できないワケで、そんな中で散々マスコミなどに煽られれば「韓国に負けたくやしー」と思う感情が湧き出ても仕方ないと言えるでしょう。
 最近スポーツと言えば何かと韓国と比較するのがブームになっていますしね。
 
 しかしもし女子フィギュアを国対国で考えるのであれば、そもそも女子フィギュアにおいて東洋人で初めて金メダルを取ったのは荒川静香さんであり、日本人であるのですから、この偉大な先駆者を輩出した日本の力というのは韓国より大きいと言うのが、どちらかと言えば正しいのではないかとやえは思います。
 荒川さんがいたからこそ、今回キム・ヨナ選手が金メダルを取れたといっても、おそらく言い過ぎではないでしょう。
 
 ただまぁ、このように国対国という考え方に固執するのは、あまりスポーツを見る上でおもしろくないと、やえは思います。
 特にサッカーのような直接対戦するゲームではフィギュアはありませんから、今回はたまたまキム・ヨナ選手が真央ちゃんより上回っただけであって、それをもって韓国が上だとか日本が上だとか言うのは、さすがに煽りすぎなんじゃないかと思います。
 そもそも国力がスポーツで決まるワケじゃないですからね。
 韓国が日本を強く意識するのは勝手ですが、日本がそれに付き合う必要は全くありません。
 様々な面において日本の方が優れている点はいっぱいあるのですから、下と比べるのではなく、様々な面でより日本の優れている面を伸ばすように努力する方が日本のためになるでしょう。
 
 それはともかく。
 近年の夏も冬もオリンピックで日本がメダルを取れなくなってきている現状があります。
 この要因を簡単に説明するコトは出来ませんが、やはりその中でも政府のスポーツに対する支援が少なくなっているというコトは、否定できない要因の一つでしょう。
 自民党政権化ではスポーツ強化の議論が進んでいた中、「リュージュなんてマイナーなスポーツを支援する意味はあるのか」という民主党が仕掛けた客寄せパンダ的な事業仕分けで、明らかにスポーツをバカにした発言が出たコトが象徴しているように、このような考え方と政策が、日本スポーツ界の弱体化に繋がっている要因の大きなひとつになっていると言えるのではないでしょうか。
 そして同時に、スポーツなんか強くしても腹の足しにはならない、という目先の上でしか考えられない人が増えてきているというのもあると思います。
 特に民主党とその支持者というのは、子供手当や高校の無料化など将来の投資ではなく目先のお金を追い求める傾向が強く、しかもお金を給付するという直接的なモノを求める傾向があると言えます。
 釣り竿を得て自分で魚を継続して釣れるようになるコトよりも、今日今すぐ100円が欲しいというのが、最近の日本人の選択だったワケです。
 こういう中においては、日本のメダル獲得率が悪くなっているのも、ある意味当然の結果と言えるのかもしれません。
 
 でもやえは、スポーツにはもっと大きな力があるのではないかと思うのです。
 今回のオリンピック、もちろんそれなりには盛り上がりましたが、しかし日本人選手がもっと強ければ、もっともっと盛り上がったのではないでしょうか。
 オリンピックに興味が向くかどうかというのは、野球やサッカーなどの人気競技以外では、どうしてもオリンピックが始まる前の前評判というのは大きな要素になります。
 あのフィギュアでも、メダル候補が目白押しの男子女子は冬季オリンピックで最も注目されたワケですが、しかし日本にはアイスダンスの代表もいたのですけどほとんど注目されませんでした。
 そんな代表もいたの? と思う人もいるのではないでしょうか。
 やはりオリンピックが盛り上がるかどうかは、強い選手がどれだけいるかにかかっていると言えるワケです。
 そしてそんな選手がもっといっぱいいれば、見る側の興味ももっと上がり、日本全体としての盛り上がりももっともっと大きいモノになっていたのではないのでしょうか。
 
 目先のコトしか考えられない人は、オリンピックで盛り上がっても意味がないと思うのかもしれません。
 しかしそんな考え方ばかりでは、下に落ちないようにというコトしか考えられなくなり、上を目指す気力を奪うコトになってしまいます。
 例えば単に経済という問題だけでも、もっとオリンピックが盛り上がっていればテレビなどの家電商品がもっと売れていた可能性がありますし、カナダに実際に応援に行く人や、応援グッツを買う人など、直接的な効果だけでも大きくなっていたコトでしょう。
 これらは最も直接的ですぐ目に見える経済効果ですが、この他にも、その競技が注目されればその競技を始めようと思う人が増え、その場合道具などを買うコトになりますから、そういう経済効果も期待できるワケですし、競技を始めようと思うぐらいでもなくても、例えば国内大会を見に行こうと思って足を運ぶだけでも経済効果はあると言えるワケです。
 日本はいま不景気だと言われ、貧困という言葉が流行っていますが、しかしそれでも世界的に見れば高級品である薄型テレビとかブルーレイ・DVDレコーダーをすぐ買えるぐらいの経済力を持っているワケで、ようはそれを買おうと思うキッカケを作れるかどうかだと言えるでしょう。
 
 また、活気という面で言えば、これは目に見える数字だけでは計算できない、大きな効果もあるハズです。
 みんなでワーッと盛り上がれば、今日はみんなで乾杯しようかとか、食事に行こうかとか、気持ちが明るければこその効果はいっぱいあると思います。
 そもそもバブル期なんていうのは、気分の問題という面が大いにあったワケで、みんながなんとなく盛り上がってお金を使いたいと思えば、それだけで景気も良くなるのです。
 というか、景気がよいという状態は、みんながお金を使ってお金の循環がよい状態を指し示すワケですから、気分の問題と景気の問題は切っても切れない関係と言えるでしょう。
 
 そんな中で、4年に一度の祭典というビックイベントを使わない手はないハズなのです。
 東京オリンピック招致の件でもそうなのですが、日本人はいまちょっと冷めすぎています。
 しかしこれを大イベントとしてみんなが盛り上がれば、いまより経済の面でも精神的な面でも良い影響を得るコトが出来るのではないでしょうか。
 今の日本人は全体として余裕が無さ過ぎです。
 日本以外でのオリンピック開催予定地や候補地を見れば、決して日本より裕福で余裕があるところばかりではなく、むしろ経済の面で言えば日本より下の国の方が多いワケで、サッカーのW杯もそうですし、そんな中で「国に余裕がないから」と言ってしまうのはちょっと違う気がしてなりません。
 余裕がないのは国ではなく、国民の方でしょう。
 せっかく4年に一度の世界最大のイベントなのですから、恥ずかしがらずにみんなで盛り上がった方が、絶対に得の方が大きいとやえは思います。
 
 日本人選手がオリンピックで活躍すれば、みんな笑顔になって元気が出て、盛り上がって、経済にもプラスが出る。
 やえは、子ども手当が何円入りそれで足りるのかどうかぎゃーぎゃー言うみみっちい議論をするよりも、よっぽどか素晴らしい話なのではないかと思います。
 
 おそらくオリンピックが閉幕して、これから数日は、なぜ日本が金メダルを取れなかったのか、なぜ年々メダル獲得率が落ちているのか議論になると思いますが、これを契機に、もっとスポーツに対して多くの人が関心を持って貰いたいと思います。
 そして政治は、もっとスポーツ振興に予算をはじめとする支援をすべきだと思います。
 スポーツが盛り上がるというコトは、決してそれに関わる人たちだけにメリットがあるというワケではありません。
 少ない予算をどうやりくりするのかという問題はありますが、しかしやえは決して効果が小さい投資ではないと思うのです。
 そこのところをよくよく考えて、政治にも国民にももっと関心を持って貰いたいと思います。
 

平成22年3月2

 スポーツ省について考える

 昨日の続きというワケでもないんですが、今日はスポーツ省というモノについて考えてみたいと思います。
 というのも、昨日の更新を受けて一行ボードでこんな書き込みをいただきました。

 前に麻生がスポーツ省(庁)の新設を訴えて、ボロクソに叩かれてたのを思い出した。→リンク

 なかなか当時の空気というのは覚えづらいモノで、確かに当時あまり好意的には受け止められなかったような記憶がありましたけど、ここまでひどかったとは正直びっくりしました。
 もちろんこの記事だけで世論の全てがそうだったとは言えないのでしょうが、でも確かに麻生さんの時の世論のひどさを鑑みれば、これぐらいのバッシングはあったかもしれません。
 そしてここのまとめスレを見る限り、あまり建設的な意見というモノも見られないのが残念です。
 
 ので、ちょっとスポーツ省というモノを真面目に考えてみます。
 
 そもそもいまの中央省庁でスポーツというと、どこが担当省なのか皆さんご存じでしょうか?
 実は、というほどでもないですけど、文部科学省です。
 さらに言いますと、文部省と科学技術庁が合併する前までは文部省の所管でした。
 つまり日本においては伝統的にスポーツとは、教育の一環として捉えられていた面が強いと言えるでしょう。
 
 そんな日本の省庁の在り方において、スポーツ省もしくはスポーツ庁でもいいんですが、これを新設する意味というのは、ここに1つあると言えるでしょう。
 スポーツという分野が、いまの日本の省庁ではキチンと位置づけられていない、過去においては確かに教育の一環でしかなかったスポーツが、いまでは世界大会も盛んで、見方を変えれば大きな産業・ビジネスの1つでもあるワケですから、この観点からだけを見ても文部科学省が所管するのはある意味得策ではない、専門外の部分が大きいとも言えるワケです。
 文部科学省の役人さんは、普段「どうすれば儲けられるか」なんてコトは考えていないでしょうからね。
 スポーツを単に体を動かすゲームだけではなく、あらゆる面から総合的に考えるための方策として、スポーツ省というのは検討するに値する案ではないかと思います。
 
 スポーツを発展させるコトはどういうコトなのか。
 ここを考えなければなりません。
 単に日本のスポーツが強くなり、オリンピックで金メダルを量産して、野球ではWBCで連戦連勝、サッカーW杯も決勝戦の常連になったとしても、それで良かったねだけではあまり意味がありません。
 まぁ、国民の盛り上がりを考えれば全く意味が無いとは言いませんが、しかしどうせならこれをもっと活用したいところでしょう。
 
 スポーツはとても裾野の広い分野と言えます。
 先ほども言いましたように、スポーツは今ではもはや一大産業です。
 オリンピックやサッカーW杯では何百億円というお金が動くように、スポーツほど世界規模で同時にお金が動く産業も無いと言っても過言ではないでしょう。
 スポーツは産業の面で捉えられる部分も少なくありません。
 
 また、やはり教育の面もあるというのは言うまでもありませんね。
 学校などにおいてスポーツは、子供の成長にとってなくてはならない教育の1つです。
 スポーツを通じて人間としての健康の問題とも切っても切れない問題でしょう。
 適度な運動こそが肉体的にも、そして精神的にも、健全で健康な人間を作るというコトは誰にも否定できないと思います。
 最近は生涯スポーツなんて言う言葉もありますように、年齢を問わず生涯にわたって運動をしようと思っている人は少なくありません。
 リハビリの現場や介護の現場でもスポーツは重要な要素の1つです。
 さらに、大部分のスポーツは道具を必要としますから、それらに携わる産業もありますし、同じようにスポーツによっては特殊な施設を必要とするモノもありますから、建設や建築の面も無縁ではない分野です。
 やえは昔から大好きなんですが、決勝まで残れなかったカーリングにしてみても、日本国内では数カ所しか専用のリンクがないというのは、ちょっと前までよくテレビなんかで伝えられていたところです。
 
 時にスポーツは外交の役割を負うコトもあります。
 それは相撲やプロレスのように直接スポーツ自体が外国におもむく場合もありますし、スポーツを通じて人的交流や資金・技術交流が生まれる場合もあります。
 話のキッカケになるというのも大きなメリットでしょう。
 小泉・ブッシュの野球ですとか、フランスのシラク元大統領は大の相撲ファン(もともと日本通な人ではありますが)だったというのは、やは日本にとってはメリットになったハズです。
 時にスポーツがきっかけで戦争になるコトもありましたけどね。
 このように、パッと思いつくだけでも、複数の省庁にまたがるようなとても幅広い分野に、スポーツは関わっているというのが分かるコトでしょう。
 
 こういうスポーツの全ての面を見据えて、日本にとってプラスになる戦略を考えて戦術を実行する役割を負った省庁というモノは、決して頭ごなしに否定できるほど軽い存在ではないのではないでしょうか。
 うまくいけば大変にメリットが大きな省庁と成り得ると思います。
 
 もちろんこういうのは最もうまくいったときの理想論ですから、これを現実化させるのはいくつもの問題があるのはその通りです。
 さっきのスレでは天下りの問題や官僚組織の肥大化の問題が指摘されていましたが、やはりひとつの組織を作り上げれば、組織を運営するための部署が必ず必要になりますから、これだけでも新たな人員は必要になるんだろうと思いますので、そこも含めて考える必要はあるでしょう。
 決していま日本がスポーツに対して力を入れているとは言えない状況にありますから、これからもっともっと力を入れるんだというコトになれば、予算の人員も今以上に必要になると言うのは言うまでもないコトです。
 また、人間の悲しいサガとして、ある程度の人間が集まれば一定確立でエラーが出る、つまり犯罪などを起こしてしまう人間が必ずと言っていいほど出てきてしまいますから、汚職や無駄などが出てきてしまう可能性は否定できません。
 それを0にするコトは、もはや人間には不可能でしょう。
 いくら政権交代を繰り返しても、現状を言うまでもなく不可能なのです。
 マイナス面も、やっぱり考えればいくらでも出てくるコトは出てきます。
 
 しかし大切なのは、その上で人間が努力してそれらを小さくして行きつつ、本来の目的をどれだけ達成できるかというコトです。
 無駄があるからというだけで全てを否定し、結果的に大きなメリットを捨ててしまうのは、あまりにもそれこそ無駄な話なのではないでしょうか。
 無駄撲滅こそが全てに優先させられる事項であるなら、官僚組織だけでなく民間も含めたあらゆる人間組織が全てダメな存在になってしまいます。
 無駄の撲滅は必要な作業です。
 しかし、何が無駄なのかという議論をしつつそれを実行していくのと同時に、というか無駄撲滅とは別で、新しく組織を作れば何が達成させられるのか、どんなメリットがあるのかというところは、シッカリと冷静に議論しなければならないでしょう。
 そしてそれが大きなメリットと結論づけられれば、無駄を産まないよう配慮しつつ、そして同時に新たな組織を作るべきなのではないでしょうか。
 
 予算の使い方ひとつとっても、いま複数の省庁にまたがっている予算が1つに集中するだけでも、これは大きな効果が期待できるかと思います。
 また今は「文部科学の1つとして」とか「国土交通行政の一環として」とかという付随的にしか考えられていないスポーツ行政が、一元化されるコトによって、本当にスポーツのためにという意識に変えるコトが出来るというのも大きいでしょう。
 このように、スポーツ省というのは頭ごなしに否定できるモノではなく、メリットも大きいというコトはキチンと把握する必要があるのではないでしょうか。
 そして議論するなら、キチンとメリットも考慮して議論すべきだと思います。
 

平成22年3月4

 現行法を破ったコトに対しまず責任をとるべき

 今日はこちらの記事です。

 民主・小林氏、北教組幹部ら逮捕で陳謝=小沢氏「進退は本人が決めるもの」
 
 民主党の小林千代美衆院議員は2日午後、自身の選挙陣営をめぐる政治資金規正法違反事件で、北海道教職員組合幹部らが逮捕されたことについて「大変遺憾だ。選挙で応援してくれた多くの皆様方に申し訳ない」と陳謝した。
 野党から議員辞職を求める声が出ていることに関しては「逮捕状の内容をしっかり確認するのが先だ。今後の進展を見守っていきたい」と述べるにとどめた。国会内で記者団の質問に答えた。
 一方、民主党の小沢一郎幹事長は記者団に対し、小林議員の進退問題について「本人自らが決めるべきものと思っている」と語った。 

 次から次へと出てくる民主党のカネの問題ですが、そもそも労組や日教組などの組合が組織だって選挙運動しているというのは、公明党の支持母体が創価学会だというのと同じぐらい、誰もが知る公然の秘密状態だったと言えるでしょう。
 しかも民主党の労組の問題は、公明党創価学会の政教分離に関する問題はまだまだ議論の余地がありますが、しかし公務員や教員が選挙活動をしてはならないというのは明確に法律で規定されている規則であって、誰がどう考えても法令違反であるのは明白な問題です。
 よく「自民党はその組織力を生かし」とか「組織の厚い自民党」とか言われますが、これは全くのウソで、命令系統がハッキリしている一枚看板の組織のもとに選挙活動をしているのはむしろ労組系が選挙運動の中心となっている民主党なのです。
 お金の面を見ても、今回の北海道教職員組合と小林千代民主党衆議院議員の例でも明らかなように、小沢民主党幹事長や鳩山総理のような一部例外を除けば、多くの民主党議員は労組に丸抱えされているのです。
 (もちろん公明党は群を抜いていますが)
 社会党とその跡を継いだ民主党が長年こうした違法運動によって議席を獲得してきたワケで、しかしそれは本来そもそも公然の秘密状態では許してはならない大問題であるハズの問題なのです。
 
 それなのになぜいままでキチンと指摘されてこなかったのでしょうか。
 
 いろいろな要素があるとは思います。
 例えば社会党時代というのはまだまだイデオロギー対決の時代でしたから、社会主義や共産主義を標榜する日教組や労組などの選挙運動を禁止するのは、そのままイデオロギー対決になってしまうので半ばタブーという空気がありました。
 それは今回の北海道教祖の「逮捕は不当な組織弾圧」というコメントからも見て取れるでしょう。
 今でこそこれはただの陰謀論であり言い訳にもならない戯れ言だと多くの人に認識されますが、昔はイデオロギーこそが最上級の価値と認められ、それを許容するコトが社会として必要だと多くの人が考えていましたので、これに正面から立ち向かうのは難しかったのです。
 例えば、頭ではおかしいと思っていても正面切って小沢批判が出来ない民主党の中の空気と思っていただければ近いかと思われます。
 また、社会党は最大野党ではありましたが、自民党が余裕で単独過半数をとっていたぐらいの時代でしたから、そこまで目くじらを立てなくても、国家的な混乱は起きる可能性はほぼなかったからというのも、理由の一つとしてあるでしょう。
 
 しかし時代はもう変わりました。
 イデオロギー対決はもはや終わりを告げ(日教組はまだ終わってるとは思ってないようですが)、しかも民主党が単独で過半数を得るような時代になりました。
 もはやこの違法状態を許していい状況ではありません。
 
 でもまだひとつ、この公然の秘密を黙認できてしまう要素が1つあります。
 それは、確かに教員の政治活動は禁止されているけど罰則事項がない、という事実です。
 つまり法令では明確に禁止されているのに、それに反してもなんらおとがめが無く、「やり得」の状況が今あると言えるワケです。
 子供に人の道を教える教員が、罰則がないから法令を違反してもいいと思っているコト自体がとんでもないコトではありますが、これが今の悲しい現状なのです。
 
 そこで言い出したのが、法律を改正して罰則を設けようという案です。
 この前鳩山総理が衆議院予算委員会で検討すると答弁しました
 これはある意味当然で、いままで放置されていた方がおかしいと言える問題です。
 
 しかし今考えなければならない問題は、この問題とはまた別次元で、現行法に反した小林議員の問題をどう考えるのかという問題です。
 果たして罰則規定を盛り込む法改正をしましたとなっても、しかしそれはそれとして、小林議員の罪が消えるワケではありません。
 
 民主党はよくこの手の「論点のすり替え」をよくやります。
 小沢民主党幹事長の西松事件の時もそうで、秘書が起訴されるぐらいの違法行為をやっておきながら、しかし小沢本人の責任を問われると「企業献金の禁止をすべきだ」と返答してはぐらかすのです。
 これは本来全く別の問題です。
 企業献金の禁止はそれはそれで議論すべきですが、それがあるからと言って、小沢の秘書が起訴された事実とその責任の問題は何ら影響を与えるモノではありません。
 企業献金を禁止してもしなくても、小沢本人の責任はどう考えても無いとは言えません。
 逆に言えば、小沢の秘書の起訴があってもなくても、企業献金禁止の議論は何ら阻害されるモノではなく、普通に行えるワケです。
 企業献金禁止の話はまるで小沢責任の話とは関係がないのです。
 
 特にこの小林議員は、選挙運動の幹部が買収で起訴され、上告中ですが有罪判決が出ており、これが確定すると連座制で小林氏本人の議員の資格が剥奪されるという、疑惑のデパートみたいな人です。
 この人の責任を問う場合に、その答弁として「公職選挙法の改正」は全くもって筋違いであり、論点のすり替えでしかありません。
 そして鳩山総理も小沢幹事長も、全てこの論点のすり替えで逃げ回っているだけです。
 
 法令の穴があればそれを埋める作業をする。
 同時に自らの高位に問題があればそれを反省して相応の責任をとる。
 そうしてこそ本来の政治家のあり方なのではないでしょうか。
 
 労組と日教組の民主党議員との癒着問題は、これはまだまだ氷山の一角かと思われます。
 

平成22年3月5

 皇統問題 −皇統とは−

 まずはじめに。
 これからシリーズで「皇統問題」をまとめていこうと思いますが、これから書いていくコトの中には、過去にまとめたページの内容と同じ内容の部分が多々あるかと思いますので、ご了承下さい。
 もう一度、できるだけ読みやすくなるよう、まとめてみようと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 天皇の問題、そして皇統の問題は、まず「何を守るべきか」「なにをもって皇統と呼ぶべきか」という点を議論し整理しなければならないでしょう。
 
■神武天皇家
 
 やえは代々続く天皇家のコトを特に「神武天皇家」と呼んでいます。
 あまりこの呼び方は一般的ではないようですが、この呼び方がとても分かりやすいのでそうさせていただいています。
 時々のこの手の議論の時に天照大神の系列とか、そこからはじめる人がいますが、ここを用いると混乱のもとにしかなりません。
 確かに天皇は天照大神の子孫であるとされており、これを否定するつもりはありませんが、しかしこれは天皇にまつわる神話や説話のひとつであって、天皇が天皇たる条件ではありませんから、ここにこだわる必要性はあまりありません。
 例えばここに固執すると、天照大神は女神であるのだから女性天皇でもいいじゃないかと、というメチャクチャな論理がまかり通ってしまいかねません。
 しかしあまくで初代天皇は神武天皇であって、天照大神は天皇ではないのですから、天皇と皇統の問題を考える際には初代天皇から数えて125代までの「天皇」を考えるべきなのです。
 ですから「神武天皇家」と呼ぶのが、この議論をする際には最も相応しいと考えています。
 
 では、神武天皇家の系譜、つまり皇統とは、いったいどのようなつながりを持っていると考えられるのでしょうか。
 
■ルールの優先順位
 
 ここで大切なのは、決して「一般感覚」をこの問題において持ち出さないコトです。
 一般人ではこうなのだからこう考えるべきだ、と考えるのがこの場合において最もよくない考え方です。
 理由は2つあります。
 
 1つは、神武天皇家は125代の数千年にわたり続いてきた家であり、歴史学的に言っても千年以上も前から存在する長い歴史を持つ家なのですから、時代時代によって常識は変わるモノであって、今の常識が必ず正しいとは言えないからです。
 今の常識が正しいと言い張ったとしても、それはまた未来において間違っていると断じられるだけでしょう。
 時代を超えて存在するコトこそが尊い存在である天皇のハズなのに、今の常識だけで縛るというのは、天皇の存在からして矛盾している考え方でしかありません。
 
 もう1つは、この皇統の言わば「ルール」は、あくまで神武天皇家だけのルールであって、他人が考えるルールはまるで意味がない、当てはめてはならないコトだというコトです。
 伝統芸能や武術・芸術などの分野で一子相伝という言葉がありますが、これはいくら優れた技術を持っている人がいても、それが自分の子ではない他人であるなら絶対に伝えないという決まりです。
 科学的というか合理主義で考えれば、その技術をより高いレベルで後世に残すのであれば子供であろうが他人であろうが一番技術が高い人に伝えるのが一番いいに決まっています。
 しかし、その家のルールはそうではないのです。
 一子相伝と決まっている以上は、科学的だろうが合理的だろうが、それを超えて、決められたルールを守るコトこそが重要なのです。
 皇統も同じです。
 いくら他人が「この方が優れている」と提案するルールであっても、それはまったく意味のないルールでしかありません。
 大切なのは「神武天皇家に存在するルール」であって、これを守るコトこそが神武天皇家を継承するという事実となるのです。
 この優先順位を間違えてはいけません。
 
 この問題で考えるべきは、「神武天皇家のルールとはいったいどのようなモノか」という部分だけなのです。
 
■皇統のルールとは
 
 皇統のルールを知るためには、まず皇統譜を見る必要があるでしょう。
 こちらをご覧下さい
 と言っても、パッと見ても、複雑すぎて何が何だか分からないという感じでしょう。
 また、ちょっと複雑すぎな上に長く続いているけど、普通の家系図には変わらないと思うかもしれません。
 しかし皇統譜には1つだけ、他の家とは違う大きな特徴があります。
 
 それが男系です。
 
 男系とは、自分から数えてそのお父さんのお父さんのお父さんの…とお父さん続きで数えていく系譜で、神武天皇家の場合は、最後はというか最初はというべきでしょうか、神武天皇にさかのぼるコトを指し示します。
 ですから、仮に天皇が女性でもこれは可能です。
 自身が女性でも、そのお父さんのお父さんの…が神武天皇であるなら、それは男系の天皇、いわゆる男系女性天皇となります。
 事実、過去においては男系の女性天皇というのは存在していました。
 そして125代全ての天皇は、全てお父さんをさかのぼると神武天皇につながる男系の天皇なのです。
 
 これが神武天皇家の唯一のルールです。
 実は、と言うほどではありませんが、天皇に即位するためには「親が天皇」である必要はありません。
 例えばもし悠仁親王がご即位される時が来た場合でも、必ずしも秋篠宮殿下が天皇であられる必要はありません。
 今の皇室典範では、もし皇太子殿下が天皇に即位されていた時の順列で言えば悠仁親王よりも秋篠宮殿下が上になるので、実際は悠仁親王が即位される時は秋篠宮殿下が天皇であられるのでしょうけど、しかしこれは悠仁親王が即位するための絶対条件ではありません。
 一般的な家、武家や庶民の家では、家を継ぐというコトになれば子供が継ぐというのが一般的で、もし実子がいない場合は養子をとる場合もあると思いますが、こと神武天皇家に限っては「子である」というルールは存在しないのです。
 実際そのような形で即位をされた天皇は少なくありません。
 例えば118代後桃園天皇と、119代光格天皇の間は、後桃園天皇の内親王(つまり娘)と光格天皇がご成婚されている間柄、つまり娘婿でありますが、実子ではありません。
 他にも101代称光天皇と、102代後花園天皇の間柄は、こちらの皇統譜を見ていただければ一目瞭然、一般的な言葉では言い表せない「ただの親戚」という間柄ですが、それでも天皇は継承されているのです。
 もちろん102代後花園天皇は、父様をさかのぼれば神武天皇に連なる男系の方です。
 
 この事実を、変えようのないこの事実を正面から見据えるのであれば、皇統のルールとは男系にあると、逆に言えば男系しかないと、この男系というルールこそを長年不断の努力で守ってきたと言えるのです。
 先人達が、時に強引な間柄であったとしても、この男系というルールを守ってきたという変えようのない事実を忘れてはいけません。
 
 
 (つづく)
 

平成22年3月8

 皇統問題 −皇統の歴史的事実−

 ごめんなさい。
 指摘がありましたように、いまの皇室典範による皇位継承順位についてを間違えていました。
 確かに皇太子殿下が即位されても、順位は悠仁親王より秋篠宮殿下の方が上です。
 ここにつきましては、お詫びして訂正いたします。
 ただ内容につきましては影響がありませんので、ご了解いただきたく思います。
 
 
■事実と解釈をごちゃ混ぜにしないコト
 
 過去千数百年、神武天皇家が男系で続いてきたというコトは、これは誰がなんと言おうと否定できない事実です。
 しかもたまたまそうなっただけなのではなく、先ほどの例が示すように、親子とか家族という間柄より男系というモノを優先させているという事実があるぐらい、男系こそが絶対のルールです。
 ここを否定するコトは誰にもできないのです。
 
 しかしそれ以外の様々なコトは、基本的に解釈となります。
 例えばこんな考え方です。
 
 
 「今現在、皇室という『聖域』でお育ちになった方々がおられることこそが重要なのである!」
 
 これは『SAPIO』の12/16号の『ゴー宣』の一説です。
 しかしよしりん先生はこのようにおっしゃっていますが、残念ながら「聖域でお育ちになったコトが重要」なんていう条件は、どこを探しても事実としては見つけられない、あくまでよしりん先生個人の独自解釈でしかありません。
 過去の歴史を紐解けば、101代から102代継承の例を見るまでもなく、最も天皇の側でお育ちになった内親王よりも、ただの親戚でしかない間柄のしかし男系を受け継ぐ方が天皇に即位されていますように、聖域こそが絶対条件ではないコトが分かるでしょう。
 繰り返しますが、これはあくまでよしりん先生の独自解釈でしかありません。
 事実ではないのです。
 
 もちろん意見を言うコトはいいです。
 解釈を構築するのもいいです。
 そうしなければ思想は語れませんからね。
 しかし、もし事実と解釈が相反するのであれば、それは当然事実が優先されるのは当たり前です。
 事実として聖域よりも男系の方が優先されてきた歴史が神武天皇家にはあるのですから、ここは事実を優先させるというのが常識というモノでしょう。
 まずここをシッカリと認識して、この皇統の問題は考えていかなければならないのです。
 
■バイパス論の出鱈目さ
 
 皇統の問題を議論していると、たまにこの「バイパス論」が出てきます。
 いつもいつもよしりん先生で申し訳ないのですが、分かりやすいので引用させて貰います。
 
 
 「600年も離れた男系のバイパス手術を行います!」
 「今上天皇とは二十数世代、四十数親等も離れておりまーす!」
 こんなこと言って国民は受け入れられるのか?(『SAPIO』12/16号より)
 
 これこそ事実と解釈の順序を間違えている最たる例と言えるでしょう。
 では聞きますが、女系天皇の前例はあるのですか?
 はい、ないですね。
 
 もうメチャクチャなんですよ。
 この「バイパス論」というのは、女系天皇を正当化させるために、前例のある「直系ではない子孫への継承」という方法を貶めているワケです。
 前例のある方法を否定するコトによって、前例の無い方法を採用させようとしているのです。
 これのどこに論の正当性があると言えるのでしょうか。
 もし女系天皇の前例があるのであれば、「どちらを優先させるべきか」という議論なら成り立ちますが、前例があるのと前例がないのを比べて、なぜ前例がない方が正しいと立証できるのか、やえにはさっぱり理解できません。
 歴代天皇の中には100年以上さかのぼらなければつながらない継承もありました。
 確かに600年はそれに比べれば長いですが、しかし前例がない0の状態と比べるのであれば、全く0の状態からはじめるよりは、前例のある方をさらに伸ばす方がはるかに正当性があると言えるでしょう。
 有と無の間には、比べられない、はかりきれない開きがあるのですから。
 
 まして、いくら600年さかのぼらなければならないとその正当性を否定する解釈をしても、その結果として女系の正当性を高めるコトには1ミリにもなりません。
 仮に600年離れているからダメだというコトにしましょう。
 しかしだからといって、それで女系がOKという論拠には全くなっていません。
 そもそも600年さかのぼるのがダメという論拠もまるでないし、同時に女系がOKという論拠も全くありません。
 こんなのただの「中傷ビラ」でしかないでしょう。
 
 語るなら女系の正当性を証明する議論をしましょうよ。
 どうして違う論を貶めて叩くようなコトを言うのですか?
 それは全く意味がありませんよと言いたいです。
 
■国民の理解
 
 皇統の議論をしているとよく「国民の理解が」という文言が出てきます。
 さっきのバスパス論でも「こんなこと言って国民は受け入れられるのか?」とよしりん先生は言っています。
 
 しかしですね、誤解をおそれず敢えて言えば、皇統の問題には国民の理解なんて不必要です。
 勘違いしてほしくないのは、天皇という制度や天皇という存在そのものに国民の理解が不要と言っているワケではありません。
 あくまで皇統の問題、つまり天皇の継承問題に関しては、国民が理解する必要はないのです。
 
 もし本当に「次の天皇には誰が即位するのか」という問題に国民の理解が必要だというコトになったら、これはとんでもないコトになってしまいます。
 だって、この考え方を突き詰めれば、天皇は選挙で選ぼうというコトになってしまうからです。
 そもそも天皇という制度や天皇の存在そのものは、これはよしりん先生ご自身もおっしゃっているように、天皇個人の資質に関わってくるモノなのではなく、日本という国とほぼ同時に存在する天皇という存在そのものが尊いのであって、国民はその存在そのものを尊んでいるのです。
 もちろん天皇個人の素質が素晴らしい方が望ましいのは当然ですが、しかし絶対条件ではありません。
 これもよしりん先生自ら言ってたコトですが、過去においては資質に首をかしげるようなとんでもないような天皇もいらっしゃいました。
 しかしそれでも天皇には変わりなく、日本にとって絶対に必要な尊い存在です。
 天皇とはそんな存在なのです。
 
 ですから、次の天皇はどなたが即位されるのかという問題は、これは天皇家のルールに則って決めればいいだけの話であって、ここに国民が介在する余地は全くありません。
 125代にわたり受け継がれてきたルールを踏襲し、受け継いでいけばよいのです。
 日本の歴史と共に歩まれてきた天皇だからこそ、今だけの国民が考えるルールなのではなく、日本の歴史と共に歩んできた、その中で育まれてきた神武天皇家のルールで継承するコトこそが、日本を象徴し日本国家と共にある天皇と国民とを繋ぐコトになるハズなのです。
 国民はそのような天皇という存在に対し、深い敬意を払うのです。
 
 やえはむしろ、今だけの国民の気分でルールを変えるコトの方が、よっぽど天皇という制度や神武天皇家に失礼な話になると思います。
 
 
 (つづく)
 

平成22年3月10

 日米核密約問題は国民のレベルの指針

 今日の新聞は、日米で交わされていると言われている、核兵器に関する密約の記事でいっぱいですね。

 日米密約「3密約を認定」有識者委員会
 
 日米4密約問題を調査した外務省有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)は9日、報告書を岡田克也外相に提出した。昭和35(1960)年の日米安全保障条約改定時の核持ち込み容認と、47年の沖縄返還時の原状回復費肩代わり、朝鮮半島有事の米軍出動をめぐる合意の3つを密約と認定。44年の沖縄返還決定時の沖縄核再持ち込み合意については、政府内で引き継がれていないことなどを理由に密約としなかった。

 昨年の衆議院選挙の前後からこの問題はいろいろと取りざたされていましたが、岡田克也外務大臣が就任してから外務省で有識者会議を設置して、本当に密約はあったのかどうか検証がはじまり、昨日報告書が出来ましたという流れです。
 結果としては、記事にもありますように「3つの合意」を密約だと、この有識者会議は“認定”したというコトになりました。
 
 しかし、果たしてそれが本当に「悪いコトか」というのは、よくよく考えてみなければならない問題だと思います。
 
 なぜ「密約」なのでしょうか。
 密約とはこの場合「国民に対して秘密にしていた約束」ですが、つまりなぜ国民に秘密にしておかなければならなかったのでしょうか。
 
 もし、時の政府が私利私欲のために米国を利用する目的で密約を交わしていたというのでしたら、それは責められるべきでしょう。
 また私利私欲でなくても、例えば当時の内閣が、自らの地位を保つために日本にとって不利な条件を米国に対して飲んでいた、というのでも、これは責められるべきです。
 まぁこの場合もある種私利私欲と言えるのでしょうけど。
 つまりですね、その約束や合意が責められるべきモノかどうかは、結局その中身によると言いたいのです。
 もっと言いますと、今回の密約は日本とアメリカとの間で交わされた合意なのですから、これが日本の国益にかなっているかどうかというのが一番重要な問題のハズです。
 
 果たして今回明らかになった密約は、日本の国益に背いているモノなのでしょうか。
 
 これは人によって評価が違うと思います。
 例えば核兵器の存在自体を許さないというような、憲法九条こそが世界の至宝だと信じ込んで疑わない人にとっては、これも日本の国益を損なう行為だと断じるコトでしょう。
 しかしやえはそうは思いません。
 少なくとも当時の日本には必要な合意だったと思いますし、時の内閣も決して私利私欲で合意したのではなく、日本に必要だったと判断してのコトだと、そうやえは思います。
 
 もう一度問います。
 なぜ「密約」なのでしょうか。
 日本にとって必要な合意であるのにも関わらず、なぜ国民に対して秘密にされ続けていたのでしょうか。
 
 それは、当時の国民では、この内容を理解できない、日本にとって重要で必要であるという意味を理解できないと判断されたからではないのでしょうか。
 
 国家に軍隊が必要なのは、こんなの言うまでもない常識なのですが、しかしいまでもこれを理解できないアレな人は、残念ながら日本には少なからずいます。
 そしてそれは終戦に近い時代に近づけば近づくほど多くなります。
 自衛隊だって、最初は「警察予備隊」という名称にして誤魔化さなければ設置できないぐらいでしたし、そもそも自衛隊という呼び名もいまでも誤魔化しが続いている状態としか言いようがありません。
 本来は軍隊と呼ぶべきモノです。
 でもこのように誤魔化さなければ「国益を守れない実情がある」というのが、いまの日本の悲しい現状なのです。
 
 そして今回の日米の密約も、その悲しい日本の現状の一環なのではないでしょうか。
 
 すごいぶっちゃけた言い方をしますと、日本の国民のレベルが低いから日米合意を秘密にした、つまり密約を結んだのです。
 もし日本国民のレベルが高くて、キチンと平和と戦争、軍事、世界情勢などを政治的なレベルで冷静に判断できたのであれば、国民に対して秘密にする必要はなかったでしょう。
 しかし残念ながら今でも、自民党を批判するコトで自分たちの支持率浮上を画策する党利党略のためでしか考えられず、しかももっとも期待していた沖縄への核再持ち込みの密約が有識者会議が否定されたコトに対して個人の都合だけで否定しようとしているガキ的発想の人が日本の外務大臣をやっている現状を鑑みると、やはり秘密にせざるを得なかったのではないかと、そう思わざるを得ません。
 国民のレベルが低いから仕方ないのです。
 秘密にしてまで合意しなければ、国益を大いに損ねていたかもしれない、もっと大変なコトが日本に起こっていたかもしれないのです。
 むしろ密約が明るみになればその政権はダメージを負うに決まっているのに、それでも時の内閣が党利党略よりも国益を守った結果なのだと、この密約は言えるのではないでしょうか。
 
 果たして今の国民がとるべき態度は、何でも知りたがる小市民根性丸出しにして秘密はけしからんけしからんと騒ぎ立てるだけか、それとも、しっかりと合意の内容を吟味し議論して民主主義国家の主権者に相応しい高い視点で政治を見て判断するのか、どちらなのでしょうか。
 これで国民のレベルをうかがい知るコトができるでしょう。
 

平成22年3月11

 皇統問題 −なぜ神武天皇家が必要なのか−

■なぜ神武天皇家が必要なのか
 
 ここで1つ整理しておきます。
 日本にとって天皇という制度や存在が必要であるという議論と、神武天皇家が続くという議論は、これは似て非なるモノであり、別物です。
 ここはキチンと分けて考える必要があります。
 
 天皇という制度、または存在が、日本という国家において大きな存在感と影響を与えてきたというのは言うまでもないコトです。
 というか、天皇そのものが日本の国家であると言っても過言ではありませんから、影響を与えてきたという言い方は語弊があると言えるかもしれません。
 天皇があったからこそ日本があったと言えるのです。
 ですから今後も日本が日本であるためには天皇を戴く必要があります。
 もし仮に、将来男系が途絶え、神武天皇家ではない天皇が即位しても、天皇である以上、日本という国家にとってのその重要性は変わるモノではないでしょう。
 なぜ日本にとって天皇が必要なのかという意味は、よしりん先生の『ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論』が詳しいので、そちらに譲るとしますが、日本が日本であるためには絶対に天皇は必要なのであり、天皇という制度は何があっても守っていかなければなりません。
 
 しかし、「神武天皇家でなければならない」という議論は、この天皇という制度の必要性とはまた別の意味となります。
 なぜ神武天皇家でなければならないのか。
 それは、日本が遙か昔から悠久の歴史を駆け抜けてきた1つの国家としての、言わば証拠であり証人だからです。
 
 日本という国家は、世界で一番も歴史が古い国家です。
 歴史が古いと言うと、中国やヨーロッパの国々を思い浮かべる人が多いかと思いますが、しかし中国という国家、正式には中華人民共和国という国家は、1949年に建国された比較的新しい国家でしかありません。
 今の中国と同じ地域に過去存在した国家、例えば一代前の中華民国という国家は、実は今の台湾政府が引き継いでいる国家であって、中華人民共和国と中華民国は、発生した場所が近いだけで、連続性のある同じ国家ではありません。
 むしろ敵対していますしね。
 また、中華民国の前の代、その同じような地域には「清」という国家、映画『ラストエンペラー』でモデルとなったあの国家がありましたが、これは映画のタイトルが指し示すように皇帝が治めていた国家ですから、皇帝のいない共和制だった中華民国とは全くつながりがない国家です。
 さらに言いますと、あの辺の地域、シナの地域と呼ぶべき地域には、過去「元」という国家がありましたが、これは皆さんご存じのように、モンゴルのチンギスハーンが興した国家の一地方と言っても差し支えないぐらいのモンゴル民族による国家でしたから、こんなのまるで今の中華人民共和国とは関係ない国家と言えるでしょう。
 ちなみにラストエンペラーの清も、満州族が支配する国家ですから、いまの中国が支配する漢民族とは関係ない、というかむしろ敵対関係にあった民族の国家です。
 このようにシナの地域にある制度も民族も違う国家を差して「1つの国家だ」と主張してしまうのは無理すぎる話であり、中国四千年という呼び方は、実は存在しない(もちろん中華人民共和国が今後4000年続けばそう呼べますが)呼び方でしかないのです。
 
 しかし日本はそれらの国家とはまるで違います。
 時代によって政治体制は違いますが、しかしいつの時代にも神武天皇家を戴く、神話時代を除いたとしても1500年ぐらいは連続して続いている1つの国家なのです。
 この図を見てください。
 
 
 
 政治制度で言えば、今の日本は、大政奉還して明治憲法が施行されてから始まった制度の国家と言えます。
 今の憲法は正確には明治憲法を改正して出来た憲法ですから、同一の憲法です。
 また明治以前の日本は、長く律令制が続いていた国家でした。
 それは支配者が貴族の時代でも武士の時代でも同じであり、制度そのものは律令制という憲法みたいなモノの下に作られていた制度で、それは武士にも与えられていた官位(「正三位」とか「従四位」とかいうのです)にも見て取れます。
 よって奈良時代あたりから江戸時代までは同じ1つの国家とくくるコトができます。
 しかし、この律令制の国家と現代憲法の国家とは、政治体制などだけで見れば、同じ国家と証明するモノが無く、別の国家と呼ぶしかない存在です。
 法律や憲法が違えば、支配者(武士は存在しなくなったワケですから)も違うワケで、政治体制で見れば、明治以降の日本と明治前の日本は完全に違う国になったと言えるでしょう。
 
 これをつなぐのが神武天皇家なのです。
 
 日本は千数百年間ずっと神武天皇家を戴いているからこそ、遙か昔から続いている1つの同じ国家と言えるのです。
 残念ながら、天皇という制度もしくは存在がいるというだけでは成り立ちません。
 例えばローマ帝国と神聖ローマ帝国は、国名も似ていますし、支配者も共に皇帝という役職ですが、でもやっぱり別の国家です。
 またシナのあたりに発生している国家は、中華民国以前はずっと皇帝が支配する国家でしたが、先にも言いましたように、これらは同じ国家ではありません。
 決して支配者の役職名だけでは同じ国家とは言えないのです。
 しかし日本は、ただ天皇という存在がいるというだけではなく、神武天皇家という歴史的に連続している存在を戴いているからこそ、いくら政治体制が変わろうとも1つの同じ国家と呼べるのです。
 
 ここが神武天皇家である最も重要な価値であって、尊い意味なのです。
 
 ここで勘違いしてほしくないので念のため言っておきますが、連続性のある元首(ちょっと厳密には違うのですが別の呼び方が思いつかなかったので便宜上こう呼ばせてもらいます)の条件が男系であると言っているのではありません。
 世界の国家は全て男系で続かなければ1つの家として認められないと、そう言っているワケではないのです。
 そうではなく、日本の場合は神武天皇家をずっと戴いていたワケですが、その神武天皇家が男系というルールをもって継承と決めていたから、このルールを守らなければならないと言っているだけなのです。
 ですから仮に、過去において双系(男系優勢でも)で続いていた、そういうルールだったら、何が何でも男系でなければならないとは言いません。
 もしくは仮に女系で続いていれば、女系こそが神武天皇家だと言っていたでしょう。
 「始祖が天照大神という女神だから神武天皇家は女系でなければならない」というルールが存在し、125代ずっと女系で続いていたら、「女系でなければならない」となっていたコトでしょう。
 でも事実は違うのです。
 これは主張や解釈ではありません。
 やえの考え方でもありません。
 事実として神武天皇家は男系というルール、しかも唯一のルールを、時に遠すぎる関係の間においても守ってきたからこそ、それを守るコトが神武天皇家が継承されるコトになると、事実を確認しているだけなのです。
 言い方を変えるのであれば、男系が目的なのではなく、神武天皇家が目的なのです。
 そして神武天皇家のルールでは、男系が継承する条件となっているという、この事実を確認しているだけなのです。
 世界のルールとか、元首のルールとかではありません。
 あくまで「神武天皇家のルールが男系」だからこそ、それを守るべきだと言っているに過ぎないのです。
 
 もし神武天皇家ではない天皇を将来日本が戴いても、日本は日本でしょう。
 これを否定するつもりはありませんし、新しい天皇に対してもやえは敬意を払います。
 しかし、事実としてそれは「神武天皇家」ではないですし、明治以前の日本と、新しい天皇家の元での日本が同じ国家であったと説明する論拠が見あたらなくなってしまいます。
 それは、日本の国家としての連続性が途切れてしまうコトを示しているのです。
 
 この議論はまずここが最初です。
 新しい天皇の正当性が云々という女系容認派の議論は、この議論の後にすべき議論、もちろん同時に進めてもいいのですが、しかしそれはそれとして「神武天皇家ではなくなる」という事実からは目をそらしてはいけない、逃れなれない議論であり事実なのです。
 何をどういう理屈をこねたとしても、いかに女系天皇に正当性があるという解釈をし主張をしたとしても、それをもって神武天皇家の終焉を止められる解釈にはならず、そして男系でなくなるのであれば神武天皇家ではなくなるというのは、解釈ではなく事実であって、だからこそやえは、岩にかじり付いてでも、どんな強引な手であったとしても、男系という唯一のルールを守って神武天皇家を存続させるべきだと主張しているのです。
 
 
 (つづく)
 

平成22年3月12

 事業仕分けと朝鮮学校無償化

 今日はちょっと短めに2本。
 
 まず紆余曲折しまくって迷走しているとしか言いようのない朝鮮学校に対する授業料無償化の話ですが、これ色々と言われているところですけど、その前に前提を忘れている人が多い気がしてなりません。
 そもそも朝鮮学校に限らずこの高校の授業料無償化という政策自体が、とんでもない出鱈目な政策でしかないのです。
 これについては以前も詳しく述べたのですが、なぜ義務教育でもない高校を無償化させなければならないのか、ただのバラマキじゃないかと批判しました。
 そして未だに、この政策に対するまともな理念をやえは聞いたコトがありません。
 
 ですから、そもそもこの政策がダメダメ政策なのですから、朝鮮学校をどうしようがダメダメな政策には変わりがないのです。
 もちろん北朝鮮の支配下組織でしかない学校、というか学校と呼ぶべきですらない組織に対して、なぜ公金を出さなければならないのか、まるで理解ができません。
 各種学校に指定されているだけでもおかしいと言わざるを得ません。
 こんなのははじめから言語道断で、この辺さすが民主党政権と言うべきでしょう、どこの国民に向かって政治をしているのか全く理解できないダメっぷりさです。
 
 この話が出てきたとき、鳩山総理は無償化の対象から外すよう考えていたようで、それについて評価する声がありましたけど、しかしそもそもこの政策自体がダメダメな政策なのですから、無償化しないのが当たり前であって、評価が上がるなんて話にはならないのです。
 そして当然、もし無償化の対象にするというのでしたら、なんかその方向に傾きつつあるブレブレ総理ですが、もうそんなの言語道断、バカバカしすぎてお話にならない話でしかありません。
 この政策で唯一評価できる可能性と言えば、全ての高校において無償化の話をナシにするコトだけです。
 民主党のダメダメさが最もよく現れている政策とも言えるでしょう。
 
 
 もうひとつ、事業仕分けについてです。
 なにやら今度事業仕分け第二弾をやるとか民主党は言っているそうで、マスコミなんか嬉々として伝えているところですが、しかし今までやえは何回も言ってきましたように、事業仕分けなるモノはただの客寄せパンダでしかない無駄そのものの存在です。
 だいたいにしていくら事業仕分けの時に仕分けされても、民主党の上の方の密室の判断ですぐ予算が復活するのですから、なんのための存在なのか全く不明なのです。
 しかもその復活も民主党は一切発表するコト無く、こっそりと予算案に盛り込んでいるという、隠す気満々の態度です。
 削るときにあれだけ大々的にしておいて、復活させる時には全く発表しないなんて、そういう意図があるとしか言うしかない態度です。
 
 ですからもし、本当に本気で真剣に事業仕分けをしたいのであれば、次の3点を最低限実行してからにすべきです。
 
 1.事業仕分けの存在そのものに法的根拠を与え、仕分け人の身分をハッキリさせて、責任の所在を明確にすること(大臣に責任があるだけでなく、仕分け人一人ひとりも全て等しく責任を負うこと)
 2.ここでされた仕分けの決定は、寸分違わず全て政府予算案に反映させること
 3.仕分け人は、衆議院並びに参議院の予算委員会及びその予算の所管委員会において、質問がある場合は出席と答弁の義務を有すること
 
 ここまですれば事業仕分けの意味が出るでしょうし、本来こうすべきであって、これをせずして行われる民主党の事業仕分けなんかただのサーカスでしかないとしか言いようがないのです。
 もし本気で民主党が事業仕分けをしたいのであれば、これぐらいやれるハズですし、やって当然です。
 
 どうせ今回もただの客寄せパンダぐらいしか民主党首脳部、特に小沢民主党幹事長は考えていないのでしょう。
 それを無批判にあがめ奉るマスコミもバカバカしいとしか言いようがないワケですが。
 

平成22年3月15

 皇統問題 −継体天皇問題−

■継体天皇問題はむしろ男系の絶対性を表している
 
 継体天皇をご存じでしょうか。
 6世紀に第26代として即位した天皇です。
 天皇の制度について様々な問題を調べていくと、継体天皇の問題にほぼ一度はひっかかりますので、聞いたコトがあるという人も少なくないでしょう。
 
 その問題とは、実は継体天皇の前で一度皇統が途切れたのではないかという疑惑があるという問題です。
 つまり、継体天皇は神武天皇に連なる男系の子孫だったのかどうかという部分が不確かだというコトなのです。
 
 もちろん「正史」では、継体天皇は男系の方というコトになっています。
 一代前の武烈天皇の直系ではありませんが、第16代応神天皇にさかのぼるコトができる男系の人であると、言われている天皇です。
 まぁこれ以上詳しくはやえは扱おうと思いませんので、気になった方は調べてみてください。
 ただ言えるコトは、これはあくまで不確定な話でしかなく、確実に確定している話ではありませんから、確定しない以上は、正史を正当なモノだと認識する、つまり継体天皇も神武天皇家に連なる天皇だとやえは認識しています。
 もちろん、歴史的・科学的に検証するコト自体は、やえはダメとは言いませんが、しかしいまの正史ではない解釈をするのであれば、そうでないと確定してからでないとダメでしょう。
 そんな疑いがあるから違うんだと言ってしまうのは、言い方を変えれば、なんでもイチャモンを付けれるコトになってしまいます。
 疑惑があるというのは、当時から言われていたコトのようですから、疑惑があるコト自体を否定するつもりはありませんが、しかしあくまで疑惑は疑惑でしかないという区別はキチンとつけるべきだと思います。
 
 その上で考えるべきコトがあります。
 先ほど、疑惑は「当時からあった」と言いましたが、これは継体天皇は即位する前は、都ではなく地方の1つを統治するぐらいの身分でしかない、いわゆる「皇室」の中にはいなかった人物だったからです。
 そして先代の武烈天皇には子供などがいなくて後継者が定まっていなかったので、地方に暮らしていた「応神天皇の子孫」という肩書きを持つ継体天皇が都に呼ばれて即位したという経緯があります。
 よって本当に「応神天皇の子孫」かどうかという疑問があったようで、例えば井沢元彦先生の『逆説の日本史』によれば、わざわざ「継体」という「体を継ぐ」という諡をつけているのは、キチンと後を継いでいるんだと示すために(もしくは隠すために)つけられたのではないかという説を唱えています。
 事の真偽はさっきも言いましたようにやえは追求しようとは思いませんが、当時も今も、継体天皇が先代からギリギリの形で皇統を継いで即位したというのは、変わらない事実と言えるでしょう。
 
 実はこの「ギリギリの形で継いだ」という点が重要なのです。
 よく考えてみてください。
 ではなぜ、わざわざ出自が確かでない、応神天皇という天皇歴代10代(世代にすると4世代)もさかのぼるまでの血筋である継体天皇に、当時の人は「こだわった」のでしょうか?
 武烈天皇には皇子女はいませんでしたが、武烈天皇の父君でありその先代の仁賢天皇の娘(つまり武烈天皇の姉か妹)がいて、この方は継体天皇の皇后として嫁がれていますが、ですからこの継体天皇の皇后が天皇に即位するという方法もあったのではないでしょうか。
 当時の天皇(武烈天皇)に一番近い血筋はこの方になります。
 兄妹もしくは姉弟ですからね。
 ですから、「皇室という聖域で育った」という意味を最も体現するのであれば、継体天皇よりもこの方が即位するのが最も相応しいと言えるでしょう。
 でも当時の人はそうしなかったのです。
 しかも、当時都に住んですらなく、しかも10代もさかのぼるような天皇の子孫だという人をわざわざ呼び寄せたのはなぜだったのでしょうか。
 
 そうです。
 男系にこだわったからと考えるのが自然でしょう。
 
 仮に継体天皇ではなく、その皇后が皇后とならずに即位していたとしたら、その代はまだ男系の天皇となりますが、その次の代が男系ではなくなります。
 ですからなんとしてでも早い段階で男系の男子を皇室内に呼ぶ必要があったのでしょう。
 それが継体天皇だったワケです。
 つまりこれは、「今の天皇に近しい皇族」もしくは「皇室という聖域で育った皇族」では天皇の条件とはならないというコトの証明であり、そしてなにより男系こそが唯一の、そして何が何でも絶対に守らなければならないルールだという証明でもあるでしょう。
 繰り返しますが、男系でなくていいのであれば、継体天皇を地方から呼ぶ必要はなかったハズです。
 でも敢えてそうしたコトこそが、男系の絶対化の証明であるワケなのです。
 
 継体天皇の例の他にも、身近に皇族がいるのにも関わらず男系にこだわって遠い親戚に次の天皇を継承した例はいくつもあります。
 しかも継体天皇の例は、皇室育ちでもないのにいきなり天皇に即位した例でもあります。
 こういう前例があるのになぜ別の方法を採ろうとするのか、なぜこのような前例を無視しようとするのか、女系を安易に肯定する人たちの思惑がやえには理解できません。