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/ どんな表現なら許され、どんな表現ならダメなのか、その議論がまったく出てこない / 今この状況で出来るコト、やらなければならないコト / 論拠が明確であるか、そして論拠と結論が繋がっているのか / 文章の書き方伝え方 / 公の場で文章を書く責任 / 問題だらけの性犯罪者にGPS義務化 / 問題だらけの性犯罪者にGPS義務化 (下) / 比べるなら条件を公平に / 性犯罪は再犯率が高いとデマを作り出そうとしている犯罪白書 / 口先政党民主党の本領発揮


平成23年1月17日

 どんな表現なら許され、どんな表現ならダメなのか、その議論がまったく出てこない

 なんだかあまおちさんにつられて、都条例のお話をやえまでしてしまっているワケですが、今日はそもそものお話をしたいと思います。
 
 これは人権擁護法案の時も一緒で、また当サイトとしても当時そう主張したのですが、そもそもこういう問題が起きた時に、では根本的にその問題についてどう考えるのかという視点がまるで出てこないんですね。
 例えば人権擁護法案の時は、「では何が差別なのか」「どのような対応を取れば差別なのか」「どうすれば差別ではないのか」という、根本的な問題に対する議論をその機会にすべきのハズなのですが、ほとんど出なかったというのが現状でした。
 結局この法案がすでに死に法案になっているのにも関わらず、いまでもそんな議論はほとんどありませんよね。
 あの時血眼になっていた人たちはどこに行ったのでしょうか。
 そして人権法の時にも散々「この法案は定義が曖昧だ」と言われてしましたが、ある程度法律は曖昧であって当たり前で、むしろ曖昧だからこそ、法律議論の場ではない、こうした一般常識の部分の議論の結果が反映できるようになっているワケですから、法律論もいいですが、本来ならこちらのそもそも論の方こそを熱心に議論すべきなのです。
 
 そして今回の都条例も同じです。
 条例の中身の議論もいいですし、行政の話をするのもいいです。
 しかし、表現の自由というモノを守るというのであれば、一番しなければならない議論は、「ではどんな表現なら許され、どんな表現ならダメなのか」という、根本の問題を考えるべきなのではないのでしょうか。
 
 この命題は難しい問題です。
 昔からずっと考えられてきた問題でもあります。
 あまおちさんがツイッターでも言っていたように、筒井康隆さんの断筆宣言や、小林よしりん先生の『差別論』などは、この表現の自由の問題から始まった動きです。
 よしりん先生はデビューしたての頃から、マンガのセリフについて編集サイドから「これはダメ、ここは変えて」と言われていたと、それはどうなんだとずっと思っていたと『ゴーマニズム宣言』で言っていました。
 そしてそれについて、ひとつの方法として「だったら公開討論しようじゃないか」と、そこまで言っていました。
 ちょっと手元に本がないのでアレですが、例えば確か「阿呆」はダメで「馬鹿」なら通ったとか、そんな編集者とのやりとりを描いていました。
 結局そんな細かいやりとりの中で、何が良くて何がダメなのかというのは、実に曖昧でしかないのです。
 こんな微妙で些末な「表現の自由の問題」なんて、昔からあったのです。
 そしてそれは、ほとんど法律などの存在に寄らないモノです。
 
 現状でも考えて見てください。
 最近なぜか公の場で「子供」という表現が見られなくなりました。
 これは「共」という字が「付属品」という意味であり子供は親の付属品ではないんだからやめろ、なんていう、そんな理由からなんだそうで、結局最近公の場で見る「子供」とは、ほとんどが「子ども」というひらがな表記になってしまっています。
 やえはこれはバカバカしいにも程があると思っていますが、しかしこれは果たして法によるモノと言えるでしょうか。
 全然違いますね。
 結局こういう「規制」というのは、どこが発信源なのかはともかく、なんとなく世間的にそれが常識かのように認識され定着してしまっているから、「規制されてしまう」のです。
 テレビでも出版でも、法によらない規制なんていくらでもあるワケで、そしてそれらのメディア等はどこを向いて規制しているのかと言えば、結局「世間」に向いて規制しているのです。
 規制の実効性を持っているのは、法ではなく「世間」なのです。
 
 だからこそ、世間に訴えるような議論をすべきなのです。
 法律論をしても、それはその法律の中だけの話にしかなりません。
 結局法律があってもなくても、「子供」はけしからんと世間が言えば「子ども」になってしまいますし、児童をレイプする描写が問題だと世間が言えばそれは出版できないようになってしまうコトでしょう。
 それは法があってもなくても同じコトなのです。
 その表現が問題かどうかというのは、世間が決めるのです。
 
 どんな表現が許されるのか、そういう議論をなぜ今しないのでしょうか。
 特に今の時代は、昔と違いネットを使って個人でも情報発信できる時代です。
 「こういう表現が出来ないと言われたが、果たして本当にそうだろうか。自分はこう思うがどうだろうか」と、作家でも誰でも、編集や会社を通さなくても問題提起できるワケです。
 あまおちさんも言ってますが、表現の自由を守るというのであれば、出版社もそうですが、それと最低でも同じぐらい、場合によってはそれ以上に作家こそがその価値を守るべきでしょう。
 
 そして消費者も、その価値を大切にするというのであれば、では何が良くて何がダメなのかというコトを議論すべきです。
 最近出てくる情報というのは、「という可能性がある」とか「編集が言ってきた」とか、必ずしも条例に結びつくとは確認できない、不確定な情報ばかりです。
 もし、この作品が読めなくなるかもしれない、買えなくなるかもしれないと言うのであれば、ではどの部分のどの表現が問題なのか、それがなぜ問題なのか、そこを議論すべきなのではないでしょうか。
 差別問題もエロスもグロ系も、一般との境界線はとても曖昧なモノです。
 当然ですが、表現の自由と言っても、どんな表現でも許されるワケではありません。
 だからこそ、しっかりと議論しなければならないのです。
 
 いくらいま条例や東京都を敵にしてそれを叩く行為をしても、仮にそれで条例が無くなったとしても、世間がそれを認めないのであれば、近い将来また同じようなコトが起こるでしょう。
 いえ次は、法律の段階にまで及ぶかもしれません。
 それでなくても、世間の表現に及ぶ目というのは年々と厳しくなってきています。
 特に18禁関連はなおさらです。
 そうなる前に、その業界やその消費者が世間に対しても堂々と守れるぐらいの正論を持っておくべきなのではないでしょうか。
 普段何もない時にこのような議論をするというのもなかなかキッカケが無くて難しいですが、いまならそういう土壌があるワケです。
 今こそ「どんな表現なら許され、どんな表現ならダメなのか」、そして「なぜ良くてなぜダメなのか」、ここをシッカリと議論すべきだと思います。
 



平成23年1月18日

 今この状況で出来るコト、やらなければならないコト

 果たして誰か最初に動き出すべきだったかというのは、ハッキリとは今更言えないコトです。
 例えばあまおちさんが言っていた、いちごなんとかっていう過激な漫画雑誌とかでも、あれも当初から各地でどうなんだと言われていたと記憶していますし、他にも秋葉原での女性の胸や下着が露出している看板はどうなんだとか、少女漫画の過激性描写やBL漫画ですとか、18禁ゲームの問題ですとか、その手の「どうなんだ」という声はそれなりに前からあったと記憶しています。
 しかし出版業界などの民間業界はそれらの声をどう受け止めたでしょうか。
 抑制するどころが、年々過激になっていっていた気がしてなりません。
 条例が出てきたからという理由で急におたおたしても、それは今更であり、いままで何してたんだと言われても、ある程度は仕方ないのではないでしょうか。
 
 そもそも業界団体の動きはまさにそれです。
 この前やえはロビー活動のコトについて語りましたが、ロビー活動は普段からのお付き合いこそが一番大切ですけど、過激な性表現について問題意識は世間にはそれなりにあったのにも関わらず、では今まで業界は何かやってきたのかと問われても仕方ないのではないでしょうか。
 以前同じような条例案が東京都議会に出されたとき、あの時は都議会議員の民主党が反対したために可決しませんでしたが、この時だって議員に対するロビー活動は出来たハズです。
 この時に世間に対する正論を出すきっかけになったハズです。
 なにか第三者機関とか、ある程度の自主規制的な規定が業界の中で作れたハズです。
 もっと業界も、関係者も、そしてサブカルを好きな人達も、やれるコトはあったのではないでしょうか。
 
 やえは秋葉原に代表されるサブカルを否定するつもりはありません。
 いえむしろもっと発展してもいいと思っていますが、しかしだからと言って、性表現などアングラなモノまでおおっぴらにしていいとは思えません。
 それこそ「節度をわきまえて」発展すべきだと思います。
 そしてここ数年で急激に伸びた秋葉原系サブカルのそういうアングラ的要素は、急に伸びたからこそキチンとした環境を整備すべきだったのではないでしょうか。
 しかし出版業界は、過激な表現をむしろ煽っていたような気がしてなりません。
 正直やえは、もちろん全ての動きを知っているワケではありませんが、「東京都が一方的に」という主張を素直に受け入れるコトは出来ないのです。
 
 ただこれらは、ハッキリ言ってしまえば、今更の話題です。
 もちろんあの時どうだったのかというコトを分析するのも大切ですし、ロビー活動など今後に生かさなければならない課題だと思いますが、その上で、やはり「今できるコト」というモノを考えるのが、秋葉原的サブカルを守る上では大切でしょう。
 
 昨日言いたかったのはまさにここです。
 例えば石原都知事が悪いんだとか、行政の方から交渉を打ち切ったんだとか言っても、ではそんな風に悪者論を振りかざして果たして今それのどこにメリットがあると言うのでしょうか。
 条例案が通る前ならまだ意味があったかもしれません。
 やえは行政論と法律論は別ですべきだと思いますが、条例案が可決する前なら意味もあったかと思います。
 しかし今はすでに条例が可決しています。
 であるなら、いくら石原都知事を悪玉にしたところで、それだけでは何も事態は良くなりません。
 仮に石原慎太郎という人が都知事でなくなったとしても、条例は条例として生き続けますし、行政はそれに基づいて行動するでしょう。
 いくら悪玉論をぶち挙げても実際にはほとんど意味のないコトにしかならず、だからこそ「今できるコト」をしなければならないのではないのかと言いたいのです。
 
 業界団体は業界団体として出来るコトがあります。
 それはそれでやってほしいと思いますが、しかし特に昨日言ったコトは世間に対しての話であって、それは同じ世間から出てこそ意味のあるコトです。
 そして条例がすでに可決している今出来るコトを考えれば、それは今更条例を否定しても何もならないワケで、では条例の中でどう運用していくのか、つまり「何がダメで何が良いのか」という部分を世間に対して訴えるコトこそが、秋葉原的サブカルを守るコトになるのではないでしょうか。
 いくら行政を悪玉に仕立てても、条例は生き続けているのですからね。
 
 例えば漫画とかじゃないですが、昔はヌード写真集でもアンダーヘアーは写ってはならないモノでした。
 でも今はバンバン出しちゃってますよね。
 その過渡期にあった宮沢りえさんの写真集は、その部分でも話題になりましたが、こうして同じ法律の下でも運用によってずいぶん変わる部分はあるのです。
 これはまさしく世間に対する風潮の変化と言っていいでしょう。
 法律がダメだとか行政はダメだなんて主張で変化したのでもなく、法律が変わったワケでもありません。
 ただ単に、世間の考え方が変化しただけなのです。
 
 この辺はあまおちさんが一番最初に話題にした「本音と建前」の部分のお話とも言えるでしょう。
 世間に対する説明・説得というのは、まさに「本音と建前」の話です。
 大人としてここをどう整理するか、キチンと整理してこそ、世間に対して正論を述べるコトができるというモノではないでしょうか。
 
 条例が可決され、いまでもそれが生きている以上、やるべきコトはここにあるハズです。
 そしてやえは、こここそが最も大切な議論だと思います。
 何度でも言いますが、表現の自由なんていう考えはとてつもなく曖昧なモノであり、曖昧だからこそ常に議論した上で、現実的な対応をその時代時代で見つけていくべきなのです。
 昔は良くて今はダメ、今は良いけど昔はダメだったというのは、あって当たり前です。
 表現の自由という考え方こそが曖昧なのですらから。
 だからこそ常にこの問題は考えていかければならないのです。
 
 いま出来るコトは何なのか、出版業界の関係者だけでなく、秋葉原的サブカルを愛する人と、そして全ての人に、そこを考えてもらいたいです。
 



平成23年1月20日

 論拠が明確であるか、そして論拠と結論が繋がっているのか

 けっこうこの話題に飽きてきている人もいるようですが、それでも言いたいコトがある以上、ごめんなさい、続けさせていただきます。
 逆に、こういう言い方もアレですが、当サイトにこの話題を触れて欲しくないという思惑もある場合もありますから、人権擁護法案のときなんてそうだったようで、だから、本当に飽きている人には申し訳ないですが、やえが語るべきと思うまでは語らせてください。
 というか本来あまおちさんの話のハズなんですが、なんでやえが扱っているんですかね。
 まぁ、やえが言うべきところは、わりと一般論的な部分が多いですから、都条例だけに限らない話題と思って呼んでいただければと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 何でも意見を主張する際には論拠が必要です。
 ただ単に結論だけを言っても、他人にはそれが本当にそうなのか、それが必要なのかは理解も納得できません。
 なんでもそうです。
 例えば「1000円貸して」と言うだけでは、普通は誰も貸してくれません。
 しかしここに論拠を付けると、多少変わってきます。
 「今日お財布忘れて、お昼ご飯が食べれないから、1000円貸して欲しい」と言えば、仲の良い友達であれば貸してくれるでしょう。
 このように、何をするにしても、何を言うにしても、理由とか論拠とか説明とかは大切なモノなのです。
 
 今回の都条例の話は、ここがネックなのです。
 その条例が条例として適切かどうかは、これは法律論であり、条例の条文のみを読んで判断すべきです。
 「この条例は欠陥だ」という結論に対しては、条文をもって論拠とする必要があるのです。
 都知事の言動等は、条文には直結しません。
 都知事のあの発言があったから行政の場や裁判の場ではここの条文は違う文章に変わります、なんてコトはあり得ないワケですからね。
 論拠とその主張の結論の違いがお分かりでしょうか。
 
 行政の問題は行政の問題です。
 石原慎太郎は都知事として相応しくないという主張でしたら、これはその結論としては「ではリコールしよう」とか「次の選挙には投票しない」とか、こうなるワケです。
 都知事として相応しくないから条例は廃止すべきだ、は、論拠と結論が繋がっていないのです。
 これは前回話がごっちゃになりそうなので敢えて書かなかったのですが、例えば条例の廃止案を出すっていう話になった場合でも、ここの結論は結局「都議会に都議会議員を通じて提出する」というのが結論ですから、ここはいくら行政の怠慢を言っても、論拠と結論は繋がっていないんですね。
 条例が欠陥だという理由なら繋がりますが、「行政が仕事しないから議会で条例廃止案を出そう」は、繋がらないのです。
 だから条例の廃止案を出してもらおうという場合には行政の話ではなく都議会議員に対する話をしなければなりませんし、住民投票によるのであれば、住民投票に直結する話をしなければならないでしょう。
 話をごちゃ混ぜにするのは混乱の元です。
 「議員を通じて行政に仕事をさせるよう圧力をかけよう」なら、繋がるんですけどね。
 
 また、論拠そのものが論拠として正当性があるかどうかという問題も、この手の話題にはいつも付きモノです。
 例えば以前のお話で出したと思うのですが、どこかの漫画家さんが編集者から表現を変えるように求められたコトがあり、これについて「都条例の影響が出た」と騒ぎになりましたが、正直これだけでは本当に都条例のせいかどうなのかは判断が付きません。
 編集者が作家に表現を変えるように求めるコトは、昔からよくあるコトだからです。
 よって、この情報だけでは「都条例の影響が出た」とは断定できませんので、これを「この条例は社会にとって不必要だ」という主張の論拠にはならないのです。
 
 どこかのコンビニで、一般漫画雑誌まで18禁コーナーに置かれていたという写真の件も同じです。
 本当に恒久的にこうしているのかどうかの確証はありませんし、そもそも業界や会社からの命令があったワケではないようなので、店長や店員が条例の中身を知らずして過剰反応的にそのような措置をとっている可能性が高い以上、これを条例と結びつけるのは強引すぎる話です。
 今だって「猥褻物陳列罪」という罪があるのですから、例えば一般のマンガ本まで18禁コーナーに置いたその理由として「猥褻物陳列罪が怖いから」と店長が言ったとしたら、それは「猥褻物陳列罪は悪法だ」という主張の論拠になるでしょうか。
 そのように主張するのでしょうか。
 無理がありすぎですね。
 法律や条令に直接的に結びつかない因果関係のない話までその法律に責任を求めるというのは、ちょっと無理な話ですし、こんな行為がまかり通るのであれば、全ての法律が否定されかねない事態になってしまうでしょう。
 
 流通の段階で規制がかかる可能性があるとかいう記事も一部流れたようですが、これもさっきと同じ理由で論拠には成り得ない上に、さらに「可能性」という程度では、ますます論拠にはなりません。
 過剰な自主規制がかかる可能性がある、なんて、ここまであやふやな言い方もないでしょう。
 可能性で言い出すなら、やっぱり猥褻物陳列罪を理由に自主規制する可能性だって否定は出来ないのですから、ではなぜ現行法の時でも騒ぎを起こさなかったのかという話になってしまいます。
 流通が過剰に自主規制するかもしれないと危惧するのであれば、それを論拠として何かを述べるのであれば、それは流通に対して過剰な自主規制をしないよう求める、という主張でなければ筋は通らないです。
 論拠と結論の関係を見れば、こうなるワケです。
 
 結局こういう結論に対して、論拠が成り立たないような主張をしてしまえば、いくら結論が良くても反発は起きます。
 論拠が論拠として成り立っていないのに、それを論拠かのように言って意見を主張していては、その論拠は間違っていると、そう突っ込みを受けても仕方ありません。
 人権擁護法案でも今回の条例でも、当サイトとしてはこれが廃案になろうがどうなろうがあまり興味はありませんし、だから理由があれば反対してもいいのですが、でもその反対する明確な理由が存在する前に、上に挙げたような論拠とならない論拠があまりにもネットに散らばっていては、それはいただけないと言う方が先に来てしまうワケです。
 仮に結論は同じだったとしても、論拠に正当性が無ければその主張に同意するコトはできません。
 同意できないだけでなく、むしろ間違いを指摘するコトの方が正しいあり方ではないでしょうか。
 最初に言いましたように、人を納得させるための力というのは、本来は結論ではなく論拠なのです。
 主張をするためには、なにより論拠を大切にしなければならないのです。
 
 やえはネットの住人ですから、ネットの可能性を信じています。
 だからこそ、ネットの主張は本物であってほしいと思っているのです。
 



平成23年1月21日

 文章の書き方伝え方

 文章っていうのは難しいもので、書いた文章が必ずしも相手に対して自分の意図するよう伝わらない事というのはよくある事だ。
 当サイト、特にやえなんて分かりやすい文章と、そして誤解・曲解されにくい文章を心がけているそうだが、それが結果的に長文に繋がることもある。
 まぁ文章が長くなるのはオレもそうなんだが、なかなかに文章というものは難しい。
 また、ある事を伝えるための文章というのは、必ずしも1つではないというのも、文章の難しさであり、面白いところだ。
 
 都条例に対して当サイトが言いたかったことというのは今までいろいろな更新でオレとやえがそれぞれ述べてきたところだが、やっていることというのは、人権擁護法案の時とそう大差ない。
 大雑把に言えば、反対論に対してその反対する理由は理由として成り立っていない、というものだ。
 法案や条例に対してそれが正しいものかどうかの賛否はともかく、反対するにしてもその理由は駄目だと、ネットにためにはならんと、そう警鐘を鳴らすというスタンスだ。
 
 しかし人権法の時にやえが頑張った文章と、オレが都条例について最初に書いた本音と建前の話である「みんな大人なんだから建前も大切にしようよ」の文章とでは、見た目も印象も全然違う。
 一方は法案文の細かいところまでの解説であり、一方は広く観念的な話だ。
 もちろん書いている内容が違うのだから受け手の印象が違うのは当たり前なのだが、だが、書き手としての最終的な意図というのは、人権法の時と今回とはさして変わらないのである。
 
 人権法の時のような細かい法律解釈の文章というのは、文章を細かいところまで読んでくれ、そしてそれが理解できるぐらいの論理的思考の持ち主であれば、この方法の方が効果的だろう。
 しかし、ネット上でもリアル上でも、こういう人間ばかりではない。
 法律の条文が出るだけで頭が痛くなる人もいるだろうし、そもそも長文になるだけで読むのを放棄する人もいる。
 法律や政治に意見する以上はそれぐらい読めよとは思うが、それでも読まない奴の頭を掴み目を見開かせて無理矢理読ませることなど出来はしまい。
 となれば、どうすれば読んでもらえるか、書き手の方が工夫するというのが現実的な対応策であろう。
 
 と明確に意図してというわけでもないんだが、その工夫の1つが、オレの「みんな大人なんだから建前も大切にしようよ」である。
 あれはもらった反響を見ても、人権法の時と違った層が読んでくれ、またたくさんの人に納得してもらったのがすごく分かりやすい形で帰ってきた。
 人権法の時のやり方では、無かった反響だ。
 特にやえの基本的な書き方である、かなり理論的でスキの少ない文章では、なかなか見られない反響だったと言えるだろう。
 
 同じ結果を得ようとしても、方法論は1つではない。
 むしろ人の数ほど方法論があると言ってもいい。
 法律論をやっても理解しにくい連中が、今回オレの文章で気付いたものがあれば、それはオレとしては十分だと思うし、反面法律論でなければ納得しないという連中が出ても、それはある意味仕方ない。
 法律論をやった場合に理解できない連中がいるのと同じことなのだからな。
 今回はたまたまオレが、法律論ではない方法で、この問題を扱ったというだけの話だ。
 それぞれに理解が出来る人、両方どちらでも理解できる人もいるだろうし、どちらでも結局理解できないっていう人もいるだろう、ただそれは方法論が違うだけで、そして受け止める人も違うというだけだ。
 
 全ての人に全て考え方が伝わるという文章は本当に難しい。
 それが賛否両論ある議題であればなおさらだ。
 その中でウチが果たした役割がそれなりにあったであろう。
 そしてオレとしても、違う形でアプローチできた事は、プラスになったと思っている。
 文章とはなかなかに難しいが、こういうことがあるから面白いのである。
 
 やえが妙に理論的になってきたから、たまにはオレが砕けた文章書いてみるのもいいことなのだろう。
 



平成23年1月13日

 行政と政治家と業界団体

 今日も例の都条例がらみの話なのですが、これも都条例に限らず政治全般、というかむしろ、国政のお話になりますから、やえが担当したいと思います。
 行政は、民間の業界団体どどのような付き合いをしているのかというお話です。
 
 話の発端は、例の都条例にからんで、東京都の行政が業界に説明や対応をしないのはけしからんじゃないかという意見からです。
 現場が現に混乱しているじゃいないか、だから行政が対応すべきじゃないか、対応できないならそもそも条例を成立させるべきではなかったんじゃないのか、という、そんな意見ですね。
 まぁ実際現場が混乱しているかどうかはともかくとして、では果たして行政としてはどのような対応をとるべきなのでしょうか。
 
 まず大前提なのですが、法律や条令が出来た際、その関連業界に対して行政の方から説明会を開いたりガイドラインを作ったりするコトは、それは法的義務がある行為ではないというコトです。
 別にそんなコトしなくても、法的にはなんら問題はありません。
 都の条例はどれぐらい年に可決しているのかはやえはちょっと分かりませんが、法律で言っても、一年で100近い法律が成立するのですから、これに全て丁寧な説明会やガイドライン作成をするというのは、ちょっと現実的には不可能でしょう。
 公務員を倍ぐらいに増やせば可能かもしれませんが、中央省庁はいつでも人手不足なのです。
 まずこの前提があります。
 
 その上で、それでも行政が丁寧に対応するというのは、良いコトだとは思います。
 丁寧にしないよりかは、丁寧にした方が全然いいでしょう。
 ですから実際に丁寧に対応する場合もあります。
 ここで注目すべきは、その行政が丁寧に対応した場合の理由が、いくつかのパターンに分けられるという点です。
 
 ここで注意点なのですが、以下のお話は全て国政のお話になってしまいます。
 ちょっと都政の話はやえはよく分からないですから、もしかしたら都政の話とは当てはまらない場合もありますので、そこはご注意下さい。
 
 1つは、行政が完全に自主的に行うというパターンです。
 その方が国民のためだと思って、言い方はアレですが役人の親切心で行うというパターンです。
 2つ目は、業界が直接行政とつながりがあって、業界の要請によって行政が説明を行うというパターンです。
 そして3つ目は、議員が業界とつながりがあって、議員からの要請によって行政が説明を行うというパターンです。
 これらは特に決まり事や法律があるワケではありませんから、様々なパターンが複雑に絡み合っているコトが多いので、紋切り型にはあまり出来ないのですが、簡単に説明すれば、このようなパターンが考えられます。
 
 実際のところ、どのパターンが一番多いかは、ちょっと分かりません。
 統計なんてあるワケ無いですしね。
 ただ1つ言えるコトは、国政であれば大きな業界、特に政治や法律に近い業界、例えば金融機関ですとか建設関係ですとか、そういう業界は議員と普段から付き合いをしていて、それはこういう時のためにお付き合いをしているワケです。
 つまり、何かあった時に、行政に対してアクションを起こさせるよう、議員サイドからテコ入れしてもらうためです。
 そもそも法律を作るのは、行政ではなく立法府であり、その構成員は議員です。
 法律を作る段階で議員が行政に「業界に十分な説明をするように」と言えば、それは行政はキチンと動きます。
 また国政では議員連盟という形で、法案審議の前段階で業界団体を呼んで、ヒアリングや勉強会を開いたりするなどの活動も国会議員はしていますから、普段から議員とお付き合いをしていれば、そういう場での事前の説明なども業界としては受けられるのです。
 そのために業界団体は、国会議員と普段からの「お付き合い」をしているワケです。
 これを癒着と呼ぶかロビー活動と呼ぶかは人それぞれでしょうが、でも現実的な対応であるというコトは確かでしょう。
 
 また、業界団体が行政と直接つながりを持っている場合もあります。
 ありますというか、大きな業界団体であれば、議員と同時に行政ともある程度のパイプは持っているでしょう。
 行政とのパイプの場合、あまりおおっぴらにやると癒着になりますし、官僚の方もそれを防止するために人事異動が頻繁にあるワケですが、それでもその部署にはある程度の、話が出来る程のパイプは持っているコトはあります。
 法律や行政について問い合わせをしたりするコトが多いのであれば、それはむしろ当然と言うべき行為でしょう。
 
 そう考えたとき、果たして今回の出版業界は現実的対応をとっていたのかどうかという点において、やえはちょっと疑問なのです。
 国政的な感覚で言えば、それなりの数と質だけ議員にパイプを持っていれば、行政にある程度のガイドラインを作成させるぐらいのコトは出来たのではないかと思うのです。
 議論板の方で、「行政はよく業界に説明会を行っているよ」という書き込みがありましたが、これも果たして完全純粋に行政の判断だけで説明会が行われたモノかどうかというのは、ちょっと判断が付きません。
 もしかしたら業界の要請や、議員が仲立ちした可能性は十分にあるでしょう。
 他の業界はそうやって現実問題に現実的な対応をとっているワケです。
 
 あまおちさんがいつか「出版業界はロビー活動などやれるコト、やるべきコトはまだまだたくさんあるだろう」というようなコトを言っていたと思うのですが、それはこういうコトも含めた話なのでしょう。
 それならやえもそう思います。
 今回の話というのは地方自治体の地方議会の話ですから、出版社ぐらいの大企業がどれだけそこにロビー活動をしているのかはちょっと分かりませんが、しかしこの規制の条例のお話はかなり前からあった話なのですから、やれるコトは色々あったと思います。
 それをやらずして文句だけ言うというのは、政治的な観点から見たら、ちょっと違うんじゃないかなぁと、やえは思います。
 
 あまおちさんの言っているコトは、条例の中身について見れば特に問題は見あたらないだろう、それと行政の問題は別だというモノのハズです。
 ですからもし、条例の内容を越えた行為を行政が行う、例えばこの条例を楯に発売禁止などを迫るのであれば、それはもはや条例とは関係のない話となるワケで、ここは行政の問題として考えるべきだというモノでしょう。
 東京都の行政と業界団体の間の問題なワケですね。
 そして、東京都の行政に全く問題はないとは言えない、むしろ猪瀬副知事なんかは政治家としては不適切だとまで言っているワケ、よって行政に問題があると思うのであれば、行政に対する意見をすればいいと思います。
 そして、意見もいいですが、現実的対応としてはやはり、業界団体がキチッと行政と話し合いをして、条例に基づいた、条例から逸脱しない対応をとっていくというのが一番だとやえは思います。
 
 これは全ての政治的な事柄に当てはまりますが、法律とはその法律だけで全てが決まるワケではなく、法律の下に省令とか政令とか色々あって、さらに運用面でも様々あって、そして当事者同士の慣例とか話し合いの中で決まっていくモノもあって、それら全ては現実的に運営されているモノなのです。
 その中で出来るコトというのは少なくありません。
 もちろん法律からこれらが逸脱するコトはありませんが、法律だけで全てをガチガチに縛るコトも出来ないのも現実であるのですから、ここをうまく利用するのが現実論というモノでしょう。
 そのために、それぞれの立場の人が様々な知恵を絞って、現実的に対応してこそ、現実に即した運用が出来るのではないかと思います。
 



平成23年1月25日

 問題だらけの性犯罪者にGPS義務化

 最初に問題点を書き出します。
 この問題は以下の3点において、非常に問題であると考えます。
 
1.刑期を終えた元服役囚は、公的・法的には一般人と変わらない。それを公的機関が強制力を持ってプライバシーを侵害する行為を正当化させる根拠・理由は無い。
2.性犯罪だけを対象にする合理的理由が見あたらない。なぜ他の犯罪には適用しないのか。
3.罪と罰の今までの法体系のバランスを、法の下位の存在でしかない条例が崩す行為である。

 
 性犯罪前歴者にGPSの携帯義務付け 宮城県が条例検討
 
 宮城県は、県内に住む性犯罪の前歴者らを警察が日常監視できるよう、全地球測位システム(GPS)端末の携帯を義務づける条例の検討を始めた。携帯していない場合には罰金を科す。必要に応じてDNAの提出も求める。
 監視対象に検討しているのは、女性や13歳未満の子どもに対する強姦(ごうかん)や強制わいせつといった罪で懲役や禁錮刑になった県内在住者。
 ドメスティックバイオレンス(DV)防止法で裁判所から保護命令を受けた加害者にもGPSの携帯を義務づける。
 
 まず1ですが、私人が個人的に元犯罪者をどう見るかという部分については触れません。
 そんな内心のことまで言い出したらきりがないですからね。
 しかし少なくとも公的機関は、刑罰、懲役刑や罰金刑を終えればその罪は償ったとするモノであるワケなのですが、それなのにこの条例はそれを越えてさらに刑罰的な制限を加えようとしているのです。
 これは公的機関の矛盾と言ってもいいでしょう
 これではそもそも何のために刑罰があるのか、公的機関まで元犯罪者を犯罪者として扱うのであれば、「罪を償う」という概念そのものを公的機関が自ら破棄する行為としか言いようがありません。
 
 GPSの所持義務化、そしてそれを警察がいつでも監視できるという状態に強制的にするコトは、それは「罰」です。
 だって、このような措置は誰も基本的には望まないからです。
 よく「犯罪が減るならいいじゃないか」なんてコトを言う人がいますが、であるなら、国民全員がこのような措置を受ければいいんじゃないでしょうか。
 全ての国民がGPS所持を義務化し、警察はどんな人間でもいつどこで何をしているのか把握するようにすればいいのです。
 そうすれば犯罪は確かに減るでしょう。
 もし「犯罪が減るならいいじゃないか」と言うのであれば、法律で全国民に義務化させればいいでしょう。
 でもそんなコトは許されません。
 なぜなら、これを許容する人なんてごくわずかで、基本的には、こんな措置は誰も望んでいません。
 誰だってこんなコトはされたくないのです。
 だからこそ、この措置は「罰」なのです。
 罰とは、普通の人であれば嫌がるコトをするからこそ、罰は罰として機能するのです。
 ですから、GPS義務化は罰なのです。
 
 よって、刑期を終えた、犯罪者ではない普通の人間に、公的機関が権力と実力をもって強制的にGPSを付けさせるという「罰を与えるという行為」は、とてもじゃないですけど、これを正当化させる理由が見つからないのです。
 刑期を終えた普通の人は、普通の人として生活する権利を憲法によって与えられているのです。
 少なくとも刑法を改正せずして、それを犯す行為を、法律の下の存在である条例が越えていいという理由は、どこにもありません。
 
 2つ目です。
 なぜ対象が性犯罪だけなのでしょうか。
 DVについては多少事情が違います。
 これはおそらく裁判所による「被害者に対して半径○m以内に近づいてはいけない」というような決定を補強する目的なのでしょうから、意味合いが違います。
 よって、1つ目で言いましたように、刑法の罰金や刑期を終えた後に、つまり法律を越えてのさらなる罰を与えるという行為を、さらになぜ性犯罪だけを対象にするのかという部分に、合理的な理由が見あたらないのです。
 
 よく言われているところで、性犯罪は再犯率が高いというモノがありますが、これは完全に誤解です。
 というか、デマです。
 そのようなデータはありません。
 むしろ、最新の犯罪白書(注PDFファイル)によると、
 
 前科(罰金以上のものに限り,自動車運転過失致死傷・業過及び交通法令違反のみの犯行によるものを除く。)の有無等を見ると,有前科者率(調査対象者に占める前科を有する者の比率)は,殺人46.6%,傷害致死44.7%,強盗45.7%,強姦39.3%,放火49.3%であり
 
 と、性犯罪である強姦はむしろ再犯率が低い傾向にあると言っていいでしょう。
 念のためにこのデータは、以前になんらかの犯罪を犯した人が、次のこの犯罪を犯した場合の数字です。
 つまり、以前強盗した人が殺人を犯した場合と、以前強姦した人が殺人を犯した場合と、同じくくりで計算されています。
 つまり、強姦を犯す人は、他の重大犯罪と比べれば前科を持っていない確立が高いというコトでもあります。
 
 さらに次の行には、同種重大事犯のデータが載っています。
 同種重大事犯とは、簡単に言えば同じ犯罪です。
 ここのデータを参照すれば
 
 同種重大事犯による前科に限ると,有前科者率は高くはないものの,殺人で6.3%,傷害致死で6.6%,強盗で7.7%,放火で11.2%の者が同種重大事犯による前科を有していた。強姦でも,同種重大事犯(強姦)による前科の有前科者率は11.1%であり,強制わいせつを含めた性犯による前科の有前科者率は,13.1%であった。
 
 となっています。
 ここでは強姦は多少数字としては高くなっていますが、しかしこれはほぼ誤差程度と言っていい数字でしょう。
 0.1ポイントですが、放火の方が再犯率は高いワケですし。
 また、殺人の場合は死刑や無期刑があり、物理的または年齢的に再度殺人を起こしにくいという事情も考慮しなければなりません。
 このように、犯罪の性質として強姦のみが再犯率が高いとは言いにくいのが、データから見て取れます。
 
 またこの資料では「強制わいせつを含めた性犯による前科の有前科者率」というモノを出していますが、これは、他のデータと比べるという意味においてフェアではありません。
 なぜなら、対象の犯罪の範囲を広げれば、それは数字が高くなるのは当然だからです。
 簡単な話です。
 上の「以前になんらかの犯罪を犯した人が、次のこの犯罪を犯した場合の数字」がなぜ50%近い高い数字になっているのかと言えば、「以前になんらかの犯罪を犯した人」というかなり広い範囲の数字を使っているからです。
 それに対し「同種重大事犯による前科」は、その範囲を1つに絞っているのですから、範囲が広いデータよりは当然数字は少なくなります。
 しかしそれなのに「強制わいせつを含めた性犯による前科の有前科者率」は、ここに範囲を少し広げているのですから、範囲が1つしか無いモノより数字が大きくなるのは当然でしょう。
 例えば「強盗」の再犯率を調べる場合に、他人のモノを盗むという同種だからという理由で「窃盗(万引き)」までをもこの範囲に加えれば、当然7.7%より大きな数字となるでしょう。
 これらを比べるのは、とてもじゃないですけど公平とは呼べません。
 これは数字のマジック、数学のマジックなのです。
 
 事実、資料をよく読めば、数字のマジックは簡単に解けます。
 
 重大事犯以外の罪種による前科を見ると,粗暴犯*1及び財産犯*2による前科を有する者が多く,殺人及び傷害致死では,粗暴犯による前科の有前科者率が,それぞれ,27.3%(殺人・傷害致死による前科を含むと29.0%),28.9%(同32.9%)であり,強盗では,財産犯による前科の有前科者率が33.1%(強盗による前科を含むと34.2%),放火でも,財産犯による前科の有前科者率が27.6%(同28.4%)であった。
 
 粗暴犯とは「傷害(傷害致死を除く。),暴行,脅迫,凶器準備集合及び暴力行為等処罰法違反」ですので、つまりこれらの暴力的犯罪者が傷害致死罪を犯す再犯率は28.9%ですし、財産犯とは「窃盗,詐欺,恐喝,横領(遺失物等横領を含む。)及び盗品等に関する罪」ですから、他人のモノを盗み奪い取るという犯罪者が強盗を犯す再犯率は33.1%であり、つまり似たような犯罪の再犯率を比べれば、むしろ性犯罪の方が全然低いと言えるのです。
 もう一度簡単に言いますよ。
 
 暴力犯罪者が傷害致死を犯す再犯率は28.9%(殺人・傷害致死による前科を含むと32.9%)
 物品目的犯罪者が強盗を犯す再犯率は33.1%(強盗も含むと34.2%)
 強制わいせつを含めた性犯罪者が強姦を犯す再犯率は13.1%です。

 
 これのどこを見れば「性犯罪は再犯率が高い」と言えるのでしょうか。
 むしろ性犯罪の方が一般凶悪犯罪よりも再犯率は低いと言った方が自然でしょう。
 暴力犯や財産犯を監視した方がよっぽど被害者は少なくなると言えるハズです。
 
 長くなりましたが、とにもかくにも、性犯罪は飛び抜けて再犯率が高いという科学的根拠はどこにもありません。
 むしろこれらの資料を見るに、性犯罪の方が暴力犯や財産犯よりも再犯率が低いとすら言えるでしょう。
 よって、「犯罪を防ぐ」という目的である中で、なぜ性犯罪だけを特化させるのかという部分については、まったく根拠がないのです。
 他の犯罪だって同じように再犯が起こる可能性があるのに、なぜ性犯罪だけなのでしょうか。
 どうせやるなら全ての元犯罪者に行うべきで、それこそ法の下の平等なのではないでしょうか。
 
 
 (つづく)
 



平成23年1月26日

 問題だらけの性犯罪者にGPS義務化 (下)

(つづき)
 
 3つ目は、特定の犯罪だけ条例によって罰を重くするコトになるワケですから、場合によっては今までは重かったモノよりも条例によって合計でそれを越える罰になる可能性があり、それは法律を条令が覆すという行為に他ならず、そんなコトは許されないというモノです。
 例えば、現在での刑法では強盗罪は5年以上の懲役刑となっている一方、強姦罪は3年以上の懲役刑と、強姦の方が罪としては軽いとされていますが、今回のこの条例が適用されてしまえば、場合によっては強盗よりも重い罰を強姦に科すコトになる可能性が出てしまいます。
 刑法を改正してならまだしも、法律の下位の存在である条例が、上位である法律を越えるコトは、本来許されない行為です。
 
 これは思想的には、議論の1つとしてはあり得ます。
 強盗よりも強姦の方が心身的に被害が大きいからより重い罰を科するべきだ、という議論は成り立ちます。
 しかしここで問題なのは、法律で体系付けられているこの順序を、法律より下位である存在でしかない条例が覆してしまうコトにあります。
 これは法律的にあってはならないコトです。
 もしこれを行うのであれば、法律を改正するという行為のみで変えなければなりません。
 強姦は強盗よりも罪が重いんだという主張であれば、これは刑法を変えろという主張にしなければならないでしょう。
 それを一足飛んで条例で行ってしまうのは、大変に問題のある行為だと言わざるを得ません。 
 
 以上の理由から、この条例は大問題だと、欠陥条例案だと言わざるを得ません。
 もしこのような規則を新たに設けるのであれば、刑法の抜本的な改正が必要です。
 すなわち、前提として犯罪者は刑期を終えても犯罪者は死ぬまで犯罪者であると再定義し、一度犯罪を犯せば生涯どのような罰を与えられても仕方ないとして、一律でGPSの義務づけを法律に明記します。
 例えば「懲役3年以上の罪においては、釈放後5年以上のGPS所持を義務づける」という感じです。
 こういう法改正をするのであれば、整合性は取れるでしょう。
 またその上で、例えば現行法では強制わいせつ罪は6月以上10年以下の懲役刑になっていますが、これにどうしてもGPSを義務づけたいのであれば、こちらの強制わいせつ罪を改正し、その罰を3年以上の懲役とするのが、法体系としては自然です。
 
 ただその場合、他の刑法とのからみを考えなければなりません。
 今まで強制わいせつよりも厳しいとされていた罪が、この改正が成れば、強制わいせつよりも軽いとされるようになるワケですから、ここの整合性は考えなければなりません。
 必要であれば、他の法律も改正する必要があるでしょう。
 
 人にGPSを常に付けさせ24時間監視下に置くコトそのものの是非の問題を今のところ考えないとすれば、このような法改正をするのであれば、一応の整合性はとれます。
 しかし、これはどうやっても条例でやるコトは不可能です。
 必ず法改正が必要です。
 下手すれば、刑法の考え方を根本から変える必要がありますから、もしかしたら憲法改正すらする必要がある可能性も考えられます。
 実はこの問題というのは、ここまで大きな問題なのです。
 
 近年性犯罪、というか、性に関する事柄については、ある意味過剰とも言えるぐらいの偏見が満ちあふれています。
 この辺は都条例とも関わってくるのでしょうけど、とりあえず性に関するモノについては、どのように扱ってもいいと、むしろ撲滅させてもいいと思っているフシが世間にはあります。
 こういう考え方が、今回のような問題に繋がるのです。
 なぜ他の犯罪にはGPSの義務化が言われないのでしょうか。
 それは、性犯罪だけが、というか性だけがおぞましい凶悪で病的で見たくも無いモノだという空気があるからです。
 性に対してだけは何を言っても、何もしても構わないと思われているからです。
 この風潮は絶対間違っています。
 そもそも「性犯罪は再犯率が高い」というデマがはびこっているコトがそもそも性に対する差別なのです。
 都条例などで問題提起している人は、こここそが根本的な問題なのですから、こういう問題には率先して声を上げるべきでしょう。
 何が問題なのかを考えてもらいたいです。
 
 繰り返しになりますが、基本的にこの手の「性犯罪者だけに過度な措置を施そう」という主張は、正しい事実とは違う捏造されたデータを元にした、デマを論拠とした主張です。
 性犯罪だけが飛び抜けて再犯率が高い事実など存在しません。
 である以上、様々な観点から性犯罪だけをターゲットにしたら新たな罰を設けるコトに正当性はありません。
 また同時に、刑期を終えた元犯罪者を公的機関が率先して差別してよいコトにもなりません。
 ここは感情論ではなく、キチンと理性的に合理的に考えなければならないでしょう。
 
 この性犯罪に対するある種の自由の制限という問題は時々話題になる話ですが、ついに条例にという話にまでなってしまいました。
 しかしこれ、いつも話題になるだけで、キチンとまともに議論は行われていないですし、整理もされていません。
 果たして条例案提出者も議会も、この問題はどこが問題で何が問題なのかを正しく理解しているのか、甚だ問題です。
 ただの感情論になってしまっているのではないでしょうか。
 法的な観点からも、犯罪被害や性の問題という観点からも、感情論ではなく冷静に論理的に考えてもらいたい問題です。
 



平成23年1月27日

 比べるなら条件を公平に

 web拍手でこのようなメッセージというか、疑問を頂きました。
 
 性犯罪全体ではなく、対幼児性犯罪は再犯率が高かったと思うのですけれど、そこはどうでしょうか。
 
 これもたまに聞く話ですよね。
 つまり、未成年や小学生以下ぐらいの子供に手を出す犯罪者は、また同じように低年齢の子供に手を出してしまうという再犯率が高いという話です。
 そしてこれには、そういう犯罪者は病的、というか病気そのものであり、隔離されて当然だと、そういう結論が付いてまわるワケです。
 
 まず、根本的な問題なのですが、この話の根拠をやえは見たコトがありません。
 客観的・科学的なデータの裏付けですね。
 「幼年者を対象とした性犯罪は再犯率が高い」というこのデータを、やえは見たコトが無いのです。
 先日の更新で用いました法務省が出している犯罪白書には、強姦や強制わいせつの再犯率は出していましたが、しかしその中でさらに未成年者や幼年者だけを対象にしたデータというのは載っていません。
 確かに「幼年者に対する性犯罪者の再犯率は高い」という話はたまに聞く話ですが、しかしこのように言うのであれば、当然として科学的な裏付けのあるデータが必要です。
 そもそも性犯罪の再犯率が高いというのも、数年前にマスコミが一斉に流したデマが未だに生きているモノであるワケで、前回話しましたように、学的には全く裏付けがされていないモノですからね。
 もちろんやえがたまたま知らないだけかもしれませんので、もしあれば教えてほしいと思いますが、データがない以上はこれはデマだと言わざるを得ません。
 
 その上でさらに考えなければならないコトがあります。
 再犯率という言葉にとらわれすぎてはいけません。
 結局この数字は何のために出すのか、その目的をハッキリと意識しておかなければなりません。
 
 例えば強姦の認知件数は犯罪白書による(PDFファイル)と、21年は1402件です。
 この数字は強盗よりもかなり少なく(強盗は4512件)、放火と同数程度(1306件)、殺人と傷害致死を併せたモノよりも多少多い(1222件)という数字です。
 よって特別多くもなく少なくもないという数字(強盗が飛び抜けて高いですね)ですが、しかしさらにここに、「幼年者を対象としたモノのみ」という縛りをかけた場合、当然それはもっと小さな数字となるでしょう。
 仮に全強姦件数の半分が幼年者というコトにしても700件、1/3にすると450件程度です。
 多分これでも十分多すぎる数な気もするのですが、さらにこれは発生件数(正確には警察の認知件数です)ですから、再犯率を出すならここからさらに、「幼年者を対象とした強姦発生件数÷幼年者を対象とした強姦を再び犯した件数」という数字を出さなければならなくなり、実数はますます小さいモノとなります。
 仮に母数を全強姦発生件数の1/3が幼年者を対象としたモノと仮定した450件という数字を用い、そして再犯率が3割と仮定すると、その実数は135です。
 つまり、幼年者を対象とした強姦犯罪者が再び幼年者を対象とした強姦を犯す可能性がある人数というのは、多く見積もっても135人程度なのです。
 全ての刑法犯の認知件数は239万9702件(交通違反は除く)もの中の、たった135人の話なのです。
 仮定の話ではありますが、たった135人のコトを刑法の大問題だと言って議論するというのは、ちょっといびつな構図と言わざるを得ないのではないでしょうか。
 それなら凶悪犯罪で飛び抜けて高い強盗の問題や再犯を考えた方が、よっぽど社会に対しては有益だと思われます。
 
 さらに、このような比較をした上で結論を得るという場合には、前提条件を公平にして考える必要があります。
 当然ですよね、結局「幼年者の再犯率が高いから特別な措置を執ろう」と言っているのですから、これは「他と比べてダントツに高い」という前提が無ければ成り立たない論であり、つまりこの論は必ず「他と比べている」という前提があるワケですから、よって比較するなら公平にというのは当然すぎる前提です。
 これはなんにでも、比較を用いる場合はそうです。
 例えばあまおちさんが某所で議論した時に、例の尖閣諸問題で議論相手が「中国はレアアースで世界各国に対してケンカを売って自爆したから、これは日本の国益であり、民主党政権の功績だ。自民党が政権だった場合は中国の自爆は無かったかもしれないが、プラスになるようなコトも出来ないだろう。だから民主も自民もどっちもどっちだ」なんて言ってたようですが、これ両党を比較しているのにも関わらず、前提が違うというのがお分かりでしょうか。
 中国の自爆というのは別にこれ民主党が仕掛けたモノではなく、自爆と民主党との間には因果関係が無いワケですから、これを民主党の功績と呼ぶには無理があります。
 しかしこの人は、民主党にはラッキーの部分を功績に加え、しかし自民党だった場合にはラッキーなどの運的要素を加えないという形をなぜかとっているワケで、こんなの全然比較の上ではフェアではないんですね。
 比較せずに民主党政権だけを評価するならまだしも、民主党と自民党の両者を比較するのであれば、前提条件はフェアにしなければなりません。
 でなければ、「比べる」という意味がありませんし、むしろ比較しながら前提がフェアでないというのは、公平を装っての片方への肩入れ行為であるワケです。
 この場合は、本来は民主党の大失態であるハズなのに、このように肩入れてして、民主党の失態を隠そうとしている意図があるのでしょう。
 
 ちょっと話がそれましたが、では「幼年者が対象」の場合はどうでしょうか。
 結局これは、対象を「同一事犯よりもさらに絞る」という行為をしています。
 もっと言えば、「対象をさらに絞った場合に、常習性の傾向が高まるのかどうか」という分析であるワケですね。
 ですから、対象を絞ったデータを取るという行為はいいのですが、そのデータを単純に、「対象が同一事犯のみの場合の再犯率」と比べるのは適切ではないのです。
 もしかすれば対象を絞れば常習性が高いコトが見えるようになるのかもしれませんが、しかしその「高い」という印象は、対象を絞っていない場合と比較しては、これは正しい分析にはならないというコトです。
 比較するなら、同じように対象を絞った場合のみでしょう。
 
 例えば、常習性が高いと考えられている犯罪の1つに、万引きがあります。
 これは窃盗罪での中も特にスーパーやコンビニに陳列されている商品を盗むという行為であり、この場合だけを仮に集計していたとすれば、もしかすればこれは常習性がとても高いというデータが出てくる可能性はありますよね。
 事実、平成21年度版の犯罪白書には次の一文があります
 
 万引きの再犯者は,万引きを繰り返す傾向が高く,その意味で,高い再犯性を有する者が見られる犯罪類型であるといえる。こうしたことを踏まえると,万引きの再犯防止は,重要な課題であり,その検討に際しては,ウ及びカでも述べるとおり,万引きの再犯者には,資質的な再犯要因を有する者が少なくないと考えられることも十分考慮する必要があろう。
 
 さらに万引きの場合は、お店の判断で警察に通報しない場合も多々あり、通報されても裁判までは至らないケースもありますので、これまで扱ってきた「再犯率」等の数字は基本的に裁判で有罪が確定した者の数字ですから、裁判までいらない万引き犯の場合というのはここに含まれていません。
 しかし「犯罪の常習化」という意味を考えるための再犯率を考えるのであれば、「以前は注意で終わっていたが、また万引きをして2度目だから裁判までいった“初犯”の者」も、再犯者と見るべきではないでしょうか。
 また未成年の時に万引きで補導されていたとしても、それは裁判沙汰ではありませんから、やはり再犯にはカウントされません。
 よって万引きの再犯率というのは、データ以上に潜在的数字が大きなモノである可能性が高いワケです。
 ただでさえ犯罪白書に「万引きの再犯者は,万引きを繰り返す傾向が高く」と書かれているのですから、こういう潜在的な再犯者のコトも考えれば、万引きの再犯率というのは、かなり高いモノではないかと想像されると言えるでしょう。
 
 幼年者への性犯罪者に対する特別措置というモノは、その背景に「常習性が病的であり、異常に高い数字をだしているから」という思いこみがあるワケですが、しかし果たして本当にそうなのかは分かりません。
 むしろ万引きの方が、「常習性が病的である」可能性は高いワケです。
 であるなら、性犯罪のみに特別措置を執るという理由が無くなってしまうんですね。
 特にGPS義務化というのは再犯を防ぐ目的そのものであるのですから、であるなら、まずは飛び抜けて再犯率が高いモノがあればそれを先にするか、もしくは全て犯罪に適応させるというのが、公的社会論としては正しいやり方のハズなのです。
 であればやはり、ここに性犯罪だけや、幼年者に対する性犯罪だけを対象にするというのは、正当性のない行為であると言わざるを得ないのです。
 
 再犯を防ぐ目的であるGPS義務化の問題は、データをいろいろと考えてみるべき事柄です。
 他にも例えば、これは身体的に常習性があるので他の犯罪とは単純比較できませんが、覚せい剤犯が再び覚せい剤違反を犯す再犯率は、なんと20年は56.1%という、とてつもない高い数字が出ています
 またそもそも、全体の数字である、「ある犯罪を犯した者が、また何らかの犯罪を犯す」という犯罪者としての再犯率と言うべきモノも、実はなんと41.5%もあるワケで、つまり日々裁判で有罪が確定した犯罪者の4割以上は再犯者なのです。
 正直、この数字を見れば、よく性犯罪の再犯率は3割なんて言われますが、しかし実は3割の再犯率というのは高いように見えて、しかし犯罪者が犯罪者になってしまう割合よりは低いのです。
 ですから性犯罪だけを特別に高いと言えるのかどうか、やえにはちょっと「特別に、病的に高い」とは言えないと思います。
 「人間上ある一定のエラーがでるのは仕方なく、その人間性の平均的な再犯率は4割であるが、○○という犯罪はこれを大きく上回り、これは異常な状態と呼ぶしかないので特別措置を執る」というのでしたら説得力はありますが、少なくとも性犯罪はそうでないのが現状なのです。
 
 今日色々と出しましたデータを見ても、やはり「全犯罪を対象にしたGPS義務化」の方が、パーセンテージで見ても再犯を防ぐ効果が高いというのが明らかになったと言えるでしょう。
 当然ですが総数は桁違いに、比べるほうが間違いなぐらい、全対象の方が多いワケです。
 ですから例えば、「幼年者を対象とした性犯罪の再犯率」が、全体の4割を大きく越え、6割7割にもなるというのでしたら、それはなんらかの措置は考えていいかと思います。
 正直それは覚醒剤よりも再犯率が高いのですから、医学的見地に立った方がいいでしょう。
 しかしそうでないのであれば、おそらくさすがに覚醒剤よりは多いとは思えません、そうでないのであれば、ここは冷静に考えるべきところだと思います。
 
 この問題に限らず、そのデータは確かなモノなのか、比較する際には前提が公平になっているのか、く全ての問題において冷静に見るべきところでしょう。
 



平成23年1月28日

 性犯罪は再犯率が高いとデマを作り出そうとしている犯罪白書

 今日もweb拍手でいただいたコメントからの話題です。
 
 犯罪白書では前科と再犯と両方ありましたが、どう違うんでしょうか?
 
 この前から資料として使っている「平成22年度犯罪白書」ですが、その「<第2部> 特集「重大事犯者の実態と処遇」(7編)」においては、再犯率と考えられる概念が2つ出てきます。
 1つは、43ページにある「前科」。
 もう1つは、44ページにある「重大事犯者の再犯の状況」です。
 どちらも、犯罪を犯した人間がその後犯罪を犯したという統計をとっていますから、どちらも「再犯率」というデータとして使用できるモノと思われます。
 
 で、やえもあの更新の後もう一回よく読み返してみたのですが、それでもよく分かりませんでした。
 なにがって、この両者の違いです。
 もちろん違いがあるのは分かります。
 おそらく調査の仕方が違うのでしょう。
 前科は文字通り現在有罪が確定した犯罪者の過去を洗った結果、前科がある者が何人いるっていう統計で、方や再犯の状況というのは、刑務所等から釈放された後に調査を開始して、その後犯罪を犯すかどうかを調査したというモノだと思われます。
 時間軸が違うワケですね。
 ただ、そういう調査の仕方が違うと言っても、実体としては何ら変わりません。
 調査開始の時間を固定して、その前か後かの違いがあったとしても、それは多少時代背景が違うだけであって、人間的な性質としての再犯率を調べるという意味においては、何ら違いはないでしょう。
 一体この両者何が違うのでしょうか。
 
 と、いくら考えても分かりませんでした。
 ので、ここは一発、法務省に聞いてみるコトにしました。
 法務省に問い合わせをするのは、人権擁護法案の時以来ですねぇ。
 
 で、その結果なんですが、なんと、やえが思っていた通りでした。
 単に調査方法が違うってだけだったんですね。
 よって、同じ犯罪を犯したという同一再犯率は、強姦の前科だと11.1%、再犯の状況だと9.4%ですが、これは「誤差」と言って差し支えないでしょう。
 さらに言いますと、これは問い合わせた結果なのですが、後者の場合は調査を1000人に絞ってのモノなんだそうですから、ではどちらが信憑性が高いかと言われれば、やはり全犯罪者を対象としている「前科」の方ではないかと、やえは判断します。
 というか、なぜわざわざこのような調査を取ったのか、22年版だけの特別調査らしいのですが、ちょっと意図が分かりません。
 
 ただし、穿った見方をすれば、次のコトを強調するため、いえ、数字のマジックを披露するために行ったのではないかと思わざるを得ません。
 
 犯罪白書44ページに「7‐2‐3‐1‐1図再犯状況(罪名別)」というグラフがあります。
 再犯を犯した者が、次にどのような犯罪を犯したのかを表しているグラフです。
 例えば強姦の欄の先頭の赤い部分は「同種重大再犯」ですから、ここの9.4%は「強姦を犯して罪を償って釈放された者が、その後また強姦を犯してしまった割合」となるワケですね。
 で、後ろのベージュ以外の部分を全部足し併せると、何らかの犯罪を犯すという再犯率なワケです。
 ですので、やはり強盗を犯した者が、一番再び何らかの犯罪を犯してしまう率が高いようです。
 
 その上で問題なのが、強姦の中にある緑の部分です。
 白書の説明書きにもありますが、ここは「類似再犯(性犯)」という部分です。
 さらにこの「類似再犯(性犯)」の詳しい説明を引用しておきましょう。
 
 5 「類似再犯(性犯)」は,調査対象者が犯した重大事犯の罪名が強姦である場合に,強制わいせつを含む犯行による再犯(同種重大再犯を除く。)をいうが,異種重大再犯に該当する再犯を除く。
 
 なんか難しく書いてますが、簡単に言えば「強姦を犯した者が、釈放された後に強制わいせつを犯した者の割合」です。
 ですから、もしこのグラフを見れば、「強姦と強制わいせつを併せた性犯罪者はやっぱり再犯率が高いんだ」と読み取ってしまう可能性があるでしょう。
 確かに同一再犯とこの部分を足し併せれば14.7%になりますから、強姦の8.3%に比べてかなり高いじゃないかと言えてしまうかもしれません。
 おそらく今回の調査結果は、これを狙ったモノと思われます。
 
 しかしよく考えてください。
 この「類似再犯(性犯)」つまり強制わいせつは、これは犯罪分類的に「重大犯罪」にはカテゴリーされていませんので、本来ここの前から2番目という位置には来ないハズのモノなんですね。
 分類的には本来、「その他再犯」の中に入っているモノです。
 しかもこの「類似再犯(性犯)」は、その名の通り性犯罪のみに付されている分類ですから、強盗とかには絶対に「類似再犯」は付かないワケです。
 例えば、強盗と万引の違いというのは、その手口が違う、前者は暴力的行為をもってしますが、後者は他人を傷つけるコトなくこっそりとするモノですが、しかし結果は他人の金品を奪うという意味で同じです。
 だけど強盗は重大犯罪で、万引きは重大犯罪には含まれていません。
 つまりですね、「(性犯)」というくくりを付けなければ、万引きも強盗の「類似再犯」と呼べなくもないワケです。
 そもそも類似再犯というカテゴリー自体が、別に法的に定められている用語ではありませんから、ここはもう付けたモン勝ちなところがあり、犯罪白書を作成した人の意図のままです。
 ですから、万引きを「強盗の類似再犯」と呼んでも問題はないでしょう。
 よって万引きを強盗の「類似再犯」と定義づけた場合、強盗の「その他の再犯」から万引きの人数が差し引かれ、その分、緑が新規に追加されるという形になるワケですね。
 再犯の総数は変わりませんが、青い部分がちょっと減って、緑の部分が新たに加わるという形です。
 
 さてこの場合、果たして強姦の性犯罪の再犯率が“他と比べて”高いと言えるでしょうか。
 
 これは、「問題だらけの性犯罪者にGPS義務化」でもお話ししたコトです。
 
 しかしそれなのに「強制わいせつを含めた性犯による前科の有前科者率」は、ここに範囲を少し広げているのですから、範囲が1つしか無いモノより数字が大きくなるのは当然でしょう。
 例えば「強盗」の再犯率を調べる場合に、他人のモノを盗むという同種だからという理由で「窃盗(万引き)」までをもこの範囲に加えれば、当然7.7%より大きな数字となるでしょう。
 これらを比べるのは、とてもじゃないですけど公平とは呼べません。
 これは数字のマジック、数学のマジックなのです。
 
 この辺です。
 結局こういう数字のマジックを、グラフという見た目で分かりやすいモノで「目くらまし」させようとしたのが、今回の特別調査だったと言えるではないかと思われます。
 しかし結果的には、やっぱり性犯罪だけが特別再犯率が高いという結果は出ていません。
 むしろ、性犯罪よりも再犯率が高い犯罪、暴力犯罪や金品目的犯罪などの方が再犯率が高いと言えるでしょう。
 それを裏付けしているのが、今回の犯罪白書なのです。
 目くらましで騙そうとしていますが、データを冷静に分析すれば、性犯罪の再犯率が高いというコトを証明している数字はどこにもないのです。
 
 この辺はもう一度後日、結果が分かりやすくなるような形でキチンとまとめるコトにします。
 
 このように、世間だけでなく、役所の方も、何が何でも性犯罪は再犯率が高いというコトにしたいようです。
 しかし、実際にそうであるなら別にそれでいいのですが、しかしデータの読み方を誤魔化して事実から遠ざけ、半ばデマを作るかのようなこのような方法は絶対に許されません。
 これは当サイトのいつも通りのスタンスですね。
 事実から目を背けても何もなりません。
 事実は事実として受け止めた上で、その事実をどう解決していくかを考えるのが、正しいあり方なのです。
 
 まぁそもそも結局こっちの「再犯の状況」のデータは1000人を対象にしたモノでしかなく、前科の全犯罪者対象とは比べモノにならない、というか実施する必要性が本来はないモノのハズです。
 結局はじめから、こういうイメージ操作をしようとしたのでしょう。
 今回のこの調査は、そんな悪意のあるモノでしかないのです。
 



平成23年1月31日

 口先政党民主党の本領発揮

 各地で話題になっていますけど、早くも民主党が先週末に予算委員会の強行開催をやらかしました。
 どうも新聞やテレビなどでは、共産党も含めた野党が党利党略のために審議拒否をしたというニュアンスで伝えているようですが、そもそもこんなの、ちょっと永田町事情に詳しい人ならそんなコトは成り立たないというコトぐらい常識と言ってもはいいハズの出来事です。
 この辺やはりマスコミは民主党と結託しているのでしょう。
 やえくりっぷで、こういう記事を取り上げていたところですが、まぁそういうコトなんでしょうね。
 ではどのように成り立たないのか、その解説をしておきましょう。
 
 一行ボードで紹介されたこちらのブログさんが金曜日の情報を分かりやすくまとめています。
 やえも色々と情報を集めてみましたが、だいたいこのような感じだったようです。
 
 この件については2点、滅茶苦茶なところがあります。
 
 まず1つは、この予算委員会が金曜日の午後に行われたという点です。
 これ、永田町の常識ではまずあり得ないコトです。
 普通国会議員、特に解散があっていつ選挙があるか分からない衆議院議員は、だいたい週末は自分の地元に帰って支援者の所をまわったり、会合に出席したりして、地盤固めをします。
 「金帰月来」と言って、金曜日に地元に帰り、月曜日に東京永田町に来る、こういう生活を多くの衆議院議員は日常として行っています。
 これには与党も野党もありません。
 大臣とかの要職にある人や、もう次は引退すると決めた人とかなら別ですが、選挙を備えている議員は与野党を問わず政党を問わずこのような生活をしているのですから、特に小沢元民主党幹事長なんかは本会議すら欠席して選挙活動していましたように、ここに党派の違いはあまりありません。
 ですから、金曜の午後にもなれば、永田町はわりと静かになり、当然国会の本会議とか委員会とか、その他の会議も行われないというのが慣例なワケです。
 
 もちろん金曜日に委員会を開いてはいけないという法や規則があるワケではありません。
 ですから、金曜日の午後に開催されたコトそれ自体をもって批判されるモノではありません。
 しかし、ここで重要なのは、そのような慣例が与野党問わずある以上、金曜日の午後という「特殊」な時間に委員会を開くのですから、開く以上は事前に告知をすべきだというコトです。
 会期末でもないこの時期に金曜日の午後に委員会を開催するだけでもあり得ないのに、それを告知無しで、すなわち二重の意味で騙し討ちしたこの行為は、本当にあり得ないと言うしか表現のしようがないワケです。
 
 こんなの政治や永田町に関わらず、全てのコトにおいて言えますよね。
 普通に考えてこの日にいないと分かっているのであれば、特別にその時間に会議をする場合は、キチンと関係者に開催すると告知するのが当然ですよね。
 極論ですが、法的には夜の10時とかに委員会を開いても問題ではありません。
 しかしもしそんな時間に委員会を開くのであれば、早めに「夜の10時に委員会するから、国会の中に残っておいてね」と言うのが常識でしょう。
 例えば、その日出張に出るのが分かっている人に、飛行機に乗るであろう時間に急に「いまから会議するからね。いないならお前、自分都合の勝手な欠席というコトにするから」なんて言ったら、誰だって怒るでしょう。
 民主党はこんな卑怯な騙し討ちをしたのです。
 
 先ほどのブログさんで、このような一文があります。
 
・28日、民主党は理事懇談会すら開かず。
 午後に入っても民主党側は日程調整すら行わなかったので
 当日午後に開会を決めて即開会ということはまずありえないため
 野党各党は審議が無いものとそれぞれの地元へと国会を出る
 
 国会の中の委員会は、その日程を決めるために委員の中から特に理事という役職を何人か決め、その理事で開催される理事会の中で協議を行います。
 ここでは理事懇談会(理事懇)になっていますが、細かい規定は違うのですけど、中身は一緒と思ってください。
 つまり予算委員会も、まず事前に理事会や理事懇が行われ、そこで各党の理事が協議して、何日の何時から開催すると決定があってから、委員会が開催されるという流れなワケです。
 しかし今回の与党民主党は、この流れさえ無視したのです。
 規定的には委員長が独断で開催するコトは出来るのですが、それにしても、理事会や理事懇すら開かず与党単独で決めてしまうというのは、あまりにも独断的すぎると言っていいでしょう。
 これでは何のために理事会というモノがあるのか分かりません。
 まして今回はしかも、金曜日の午後という、常識的にはあり得ない日程だったのです。
 なおさら理事懇でも開いて協議する必要があったのではないでしょうか。
 
 もしそれで与野党物別れになったというのでしたら、まだ分かります。
 しかし、協議すらせず、民主党の議員だって通常は金曜の午後は東京にいないという空白時間を狙って、野党が東京にいない時に急に委員会を強行したというのは、もはや最初から意図的に狙って騙し討ちをしたとしか捉えようがありません。
 共産党すら騙してですね。
 つまり民主党の中には、もはや話し合いとか協議とか、そういう考え方は無い、自分の考えに従うのが当然だと、そう思っているのでしょう。
 
 2点目の民主党の非常識は、ここにあります。
 菅総理や民主党の幹部は、今年になって野党になんと言っていたでしょうか。
 そうです。
 与野党協議をはじめましょうと、もうしつこいぐらい各地で言っていますよね。
 その割には与党案を一切出さずに、野党案を丸パクリしようとしている意図がミエミエなのですが、それでも建前的には民主党は、自民党と政策協議をしようと呼びかけているワケです。
 
 しかし常識的に考えて、こんな騙し討ちをされて、それでも協議にヒョコヒョコ顔を出す人がいると思うでしょうか。
 
 つまり民主党の言っているコトはこうです。
 「参議院選挙では負けたから参議院で野党の意志を無視しては可決できなくなった。だから与野党協議をして参議院でも政府案に賛成して欲しい。ただしオレらの言うコトには従え。何を言われても反対するな」
 今回のコトで、協議をしようと言っていた方が、自らの意志だけを通すために、その協議の場ごとぶち壊しにしたワケです。
 結局協議の場なんていうのはアリバイ作りでしかないのでしょう。
 民主党の言っているコトは、結局は「自分の言うコトに逆らうな」というコトだけなのです。
 これでもし自民党が民主党の協議に参加すると言ったら、どんだけドMなんですかと聞きたくなります。
 
 協議とか議論とかいうモノにおいて一番大切なモノは何かと聞かれれば、それは信頼関係です。
 特に、相手をたたきつぶそうという目的ではない、現実社会の中での政治における、何かの結論を出さなければならない議論においては、議論する者の間の信頼関係は絶対に必要です。
 自分のメンツだけを気にしてその場だけの言い逃れに終始する言葉しか吐けないのに、それを議論だと言ってしまう人が特に最近増えている中で、しかし政治における議論では絶対に信頼関係がなければ結論が出せません。
 議論は議論として、最後には着陸地点を見つける努力をお互いにしなければ、結論を出すなんてコトはできないですからね。
 それほど政治における協議・議論では信頼関係が大切なのに、「協議をしよう」と言った舌の根も乾かぬうちにこの騙し討ちをしていては、いったい民主党は何を考えているのか、記憶能力というモノがないのか、それとも本当に馬鹿なのか、なんとも言いようがないのです。
 
 協議を求めたのは民主党です。
 であるなら、野党の言い分をある程度聞いた上で、譲歩と妥協をしながら協議していく、民主党の方から歩み寄って議論していくというのが、これは政治に限らず全ての人間社会において当たり前の行為でしょう。
 協議をしましょうと言っている人間が、「でも言うコト聞かないなら一人で勝手にやるから」なんて言えば、そんなの「じゃあ勝手にどうぞ」となるに決まってますよね。
 しかし民主党は今回それをやったのです。
 民主党は何がしたいのでしょうか。
 はじめから協議なんてする気はない、ただのマスコミ向けのパフォーマンスだったと言わざるを得ないのです。
 
 ちょっと永田町に詳しければ、こんなの簡単に分かるコトです。
 マスコミやその記者が分からないハズはありません。
 しかしこれをキチンと伝えているところは皆無です。
 結局そういうコトなんですよね。
 民主党とマスコミは結託しているワケです。
 果たして日本の政治はどうなってしまうのでしょうか。
 
 
 と思ったら、今日の午後に予算委員会が開催されたようです。
 自民党はドMですね(笑)
 ただこれも、マスコミを取り込んだ民主党の思うツボと言ったところでしょうか。
 それだけに、民主党が今国会でまたどれだけの滅茶苦茶な国会運営をするのか、どこまで我が儘を貫こうとするのか、それはしっかりと監視しておかなければならないでしょう。
 



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