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平成23年7月1日

 差別用語問題についてのご意見

 というワケで、今日は、乙武さんの「僕はカタワです」発言から始まりました問題について、いただいたコメントにレスをするという形で、もうちょっと考えてみたいと思います。
 
 
 実際ゲゲゲの鬼太郎のアニメでも、本来ならば「片輪車(かたわくるま)」という妖怪の名前が「かたわというのは障害者に対する差別だ」ということで、「片車輪(かたしゃりん)」という名前に変更されてしまいましたからね。昔も「あしまがり」という名の妖怪に「あしまがりは足が不自由な障害者の方々に失礼だ」という、障害者の方々からしてみればどうでもいい理由で伏せられてしまいましたし・・・。こういうのを言葉狩りというのではないだろうかと思います。
 
 片輪車については、これ、本当にデタラメですよね。
 順番が逆なワケで、つまり差別用語とされる「カタワ」とは、手や足の片方が不自由な方に対して、一方の輪が無い車を比喩として使った名詞であって、よって一方の輪が無い車のコトを「片輪(カタワ)」と呼ぶのは、本来一般名詞のハズなんですよね。
 こんなの例えば、「障害者」が差別用語だと仮定した時に、では陸上のハードルを跳び越えて早さを競う「障害走」も、これは障害者に対する差別だと別の用語に帰られてしまうと言うのと同じワケです。
 障害は障害ですよね。
 これもまさに、言葉だけの意味を考えてはダメだという、かなり分かりやすい例でしょう。
 
 
 
 差別用語、確かにそう思います。が、あえて反対の考えをするなら「相手が嫌がるかもしれない単語をあえて使うことは、相手のことを慮ることを放棄するのと同じじゃないでしょうか?」とも考えられます。例えばトイレも雪隠・はばかり・用を足すと表現がありますが、食事してるときにトイレに行きたくなって、相手に「クソしてくる」と言うか、「用を足してくる」と言うかで、響きが違うと思うのです。意味は同じだけど、言葉のオブラートみたいな。まあ、昨今の言葉狩りみたいな風潮はよろしくないと思うので、差別用語を使うなってのも変な話だと常々思います。言葉を変えたって意味は同じだし。
 
 これ、乙武さんはこのように言っていました
 
 3.「傷つく人がいるから、公の場で使うべきでない」なら、「背が高い」「おぼっちゃま」「色が黒い」だって、公の場で使わないほうがいい。その言葉で傷つく人も、少なからずいる。でも、そんなのバカげているでしょう。目の前の相手の気持ちを考えて、言葉を選ぶでしょう。僕らには、その力がある。
 
 4.なのに、障害者に関する呼称については、一対一の関係性を無視して、一律に、社会的に、「カタワ」「めくら」「つんぼ」はNGとされる。それが、なぜなのか――という疑問を提示したいのだ。その決めごと自体が、障害者に接することを腫れ物にさわるような関係性にしてしまっていないだろうか。
 
 5.誤解のないよう言っておくが、僕は他人様に向かって「カタワ」だの「ダルマ」など口にしたことは一度もない。すべては、自分について。それでも「そんな言葉使うべきじゃない」と言う人がいる。「傷つく人がいるから」と。それなら、「僕は背が高いんだ」も言えなくなる。その語に傷つく人がいる。
 
 6.相手を傷つける言葉を言っちゃダメ。そんなの当たり前。小学校で習ったでしょ。でも、相手がどんな言葉に傷つくかは千差万別。その関係性から探っていくしかない。そこに思いやりが生まれ、ひょっとしたら愛が生まれる。でも、対障害者には、初めからオールNG。「探っていく」が飛ばされている。
 
 その言葉を誰に対してどのような場面で使うかっていう問題なんですよね。
 確かに、2人で食事中に「うんちしてくる」なんて言われたら、やえはイヤですよ(笑)
 でも「ちょっと花摘みに」という表現は日本語独特の言い回しですよね。
 ですから、こういう場面では「相手が嫌がるかもしれない単語は使わない」というのは正しいと思います。
 
 ただ、一般論としてお話をする場合は、それはちょっと「自分がイヤだから」では理由にならないかと思います。
 例えば「うんちしてくる」にしても、さすがに正午ぐらいにテレビで堂々と放送されれば配慮しろと言われるかもしれませんが、夜中の2時とかでギャグとしてそんなセリフが出てきたとして、「自分はいまちょうど食事をしていた。気分が悪くなった。人の気持ちを考えろ」とか言われても、それはちょっとどうかなって思いますよね。
 こんなコト言い出したらキリが無いですから。
 この前も言いましたようにプロレスの話にしたって、例えばプロレス観戦中に事故に遭ってしまった人が、もう二度とプロレスなんて見るかって思っているのに、当サイトにたまたま来たらプロレスの話をしていて「傷ついた。どんな人が来るか分からないんだから配慮しろ」なんて言われても、やえはそんなコト言われても困りますとしか言いようがなくなっちゃいます。
 だから、ちょっと最近やえが罵倒語を使いすぎているとお叱りを受けているんですけど、そういう気遣いはあってしかるべきだとは思いますが、こういうコトも含めてのケースバスケースでしょう。
 
 そもそも「使ってはならない」のと「使わないで」というのは、けっこう違う意味合いです。
 「使わないで」というお願いの場合は、結局はお願いする方とされる方の信頼関係があってこその話です。
 信頼関係があるから、お互いのその言葉をこの場面で使うコトが適切かどうかの再確認が出来るワケで、また信頼関係があればこそ「いやこの場面はどうしてもこの言葉を使わなければニュアンスが伝わらないから」と、逆にお願いするコトだってあり得る話になるでしょう。
 信頼関係があるんだからこそ言えるコトはたくさんあるハズです。
 
 では信頼関係が成り立たない、1対多数とか、一般論の場合はと言いますと、それはやっぱり文脈から読み取るしかないでしょう。
 発信者も受信者も対等に信頼関係がないと考えれば、それはお互いが自律して努力しなければなりません。
 「この文字は見たくない」で立ち止まってしまうのではなく、こういう場面ではこう書くのが適切だろう、こういう場面ではこう読み取るのが適切だろうと、どちらも一歩立ち止まって考える必要があるのです。
 それでもし意見が言いたいのであれば、それを冷静に伝えると。
 それでさらに意見が違うなら、それはそれで議論になるワケですね。
 
 ですから、信頼関係があってもなくても、本来は「私はこの文字を見たくないから書くな」と強制するようなコトは、誰にだって言えないハズなのです。
 これは差別問題に限らず全てのコトに言えるコトで、こういう他者との関係性を考えながら、物事を伝えるというコトはどういうコトなのかを考えなければならないのではないでしょうか。
 
 
 
 基本的に私は、言っている事に賛成です。ただ、差別用語を深く考えずに使う人が出てくる事を危惧します。そして障碍者自身が、どう思うと言う事についてが解りません。これは、てんかん患者の人のブログです。
 名誉健常者って呼んだら怒る?|てんかん(癲癇)と生きる : http://ameblo.jp/moonsun3/entry-10936389385.html
 この記事には考えさせられました。乙武氏の発言に対しては、まだ判断を保留中です。
 
 いつもコメントありがとうございます。
 やえもそのブログさん拝読しましたが、これはちょっと、お返事を書こうと思えばまた数回にわたるような分量になってしまうと思います。
 でも書きたいのでまたの機会にしようと思いますが、正直やえには、もちろん理解できる部分も多いのですが、そのブログさんの意見に首をかしげる部分もありました。
 
 例えば「てんかんの○○さん」と呼ばれるのはイヤだとおっしゃっていますが、それはさっき上で話しましたように、基本的には信頼関係がある程度出来ている間柄での話ですよね。
 でも一般論として「てんかん」という言葉をどう使うかという問題においては、この「てんかんの○○さん」の是非は関係のない話でしかありません。
 「カタワ」という言葉そのものの議論であるのですから、ここで持ち出すのであれば、「てんかん」という言葉を使うべきか否かという議論になってしまいます。
 でも、このブログさんは、「てんかん」という言葉の是非までは言っていませんよね。
 よって、ここはちょっと本題からズレてしまっている議論だと言わざるを得ないでしょう。
 
 今回取り上げました乙武さんのツイートは、「アホの坂田」さんから始まっており、自称する場合の「カタワの乙武」はどうなんだという発言が最初でした。
 で、議論としては「カタワ」という言葉そのものの是非になりましたが、結局最初から最後まで、あくまで自称であるというところは乙武さんも一貫しています。
 他の障害者に対して、「お前もカタワなんだからカタワと言え」なんコトては言ってないワケですね。
 ですからこの場合の議論としては、仮に「カタワの乙武」と芸名を付けた場合どうなんだと、「てんかんの乙武」と芸名を付けた場合どうなんだと、こういう議論になるハズです。
 それで他人がどう受け止めるか、ですね。
 だからやっぱり、
 
 もし街で私を見掛けたこの会社の人物が、「てんかんの○○」と呼び掛けてきたら、私は暗い気持ちになってその場を逃げるか、抑えきれない怒りで全身が震えることでしょう。
 
 っておっしゃるのは、ちょっと議論としては主題からズレている気がしてならないのです。
 自分が呼ばれたくないから呼ぶなっていうのは、それは主張としてはいいと思いますし、それは周りの人との関係性の話になりますが、しかしそれを超えて、例えばやえがここで「てんかん」という言葉を使ったり、他の人が「てんかんの○○でーす。よろしくお願いしまーす」と自己紹介した場合、これを第三者がどう受け止めるのか、またてんかんの人がどう受け止めるのかっていう、そういうお話が今回の主題ですから、自分が呼ばれたらどう思うっていうのは、ちょっと違うワケです。
 
 やえは、決して乙武さんは
 
 『乙武さんが「カタワ」という言葉を使っていいって言ったよ。僕らも障害者を「カタワ」と呼んでいい可能性が示されたよ。言葉狩りなんて馬鹿らしいよね、糞食らえ!』
 
 という意図でツイートされたのではないと思っています。
 もっと強い覚悟と社会提起を、乙武さんは今回だけでなく、常に、自らの体を文字通り張って、問題提起をしているんだと思っています。
 前のレスで「発信者も受信者も対等に信頼関係がないと考えれば、それはお互いが自律して努力しなければなりません」と書きましたように、そういう関係の場合は、やっぱり真意をどこまで読み取るのかというのは、差別問題に限らず大切なコトでしょう。
 やえとましては乙武さんからはそれぐらいのコトは読み取れると思うのですが、もしかしたらそれはやえの深読みのしすぎの可能性も否定は出来ません。
 でも、乙武さんが障害者をバカにしているとか、差別する目的のために書いているワケでは絶対に無いというコトは、誰でも読み取れるコトが出来るでしょう。
 
 その上で「差別用語を深く考えずに使う人が出てくる事を危惧」というコトに関しては、これはもはや乙武さんが云々とは関係ない話になってしまうでしょう。
 仮に乙武さんの力によって「カタワ」という言葉がメディアでも普通に出てくるようになって、その結果として心ない人がカタワという言葉を差別的に使ったとしても、それはもはやその人に帰されるべき責任です。
 乙武さんのせいと言ってしまうのは無理な話だと思いますし、そして同時に「カタワ」という言葉のせいでもありません。
 結局そういう差別心を出すその人の心の問題です。
 人間の性根の問題です。
 どんな言葉であろうと無かろうと、そういう差別的にその言葉を使おうとした、まさにその動機こそが、もっと責められるべき原因なのです。
 
 こう考えると、やはり言葉の単語だけを切り取ってそこに意味を見いだそうとする行為が、いかに無意味なコトかというコトが分かると思います。
 結局、差別心はその人の心の問題であって、差別を無くす方向とは、人の心をどうするのか問題なのです。
 でも、人の心をどうにかするというのは大変難しい問題です。
 よって難しいので、言葉の問題に変えてしまうという安易な道にすり替えて、それでどうにかしたと安心感を得ようとしてしまっているのではないでしょうか。
 
 ちょっと長くなってしまいましたが、引き続きご意見お待ちしてます〜。
 



平成23年7月4日

 差別問題を考える上では、まず出口をどこにするかを考えて

 差別問題を考える上では、まず出口をどこにするかというコトを考える必要があるんだと思います。
 つまり、「どのような状態が差別ではない状態なのか」という問題です。
 
 例えばやえは以前言いましたように、障害者の差別問題というのは、「障害があってもなくても、それは1人の人間として同じように接するコトこそが本当の差別無き社会」という風に考えています。
 障害者の人が同じクラスになれば、もちろん他のお友達と同じように接しますし、その場合やっぱり人間関係ですから合う合わないがあって、自分のグループとは合わなければ、他の健常者の違うグループのクラスメイトと同じように接するコトでしょう。
 たまたま仲がよくなれば同じグループになるかもしれませんし、親友になる可能性だって否定できません。
 ここに障害者だから特別に扱おうとか、また避けようとか、そういう気持ちはありません。
 健常者も障害者も同じです。
 そしてまた、自分に迷惑がかかるようなコトがあれば、それに反発するというのも、健常者に対するモノと同じ反応です。
 社会でも同じですよね。
 営業先で障害者の人が出てきても、普通に名刺交換して商談するでしょうし、また同じ会社の部下として障害者の人が配属されても、健常者の人と同じように、褒めるべきところは褒めて、叱るべきところは叱るべきでしょう。
 そして、障害によって難しい作業があれば、それは手助けしますよね。
 それは、高い場所にある書類に手が届かない背の低い人を目の当たりにすれば手助けするのと同じ気持ちです。
 障害があるからとかではなく、人間として手助けするワケです。
 やえは、こういう意識を持つコトが、差別を無くすコトだと思っています。
 
 しかし違う考え方の人もいるでしょう。
 例えば「障害者はある程度特別扱いして当然だ」というような考え方の人です。
 「障害者なんだから仲良くしなさい」とか、「障害者が書いた絵なんだからみんな買いましょう」とか、そういうコトを言う人は、おそらくそのように考えている人なんだろうと思います。
 前のお話の時に出しました、あまおちさんが迷惑をかけられて愚痴ったら、それをもって「身体障害者を蔑むのは何処かの国の風潮みたいで感心しません。」と言い出した人なんかも、障害者を特別扱いしろという考えなのでしょう。
 障害者は可哀想なんだから、他人に迷惑をかけても、健常者はジッと耐えて、愚痴すら吐いてはならないと、ただ堪え忍ぶのが差別がない状態だと、そう言いたいんだろうと思います。
 
 まぁどちらが正しいかとかは、ここでは言いません。
 もちろんやえはやえの考え方の方が正しいとは思っていますが、これは社会として議論すべき問題ですから、ここで結論を出すようなモノでもないでしょう。
 最近てんかんの人が自動車事故を起こすという事故が相次ぎ、それに対して批判が起きていますので、またこういう議論は出てくるかもしれません。
 刑法にしても、障害が理由なら罪に問われないとする規定には理不尽に思っている人は少なくないと思いますし。
 だからこの出口の議論というモノは、これからもシッカリと国民の中でしていかなければならないと思います。
 
 ただ考えてもらいたいコトは、実はこの問題はこの出口の議論を行って、その上である程度の結論を出さなければ、その出口に至るまでの「過程の方法」も決められないという問題があるというコトです。
 この前連載しました「何を持って禁止用語とするのか」では、やえの考える差別問題の出口は「障害があってもなくても、それは1人の人間として同じように接するコトこそが本当の差別無き社会」だと思っていますから、それを前提に書いています。
 よって「カタワ」という言葉も、自称する場合や一般論として使う場合は、そこまで配慮する必要はないんじゃないですかとやえは言っていますし、その中でバカという言葉などと比較したり、一行ボードで頭皮が不自由な人がお怒りになっているようですが(笑)、まぁこうした冗談も一応社会では今のところ通用していますから、ハゲをネタにした芸人さんもいらっしゃって普通にテレビに出てますよね、ですからこれらと同じように障害者の問題だって考えるべきだという、これはやえの出口の部分での考え方に沿った意見であるワケです。
 でも、やえとは出口の考え方が違う人の場合は、またこの部分での考え方も変わってくるでしょう。
 極端な「障害者は特別扱いしろ」という人の場合だと、やもすれば「障害者がイヤと言うモノは全部禁止しろ」という意見になるかもしれません。
 だからこの前の連載に対しても、「とにかく障害者がイヤだって言うんだから、カタワっていう言葉は金輪際口にするな」っていう考え方の人もいるかもしれません。
 これは出口が違うので、過程も違ってくるワケです。
 
 このように、対応をどうするかというコトを考えるのであれば、まずは出口を、「どうすれば差別がない状態なのか」という意見をハッキリさせなければ言えない問題なのです。
 差別を考える場合は、まずここの部分を明らかにしてからでないと、議論にはならないのです。
 ですから、まずは「どうしたら差別がなくなるという状態なのか」という部分を考えて貰いたいです。
 皆さんまず、差別問題を考える場合は、まずここの出口の部分から考えて見てください。
 
 言わば、理想はどこにあるかです。
 そしてそこが固まれば、では理想を達成するためには何をすべきかが見えてくるでしょう。
 どうすれば差別はなくなるでしょうか。
 



平成23年7月5日

 今すぐ原発に変わるという案は存在しない

 松本復興担当大臣の件については、いっぱい言いたいコトあるんですが、絶賛自粛中のやえです(笑)
 まぁテレビやネットでも、だいたいキチンと批判されていますし、とは言っても既存マスコミはそれでも自民党時代を思えばかなり手ぬるい、自民党であればすでに辞任騒ぎになっててもおかしくないぐらいのデタラメ発言とは思いますが、アンタッチャブルではなくキチンと批判されているので、やえが取り扱うコトもないでしょう。
 変わりにあまおちさんがツイッターで色々と言っていますので、テレビとかで物足りない方は、そちらをどうぞ。
 あまおちさんのアカウントはこちらとなっています。
 
 http://twitter.com/amaochi
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 あ、辞めましたね。
 当然と言えば当然です。
 やれやれです。
 
 さて。
 原発についてやえはどう考えているのかというご質問を頂きましたので、いろいろと書いてみようと思います。
 
 まず最初に、原子力による発電を今後どうするのか、続けていくべきなのか、それともやめるべきなのか、ここの問題ですが、やえは、今すぐ原発を止めるという選択肢はあり得ないと思っています。
 実際今年は電気が足りないって言ってますよね。
 でも地震や事故がなければ今年も普通にかなり厳しい節電をしなくても電気が使えていたワケですから、今のところの日本の設備では原発がなければ電力が足りないというコトなワケで、それなら原発は使うべきだと思います。
 実は原発を存続させるために東京電力がウソをついているんだとかいうお話もチラホラ聞こえてくるところではありますが、やえにはその真偽を確かめる術はありませんので、とりあえず公表されている情報が事実であればというコトで話を進めます。
 原発利権だとか言っている人もいますが、どちらかと言えば自民党的にはダムの方が作りたかったと思いますので、それだけが原発絶対主義の根拠とするのは薄い気がしますし。
 というワケで、やえは、短期的には原発は必要だと思っています。
 
 中長期的には分かりません。
 というか、よく中長期的っていう言葉が出ますが、これがどれぐらいのスパンを指すのか明確ではありませんから、なんとも言えないというのが正直なところです。
 例えば50年後の世界では、もしかすれば新しい効率の良いエネルギー資源の発見や発電の方法が開発されている可能性は否定できないのですから、そうすれば原発や火力などを無理して維持する必要もないワケで、その場合は当然原発はやめてしかるべきと言うところでしょう。
 
 しかし、そういうモノが無い時代での話をするのであれば、いま現実的な代替案は風力ですとか地熱ですとか太陽光ですとか言われているところですけど、しかし残念ながらそれらが原発の変わりになるとはとてもじゃないですけど思えません。
 太陽光のソーラーパネルにしても、最近だいぶ効率が上がってきたという話でありますが、しかしそれを設置するための費用が莫大ですし時間もかなりかかりますし、それこそ「中長期的」であればある程度のメドをたてるコトが出来るかもしれませんが、少なくとも今年の夏や冬、来年とかには全く間に合わない話でしょう。
 むしろソーラーパネルとは、「原発を稼働しつつ徐々に普及させていって発電割合を変えていくと」いう性質のモノであるワケで、ですからここの部分で「原発の代替案」には成り得ないのです。
 おそらくこれは、まだまだ研究段階、発展途上段階である風力や地熱なども同じコトが言えるんでしょう。
 これらは、原発稼働と同時並行的に進めるべきモノなのです。
 
 短期的な「原発の代替」という意味で考えれば、それは物理的現実的に、どんなモノだって不可能です。
 火力発電を増やすというコトになっても、その建設には時間がかかります。
 少なくとも今年の冬には間に合わないでしょうし、来年もちょっと難しいですよね、おそらく。
 だからどうやったって、今のところ短期的には原発を動かすしか選択肢がないハズなのです。
 ここをまず1つ冷静に考えるべきでしょう。
 今年の夏だって企業を中心に節電騒ぎでかなり混乱が生じそうですし、経済にも大きな悪影響が出かねないですから、夏が終わってから結果的に日本経済に大きなダメージとなった場合、節電すればいいじゃないっていうある意味の根性論だけではなんにもならないというコトは考えるべきです。
 
 将来的にどうするかという問題は大いに議論されるべきです。
 しかしそれはあくまで将来どうするかという問題であって、いますぐどうにか出来るコトではない以上、原発の代替案にはなりません。
 将来の議論も結構ですが、しかし今すぐの喫緊の問題も同時に考えなければなりません。
 そしてその結果としては、やはり原発は稼働させるしかこの電力不足を乗り切るコトはできないと言うしかないのではないでしょうか。
 他に案があればいいのですが、やえはそれを聞いたコトがありませんし、そしてやえも思いつかないのです。
 
 その上で冷静に考えるべきは、これは原発の存在が悪なのか、それとも事故したコトが悪なのかという議論がごちゃ混ぜで進んでしまっているというコトです。
 いまは勢いに任せて前者を前提としたかのような主張が横行していますが、これは無茶な議論なんですね。
 原発を作ったコトが悪いコトだったと言っている人が少なくありませんが、しかし原発が作られていたコトは国民全員が知っていて、その上で国民全員がそこから作られる電力を享受していたのですから、いまさら悪いと言うのであれば、他人のせいにせず自らの懺悔があってこそであり、全国民の責任であって、そして日本の経済が衰退しても、最悪江戸時代のような暮らしぶりになっても構わないという覚悟が無ければ、そのようなコトは言えないハズです。
 原発がいま日本にあるコトが間違いだったと言うのであれば、それぐらいのコトを言っているという自覚をもって責任をとらなければなりません。
 
 ですから、事故を起こしたコトが問題のハズなのです。
 原発が存在していたコトは日本国民全員が、積極賛成ではないにしても少なくとも黙認はしていたワケで、さらに電気も使っていたのですから原発は反対ではなかったというのが妥当としか言いようが無く、では何が間違いだったのかと考えれば、やっぱり、事故を起こしたコトが問題だったのです。
 いままで安全だと、絶対に事故は起きないと言っていたのに、それでも事故を起こしたのですから、それは事故を起こしたコトが間違いなのです。
 いまの状態がある程度落ち着けば、なぜ事故になったのか、地震で事故したのか、津波で事故したのか、当時の想定と装備はどうだったのか等検証されるのでしょうけど、結果的に事故になってしまったコトは、これは東京電力は猛省し責任をとらなければなりません。
 だから、現状では原発を使わざるを得ない状況なのですから、いまやるべきは、決して原発を叩くコトなのではなく、地震や津波や台風などの自然災害への対策をどうしていくかです。
 なぜかいまそういう議論が出てきませんよね。
 原発は悪だと、無くそうという非現実的な議論、代価案が全く出てこない議論ばかりが横行して、しかし災害対策の議論は全然出てきません。
 仮にもし原発を止めても、それでも原発が完全冷却されるまでは数年かかるのですから、どちらにしても原発施設の災害対策は最急務のお話のハズなのです。
 ここは感情的にならず、原発憎しに囚われるのではなく、現実に即した冷静な議論が必要なのではないでしょうか。
 
 人が生きるために背負っているリスクは、なにも原発だけではないハズです。
 すでに海辺に家を構えるだけでも大きなリスクだというコトは明らかになりました。
 でも、それに対して「いますぐ逃げろ」と主張する声はほとんど聞こえてきませんよね。
 こういうコトも含めて、人が生きるためのリスクとリターンのバランスを見ながら、原発問題も現実的に考えいかなければならないと思います。
 



平成23年7月6日

 原発をとめても、すぐには安全にならない

 今日はちょっと時間がありませんので、簡単にもうちょっと原発関係の電力のお話をしましょう。
 さっそく一行ボードでご意見を頂きましたので、そのお返事というコトで。
 
 名無しサン<07/06 07:52>
 その対策に何年かかる?その間にまた津波来るかも。そこは考えないの?
 
 これ、浜岡原発をどういう権限でか知りませんけど菅直人総理が止めた時にも言いましたし、地震発生直後にはよく報道されたのですが、原発って止めてもすぐに安全な状態になるっていうワケではないんですよね。
 発電作業を止めても、それだけで放射線や放射性物質が飛び散るのが収まるワケではないらしいのです。
 実際事故を起こした福島原発も、発電作業自体は地震発生直後数秒で止まっています。
 でも、それが止まった後も原子炉等を冷却する必要があり、しかしそのシステムが壊れてしまったから、いまこのような状況になってしまっているんですね。
 つまり原発や原子炉というモノは、一度動かしてしまえば発電作業を止めてもそのまま放置してはダメなモノであり、ましてその施設が壊れてしまうようなコトになってしまえば、大変に危険なコトになってしまうのです。
   おそらく原発の、というか、原子力を人間が利用する場合の最も大きなリスクが、この「安全な状態になるまでに膨大な年月がかかる」という点です。
 日本には青森の六ヶ所村に放射性廃棄物埋設施設がありますが、こちらのサイトに書いてありますように、低レベル放射性廃棄物でさえ、かなり厳重に廃棄物が処理されています。
 つまりこれを逆に言えば、普通の状態にしていれば危ないという意味になるワケですね。
 このように、原子力を一度使ってしまえば、非常に長い年月、もしかすれば半永久的にその安全性には相当な注意を払わなければならなくなってしまうのです。
 これが原子力を人間が利用する是非の論点になっている理由なんですね。
   ですから、最初の質問に戻ってですね、「その対策に何年かかる?その間にまた津波来るかも。」とのコトですけど、どっちにしても、発電作業を止めても止めなくても、対策が出来ていない間に大地震や大津波が来て、今回のようなトラブルが起きてしまったらアウトなんです。
 いま発電作業を止めれば、その数十年後の安全の面では差が出るかもしれませんが、しかしいま現在から数えて数年のコトを考えれば、こういう意味からほとんど差はないと言っても差し支えはないでしょう。
 だからこそ、やえはまずは、いますぐの原発施設の災害対策をすべきだと思っているのです。
 原発を止める止めないの議論は、その後でも十分なのです。
 



平成23年7月7日

 コメントレス

 はいはーい。  今日は木曜日ですのでコメントレスの日でーす。
 
 ところで前回お叱りをいただいた件ですが、民主党は手を変え品を変え、日本を埋没させるために日々努力されていて、言いたいコトが日替わりに出てくる毎日なのですけど、やっぱりそんな更新ばかりだと当サイトの良さが消えてしまいますので、これからは、初心に返りましてテレビや新聞など既存マスコミがあまり取り上げないような事柄、例えば自民党がどれだけ復興を頑張っているかや、不信任案に対する反応等、そういうモノを中心に取り上げていきたいと思っています。
 批判するにしてもですね。
 テレビやマスコミが言っているコトを、さらにやえがここで言ってもあまり影響は無いワケですし、だからこそ他が言わないコトを取り上げるという、以前はそういうスタンスでやえはやっていたのですから、今後はそういう風に意識してやっていきたいと思います。
 民主党なんて、もはや取り上げなくても、そんなのいましたっけぐらいな感じでいいんですよね(笑)
 ご批判ありがとうございました。
 
 ので、この前も言いましたように、激しい突っ込みはあまおちさんにお任せしますので、ツイッターのアカウントをお持ちの方はフォローしてやってください。
 
 http://twitter.com/amaochi
 
 また当サイトの右の柱の真ん中ぐらいに、あまおちさんのツイートが見られるようになっていますから、そちらも併せてご覧いただければと思います。
 あまおちさん、最近スマートフォンを買ったらしく、ますますツイートの数が増えているみたいですよ。
 
 
 
 おそらく原発の新設は難しいでしょう。スリーマイルから30年で、やっと原発恐怖症が癒えたところで福島ですからね。多分、日本でも30年は無理だと思います。私は、原発の代替はガス・コンバインドサイクルしか無いと思っています。これもガス火力の一つですからCO2排出量は増えるのですけれど。脱原発を言う人は再生可能エネルギーなどと格好の良い事を言わず、CO2排出量の増加による温暖化の可能性と原発事故のリスクを天秤に掛けるべきです。どちらを選ぶのかは知りませんけれど。
 
 新設は難しいかもしれませんね。
 でも古い原子力発電所を壊した後、原発を作らないとなった場合、やはりその代替案というのは現実的に考えるべきでしょう。
 こちらに電気事業連合会でまとめられていますデータがありますが、2009年ではガスによる発電は29%のようで、原子力も29%だから一緒ですね。
 で、将来的な見通しでは、原子力が増えてガスは減っていますので、基本的に日本では、これから原子力を増やす計画であったコトがここから見て取れます。
 なので、これを逆転させて、ガスを増やしつつ原子力を減らしていくというのは、アリなのかもしれません。
 
 ただし、ご指摘されてますように、CO2の問題は依然としてここは解決されません。
 天然ガスでは比較的少ないようですが、2009年で25%の割合を持つ石炭は、かなり環境には気をつけなければならない燃料です。
 天然ガスだけ増やすのか、それとも石炭も増やす方向にするのか、そしておっしゃるとおり環境問題をどうするのか、鳩山イニシアティブとかいうモノをどうするのか、ここはキッチリと議論する必要があるでしょう。
 クリーンクリーン言っても、発電量が足りないなら、まったく意味が無いですからね。
 
 
 
 次世代エネルギー開発への投資が増えるといいですけど、今の政府だとお金突っ込まず「開発しろ」とか言いそうで……。
 
 思いつきだけで適当なコトをぽんぽん言う政府ですからね。
 でもこの前も言いましたように、専門知識の無いやえでもソーラーパネルが原発に代わるほどになるとは到底思えませんし、風力もまだまだだと聞いていますし、やっぱり将来のお話にしかならないんですね。
 で、ソーラーパネルで言えばですね、宇宙へのロケットでは太陽発電・太陽電池が使われているそうなのですが、こういう最先端科学技術が最終的には家庭用技術へと転化されていくワケで、逆に言えば最先端の研究がなければ家庭用技術も発展しないワケです。
 軍事用も最先端技術ですが、そこから家庭用にどんどん降りていきますよね。
 インターネットなんてまさにそうです。
 しかし、その最先端技術の意味を理解せず、そんなモノはいらないと言い放った政党がいましたよね。
 一貫性が無いんですよ。
 そもそもしっかりとした計画が無ければ、国家プロジェクトとして行っていかなければならない自然エネルギーの拡大なんて成功しないでしょう。
 
 
 
 松本大臣の一連のニュース見てると部落は差別しても構わないよねと思えてくる
 
 部落出身者としては、アレと同一視されて差別してもいいと思われるのは、本当に勘弁して欲しいんだが・・・
 
 いや、差別はダメですよ。
 こういう場合、部落解放同盟の副委員長だった人間がトンデモナイ人間だったと表現するのが適切です。
 部落の人たちが全て部落解放同盟に加入しているワケでも、指導を受けている人間というワケでもないですからね。
 逆に外国から「日本の大臣は随分失礼だ。日本人は失礼な民族だな」と言われたら、それはもうたまったもんじゃないですよね。
 
 差別というモノは、こうやって自分に与り知らないところで急に降って湧いてくる問題ですから、同時に自分が差別をしてしまっていないかと注意しなければならない問題です。
 松本元大臣が憎いにも分かりますし、解同にいいイメージをもっていないコトも、それはもうやえもよく解同の問題は分かっていますが、しかしそれをもって全ての部落の人をどうこう言ってしまうのは間違いです。
 解同が解同として行った問題に対し、解同とはそういう団体なのですかと言うのは構いませんが、あくまでそれは解同という単位でしか見てはならない問題であり、特に今回の件は、松本元大臣は解同として行ったモノですらなく、むしろ菅内閣がそういう考え方なんですねと言う方が適切でしょう。
 
 そう言えば最近「内閣不一致」とかいう批判がマスコミから全然聞こえてこなくなってしまいましたね。
 「直近の民意」とか「選挙を経ていない総理は認められない」とかもです。
 勝手なもんですね。
 
 解同の問題というか、部落の問題は、もはやそんな部落という括りにこだわらないというのが一番なんだろうとは思うんですよね。
 ただ、それにこだわる人間が、部落側にも非部落側にもいるのが問題ですが、でもやっぱりこれは時間の問題ですから、徐々に薄まっていけばいいんだと思います。
 そもそも生物的にも民族的にも、何か部落が非部落と違うという点があるワケじゃないんですから。
 差別の問題は難しい問題ですが、ただ部落の問題は乗り越えられる問題だとやえは思っています。
 
 
 
 というか即辞めただけ他の民主党幹部より遥かにマシですよね、実は彼ら的には逸材だったんですよ!?
 
 まぁそうかもしれませんね(^^;
 そう考えれば、「自分がいるコトで政治が止まってしまうから辞任する」「私は自分を客観視できる。アナタとは違うんです」と言って辞めた福田さんも、本当はとてつもなく優秀な人なのかもしれません(笑)  いや、福田さんは優秀な方だと思ってますけどね。
 
 
 
 原発がそんなにやばいものだと知ってたら多くの国民が心から反対してたんじゃないだろうか。
 
 ↓それは調べない方が悪いじゃないか
 
 調べなくても、いままで普通にニュースとか見てたら、気付くキッカケはいっぱいあったんじゃないかとやえは思います。
 例えば六ヶ所村です。
 おそらく「六ヶ所村」という単語だけ聞けば、それがどの都道府県にあり、なんの施設があるか分かりますよね?
 この前の更新でも説明しましたが、原子力の様々な施設がある村です。
 再処理施設とか、埋設施設とかです。
 
 で、これらのコトがニュースに流れると、例えば埋設施設がすごい厳重に作られていて、周りの放射線が他より高いとか、そういう情報が一緒に付いてくるワケですが、これらの情報を見たときに、原子力のそういう負の部分があるってコトは、ここで気付くのではないでしょうか。
 昨日言いましたように、厳重に管理しなければならないってコトは、つまり普通のゴミのように捨てるコトは出来ない、それは危険だというコトなのですからね。
 だから、いままで原子力というモノの負の部分は、普通に生活していても気付いていたハズなんです。
 
 また、ここまででなくても、事故すればマズいっていうコトぐらは分かっていたでしょう。
 だからこそ地震発生直後は原発に注目されたワケですし、以前から戦争になった時に原発がターゲットにされるとマズいともよく言われていましたよね。
 ですから、存在するだけで危険なモノだというコトは、日本国民昔から知っていたハズなんです。
 
 まぁだから国民は全員原発を受け入れなさいというワケではないのですが、ただ過去原発が存在していたコトを、他人のせい、例えば自民党が進めた政策だろうとか言ってしまうのは違うんじゃないですかと言いたいのです。
 みんな分かって電気を使っていたのですから、事故が起きたコトはけしからんですが、原発が存在していたコトはみんなの責任なのです。
 いまさら自分だけ被害者面するのは無責任で卑怯だと思います。
 
 その上で今後はどうするのかというコトを現実的に考えていきたいですね。
 



平成23年7月8日

 レバー生食の取扱いに対する、民主党と自民党と、そして役所の対応の差

 ついにレバーが生では食べられなくなりそうです。
 あまおちさん、よくレバ刺しを食べながらビール飲んでうめーうめー言ってましたが、残念ですね。
 
 牛レバー、生食用提供ダメ…農水省が通知
 
 農林水産省は7日、食中毒防止のため、牛レバーを生食用として提供しないよう求める通知を外食産業と食肉関係の計22団体に出した。
 牛レバーを食べる場合は十分に加熱するよう消費者に注意喚起することも求めている。
 牛レバーは、表面だけ加熱しても細菌を完全に取り除けないため、食品衛生法を所管する厚生労働省が生食自体を規制する案を検討していたが、今回は見送られた。
 
 とりあえず法律での規制ではなく、また役所からの通達とか命令ではないので、店によっては出してしまうところもあるかもしれませんが、基本的にはこれで生レバーは流通しないコトになるでしょう。
 近年モツブームみたいなところがあって、生レバーもウリにしている店が増えていましたから、この措置でダメージを受けるお店はそれなりにありそうですね。
 
 ところで、この問題国民の間で広く知られている、注目度の高い問題なのですが、全然政治が絡んできません。
 法律での禁止のために立法や法改正をするのでしたら国会を通さなければならないので政治が絡みますが、今回は役所の通知だけですので、国会や(所管大臣等以外の)政治家が絡むコトはありません。
 今回の通知も含めて、これは役所の中だけで、役人だけで決定できるモノなのです。
 でも本来なら、ここまで注目度の高い、また全ての国民の生活に密着する問題であれば、普通なら政治が絡んでくる案件なのではないかと長年政治ウォッチしてきた身としては思うのです。
 最終的に通知や通達という形で出されたとしても、その内容については政治によって方向性が示された上で役所が出すという構図になっているコトは珍しくありませんから、今回はなぜそうなっていないのか、それが世間の注目度と比べればやえは不思議なのです。
 
 言ってしまえば、与党である民主党としては、いまそれどころじゃないというのが本音なのでしょう。
 復興対策や原発対策、そもそも菅内閣自体が死に体なのですから、こういう言い方もアレですが、それに比べればレバーの生食用をどうするかなんて小さい問題なんか構っていられない、というところなんだと思います。
 いえもしくは、そもそも民主党は党内の中に決定権を持つ議論する場が設置されておりませんので、法律に絡まないようなこのような案件は取り扱わないのかもしれません。
 専門性も高い問題ですしね。
 まぁ理由は分かりませんが、とにかく今回は民主党はこの問題を放置し、役所に丸投げしたのです。
 
 そして役所に丸投げすれば、記事のような結果になります。
 わりと当然の結果です。
 なぜなら、禁止してしまえばそれで事故は起きなくなりますから、行政としてはそれで安心なのです。
 分かりやすい措置です。
 下手に妥協案を出してしまうと、その結果として事故が起きてしまえば役所は責任を取らなければならなくなりますから、責任を取りたくない役所の性格からすれば、こういう措置を取るというのは火を見るよりも明らかなのです。
 
 しかし自民党が与党だったらどうだったでしょうか。
 これはif論なので断言は出来ませんが、これまでの経験からやえは思うのですけど、自民党ならこの議案は党内の部会で取り扱われていたのではないかと思います。
 自民党厚生労働部会ですね。
 もしこの件で部会が開かれていれば、自民党は業界団体を呼んでヒアリングをし、また同時に役所の担当者も呼んで技術的な部分をフォローさせつつ、折衷案を探すような議論をしていたのではないかと思います。
 この図というのは、今回の生肉の問題だけではなく、自民党ではどんな問題でもよく見られる光景です。
 業界の話を聞き、ある程度業界の言い分を飲み込むコトは、それは国民の意見を聞く、国民の目線で考えるというコトでもあり、役所の事なかれ主義だけではない現実論も考えて、最後は政治判断にて政治決着をさせるワケです。
 これは自民党政権時であれば内閣提出法案にも部会を通じて全ての議員が法案に関わっていたという、一般的にはあまり知られていない事実と同じような感じで、こういうモノにも自民党は与党として行政にも関わってきたのです。
 省令の改正なども、自民党部会で昔はよく議論されていました。
 そしてそれは、これこそが官僚政治ではない本当の意味での政治主導だと思います。
 
 話が脱線しますが、こういう関係があるから自民党は企業や業界団体と繋がりができるワケです。
 時にそれが行き過ぎると業界の話ばかりを聞いてしまうという「賄賂的癒着」になってしまうのですが、でも法律を守ってキチンとお付き合いをするというコトは、こういう議論の場における信頼関係を築くという意味で大変意味のあるコトです。
 議論の場では信頼関係こそが最も大切ですし、またそのお付き合いが、震災時の膨大な救援物資を集められたという効果も生み出したワケで、ただ単に癒着とか、付き合いがあるとか、そういう事象だけを持って批判するというのは不適切です。
 お付き合いがある上で、それをどう生かすのか、国益にために使うのかという部分が大切なのであって、国民はそこを考えるべきなのです。
 
 今回の生肉にしても、業界団体は言いたいコトがあるのではないのでしょうか。
 キチンと処理すれば生のままで食べるコトはできるし、その処理をマニュアル化して、定期的な検査をするコトで処理を徹底させる、当然それを破れば厳しい処分を設けると、だから全面禁止まではしないでほしいとか、言いたいコトはあるのではないでしょうか。
 もちろん安全性に万全を期したい役所にも言い分はあろうかと思います。
 政治とは、こういう利害が対立する案件を調整して答えを出すという作業であり、自民党はそれに長けている政党です。
 今回の件も、もし自民党が与党であれば、別の答えが出ていたかもしれないと、やえは想像するのです。
 
 さっきも言いましたが、もちろんこれは「if」の話です。
 なにしろ自民党はいま野党なのですから、どこまでいっても仮定の話にしかなりません。
 しかしifだからと言って一切評価の対象にはならないというコトではありません。
 与党の評価とはどう結果を出すのかであり、野党の存在には関係なく、その結果がダメなら与党はダメだと言うしかありませんが、野党を評価するというコトは、その与党の評価とも関係なく「もし与党であれば」という部分をどう評価するのかという点にあります。
 そしてそれは、そのifの仮説にどれだけ説得力を持たせるかです。
 与党時代、自民党は部会で常に議論してきましたから、今回の件も自民党が与党なら部会での政治的駆け引きがあったモノとやえは想像しますし、それはそれなりに説得力を感じているのです。
 
 これは政権を取る前の民主党でも同じコトです。
 野党時代の民主党はデタラメなコトしかしませんでしたから、やえは、民主党は与党になってもデタラメなコトしかしないと言ってきましたし、それはいま的中しているところです。
 野党への評価は、第一には国会審議でのチェック機能であり、その次には「もし与党だったら」というifでの評価でいいのです。
 いかに「もし与党ならば」という点に説得力を持たせるのか、が野党の力量なのですから。
 
 こういう、細かいけど実は民主党と自民党では違っていたのではないかと思われる案件って、報道されないだけで結構あるんと思うんですよね。
 今回は、レバ刺しが大好きな人には民主党政権の元で残念な結果になりましたねってお話になってしまったというところです。
 



平成23年7月11日

 みんながやってるから自分もやらなきゃ節電

 最初に言っておきますが、今日は過剰な節電ブームに対して一言もの申したいと思います。
 プロレスをネタにしてますが、プロレスのお話じゃないので、戻るボタン押さないでくださいね(笑)
 
 昨日プロレス見に行ってきたんですよ。
 都内の有明コロシアムっていうところなんですけど、試合は良かったです。
 秋山さんが格下の相手にいつものキレの良さでいたぶっていましたし、それを全部受けた中嶋勝彦選手もあの若さでやっぱり上手いですし、なによりメインの杉浦さんと潮崎さんの試合は、久しぶりに「NOAHの試合」を魅せてくれたような気がします。
 新しいチャンピオンとなった潮崎さんには、これからNOAHを引っ張っていってもらいたい、もっともっとお客さんが入る試合をしてほしいと思います。
 
 これ以上プロレスの話をすると皆さんに読んでもらえなさそうなので、語りたいコトはいっぱいあるのですがこの辺にして(笑)、でですね、問題はそのメインの時だったのですが、試合の途中に急に「ゴーーーーー」って音が鳴り始めたんですよ。
 最初なんでしょうかと思ってたんですが、あれ多分、空調か送風かの音だったんだろうと思います。
 というのも、昨日は第一試合が始まる前までは比較的涼しかったのですが、試合が進むにつれてちょっとずつ暑くなってきたんです。
 多分エアコンとか付けていなくて、試合の熱気で徐々に暑くなっていったのでしょう、後半になるとウチワとかで仰いでいる人が目立つようになりました。
 で、ついに最後の試合、メインの時に、いきなりゴーーーーーって言い出したんです。
 
 とってもうるさかったです。
 
 一定以上の室温になったので、自動的に送風が始まったのか、それとも有明コロシアムの係員の人が手動で送風したのか分かりませんが、それにしてもうるさいです。
 せっかくメインは現チャンピオンで昨年のプロレス大賞(全団体を対象とした日本マット界では最も権威のある賞です)の杉浦選手がひさしぶりに殺気出しまくりで技を出し、自他共に認めるNOAHの時期エースである潮崎選手がそれを受けつつキレのある技で応戦する、そんな熱気ある試合なのに、選手が「いくぞーーー!」とか「決めるぞーーー!」とか雄叫びを上げているのに、
 
 ゴーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 ですよ。
 もうね、興ざめというまではいきませんが、それでもあの音が無ければもっと試合に集中して見るコトが出来たんじゃないかと思わざるを得ませんでした。
 プロレスって感情移入ですからね、より集中した方が楽しいのです。
 まぁこれはプロレスに限らず、すべてのスポーツに言えるコトだとは思いますが。
 
 節電って、むやみやたらにやればいいってもんじゃないですよね。
 多分勘違いしている人が実はけっこう多いのかもしれませんが、電力が足りなくなるかもしれないっていうのはあくまで「ピーク時」であって、一日中夏の間はずっと電力が足りないから節電しなければならなっていう意味ではないのです。
 こちらの政府の節電特設サイトにも、このように書いてありますように、
 
 平日の9時〜20時は、電力需要が高まり、節電が必要な時間帯となります。
 
 ようはここの時間帯に注意すればいいのであって、他の時間帯、電力が十分あまっている時間は、もちろん個人が節約のためなら個人の自由ですが、しかし様々な弊害を受けてまで節電する必要は全くないのです。
 そしてやえがプロレスを見に行った昨日は日曜日です。
 こちらの東京電力のでんき予報のページによると、
 
 7月10日(日)の
 予想最大電力4,100万kW (19時〜20時)
 ピーク時供給力4,760万kW
 (7月9日17時30分想定)
 
 であって、本日月曜日の予想最大電力は4,680万kWですから、電力需要は平日と休日ではかなりその差がある上に、本日月曜日の最大供給量は5,200万kWなのですから、休日は全然余力があるワケで、やはり休日は「節電が必要なピーク時」に指定する必要のない、つまり神経質に節電する必要は無いというコトが、数字からも見て取れます。
 しかも昨日のプロレスの大会は午後3時からで、メインは6時ぐらいでしたから、日曜日のピーク時すら外れていたワケです。
 
 果たしてこれで、エアコンを付けなかったという行為は適切だったと言えるのでしょうか。
 やえは、試合観戦を壊すような大きな音を出してしまうのであれば、節電が必要のない時間だったのですから、エアコンを付けるべきだったと思います。
 だって我慢する必要なんてこれっぽっちも無かったのですからね。
 そしてまた、選手も大変だったと思います。
 というのも、プロレスでは上から吊られているライトをリング上にスポットライトのように当ててますから、それだけでリング上は普通よりかなり温度が上がってしまい、その上で激しい戦いをするのですから、会場内の室温というのはレスラーにとっても生命線になるハズなのです。
 下手をすればリング上で熱射病だって無い話ではないハズです。
 そういう意味でも、節電節電と気にするのはいいとしても、必要な場面には使うというコトは心がけて欲しいところです。
 結局この日エアコンを付けていたら、お金を払って見に来たファンも快適に見れたでしょうし、命を賭けて闘っているレスラーも安全により一層レスリングに力を入れられていたでしょうし、そして電力も全く足りていたのですから、誰も何も1つも全く困らなかったハズのです。
 そしてこれは、結果論ではなく、はじめから分かっていたコトなのです。
 それなのになぜ、わざわざエアコンを消して、みんなウチワを仰ぎながら、選手は汗だくになりながら、うるさい音の中で試合を観なければならなかったのでしょうか。
 
 いま日本人は、みんなが節電しているから自分もやらなきゃみたいな、ある種の強迫観念にかられてしまってはいませんでしょうか。
 出来る節電は、時間も場所も関わらずとにかくやるんだと、義務感に取り憑かれてしまってはいませんでしょうか。
 特に企業とかお店とかはそう言う傾向が強いかもしれません。
 必要な電力だと分かっていつつも、「みんな節電しているのになぜそんな電気を使うんだ」とクレームを受けそうだと思い、そのクレーマー対策のために節電しているという、変な構図になってしまってはいるのではないでしょうか。
 
 冷静になりましょう。
 確かに「ピーク時」は、必要な部分さえ削って節電する必要があるのかもしれません。
 しかし「ピーク時」以外は、必要であれば削る必要は全くないのです。
 むしろ必要なら使いましょう。
 それで身体を壊したり、経済にダメージを負ったり、不快な思いをしてしまうのは、本末転倒にもほどがあります。
 なんのために節電をしているのかというところを振り返りましょう。
 「ピーク時」に電力が足りないから、節電をしているのです。
 決して日本中が我慢大会しているワケではないのです。
 ここは冷静になるべきでしょう。
 
 みんながやってるから自分もやらなきゃという節電は弊害の方が大きいです。
 いまの雰囲気というのは、「みんなで頑張ろう」とか「苦労を共に分かち合おう」とか、そんな根性論が横行してしまっているようですが、根性論そのものはやえは全否定するつもりはありませんが、今回のコトではそんな根性論は何の意味も持ちません。
 いえ、意味がないだけでなく、むしろ害にしかなっていません。
 こんなのはある意味「非国民だ」の世界ですよ。
 そうではなくて、なぜ節電をするのかという目的意識をキチンと持って節電すべきでしょう。
 今回は冷静に、それこそ「選択と集中」によって、この難関を乗り越えていくべきではないのかと思うのです。
 



平成23年7月12日

 死刑廃止論は少数の感情を殺す論

 このニュースにやえは強い違和感を覚えました。
 一体死刑廃止論とは何のために唱えられているのか、その意義は何なのか、そしてそれを実施している国と国民は何を望んでそうしたのか、ますます分からなくなってしまいます。
 
 英国女性の父「死刑望む」 市橋被告公判に証人出廷
 
 千葉県市川市で2007年、英国人女性リンゼイ・アン・ホーカーさん=当時(22)=を殺害したとして、殺人などの罪に問われた市橋達也被告(32)の裁判員裁判は11日、千葉地裁(堀田真哉裁判長)でリンゼイさんの両親の証人尋問が行われ、父ウィリアムさん(58)は「日本の最高刑が死刑なら死刑を望む」と述べた。
 ウィリアムさんは8日に続いての出廷。弁護側が「英国に死刑制度はない。家族は最初、死刑ではなく終身刑を望んでいたのではないか」と尋ねたのに対し「違います」と答えた。母ジュリアさん(54)も同日、検察側証人として証言した。
 
 イギリスには現在死刑制度はありません。
 ウィキペディアによりますと1998年にイギリス全土で完全廃止されたというコトですが、その前にイングランド等では1969年に、北アイルランドでは73年に死刑を廃止しており、イギリスの死刑廃止の歴史は長いと言ってもいいでしょう。
 まして殺害されたリンゼイさんとその家族はコベントリーという都市にご自宅があるそうで、ここはイングランドですから、この一家からすればすでに40年近く、リンゼイさんに至っては生まれたときからすでに死刑のない地域で暮らしてきたというコトになります。
 そしてこれは、もっと前から死刑廃止論が検討されていたコトも意味します。
 死刑廃止論は降って湧いて出たモノではないでしょうし、イギリスではそれなりに長い年月をかけて議論されて出された1つの結論なのでしょうから、この地での死刑廃止論はリンゼイさんのお父さんがまだ学生の頃にはもう議論されていたモノなのではないでしょうか。
 よって日本人に比べれば、この一家にとって死刑廃止論は、かなり身近な問題、両親にしてみれば生まれた後に議論されていたハズの問題ですから、余計に身近な問題のハズなのです。
 
 そんな死刑が廃止されているイギリス・イングランド人のリンゼイさんのご両親が、死刑を望むと公式に裁判で発言したというコトに、やえは強い違和感を覚えるのです。
 
 理由は色々と想像できます。
 一番思い当たるのは、「死刑を望んだのではなく、日本の刑法の中の最高刑を望んだ」というコトです。
 つまり市橋被告の犯した罪は一番重い罰に相当するので日本の中で一番重い刑に処して欲しい、そして日本ではたまたま死刑が一番重い刑だった、と、こういう理屈です。
 記事でも、
 
 父ウィリアムさん(58)は「日本の最高刑が死刑なら死刑を望む」と述べた。
 
 と書いてありますように、そのような意図ではないかと思われるような言い方をされています。
 
 しかしこの場合でもいくつかやえは疑問に思うコトがあります。
 そもそもではなんのための死刑廃止論なのかという点が、かなりおざなりになっていると言えてしまいます。
 つまり死刑廃止論とは、「どんな理由があろうとも国家が合法的に人間の命を奪ってはならない」という趣旨なのですから、それはどこの国家に限らず、死刑廃止論者であればその精神は尊重されるべきなのではないでしょうか。
 どんなに残酷な手段で大量に人間を殺害した極悪犯だとしても、絶対に国家によって合法的には人の命をあやめてはならないというのが死刑廃止論の考え方なのですから、いくら日本の刑法の最高刑が死刑であったとしても、最も重い刑と規定されていたとしても、そんなコトよりも人に命を奪う行為の方が避けるべきだと考えるからこそ、死刑廃止論があるハズなのです。
 法律の規定より人命の方が重いと考えるのが死刑廃止論のハズなのですからね。
 ですから、「日本の最高刑だから」という理由では、死刑を実施して欲しいという理由にはならないのです。
 まずここで矛盾を感じるのです。
 
 もしかすれば、たまたまこの一家は死刑廃止論には反対していた人たちなのかもしれません。
 これだとやえもそんなに違和感は覚えません。
 国民はその国の法律を守る義務はありますが、その考え方に100%納得しなければならないというワケではありません。
 よって、昔から死刑廃止論には反対していた一家が、日本では死刑があるので死刑を望んだという形であれば、これはかなり納得できると言えるでしょう。
 
 ただその場合だと、どうしても「日本の最高刑が死刑なら死刑を望む」という言い方がひっかかります。
 最初から死刑廃止論反対論者であったとすれば、このような言い方はしないでしょう。
 もし死刑廃止論反対論者であれば「英国には現在死刑制度はないが、私はそれに疑問を持っていた。日本には死刑制度があるので死刑にしてもらいたい」ぐらいは言いそうなモノです。
 まぁ運動家ではないのでしょうし、そもそも愛する娘の命を奪った犯人が目の前にいるのですからそこまで言わないにしても、それでも少なくとも「日本の最高刑が死刑なら」という言い方は、かなりひっかかると言わざるを得ないのです。
 
 であれば、一番考えられるコトは、いままで死刑制度やその廃止論にはそんなに興味はなく、ごく一般の家庭として政治などには関わりなく生活していた一家だったけど、急に娘がこんなコトになって、そして「殺されたのだから、殺して欲しい」と、そう自然に思ったという感情です。
 多分一番分かりやすい感情ではないかと思います。
 やえも理解できます。
 自分の愛する人が殺されたのであれば、その犯人を殺して欲しいと願うのは、自然な感情と思います。
 
 やえは、このリンゼイさんの一家を批判するつもりも糾弾するつもりもありません。
 ひとつの例として考えて貰いたいのですが、やっぱりですね、それであれば死刑廃止を決定した国民としては、自分の身に起きたからと言ってあっさりその精神を捨て去るというのは、ある意味身勝手だと言われても仕方ないのではないでしょうか。
 例えばいまの日本は民主党政権であり、鳩山総理の時に鳩山イニシアティブとか決めてしまいましたが、今後民主党政権じゃなくなった時に「あの時は民主党が勝手にやったから知らない」と言ってしまうのは、やはり無責任と言わざるを得ません。
 やえは選挙前からずっと批判してきましたが、それでも国民が選んだ民主党政権、国民としては一定の責任はあります。
 日本国民として日本政府が決定したコトには、やはり責任を負わなければなりません。
 国民が選んだ政府なのですからね。
 ですから、リンゼイさんの一家が昔から強い死刑廃止論反対論者であったのでしたら同情を禁じ得ないのですが、それでも「自分の身に起きたから、母国の法律なんて関係ない」みたいな態度には違和感をどうしても感じてしまうのです。
 死刑廃止を決定したのは、民主主義国であるイギリスであれば、それはイギリス国民自身の選択だったハズなのですから、いまさら自分の身に起きたからと言って翻すのは勝手な話なのではないでしょうか。
 
 繰り返しますが、やえは、このリンゼイさんの一家を批判するつもりも糾弾するつもりもありません。
 これは1つの実例です。
 死刑廃止論という欺瞞的な論に対する、1つの実例です。
 40年以上の死刑廃止論の歴史がある英国の国民が、しかしいざ我が身になってみると、あっさりと死刑を望むのです。
 これが現実です。
 
 言ってみれば、死刑廃止論は、大多数が少数を押さえ込む論ではないのでしょうか。
 だって、実際に死刑を望む人というのは、つまり家族が殺人犯に殺されるというような人ですので、これは圧倒的に少数です。
 やえの身近には、家族が他人によって殺されたっていう人がいるとは聞いたコトがありません。
 不幸にもこういう目に遭ってしまう人というのは統計をとるまでもなく少数なワケで、結局死刑廃止論は、我が身とは関係ないところで勝手に盛り上がっている、そんな欺瞞的な論でしかないのではないでしょうか。
 自分ではその感情は決して理解できないのに、何かの理想や思想のために、少数の感情を法律という強制力を持って押さえつけようとしている、少数を抑圧する考え方、それが死刑廃止論なのではないのでしょうか。
 やえにはそう思えて仕方ないのです。
 
 今回の事件、やえの個人的感想からすれば、死刑は難しいんじゃないかと思っています。
 被害者は1人で、計画性も無く、殺意が論点になるぐらいですから、仮に殺意があったと認定されても、死刑まで行くかどうか、例えば光市の母子殺害事件での全く反省の色を見せなかったあの事件ですら死刑はものすごく難しかったというコトを考えれば、今回は相当に難しいと思います。
 そしてそれは、裁判に正式に参加しているリンゼイさんのご両親も、検事等に聞いてある程度は理解していると思われます。
 それでも、ご両親は死刑を望んだのです。
 40年以上の死刑廃止の歴史を持つ国からやってきた方達が、死刑を望んだのです。
 とても違和感を覚える行為ですし、ある意味人間らしい感情と言えるでしょう。
 
 やえは死刑廃止論者に言いたいのです。
 もし死刑廃止が国家として決定されたのであれば、それはどこまで言っても、少数の意見を権力によって殺すモノでしかないでしょうと。
 そう言いたいのです。
 



平成23年7月13日

 水力発電のためダムをたくさん造るべき

 ソーラーパネルの話ですが、これ多分、いくら政府が補助金出すと言っても、普及は多分けっこう難しいでのではないでしょうか。
 だってソーラーパネルってまだまだ発展途上の技術ですから、もしいま自分の家に設置したとしても、数年後にはその数倍の性能のパネルが発売される可能性は大いにあり得るワケで、そこでかなりの不公平感が出てしまいかねず、買い控えも出てきてしまうのだと思います。
 少なくともやえであれば、正直まだ買いの時期ではないと判断します。
 この部分というのは、パソコンとか携帯電話の「いつ買えばいいの」とは違い、発電効率の差がダイレクトに家計簿に直結しますから、その辺からすぐに普及は難しいのではないかと思うのです。
 もしもうすでに完成されている技術であれば、いまの段階でもうかなり普及していると思いますしね。
 だからこれも、十年以上ぐらいをかけての話になるんじゃないでしょうか。
 
 やえはそこまで調べてないのでアレなんですが、火力発電は環境に与える影響等で原子力にまるまる代わるようなモノではないのでしょうし、そもそも日本はすでに6割近くが火力発電ですから、これ以上同じ方法の発電に偏るというのは、何らかのトラブルがあった場合によくないでしょう。
 ですから、増やすとすれば、将来的な新エネルギーを別にすれば、後は水力ぐらいです。
 確か日本の水力発電は、総発電量の1割にも満たないぐらいの発電量だったハズですから、やはり増やすならココです。
 
 また水力発電は、化石燃料を使ったり、放射性物質を出したりしない、いわゆるクリーンエネルギーそのものです。
 風力発電とかと同じですね。
 ですから、いまの流れにも沿ってしますし、日本は山の多い地形ですから水力に適しているとも言えます。
 弱点としては、水不足になれば発電できなくなってしまうというところがありますが、水力だけで全ての電力を賄おうとしているワケでもないので、他の発電方法にも弱点もありますように、お互いがお互いに補えばいいのでしょう。
 水力発電のためにはダムが必要ですが、そもそもダムは、その水不足の時のためにあるモノでもあるのですから、ある意味それは一石二鳥とも言えるぐらいの発想でいいのではないでしょうか。
 
 ちょっと調べてみたんですが、日本最大級のダムである黒部ダム、昔紅白歌合戦で中島みゆきさんが「地上の星」を歌ったあのダムの発電量は335,000kWなんだそうですけど、これは、福島第一原発の1号機にほぼ匹敵する発電量(46.0万 kw)なんですね。
 まぁ匹敵と言うと言い過ぎかもしれませんし、6号機にいたっては110.0万 kwと文字通り桁違いではあるのですが、それでも、これは特筆すべき知っておいて損はない数字でしょう。
 また火力発電所と比べても、黒部ダムの方が多いところもあるワケで、遜色ない発電量を持っていると言ってもいいでしょう。
 このように水力発電は、ダムは、それなりに発電する力を持っているのです。
 あとこんな記事も見つけまして、やはり日本は山が多く高低差があり、そして水が豊富な国ですから、水力発電の条件としてはかなり恵まれていると言えるでしょう。
 
 ダムを造りましょう。
 
 もはや理念無きキャッチフレーズだけの衆愚政治丸出しの「脱ダム宣言」なんて脱却すべきです。
 ダムはいいですよ。
 水力発電は説明してきましたようにいまの段階では最も原子力に代わる発電方法ですし、またダムは経済対策にも大きく影響を与えられます。
 簡単に言えば建設業者が儲かるので、景気対策になるのです。
 建設業は裾野の広い業界で、ビルでもダムでも、使われるのは土木だけではなく、必ず電気機器やその他の分野の業界も入ってきますし、また建設分野だけでもいわゆるスーパーゼネコンと呼ばれる大手だけで全て工事が出来るワケではないので、様々な中小下請けなど入って、多くの人数が関わるプロジェクトになります。
 また、こういう言い方はアレですが、現場で働く人は最終的には肉体労働ですから、言ってみれば誰でも出来る仕事であり、あの市橋被告も逃亡中に建設会社で働いていたぐらいで、それぐらい誰でも出来る仕事ですから、雇用対策にもなります。
 そしてそういう人たちが、ダム工事ですから日中は山の中で仕事をして、仕事が終われば街に出てちょっといいお食事をしてもらってお金をさらに市場に流すと、そういう循環という意味で、ダム工事は経済にもいい刺激になるのです。
 景気が悪くなったら公共工事を増やすっていうのは、日本に限らず世界中で昔からある手法ですよね。
 
 もちろん、意味もなく、ただ経済対策のためだけに工事をするっていうのは、今の世の中では愚策と言わざるを得ないでしょう。
 いわゆるハコモノ行政と呼ばれていたモノはこれですよね。
 やえはその全てが無駄とは言いませんが、無駄なモノがあったのも確かだと思います。
 しかし、ダムは違いますよね。
 説明してきましたように、ダムを造る意義はいま十分にあります。
 一時期ダムはハコモノ無駄行政の象徴のように言われてきましたが、それは間違っていたのです。
 いまこそダムは造られるべきなのではないでしょうか。
 
 今まで原子力で賄っていた分を全てダムで補うというのは、さすがにちょっと難しいでしょう。
 黒部ダム級を作っても、原発1基に満たないですからね。
 でも、少なくとも風力とかそういうモノを目指すよりは全然現実的だと思いますし、古い原発の1基弱ぐらいにはなる、火力発電所以上のコトも可能なのですから、決して発電量は小さいとは言えないでしょうし、さらにダム電力だけでない効果も見込めるのですから、選択肢としてはかなり有力なのではないでしょうか。
 
 だからやえは提言します。
 いまこそ日本中にもっともっとダムを造るべきです。
 電力問題も、経済景気問題も、ダムだけで全て解決するとは言いませんが、良い方向に向かう1つのキッカケになるのは確かでしょう。
 ダムは悪だと言っている人思っている人は、キチンと考えを改めて、脱原発と言う人もダムの力にシッカリと目を向けて、クリーンエネルギーである水力発電のためにダムをこれから推進していきましょう。
 



平成23年7月14日

 コメントレス

 今日は木曜日ですので、コメントレスの日です〜。
 ところで、最近頑張って民主党批判の内容を控えているのですが(笑)、どうでしょうか。
 やえも、なんか毎日思ったより有意義な更新が書けている気がして、満足感を得ているところです。
 まぁすぐにはアクセスに反映されないでしょうけど、たぶんこの調子でいいんですよね?
 よね?
 なにかアドバイスがあれば、ぜひ下さい。
 
 
 
 こんにゃくゼリーの大きさにこだわっている民主党が、生肉の食中毒に無関心とは、片腹痛しってとこですか。
 
 生レバー禁止のお話です。
 こんにゃくゼリーの件、ごめんなさい、やえは民主党が何かしたっていうのに記憶がないのですが、でも本来こういう消費者問題系の問題って、民主党とか社民党とか、いわゆる革新系の政党の方が強いハズなんですよね。
 自民党はこの分野が非常に弱くて、だから福田内閣の時に消費者庁を作るっていうコトになった時に、消費者問題系の団体や日弁連がビックリしたとかというお話もあるぐらいなワケなんですが、そういう中で結局民主党がこの問題に全く無関心なのは、それはやっぱりそれどころじゃないと政権内で混乱しているのか、それとも政権を取った後はもうそんな小さな問題には関心が無くなったのか、どちらかなのでしょう。
 
 で、やえは思うんですけど、この手の問題になると、いつも役所とかの問題にすり替わっちゃいますよね。
 いつかの偽装米の騒ぎでもそうなんですが、民間企業が食べる物を売るのですから、それはその安全は、その企業が担保するというのは当たり前なんですよね。
 だって資本主義社会なんですから。
 これが全国営企業の共産主義国家であれば別ですが、それぞれ国民個人が主権者として自立して責任を負う資本主義民主主義国家なのですから、ある程度の国の検査はあって、それがザルならその分の批判はあってもいいのでしょうけど、偽装米を売ってしまったというコトへのほぼ全ての責任は民間企業にあるのです。
 そういう責任を負った上で個人が動くというのが資本主義であり民主主義なのですからね。
 
 だから今回の問題も、当然として全ての責任は食中毒を出したお店(もしくはお肉を供給した業者)にあるワケで、それを生肉全体へ責任を転嫁させるというのは、違うのではないでしょうか。
 確かに、法令的には今まで生肉はダメだったのかもしれませんが、しかし実体として生肉を食べても、キチンとしていれば大丈夫なのは日本人自身が証明しているワケで、であるなら、それは実態に即したルールを作りましょうというのがスジのハズです。
 実体は食べても大丈夫なのに、ルールがあるからダメにするのは、それは「ルールのためのルール」にしかなっていません。
 法令の主体は人間です。
 国民です。
 国民がいかに幸せに生きていけるかというコトを目指して法令があるのですから、そのために行政も政治も努力しなければならないのです。
 現実に即して法律の方を変えるというのが当然としてのスジでしょう。
 
 そういう意味で今回の生肉問題は、本当に与党である民主党が何もしないという点で、これは不作為と言っていい失態ではないかとやえは思っています。
 めんどうなコトには触れない、そうすれば批判されないし、批判されても役人批判に転嫁すればいいやと、その程度にしか民主党は思っていないのではないでしょうか。
 
 
 
 中部電力の役員やってた叔父によると、足りなくなるなんてことは(中電は)ありえない、だそうです。電力会社の人ならだれでもわかりきってるそうな
 
 埋蔵電力だかなんか知らないけど現状で足りてるって説もありますが、どうなんでしょうか?
 
 どうなんですかね。
 やえにはその辺の知識がないですし、ネットに出ていないコトまで調べる力もありませんので、この件に関しては分からないとしか言いようがありません。
 でも例えば、いま設定されている限界値を超えての電力需要があっても1日2日ぐらいなら耐えれるけど、それが1ヶ月続けば設備に致命的なダメージを受けるとか、トラブル発生確率が格段に高くなるとか、そういうコトになってしまうのであれば、やっぱりダメですよね。
 数日耐えた結果、その後数ヶ月ずっと関東が停電になってしまったというのであれば、日本にとってとんでもないダメージ、ヘタをすれば津波以上のダメージになってしまいかねません。
 
 だからよくネットでも「あの上限値はウソだ」とか「超えても停電にはならない」とかいうお話をよく聞くのですが、それがどういう意味での「大丈夫」なのかが分からないんですよね。
 数日は大丈夫という意味なのか、それとも恒久的に大丈夫という意味なのか、トラブルが起きたら代替できないけど起きなければ大丈夫だという意味なのか、ここが分からないのです。
 
 
 
 夫人を殺されてから死刑反対から賛成に転じた弁護士もいましたね。畏敬廃止論を唱えている人は犯罪を他人事と捉えているのかも知れません。私は自分の家族が殺されたらと思ったら絶対に廃止論には与することが出来無いのですけれど。
 
 リンゼイさん事件に絡んでの、死刑廃止論についてのお話です。
 調べてみましたら、岡村勲という方ですね。
 ウィキペディアから抜粋します。
 
 1997年10月に山一証券顧問弁護士夫人殺人事件で山一証券問題に際して逆恨みした債権者に妻が殺害されて、岡村は犯罪被害者の遺族となる[1]。岡村はそれまで人権派弁護士として活動していたが[2]、この事件を機に被害者や遺族の復讐権を提唱する立場に転じ、この事件の被告人を死刑に処すよう希望する旨を法廷で発言するまでに至る。その後、光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋と共に全国犯罪被害者の会を設立、代表幹事となる。
 
 2004年12月に犯罪被害者等基本法が成立、2007年6月には刑事訴訟法が改正され被害者参加制度が盛り込まれたが、岡村はこの制度にも関わっている。2009年には、千葉景子法務大臣を代表幹事の岡本とあすの会会員が訪れ、公訴時効廃止の要望書を提出し、2010年には刑事訴訟法改正により、殺人などの公訴時効が廃止された。(岡村勲
 
 被害者の夫の岡村勲は第一東京弁護士会会長や日本弁護士連合会副会長などの要職を歴任し、日本弁護士連合会が推進していた死刑廃止運動に携わっていた。しかし、岡村はこの事件を機に犯罪被害者がいかに司法で軽視されている存在であるかを痛感し、以後は犯罪被害者の権利拡大に取り組むようになった。岡村はかつて日弁連幹部として携わっていた死刑廃止を口にしなくなり、妻を殺した被告人Nへの死刑を希望することを法廷で証人として証言している。全国犯罪被害者の会の結成や運営をするにつれて、犯罪被害者の権利を司法に反映されることに尽力するようになった。(山一証券顧問弁護士夫人殺人事件
 
 今回リンゼイさんの両親が裁判に正式に参加していますが、それは「被害者参加制度」によるモノであり、これの立役者がこの人だったんですね。
 さらに時効廃止にも噛んでいた人だったとは、なんだかずいぶんな転向ですね。
 もちろん被害者としてのお気持ちは分かるんですが、こういうコトがあるから、弁護士の信頼度が下がるんですよね。
 光市の死刑囚に付いた安田弁護士とかですね。
 
 まぁ今回は弁護士がどうこういう内容ではないのでアレですが、死刑に反対する人は、今回のリンゼイさんのご両親が明確に「死刑にしてほしい」と公言したコトについて、よくよく考えてもらいたいです。
 それは、いかに死刑廃止が人間にとって不自然なモノなのかというコトを、死刑を廃止したイギリス人の言葉から理解できるコトでしょう。
 死刑廃止は人間にとって不自然なのです。
 
 
 
 太陽光発電は、一軒家やマンションのオーナーのような高所得者が得をして賃貸住宅を借りている人は電気料金の値上げだけを引き受けされるという逆進性も問題だと思います。普段は庶民の味方のような顔をしているサヨク・リベラル派のメディアが突っ込まないのが謎ですけれど。
 
 あー、そういう見方もあるのですねぇ。
 その通りですね。
 賃貸に住んでいる人は、当然ソーラーパネルを付ける権利が無いワケで、その場合、ソーラーを付けたら相殺的に電気料金は上がらないよという制度にしてしまうと、むしろ賃貸に住まざるを得ない人には一方的に値上げだけがのし掛かると。
 そうですね。
 これはやえも気がつきませんでした。
 これけっこう大問題ですよね。
 もし何かの機会があったら、これ、使わせていただきます(笑)  
 
 
 もう風評被害と言う言葉を使うのはやめるべき実害があることを前提に法規制すべき
 
 でも、デマも相変わらず横行していますからね。
 最近やっと聞かなくなりましたけど、一時期「鼻血を出している子供が続出している」というデマがありました。
 このデマ結構深刻で、某韓国人の友達が「それホント?」って聞いてきたぐらいです。
 
 デマが横行するコトによっての一番の問題は、どれがウソでどれが本当なのか分からなくなってしまうところです。
 本当のコトでしたら悪い情報でも当然受け止めなければならず、それこそが対応の第一手なワケですが、これにデマが入り交じると、狼少年のように本当の情報まで疑わなくならざるを得ず、対応が後手後手になってしまうんですね。
 実害があるなら、もちろんそれを前提に法規制等対策をすべきです。
 でも、デマはどこまでいってもデマです。
 デマを根拠に規制も対策もしてはなりません。
 ここは冷静にならなければならないところでしょう。
 
 
 
 原発がそんなにやばいものだと知ってたら多くの国民が心から反対してたんじゃないだろうか。
 
 ↑それは調べない方が悪いじゃないか
 
 ↑そういうことを公表せず安全だといってた電力会社の責任は無視ですか?
 
 ↑たとえ公表したところで、自らの身に危険が及ばない限りは、国民は何の関心も持たないよ。原発でも政治でも。
 
 ↑じゃあこのサイトがいくら民主の危険性とか訴えても意味ないってこと?。
 
 どんなサイトなら訴えれば100%の国民に関心を持たせることが出来るのか詳しく
 
 ↑どんなサイトでも無駄みたい。自らの身に危険が及ばない限りは、国民は何の関心も持たないらしいよ。
 
 便宜上やじるしを逆にさせてもらいましたが、この流れ、そもそもちょっと誤解があります。
 というのも、原発は発電を停止してもすぐには安全にならないというお話なんですが、やえの前のお話をもう一度よく読んでいただきたいのですけれど、その時のやえは「誰でも知るコトの出来る状態にあった上に国民は乗っかって原発を容認していた」と言ったのです。
 ですから「公表せず安全だといってた電力会社の責任」というのは間違いです。
 特に電力会社は、発電を止めてもすぐには放射能が止まらないというコトを隠していたコトはありません。
 
 これはそもそも原子力を利用する上での基本的な知識のハズです。
 大学でその手の講義を取れば、誰でも学べる内容のハズなんですよね。
 いわゆる専門家の人に聞いてみれば分かると思いますが、少なくとも専門家の中で「発電を止めればすぐに安全」と思っている人はまずいないでしょう。
 そして、この専門家になるためには、特殊な技術や資格を取らなければならないというワケでも、東電に入らなければならないというワケでも、官僚にならなければならないというワケでもありません。
 ただ単に、そういう講義のある大学に入学すれば誰でも知識は得られますし、それをある程度極めれば専門家になれるワケです。
 
 こういうのは秘密とは言いませんし、公表していないとも言いません。
 
 人権擁護法案の時も、法案が国民に秘密でコッソリと通ろうとしているとか散々デマが飛び交いましたが、テレビとかで受動的な態度でも入ってくる情報だけが公開されている情報と思ってはいけません。
 むしろ情報とは能動的に自らが得ようとして得るモノです。
 何度も言ってますが、事故が起きたコト、地震か津波かは分かりませんが、それによってこのような状態にしてしまったコトは、これは当然の東電の大きな罪です。
 いままで地震が起きても安全と言ってきたのですからね。
 批判されてしかるべきでしょう。
 しかし、原発を日本に建てたコト自体は、これをもし罪だと言うのであれば、日本国民全員の責任です。
 また、やえはそれを罪とは思いません。
 人は必ずリスクとリータンのバランスの中で生きているワケで、決して今回の地震でもシッカリと対応を取っていれば今のような大事故にはならなかったハズですから、原発の建設それ自体を罪と言うのは極端すぎる結論だと思います。
 
 あと、当サイトもネットの一部であり、ネットは基本的に自ら情報を得に行かなければならないという性質である以上、やえはもちろん頑張りますが、当サイトを見ていただけるかどうかは最終的にはネット利用者ひとりひとりにかかっています。
 「自らの身に危険が及ばない限りは、国民は何の関心も持たない」っていうのは、ある意味至言です。
 死刑廃止論でも似たような構図ですが、自らの身に降りかかなければ本気にならないというのは、ある意味人間のサガなのかもしれません。
 でもそれを超えてどうすべきかっていうところを、ひとりひとりが考えてほしいですね。
 やえも頑張ります。
 
 
 
 自民党は今回の生肉問題に対して提言とかしたのかな。
 
 ↑自民はヒアリングしてるね。リンク
 
 ヒアリングしてますねぇ。
 あ、でも、この前やえ厚生労働部会って言いましたけど、消費者問題調査会なんですね。
 で、その後どうなったのか記事探したのですが、見つかりませんでした。
 でもこの件というのは、役所の通知程度の、法令とも言いづらい程度の役所の行為なので、ここまでのコトを野党がどこまでやるのかっていう問題はあろうかと思います。
 これが与党ならもちろん役所は与党の指示に動くので意味はありますが、いま自民党は野党ですからねぇ。
 ま、ただこれはこの前言いましたように、今回のコトがどうなんですかっていう話ではなくて、自民党が与党ならどうだったでしょうかという問題であり、いまの与党は何をしたのかって話ですから、いま野党がどう動いたというのは直接的には関係がありません。
 説得力が多少増すかなとは思いますが、与党の時に自民党がどう動いていたのかっていう説得力以上のモノは持たないでしょう。
 
 ふとした記事を見つけても、自民党はちゃんとやってますよ。
 「自民党がキチンと仕事している」という風にマスコミは伝えないだけで。
 
 外務省、大韓航空の利用を自粛 竹島問題で抗議行動

 
 だが、こうした対応に自民党から「物足りない」と批判が出たこともあり、同省は水面下で追加措置を検討。大韓航空機の利用自粛案が浮かび、世界貿易機関(WTO)政府調達協定などに反しないことも確認。松本外相がゴーサインを出した。
 
 
 
 浜岡原発を思いつきでストップさせた時点で、節電する気なくなりましたね。
 
 ねー。
 節電しなくても良い方策が目の前にあるのに、それを法的根拠もなく思いつきで止めた上で、さらに節電しろと国民に負担を押しつけるのですから、ハッキリ言ってこんなのデタラメですよ。
 いま現在進行形で総理大臣をしている人の責務は何かと言えば、目の前の問題を片付けるコトです。
 もちろん中長期的な視点は必要ですが、それは、目の前の問題を片付けつつこなす仕事です。
 しかし菅直人は、目の前の問題を放り投げた上で、いつか分からないえらい先の話しかしようとしません。
 こういうの夢想っていうんですよ。
 あたしお医者さんになるのよと言いつつ、全く勉強しない子供みたいなモノです。
 それでいて、菅直人本人は毎日夜外で高級料理を食べ歩いているんですから、たまったもんじゃないです。
 やれやれです。
 



平成23年7月15日

 自民党の中国新幹線特許に対する対応と、原発を止めてもすぐに安全にならないお話と、夢想家菅直人

 タイトルが長くなってしまいましたが、今日はこの3つのコトについて、簡単にコメントしたいと思います。
 
 
■原発を止めてもすぐに安全にならないというお話について
 
 もうちょっと誤解されているようなので、このお話続けます。
 昨日お話ししました大学で講義を取れば云々っていうお話は、それは「原発の仕組みについての情報は決して秘密裏にされているワケではありません」というコトを説明するためのモノです。
 そういう講義のある大学に行けば、確か日本では東京大学の理工学部が原子力に関する知識の最高峰だったと聞いていますが、ここに入れば誰だって学べるワケで、そしてここに入るためには学力さえあればいいのですから、こういうのは「秘密」とは言いません。
 やえは原子力に対するそこまでの知識はありません。
 学んだコトもありませんし、そもそも十四歳のやえでは学ぶ場がありません。
 でも今回の事故で、他のサイトさんブログさん、そしてツイッターなどを見た中で、それなりに知識がある方が「これぐらいは大学で学べば誰でも知っている」というコトをおっしゃっている方がけっこういましたので、そうなんでしょうとやえは思っているワケなのです。
 繰り返しますが、こういうのは「秘密」とは言いません。
 
 しかしこれは、大学に行かなければ「原発を止めてもすぐ安全にはならない」という事実を知るコトは出来なかったという意味ではありません。
 前の更新と同じ内容になっちゃいますけど、やえがこの事実を知ったのはいつなのか、なにがキッカケなのかは忘れましたが、1つハッキリと覚えているのが、青森県の六ヶ所村です。
 原発の廃棄物処理施設等がある村ですが、ここのニュースが出るたびに、その廃棄物がとてもとても厳重に取り扱われている様子が映し出されていました。
 この事実を知るだけでも、「廃棄物」と「厳重」という2つのキーワードから、原発で発電した後も色々と問題はあるようですねと導き出されないでしょうか。
 少なくともやえはそう思いました。
 だって廃棄物が文字通り「ゴミ」であれば、ここまでする必要はないハズなんですからね。
 危険だからこそ厳重に管理されているのでしょう。
 逆に言えば、原子力発電をしていない場所でも厳重にしなければならないというコトは、原子力発電を止めてもすぐには安全にならないというコトに他ならないワケです。
 
 こうやってこの事実に気付くコトは誰でも出来たハズです。
 そしてその先を調べるコトも誰でも出来たでしょう。
 こういうキッカケというモノは、どこかに誰にでもあったハズなのです。
 それに気付くかどうかの違いであって。
 
 ただ、知らなかったからと言って、それを責めるつもりはありません。
 やえだって知らないコトはたくさんあるのですからね。
 全てを知っている人なんて、神様以外いません。
 しかし、少なくとも原子力の仕組みというモノは秘密ではありませんし、知るキッカケもあったワケですから、その責任を他人のせいには決してできないというコトを言いたいワケです。
 知らなかったのが悪いんだと言うつもりはありませんが、ただそれを、「自分は知らなかったのだから、政治が悪い自民党が悪い、自分には一切責任は無い、自分は被害者だ」と言ってしまうのは、それはあまりにも身勝手で無責任ですと言いたいのです。
 何度も言ってますが、原発を建設したコトそれ自体は、国民全員の責任なのです。
 そこを忘れないように、主権者たる国民としては、しなければならないでしょう。
 
 
■自民党の中国新幹線特許に対する対応
 
 ふと自民党のサイトを見ていたら、こんなの見つけました。
 
 会議情報  自民党で開催している各種委員会や部会、識者を招いた勉強会などの会議開催情報をご覧いただけます。
 
 2011年07月15日(金)
 ◆政調、外交・国土交通合同部会
  8時(約1時間) 702
  議題:中国の高速鉄道(中国版新幹線)の開業と
     海外における特許申請の動きについて
 
 
 各地で話題になっていました、中国新幹線の技術を中国が世界中で特許申請しているというお話です。
 これ元々はJR東日本などが中国に技術提供したから、中国が新幹線を作るコトが出来るようになったハズなのですが、いつの間にか中国はこれを「中国の独自技術アル」と言い出して、世界中に特許申請し出したという流れなんですね。
 当然中国のこういう厚顔無恥さには頭にくるワケですが、しかし中国はそういう国だって分かっているのですから、技術提供するJRもJRですと言いたくなっちゃいます。
 あの国はどうやっても信じちゃダメなんですよ。
 
 まぁ天罰かどうか知りませんけど、中国新幹線は開業して数日で、トラブルが連発しまくっているようですが。
 
 で、自民党、ちゃんとこういう問題も取り扱ってますよ。
 たぶんニュースでは一切報道しないと思うのでやえが紹介しますが、運転トラブルはともかく、中国が日本の技術を受けておいて自らの技術だとウソをついて特許を申請するなんて、もちろん日本としてのメンツの問題もありますが、経済の面においても大きなダメージを負いかねません。
 例えばある国で中国のその申請が通るようなコトがあれば、もともとは日本が開発した技術であるのに、その国では日本の独自技術を売るコトが出来なくなってしまうワケなのですからね。
 中国が、盗品を堂々と売って利益を上げるのを、指をくわえてみるしか出来なくなるワケです。
 こんなバカバカしい話はないのではないでしょうか。
 だからこれは、本来もっと大きな政治課題になってしかるべきなのです。
 
 政府や与党民主党は、これに対してどう対応しているのかは分かりません。
 でも少なくとも野党である自民党は対応をしようとしているのです。
 自民党は何もやっていないとか言っている人は、こういう事実をちゃんと知って欲しいですね。
 
 
■夢想家菅直人
 
 ごめんなさい、最後にひとことだけ、ひとことだけ言わせてください。
 これはもう我慢できません。
 
 不幸にも現在の日本の総理大臣である菅直人が先日「原発に依存しない社会をめざす、将来は原発のない社会をめざす」と脱原発を記者会見していましたが、これ、いつも通り具体性が全く無いんですよね。
 いままで当サイトで散々指摘してきましたが、原発をいますぐ止めるコトは不可能で、火力にしても水力にしても当然として建設には時間がかかるのですから、その代替案をどうするのか、本来はまずここを語らなければならないハズです。
 でも菅直人はここが一切ないワケですね。
 ただただ、将来の夢物語を語るだけ、夢想するだけです。
 
 本来政治とは、中長期的な視点はもちろん必要ですが、まずは目の前の仕事を片付けるのは当たり前の話で、その処理が前提としてありつつ、中長期的な課題はその上で取り扱うべきモノです。
 決して、中長期的なモノのために目の前の仕事を無視してもいいコトには、絶対になりません。
 でも菅直人はこれなんですよね。
 ただただ夢を語るコトだけに快感を覚えているワケです。
 
 さらに菅直人は完全にひとりよがりの絵日記を夢想しているだけなのです。
 こちらのニュースをご覧下さい。
 
 首相孤立…脱原発方針、閣僚が火消しに奔走
 
 枝野長官は14日の記者会見で、「遠い将来の希望という首相の思いを語った」と述べ、内閣の政策目標ではなく、首相の個人的な「思い」に過ぎないとの認識を示した。
 
 玄葉国家戦略相(民主党政調会長)も14日の党政調の会合で、「政府内でも、原子力の依存度を徐々に減らしていくことはほぼコンセンサス(意見の一致)がある。ただ、ゼロにするかどうかの大きな議論は、もう1回やらざるを得ない」と述べ、政府の方針となっていないことを強調した。
 
 海江田経済産業相も14日の衆院本会議で、長期的なエネルギー政策の見直しについて、「原子力発電の位置付けを含め、今後のエネルギー政策のあり方は予断なく議論を行う」と述べた。
 
 財務相、首相の脱原発表明「個人の考え」
 
 野田佳彦財務相は15日の閣議後記者会見で、菅直人首相が記者会見で「原発がない社会を目指す」と表明したことに関し「閣僚懇談会でも説明があったが、菅首相の原子力発電所やエネルギー政策に対する考え方を整理し、個人の考えとして示したということだった」と明らかにし、あくまで個人的な見解であるとの認識を示した。
 
 復興、首相が邪魔でも進めないと…平野大臣
 
 東日本大震災からの復旧・復興については「首相が邪魔になるとしても進めないといけない。(2011年度)第3次補正予算案もできるだけ早く出すのが基本だ」と述べ、首相の進退にかかわらず作業を進める方針を明らかにした
 
 民主幹事長、首相の脱原発発言「本格的な議論はこれから」
 
 民主党の岡田克也幹事長は14日午後の記者会見で、前日の菅直人首相の脱原発発言について「民主党(の方針)ではなく、首相としての発言。発言はもちろん尊重しなければならないが、本格的な議論はこれからだ」と述べた。その上で「原子力発電所に対する考え方、エネルギー政策は国の根幹の政策だ。これから専門家も交えしっかりした骨太の議論を行い結論を見いだすべきことだ」と指摘した。
 
 官房長官、国家戦略担当大臣、経済産業大臣、財務大臣、復興担当大臣などの閣僚と、さらにお膝元の民主党からすら総スカンを受けている菅直人。
 もはや意味が分かりません。
 だいたいみなさん言っているコトは「あの記者会見は菅直人が思いつきで勝手に言ったコトであり、内閣も与党もそんなのは知らない」というコトですね。
 復興大臣に至っては、総理を捕まえて「邪魔」とまで言っているワケで、よほど邪魔なんでしょうねとしか言いようがありません。
 
 与党も協力しない、閣僚もそっぽを向く。
 この菅直人とかいう名前の総理大臣は、果たしていったい何のために総理の座にいるのでしょうか。
 誰が望んでこうなっているのでしょうか。
 これで政治が動くとでも思っているのでしょうか。
 
 自分の中だけの夢を思い描くなら、自分のつくえの中にある絵日記にでも書くか、寝てから見てください。
 



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