本日発売の『SAPIO』なんですが、うーん、よしりん先生、だからもう政治の方には口を出さない方がいいと言ったのですが、ついにまた出してしまいました。
「暫」になってからは思想を中心におもしろいお話をされていただけに残念です。
安部政権が誕生した。安部総理を始め、わしが会ったことある政治家も何人か閣僚になったり、要職に就いているので、ものすごく期待した。
「安部政権」「安部政権」
「闘う政治家」「闘う政治家」(わくわく)
村山談話・・・(侵略史観)を踏襲する?
河野談話・・・(慰安婦強制性)を踏襲する?
我が国はサンフランシスコ講和条約により、裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判に異議を述べる立場にはない?
なんじゃ、こりゃーーーーーーーーーーーーーーっ!!
闘う政治家と言ったくせに全然、闘わん!
クソサヨク政権やないかーーーーーーーーーーーっ!!
(中略)
結局、政治家ってこんなもんなのか?
理念を述べるのは要職に就くまで。官僚が作った誤った前例と闘うことはできないのか?
|
間違ってはいけないコトは、安倍さんは決して「歴史観」を踏襲したのではなく、あくまで「実際にある条約や法律(またはそれに準ずる力のある談話や政府見解)」を踏襲しただけの話であるというコトです。
こういう言い方もなんですが、そこには内容をいちいち吟味して取捨選択したワケではありません。
というか、こういうコトはただその時の、一時だけのたまたま今だけ総理になっているという理由だけで今の総理の一存で吟味して取捨選択してはならないのです。
例えば、今国会でもいろいろと法案について審議されるワケですが、中には「修正法案」というモノも出されるワケで、これは今ある法律を変える法律案であり、つまりはその今ある法律は適切ではないとされている法律であるワケですが、もちろんこれだって今の段階では立派な法律であり、当然政府もそれは踏襲しているに決まっています。
これと同じで、全ての法律と同じように、過去ある法律などを踏襲するのは当然の話であって、政権が変われば法律などひとつひとつの中身を吟味して取捨選択していいというコトにはならないのです。
また、これも間違えてはいけない点ですが、あくまで政府は行政府だというコトです。
決して立法府ではないのです。
行政府は立法府の作った法に基づいて存在しているモノであって、法を作ったり修正できる存在である立法府の人間、すなわち国会議員は、だからこそ様々な問題についてある程度自由に発言ができるワケで、それらの発言や考え方が法になっていく過程なのであって、しかし行政府はその立法府を踏まえての存在でしかないのですから、ある程度発言が狭まるというのは当然のコトなのです。
それを超えるのは越権行為です。
よしりん先生は簡単に「要職に就くまで」と言っていますが、国会議員は立法府の人間、総理や大臣は行政府の人間という原則を忘れていらっしゃるのでしょう。
先ほど「ただその時の、一時だけのたまたま今だけ総理になっているという理由だけで今の総理の一存で吟味して取捨選択してはならない」と言いましたが、ここの観点も忘れてはいけません。
というのも、残念ながら村山談話や河野談話が出た時期というのは、まだまだ日本の左翼臭まっただ中にいた時期です。
世論と政治の動きは多少のタイムラグがありますが、政治的な視点で見れば、自民党がついに下野し、その後やっとの思いで自民党が政権に戻ってきたけど、もはや一党だけでは政権を取れずに社会党に協力を要請しなければならないという時期であり、戦後日本政治の中ではもっとも左翼の方向に振り子が揺れていた時期で、つまり世論もそういう時期だったと言えるワケです。
ですから、やはり村山談話も河野談話も世論の後押しがあって出てきた談話なのですから、それを変えるにもそれなりの世論は必要です。
国会での議論も当然必要でしょう。
その時の総理だけの個人の考え方だけで全てが変わってしまうような手法は、当時の雰囲気を無視した、言わば事後法的な処理であり、それは大東亜戦争肯定論と矛盾する考えになってしまいます。
まして総理になったばかりというタイミングで、議論もなにも出来ていないのに、国民の一部でしかない保守論者だけが唱えている論が達成させないからと言って政治や政府のせいにして批判をするというのは、あまりにも身勝手なのではないでしょうか。
ちょっとこの辺の主張はネットウヨクっぽいと言わざるを得ないです。
よしりん先生はこの後のシーンで
この近代法・国際法観念では「決着済み」の問題を、何度も蒸し返す野蛮な儀式を、中・韓に代わって、日本の野党やマスコミが反復し続けるのだから実に情けない。
しかも「政府の見解」を述べるだけでは飽き足らず、朝日新聞らマスコミは「安部総理の頭の中」まで思想統制したがる。
本当にこの国のサヨクは気色悪い。ロボトミー手術でもやりたそうな偏執性だ。閣僚になったが最後、個人の思想・信条すら自由ではないらしい。旧ソ連や中国共産党的な強制洗脳をサヨクは望んでいるのだ。
|
とおっしゃっておられるので、問題の本質は分かっていらっしゃるとは思うんですが、それでも政治を批判しなければ気が済まなくなってしまっているのは、ある意味既存マスコミと同種の病に罹っていると言えます。
政治を語る場合世論というモノを無視できないのは言うまでもないコトですが、結局世論というモノは右から左まである意見の中間あたりに存在するモノなのです。
よしりん先生は、朝日新聞らの偏狭質的な勢力もあるとは理解していますが、残念ながらいくら偏狭性と言っても世論の一部を形成するモノであるコトには変わらないワケで、全ての国民のための政府である以上は、それらの意見も尊重しなければならないモノなのです。
政治を、政治家を批判するのは簡単です。
ほぼ確実に反論されない上に、強者にかみつくのですから、これほど気持ちのいいコトはないでしょう。
しかし、政治は現実論であり、現実的に不可能であるならいくら批判を繰り返しても無意味です。
政治を批判するなら、現実的に実行可能である批判をしなければならないハズです。
断言しますが、仮によしりん先生が今の制度のまま衆議院議員にでもなって、何年後かに総理になったとしても、よしりん先生がいま主張しているほどの変化は絶対に不可能です。
なぜかと言えば、日本は大統領制ではなく議院内閣制だからです。
これは、「真理こそが正しい」という考え方ではなく、「みんなで話し合った結果こそがもっとも正しい」という日本独自の伝統の「和の精神」を色濃く反映した結果の上での制度なのです。
だからこそ大統領制ではなく議院内閣制を選択したのでしょう。
小泉さんは、その独創的な手法により、一部からは独裁者と言われましたが、しかし基本的なルールだけは守りました。
郵政民営化など、参議院で否決されたための衆議院を解散するという基本的なルールの外枠ギリギリだったとは言えますが、完全にルールを無視したワケではなく、また世論の合意を得たという意味において、しっかりと政治のルールを守った上で信念を貫いたのです。
政治を批判するなとは決して言いませんが、批判する場所を間違えたまま批判したところで、問題は絶対に解決しない上に、さらに問題をややこしくさせるだけです。
ただただ政治家を批判したいだけなのか(それは自分が気持ちよくなりたいだけという意味です)、それとも問題を本質から解決したいのか、ちゃんと考えてもらいたいと思います。
もう政治家に期待すまい。
まず輿論(よろん)を起こそう。
それしかわしに出来ることはない!
|
ごめんなさい、よしりん先生、それ以外に今まで何が出来るとお思いだったのでしょうか。
選挙という儀式を経てもいないのに、政治家気取りだったのでしょうか。
それならあまりにも思い上がり甚だしいとしか言いようがありません。
政治家は選挙を経ているからこそ国民の代表であり政治を司る現実的に実権を与えられた存在なのです。
最近政治家に理想を語らせようと勘違いしている人が多いようですが、思想家こそが理想を語るべきです。
もし政治家が理想を語るのであれば、むしろ思想家は必要ありません。
しかし実際はそうはいきません。
政治家は現実的に力を動かす役割があって、だから語るべきモノも現実的に考える必要があって、よって理想を語るべきは思想家が語るしかないのです。
世の中とはそういう役割分担で成り立っているのではないのでしょうか。
本当に政治を語るだけなら、それはほとんど技術論になってしまいます。
しかしそんなコトを政治家以外が語っても意味があるとは思えません。
ですからやはり、政治家でない人は、世論こそに向かって、世論を動かすために理想を語るべきなのではないでしょうか。
世論を変えれば自動的に政治も変わるのですから。
|
|
|
|
(憧れの疑似トラックバック機能を期間限定お試しで付けてみました〜)
|
|
|