☆やえニュース☆

 事業仕分けが如何にデタラメで適当の産物かが証明されました国民は「政治に参加したい」のではなく、「テレビで政治っぽいドラマが見たい」だけ一所懸命働くというコト政治問題になってしまっている派遣村問題それとこれとは話が別頑張って働いている人がいるというコトアメリカと中国は対等に比較できるモノなのか

平成21年12月1日

 事業仕分けが如何にデタラメで適当の産物かが証明されました

 手前味噌になるのも申し訳ないのですが、民主党の事業仕分けの本質が、いままでやえが言ってきた通りだったコトが、日に日に証明されてきています。
 やえは事業仕分けのコトを次のように言っていました。
 
・たった数十分で事業の本質を議論するコトなどできない。
・仕分け人も、所詮他人事でしか予算を見ておらず、どうでもいい程度でしか考えてない。
・というか、はじめから予算をカットするコトしか考えていない。
・そのための口実は、いちゃもんレベルでもかまわない。いちゃもん付けられれば終わり。
・しかもその意見はたった数人の議員だけの意見で決まってしまう。
・国民も「自分には関係ない」程度でしか見ておらず、むしろ他人の予算がカットする様にカタルシスを感じている。
・以上、所詮他人事で、しかも完全受け身なので、自分がテレビで見ていない部分の予算について、実は自分に関係するコトがあったとしても、それに気づかないまま事業仕分けを支持しているというマゾ的構造になってしまっている。
 
 膨大な予算の中で議論される時間は一事業につきたった数十分というコトはみなさんご存じの通りですが、それを伝えるテレビなんかではさらに時間が少ないワケで、結局テレビで知れる情報なんてわずかなモノでしかなく、マスコミが伝えない中でも実は国民にとっても自分にとっても必要な予算だと感じるモノがたくさんあるのではないかと、やえは言い続けてきました。
 例えばその象徴が、スーパーコンピュータの予算だったり、スポーツの予算だったり、教育の予算だったりするワケです。
 
 なぜこのような事態が起きてしまうのかと言えば、やはり「透明化している」と一見思えるけど、実は全然透明でも何でもなく、国民の政治参加が全く出来ないという、構造的な問題にあるのです。
 国民の多くは事業仕分けについて「透明である」と感じている一方、実際は全然透明じゃないので、このような齟齬が起きているワケです。
 マスコミが透明透明と言うので、無批判に本当に透明と思って安心していたら、実は自分が知らないコトがいっぱいあったでござるの巻、という感じですね。

 漢方薬保険外に4万人以上の反対署名 厚労省に提出へ
 
 政府の行政刷新会議の事業仕分けで医師が処方する医療用漢方薬を「公的医療保険の適用外」とする方向で結論を出したことについて日本東洋医学会(寺沢捷年(かつとし)会長)が4万人以上の反対署名を厚生労働省に提出することが28日、分かった。保険外になれば医療用漢方薬を病院で処方することができなくなるためで、製薬業界も「漢方医学の現状を知らない人の議論だ」と反発を強めている。

 これなんて全く現場と現状を知らない素人判断の最たるモノと言えるでしょう。
 一見、「薬局で買える市販薬に近いモノなら病院で出す必要はないだろう」という意見は正しいように見えますが、しかし保険の適用外になるというコトは、つまり医師が処方しなくなると同意ですから、こうなれば漢方を勉強し扱う医師の漢方へのメリットが極端に少なくなり、結果として日本における漢方を扱う医師が減る事態になるでしょう。
 そしてそれは、漢方医学の衰退につながるとまで言えてしまう事態になりかねない決定と言えます。
 相変わらず仕分け人のいちゃもんが幅をきかせている証拠といえるでしょう。
 
 そもそも「保険制度」を根本的に考えれば、これはおかしいのです。
 なぜ医師の処方箋が無ければ買えない薬と、誰でも気軽に薬局で買える薬と別けられているかと言えば、それはやはり副作用の観点が一番大きいと言えるでしょう。
 素人が素人判断のままに効き目の強い薬=副作用の強い薬を使ってしまうと、むしろ体を壊す結果になりかねないので、プロである医師が定めなければ強い薬は買えない、というのが、そもそもの処方箋制度のはじまりのハズです。
 しかし漢方薬は、対処療法であるところの西洋医学薬とは、根本的に考え方が違います。
 やえも素人なのであまりえらそうには言えませんが、漢方は基本的に人間が持っている自浄作用の働きをより促進するよう助ける薬ですから、副作用が全くないとは言いませんが、西洋医学薬に比べれば弱い場合が多いと言えるモノです。
 そういう意味で、病院で処方する漢方薬の中で一般薬局でも買えるような薬はあるのでしょうけど、しかしそれは、医師が専門に扱う必要がないという意味では決してないハズです。
 
 この問題の一番のポイントは、「薬局で買えるんだから一緒だろ」ではなく、「医師が処方箋に書けない」というところです。
 混合診療禁止ですから、保険制度適用外薬は適用薬と一緒には処方できないですし、保険適用医療を受けた上での適用外薬も処方できないのです。
 そしてそれは、先ほども言いましたように、漢方薬は自浄作用を助ける働きをするという点から、決して独立している薬ではなく、西洋医学薬ともセットで処方されるコトは良くあるコトです。
 しかし、それが今後は一切できないのです。
 確かに保険制度適用外になっても似たような薬を薬局で買うコトは出来ますが、しかしそれは自分で自ら選んで買うしか無く、これからは医師の処方によっては買えなくなるのです。
 この制度というのは、買える/買えないの問題ではなく、医師が専門となって処方できるどうかが一番のポイントなのです。
 
 さらにこの問題というのはそれだけにとどまらず、医師が処方できなくなるというコトは、そのような薬をわざわざ研究しよう専門としようなんていう医師が、特に現場ではかなり少なくなるのではないかという点が、とても問題だと言えるのです。
 それは結果的に日本における漢方医学の衰退を意味するコトとなるでしょう。
 
 中には「自分は漢方薬なんか使わないからカットすればいい」なんて言う人もいるようですけど、それこそが「他人事の論理」だというコトに早く気づくべきです。
 このような理屈でカットしていけば、いつか自分が本当に必要なモノであっても、全く関係のない他人に「私には関係ないから」と無慈悲にカットされる日が来てしまうコトでしょう。
 そしてそれが、このような負のスパイラルを作ってしまうのです。
 ましてこの事業仕分けというモノは、素人がたった数十分で議論を、いえ議論なんて名に値しない、いちゃもん付け合戦だけで決めてしまうようなシロモノなのです。
 このようなコトを許していると、まだまだこれと同じような問題は次から次へと出てくるでしょう。
 
 ただでさえ、やえの指摘した通り「他人事の論理」でしかない事業仕分けによって、すでにスパコンの問題、スポーツの問題、教育の問題と次々と出てきているのですから、いつか自分が痛い目に遭う日が来てしまうかも知れません。
 その前にこのようなくだらない茶番劇は終わりにしなければならないと思います。
 

平成21年12月2日

 国民は「政治に参加したい」のではなく、「テレビで政治っぽいドラマが見たい」だけ

 民主党の事業仕分けについて、テレビなんかでは好き勝手様々言ってますが、今のところ「今まで予算の使い方が分からなかったけど、これによってよく分かるようになった」というコメントが一番多いような気がします。
 つまり、政治の透明化が最も大切で、国民の目に見えやすくするコトがより良い政治であるというコトでしょう。
 これについてはまぁ反論するところではありません。
 もちろんそれが最上級ではなく、透明化したところで逆に悪い方向に政策が進んでいけばそれは駄目な政治だとしか言いようがありませんし、全てが全て国民が知ればいいというモノでもありません。
 例えば外交ですとか国内外の防衛問題については、素人であり、時に潔癖性な国民は、むしろ知らない方がいいコトも少なくありませんから、透明化が即イコールであるとは言えません。
 ただしこれについても、透明であれば、最後に責任を負うのが国民なのだからいいんだという意見もあり、本当に国民が全ての責任を負うというのでしたら、それはそれでひとつの考え方だとは思います。
 ですから時に政治の透明化というのは必要な場面もあるでしょう。
 そして今民主党が行っている事業仕分けも、そのようなモノとしてマスコミや国民に考えられていると思われます。
 
 しかし果たして事業仕分けは、本当に『透明化されている政治』であると言えるのでしょうか。
 
 事業仕分けに携わっているいわゆる仕分け人というのは、数人の国会議員と民間の有識者で構成されています。
 よって予算の行方はこの十数人にかかっていると言えるワケで、もし事業仕分けに対して意見が言いたければこの人達に言うしか他ありません。
 例えば自分が住んでいる地域から選出された議員が民主党の議員であったとしても、その人に事業仕分けの意見や要望を言ったところで、全く意味をなさない行為でしかないとしか言いようがありません。
 まして民間の有識者は国民の代表ではありませんので、この人たちに要望を言うのは自由ですが、しかしその人達はその人達の意見を一番重要視しているでしょうから、まずそれも無駄と言えるでしょう。
 となれば、国民の代表たる国会議員で決定権を持っているのはごくごく数人だけと言え、こんなわずかな人だけが決定権を持っているというコトは、かなりその人達の個人的な考えが強く反映されるシステムだと、この事業仕分けは言えるワケなのです。
 
 確かに、事業仕分けの様子はマスコミフルオープンでありネット中継もしていますから、そういう意味では透明化と言えるのかもしれません。
 しかしその一方、国民の政治参加という意味では、果たして透明化されていると言えるでしょうか。
 結論を言えば、全く違いますね。
 先ほど言いましたように、この事業仕分けにはたった数人の国会議員にしか決定権が存在せず、一般国民が意見を言う窓口も、それを伝えるシステムも全く存在しないのです。
 結局この事業仕分けというモノは、国民の側に取ってみれば、一方的に眺めるだけのシロモノでしかないのです。
 
 これが自民党政権時代だったらどうだったでしょうか。
 マスコミは一方的に自民党政権時代は閉鎖的だったと決めつけてイメージを植え付けようとしていましたが、そうでないコトは、よくよく当サイトをご覧頂いている方は分かるのではないでしょうか。
 例えば人権擁護法案の時の議論です。
 当サイトは、自民党では政策の意思決定をする場合には部会という会議が開かれて、そこで議決されなければ党としての決定にはならないというコトをお伝えしてきました。
 そして、ここが大切なのですが、自民党の部会という会議は、自民党国会議員でしたら誰でも参加できるという特筆すべき点があります。
 つまりこれは、自民党の国会議員は今でも衆参合わせて200人ぐらいいらっしゃいますが、この200という数のある程度の割合が納得しうる、もしくは納得できないような案件であれば、部会で議決がされる/されない可能性が非常に高いシステムになっているワケです。
 ですから、自分の意見を国政に反映させたい場合、最も自分の考えに近いと思われる議員さん、もしくは自分が住んでいる地域から選出されている議員さんに要望するなり意見を言うなりすれば、それが一定以上の割合の議員さんに納得させられるのであれば、それを国政にダイレクトに反映させるコトができるのです。
 人権擁護法案は、部会の様子で言えば賛成反対の議員さんの割合は半々ぐらいでしたが、これぐらいの数字なら止めるコトが出来ました。
 当時衆参合わせて400人ぐらいいた自民党議員の中から、あの法案に反対できる議員をそれなりの数見つけ出すコトが出来たコトが反対派にとっては勝因であると言えるワケですが、そもそもその前に、自民党には意志決定に関わる部分に於いてオープンなシステムが構築されていたからこそ達成できた芸当だと言えるでしょう。
 もちろんあまりにも極論過ぎて政権一般でも納得できない意見ならいくら言っても無駄ですから、その辺も200という数字、政権政党ならもっと多い数字が担保されているワケで、つまり「全ての議員が参加できる会議が仕組みとして出来上がっている」からこその担保であって、より民主的な手法が担保されている証拠と言えるでしょう。
 
 マスコミとかでは閉鎖的だったと言われる自民党の政治システムは、しかし実際は誰でも政治参加できるオープンなシステムが構築されていたのです。
 そしてそれは、『自分から動いてこそ達成できるシステム』なのです。
 民主主義政治とはその名の通り国民による政治であり、国民が動かす政治です。
 よって国民自身が自らの意志で動かす、動かさなければならない政治なのです。
 民主主義は国民の安楽装置でありません。
 民主主義は、金を払えば連れて行ってくれるタクシーではなく、自分の意志で動かさなければならない自家用車です。
 そういう意味で、自民党の政治システムは良くできていたと言えるでしょう。
 
 一方、果たして民主党の場合、このような国民の声を反映させられるシステムがあるのでしょうか。
 
 少なくとも民主党の事業仕分けに対しては、一般国民は一切口を挟むコトは出来ません。
 テレビでおもしろおかしく事業仕分けの様子を伝えていますけど、そこでは、国民が想像だけで悪だと決めつけている官僚という存在を、正義の味方民主というと言わんばかりに一方的に国会議員などがなじる「ショー」が見れているだけです。
 それは結局ショーなのです。
 ショーは、見ている側が楽しいと思えて初めて成立するモノであり、もし不満があればそれは全く成立しないだけでなく、その不満を伝えるコトすら出来ない、一方的に不愉快にさせられるだけの害悪装置にしかなりません。
 結局民主党の事業仕分けは、こういうモノでしかないのではないでしょうか。
 
 ある種いまの日本国民は、政治を安楽装置だと勘違いしている部分が多々あります。
 寝ころんでいれば自分の望むような政治がやってくる、むしろやってこない方が間違いであり、それは全て政治家のせいだと言わんばかりです。
 そして民主党という政党は、まんまとその国民の自堕落な姿勢に迎合して権力を奪取したのです。
 その見返りとして、民主党は国民に事業仕分けというショーを提供して、まさにテレビの前で寝ころんでいるだけでカタルシスを感じられるシステムを作り上げたのです。
 自堕落な国民にとっては言うコトはないでしょう。
 
 しかし、これは全く「国民の政治参加」という観点からは逆行しているとしか言いようがありません。
 果たして事業仕分けに対して意見を言いたい場合、どのような方法をとればいいのでしょうか。
 そしてそれは、現実に様々な分野、例えば科学技術やスポーツなどで、表面化してきた問題です。
 さらに、所詮これは国民に対する安楽装置で、テレビの前で寝ころんでいるだけでしか手に入らない情報ばかりであって、実は自分にも直結する予算であっても、知らないままに素人が判断してカットされている可能性だって否定できません。
 実際そんな事案がどんどん明るみに出ているのですから。
 
 民主党政治とは事業仕分けがそれを象徴しているだけで、基本的な構造は変わりません。
 例えば、外国人参政権付与問題にしても、小沢一郎民主党幹事長が決断すれば、それだけで全てが決まってしまいます。
 それを止めるすべはありません。
 これが自民党時代であれば、いくら時の総裁が推進派であったとしても、よほどのコトがない限り部会で議決できなければ自民党としての決定とはなりえません。
 総裁という存在だとしても、党所属国会議員が半分以上それに反対すれば、それを強行できないシステムに自民党という政党は作られているのです。
 しかし民主党にはそれがありません。
 事業仕分けの仕分け人にしてみても、小沢一郎幹事長にしてみても、その他大勢の議員は蚊帳の外で、たった数人だけの少数意見が幅をきかせ決定権を行使できるというのが、民主党政治なのです。
 
 国民をさらに自堕落にするだけして、口を出させる機会を奪い、一方的に自分たちの党利だけを追求して政策決定していくのが民主党政治だと言えるでしょう。
 それは果たして本当に国民にとって良い政治だと言えるのでしょうか。
 

平成21年12月3日

 一所懸命働くというコト

 今日はちょっと時間がありませんので、やえの疑問というか、問題提起をしてみようと思います。
 
 昨日テレビのニュースで、例の外国人死体遺棄容疑で逮捕されている市橋容疑者の様子を伝えている様を見たのですが、そこでふとやえの頭の中にひとつの疑問が浮かびました。
 確か市橋容疑者って、逃亡生活中に建設会社に勤めて100万円ぐらい貯めたって言ってましたよね。
 これですこれ。

 市橋容疑者「貯金して親に恩返し」? 大阪潜伏時はめがねに野球帽
 
 「金が必要だ。助けてほしい」。市橋達也容疑者(30)は昨年8月、大阪府茨木市の建設会社の採用担当者に訴えた。募集会場の大阪市西成区からバスに乗り込み、約3畳半の会社寮で住み込みを始めた。
 仕事ぶりはまじめ。ソーラーパネルの取り付けや土木作業をこなし、作業を覚えるための手書きメモを持ち歩いた。同僚は「パネルの種類が図解で書いてあった。絵がとてもうまかった」。
 周囲には「金をためたい。親を温泉旅行に連れて行って恩返しがしたい」と話し、夜勤の仕事も率先してこなした。飲酒も喫煙もせず、胴巻きに現金を入れて肌身離さず持ち歩いた。

 市橋容疑者が犯したとされる事件が事実だとしたら(まだ判決は出ていないですからね)それは当然罰せられるべきですが、しかし少なくともこの逃亡生活の際には、市橋容疑者は本当に真面目に勤勉に働いていた様子がこの記事からうかがえるます。
 もちろん仕事は大変だったでしょうし、また寮も3畳半と決して一般的とは言えないぐらいの悪条件と言える環境だったと言えるかもしれませんが、それでもキチンと真面目に働いて、そして一年も経たないぐらいで100万円ぐらい貯めたワケです。
 それは素直に頑張ったと言えるでしょう。
 
 そう考えたとき、果たして「仕事がない仕事がない」「それは全部政府が悪いんだ」「政府はなんとかしろ」と言っているような人たちの主張というのは、本当に正しく現状を反映した言葉なのかどうかと、ふと疑問が浮かんだのです。
 
 市橋容疑者の逃亡生活中の境遇というのは、一般の人間に比べれば遥かに厳しい状況だったでしょう。
 逃亡生活中ですので、当然住む場所がなかったでしょうし、それは同時に住民登録している住所が無かったというコトです。
 またそれだけでなく、公的な身分証明書も無ければ、電話もなければ、本名すら明かせない状況だったワケです。
 おそらく派遣村に集まった人のだれよりも、働き始める条件という意味では、一番厳しかったのではないでしょうか。
 
 でもそんな市橋容疑者でも、キチンと働く場を得るコトができ、そしてお金も100万円も貯めるコトができたのです。
 
 さてこの現実をどう考えるべきなのでしょうか。
 別に全ての人が、市橋容疑者よりも働きやすい環境にあると断言するつもりはありません。
 でもそれでも、やっぱりちょっとひっかかる部分というのはやえの中にあります。
 
 今日は問題提起ですから、もしもっと現状は違うんだよ、もっと厳しい人はいっぱいいるんだよというコトをご存じの方がいらっしゃいましたら、どうぞやえに具体的に教えてください。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 

平成21年12月7日

 政治問題になってしまっている派遣村問題

 先週、市橋容疑者が数ヶ月で100万円貯めたコトについて、なぜ市橋容疑者は逃亡生活という極めて社会的に不利な条件だったのにも関わらず働く場はあったのに、逃亡生活よりはマシな生活であろう思われる派遣村とかの人たちは全然職がないと騒いでいるのか、という疑問を呈しました。
 つまり、本気で働く気があるなら、今の世の中日本であれば、それなりに働くコトは出来るのではないのかと、そういう意味だと言っても差し支えありません。
 よくホームレスの人なんかは、住所がないから働けないなんて言う人がいますが、住所が無くても働ける場所は、少なくとも日本の中に1つはあったワケで、もちろん探せば一橋容疑者がお世話になった建設会社以外にもあるのではないかと思われるワケですね。
 これをどう考えるべきなのでしょうか。
 
 これらの問題ついて、御意見板で次のように書き込みを頂きました。

 何か仕事がないってのを雇用からあぶれた求職者にとっての問題だけで見てません?
 仕事がないっつーのの根本は
 市場経済のなかで需要と供給のバランスにおいて供給が無駄に多く需要が全然足りないせいで、物を作ったりサービスを供給したりすることでまともな対価が得られないようになっているってことなんですよね。
 そもそも企業にとってのやるべき物造るべき物自体が足りん状態な訳です。
 雇用に影響が出てきているのはその波及効果なわけで、労働市場で明日の行く末を貧乏揺すりしながら案じている労働者に罵声を浴びせたって何の益もないわけですよ。
 だって彼らが需給ギャップ埋めれるワケじゃねーんだもん。
 
 そして貧困率に関する更新でも強く思いましたけど、所得水準が低い層に対する問題意識が、世間がどういう論調か以前に、やえちゃんの頭の中で救済するかしないかの二択になっていませんか?
 酷く気になります。
 貧困率が高いというなら、経済成長とそれに伴う雇用環境の改善に私はまず頭が行きます。
 セーフティーネットによる救済がどうこうと論ずるのは一足飛びに感じるのです。

 御意見ありがとーございまーす。 
 で、確かにおっしゃっているコトはもっともです。
 厳しい雇用の現状を目の当たりにした時、考えるべきコトは経済の問題であり、もっとも効果的な雇用対策はむしろ経済対策であるというのは、その通りでしょう。
 またそれに伴い、雇用環境の改善が必要であるというのも、その通りだと思います。
 
 ただ、それはそれとしてひとつ考えなければならないコトは、しかし残念ながら派遣村の問題とかこの手の問題というのは、すでに政治問題になってしまっているという事実です。
 もしこれが一部の人たちが騒いでいるだけの、ひとつの主張だけというのでしたら、やえはおそらく更新で取り上げない程度の扱いしかしなかったでしょう。
 もしくは取り上げたとしても、ここまで何度も何度も取り上げるコトはしなかったでしょう。
 ひとつの意見に対して、一回程度反論するぐらいな形になっていたと思われます。
 これが「ひとつの意見」であればです。
 しかしもはやこの問題は、「ひとつの意見」という枠を飛び出して、すでに政治問題になっているのです。
 政治問題になっている以上、「労働者に罵声を浴びせた」とかそういうレベルで語る問題ではないのです。
 現実問題として、政治と行政はどうあるべきかという視点で、この問題は見なければなりません。
 
 そうした場合、やはり果たして、少なくともあの派遣村に対して行政としては適切に動いたと言えるのかどうか、ここに大きな疑問を持たざるを得ないワケです。
 
 経済対策の方が必要であり、雇用で困っている人がたくさんいる状況は、それは経済問題だと認識すべきという意見はその通りだと思いますが、しかし実際に行政は経済対策だけでなく、直接的な救済策、すなわち生活対策にも手を出してしまっているのです。
 経済対策と生活対策は基本的に別物です。
 つまり、果たして派遣村に対してそのような行政の生活対策が必要なのかどうか、ここを考えなければなりません。
 その上でやえは、例えば市橋容疑者は、一部の派遣村にいるような人たちよりも社会的身分が厳しい状況だったのにもかかわらず、お金を貯めるコトが出来たというのはどう考えるべきかと問うたワケです。
 行政が動く必要もなく、本人の努力でどうにでも出来た部分がとても大きいのではないかと、そう言いたいのです。
 
 本人が努力すれば解決するような問題に行政が過剰に手を出すのは、それは今流行りの「無駄」な行為です。
 例を挙げるまでもなく昨年の派遣村に対する対策にはそれなりの公金がかかっていますが、それは大きな無駄な部分がとても大きかったのではないかと、こうこの問題は考えるべきなのです。
 もちろんこの意見はイコールで「経済対策をする必要はない」という意見ではありません。
 これは全然次元の違う問題です。
 さっきも言いましたように、経済対策と生活対策は別物ですからね。
 この問題というのは、ここをキチッとわけて考えなければならないのです。
 
 とてもきびしいコトを言うようですが、例えば日本でも一昔前までは、どんな年でも性別でも、歯を食いしばって肉体労働に汗を流してお金を稼いでいた人はいっぱいいました。
 美輪明宏さんの名曲「ヨイトマケの唄」にもありますように、子供を養うために母が女手一つで土方(やえはこの言葉を差別用語とは思いません)に汗を流してえんやこーらと働いたのです。
 そこに年齢も性別も3Kも能力も何もないのです。
 ちょっと前まで日本でもこのような光景はあったワケです。
 
 もちろん時代が違います。
 それは認めます。
 時代が変われば人の考え方は変わるのはそうですが、しかし人間の体が時代の変化に合わせて働けなくなったワケではないでしょう。
 これをただ単に時代が違うからという一言で済ませられるモノなのでしょうか。
 時代が違うからと言って、簡単に政府に頼って、むしろ政府を罵倒して助けろと言っていいモノなのでしょうか。
 
 繰り返しますが、経済対策と生活対策は別物です。
 それと同じように、雇用環境問題も同じように考えられない問題です。
 日本の一昔前の「ヨイトマケの唄」の時代の労働環境のままで今でもいいとは決して言いません。
 また、市橋容疑者が働いていた環境が具体的にどうだったのかはなかなか情報が少なくて断言できるモノではありませんが、一般的に考えればあまりよくない環境だったかもしれません。
 寮なんて3畳半とかいう話ですしね。
 ただ、良い悪いなんていう判断は所詮相対評価でしかなく、真面目に人より勉強して難しい試験に合格した高級官僚の待遇と、住所も電話も本名すら必要なく働ける場の待遇とは、簡単には比べられないでしょう。
 そしてその上で考えなければならないのは、市橋容疑者だけでなく、その建設会社には他にもそれなりの数の方の従業員がいるという事実です。
 市橋容疑者だけでなく、もっと多くの人が同じ環境で働いていたというのが事実としてあるワケです。
 労働環境の問題は考えなければなりません。
 しかしそれはもっと広く高い視点に立って全体を見据えながら考えなければならない問題であって、例えば一部では最低賃金を1000円にしろという無茶なコトを言っている人もいますが、そうではなくてもっと広い視点で考えなければなりません。
 そしてそれとは別の問題として、市橋容疑者が働いていた建設会社の人たちは今でもそのような環境で働いているのです。
 なにが「良い」のか、よくよく考えなければならないでしょう。
 この現実もひとつの現実なのですから。
 
 最期に言っておきますが、やえは「明日の行く末を貧乏揺すりしながら案じている労働者に罵声を浴びせ」てるとは全く思っていません。
 この前何回も更新をして語りましたように、本当に困っている人に政治の目を向けるためにも、必要でない人がかなりの数紛れているという事実をしっかりと見据えなければならないと、そう指摘しているだけです。
 「明日の行く末を貧乏揺すりしながら案じている労働者」のために、やえはそれに紛れて甘い蜜を吸おうとしている輩を批判しているのです。
 ここを間違えてほしくありません。
 
 大声を上げて叫べば政治が動いてなんとかしてくれる、なんて状況を作ってはなりません。
 特に今の民主党鳩山内閣というのは、経済対策よりも生活対策ばかりに目がいっているようにしか思えない政治状況だけに、ますますここはキチンと考えなければならない問題ではないかと思います。
 さらに言えば、ネット上では派遣村に懐疑的な意見もけっこう見受けられますが、これが現実の場合、まだまだ大マスコミはここに手を付ける勇気を持てないでいます。
 となれば、「国民の声」として、経済対策よりも生活対策の方が大切なんだと、下手すれば経済対策がおざなりになるぐらい派遣村の問題を取り上げてしまう可能性は否定できません。
 実際前回の衆議院選挙では、生活対策ばかりをマニフェストに書いている民主党が政権を取ったワケですからね。
 
 これはいつもやえは言っていますが、国家は国民の安楽装置ではなく、むしろ国民が自らの努力の上で運営していくべきモノです。
 本当に無駄削減するのであれば、国民こそが率先して無駄削減に取り組まなければならないでしょう。
 なかなか経済対策などの大きな問題は国民ひとりひとりの力では及ばない場合が多いですが、そのための政府であり、よって国民は政府にその仕事を大いにやってもらうためにも、無駄な生活対策など行わないよう、自ら努力して行動しなければならないのではないでしょうか。
 

平成21年12月8日

 それとこれとは話が別

 これはもう労働問題とかそういうのは関係のないお話になってしまいますが、定期的にこの問題は出てきますので、お話をしておきたいと思います。
 昨日の更新に関して、またまたお返事を頂きました。
 そこではこのように御意見をいただいています。

 実際今回の更新では
 ・雇用を政治問題化し非効率な直接的救済を誘発することで利益を得ようとする集団の存在を憂慮する
 という本論は伝わりました。
 しかし、先日の更新のように市橋容疑者が働けたのであるから、他の失業者もなんとかなるはずだと「だけ」言われれば、木を見て森を見ずの暴論であると、基本的に意を共にする私であっても指摘せざるを得ないのです。
 また、不穏な勢力が派遣村を政治問題化するさい利用した
 こんなに苦しい人間が居る
 と個別事例をクローズアップして大局的に何が必要なのかを見失わせる手法に対して
 こういう人間だって居る
 とまた個別事例を当てて反論しようとも、それはすでに相手の術中に嵌った、的はずれなものにしかなり得ません。
 政治問題化している、というならなおさら、本当に必要な政策は何かという視点から語るべきではないでしょうか?

 なんて言いましょうか、前回も言いましたけど、おっしゃっているコトには特に異論はありません。
 その通りだと思います。
 ただ、やえが今まで言ってきたコトと、このご意見というのは、基本的に視点が違うんですよね。
 経済対策と生活対策は別物と言いましたが、だからこそこれはあまり同時に一緒くたにして語るべき問題ではないのではないと思っています。
 特にやえの文章は、わりと話題があっちにいったりこっちにいったりしがちだと自分でも思っているぐらいですので、わりと気をつけている点でもあります。
 つまり、話題があっちにいったりこっちにいったりすると、結局何を伝えるべきなのか主題が分かりづらくなりますので、文章においては主題がより鮮明になるよう、それを中心に話をします。
 経済対策が大切というご意見はごもっともですが、しかしそれと、この一連のやえの更新の主題は、実は全然別物なのです。
 
 もし日本全体の構造的な問題、もしくは景気などの問題をどうにかするべきだというお話、さらに雇用環境問題もそうでしょう、そういう大きな政治的な問題を主題としているのでしたら、やえは当然そこをお話していたコトでしょう。
 その場合そういう話の中で市橋容疑者の例のようないちいち現場のお話をするのは、むしろ主題から離れるお話ですから、邪魔なだけだと思います。
 しかしやえはこの一連の更新に関して、そこは主題ではありませんでした。
 では何をやえは伝えたかったのか。
 この一連の問題は、経済対策でも雇用問題でもなく、これは日本人が今労働というモノに対してどう考えるべきかという問題なのです。
 どちらかと言えば、これはとても身近な、国民ひとりひとりの心の有り様、考え方の問題なのです。
 
 別の方が、「派遣村を放っておいたら暴動が起きていた、これを防ぐにはマスコミ規制しかない」という主旨のコトを御意見板でおっしゃっていますが、確かにマスコミを規制すればこの問題は起きなかったでしょう。
 しかしやえは、なんでもかんでもマスコミが悪い、マスコミだけをどうにかすればいいなんていう論は、これはちょっと極論というか、現実論ではないと思っています。
 というのも、マスコミはマスコミでやはりある程度の世論というモノには影響を受けるモノであり、やはり一番大切なのは国民の考え方だろうと思うからです。
 民主主義国家ですしね。
 
 その上で考えれば、ではどうすれば派遣村の問題は起きなかったのかと言えば、それは「国民が派遣村を甘やかさなければ良かったのではないか」とやえは考えるワケです。
 前回も言いましたように、ネット上ではともかく、現実世界においては未だに「派遣村の人たちは可哀想な人たちだ」という論調が主です。
 しかし実はそうではない、もっと努力すべき点がある、例えば市橋容疑者のような例もあるし、まだまだ努力すべき余地はたくさんあるんじゃないか、国民はそういう目で派遣村問題を考えるコトも必要ではないのかと、そうやえは言っているのです。
 もし多くの国民が派遣村という集団のニュースを目の当たりにした時、「おいおい、何を甘ったれたコト言っているんだ」「努力すべきところはまだあるんじゃないのか」「こういう例もあるようにもっとやるコトはいっぱいあるんじゃないか」という論調が主であれば、この問題はここまでの大きな問題にならなかったとやえは思います。
 派遣村(とそのバック)は明らかにマスコミの報道と世論の後押しに増長していましたしね。
 これはデモにも全く同じコトが言えますが、結局デモというのは主張の中身や集まった数ではなく、まずはマスコミがどう伝えるか、そして国民がどう捉えるかによって、その「成否」が決まると言っても過言ではないでしょう。
 ですから、マスコミも当然批判されるべき点はたくさんありますが、それと同じようにそれを捉える国民の問題も決して小さくないハズです。
 マスコミ規制だなんて言うのは簡単ですが、しかしやえが考える根本的な問題は、国民の考え方の問題だろうと思っているのです。
 
 市橋容疑者の例や、ヨイトマケの唄の例は、この視点に立ったときとても重要な例示であると考えます。
 一行ボードの方で「3Kだから無理な話だ」というような書き込みがありましたが、そもそもこの発想こそ間違えではないのかと、やえは言いたいです。
 確かに誰しもそういう仕事はしたくないと思うのは分かりますが、しかし皆が皆自分の望む仕事が出来るワケではありません。
 その上でどうしてもお金を稼がなければならない状況に陥った場合には、「やりたくないから」という理由だけでそれを拒否するのはいかがなものなのではないでしょうか。
 しかし今の時代というか世の中の雰囲気では、それを堂々と主張するコトすら少しはばかれるような空気があったりしています。
 おそらく「自分がイヤなコトを他人に言うのはどうなのか」という考え方が根底にあるんだろうと思います。
 でもそれはやっぱり違うんですね。
 残念ながら人間はみな平等でありませんし、様々な環境があって、それらを全て一律に平坦にするコトは出来ません。
 また、労働するだけの年齢になっているのであれば、それは子供の時代の努力の差というモノがありますから、大人に対して、いまの自分の環境と他人の環境を単純に比較するコトはできないでしょう。
 そうした上で、「働きたくないから」という理由で公園を占拠するような人たちに対して、厳しいコトを言うコトも、それは社会としては必要な行為だとやえは思うのです。
 「まだ働ける場所はあるんじゃないのか」「もっと厳しい状況でも働いている人はいるんだよ」と、そう言うコト、そしてなにより他の国民がそういう事例をキチンと把握して、派遣村とかの人たちを必要以上に甘やかさないようにするコトは、社会として必要なコトだと思います。
 誰だって働きたくはないでしょう。
 働かずに自動的にお金が入ってくるなら、こんないいコトはありません。
 しかしそうでないのが現実の社会というモノです。
 これは、やえがいつも言っています、「国家は国民の安楽装置ではない」「国民こそが国家を運営する責任を負っている」という趣旨にそう、もしかしたら一番象徴的な事案なのかも知れません。
 
 「例示の失敗は時に致命的なほど議論の場を荒らします」とおっしゃっていますが、しかし一連のやえが取り上げている問題に関しては、主題的に、むしろ経済対策を語るコトの方が議論の混乱の元です。
 やもすれば、「経済対策しない政府が悪い=居直り派遣村は正しい」とすり替えられる可能性、まさしく議論が混乱してしまう可能性を否定できません。
 何度も言いますが、経済対策と生活対策は別問題です。
 やえは生活対策について、むしろ人の考え方として今の在り方どうなんだと、そう疑問を呈しています。
 また、派遣問題には全く関係の無いホームレスまで派遣村に多数紛れ込んでいた事実も、経済対策とは全く関係ないところでの指摘になります。
 これらの問題に経済対策の議論が入り込む余地はありません。
 経済対策は必要だと思っていますが、それとは全然別次元の問題として、同時に国民としての責任ある言動を指摘するコトも必要でしょう。
 
 もしやえに対して、「経済対策はどう考えているのか? 必要だと思っているのか?」という問いでしたら、主旨から大きく外れないご質問だったかと思います。
 しかし、「書かないから考えていない」と決めつけ、「個人の問題にすり替えている」と言わんばかりのように指摘されるのは、やえとしたら全く理解に苦しむご指摘と言わざるを得ません。
 やえの主論とは関係ない話で主論を批判されても、それは全く的はずれだとしか、申し訳ありませんが、言いようがありません。
 経済対策や雇用問題についての議論と、労働というモノに対する人の意識の問題や、派遣村にホームレスが紛れ込んでいる問題というのは、これはどちらの論もお互いに影響を与えない、どちらかと言えば同時並行的に議論できるモノであって、こっちの意見を言わないからダメだとか良いだとか、そういうレベルで語れる話ではないのです。
 
 これは本当に昔からよく言われるコトですが、書いていないコトが即それを考えてないとか否定するかのように捉えられては、やえは困るとしか言いようがありません。
 1つの文章で伝えられるコトはそんなに多くありませんし、何でもかんでも詰め込むと、むしろ主題が分からなくなるという弊害があります。
 そしてなにより、今回の件で言えば、経済対策と生活対策は別物ですから、もっと言えば経済対策は政治問題であり、しかしやえの主題は「人の考え方に対する問題」ですから、これらの話を一緒くたにするのはまるで混乱の元でしかないのです。
 言うなれば、「経済対策なんて言うまでもない問題」であって、なぜ言わなかったのかと言われても、言うべき場ではなかったとしか言いようがありません。
 また過去にやえは、麻生総理が出していた経済対策には、確かけっこう評価していたハズですし。
 そしてこれも過去何度も取り上げてきましたが、労働環境に関する問題というのは、もっと考えるべき点が多い問題です。
 前回も言いましたように、ヨイトマケの唄の時代のままの労働環境でいいとはやえも言いませんし、しかし良い悪いというのは相対評価でしかないのでどこに落としどころを付けるのか、例えば最低賃金1000円なんていうのはむしろ働く場である企業を圧迫する考え方でしかないなど、様々議論すべき点があると思います。
 こういう問題は、そういった点はそういった点として考えるべきだと思いますし、それはまた別の機会がふさわしいでしょう。
 
 今年の年末はまた去年のような騒ぎがあるのかどうか分かりませんが、国民はひとりひとりが主権者として責任ある言動をして欲しいと、やえは切に願います。
 

平成21年12月10日

 頑張って働いている人がいるというコト

 なんだか政治についてはもはや語るのもバカバカしい状況になってきて、嫌気が差してきそうです。
 だからといって何も言わないのも良くないので、キチンと指摘するところはしていきたいと思っていますが、それにしても脱力するコトばかりです。
 特になんですかこれ。

 鳩山首相「経済対策をもっと早く打てば良かったのに。ここまで深刻になってしまったことは残念」
 
 ――今年度の税収が37兆円を下回り、国債発行額が過去最大の53兆円に達する見通し。来年度の新規国債発行額を44兆円以内に抑える考えに変わりはないか。
 
 「これはあの、リーマンショックからきていますからね。それまで私ども野党時代を通じて、経済対策をもっと早く打てば良かったのにな、という思いがあります。それだけに、ここまで深刻になってしまったことは、残念なことではありますけども、しかし経済をある意味では、しっかりと立て直していかなければならんということで補正を組んだ前政権の考え方も分からんわけではない。
 どこまで有効であるか、ということで我々は事業仕分けのような、凍結のことも行いました。しかし、結果として税収も大きく減ったわけですから、結果として、国債をこうせざるを得なかったということは国民の皆さんも理解をして頂けるのではないかと、そう思います。

 自分がいままで何を言ってきたのか、自民党政権に対して何をやっていたのか、本当にまるっきり忘れたとでも言うのでしょうか。
 ホント、ウソで塗り固められた政権です。
 選挙前に主張していた全てがウソだったと言わざるを得ないこの政権に対して、果たしていま民主党が権力の座に座っているコトに正当性があるのか、ぜひ民主党を支持した投票したという方に聞いてみたいところです。
 
 さて、こんなコトを言っていると腹が立つばかりなので、話題を変えます。
 申し訳ないのですが、労働問題をしつこく続けたいと思います。
 この前この問題で更新した一連の分、まとめておいた方がよさそうですね。
 
 一行ボードの方でこのような書き込みをいただいたのですが

名無しサン<12/09 00:37>読んでる人は一橋と派遣村を結びつけちゃうから、なんかおかしくね?って思ってるんだよ。

 やえからしてみれば、正直、なにがどうおかしいのかよく分かりません。
 出来ればキチッと理屈立てて説明していただければ助かります。
 
 というのも、結局派遣村とかの人たちは、いったいどういう理由で働くコトが出来ないのか、そこの理由があいまいというか、分からなすぎるので、議論もキチンと出来ていないのではないのでしょうか。
 そしてそんなあいまいなまま、ただただマスコミのミスリードによって、「派遣村=可哀想な人たち」という方程式が出来上がってしまっています。
 しかし本当にあの人達は可哀想な人たちなのか、そこはキチンと冷静に議論しなければいけないでしょうし、それは「行政や政治が動くべきコトの問題なのか」という視点で、考えなければならない問題でしょう。
 
 その中で、市橋容疑者の話は、ひとつの考えるきっかけになる例示だとやえは思います。
 もちろん市橋容疑者ひとりだけの問題であるならそれはある意味極論というか、市橋容疑者個人の資質というモノもかかっくる問題ですから局地的な問題にしかならないのかもしれませんが、しかし忘れてはならないのはこの前も言いましたように、あの建設会社に働いている人は決して市橋容疑者ひとりではないというコトです。
 さらに言えば、市橋容疑者が勤めていた会社が、極端に珍しい会社だったとも、やえにはちょっと思えません。
 そう考えたとき、「働く場所がない」と言っている人のその論拠は、本当に正しいのかどうか疑問に思うというのは、むしろ当然のコトなのではないでしょうか。
 
 逆に考えてみましょう。
 市橋容疑者がその建設会社で働くコトが出来たのは、果たして市橋容疑者だからこその特殊なパターンだったのでしょうか。
 別の人だと働くコトのできないような、そんな特殊なケースだったのでしょうか。
 もしそうであるのでしたら、これは例としてはふさわしくないでしょう。
 しかしやえにはあまりそうは思えません。
 逃亡のためにという強い思いがあったからこそ耐えられたという点もひとつあるかもしれませんが、しかしそれも結局は「お金を貯めるため」という理由であって、明日の食事さえままならないとかそういう厳しい事情の人とそう思いの強さは変わらないのではないでしょうか。
 というか、それぐらい強い思いを持っているのではないかと、思っているハズだと、やえは思っています。
 そして繰り返しますが、市橋容疑者以外にも従業員がいたのですから、特別市橋容疑者が優秀もしくはその職業に合っているからという理由も、そこまで考えられないと思います。
 
 やえは逆に聞きたいです。
 なぜ市橋容疑者の例が派遣村との対比の例にならないのか。
 別に市橋容疑者だけと比べているつもりはないのですが、それは市橋容疑者と名指しした方が分かりやすいので名指ししているだけであって、これを「市橋容疑者が勤めていた建設会社の従業員」としても全く意味は同じですから、ではどうしてこういう人たちは一所懸命働いている一方、派遣村の人たちとかは働かずにただただ政府に向かって支援を呼びかけているだけで可哀想と思われてしまっているのか、ここがやえは疑問なのです。
 かたやもしかしたら非常に厳しい条件かもしれませんがそれでも汗を流して働いている人がいるのに、かたや働きもせずに他人の力をアテにしている人がいて、しかしそれなのに後者の方が多くの人に同情され、まして支援を受けるというのは、これは社会的にあまりにも不平等なコトになってしまっているのではないでしょうか。
 やえが問いたいのはここです。
 どんな厳しい環境だったとしても汗水垂らして一所懸命働いている人が確実にいる中で、では派遣村とかの人たちと、汗を流して働いている人たちの間にはいったい何が違うのか、どこが違うのか、ここを是非とも教えてもらいたいのです。
 
 もちろん、これは過去何度も言ってますが、例えば病気ですとか怪我ですとかで、誰が聞いてもやむにやまれない事情があって働けないというのでしたら、それは支援も致し方ないと思います。
 むしろそういう人たちに光を当てて、場合によっては救済するというのは、政府の大切な仕事のひとつでしょう。
 でもそうでない人がけっこう目立つ数ぐらいは派遣村にいたようにやえは感じました。
 また日本経済・景気がとても悪く、雇用情勢もなかなか良くならないですから、その中で必死に職を探している人の苦労を鑑みて、鳩山内閣にはもっと強力な景気対策・雇用対策をしてほしいと、これは当然思っています。
 しかしだからといって、自らの努力を捨ててただただ政府や他人を批判して、それだけで金が落ちてくるような構図を作っては、社会的にも政治的にもとてもまずい状態になってしまうのではないでしょうか。
 なぜわざわざ日比谷公園なんていう公官庁街に集まってシュプレヒコールをあげているのですかと、そんなコトしているヒマがあるなら、市橋容疑者のような例が示すようにやれるコトはいっぱあるのではないですかと言いたい、そしてなにより、そう国民が考えて変に甘やかしてしまうような考え方はやめるべきではないかと言いたいのです。
 これを許しているのは、社会的にも政治的にも、大きな無駄と不平等を生み出しているとしか言いようがないのです。
 
 市橋容疑者の例は、努力する余地がまたまだあるというひとつの例示です。
 やえの主張そのものはべつに市橋容疑者が存在しなくても成立する、というかその前からずっと言っていたコトと同じですから当たり前なのですが、市橋容疑者の例示はそれを補強する材料でしかありません。
 「騒ぐ前に努力べきだし、その余地はある」
 ただこれだけのコトなのですが、ではそれがなぜ当てはまらないのか、ぜひとも教えていただきたいです。
 この問題は「政治の不平等」を産んでいる問題なのですから。
 


平成21年12月13日

 アメリカと中国は対等に比較できるモノなのか

 小沢民主党幹事長が国会議員を大量にひきつれての中国詣が大きなニュースになっています。

 小沢・民主幹事長:両刃の訪中団 同行600人、中国重視鮮明 米の不信、拍車も
 
 民主党の小沢一郎幹事長は10日、党所属国会議員143人を含む約600人とともに中国を訪問し、同日夕(日本時間同)、胡錦濤国家主席と北京の人民大会堂で約30分間、会談した。小沢氏と胡主席の会談は、民主党が野党時代の08年5月以来で、政権交代後初めて。鳩山政権の与党第1党として「中国重視」を鮮明にした形だが、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題を巡ってギクシャクする日米関係への影響を懸念する声も政府内から出ている。

 小沢幹事長の中国詣は毎年のコトではありますが、しかしここまで大人数を引き連れての訪中ははじめて、というか、ここまで一度に大勢の国会議員の渡航ははじめてですから、大変大きなニュースになっているのでしょう。
 中国の胡錦涛国家主席が、日本の議員ひとりひとりと握手したという歓待ぶりも、報道の過熱ぶりに拍車をかけているんだと思われます。
 
 しかしここで気になりますのは、やはり記事にもありますように、アメリカとの関係です。
 特に今ちょうど鳩山総理のせいでアメリカとの関係が非常にまずい状況にある中での小沢幹事長の訪中というコトで、ただでさえ目に付く大訪中団なのに、ますますアメリカをわざと刺激しているかのようです。
 これだけを見ると、いままで何もしてこなかった、経済など悪化の一途をたどっている「鳩山不況」の新内閣ですが、政権が変わってこれだけは確かに自民党政権に比べて全く新しくなった、180度転換したと言っていいほどの変わりっぷりと言えるでしょう。
 もちろんそれが良いか悪いかは別問題ですが。
 
 ところでこの小沢幹事長のニュースを見て、安易に「アメリカか中国か」みたいなコトを言う人がいます。
 今までアメリカにおもねりすぎたのだから、これぐらい中国と仲良くなってもいいんじゃないかと、そう言う人もいます。
 アメリカは言うまでもなく世界唯一の大国であり、一方中国もその人口と経済発展には目を見張るモノがある大国になりつつある国ですから、この両者とどう付き合っていくのかを日本は考えなければならないワケで、確かにこの問題は日本にとって考えなければならない大きな問題ではあります。
 その上で日本の民主党政権はどちらかと言えば中国を選んだという見方も出来るかもしれません。
 
 しかし果たして、このようにアメリカと中国を対等に両天秤にかけて比較するのは、正しい見方なのでしょうか。
 
 そもそもなぜ日本はアメリカと付き合っているのかを考えなければなりません。
 もちろん世界唯一の超大国と付き合わないという選択肢は、特に日本も世界有数の強国であるという事実の前にはなかなか選べない選択肢ですから、大なり小なりかならず友好関係にはなっておかなければならないでしょう。
 また経済についても、世界第一の規模であるアメリカと第二位の日本ですから、希薄な関係というのは想像が付きにくいと言えるかもしれません。
 この2点だけでも、アメリカとはそれなりの付き合いはしなければならないとは言えます。
 ただし、日米関係は決して経済だけの関係とは言えないでしょう。
 経済の問題だけで言えば、いま日本と中国の間にはとてつもなく大きな経済関係がありますから、その間からだけで言えば日米より日中の方が親密と言えてしまえるようになってしまいます。
 しかし日中関係はまだまだ友好的と言えるレベルではありませんよね。
 また小泉総理が冷え切った日中関係を演出しましたが、ああなってもとりあえず形に見えるぐらいの不具合は両国には出てきません。
 こう考えるだけでも、決して国と国との関係は経済の規模だけで推し量れるモノではなく、その上でやはり日米関係というモノはいかに特殊なのかが分かるでしょう。
 そして、ではなぜそうなのかをまずは考えなければならないハズです。
 
 そしてなぜ日本とアメリカの関係が他国との関係に比べて特殊なのかと言いますと、これはもう言うまでもないですね、軍事同盟があるからです。
 しかもただの軍事同盟ではありません。
 日本にはまともな軍隊が存在せず、かつ憲法九条という縛りまである特殊な軍事体系がある上で、それをアメリカが補完するという形の、世界的に見てもかなり特殊な軍事同盟です。
 簡単に言えば、日本はアメリカに守ってもらわなければ一人で自分の身を守れないという、そんないびつな軍事同盟なのです。
 
 民主党は選挙前に「対等な日米関係を」と言っていましたが、いまの日本では、なにがどう転んでもそのような関係は望めません。
 自分の国を自分で守れない程度なのに、どうやって世界第一位の軍事大国と対等につきあえると言うのでしょうか。
 これは客観的事実として誰しもが受け止めなければならないコトですが、日本はアメリカに守られているのです。
 この事実1つだけで、なにがどう対等なのか、全く説明が付きません。
 「対等な関係」と言いたいのであれば、まずは日本の憲法の改正と自衛隊の国軍化を達成しなければ、どうやったって成し遂げられないでしょう。
 いくら対等対等と言っても、それは子供が親に向かって「人間皆平等だから親子の間も平等だ」なんて幼稚なコトを言っているに等しいぐらいのバカバカしいセリフでしかありません。
 この事実だけ見ても、少なくとも憲法改正するまでは、日本はアメリカとは切ってもきれない関係なのです。
 
 対米と対中を考える上で、もう一点シッカリと考えなければならないコトがあります。
 それは中国という国の特殊性です。
 
 言うまでもありませんが、中華人民共和国という国は共産主義国です。
 民主主義国ではありませんし、自由というモノも相当制限されている、今の世の中からすればかなり珍しい部類に入る国家です。
 この事実だけとっても、アメリカと中国を対等な両天秤にかけるコトが間違っていると言えるでしょう。
 民主党やその支持者の人たちは最近よく「とにかく変わるコトが大切だ」「まず変わったのだから良い」と言いますが、中国なんて国においては政権交代など4000年待っても訪れません。
 日本の政治は戦後確かに長い期間自民党が政権の座に座っていましたが、しかしそれは公平な選挙の結果の上であって、国民の選択がそのような選択をしたからに過ぎません。
 しかし中国は違います。
 中国の憲法には次のような記述があります。
 
 「社会主義の革命と建設のために中国共産党に指導を仰ぐ」
 
 つまり、憲法によって中国共産党は国家を指導する立場にあると明記されているワケで、憲法の規定によって共産党以外の政党が政権には付けないコトになっているのです。
 言わば、中国共産党は国家よりも上位の位置づけなのです。
 いくら国民、中国の場合人民と言うべきでしょうか、この人達がいくら望んでも、憲法で規定されている以上、共産党以外の政党が中国の政権の座につくコトはないのです。
 
 例えば中国の軍隊としてよく紹介される、小沢民主党幹事長も何をトチ狂ったのか「私は人民解放軍の司令官」とか政治家として最低限の知識すら欠如しているとしか思えない、どこの国の政治家なのか分からない発言をしていますが、そもそも「人民解放軍」というモノは、これは厳密には中国共産党の党の軍でしかないのです。
 つまり私兵なんですね、人民解放軍というのは。
 その上で確かに法的な位置づけはされているようですが、しかし厳密には私兵が国を支配している国であり、政権交代などあり得ない、開かれた政治やそもそも言論の自由すら無いような国が中国という国なのです。
 
 そんな国とどうして必要以上に友好しなければならないのか、やえにはさっぱり理解できません。
 ましてアメリカと比べる方が意味不明です。
 確かにアメリカは嫌いっていう人は多いでしょう。
 やえも別に好きでもなんでもなく、どちらかと言えば嫌いな方です。
 でも、いまの日本を取り巻く環境を冷静に現実的に考えれば、アメリカが嫌いだとしても、それに変わる選択として中国が挙がるというのは、あまりにも滅茶苦茶すぎるとしか言いようがありません。
 中国というのは民主主義の国ではなく、まともな選挙は存在しないので、政権交代が無いのは当然の上に、自由な選挙も自由な言論も存在しない国です。
 もちろんそれでも地球上に存在する国ですから、まったく付き合うなとは言いませんが、それにしても日本の軍事の大部分を担ってもらっているアメリカという国と天秤にかけるほどの重要度で付き合うというのは、日本の国の性質を考えればあり得ない選択肢としか言いようがないでしょう。
 
 中国は大切だと言う人は、まず中国は憲法で規定されている一党独裁政治体制の国であり、言論の自由がない国だというコトを認識しているのか、そしてそのような国をどうしてアメリカと単純比較できるのか、そこをキチンと説明してほしいと思います。