右らしく左らしく・・・

今更だが森総理の「神の国発言」についてである。
「日本は天皇を中心とした神の国である」
「神の国」、日本では「神々の国」の方が適切だろう。
この言葉だけを聞けばオレはとても美しい風景を思い浮かべる。
山、川、森、湖・・・、冗談抜きでオレはこんな風景を思い浮かべる。
日本の美しい自然の姿だ。
オレは広島出身で港が近い所に住んでいたのだが、なぜかやはり「日本の美しい姿」というものを連想すればそのような風景になる。
こう思う人もたくさんいるだろう。
日本の別称(あえて別称と言わせて貰う)である「瑞穂の国」という言葉を聞いてもやはり同様である。
なぜこう思うかと問われても、これはもう理由など無く、ただ「日本人だから」なのである。
日本には八百万の神々がいるし、自然物一つ一つにも神が宿っているのだ。
まさしく日本は神々の国である。

さて話はゴロっと変わって
言葉というものは、文字達の集まりだけでは存在し得ない存在である。
言葉や文字というものは、発信する者が考えていることを受信者に伝えるための手段であり、文字上だけでは表れない発信者の意識や意図が存在する。
つまり意識の上に文字(言葉)が乗ることで文章が成立するのだ。
よって意識というものを取り除いて、言葉だけをまな板の上に載せて解剖実験をしても全くの無意味である。
何が言いたいのかと言えば、「日本は天皇を中心とした神の国」という文字それだけにスポットライトを当てて解釈しようということは無意味なのだ。
森喜朗総理という人があの場あの時あのような状況でしゃべった「日本は天皇中心とした神の国」という言葉を考えなければ本当の解釈など出来ない。
よって、後から釈明会見した説明もマスコミもその他諸々も全く無意味な言葉遊びをしていたに過ぎないのである。
ところで、オレは森喜朗という人に対してこういうあだ名を付けている。
「脊髄でしゃべる男」
この人はあまり物事を深く考えず思いついたことをそのまましゃべるのだ。
だからオレは「この人は考えを脳に通さず脊髄反射でしゃべっているのだろう」と思ったのである。
総理になる前から数々の失言を繰り返しているのは知っている人も多いだろう。
そういう人間が発した「神の国発言」である。
そして発言した場というのは「神道政治連盟国会議員懇談会」という場だ。
多分にリップサービスという打算が働いたことは容易に想像できよう。
また彼は深く考えずに戦前の日本制度が単純に最も良いと思っているフシがある。
実際に戦前の制度が良いものが多いため、結果的に失言問題にならない場合が多いのだが、この場合も単純に「天皇が日本を治めていた方が良い」と森総理は思っていると思われる。
「選挙に興味がなければ投票に行かず寝ててくれ」と発言する人間である。
言葉を深読みせずに単純に捉えるのが、森発言を解釈するコツであろう。
天皇が日本を治めるのが良いのか悪いのか、の是非は置いておくにしても、先も言ったように森総理の発言は結果的に良い方向に偶然流れているだけで、「寝ててくれ発言」に象徴されるように「脊髄でしゃべる男」が国会議員さらに総理大臣というのは、あまり見てて気分のいいものではない。
「神の国発言問題」は、「単純戦前絶対万歳主義」と「脊髄でしゃべる男」という森喜朗という人間を端的に象徴されたという問題だったのである。

書き出しに「文字だけ神の国発言」の後半だけのオレなりの解釈を書いた。
森総理に対して「文字だけ神の国発言」で批判しようとしても無意味だということはさっき書いた。
しかし、多くの人々が「文字だけ神の国発言」に自分の解釈を付け批判をした。
その結果、その人がどのような日本像・思想言論を持っているのかということが分かりやすく見えた、という面白い副産物が生まれた。
マスコミなどはもう今更言うこともないのだが、単に「主権天皇=侵略戦争」という構図を持ち出して無意味な批判を繰り返すだけであった。
サヨクも同様である。
最近増えてきたインターネットの右(相対的右)側思想はどうであろうか。
相対的右の場合、自らを右側の人間だと公言している人は少ない。
しかしそういう人たちの、特に前半部分の神の国発言解釈を見てみると、
「森総理は主権天皇を主張しているわけではないが、日本が神の国なのは言うまでもない。歴史的に見ても古来から日本は天皇が中心の国だった」
という解釈が多かった。
だが、この解釈には1つ大きな間違いがある。
「過去の日本は天皇中心だったが、戦後から現在は天皇中心ではない」のである。
現在の日本も天皇を中心としている、という解釈の根拠は、
平安時代までは文字通り天皇が日本を治めてきた。
武士の時代には決める力は無かったが征夷大将軍という位は天皇が与えていた。
現在も指名は内閣がするが総理大臣も天皇が任命している。
という理論である。
しかしこれも間違いなのである。
どこが間違いなのかと言えば、制度的には間違いないのだが本質を見誤っているのである。
武士の時代、この時にはまだ天皇の御威光というものが存在していた。
だからこそ無理に自分が皇帝を名乗らず征夷大将軍という位を授けてもらい、別の言い方をすれば、天皇の御威光を利用して天下を治めたのである。
出生問題で征夷大将軍になれなかった秀吉も同様で、やはり関白という天皇の御威光を利用している。
逆の言い方をすれば、百姓以下民衆は天皇の御威光を認識しているからこそスムーズに征夷大将軍や関白の新支配者の正当性を認めることが出来たのである。
関係的には、ローマ皇帝・ハプスブルク家の傀儡に成り下がったローマ教皇と民衆の関係に非常に似ていると言える。
それほど当時は天皇という存在が大きかったのである。
しかし現在はどうであろうか。
事実を冷静に捉えれば、戦後から最近まで左翼・サヨクが言論の中心を握っており、総理大臣という権威は民主主義と選挙に反映しているもので、天皇の国事行為は100%と言っていいほど儀式的・儀礼的でしかない。
そこに御威光も権威も存在していない。
これから天皇についての認識がどうなるか分からないから、同じ民主主義国家日本でも天皇の御威光がまた復活する可能性もあるが、少なくとも戦後から現在まではそのようなものは存在していない。
「天皇を中心とした」という言葉は、「儀式的に」という意味ではなく、「実質的に」ということである。
「儀式的に」では、わざわざ中心という言葉は使わないだろう。
よって、戦後から現在までの日本は天皇を中心としておらず、「天皇を中心とした国」には現在の日本は当てはまらないのである。
現在の日本は天皇が中心の国ではないのだ。
右側思想の者がこのことを冷静に分析できなかった理由は、右寄り・天皇絶対という固定概念にとらわれすぎだったためだろう。
くだらないサヨクならまだしも、これからの中心軸を戻そうとするのは良いのだが、その思想を絶対化させすぎて事実を見誤り、さらに自分の思想を事実に塗り替えるようなことでは、まさにサヨクと何ら変わらない愚行でしかないのではないだろうか。
人間というものも言葉というものも歴史というものも本質を正しく認識しなければ、未来を正しくする事も出来ないだろう。
2000/09/26

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