愚民思想1

 「日本人はすぐにマスコミに踊らされる、日本の民衆は愚かだ」などと自分だけがそれに該当しないかのようにニヒって、自国民を卑下するような発言をする輩がいるが、そのような輩こそが実はマスコミが作った空気に踊らされていると言える。
 一部を除いたマスコミは日本というものがなぜか嫌いなために、よく「日本人は」という冠詞をつけて、日本にはこんな悪しき習慣を持っている、みたいな言い方をするが、冷静に考えてみればそのほとんどが的外れなモノと言っても過言ではない。
 はっきり言って民衆はマスコミに踊らされるモノだ。こんなことは当然である。
 マスコミに踊らされない民衆など存在せず、存在するとしたらすでにそのマスコミは死んでいると言えるので、実体も言葉上の問題も、マスコミに踊らされない民衆など存在しない。
 逆に言えば、民衆を踊らさせるためのマスコミなのだから、民衆は踊らされて当然なのであり、全く愚かなことではないのだ。

 もちろんこれは日本人だけの特質ではない。
 有名な話を例に挙げれば、1938年10月30日アメリカであるラジオドラマが放送された。タイトルは『宇宙戦争』というモノで、H.G.ウェルズという人の作品である。
 確かに臨時ニュースっぽく流したのだが、しかし始めにちゃんと「これはドラマです」と断りを入れたのにも関わらず、このドラマを聞いた民衆が本当に宇宙人が襲来したと思いこんでしまい、全米がパニックになってしまった。
 後にこの騒動が映画になったということから相当なパニックだったということが想像できる。
 今でも言われていることなのだが、実際はアメリカ人の方がマスコミに流されやすい体質なのである。
 オレはバカらしいとは思っているのだが、煙草やアルコールなどのCMをアメリカでは全面禁止しているということからもそれを伺うことが出来る。
 アメリカに関してはこの手の話はいくらでも出てくる。湾岸戦争の時の油にまみれたトリだとか、クウェート「難民」と称する少女の証言だとか、すぐにマスコミに流される民衆の典型的な例と言える。
 このことから、「日本人はすぐにマスコミに踊らされる、日本の民衆は愚かだ」という発言がいかに恥ずかしく、どちらが愚かな発言かということが分かってもらえただろうか。

 「マスコミを疑え」というセリフも、ある意味愚かしいセリフだ。
 例えば、雪印乳業が販売した牛乳に対して完全に民衆は安全だと信用していたからこそあれだけの食中毒事件が起きてしまったのである。三菱の自動車も民衆は信用していたからこそ疑いもせず購入し、そして問題が起こったのである。
 この事件も民衆が愚かだから起きた事件と言えるのだろうか。
 ブランドというか、企業やそういう権威のあるモノは、信用があるからこそ権威があり、権威があるからこそ信用があるモノなのである。
 この信用と権威というものは集団社会というものを形成して生きていく人間がより住みやすくしていくために作られたシステムである。
 古代では人間は自給自足だったが、現代ではほぼ完全に分業である。
 一つの専門分野でもって金を稼ぎ、他の分野は他人に任せる。これが現代の人間の社会システムであり、それらをスムーズに運用させるために発生したモノが信用と権威である。
 つまり、権威というモノを信じなくなってしまうということは、現代の人間社会システムを根底から崩しかねない、大変危険で愚かな行為であると言える。
 ジュース一本買うにしても、「コレの中身は別物ではないだろうか。コレは腐っていないだろうか。この中には毒は入っていないだろうか」なんて疑いながら買うようなことになってしまったら、ジュースでも食品でも衣服でも、全てに対してもそう思いながら生活していくことになり、そうなるととてもではないがまともな人間生活を送ることは出来ないだろう。今の世の中、自給自足するにも限度がある。
 よって、新聞やテレビ等のマスメディアにも権威があるのは至極当然のことであり、それを民衆が無自覚に受け入れることも至極当然のことなのである。取材記者以外が世界のニュースを直接仕入れる、なんて事は不可能なのだから。
 だから「マスコミを疑え」というのも愚かしいセリフであるし、民衆がマスメディアを信じるのは当然のことなのである。決して愚かな行為ではない。

 ただし、確かに現代においてはマスコミを疑わなければならない事にもなっているのも事実だ。
 ジャーナリズムは元々は事実のみを伝えるモノなのだろうが、民衆がそう信じている事(これもそう信じるのは民衆が愚かだからではない)を逆手にとって、実はかなり記事に記者や会社の意図が入り込んでいる。
 よってこれをそのまま信じてしまうことは危険である。
 しかしだからといって、それを信じてしまっている民衆が愚かなワケではない。
 一部のニヒリ人やマスコミは、「民衆が愚かだからマスコミの虚偽に気付かないのだ」なんて言い方するが、全く逆である。責任は民衆ではなくマスコミにあるのだ。民衆は悪くない。
 全く持ってマスコミの責任転嫁の精神である。
 マスコミは影響力があるモノだし、影響力が無くなったときはマスコミの崩壊なのだ。それを全く分かっていない。

 特にオレは、日本の大衆というか「公」というものは素晴らしいと思っている。
 オレは日本人なので、他の国の「公」の事を触れるには感覚も分からないし資料も用意できないのでここでは日本だけ事を言うが、日本において大衆決定というものは必ず良い方向への決定だと思っている。
 歴史的に見てそう思う。
 オレは元々日本には所謂「民主的」な政治は向いていないと思っている。別に民衆をバカにしているわけでも愚かだと思っているわけではない。
 それは「その必要がない」と考えているのからなのである。
 もうそろそろ死にそうなセリフではあるが、「むかし、わるい王さまがいてみんしゅうを苦しめていました。しかしみんしゅうは立ち上がり、わるい王さまをたおして、みんしゅうのための国を作りました」みたいな妄想が存在しているが、ヨーロッパならいざ知らず、日本ではこの様な歴史的事実は無いのである。
 貴族闘争はあったかもしれないが、悪政によって打倒された王朝(幕府)は存在しない。徳川幕府も外圧によって倒されたと見て良し、将軍が日本のために自らの意志によってその歴史に幕を下ろしている。
 そしていつの時代も歴史の変節期は民衆の力無くしては起こり得なかった。
 もちろん欧州的な市民革命のことではないし、当然兵士である民を無理矢理、文字通り“強制連行”させて戦ったのではない。
 古代も戦国時代も明治維新も、大東亜戦争だって、日本のために、民衆一人一人が歴史と向き合った結果で行われたものである。
 もちろん政治的なことや軍事的な事は一部の上部の人間が決定したことだが、だからといって民衆が無視されていたワケでは決してない。
 つまり何が言いたいのかと言えば、日本人(日本の公を理解している者)が日本のために政治を行えば決して悪い結果にはならないのだ。
 平安時代の400年、徳川時代の200年、こんなに長い期間、大きな内乱も戦争もなかった国は世界にはそうは無いし、結果日本というクニは一度も歴史が断絶したことがない。全ての戦争が新しい時代への道であった。全ては日本というもののために。
 平安時代や江戸時代は最下層である民衆の直接的な参政権もないし決定権もなかった。しかし「公」というものを形創っているモノはやはり民衆であり、それは大きな意志であるのだ。そして奇跡の長期平和時代が訪れている。
 現代の日本を見たらどうだ。逆に参政権を持つ人間が多すぎで逆に身動きが取りにくくなっているではないか。もちろんこれは西洋的な「明文化」の文化が悪く作用しているせいもあるのだが。
2001/2/12

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