☆やえニュース☆

  国民に暴力をふるっても開き直る警察罪と罰は別物安部メルマガレビュー核保有はイコール核を100%防げるというモノではない国軍化なくして核武装無し今日のよしりん先生人権擁護法案凍結

平成18年10月17日

 国民に暴力をふるっても開き直る警察

 よっ、オレだ。
 火曜日だから出てきたゾー(古設定
 早速だが、このニュースだ。

 職務質問:追跡うけPTSD、中3女子が佐賀県を提訴
 
 人けのない夜道で私服警察官に職務質問や追跡を受け心的外傷後ストレス障害(PTSD)になったとして、佐賀県伊万里市の中学3年生の女子生徒(15)が、同県に約560万円の損害賠償を求め佐賀地裁武雄支部に提訴したことが分かった。生徒は職務質問の翌日から不登校が続き、治療中という。
 訴状によると、04年11月20日午後7時ごろ、当時、中学1年生だった生徒は、同市の公民館での習字教室から自転車で帰宅途中、自家用車に乗った近くの駐在所勤務の男性巡査部長(52)から呼び止められた。会話がかみ合わず、巡査部長に怒鳴られたことから生徒は変質者だと思い、自転車で逃げたが追いかけられたため、その後生徒はショックで1人で外出できなくなり、PTSDと診断された。
 巡査部長は付近で自転車の盗難があったため、職務質問したという。生徒側は巡査部長が警察手帳などで身分を明らかにしないなど職務質問は違法だったなどと主張。県側は答弁書で「私服での職務質問は一般的で、身分を明かして停止を求めたにもかかわらず、振り切った人物は追跡せざるを得なかった」と反論している。

 警察のカンチガイの極地がこのような事件・犯罪を引き起こしたと言えよう。
 つっこみどころ満載でどこからつっこんでいいのかわからないほどだが、大前提として、警察が何を言おうとも警察手帳を見せなかった時点ですべての行為は違法行為・犯罪行為だ
 警察には一般人にはない様々な特権が与えられているが、それは決して警官個人に与えられているものではなく、あくまで「警察という組織に所属し職務中である組織人」にだけ与えられているだけでしかない。
 特権そのものはあくまで公的なもの、警察という組織と国民とがお互いに共有し合っているものであって、決して警官個人が独占所有しているものでは無い
 つまり、いくらこのクソバカ警官が日頃警察官として職務していようとも、その個人が客観的に警察という組織に所属していると明示できるものによって証明をしなければ、すなわち身分証である警察手帳を常に携帯し提示しなければ、それは公的に証明が出来ていないのだから警察の組織下にある人間とは見なされず、それら特権を行使できないのは当然の話なのである。
 自分だけが警官だと思っているだけでは、なんら公的な責任を果たしていない。
 
 ましてこのバカ、私服で中学生に近づき、まして自家用車で移動していたのだから、なにをもって警察官であると判断せよと言うのだろうか
 「自分は警官だ」と言うだけで100%信じられる社会であるのなら犯罪など存在しないだろうし、それなら警察も無用の存在である
 特に最近などは、オレオレ詐欺などを見るまでもなく、警官や弁護士などを装いだまして犯罪に利用する輩が増えているというのに、それらのような例をこのバカ警官は考えもしなかったのだろうか。
 ではオレオレ詐欺のニセ警官はホンモノか?
 「私服での職務質問は一般的で、身分を明かして停止を求めたにもかかわらず」などと言っているようだが、身分明かしてないだろ、口で言うだけなら、身分証明書などこの世に必要ないし、自己申告だけでは公的に証明されたと見なされるハズもない。
 こんなのが許されるのであれば、免許証も提示の必要などないだろうから、今後警察は免許証の提示を求めてはならないことになるだろう。
 パスポートだって検査の必要は無かろう。
 しかしこんなのアホでも言い訳に使わないぐらいバカにもほどがあると思うが、この警官は果たしてここまでの稀代の大馬鹿だったのだろうか。
 そしてもし本当にそんな想像すらこのバカ警官が出来なかったとするのであれば、それは警官としての資質に大いに疑問がある。
 日本のために即刻警官をやめるべきだ。
 
 こちらの記事を見てほしい

 真っ暗な道で自家用車に乗った県警巡査部長(私服)から「駐在所のお巡りさん」と名乗られて、呼び止められた

 客観的な常識で考えるのであれば、どこからどう見ても変質者である
 ここまでくると、本来こういう陰謀論的な考え方は好きではないのだが、はじめはこのバカ警官は変質目的で声をかけて、予想以上に事が大きくなり事件として発覚したために、実は捜査目的だったんだと誤魔化しの嘘をついたんじゃないかと勘ぐりたくなってしまう。
 私服で自家用車で「自分はお巡りさん」と言うなんて、怪しさ大爆発だ。
 こんなシチュエーションで本当にそいつが警官だと信じる奴が今日本にはどれぐらいいるのだろうか。
 もし信じてしまう奴がいるなら、オレは「危険だからその考え方は改めなさい」と諭すことだろう
 
 警察は「正当な職務質問だった」と言っているようだが、では私服で自家用車で近づいて「駐在所のお巡りさん」と名乗ったために全てを信じたために、性犯罪や誘拐や殺人にまでなってしまった犯罪が起きたら、警察はその責任の全てをとるとでも言うのだろうか。
 警察の名を利用した犯罪は一切起きないと断言できるというのであろうか。
 結局警察の無能のために時効となってしまった3億円事件は、そういえば制服を着て白バイに乗った“ニセ警官”の仕業だったが、警察はこの責任をどう取ったというのか。
 この例一つとっても、日頃から国民は警察手帳を提示させる習慣をつけておき、当然警官はそれを履行する(警官の中には提示を求めても出そうとしない犯罪者がたくさんいる)よう徹底させておけば、防げた事件ではなかったのだろうか。
 犯罪を防ぐ目的で存在するはずの警察が、犯罪が起きただけでも責任がないとは言えない上に、犯罪のために利用されたのだから、それは文字通り万死に値する責任と言える。
 まして犯人をむざむざと取り逃がしておいて、全くその反省は生かされていない。
 
 そもそも職務質問は強制ではない
 警官には職務質問する権利は与えられているが、国民はそれを受けなければならない義務は存在しない。
 であるにも関わらず、警察手帳を提示しない、まして私服で自家用車で真っ暗な道で「駐在所のお巡りさん」と名乗る変質者丸出しの大馬鹿野郎に、被害者の女子中学生が怒鳴られる理屈などありはしない。
 このバカ警官と佐賀県警がどこまでカンチガイしているのか、これだけでも分かろうというものである。
 つまりこいつらは、国民に多少の暴力をふるってでも、他の犯罪が多少増えようとも、警官と名乗る人間には絶対服従しなければならないと思っているのだろう
 
 警察や警官はいったい何のために自分たちには様々な特権が与えられているのか、そしてなんのために警察という組織が存在するのか思い直さなければならない。
 このバカのように、目の前にある小さな仕事ひとつしか目に入らず、それをこなすだけが仕事だと、そのためにはどんなことをしてもいいとカンチガイしている奴がいっぱいいるから、いつまでたっても警察の不祥事・事件はなくならないのだ。
 最近公務員叩きが流行っているが、多くの省庁は、ほんの一部はダメな役人かもしれないが、多くはまじめに働いている。
 しかし警察だけは末端こそが腐っているとんでもない役所ではないのだろうか。
 「警官を見たら犯罪者と思え」
 今こうなる手前まで来てしまっているという事実をよくよく考えるべきだ。
 

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平成18年10月18日

 罪と罰は別物

  ちょっと前のニュースになってしまうのですが、こちらのニュースです。

 酒気帯び運転で懲戒免職、元教諭が不服申し立て…横浜
 
 飲酒運転で今年1月、懲戒免職となった横浜市立中学校の元男性教諭(50)が「重すぎる」と市人事委員会に不服申し立てをしていたことが12日、わかった。横浜市が2003年9月から、市教委は04年7月から、飲酒運転を「原則免職」としたが、同市での飲酒運転に対する処分への不服申し立ては初めて。

 この記事、けっこう色んなところで取り上げられていて、そのほとんどは「この教師何を考えているんだ」とか「これだから公務員は」とか「全く反省していない」とか、そういう論調で占められていましたのですが、しかしやえはちょっと視点がズレている気がするんですね。
 というのも、この不服申し立ては罰に対しての異議申し立てであって、飲酒運転の事実や罪に対する申し立てではないからです。
 
 罪と罰は別物です。
 ここをごっちゃにすると大変なコトになってしまうので注意して欲しいのですが、例えばものすごく分かりやすい例で言えば、100円ショップで105円の品物をひとつ万引きして、この罰が死刑判決だったとして、それに対して「罰が重すぎる」と主張するのは、果たして「反省していない」と批判されるモノなのでしょうか。
 違いますね。
 窃盗は窃盗として当然反省すべきところではありますが、しかしその問題と死刑が罰として適切かどうかという問題はまた別問題です。
 
 ですからこの問題も、飲酒運転の罰として懲戒免職が適切かどうかという部分が問題なのですから、それに対して「反省していない」という批判は全く適切では無いのです。
 そして、本当に飲酒運転に対する罰として“クビ”が適切がどうかも考える必要があるでしょう。
 確かに教師というのは人間を教育するという重要な聖職です。
 ですから、そんな職にある人間がどんな微罪でも罪を犯したのであれば即刻クビにすべきという意見も正論ではあります。
 ただ、そもそも過失でないのであれば、全て罪は故意でありワザと意識して犯しているワケで、「そんなのは人間として許されないのだから死刑にしても構わないんだ、罪を犯そうとして犯しているのだから当然の報いだ」と言ってしまっても、それはあながち間違いではないと言えてしまうワケで、もちろん反面それは極論だと言う人もいるでしょう、つまり結局、罪は罪として罰は罰として、どこかバランスを取らなければならない、罰の軽重はどこかで必ず必要であると言えるのです。
 
 例えばこういう例もあります。

 警察官・職員としての自覚が足らない…飲酒事故で懲戒処分
 
 栃木県警は9日、非番中に酒を飲んで衝突事故を起こした足利署の事務職員と、この事務職員の飲酒運転を制止しなかった同署の巡査長について、停職6カ月の停職処分を実施した。
 飲酒運転起因の事故を起こした事務職員についても「警察職員としての自覚が足らない」として、停職6カ月の懲戒処分を9日付けで実施した。2人は退職を願い出ており、これも受理されている。

 警官という本来人を取り締まるべき立場にある人間が、飲酒運転という罪を犯し、さらに事故まで起こしておいて、しかし停職処分で済んでしまっているという例もあったりしているのです。
 しかも、この二人は結局起訴猶予処分となっており法的には結局なんら罰を受けていないのです。
 停職6ヶ月と言っても、その後自らの意思で依願退職しているので、それすら受け入れていないと言えるんですね。
 
 この例を見れば、罰金刑を受けクビである懲戒免職を受けた元教諭の処分は、確かに重いと言えるでしょう。
 もちろん警察の対応があまりにも軽すぎると見るコトも出来るワケです。
 その辺は相対評価なのでどっちがどうとは言えないワケですが、どちらにしてもこのような差があるのは法の原則からしても適切ではありません。
 ですから実際はこのような様々な事柄を総合的に考えて罪と罰を判断しなければならならいワケで、しかしあまりに、異議を申し立てたという事実だけをとって「反省していない」と言っている人が多く、そういう考えはあまりに早計すぎると思いますので、一言言っておきたいと思ったのです。
 
 もちろん、この元教諭個人を見れば、ちょっとどうなのかなとは思う部分もあります。
 もし飲酒運転で懲戒免職が重いと思うのであれば、「04年7月から、飲酒運転を「原則免職」とした」時からしっかりと声を挙げておくべきだったでしょう。
 また、市教委の「校内で飲酒運転防止の研修を2度開催した直後だったことを重くみた」という主張も確かにもっともだと思います。
 この元教員はかなり自覚に欠けていたというのはその通りでしょう。
 
 ただし、「市教委は05年10月、飲酒運転で摘発されながら報告しなかった中学校教諭について、「良好な勤務態度」を理由に停職にとどめていた」という例もあるようで、あまりこういうバラツキのある処分というのはよくないと思います。
 警察と教員との大きな差を見ても一目瞭然のように、このようなバラツキがあるのは大変に問題です。
 飲酒運転の問題はここ数年で一気に罰を重くする方向に社会が動いているので各関係機関もなかなか対応に遅れがあるみたいですが、まずはしっかりと教育委員会でこの問題に対する対応と罰則をしっかりと議論し明確化させて周知徹底させるコトが大切でしょう。
 

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平成18年10月19日

 安部メルマガレビュー

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      安倍内閣メールマガジン(第2号 2006/10/19)     
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 [こんにちは、安倍晋三です]
 
 ● 拉致被害者全員の生還に向けて
 こんにちは、安倍晋三です。
 10月15日(現地時間14日)、国連安保理は、わが国が議長をつとめる中、北朝鮮による核実験実施の宣言に対し、これを非難する厳しい決議を全会一致で採択しました。
 核の保有を決して許さないという国際社会の強いメッセージをスピーディに出すことができました。
 
 やえです。
 このニュースを見るたびに、ちょうどいまの時期に日本が理事国でよかったと思わずにはいられません。
 そしてのこの事案一つとってみても常任理事国になるコトの大きさを実感するワケで、いまだに常任理事国入りに反対する人がいたりしますが、どういう理屈で反対しているのか理解に苦しみます。
 いくら核実験が起ころうとも、それだけで安保理が日本にとってよい結論が出るほど国連という場は甘いモノではないのですが、それがわからない人も残念ながらいっぱいいるんですよね。
 「世界にはいろいろな考え方を持っている人がいる」なんてよく言われますが、まさに中国や韓国や北朝鮮など、日本人には想像もできないような発想をする、しかも悪い方向にしか考えられない人もいるんだというコトを知っておく必要があるでしょう。
 
 国連安保理の決議には、日本の強い主張により、その前文に、「北朝鮮が国際社会の人道上の懸念に対応することが重要」という表現で、拉致問題についても盛り込むことができました。国際社会が、拉致を重大な問題として位置づけたことは、大変に意義深いものです。
 拉致は、未曾有の国家的犯罪行為であり、わが国の主権と国民の生命に対する重大な侵害です。これを断固として許すわけにはいきません。
 
 これも理事国だったからこそと言えるでしょう。
 理事国でなければモノをいう場すらそもそも無いのですから、こういうコトはできないワケです。
 もしくはアメリカなどを通じてというコトになるのでしょうが、しかしそれ後々のコトを考えればいわゆる「アメリカ追随」の姿勢にならざるを得なくなるワケで、そう簡単な問題ではないのです。
 
 私が、拉致問題に出会ったのは約20年前、私が秘書をしていた父の事務所に有本恵子さんのご両親が訪ねてこられたときです。そのとき私は、国家がよその国の国民を連れさるなんてあり得ることだろうかと半信半疑でした。しかし、調べていくうちに北朝鮮の犯罪だと信じざるを得なくなり、日本がこの問題を放置してきたことに愕然としました。
 なんとかしてこの問題を解決したい、と政治家になってからもこの問題が頭から離れたことはありません。
 
 20年も前の話はやえは分かりませんが、しかしたったつい数年前の話でも、拉致問題を取り上げると「右翼だ」と言われるような時代がありました。
 国民こそが拉致問題にそっぽを向いていたのです。
 そんな時代の中、この問題を政治レベルで取り上げるというのは、相当な覚悟と勇気と、そして努力が必要だったコトでしょう。
 
 昨年、横田めぐみさんの写真展が開かれ、私も足を運びました。写真の中のめぐみさんは、ご家族と一緒で、とても幸せそうでした。この明るい笑顔の少女の人生は、13才で奪われてしまったのだと胸がしめつけられる思いでした。
 長い年月がたち、ご家族もご高齢になられています。もう一刻の猶予も許されません。
 今週月曜日(16日)、私を本部長とし、すべての大臣をメンバーとする対策本部の初会合を開き、今後の対応方針を話し合いました。国民の命、生活、財産を守ることが内閣の責任です。私はその責任を果たしたい。拉致被害者のみなさんは、北朝鮮で生きています。みんなで知恵を出しあって、すべての拉致被害者を取り戻すべく全力をつくします。
 
 相手が相手なので、というか、拉致という犯罪を直接犯した犯罪者相手との交渉なのでなかなか難しい面が多いですが、怒りを忘れず、そして冷静に、この問題は正面から立ち向かっていきたいモノです。
 
 昨日(18日)、「教育再生会議」の第1回会合を開催しました。教育の再生は、私の内閣の最も重要な仕事の一つです。ノーベル化学賞受賞者の野依座長をはじめ、教育について高い見識を持っておられる17名の方々に参加いただきました。
 いじめによる子どもの自殺など悲しいニュースは後をたちません。子どものモラルや学力の低下、子どもを育てる家庭や地域の教育力の低下なども指摘されています。
 
 目立つようで目立たない、誰もが重要と考えているわりには重要視されない教育の問題ですが、安部内閣では本気でテコ入れするようですね。
 小泉内閣からいろいろと注目されるようになったこの手の諮問会議、うまくいく時はものすごくうまくいきますから、うまくハマればいいですね。
 正直やえからしたら首をかしげるような委員さんもいないとは言えないのですが、まぁこれも結果をまず待ちましょう。
 
 教育は子どもの未来のためのものです。子どもたちが未来を見つめて、誰もが高い水準の学力や規範を身につける機会を提供していくこと。これは、私たちの責任だと思っています。(晋)
 
 教育の問題はすべての人に関わってくる問題である以上、すべての人間の意識を変えていかなければならないという、とても範囲が広すぎて難しい問題です。
 例えば文部科学省を変えただけでは問題はなんら解決しないワケで、教育に関わる人たちを簡単にグループで挙げてみても、各都道府県の教育委員会、市町村の教育委員会、またそれぞれの校長教頭レベルの幹部の人たち、教員、組合、PTA、それらに関わらない普通の親・保護者、地域の人たちと、ほとんどすべての国民が当てはまるんじゃないかと思うぐらい、多くの人が教育というモノに関わっているのです。
 人によって、学校教育こそが大切とか、役人が変わらなければとか、家庭教育がもっとも基本だとか、いろいろ言いますが、今は欠けていると言えるのではないでしょうか。
 自殺の問題で明るみになったように校長や教育委員会のあたりの意識はかなりズレがあるようですし、学校現場でもトンデモナイ教師がいっぱいいるようですし、礼儀すら教えない親も最近はイヤになるほどいます。
 これら全てをなんとかしないとなかなかよい方向に教育は向かわないワケで、これだけもとても大変なコトが分かるでしょう。
 安倍さんの手腕に期待します。
 
 
 
 [東奔西走]
 今週は、本メルマガの大臣からのメッセージ「ホワイエの誓い」の由来について、お話ししたいと思います。
 
 ついにナゾの言葉「オワイエ」の意味が解明されますっっ。
 正直やえは、ボンバイエを思い浮かべてしまって困っているんですが(笑)
 
 「ホワイエ」とは、フランス語でロビーを意味します。官邸では2階の南側、中庭と南庭を臨む開放的な空間をホワイエと呼び、絵画や彫刻が飾られ、ベンチがところどころに置かれています。
 ホワイエは閣僚にとって特別な場所です。組閣当日に撮影する閣僚の集合写真をご覧になったことがあると思います。そのとき閣僚が勢揃いする空間がホワイエです。
 閣僚として集合写真におさまる、そのとき閣僚は自分に与えられた責任の重さを感じ、この国をよりよい国にするために心中に期するものがあるはずです。そのときの初心、誓いを直接皆さんにお伝えしたいと思い、大臣からのメッセージを「ホワイエの誓い」と名付けました。
 
 な、なんだってーΩ ΩΩ
 思ったより、たいした由来はありませんでした(笑)
 これですね。
 
 
 
 皆さんからは、「ホワイエ」を文字って「「ホ」本気で、「ワ」私たちが、「イ」一生懸命考えて、「エ」選んだ議員の方々」という楽しいアイディアも寄せられ、編集会議でも大いに盛り上がりました。今後とも皆さんとの意見交換を通じて、より良いメルマガを作っていきたいと思います。(せこう)
 
 よく分からないオチなんですが・・・(笑)
 まぁここで、本当に本気で一生懸命考えたのかとツッコミを入れるのも野暮でしょうか。
 しかしその編集会議、ちょっと覗いてみたい気もしますね(笑)
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、美しい国日本を応援しています。
 

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平成18年10月21日

 核保有はイコール核を100%防げるというモノではない

 韓国は相変わらずかっ飛ばしてマスね・・・。
 こんな記事も・・・。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 今日は核についてです。
 
 最近保守系の方では核武装論が盛んで、中川政調会長や麻生外務大臣が核についての議論をすべきという発言や、安部総理の非核三原則の原則は堅持するという発言などに対していろいろと言われているところですが、まず一度冷静によくよく考えてもらいたいコトがあります。
 核武装論の主な論拠は、「北朝鮮という危険な国が核兵器を持ったのだから、いつ日本に核が飛んでくるか分からない。それを防ぐためには日本も核を持たなければならない」と、こういう感じです。
 また、この前やえが核について更新をした際にコメント欄で「あの将軍様がアメリカだけとの対話を望んでいる以上、北朝鮮としては自身の本気を示すために日本に核を落とす、というシナリオが考えられる」というご意見もいただきました
 確かに北が核を持った以上は、北が核を打つかもしれないという可能性を常に考えて想定して手を打っていかなければなりません。
 しかし、よくよく考えてもらいたいのは、仮に日本が核を持ったところで、それだけでは相手の核を絶対に封じ込められるというワケでは決してないというコトです。
 
 結局自分も核を持つというコトの意味は、相手に対して驚異と恐怖を植え付けるコトによって相手が持っている核を使うコトを思いとどまらせるというコトであり、所詮は抑止力という間接的な意味合いしか持ちません
 極端な話、もうどうでもいいや差し違えてでも撃ってやれと自暴自棄になられると、いくらこっちが核武装してようが、核は撃たれてしまいます。
 そして、ミサイル防衛システム(BMD)が完成してなければ、一発は着弾してしまうコトでしょう。
 これはアメリカだって同じ話です。
 いくら核兵器を世界一保有していたとしても、相手が後先考えないという考えに至ってしまった場合には、例えばグアムやハワイあたりなら、一発は核兵器が着弾してしまうコトでしょう。
 このように、核を持つだけでは、最終的には相手の決断にかかってくるワケで、それだけでは核を絶対的に防ぐ手段とはなり得ないのです。
 
 これらをまず前提としておいた上で、では北朝鮮の場合はどうなのかと考えたとき、ジョンイルは一番何をおそれているのかがポイントになるのではないでしょうか。
 つまりジョンイルにとっては「ジョンイル王国」「金王国」が崩壊するコトこそが一番こわいワケであって、変な話、それが守られるのであれば北朝鮮という国家体制も国民も必要がないワケです。
 もっと直接的に言うと、北の国民が放射能によって汚染されたとしても、ジョンイル王国に何ら支障を来さないのであれば問題はないのです。
 ですから逆に言えば、ジョンイルのところ核が落ちてくればそれはとんでもなくピンチになりますが、それと全く同じ価値でイコールで、核ではない通常兵器によるジョンイル体制を崩壊させる攻撃もジョンイルにとってはピンチなのです
 
 これを踏まえれば、「あの将軍様がアメリカだけとの対話を望んでいる以上、北朝鮮としては自身の本気を示すために日本に核を落とす」というシナリオはまずないと言えるのではないかと思うのです。
 アメリカが、日本に核を落とされたからといって報復的に核を落とすかどうかという点については100%の確証が得られないのは確かですが、しかし通常兵器による攻撃はほぼ100%するでしょう。
 アメリカという国家の性格からして、正式に同盟を結んでいる同盟国が攻撃されて、なにもせずに話し合いのテーブルに着くというコトは100%あり得ません。
 こうなった場合、イラクのフセインのように、少なくともジョンイル王国の崩壊と、ジョンイル自身の死亡、もしくは拘束は何があってもアメリカは成し遂げるコトでしょう。
 こうなってしまっては、北の国民にとってはいいのかもしれませんが、ジョンイルにとっては最悪のシナリオでしかないのです。
 それは核が落とされるのと同様、いや下手にジョンイルのいるところ以外に核が落とされるよりジョンイルにとってはこわいコトなのです。
 ですから仮にもし「本気度を示すために」という意味でジョンイルが核を使うのであれば、リスクが高すぎる日本ではなく、核兵器を持っている国とは同盟を結んでいない小国にでも使う方がまだ可能性はあり得るでしょうし、そもそもアメリカと同盟国でなくても十分に攻撃の対象になり得る、それは国連決議付きのという最悪のシナリオとして十分にあり得る話ですから、保身が一番の価値として置いているジョンイルとしてはあり得ない話と言っていいと思います
 
 以上のコトから、いま日本が核武装をしても、それが意味のある行為だとはやえは思えません。
 もしアメリカとも同盟を断って、日本一国だけでアメリカや中国やロシアと渡り合うんだと言うのであれば日本も核武装が必要になってくるでしょうが、しかし今の段階ではそれは夢物語でしかありません。
 仮にそれを目指すにしても、そして北に対するさらなる抑止力を高めるにしても、日本にはまだ先にやるべきコトがあるハズです。
 どうして日本は未だに通常兵器すら持っていないのに、一段飛んで核武装の議論が出てきてしまうのでしょうか
 先ほども言いましたように、ジョンイルに対しては核兵器も通常兵器も、ジョンイル王国を崩壊させるという意味においては与える恐怖の度合いは全く同じなのですから、もし日本も独自で抑止力を持つべきだと言うのであれば、まずは自衛隊を国軍にして、憲法を改正して普通の国並みに戦争ができる体制を整えるのが先なのではないでしょうか。
 日本が核武装をしてしまえば、アメリカも黙ってはいないでしょうし、韓国も核武装するでしょうし、そうなれば台湾もするでしょうし、こうなってしまえば極東アジアは世界一の核密集地域となってしまうでしょう。
 しかし日本が普通の国になるコトには、特定アジアは騒ぐでしょうけど、アメリカはむしろ望んでいるコトでしょうし、他の国は「え?いままでと何が違うの?」ぐらいの感想しか持ちませんので、特定アジアのいやがり方も含めて日本にとってはプラスに働くコトばかりではないのでしょうか。
 そして今の日本の技術力を持ってすれば、世界一の軍隊が創設できるワケで、これは北に限らずありとあらゆる方向からの驚異に対して十分な抑止力となり得るでしょう。
 
 こういうあらゆる意味から、いま日本がやるべきは国軍の創設であり憲法の改正であって、日本が核保有をするには意味が全くないとやえは思っています。
 

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平成18年10月23日

 国軍化なくして核武装無し

 今日も核についてですが、今回はごくごく簡単なお話をしようと思います。
 
 本当に簡単なお話です。
 いま核武装核武装と言っていますが、では今日本が核兵器を持ったとして、果たしてそれで抑止力になると思いますか?
 もっと簡単に言うと、日本が核兵器を持ったところで、それが使える兵器として実戦配備できますか?
 今の日本で核兵器は本当に使うコトが出来る兵器として存在しうるのでしょうか。
 
 その答えも実はとても簡単なお話なのです。
 日本にはもちろん弾道ミサイルはありませんから、核兵器そのものを作って保有したところで、北朝鮮にはどうやっても飛ばすコトは出来ません。
 地対空ミサイルパトリオットを自衛隊は持っていますが、あれは飛んでくるモノを追撃するだけのモノであって、相手の国にむけて発射する能力は一切ありません。
 よって、ミサイル類では日本は核兵器を飛ばすコトは出来ないのです。
 
 もう一つ核兵器を相手の国に落とす方法として、広島に落とされた方式、つまり飛行機から落とすという方法もありますが、この方法も日本は行うコトは出来ません。
 これも何度も何度も当サイトでは言ってますが、自衛隊の装備は確かに世界一ほどの性能を誇りますが、しかしそれはパトリオットやイージス艦のようなあくまで守るためようの装備であって、攻めるようの装備は自衛隊は一切持っていないのです。
 簡単に言えば、空爆するための戦闘機は自衛隊にはありません。
 ですから、この方法によっても日本は核兵器を相手に落とすコトは出来ません。
 
 つまり、いくら日本が核兵器を保有したところで、それを相手にぶち込む手段は持っていないのです
 これでどう抑止力になると言うのでしょうか。
 自衛隊はまだ領域を越えて日本に攻撃を仕掛けてくる敵に対してそれを殲滅する武力と、ついでに根拠法を持ち合わせていますのでそれなりに意味はありますが、核兵器に関してはそれらが全くありません。
 文字通り張り子の核兵器です
 核兵器の神髄は持っているだけで抑止力になるというところですが、しかしそれも「実際に使える核兵器」を持っているからこそ力となるのです。
 憲法だけでなく、物理的にすら使えない兵器など、存在意味はありません。
 
 これらの意味から、やえはやっぱり核武装論が意味のあるモノとは思えないのです。
 そしていつも言っていますように、核武装の前に日本は成すべきコトがあるハズだと主張しているワケです。
 核兵器を相手にぶち込む手段を持つというコトひとつとっても、まずは国軍化なくして核武装論など無意味でしかないのです
 
 これもいつも言ってますが、やえはこのような議論が起こるたびに歯がゆい気持ちで一杯になります。
 なぜ核武装の議論はしても、自衛隊を国軍にして、普通の国並みの憲法に改正しようという議論にならないのでしょうか。
 核武装論が北などに対する牽制になるという意見もあるようですが、やえは自衛隊が国軍化するほうが、憲法を改正する方がよっぽど牽制になると思います
 北のいままでの暴挙を前にして日本国民が「もはや役に立たない憲法はもう捨てて、普通の国のように戦争が出来るモノに変えて、自衛隊も国軍となろう。日本人が怒ればどうなるか目に物見せてやる」ぐらいどうして声があがらないのか、やえはとても残念でなりません。
 核武装論のカードは、国軍化のカードの後で十分なのです。
 核武装カードはそれだけの威力を持っていますし、だからこそ今の段階で使う必要など無いのです。
 
 議論だけで終わらせない議論がいまこそ必要なんだとやえは思っています。
 

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平成18年10月25日

 今日のよしりん先生

 本日発売の『SAPIO』なんですが、うーん、よしりん先生、だからもう政治の方には口を出さない方がいいと言ったのですが、ついにまた出してしまいました。
 「暫」になってからは思想を中心におもしろいお話をされていただけに残念です。

 安部政権が誕生した。安部総理を始め、わしが会ったことある政治家も何人か閣僚になったり、要職に就いているので、ものすごく期待した。
 「安部政権」「安部政権」
 「闘う政治家」「闘う政治家」(わくわく)
 村山談話・・・(侵略史観)を踏襲する?
 河野談話・・・(慰安婦強制性)を踏襲する?
 我が国はサンフランシスコ講和条約により、裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判に異議を述べる立場にはない?
 なんじゃ、こりゃーーーーーーーーーーーーーーっ!!
 闘う政治家と言ったくせに全然、闘わん!
 クソサヨク政権やないかーーーーーーーーーーーっ!!
 
 
 (中略)
 
 結局、政治家ってこんなもんなのか?
 理念を述べるのは要職に就くまで。官僚が作った誤った前例と闘うことはできないのか? 

 間違ってはいけないコトは、安倍さんは決して「歴史観」を踏襲したのではなく、あくまで「実際にある条約や法律(またはそれに準ずる力のある談話や政府見解)」を踏襲しただけの話であるというコトです。
 こういう言い方もなんですが、そこには内容をいちいち吟味して取捨選択したワケではありません。
 というか、こういうコトはただその時の、一時だけのたまたま今だけ総理になっているという理由だけで今の総理の一存で吟味して取捨選択してはならないのです。
 例えば、今国会でもいろいろと法案について審議されるワケですが、中には「修正法案」というモノも出されるワケで、これは今ある法律を変える法律案であり、つまりはその今ある法律は適切ではないとされている法律であるワケですが、もちろんこれだって今の段階では立派な法律であり、当然政府もそれは踏襲しているに決まっています。
 これと同じで、全ての法律と同じように、過去ある法律などを踏襲するのは当然の話であって、政権が変われば法律などひとつひとつの中身を吟味して取捨選択していいというコトにはならないのです。
 
 また、これも間違えてはいけない点ですが、あくまで政府は行政府だというコトです。
 決して立法府ではないのです。
 行政府は立法府の作った法に基づいて存在しているモノであって、法を作ったり修正できる存在である立法府の人間、すなわち国会議員は、だからこそ様々な問題についてある程度自由に発言ができるワケで、それらの発言や考え方が法になっていく過程なのであって、しかし行政府はその立法府を踏まえての存在でしかないのですから、ある程度発言が狭まるというのは当然のコトなのです。
 それを超えるのは越権行為です。
 よしりん先生は簡単に「要職に就くまで」と言っていますが、国会議員は立法府の人間、総理や大臣は行政府の人間という原則を忘れていらっしゃるのでしょう。
 
 先ほど「ただその時の、一時だけのたまたま今だけ総理になっているという理由だけで今の総理の一存で吟味して取捨選択してはならない」と言いましたが、ここの観点も忘れてはいけません。
 というのも、残念ながら村山談話や河野談話が出た時期というのは、まだまだ日本の左翼臭まっただ中にいた時期です。
 世論と政治の動きは多少のタイムラグがありますが、政治的な視点で見れば、自民党がついに下野し、その後やっとの思いで自民党が政権に戻ってきたけど、もはや一党だけでは政権を取れずに社会党に協力を要請しなければならないという時期であり、戦後日本政治の中ではもっとも左翼の方向に振り子が揺れていた時期で、つまり世論もそういう時期だったと言えるワケです。
 ですから、やはり村山談話も河野談話も世論の後押しがあって出てきた談話なのですから、それを変えるにもそれなりの世論は必要です。
 国会での議論も当然必要でしょう。
 その時の総理だけの個人の考え方だけで全てが変わってしまうような手法は、当時の雰囲気を無視した、言わば事後法的な処理であり、それは大東亜戦争肯定論と矛盾する考えになってしまいます。
 まして総理になったばかりというタイミングで、議論もなにも出来ていないのに、国民の一部でしかない保守論者だけが唱えている論が達成させないからと言って政治や政府のせいにして批判をするというのは、あまりにも身勝手なのではないでしょうか。
 ちょっとこの辺の主張はネットウヨクっぽいと言わざるを得ないです。
 
 よしりん先生はこの後のシーンで

 この近代法・国際法観念では「決着済み」の問題を、何度も蒸し返す野蛮な儀式を、中・韓に代わって、日本の野党やマスコミが反復し続けるのだから実に情けない。
 しかも「政府の見解」を述べるだけでは飽き足らず、朝日新聞らマスコミは「安部総理の頭の中」まで思想統制したがる。
 本当にこの国のサヨクは気色悪い。ロボトミー手術でもやりたそうな偏執性だ。閣僚になったが最後、個人の思想・信条すら自由ではないらしい。旧ソ連や中国共産党的な強制洗脳をサヨクは望んでいるのだ。
 

 とおっしゃっておられるので、問題の本質は分かっていらっしゃるとは思うんですが、それでも政治を批判しなければ気が済まなくなってしまっているのは、ある意味既存マスコミと同種の病に罹っていると言えます。
 政治を語る場合世論というモノを無視できないのは言うまでもないコトですが、結局世論というモノは右から左まである意見の中間あたりに存在するモノなのです。
 よしりん先生は、朝日新聞らの偏狭質的な勢力もあるとは理解していますが、残念ながらいくら偏狭性と言っても世論の一部を形成するモノであるコトには変わらないワケで、全ての国民のための政府である以上は、それらの意見も尊重しなければならないモノなのです。
 
 政治を、政治家を批判するのは簡単です。
 ほぼ確実に反論されない上に、強者にかみつくのですから、これほど気持ちのいいコトはないでしょう。
 しかし、政治は現実論であり、現実的に不可能であるならいくら批判を繰り返しても無意味です。
 政治を批判するなら、現実的に実行可能である批判をしなければならないハズです。
 
 断言しますが、仮によしりん先生が今の制度のまま衆議院議員にでもなって、何年後かに総理になったとしても、よしりん先生がいま主張しているほどの変化は絶対に不可能です。
 なぜかと言えば、日本は大統領制ではなく議院内閣制だからです。
 これは、「真理こそが正しい」という考え方ではなく、「みんなで話し合った結果こそがもっとも正しい」という日本独自の伝統の「和の精神」を色濃く反映した結果の上での制度なのです。
 だからこそ大統領制ではなく議院内閣制を選択したのでしょう。
 小泉さんは、その独創的な手法により、一部からは独裁者と言われましたが、しかし基本的なルールだけは守りました。
 郵政民営化など、参議院で否決されたための衆議院を解散するという基本的なルールの外枠ギリギリだったとは言えますが、完全にルールを無視したワケではなく、また世論の合意を得たという意味において、しっかりと政治のルールを守った上で信念を貫いたのです。
 政治を批判するなとは決して言いませんが、批判する場所を間違えたまま批判したところで、問題は絶対に解決しない上に、さらに問題をややこしくさせるだけです。
 ただただ政治家を批判したいだけなのか(それは自分が気持ちよくなりたいだけという意味です)、それとも問題を本質から解決したいのか、ちゃんと考えてもらいたいと思います。
 

 もう政治家に期待すまい。
 まず輿論(よろん)を起こそう。
 それしかわしに出来ることはない!

 ごめんなさい、よしりん先生、それ以外に今まで何が出来るとお思いだったのでしょうか。
 選挙という儀式を経てもいないのに、政治家気取りだったのでしょうか。
 それならあまりにも思い上がり甚だしいとしか言いようがありません。
 政治家は選挙を経ているからこそ国民の代表であり政治を司る現実的に実権を与えられた存在なのです。
 最近政治家に理想を語らせようと勘違いしている人が多いようですが、思想家こそが理想を語るべきです。
 もし政治家が理想を語るのであれば、むしろ思想家は必要ありません。
 しかし実際はそうはいきません。
 政治家は現実的に力を動かす役割があって、だから語るべきモノも現実的に考える必要があって、よって理想を語るべきは思想家が語るしかないのです。
 世の中とはそういう役割分担で成り立っているのではないのでしょうか。
 
 本当に政治を語るだけなら、それはほとんど技術論になってしまいます。
 しかしそんなコトを政治家以外が語っても意味があるとは思えません。
 ですからやはり、政治家でない人は、世論こそに向かって、世論を動かすために理想を語るべきなのではないでしょうか。
 世論を変えれば自動的に政治も変わるのですから。
 

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平成18年10月30日

 人権擁護法案凍結

 当サイトとしましては、結果だけを言えばどっちでもよかったので、これもどうでもいいと言えばどうでもいいんですが、あれだけ特集を組んだ身としまして、ちらっと情報を小耳にはさんだので一応お伝えしようと思います。
 人権擁護法案なんですけど、どうも自民党内で完全に凍結してしまっているようなのです。
 
 なぜかと言えば、自民党内の法案や案件を扱うセクションであるところの政務調査会の会長さんが、この法案がお嫌いだからなんだそうです。
 と、まどろっこしい言い方をしましたが、自民党の今の政調会長は中川(酒)さんで、言うまでもなくこの人は人権法に反対な人であり、そして政調会長の座にある人が法案に対してダメって言ったら自民党内ではどうしてもダメになってしまうという、そういうカラクリなワケなのです。
 政調会長が、部会に議題としては出さないと決めてしまうと、それを覆すコトは誰にもできないんですね。
 しかもさらに言えば自民党総裁は安倍さんであり、安倍さんも人権法については反対な人でしたから、中川政調会長としても後ろ盾があって自信を持ってこの法案に対してストップをかけているようで、これによって自民党内では完全に止まっているみたいなのです。
 ですから、安倍政権の間は出ないんではないかとも言われているようです。
 
 最初にも言いましたように、当サイトとしましてはこの法案、施行されようがされまいがたいして物事が変わるモノでもないのですのでどうでもいいと思っていますから、凍結というのであれば別にそれでもいいと思います。
 ただ、なんて言いましょうか、あの時あれだけ騒いでいた人が、いまではすっかりどこに行ってしまったのかという点については、政治ではなく世論、特にネットの声というのはやっぱり無責任だなぁとここでも思ってしまうのです。
 例えば「人権委員の選定には大臣並みの民主制がしかれている」というコトに対して反対派の中には「そもそも大臣の選定方法が間違っているんだ」というような感じのコトを言っていた人もいましたけど、それならば今こそそれを是正すべく声を上げるべきのハズです。
 しかし残念ながら今一向にそのような声は聞こえてきません。
 そういう態度というのは、結局は法案に反対したいだけの態度でしかなく、日本のためにとかそういう理由は後付けで、なんでもいいから方便が欲しかっただけにすぎなかったと言わざるを得ません。
 そういう、特定の法案だけしか見ず、前後左右のバランスを鑑みずに、ただただ盲目的に手段を選ばず声だけを挙げるという態度は、もっとも無責任な態度でしかないのです。
 
 それから、あの時は、この法案さえつぶれれば後はどうでもいいだれでもいいなんてぐらいの勢いで、その後ちょうど選挙になったので、当時の候補者にこの法案だけの態度を聞いてそのまとめをしていたようなサイトさんもちらほら見かけましたが、それなら安倍さんとか中川(酒)さんに感謝ぐらいしてもバチは当たらないと思います。
 というワケで、いちおうこういう情報を小耳に挟みましたモノで、ご紹介をしておきたいと思います。
 

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