やえくりっぷという名で当サイトははてなブックマークをこの前から始めていますが、先日の臓器移植法についての更新について、はてなブックマークでコメントを頂きました。
「政治は時に多数を救うために少数を切り捨てる覚悟を持たなければならない場合もあります。」…だから、それを補完する意味で、少数意見を前面に出して報道することも必要ではないかと思う。
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やえはまずこのコメントを読みまして、なるほどなと一言思いました。
政治に限らず、多くの人間が集まる場においては、よく少数の意見というモノが切り捨てられたり、ないがしろにされたりする場面が多々あります。
これはある意味、人間である以上仕方のないコトでしょう。
よって、そういう少数意見に対しマスコミが光を当てるコトは、それはマスコミの責務のひとつと言えるかもしれません。
マスコミが存在しなければ権力が暴走するかどうかというのは、日本においては歴史的に見て議論の余地が大いにあるとは思いますが、西洋的に考えれば、マスコミが少数の意見にスポットライトを当てるのは、そもそもマスコミの根源的な役割であり存在意義であるとも言えるでしょう。
ですから、少数意見にスポットライトを当てるという行為そのものを否定しようとは思いません。
ただ、いまの日本のマスコミは、これだけでは済まない問題が多々あります。
今回の臓器移植法改正にかかるマスコミの伝え方の問題にしても、果たしてその少数意見の報道は、少数意見として報道をしていたのかどうか、というのが一番問題として残ります。
つまり、今回のコトも、少数意見をピックアップして光を当てるのはいいのですが、むしろ「この意見の方が多数だ」「こっちの意見の方が正しい意見だ」と言わんばかりの報道の仕方をしていたのではないか、というのが一番の問題なのです。
なぜ少数意見に光を当てるのかと言うと、そのままでは見捨てられてしまいがちな、存在自体も知られないままに困っている人の存在を世に知らしめるコトによって、その人達にも救済の措置をすべきだと喚起するという理由からです。
少数とは文字通り数が少なく、時に存在自体を知られないまま埋没してしまう場合もありますから、これをこのまま放置するというのは政治としては適切ではありません。
この前の更新では、政治は時に少数を切り捨てる決断をする必要に迫られる場合もあり、政治家ならその覚悟を持たなければならないと言いましたが、しかしそれは、いつもいつも少数なら切り捨てて良いと言っているワケではなく、決断は必要としても、一方ケアできる少数意見ならケアするというのもやはり政治の役割でしょう。
2択しかない問題ならまだしも、世の中そこまで割り切れる問題の方がむしろ少ないでしょうからね。
しかしここにひとつの条件が生まれます。
それは、少数意見はあくまで少数であるというコトを念頭に置いて光を当てるべきだ、というコトです。
なぜなら、「少数意見だからむしろ尊重しよう」では、果たして多数の意見はどうなってしまうのか、それでは民主主義の意義はどこにいってしまうのか、議論と結論という意味においてこれは本末転倒になってしまうだけとしか言いようがないからです。
少数意見は少数という前提のもとに少数として尊重するのが筋です。
もし少数の意見を常に優先的に尊重していたら、それはただの独裁なのではないでしょうか。
少数が多数を支配する構造なのですからね。
ですから、少数の意見は常に少数であるというコトを念頭に置いて、その上で出来るコトをするというのが、正しい民主主義政治のあり方だと言えるのではないかと思うのです。
今回のマスコミがやろうとしてたのは、これではありませんでした。
子供が生まれながらにして脳死に違い状態であるケースというのは非常に稀で少数であるのは間違いないと思いますが、マスコミはその少数意見を持って政治を批判していたのです。
「この子はもう死んでいると決めつけるのか」 「人の死を国会の多数決で決めていいのか」 「可決した時の議員の笑顔に違和感を覚えた」
こんな調子で政治を批判し断罪していたのです。
これは少数意見の“使い方”としては甚だ不適切だと言わざるを得ません。
仮にもしこの意見が通って、新しい臓器移植法が廃止となったとしたらどうでしょうか。
それは、少数による多数の支配に他なりません。
民主主義政治としてはあってはならないコトです。
しかし、当事者の方がこのように感じるのは仕方ないコトですし、ある意味当然だとは思いますが、だけどテレビがそれをことさらに大きく取り上げて、世論の流れを変えようとするのは、多数意見をないがしろにする行為に他ならず、間違いであるとしか言いようがありません。
国内で移植できずに涙をのんだ人がたくさんいて、また脳死の人に強制的に移植を迫る法律でもない以上、いままでどのような経緯と世論があって今回の改正に至ったのか、それはキチンと伝えて報道するのが公正公平で正しいマスコミのあり方なのではないのでしょうか。
多数の意見で決めた決まり事の中で、少数の意見ももっとケアできる部分があるのであれば、それを見捨てず救済の道を追求するのは、政府という仕事の大きな役割のひとつだと思いますが、それはあくまで少数意見だからこそ少数としてケアするというのが正しい姿です。
決して、少数意見に光を当てると言いつつ、それだけを前面に出して、さもこちらの方が多数だと、さもこちらの方が正しい意見だと言わんばかりの報道をするのは、むしろ世論をないがしろにし、社会を歪め、民主主義に反する行為でしかないと思います。
もし今回の件でテレビやタレントやコメンテーターが、自らの責任の下で「自分はこういう意見だ。その上でこういう少数の人たちの意見もあるから、ここはこういう風に是正や新たな措置を行うのが適切ではないか」と主張していたのでしたら、それは真に国益に適う意見であり議論だと思います。
しかし、こんな人は存在しませんでした。
あるのは、自分の意見は主張せず、「むずかしい問題ですね」とお茶を濁して、しかし少数の人をことさら大きく取り上げて、その人達の意見(時には個人的にしかならない感情の爆発)を画面に映して、それだけをもって印象操作しようとしていただけでした。
もしくは、こういう少数の人たちを「盾」にとって、政治を批判するかです。
自分の意見があって政治を批判するならまだしも、自分は安全なところに身を隠して他人を使って他者を批判するなど、そんなの卑怯者以外なんだと言うのでしょうか。
やえはそこを一番憤ったワケです。
少数意見は、まずそれが少数の意見であるというコトをキチッと認識した上で、少数だからこそ必要な措置をどうするのかというコトを考えるのが、正しい政治の姿なのではないでしょうか。
決して少数意見は政治を批判する道具ではないのです。
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