☆やえニュース☆

イスラムとテロリズムと武士道

平成16年3月24日

 イスラム教テロリズム

 
 実はこの前話題のビデオキャプチャーボード「MTVX2004」を買っていたのです。
 はじめてのキャプチャーボードだったのでどれを買えばいいのか分からなかったのですが、HDをクラッシュしてしまって各方面からひんしゅくを買いまくっている某人に聞いたところ、これを紹介していただきまして、購入したのです。
 で、思った以上にこれが良くて、なんでもないようなテレビもちょちょいと録画しまくって、とてもはしゃいでいるんです。
 この前も、ニュースで放送されていた学校を卒業された秋篠宮眞子さまがあまりにも可愛らしかったので、ついつい即座に録画してしまったぐらいで、キャプチャー生活をエンジョイしています。
 そんな折り、TECHSIDE.NETさんで、このボードの修正パッチが出たというニュースを見つけまして、さっそく当てたんですね。
 そしたらあらびっくり。
 たまにぶれていた画像の乱れが無くなってしまいました。
 やえはキャプチャーボードを買うのがはじめてだったもので、画面のぶれもこんなものかなと思っていたのですが、そうでもなかったんですね。
 これでさらにキャプチャー生活をエンジョイできるというものです。
 ありがとうございます、てっくさん
 
 ところで、こういうのってユーザー登録すればメールかなんかてアップデート情報を送ってくれるんでしょうけど、やえは登録していませんでした。
 というか、パソコン関連機器ってだいたいユーザー登録を促すような何かが入っていたりしますが、アレってどれぐらいの人が登録しているもんなんでしょうかね?
 やえはこの手の機器やソフトを買ってもあまり登録してませんけど。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 さて。
 パレスチナのハマスという団体の精神的指導者ヤシン氏がイスラエル軍の攻撃により死亡したというニュースが先日世界を駆けめぐりました。
 くわしくはこちらの記事をご覧いただければと思います。
 これについては日本国内外問わず、かなりイスラエルに批判的な意見がたくさん出ています。
 イスラム圏諸国は言うまでもありませんが、EUも「テロとの戦いで重要な根拠となる法の支配の概念を台無しにした」と批判していますし、国連も「ヤシン師らの暗殺を強く非難する。このような行いは国際法に反するだけでなく、中東和平の模索に寄与することはない」と述べています。
 さらには元々イスラエルにはかなり肩入れしているアメリカも、今回のことについてはさすがにちょっと困惑している模様で、それほどイスラエルの取った行動は衝撃的だったということが分かると思います。
 
 しかしここまで書いててアレなんですけど、正直、事件そのものについてはやえは特段興味ありません。
 所詮外国のことですし、元々は宗教対立からきている紛争ですし、その宗教も日本にはほとんど馴染みのないものですから、むしろそういうことを知らないままチャチャ入れるのは適切ではないと思っていますので、この紛争を中身まで意見しようとは思いません。
 
 ただ、いくつか気になる点があるのです。
 
 そもそもこのハマスとかいう団体はテロリズム組織なのです。
 いくら現地の人たちに慕われていようとも、色々と善政をしていようとも、テロリストには違いありません
 つまりハマスは犯罪団体であり、ヤシンという人物は犯罪者に他ならないのです。
 
 正直やえは、そんな犯罪者を慕い、その死に怒りをあらわにするあの辺の人々に対しては、何の同情も感じないだけでなく、むしろ呆れというか、いったい何を考えているのかなぁと思わずにいられません。
 犯罪者の死に対して何を怒っているのか分かりません。
 その行為は、その犯罪者の犯罪行為を肯定していることに他ならないのではないでしょうか。
 
 誤解を恐れず敢えて申し上げますと、ヤシンなんて人は麻原彰晃の影響力が強まったぐらいの人でしか無いハズです。
 オウム真理教によって心が救われた人も少しはいるでしょう。
 でもオウムの手段は最悪でした。
 ハマスも同じで、その規模が大きいか小さいかの違いでしかなく、テロルという犯罪を手段としたその罪はヤシンも麻原も全く同じです。
 
 もちろんその影響力の大きさが重要だという意見もあるでしょう。
 これに対しては、全くその通りだと思います。
 「昨日22日のイスラエル軍によるハマスの精神的指導者であるヤシン師の殺害は、その行為がもたらす結果に対する考慮を欠いた無謀な行為であり、正当化できるものではない。和平の実現を損なうものであり、極めて遺憾である」と福田官房長官はおっしゃっていましたが、この言い回しはかなり的確だと思います。
 つまり、ヤシンを殺したことによる影響はかなりのもので、イスラエルの取った行動は安易であるという点に置いては、まったくもって正しいと思います。
 
 しかしだからといってパレスチナが正しいというワケでも全くありません
 どうも「強者=悪」論が横行しているような気がしてならないのですが、イスラエルの取った軽率な行動とはまた別で、ハマスというテロリズム集団は罰せられなければならない犯罪者集団という点を忘れてはならないと思います。
 
 テロルが世界的に注目されるようになってから、日本でもイスラム教というモノに対して関心が高くなりました。
 しかしその関心というのは、あたかも「イスラム教=テロリズム集団」という見方をされてしまうような結果になってしまっています。
 当然日本に在住しているイスラム教徒たちは、「過激な原理主義者は一部の異端でしかなく、大部分は穏やかな敬虔な信徒である」と弁明しています。
 だけど残念ながら、やえはその言葉を信じることが出来ません。
 
 さすがに日本に在住しているイスラム教徒の方々をテロリズム集団とは思っていません。
 しかしパレスチナの辺りの人々はどうでしょうか。
 あの辺りの人々は、テロリズム集団と自らも公言していたようなハマスという犯罪集団のリーダーが殺されたという事に対して、ものすごく強く反発しました。
 これはどういうことなのでしょうか。
 先にも言いましたようにこれはテロリズムを肯定している行為と言えてしまえるのではないでしょうか。
 
 日本でオウム真理教の大悪が発覚した時に、他の普通のヨガ教室までオウムと同一視されてしまって困っているというようなことを小耳に挟んだことがあります。
 確かに一緒にされたらかないませんよね。
 だから他のヨガ教室の方々は、麻原が捕まって「よかった」と思ったことでしょう。
 間違っても麻原が捕まって反発することはありません。
 
 もし「一部の過激派と一緒にしないで欲しい」と願うのであれば、オウムに対するヨガ教室の方々のような反応をするのは当然のことでしょう。
 まさか「自分たちは違う」と言っているのにその違う人のことを肯定するようなことはするハズがありません。
 しかしパレスチナとった行為というのは、あたかも麻原逮捕の報に対して反対するような行動であると言えるのではないでしょうか。
 こんなの自分は過激派の一部と自ら表明しているようなモノです。
 
 善良なイスラム教徒は「原理主義者は一部だけである」と言っていますが、残念ながらその一部の数があまりにも多すぎます。
 パレスチナだけでなく、他のイスラム教国の人々もヤシン殺害にはかなり強く反発してしまっています。
 この状況を見れば、「イスラム教=テロリズム」とイコールでつなげようとは思いませんが、しかし「イスラム教はテロリズムという行為を否定しないし、むしろ精神的にはテロリズムを内在している宗教」と言わざるを得ません。
 
 日本国内のイスラム教徒たちには申し訳ないのですが、やえにはこれを否定出来るような材料が見あたらないのです。
 
 
 ちょっと長くなってしまいましたので、もう一点語りたいことがあったのですが、これは明日に回すことにします。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、テロル撲滅を応援しています。
 
 

平成16年3月26日

 テロルを肯定するイスラム

 
 えーと。
 ひさしぶりにここまで賛否両論分かれた反応を頂きました。
 ありがとうございます。
 ネット思想アイドル冥利に尽きるというモノです。
 ので、今日はイスラエルとパレスチナの泥沼化の原因について書こうと思っていたのですが、ちょっと誤解されたままなのは不本意ですので、おとといの更新について述べさせていただきます。
 
 まず、ハマスはテロリズム集団です。
 これは動かしようのない事実です。
 確かにテロル専門集団(?)であるアルカイダとは性格は違うでしょう。
 それは正しいと思います。
 しかし、だからこそオウム真理教を例に取ったのです。
 オウム真理教は元々テロルをするために組織された団体ではありません。
 多分、国政選挙に惨敗してから、その目的のためにテロルという手段を用いはじめたのです。
 末端信者はサリン事件を計画していたなど知らなかった人も多いでしょう。
 しかしアルカイダは末端組織員もテロルのための戦闘員です。
 だから確かにハマスとアルカイダは違いますし、アルカイダとオウムも性格は違うモノです。
 
 しかし、ハマスもオウムもテロリズムという手段を用いた時点で、もう言い訳が出来ない犯罪を犯したのです。
 ハマスはアルカイダとは違いますが、犯罪集団であることには変わりがありません
 その思想が正しかろうと素晴らしかろうと崇高であろうと、テロルという集団を用いた時点でその団体は批判され断罪されなければならないのです
 
 次に、いろいろと触れるべき視点があるのですが、イスラエルとパレスチナの歴史的な対立の背景はそれなりに知っています。
 しかしそれには触れませんし、今回のお話の中では全く考慮していません。
 それは前回の更新で「所詮外国のことですし、元々は宗教対立からきている紛争ですし、その宗教も日本にはほとんど馴染みのないものですから、むしろそういうことを知らないままチャチャ入れるのは適切ではないと思っていますので、この紛争を中身まで意見しようとは思いません」と断らせていただいていますように、むしろやえが触れるべき事ではないと思っているからです。
 どうやったって外国人が外国の文化を100%理解することなど出来ないのですから、当事者でないのでしたら安易に口出しすべきではないと思っています。
 だから今回のお話でも、そのような要因は一切考えずに、テロリズムという犯罪についてその周りの反応を考えてみた、ということなのです。
 
 もう一点、言っておかなければならないことがあります。
 これはこの問題だけでなくやえの思想の全ての基本で、ことあるごとによく言っているのですが、やえの思想の視点は日本です
 全ての問題を日本人として見ます
 だから、仮にイスラム社会で正しいとされている行為でも、日本としては非常識な行為なら、やえはそれを「非常識だ」と言います
 やえは日本が最も正しいモノだと信じています。
 やえは日本人ですから日本人としての視点しか見ることが出来ませんし、日本人ですから日本人としての視点が最も正しいと思っているのです。
 
 これらを踏まえて。
 では、もう一回この前の更新を読んでもらいたいのですが、やえは「イスラム教=テロリズム集団」とは言ってはいません。
 

 この状況を見れば、「イスラム教=テロリズム」とイコールでつなげようとは思いませんが、しかし「イスラム教はテロリズムという行為を否定しないし、むしろ精神的にはテロリズムを内在している宗教」と言わざるを得ません。

 
 と書きましたように、イコールではつなげません。
 ではなぜ「精神的にテロルを内在している」と書いたのかと言えば、それは
 

 正直やえは、そんな犯罪者を慕い、その死に怒りをあらわにするあの辺の人々に対しては、何の同情も感じないだけでなく、むしろ呆れというか、いったい何を考えているのかなぁと思わずにいられません。
 犯罪者の死に対して何を怒っているのか分かりません。
 その行為は、その犯罪者の犯罪行為を肯定していることに他ならないのではないでしょうか。

 
 つまり、パレスチナの人々はハマスのテロルという犯罪行為を否定しないだけでなく、肯定するかのようにな振る舞いをしたからです。
 やえは「さすがに日本に在住しているイスラム教徒の方々をテロリズム集団とは思っていません」と書きました。
 それは、少なくとも日本に在住しておられるイスラム教徒の方々からはヤシンを肯定するような声は聞かれなかったからです。
 そして日本在住のイスラム教徒の方々は、「原理主義者のようなテロルをする輩は一部であり、我々とは違う」と主張されているからです。
 もしパレスチナの人々もそう主張するのであればやえも「イスラム教はテロルの精神を内在している」とは言いません。
 あれはイスラム教徒の中でも異端な人たちがやっている行為で、むしろ善良で敬虔な信者達は被害者なんだな、と思っていたでしょう。
 しかしそうではなく、パレスチナの人々はハマスの行為を否定しないだけでなく、むしろ肯定しているような行為をとっているので、イスラム教は「精神的にはテロリズムを内在している宗教」と言わざるを得なくなったのです。
 
 ココまで書いてから、あるサイトさんで先日のやえの更新に対して反応していただいているのをみつけましたのでご紹介致します。
 こちらですが、かなりやえの言いたいことを的確に言い表してくださっています。
 

 問題なのは「パレスチナ民衆に“日本人と同じ視点”があるのか」ということ。別の言い方をすれば「パレスチナ民衆は、戦争とテロを別々のものと“区別”しているのか」・「テロは犯罪であり、犯罪は罰せられるもの、と認識しているのか」ということ。実地調査をしたわけではないので僕個人の勝手なイメージだが、これは恐らく「否」だろう。彼らは多分、戦争とテロを「規模の違い」以上のものとして捉えていない。犯罪性よりも目的性を認識している。ヤシン氏殺害に対するパレスチナ人の怒り、つまりはヤシン氏に対する支持の多さはそれを証明しているように思う。イスラエルへの反発、というところもあると思うけれど。

 
 そして、どうしてパレスチナ民衆がテロルは犯罪と認識できていないのかと言えば社会概念の強度のせいと語っておられ、パレスチナやあの辺りの社会を民主主義的な国家にすることがテロルを減らす最も近道ではないかと語っておられます。
 おおかたやえはこの意見にも賛成です。
 そして、この方(プロフィールがなかったモノで名前が分からないのですが)は何を基準に「社会概念の強度」としているのか分からないのですが、やえはここに宗教、つまりイスラム教を見いだしたのです。
 
 そもそも宗教とは社会通念や常識、思想や哲学の規範を顕したモノです。
 日本教と言うべき日本の宗教は空気のようなモノなのでなかなか日本人には意識されることが少ないのですが、宗教とはほぼ文化とイコールで結ばれるモノで、特に厳しい戒律を定めているイスラム教というものは人間の生きるべき姿、つまり生きるための考え方を定めている文化の根底そのものであると言えるモノです。
 つまり、日本人でありイスラム教徒の人っていうのは、まず空気のような日本教の下地があって、その上にいわゆる「信教の自由」っていうふうに定められている宗教を選択しているだけですから、つまりテロルとは許されない手段であるという日本人としての常識がイスラム教より深い部分での下地としてあるので、日本人でありイスラム教徒の人は「あれは一部の原理主義者によるモノ」と断罪できているのです。
 さっきのサイトさんの言い方を引用するならば
 

 彼ら日本のイスラム教徒は少なからず「日本の視点」という洗礼を受けており、また「日本の視点」のなかで実生活を送っているのだから、ある意味では「ヌルくなった」彼らにとって、テロリストがすべからく原理主義者に見えるのは当たり前と言えば当たり前だろう。

 
 となります。
 つまり、日本という下地がないイスラム教徒達、それはアラブに住む多くのイスラム教徒ということになるのでしょうが、そんな人たちはの考え方の下地はイスラム教であり、そしてテロルを肯定してしまっているワケですから、結果的に「イスラム教はテロリズムの精神を内在している」と言わざるを得なくなってしまっていると言えるのです。
 
 だいぶ論が大きくなってきましたので、ちょっと原点に返りましょうか。
 
 単純にやえには、ヤシンが殺されたことに対して怒っている人たちの姿を見ると、疑問しか浮かんでこないのです。
 そしてハマスとかいうテロリズム集団に依存しているその精神が信じられないのです。
 やえは、未だにオウム真理教にすがっている人たちが信じられません。
 中には今でもサリン事件を信じていない現実逃避者もいるんでしょうけど、今ではそうでない人もかなりいるようです。
 それでもテロリズム集団オウム真理教にすがっている、つまりオウムのテロリズムという行為を肯定している人たちのその精神が信じられないのです。
 そしてそれと全く同じ気持ちでやえはパレスチナの人々やイスラム教国の人たちが信じられないのです。
 
 これも以前書いたことがあるのですが、やえはどうして今の日本人がこんなにあちらの人たちに同情的なのか、ちょっと理解できません。
 最近ではやっと減りましたが、ちょっと前までイラクと昔の日本とをリンクさせるような暴論があちこちで見られました。
 これにはやえは何度も何度も否定的な文章を書いてきたのですが、どうしてそんなにあちらの人たちに肩入れするのでしょうか。
 やえは向こうの歴史的な事情を深い部分までは知りませんので、そこまで同情できませんし、する気もありませんし、知ろうとも思いませんし、出来るとも思っていません
 やえは日本人ですから、むこうの深い事情を理解するには限界があると思っています。
 もちろこれは白人社会に対しても同様です。
 だからやえは日本人としての視点で見た時に、テロリズムなんていう最悪の犯罪を犯しているハズなのにそれを糾弾しない現地の人たちには疑問しか持てないのです。
 また今の日本人に対しても、オウムに対しては否定しているのに、ハマスにはあまり否定的じゃないのが理解できません。
 オウムを否定するのであれば、同じようにハマスも否定すべきなのではないでしょうか。
 その違いは規模以外ではどこにあるのでしょうか。
 そしてハマスを肯定するような行為を取っているイスラム教徒の人々に対して、どうして異を唱えるような言論が聞こえてこないのか、やえはとっても不思議なのです。
 
 イスラム教がテロリズムを完全に否定するモノであるならば、むしろイスラム教が率先してテロリズムを忌避しなければならないハズです。
 「あれらは異端でしかない」とアピールすることはもちろん、ハマスやアルカイダといった団体も完全に否定し、そんな団体が自国に存在しているのであれば積極的に撲滅に動かなければならないハズです。
 しかしパレスチナはどうでしたでしょうか。
 むしろ積極的にハマスと連携をとっていました
 また個人レベルでは、パレスチナのアラファト議長よりもハマスのヤシンの方が影響力が強かったと聞きます。
 まさに国家レベルでも個人レベルでもテロリズムを肯定してしまっています
 こんなことをやっている限り日本人のやえは「あの辺の人たちはそんなものか」と思い続けることでしょう。
 
 もし日本が自国のアイディンティティの危機に瀕するような事態に陥った時、日本はテロルという手段を講じるのでしょうか。
 やえは絶対にそうは思いません。
 日本は堂々と正面から戦いました
 アメリカは広島や長崎や東京で非戦闘員を殺害の目標にするというテロル以外何者でもない卑怯な行為をしましたが、日本は堂々と国に対して戦争を仕掛けました。
 そして残念ながら戦争に負けた後も、天皇の声の元、しっかりと現実を受け止めて、新しい日本の道を模索しました。
 それだけにやえはテロルという短絡的で卑怯な行為を肯定するあの辺の人に対しては疑問しか持てないのです。
 イスラム教がテロリズムそのものとは決して言いませんが、テロリズム組織に依存したり、テロリズムを否定しない、むしろ肯定しているイスラム教徒の人々を見ると、やはりイスラム教のどこかにテロリズムの精神を内在している部分があると言わざるを得ないのです。

平成16年3月27日

 正面からの戦争を

 
 イスラエルとパレスチナの問題には多くの人から、「あそこの土地は元々パレスチナの人々が住んでいた」というご意見を頂きました。
 そのことについてはやえも知っています。
 ただ、これはやはり宗教の問題ですので、日本人のやえとしましたらあまり触れないようにしているのです。
 だってイスラム教もユダヤ教もやえにはほとんどなじみのない宗教ですし、日本でもなじみがかなり薄い宗教ですから、どうやっても紛争にまで至った深い部分までの感情的な事は理解できないからです。
 例えば、確かに1948年にイスラエルが建国する前まではパレスチナの人たちがそこに住んでいたのでしょうけど、昔のことを言い始めたら、元々あの土地は「約束の地」としてユダヤの人たちが国を興して住んでいた土地なのです。
 もちろんこのお話は相当古い話、確か紀元前の事のお話ですが、しかし宗教という世界で考えるならば数千年という歳月が長いとは簡単に言えないと思います。
 また、宗教というモノを空気のように考えている日本人からは、ユダヤ人も他の場所、例えばヨーロッパやアメリカ辺りの別の土地に住めばいいのに、という意見も聞かれるのですが、しかしこれは「約束の地」という宗教的な絶対に変えられない決まり事がありますので、そう簡単に言えるモノではないのです。
 世界に散らばったユダヤ人達が、多くの差別を受けていたという歴史もありますしね。
 そんな数千年にわたるような複雑な事情が色々あって様々な思いが交錯していますので、やはりやえには理解しづらいモノですから、この辺までを言及しようとは思わないのです。
 
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 今日は、どうしてイスラエルとパレスチナの紛争があそこまでドロドロのぐしゃぐしゃになっているのかを考えてみます。
 紛争のきっかけとか、精神的な感情的ないきさつがその要因の一つであることは分かっています。
 またそのことについては前に言いましたように、無関係のやえが言うべきではないと思いますので触れません。
 しかし、もう一つ精神的な問題ではない外的な要因があるのです。
 
 イスラエルとパレスチナという“両国”が、もう話し合いという手段なんかでは解決出来ないのは明らかなことです。
 だから普通の国同士の紛争であれば、この状態を打破するために、戦争で解決しようということに普通はなることが多いでしょう。
 そもそもこの両国には過去軍事的衝突は何度もありましたから、“普通なら”戦争が起こり、勝敗が決まり、負けた方は相当な譲歩を強いられる、という解決手段が用いられるハズです。
 
 しかし今の段階では全くそのような気配になりません。
 なぜそうならないのでしょうか。
 
 それは、パレスチナが軍隊というモノを作ろうとしないからです。
 作らないまでならまだしも、さらに普通の民間人を戦闘員として利用し、イスラエルを攻撃しているからです。
 そうです、ハマスとかその辺のテロリズム集団のことです。
 
 少し前、イスラエル軍はパレスチナのアラファト議長を半軟禁したことがあります。
 最高責任者がそういう状況に追い込まれたら、普通なら戦争は終結し、負けた方は譲歩しなければならないハズです。
 しかしパレスチナはそれを拒否しました。
 これではどうすれば戦争が終えることが出来るのか、どうしようもなくなってしまいます。
 軍隊はいないし、しかし変わりに民兵がいて、未だに攻撃を仕掛けてくる。
 こんな状態で戦闘を終わらせようとするならば、それは民兵を全滅させるぐらいしか方法が無くなってしまいます
 そしてそれは民族滅亡の道をたどることになるでしょう。
 
 軍隊を持たないということはこのように、国民を直に危険にさらすということに他ならないのです。
 パレスチナに軍隊があれば、ここまで国民を巻き込んだような形での紛争にはならなかったのではないでしょうか。
 パレスチナは国民を巻き込んでこの問題を有利にしようとしているのですから、逆に言えばイスラエルは国民を攻撃してもいいということになります。
 いえ、民衆そのものが兵士(便衣兵)として攻撃してくるのですから、それを攻撃するしか自分の身を守る手段はないのです。
 
 「全国民が死ぬまで戦う」と言うのは、一聞すると格好良く勇ましく聞こえますし、正しいようにも思えます。
 しかしこんなことをやっていたら、最後に残っているのは人類の滅亡です。
 今のイスラエルとパレスチナの関係は、この人類(民族)の滅亡をギリギリのところで避けようとしているために、ダラダラと武力紛争だけが長引いて、無駄に血が流されているのです。
 
 大東亜戦争時の日本には「一億総玉砕」という言葉がありました。
 文字通り、全国民が最後の一兵になるまで戦う、という意味です。
 しかしそれはあくまで気概の問題であって、実際にはもう限界というところまで戦った後は連合軍に日本は降伏をしました。
 そして天皇陛下が国民に向かって「素直に降伏するように、新しい日本を目指して復興しよう」と呼びかけ、戦争は終わりました。
 日本民族の誇りをかけて開戦し、誇りを守れるまで戦い抜きました。
 だからこそ今の日本があるのです。
 負けたことは誠に残念なことではありますが、しかし戦争とはこうあるべきなのです。
 
 先日も言いましたように、やえは日本人の視点から問題を見ます。
 この点に関しても、日本人のやえの視点から見たら、あまりにパレスチナの戦い方は思慮を欠いた浅はかな戦い方だと言わざるを得ません。
 今の国際世論だと、相手が便衣兵だろうが何だろうが民衆に見える人間を攻撃するだけで大批判を受けてしまうので、結果的にパレスチナは命拾いをしているのですが、もしかしたらそれを狙っているのでしたらさらに酷いとしか言いようがないのですが、だからやえからすればこんな戦い方をしているパレスチナには同情なんてもってのほか、本来なら批判され断罪されなければならない行為だと思っています。
 
 こんな記事があります。
 

 14歳が自爆テロ未遂、報酬2400円 パレスチナ
 
 ヨルダン川西岸パレスチナ自治区のナブルス近郊にあるイスラエル軍検問所で24日午後、ナブルスに住む14歳の少年が体に巻いたベルト爆弾で自爆しようとして捕まった。イスラエル治安当局の調べに、「100シェケル(約2400円)で請け負った。(殉教すれば)天国で72人の処女が待っていると言われた」などと話しているという。イスラム教の聖典コーランは、天国での具体的な快楽を記している。

 
 同じ十四歳というところでちょっと思う部分もあるのですが、こうやってパレスチナは自ら民衆を戦いに巻き込んでいます
 この件はまだ爆発するまえに取り押さえられましたからよかったようなものの、もしギリギリまでこの少年が突撃してきてしまっていたら、攻撃されるイスラエル軍としたら迎撃するしか自分の身を守るすべがありません。
 しかし相手は十四歳の少年です。
 端から見たらこの両者はどう映るでしょうか・・・。
 こんな卑怯な行為が許されていいハズがありません
 
 日本人のやえからの視点です。
 どうしてパレスチナは正規の軍隊を組織して、正々堂々と正面から戦おうとしないのでしょうか。
 そうしないパレスチナは卑怯です。
 民族の誇りを守りたいのであれば、テロルという卑怯な行為を用いず、便衣兵という卑怯な行為を用いず、正々堂々と戦うべきなのではないでしょうか。
 
 以上のことだけが、今の泥沼化の原因の全てとは決して言いません。
 だけど、泥沼化している理由にはこういう一端もあるということは正しく認識しておく必要があるのではないでしょうか。
 世界の世論が感情的にならず冷静に見ておけば、もしかしたらここまで泥沼化しなかった可能性も少なからずあったかもしれません。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、正々堂々とした戦争は応援しています。

平成16年3月28日

 これだけを語っています

 
 やえとしましたら曙さんにがんばってもらいたいのです。
 でも立ち技しかないK−1では、せっかくのあの体重は生かされないんじゃないかと思います。
 寝技や投げ技がある格闘技でしたら、上から乗っかかって押し倒すような格好になるだけで相手に大ダメージを与えられると思うのですが、どうでしょうか?
 曙さんは力士の最高峰の地位を勤めた人なのですから、力士としての戦い方をするべきなんじゃないかなぁと思いました。
 
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 さて。
 先日から始まった一連のイスラム教とテロルの更新には、本当に多くの方、また多方面から反応を頂きました。
 ありがとうございます。
 しかしそんな反応の中でちょっと気になる反応がありましたので、今日はそれについて語りたいと思います。
 それは、このようにおっしゃる方が結構多いんですね。
 
 キリスト教の方が危険な精神をはらんでいる。
 アメリカの方がよっぽど酷いことをしている。
 
 はい。
 おっしゃることは分かりますし、あながち間違いな事ではないと思います。
 しかし、敢えて言わせてもらえれば、一体それがどうしたというのでしょうか
 だってこの一連の更新は、アメリカもキリスト教も全く関係ない話です。
 読み返して頂ければ分かると思いますが、アメリカについてもキリスト教についても全く触れていませんし、そんな単語すら出でいないです。
 今回やえが触れたことはイスラム教だけを見た時のやえの考えであり、このお話にはアメリカもキリスト教も何ら関係ない事です。
 例え本当に「キリスト教は精神的にはテロリズムを内在している宗教」だとしても、その事とこの一連の更新とは全く関係ない話です。
 キリスト教と関連づけなければならない理由はやえにはさっぱり分かりません。
 
 「イスラム教“だけ”テロリズムを結びつけて悪者にしようとしている」なんていう感じのことを書いておられる方もいらっしゃいました。
 うーん、いつやえはイスラム教“だけ”なんて書いたのでしょうか。
 全く覚えがありません。
 確かに今回触れたお話はイスラム教だけですが、しかしテロリズムの精神を内在しているのはイスラム教だけと書いた覚えはありません。
 
 コレを書いていたら一行ボードの方でも似たような事を書かれておられる方がいらっしゃいました。
 「公平にハガナーとかシオニストによるテロも非難するべきでは?」
 
 では、この「公平」とは何を指すのでしょうか。
 多分「イスラム教だけ」と言ってしまった方も、今回のやえがイスラム教だけを触れていたので「不公平」だと感じたのでしょう。
 でもそれだと、その「公平性」を満たすためには、世界中のありとあらゆる事象に触れなければならないことになってしまいます
 いくらなんでもやえの視野はそこまでは広げられません。
 またそれが「公平」かと言えば、それも違うと思います。
 
 果たして全ての事象に触れることが公平と言える事なのでしょうか。
 イスラム教のことに触れたら同じぐらいキリスト教に触れることが公平なのでしょうか。
 その線引きはどのように決めるのでしょうか。
 本当にイスラム教とキリスト教とでバランスが取れるとはやえは思えません。
 「イスラム教だけでなくキリスト教も」と主張するということは、つまりイスラム教とキリスト教は天秤の両端でバランスをとっていると考えておられるのでしょうけど、でも、この両者が対立するようなモノではないとやえは思います。
 また、このようにハッキリ書いてしまうと、そう思う人もかなり少なくなるのではないでしょうか。
 
 となれば、やはり世界中の全ての宗教について考えなければいけないことになってしまいます。
 しかしそこまでやえの視野は広くはありません。
 そもそもそんなことはどんな人でも不可能な事だと思います。
 
 だいたいにしてやえがやっていることというのはジャーナリズムではないですから、絶対的な公平を達成しなければならないということもないと思います。
 やえはやえが気になった事象に対して語っていくだけです。
 つまり、やえはイスラム教を考える時は徹底的にイスラム教のことだけを語りますし、またそれがバランスを取るということだと思っています。
 イスラム教を考える時に、「キリスト教はこうなのにイスラム教はこうだ」と語ってしまうのは、それはキリスト教についてもイスラム教と同じ分量だけ語る必要があるでしょう。
 しかしそうではなくて、やえは世界にある色々な宗教があって世界にある色々な事象があってその中からイスラム教というモノを今回は選択して語っただけであって、だからといって別の事象を切り捨てたワケでも全く考慮しなかったワケでも、まして別の事象を否定したワケでも決してありません
 別の事象については機会があれば別の機会に語るでしょうし、色んな人がそれぞれの立場で考えればいいと思います。
 むしろやえはイスラム教のことを語る時には、他のことをまでを含んで語らないようにすることこそが、バランスを取っていることだと思っています。
 
 繰り返しになりますが、やえは一言も「テロリズムの精神が内在している宗教はイスラム教“だけ”だ」とは言っていません。
 「イスラム教にはテロリズムの精神が内在している」と言っているだけで、そこにキリスト教も仏教もなんら関係ない話です。
 もしかしたらキリスト教も内在しているかもしれませんし、仏教にも内在しているのかもしれませんが、しかし今回のやえの更新はイスラム教の事を言っているだけで、それ以上も以下もないのです。
 
 ちょっとキツ目になると思うのですが、敢えて語らせてもらいます。
 今回の更新ではテロルのことに触れましたので、「他のテロルも語れ」とおっしゃるのはある程度分かります。
 それが公平かどうかはおいておくにしても、そうおっしゃる理由は理解できます。
 しかし今回の更新を読まれて、いきなりキリスト教やアメリカのことを言及し始めるのはなんとも言いがたいモノがあります。
 今回の更新ではアメリカのアの字も出ていないのに、どうしてそんなことになってしまっているのでしょうか。
 
 なぜか「アメリカの方が悪い」と言ってしまっている人というのは、いわゆる「反米派」と呼ばれる人ばかりでした。
 これは、あまりにもアメリカ憎しが頭にこびりついてしまっているので、イスラムとかテロルという単語が出るとアメリカが条件反射のように出てしまうのでしょう。
 しかし今回の更新をよく読んでいただけば一目瞭然ですが、イスラム教の精神の内面について語ったのが今回のお話で、確かに今イスラムがテロルを行っているきっかけはアメリカなのかもしれませんが、これがアメリカでなくても今回の論には全く影響がないお話ですから、アメリカもキリスト教も全然関係ないことです。
 またそれは、オウムの例を取って「誤解を恐れず敢えて申し上げますと、ヤシンなんて人は麻原彰晃の影響力が強まったぐらいの人でしか無いハズです」と言ったことからも分かると思います。
 オウムがテロルに走ったきっかけはアメリカではないですからね。
 しかしそれでも「反米派」はアメリカという言葉にこだわってしまっています。
 なんかまた誤解されてもイヤなので断っておきますが、反米派の全ての人がとは言いませんけど、しかし反米派と呼ばれる人の中には「アメリカ憎し」によって逆にアメリカという呪縛にとりつかれている人が多いような気がしてなりません。
 イスラム教の問題は、あくまでイスラム教の問題でしかないハズなのです。
 
 一応繰り返しておきますが、今回やえがイスラム教のことだけ語ったからと言って、他のテロルを容認しているワケでも、イスラム教だけを悪と言っているワケでも、まして他の宗教が正しいと言っているワケでもありません。
 あくまでやえが言ったことは「イスラム教にはテロリズムの精神が内在している」ということだけです。
 これ以上もこれ以下もなく、だからこのことについて反論されれば答えようもあるのですが、しかし他のこと、例えば「アメリカの方がもっと悪い」と言われても、そもそもやえは他のことと比べて語っていないので答えようがないのです。
 
 ある事象を語る場合において、その範囲をあまり広げすぎると、それこそ本末転倒な論になりがちです。
 比べるという語り方は確かに分かりやすいというメリットはありますが、逆に一方の方だけが目立って、もう一方ことがわかりにくいというデメリットもあります。
 今回のやえの更新はまさにそうで、だから24日の更新では、「ヤシンを殺したことによる影響はかなりのもので、イスラエルの取った行動は安易であるという点に置いては、まったくもって正しいと思います。しかしだからといってパレスチナが正しいというワケでも全くありません。」と語っているのです。
 イスラム教のテロルの精神は、他の悪と相対化して比べるとなかなか見えづらくなってしまっていますので、今回の更新ではこの点だけをクローズアップすることによって、問題点を分かりやすくしているのです。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、曙さんを応援しています。


平成16年3月29日

 誇りに恥じない戦い

 
 web拍手で送って頂いたメッセージです。
 
 ・アメリカへの呪縛ですか・・・確かにあるかもしれませんね。
 
 掲示板の方で「テロ=犯罪ということがこびり付いて離れないようなので・・・」という書き込みがありましたが、一連の更新はアメリカは全く関係ないのにアメリカという単語を出さずにはいられない人のことを指して「アメリカへの呪縛」という言葉を使ったワケであって、つまり「ちょっとテロ=犯罪ということがこびり付いて」という例えは適切ではないですね。
 アメリカ批判は別にいいと思います。
 やえもアメリカは嫌いです
 でも、なんでもかんでもアメリカ批判の材料にするっていうのは、どっかの妄言王が党首をしている政党と同じ事になりますので、その辺の切り替えはしっかりとしてほしいと思っています。
 反米というのは悪くはありませんが、なんでもかんでも反米には疑問です。
 
 ・このサイトのおかげで歴史や宗教を知ることが楽しくなってきました。でも、調べる時間が、時間がー(泣
 
 うう、なんてうれしいお言葉。
 歴史はともかく、宗教の話題は忌避する人も多いのですが、しかし宗教というモノは人間というモノに直結しているモノで、またその土地の風土とも直結している、むしろ表裏一体だと言えるモノですので、やはり面白いと思います。
 やえもまだまだ勉強不足ですが、これからももっと知っていければなぁと思っています。
 
 ・曙>寝技はなくとも、”足を滑らせてしまった””つまづいて倒れこんだ”なら合法のハズだ!(マテ
 
 昨日の反則は演技力が足りなかったのですね(笑)
 力士の最大の武器は肉体そのものですから、ぶちかましは当然のこと、その武器を最大限引き出せるような戦い方をしてもらいたいですね。
 パンチや蹴りを鍛えたところで、それが専門の空手やキックボクシングに敵うわけがないんですから、力士が最も力を発揮するような力士の戦い方をしてもらいたと思ってます。
 
 ・今回の更新、特に納得しましたよ。
 
 ありがとうございマース。
 なかなか自分の思っていることを100%文章で表現することは難しいのですが、少しでも多くやえの思っていることが伝わればと、日々精進しています。
 これからもよろしくお願いします。
 
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 さて。
 いきなりですが、テロルは犯罪です。
 これは揺るがしようのない事実です。
 ちょっと前に「テロルの定義」というタイトルで定義付けしていますので、もう一度読んでみて頂きたいのですが、とりあえずおさらいしておきましょう。
 
 テロルとは
 ・暴力等を行使して恐怖感を与えること(破壊そのものが目的ではない)
 ・テロルは政治的目的を達成するための手段である(快楽無差別殺人とは違う)
 ・暴力の矛先は政治目的の当事者ではない(当事者でないからこそ恐怖を与えられる)
 
 この3つをやえはテロルの定義としています。
 
 特にやえが重要視しているのは3つ目の「暴力の矛先は政治目的の当事者ではない」というところです。
 これこそがテロルの最も忌むべき点なのです。
 「テロルの定義」で、「テロルがテロルたる由縁は、直接的に達成しようとすれば困難な目的を、要求しいている目的の当事者でない弱者に矛を向けることによって、安易に達成しようとする卑怯で卑劣な精神そのものなのです」と述べているように、ここにテロルを許してはならない理由が凝縮されているのです。
 
 しかし最近の論調には、「民族の誇りをかけた戦いではテロルも許される」なんていう意見がよく聞かれるようになりました。
 保守系、特に反米保守と呼ばれる人たちからよく聞かれる意見です。
 しかし本当にそうでしょうか。
 やえは疑問しか感じません。
 
 当事者以外を標的にすることがテロルの定義だと言いましたが、つまりいくら自国民の誇りを守る戦いであったとしても、非戦闘員を殺すような卑劣な行為をして、それで果たしてその自国民の誇りは本当に守られるのでしょうか?
 日本には武士道という素晴らしい精神がありますが、非戦闘員を命の盾にして自分の要求を満たさせるような行為は、決して武士道とは言えないハズです。
 つまりもし日本の誇りである武士道を破ってまで自国を守ったとしても、その守った後の日本には誇りというモノが残っているのでしょうか
 武士道を破ってまで守った日本に武士道はあるのでしょうか
 
 もう一つ視点があります。
 非戦闘員から戦闘員への攻撃の場合です。
 これはやえの定義からすればテロルではないです。
 敢えて名付けるならゲリラとでも言えばいいのでしょうか。
 しかし問題が一つだけあります。
 戦闘員かどうかを見分けるのが困難である、ということです。
 その(仮称)ゲリラ員は攻撃する直前まで一般市民に扮していますから、相手にしてみれば攻撃されるまで攻撃は出来ないワケで、こんな卑怯なことはありません。
 もしそんなゲリラから身を守ろうとするのなら、ゲリラ員と思わしき者、つまり一般市民を攻撃するしか防衛の手だてがなくなってしまいます
 だから仮に、一般人をも戦闘員(ゲリラ員)として相手も攻撃していいと言うのであれば、そのゲリラ戦法を認めてもいいとは思います。
 ただしこれは、一般人を隠れ蓑にすることがゲリラの戦法ですから、その隠れ蓑の意味が無くなるという点においてすでにゲリラ戦法は破綻していると言えるんですけどね。
 そう見た時に、今のパレスチナが果たしてそこまでの覚悟を持っているのかどうかと考えたら、まずそんな覚悟はまずないのではないでしょうか。
 イスラエルが民衆をターゲットに攻撃してきたら、まず間違いなくパレスチナは大非難をはじめることでしょう。
 
 また、世界世論もここまで深く考えようとはしません。
 仮にイスラエルが「パレスチナがゲリラ作戦をしてきたので、身を守るために非戦闘員を攻撃した」と言ったとしても、世界世論は決して支持をしないでしょう。
 そうである限り、非戦闘員を装った戦闘員の攻撃はするべきではないのです。
 
 「今のパレスチナにはテロルしか手段がない」という意見があります。
 つまり「テロルという手段を放棄させると言うことは死ねと言うことではないのか」という意見なんだと思います。
 では答えましょう。
 
 そうです。テロルをしなければ生きられないというのでしたら死んでください
 
 さっきも言いましたように、武士道を捨ててまで守った日本を、果たしてそれを日本と呼べるのかどうか、やえは疑問です。
 だからこそ、そうならないために最悪の事態にならないために、軍備を整えたり外交をしたりするのです。
 大東亜戦争に突入する前の日本は、決して闇雲に戦争に突入したワケではありません。
 戦前の日本も最後の最後まで国際協調の道を模索していました。
 また残念ながら戦争に負けた後も、日本はテロルを繰り返すというような安易な自己主張をするのではなく、後の復権を志して一時の恥辱を敢えて受け入れ、結果的に見事な復興を成し遂げようという道を選びました
 今ブームの幕末という時代も、これと同じようなことだと言えます。
 明らかに力の差のある欧米に対して一時の感情に身を任して闇雲に食ってかかって植民地にされたアフリカやアジアの国々とは違い、日本は一時の恥辱を受け入れてでも未来の復権を目指して耐える道を選んだのです。
 そしてその選択は間違いではありませんでした。
 たった十数年で日本は、世界で唯一白人の欧米列強に対等に渡り合ったという快挙を成し遂げたのです。
 
 もしかしたら一つ一つの細かい事象としては、武士道に劣る振る舞いをした日本人がいるかもしれません。
 それは人間ですから仕方ないと言えるのかもしれません。
 しかしそのような輩は、人が、または時代が裁きました。
 つまり結果的には大局としては日本は決して武士道に反するような行為を取らなかったのです。
 そして今があるのです。
 だからこそ、武士道に反するような行為を肯定してはならないのです。
 
 日本人は武士道を捨てません。
 例え一時は恥辱にまみれようとも、誇り高い精神だけは持ち続けるのです
 
 やえの思想は日本が基本です。
 だから日本人のやえとしましては、パレスチナがそう出来ないのであれば、残念ですが死んでくださいとしか言いようがありません。
 「パレスチナにはテロルしか手段がない」と言うのは甘えでしかありません
 
 「民族の誇りのため」という理由でなんでもありの暴力を認めていたら、それは無秩序世界の始まりですし、それこそ「力が絶対の世界」になるでしょう。
 誇りのために戦うのでしたら、その誇りに恥じない戦い方があると思います
 
 日本がそうしたように。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、武士道を応援しています。
 
 
 

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