本村さんの、裁判直後の会見で、次のように述べておられました。
「人の命を尊ぶからこそ、死刑制度があるんだと思います」
やえは、この言葉に深く強く感銘を受けました。
すなわち、人の命というモノは非常に重いモノであるからこそ、それを奪う死刑という罰が最上の罰としてあり得る、という意味です。
人の命などどうでもいいと思うのであれば、死刑など意味を成さない刑になってしまいます。
例えば、池田小事件の犯人である宅間死刑囚は、生前から「早く死刑にしてもらいたい」と公言し、そして前例に比べれば非常に早く死刑が執行されたワケですが、これでは死刑囚本人にとって本当に罰になったのか、それは多いに疑問が残るところです。
もちろん社会的に見れば、やはり「命は重い」という価値観が一般的ですから、そう言う意味では宅間死刑囚の死刑執行は全く無意味だったとは言えません。
こういう視点で見れば、最愛の二人を殺された本村さんが発した「人の命を尊ぶからこそ、死刑制度があるんだと思います」という言葉は、本当に本当に重い言葉なのではないでしょうか。
被告人は、裁判が始まった当初、かなり罪の意識が薄い発言を繰り返していました。
「ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?知ってます。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。…でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし」
「知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」
「オイラは、一人の弁ちゃんで、最後まで罪が重くて「死」が近くても「信じる」心をもって、行く。そして、勝って修行、出て頭を下げる。そして晴れて「人間」さ。オレの野望は小説家。
へへ」
「犬がある日かわいい犬と出合った。…そのまま「やっちゃった」、…これは罪でしょうか」
「五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも」
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これは一審の無期懲役判決後、知人に宛てた手紙の内容の一部です。
どう好意的に解釈しても、反省しているとは全く思えない内容です。
一審から二審にかけて、被告はこのような心情を持っていました。
それが変わったのが、最高裁の口頭弁論が開かれ死刑判決というモノが現実味を帯びた時からです。
例の弁護士団が結成されてからですね。
その一人は、涙を流しながら「こんなに胸を張って弁護できたことはない」などと言い、被告が反省していると繰り返し主張していました。
ですから、もしかしたら今日の段階で、本当に被告は反省をしているのかもしれません。
心の奥底から謝罪をし、償っていきたいと思っているのかもしれません。
それは神ならざる人間の視点では、人間の心なんて見るコトはできませんから、どうなのかは分かりませんが、だからこそ可能性としては反省している可能性もあり得ると言えます。
しかし、もしこの段階で本当にそうであったとしても、過去において、あまりにも事件のコトを正面から見ようとせず、反省がとてもじゃないけど足りない言動を繰り返していたコトも確かです。
ですから、死刑という刑が現実味を帯びたからこそ、反省する心を宿したのかもしれない、と言うのは、これはあり得る話だと思います。
だからこそ現在被告は心から反省している、と言っても、それはその通りなのかもしれません。
だけど、だからといって、死刑という刑を軽くしろという論には成り得ません。
死刑があるからこそ反省したというのであれば、それは今後死刑制度に対する大きな肯定の論拠となり得るかもしれませんが、反対の論拠には全くなりません。
反省すれば全てが許されるとはなりません。
更正の可能性があるという理由が、許される理由にも成り得ません。
はじめから自らが犯した罪に対して反省していたのではなく、死刑にされるからこそ反省するキッカケになったというのであれば、それは社会として喜ぶべき話であり、それはこの被告に死刑が執行されてこそ、死刑制度の存在理由として完結するモノでしょう。
反省しないまま逆ギレのように死んでいった宅間よりも、よっぽど有意義な裁判であり死刑制度であったと言えるワケなのです。
前回言いましたように、特に刑事事件は公的な観点が強く、また刑法を含めたあらゆる法律は当然国民の元にあるワケですから、よって死刑制度が凍り付いた犯罪加害者の心を解かし、人間らしい反省の心情を呼び戻せるというのであれば、それは社会として死刑制度は利益があり喜ぶべきコトなのではないかと思います。
命を尊ぶからこそ、死刑は意味を成す。
法律も裁判所も、命を軽んじていては、死刑制度など無意味なモノとなってしまうでしょう。
そして被害者も、さらに加害者本人も、命の重みを感じたからこそ、この被告は反省の弁を口にするようになったのですから、お互いに命の重みを感じるているからこそ、死刑が意味を成すのです。
被告は、今後の人生を深く深く反省しながら、己の所業を後悔しながら、生きていってほしいと思います。