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平成21年1月17日

 自己責任と結果責任

 自己責任とは具体的にどういう意味なのでしょうか。
 これは人によって色々意見が分かれそうな問題でありますが、やえは、他者に責任を押しつけるばかりで自省できない人に対して「自己責任の結果だ」と投げかけられる言葉だと思っています。
 自省とは、自らを省みて、自分にも悪かった点がなかっただろうか、改善すべき点はなかっただろうか、努力不足の点がなかっただろうか、そういう自分で自分の反省をして、それを次に活かそうとする姿勢のコトです。
 そして自己責任とは、そういう自省の姿のコトを指し示し、それが足りないような人間に対しては「自己責任だから仕方ない」と言われるという構図である、とやえは考えています。
 派遣村の派遣問題でもその他の問題でもそうなのですが、「それは自己責任だろ」という意見が出ると、強い拒否反応を示す人がいます。
 というか、自己責任という言葉そのものに拒否反応を持っていると言った方がいいのかもしれません。
 自己責任というと、他者に対しての寛容性が皆無で突き放しすぎて排他的なので日本人気質に合わないのではないか、あまりにも冷たすぎる態度じゃないかというのがその理由のようです。
 しかしそれはちょっと違うんじゃないかな、とやえは思います。
 
 例えば派遣の問題に対して、派遣村の人たちを「自己責任だろ」と批難する主張というのは、これは
 「派遣という雇用体系を自分から選んだ」→「だから仕方ない」→「だから政府は支援する必要ない」
 という流れだと思われがちですが、しかし実際のところの批判に至る過程を見れば、決してこのような流れが批判に至る理由ではないと考えられます。
 
 これはどっちかと言うと、結果責任です。
 結果責任は、派遣という職を選んだという結果があったからこそ無職の状態になってしまったのだから仕方ないという意味になるのでしょうけど、もしそうであるなら、そもそもニートの存在そのものや、ホームレスという存在そのものに対しても、もっと早くから自己責任だろという批判が浴びせられていたコトでしょう。
 国の生活保護という制度にも、制度の存在からして認めないという主張がもっとあってしかるべきハズです。
 今でもその手の批判が無いとは言いませんが、しかしその規模は全然違うワケで、ではなぜ自己責任論が社会問題になるまで大きくなるのかと言えば、この派遣村の問題に関わらず自己責任論が爆発する時というのは、必ず批判される方からアクションがあって、批判というのはむしろこの披批判者のアクションに対して起こるモノであり、つまり披批判者のアクションがあるかどうかがポイントであるからです。
 つまり、そのアクションに対して、「自己責任だろ」と批判が湧き出ると言えるワケなのです。
 
 では、なにが批判されたのか、どういうアクションに対して自己責任論が出てきたのかと言うと、それは、派遣村に集っている人たちの姿勢の問題と言えます。
 それが全てとは言いませんし、ある特定の勢力が入り込んでしまったがために、いつの間にか政治運動化してしまって主張が先鋭化してしまっているという事情もあるのでしょうけど、それにしても結局、派遣村の主張があまりにもワガママ身勝手すぎるという部分が反発されているというのが現状です。
 前にも言いましたように、特に今回の不況は日本政府のせいでは全くないという事情も鑑みて、まともに働いている人の方が日本の中には多いのですから、その中で自分達だけ特別に税金で助けてくれと派遣村は言うのですから、日本人感覚からしたら下手に出るのが常識的、少なくとも高圧的に「政府の義務なんだから当然やれよ」と上から目線で言うというのは、やっぱりちょっとおかしいと言わざるを得ないでしょう。
 派遣村ではありませんが、どこかの市で臨時宿泊施設がいっぱいであぶれてしまった人たちが市役所に押しかけて職員に怒鳴り散らしていた光景をテレビで見たという人も少なくないでしょう。
 その上、食事も寝床も移動費まで税金から出されて当然だという態度をとるモノですから、さすがにこれには反発されてしまうワケです。
 
 そしてその反発として
 
 「上から目線で言う前に、自分が今までちゃんと努力してきたのか、自分が甘えたから今のような結果を招いたのではないか、その辺はキチンと反省して自省しているのか」
 
 という感情が一般国民からわき起こり、それが一言で言い表されて「自己責任じゃないのか」という言葉になるワケです。
 
 よく思い出してみてください。
 「自己責任」という言葉が広く認知されるようになった最初の事件は、あのイラクの日本人人質事件ですが、あの時も多くの国民は何に対して反発したのかと言うと、自分(の親族)の行動を棚に上げて身勝手な主張ばかりする人質の家族達のその姿勢にこそ反発したのです。
 やえはよーく覚えているのですが、あの時のイラクというのは、自衛隊を派兵するかどうかというコトもあわせて、イラクはとんでもなく危険なところだと、自衛隊が行くコトすら危ない危ないとマスコミが必要以上とも思えるほど喧伝されていましたから、そこに一般人がひょこひょこイラクに渡るコト自体が不思議としかいいようのない雰囲気でした。
 それなのに、人質達の家族は、そんな自分の行為など棚に上げて、とりあえず人質解放が第一で、日本政府は何が何でも命を助けるコトだけに専念して、それが義務なのだから我々の言うとおりにやれ、という態度バリバリでした。
 おまけに当然な顔をして「即時自衛隊の徹底」までを要求する始末。
 こういう家族の態度から、「自分の非はないのか、反省してないのか、他人にばかり責任を押しつけて、その態度は何だ」という世論の感情が爆発して自己責任論が巻き起こったのです。
 もしこれが、家族が涙を流しながら自分の家族が起こした不始末を詫び、日本政府やその関係者にかけた迷惑をあやまって頭を下げていたのであれば、自己責任論はわき起こらなかったでしょう。
 でも実際は、そもそも国民には「なんであれだけ危ないと言われていたイラクに行ったんだろう」という疑問符が付いている中で、さらに逆なでするような家族達の態度があったので、大バッシングになってしまったのです。
 
 決して世論は、結果に対して怒っていたのでは無いのです。
 人質にされたコト自体に対してへの批難というのは、もちろん多少の「なにやっているんだ」という感情はありましたし、それはそれである程度責められるコトだとは思いますが、それは自己責任論ではなく結果責任論と表現すべき責任論です。
 ですから、これがもし人質にならずに、仮に世紀の大スクープ写真や資料を手に入れていたのであれば、おそらく日本では英雄扱いされていたのでしょう、やっぱりそれは結果だけで評価が変わるという結果責任なのです。
 しかしそれと、自らの行動を振り返らず自省しない態度に対して反省を促す自己責任という概念は、似ている部分も多いですが、基本的には違う概念なのです。
 
 もちろん、どっちにしても日本政府は日本人の危機に対してそれなりの対応をするのが当然で、もちろんイラクの時も派遣の問題でも対応しなければならないと思いますし、実際しているところであり、自己責任論とは決して「対応しなくてもいい」と言っているワケではないコトは誤解してはなりません。
 実際イラクの時も派遣村の時も、政府は出来るだけの対応はしています。
 自己責任論が巻き起こる場合というのは、どちらかと言えば政府などに対して対応をするなとかそういうコトを言っているのではなく、求めている方に「その態度はおかしいだろ」と言っているワケであって、その延長として「そんな態度なら支援する必要ないだろ」という一つの制裁的な選択肢が出てくるだけであって、やっぱり自己責任論の主論は「自省しろ」というコトなのです。
 
 派遣村へのバッシングもよくよく考えてみてください。
 派遣村を救おうとする心は素晴らしいコトだと思いますし、国民のための政府であるのですからある程度の対応はして当然ですが、しかし政府も人間であるワケですし、それなら派遣村の方も人間らしい日本人らしい態度を取るというのが当然なのではないでしょうか。
 人は、「可哀想な人たちはどんな主張をしてもどんな態度をとっても許すべきだ」という考え方を許容するほどおおらかではありません。
 特に日本人は自らを律するコトが美徳とする文化と歴史を持っている民族です。
 結果として残念なコトになってしまった人に対して哀れみを持つコトも日本人としての美徳ですが、可哀想な境遇になったとしても自らを律してこそ次に繋がるというモノでしょう。
 それが日本人の優しさであり厳しさなのです。
 支援されるのが当然で自分達は何を主張しても許される存在だと言わんばかりの態度では、反発するなという方が難しいでしょう。
 派遣村の人たちは、もちろん全員とは言いませんが、自省が足りないとやえは感じています。
 
 自己責任論に拒否反応を示している人というのは、それは実は自己責任ではなく結果責任を求めるというコトに拒否反応を示しているのではないでしょうか。
 

平成21年1月19日

 政府談話のお話し。

 かなーり前になってしまったのですが、次のようなメールを頂きました。

 いつもご苦労様です。
 「村山談話の踏襲」のことなんですけど、政府が「踏襲しない」ってことにする場合、政府としてどんな作業が必要になってくるんでしょうか?「村山談話」の法的な位置づけってのもよく分からないんです。不勉強ですいません。

 おそらくこの辺について疑問に思っている人はけっこう多いんじゃないでしょうか。
 また、いわゆる「村山談話」とか「河野談話」について撤回するべきと主張している人も多いですね。
 というワケで、今日はこの話題について、取り上げてみたいと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 と言っても、実は別にこの「談話」というモノには法的根拠はありません。
 例えば憲法や法律なら、それぞれ存在意義から具体的効力やその範囲、作り方や改正の仕方まで事細かに明文化されていますので、どうしたらいいのかは基本的に該当部分を読めば分かりますが、しかしこの手の「政府談話」にはそのような規定がないのです。
 その存在についてすら規定がありません。
 だから結局どこまでいっても「いわゆる」というのが冠詞として付く、とてもあやふやな存在であると言えます。
 談話とはこのような存在ですから、結論から言ってしまえば、それを守るも守らないも変えるも変えないも、その時の政権次第、やろうと思えば例えばいますぐ麻生さんが「村山談話に変わる新しい政府見解を発表します」とか言ってしまえば、変えるコト自体は出来てしまえるコトは出来るワケです。
 
 なんだそれと思うかもしれませんが、もちろん絡むコトが日本国政府全体のお話しですから、そんな簡単なモノではありません。
 むしろやえは、逆に規定がないからこそ難しいと思っています。
 
 理由はいくつかあります。
 まず1つ目として、「日本の政治は積み重ねで成り立っている」というモノがあるかと思います。
 現代の日本政府というのは、明治憲法下から続いている政府であり、ですから初代総理大臣が伊藤博文で、そこから脈々と続いて今の総理が麻生太郎という、戦前の政府も今の政府も、憲法は違えど同じ立場のそういう歴史のある同じ政府です。
 そもそも今の憲法も、明治憲法を改正したモノであり、例えばいま憲法をさらに改正しても日本政府は日本政府として変わりが無いのと同じように、伊藤博文内閣であっても麻生内閣であっても、その存在は今も昔も変わりはないのです。
 このように、今の日本政府も過去の日本政府から受け継いできた存在でありますので、その間の過程を大切にする、ある意味の義務を有します。
 もちろん初代内閣の時から比べれば時代が全然違いますのでかなり大きな部分でも違うところが多くありますが、それらは全て過去の政府が積み重ねて、歴史を紡いで作ってきたという事実は忘れてはならないのです。
 
 村山談話や河野談話はそういう歴史の中で生まれたモノです。
 言い換えるなら、これらも長い日本政府の歴史に裏付けられた重みを構成するひとつと言えるでしょう。
 ひいてはそれは、信用と言い換えるコトもできるかもしれません。
 もし日本政府のトップが、政府見解に関わる重大事項に関してコロコロ変わっていては、だんだん信用されなくなってしまいます。
 特にこれは国内に対してではなく、外国に対してですね。
 誰が総理に大臣になろうが、基本的に日本政府であるコトには変わりありませんので、特に日本という国は、独裁国や社会主義国とは違い、積み重ねていく政治体制ですから、特に重みを置いているとも言えるでしょう。
 信頼とは、作り上げるコトは時間がかかりますが、壊すのは一瞬です。
 そしてなりより、壊したモノをまた作り直すというコトは1から作るよりも遙かに難しいコトですから、慎重になってしまうと言うのはある意味当然でしょう。
 
 これらを考えた場合、総理大臣や政府要職に就いた人の、その立場を背負って発言した内容は、それなりの重みがあり、変えるとしてもそれなりに慎重を期す必要があると言えます。
 談話は法律ではありませんが、自分の立場と、その後ろに背負っている日本国という存在を代表しているコトに他ならず、その日本の存在が大きいと思えば思うほど、発言に対しての重みを尊重しなければならなりません。
 村山談話も河野談話も、単に国会議員村山富市や河野洋平が個人的にしゃべったというだけの意味ではないという、日本国総理大臣や外務大臣が日本を代表してしゃべったという重みが、その内容ではなく、存在そのものに尊重しなければならない背景としてあるのです。
 
 
 2点目として、「議院内閣制における総理大臣は個人的主張だけで何でも出来る存在ではない」というモノが挙げられるかと思います。
 言うまでもありませんが、日本は独裁国ではありません。
 総理になったからと言って、個人的な思いだけで政治を動かすコトはできません。
 結局日本という国は民主主義を採用していて主権者は国民ですから、政治とはその国民の思いをどれだけ国政に反映させるのかというのが建前的原則です。
 その上で現実的手段として選挙というモノがあるワケですが、しかしおそらく直接選挙で選ばれる国会議員にしても、有権者と寸分も違わず考えが一緒だなんていう政治家はいないでしょうし、そもそもそこまで求められるモノでもないというのが現実です。
 さらに日本にたった一人しかいない総理大臣という存在であれば、それはなおさらです。
 総理大臣というのはそんな存在ですから、いくら総理になったとしても、1から10まで全ての個人的な政策が国民に肯定されていると認識してしまうのは、それはちょっと度が過ぎるというモノでしょう。
 まして議院内閣制における内閣ですから、議員が数百人も存在する国会の意志というモノも無視できません。
 総理大臣はあくまで国民の総意(という理想を追求している)である存在であり、基本的には総理個人の思いなどというのは二の次三の次なのです。
 
 1つ目でもお話ししましたように、これまでの歴代内閣の決定ですとか、もちろん法律ですとか、政策の流れ、そして世論流れなど、これらは無視できない要素です。
 例えば安倍総理なんかは、中国との関係を修復する方向に動きました。
 これは、前任の小泉さんが対中関係を最低レベルまで引き落とした後、しかし世論はさすがにそれはちょっとという反応を示したためです。
 おそらく安倍さん個人としては小泉さんがやったような手法を取りたかったのではないかと勝手に予想しているのですが、しかし安倍さんとしてはそんな個人的主張はともかくとしても、今までの流れや世論の動向などを鑑みた上で、あの時はああするしか無かったと言えます。
 総理という立場は、個人的感情よりも立場としての責務の方が重いのです。
 個人的感情よりも、総理として必要であると感じるのであれば、それを優先させなければならないのです。
 
 また、もし総理が替わったからといって政府見解を変えていては、では自分の総理の時に行った仕事も、次の総理になるとあっさりと否定されてしまうというコトになりかねません。
 簡単にそれを許していては、それは負の連鎖となって、最悪国政に大きな支障を来す結果になってしまうでしょう。
 政府に限らず、トップの考え方がコロコロ変わるような組織はうまく機能しません。
 特に日本の政治の場合、数年で総理が替わってしまうコトも多いですから、もちろんそれは議院内閣制という制度だからこそ可能な芸当であり、それは大統領制と違い、トップの個人的思いよりも総意や歴史を重要視した“変えにくい政治体制”の表れでもあるワケで、そういう“連続性を重要視する議院内閣制”においては、基本的に歴代内閣の決定はまず尊重するというのが基本なのです。
 信頼問題にも同じコトが言えますが、こういう自主的な、内閣が内閣を尊重するという立場こそ、その内閣の、つまり自分の内閣の重みを生み出すのです。
 
 そういう意味から、安倍さんや麻生さんと言った保守的な人が総理になったからと言って、ただちに政府見解を変えるというのは、なかなかに難しい話です。
 もしそれをするというのであれば、選挙のときから、また常日頃から、「○○見解を変える」と政策のトップ項目として掲げ、また自民党なら総裁選挙の時にまずこれを言う、ぐらいしなければならないでしょう。
 そうするコトによって国民的議論が巻き起こり、その上でその人が総理として認められるというのであれば、これは個人的主張にとどまらない「総理としての責務」だと言えるようになりますので、堂々と変えていいと思います。
 本来の民主主義政治から言えば、政治家が問題を発議するのではなく、国民から「変えるべきだ」と大きな声になってもらいたいところですが、政治家からも時にはいいでしょう。
 残念ながら、麻生さんも安倍さんも、数多くある政策のうちの一つとしては歴史認識問題はあるのでしょうけど、総裁選などで大きな柱として主張していたとは認識されていません。
 逆に小泉さんの郵政民営化論は有名でしたね。
 靖国神社参拝もそうです。
 安倍さんも麻生さんも、もちろん国会議員としてのという重い立場上での歴史認識ではありますが、しかしまだまだ、ただ一つの日本政府を代表して述べるだけの国民的合意は、この問題に関しては安倍さんも麻生さんも得ていないと言ったところでしょうか。
 安倍さんは憲法改正は主張されていましたけどね。
 
 
 3つ目は、これがこの問題では一番大きいと思うのですが、「そもそも村山・河野談話の概念自体は、両議員が初めて生み出した概念ではない」というコトです。
 
 
 (つづく)
 

平成21年1月20日

 政府談話のお話し。(下)

 3つ目は、これがこの問題では一番大きいと思うのですが、「そもそも村山・河野談話の概念自体は、両議員が初めて生み出した概念ではない」というコトです。
 この談話はどちらも先の大戦に関する談話で、端的に言えば昔の日本は悪かった、色々な悪行を行ったという内容ですが、よくよく考えてもらいたいのは、こういう考え方は決して村山議員や河野議員が初めて世に出した全く新しい考え方ではありません。
 どっちかと言えば、世の中にある世論がまず最初にあって、村山総理も河野官房長官もその世論をくみ上げて、それを言葉として体裁を整えたというのが事実としては近いでしょう。
 
 念のために言っておきますが、今回は政府談話についての話題ですから、実際どうだったかという歴史的事実お話や、やえが実際それに対してどう思ってるかというお話はまた別問題ですので、混同しないようにお願いします。
 
 どうも世の中には、ここを勘違いしている人が多いような気がしてなりません。
 もちろんこの2つの談話によって、政府がそれを認めているという根拠にはなってしまいますが、学術的にそれが存在していると証明したワケでも、ましてこれらの概念をこの2つの談話が新たに作りだしたというワケでもありません。
 ですから、もしこれらの談話が撤回されたとしても、世論的にはまだまだこういう考え方の人が数多くするという事実は忘れてはいけません。
 
 ネットの中では最近保守的な考え方が流行っていますので、これらの談話を撤回するよう主張する人が目立っています。
 でも実際問題、現実問題としてはどうでしょうか。
 ネットだけ見たとしても、ネットというのは自分から能動的に情報を集める媒体ですから、実は目に入れたくない情報は進んでシャットダウンするコトが可能で、同じような考えの意見だけが寄り集まって固定化・先鋭化してしまう特徴がネットにはあります。
 まして、主にネットで情報を集める、他人の意見を集めるというような人の方が、残念ながらまだまだ少数派であると言えますので、そういう全体としての世論を見渡した時に、果たして撤回する方が妥当だと考えている人が多数派であるかどうかというのは、ちょっと疑問に思わざるを得ません。
 そしてその場合、果たして政府が世論に逆らうような形になってしまう2つの談話の破棄という行為が出来るかどうかというのは、かなり疑問としか言いようがありません。
 まだまだ一般世論とネットの世論はかなりの差があるのではないでしょうか。
 
 例えば、憲法改正問題にしてみても、安倍さんが総理の時の世論の高まりがあった時でさえ、改正賛成と反対の割合はほぼ拮抗していました。
 僅かに改正派の方が多かったと記憶していますが、それでも4割以上の国民は改正に反対していました。
 憲法改正問題というと9条の問題が最も注目されるところでありますが、しかし9条の問題というのは、所詮と言ったらアレですが、自衛隊を軍隊にするかどうか、海外で自衛隊・日本軍が活動が出来るかどうかという程度の問題でしかありません。
 しかしその程度の問題であったとしても、国民の4割以上は改正に反対だったのです。
 そして村山談話や河野談話の撤回は、憲法改正どころの話ではありません。
 つまりは、過去の戦争は正義の戦争だった、もっとマイルドに言っても自衛戦争だったと主張するコトに他ならないワケです。
 誤解されないようにもう一回言っておきますが、事実がどうだというレベルの話ではなくてですね、世論がどう思っているかというのがこの場合問題でして、特に慰安婦だとか南京事件などは科学的歴史の問題ですから別の方法で解明される可能性もあるとしても、大東亜戦争のものの評価については人それぞれの部分が多分にあるワケで、世論というモノは相当に大きなファクターだと言えるワケです。
 冷静になって考えてみてください。
 日本の世論レベルで、先の戦争は正義の戦争だったと日本国民の総意としての政府総理大臣が堂々と主張できる環境がいまの日本に整っていると言えるでしょうか。
 さすがにやえにはちょっと思えません。
 しかしそれを曲げて安倍さんや麻生さんに、総理大臣として「正義の戦争だった」と言えと主張するコトは、ある意味日本の総理大臣に向かって「独裁者になれ」と言っているようなモノなのです。
 残念な話ではありますが、これが現実なのです。
 
 村山談話も河野談話も、世論のバックボーンがあってこそ成り得た談話です。
 もちろん両議員の政治的な思惑でそれをわざわざ談話という形として作ってしまったという部分に関しては、両議員の政治信条からくる政治活動の一環として、保守層から非難されるというのはあってしかるべきだとやえは思いますし、それが大きな足かせになってしまっているというのは事実だと思います。
 また、こういうのは作るコトよりも壊すコトの方が難しいというのも現実です。
 それは、前回お話ししましたように、政治の歴史的連続性という部分が大きいと言えるでしょう。
 そういう意味で、村山総理、そして河野官房長官が残した負の遺産は小さくないというのはその通りだと思います。
 ただし、この問題は単に別の政権が撤回すれば解決するという類の問題ではありません。
 この問題は、どちらかと言えば、政治ではなく思想の範疇の問題と言えるでしょう。
 世論の意識をどう変えるのかという思想の問題です。
 
 かなり抽象的な話ばかりになってしまって申し訳ありませんが、もともと政府談話というモノが抽象的なので、ある意味仕方ないので、ごめんなさい。
 できるだけ簡潔にどうしたら政府談話を変えるコトが出来るのかというコトを簡単に言いますと
 
 ・政府談話は法的根拠は存在しないので、鶴の一声で変えるコトは可能
 ・ただし、日本国内閣総理大臣は独裁者ではなく世論の総意である存在なので、総理の職に就いた人間の個人的意見だけで談話を残したり変えたりするコトは難しい
 ・そのようなコトを無理にすると、むしろ信頼を失い、またそれは政府や役所が混乱し、結果的に国民に大きなマイナスにしかならない
 ・政府談話は世論のひとつの形に表れた結果である事実を受け止め、よって世論を変えるコトによって談話は変えるコトが出来る
 
 というところでしょうか。
 
 ところで以下はやえの個人的感想ですが、政府談話を巡って、麻生さんや安倍さんの時に、村山談話や河野談話を継承するかどうかをいちいち聞き、その反応で一喜一憂する人がいますけど、ここで一喜一憂するコトそれ自体が間違いであるとやえは思います。
 麻生さんが安倍さんが継承すると言った瞬間に、手のひらを返したようにバッシングする自称保守の人がいますが、そうやって保守系の議員をバッシングしては、ますます保守系の国会議員が減ってしまうだけと言えるのではないでしょうか。
 そもそも総理就任直後に、曲がりなりにも正式な日本国総理大臣の言葉を変えようとするなんていうのは、様々なところでのコンセンサスを得るだけの時間など無いワケで、そう言う意味で物理的に不可能とも言えます。
 そしてなにより、思想の問題を政治だけに押しつけるのは、やえはそれは国民の怠惰だと思います。
 むしろ国民が後押しする形で「先の戦争の正当性をうったえても国民は支持するよ」と言えば、総理の鶴の一声で堂々と撤回を主張できるようになるでしょう。
 
 これは小泉さんの時の靖国神社参拝の時に散々言いましたが、あの時の小泉さんの参拝に関して保守の方からも「8月15日以外の参拝は無意味で、むしろ問題を後退させるだけにしかならず、そんな形ではやるべきではない」という意見が少なくありませんでしたけど、でもあの時ももっとしっかりと参拝そのものを国民が後押し出来ていれば、続く総理も気兼ねなく参拝できていたのではないでしょうか。
 政治は歴史であり連続性のある流れです。
 ひとりの総理に1から10まで全てを完璧に求めても無駄です。
 小泉さんは靖国参拝に、8月15日以外の日に参拝するという形で総理大臣の靖国参拝という道を切り開き、おまけに最後には8月15日に参拝するというおみやげまで置いて行かれました。
 これを次の続く後世の総理がどう受け止めるか、そしてこのメッセージを国民はどう受け止めるのか、むしろこの問題はこここそに一番の意味があったのではないかと思います。
 むしろ一代限りの方が意味がありません。
 結局次の世代に何を残せるのか、次の世代にどういう道筋を付けるのか、こういうコトを考えてこそ政治なのではないでしょうか。
 
 麻生さんという保守政治家が総理として実績と大きな国民の支持を得たという結果が残れば、そしてその保守系総理の流れが日本の政治で続けば、必ず日本はいい方向に向かうとやえは思います。
 それなのに、保守の方からもたったこれだけのコトで麻生さんや、安倍さんの時もそうでしたよね、そっぽを向いていては、結局何も替わりません、
 いえ、マイナスになるだけでしょう。
 こんなのは安倍さんの時に学んだと思っていたのですが、案外そうでない人が多いというのが、いま残念なところです。
 政治は連続性を見なければなりません。
 日本がサヨクの空気に覆われていたのは50年近くにもなるのですから、たった一代だけの総理でどうこうしようという方が無茶な話です。
 政府を変えるというコトは国を変えるというコトです。
 結局は、その主権者である国民がどういう意識を持つのか、それが一番大切なコトだと思います。 
 

平成21年1月21日

 国民の責任

 アメリカの新しい大統領に小浜さん……失礼、オバマさんが就任されました。
 アメリカ初の黒人大統領というコトもあり、新しい時代の変化の象徴として、世界中から注目されています。
 これからアメリカがどういう国になるのか、そして日本はこれからどう付き合わなければならないのか、注意して観察していかなければならないでしょう。
 ただ、最近どうも日本があまりにもオバマさんを持ち上げすぎな気がしてならないのが気になります。
 アメリカという国は、存在意義からしてNo1であるコトがアイディンティティな国ですから、オバマさんが大統領になったとしても、その結果に対する方向性は変わりません。
 ブッシュさんの時は強引にNo1を目指してしまったので、確かにNo1だったのかもしれませんが、そのかわりに孤独になったしまったというオチでした。
 これではアメリカにとってもプラスにはならないと最近のアメリカ人は考えているので、オバマさんは、この方法論を変えようとしているワケです。
 でも結果として「アメリカ イズ No1」は変わりないですから、日本としてはその辺はキチンと冷静に受け取って、そして日本にとって日本の国益になるような付き合い方を考えなければならないでしょう。
 オバマさんに大統領が替わったからというだけで好意的にアメリカにあこがれるようでは、いつまでたってもアメリカ追従の姿勢は打破できないと思います。
 まずは大統領の人間性ではなく、アメリカという国の性格をよく知る必要があるのではないでしょうか。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 ただやえは、そんなアメリカに対しても、この点だけはうらやましいなぁと思うところがあります。
 

 我々の経済はひどく弱体化している。それは一面では一握りの人々の貪欲さと無責任の結果だが、それはまた、困難な選択をして新しい世代のために国を準備するということに関する我々の総体的な失敗でもある。


 現在我々に必要なのは、新しい責任の時代だ。これは、全てのアメリカ人にいえることだが、認識すること―我々には果たすべき義務がある。我々自身に対して、我々の国に対して、この世界に対して。その義務とは、いやいや押し付けられるものではなく、我々の全てを困難な任務に捧げることほど、精神を満足させ、自我を確立させるものはないという知識をかみ締めむしろ喜んで引き受けるものである。

 オバマさんの昨日の就任演説の一部です。
 こちらに全訳を載せていらっしゃいますので、ちょっと大変ですけどぜひ全文読んでみてください。
 引用はもっともそれが表れている一部を取り上げましたが、全体を読んで感じたのは、アメリカというのは国民の責任というモノが分かっているんだなぁというコトです。
 もちろんアメリカの立国事情や歴史というモノが関係してくるワケではありますが、もし仮にこのようなコトを日本の総理大臣が演説で言ったらどうなるでしょうか。
 
 「バブル経済は一面では一握りの人々の貪欲さと無責任の結果だが、それにおぼれて備えをしなかった我々国民の失敗でもある」
 「今まで責任をというモノを国民は考えて来なかった。しかしこれからは責任というモノを考えなければならない。新しい責任の時代だ」
 「義務とはいやいや押し付けられるものではなく、困難であればあるほど自分を自立させられるという喜びを持って引き受けなければならない」
 
 いやー、おそらく、即座にクビがすっ飛ぶでしょうね。
 当サイトでは国民の責任というコトをよく言っていますが、しかし実際のところは日本では国民の責任を求めるコトが半ばタブー視されていますからね。
 というか、なんか責任を言われると条件反射的に猛反発する人が多いというか。
 
 やえが好きな言葉に、第35代アメリカ大統領のジョン・F・ケネディの演説の一節があります。
 
 わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。
 
 実際いまのアメリカ人が、どれぐらいの責任感を持っているのか、本当にひとり一人が自立して自らの責任の下に生活をしているのか、それは日本人のやえには分かりません。
 でも少なくとも、その国のトップが国民に責任を求めても、バッシングされるのではなくむしろ評価されるというのは事実のようです。
 こういうところは、やえは素直にうらやましいなぁと思います。
 

平成21年1月22日

 麻生メルマガレビュー

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  ■○■○■   麻生内閣メールマガジン第15号    ■○■○■ 
  □●□●□             2009/01/22    □●□●□ 
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 ★☆今週号では、舛添大臣が雇用対策について語ります。また、昨年ノー
   ベル物理学賞を受賞した益川敏英氏のメッセージをお届けします。☆★
 
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 ●麻生太郎の「強く明るく」
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 [使命と責任]
 「ハドソン川の奇跡」。先週米国で、旅客機がハドソン川に不時着した事故を、パターソン・ニューヨーク州知事は、このように表現しました。
 突然のエンジン停止に、機長のサレンバーガーさんは、出発した空港への帰還や、近隣の空港への着陸は、困難と判断。真冬の、凍てつくハドソン川への着水を決断しました。
 わずかな時間の中で、機長としての経験と自信に裏打ちされた瞬時の判断が、日本人2人を含む、乗客乗員155人「全員」の命を救いました。
 全員の避難を確認するまで、機内に最後まで残った、サレンバーガー機長。自分のなすべきことを最後まで貫いた、機長の使命感と責任感に、心から敬意を表したいと思います。
 
 こんにちは麻生さん。
 このニュース、やえ、なんかでチラッと見たか聞いたかしたんですよね。
 確かこの機長さん、パイロット歴30年以上の大ベテランで、しかも様々な航空安全の協会などの要職にいくつも就かれている、ある種重鎮のようなお方だったとか。
 乗客にとって機体が事故を起こしたコトはなんとも不幸としか言いようがありませんが、しかしその機体にこの機長さんが乗られていたコトは、人生で最大と言っていいほどの幸運だったのではないでしょうか。
 なんとも運命ですね。
 
 今週月曜日、平成21年度予算を閣議決定し、国会に提出しました。すでに実行中の「一次補正予算」、現在参議院で審議中の「二次補正予算」に続く、3段目のロケットであります。
 
 まぁでもその二次補正もまだ成立していないんですよね。
 早く実行しろしろ言ってた某党が今度は時間稼ぎ攻撃してますからね。
 
 全部合わせて総額75兆円の事業規模。主要先進国の中で、最初に不況から脱出する。この決意を込めた大胆な予算です。そして、それは、皆さんの暮らしの安心を守り、日本経済の活力を取り戻すための予算に他なりません。
 
 この前も言いましたど、どうも最近、経済対策は給付金しかないと思っている人が多いような気がしてなりません。
 しかし実際は、全体で75兆円もの規模の対策を講じようと麻生さんは動いています。
 給付金はその内の2兆円。
 こんなのは一部と表現するのが適切な規模でしょう。
 こればかりを論議するのは無駄以外何者でもありません。
 
 例えば、出産・子育ての負担を軽減するため、出産した際にもらえる「出産育児一時金」を、42万円に引き上げます。また、雇用情勢が厳しさを増す中で、非正規労働者も、失業給付が受けやすくなるよう、雇用保険の適用対象者を拡大します。雇用保険料も引き下げます。標準的な世帯で年間約2万円にあたります。
 
 確か出産一時金は現行では35万円ぐらいだったと記憶しています。
 それが42万円です。
 こちらのサイトによれば、出産に至るまでの診察料が総計だいたい20万円程度、また入院・分娩費用が高くて50万円程度というコトです。
 また、麻生さんはメルマガでは言及していませんが、二次補正の中には、この診察料が14回まで無料になるという対策があるようですから、これも施行されれば、出産に関する病院にかけるお金は、38万〜50万円程度というコトになり、場合によっては一時金で全て賄って余るというぐらいになります。
 
 また、雇用保険は、これはちょっと人によって様々ですので、一概にはなんとも言えませんが、手取りのお給料がちょっぴり高くなりそうです。
 ただこれは、おそらくですが、どっちかと言えば企業対策なんじゃないかと思います。
 雇用保険は企業も負担するコトになっていますから、年間2万円はひとりひとりで考えるとけっこう少ない額ですが、企業としてはかなり助かるのではないでしょうか。
 
 さらに、思い切った減税もやります。環境に優しい電気自動車やハイブリッド車の新車を買った場合、自動車重量税も自動車取得税も免除します。住宅ローン減税を過去最大の600万円にします。ローンでなく、自己資金で省エネ改修やバリアフリー改修をしても、減税します。
 
 やえは車にあまり詳しくないのですが、自動車重量税は1〜1.5トンの場合の普通自家用乗用車で3年で5万6千700円なんだそうで、また自動車取得税は購入金額の5%ですから、100万円の車でも5万円です。
 これはかなり大きいですね。
 それからこれは同時に環境対策の一環とも言えるのでしょう。
 
 住宅ローン減税については、さらにややこしいので、こちらに詳しいブログさんを発見したので見てみてください。
 家というのはむしろ不景気で土地が安くなった方が買いやすいですから、これもそれなりの効果を見込むコトができるのではないでしょうか。
 
 景気を回復させ、「安心して暮らせる日本」、「活力ある日本」を取り戻す。これが、私の使命であり、責任であります。その強い決意を持って、やりぬく覚悟であります。
 
 日本の底力を世界に見せつけてやりましょう。
 
 米国では、オバマ氏が、第44代大統領に就任しました。
 
 現下の最大の課題は、世界的な金融危機の克服。
 処方せんは、国民の潜在力(底力)の発揮。
 
 オバマ大統領が就任演説で語った、課題の認識も、処方せんも、私の考えと極めて共通しています。
 世界第1と第2の経済大国のリーダーとして、両国の繁栄、世界の発展に向けて、両国の持つ大きな力をあわせていけると確信を強めました。
 それが、日米両国の、国際社会における使命であり、責任であると考えています。
 
 国とは国民の集まりであり、国の力とは国民の力そのものです。
 結局、どのような国難であってもそれに立ち向かうには国民ひとり一人の努力がなければ力となりません。
 政府がやってくれるから、政府がやるのが義務だから、国民はそれにあぐらをかいて黙ってれば助けてくれるだろう。
 こんな態度は、民主主義国の国民として正しいあり方でしょうか。
 国民が自ら自覚を持って責任を果たしていきたいですね。
 
 ※ 景気対策3段ロケット〜総額75兆円事業規模の対策〜
http://www.kantei.go.jp/jp/asospeech/2008/12/081224kaikensiryou.pdf(注PDFファイル)
 
 
 厚生労働大臣の舛添要一です。
 [国民の皆さんの安心と希望のために]
厚生労働大臣の舛添要一です。
 厚生労働省は、医療や年金制度はもとより、高齢者や体の不自由な方々を含む全ての人々が、生きがいを持って働ける職場づくりや就職支援など、国民皆さんのあらゆるステージの生活に密着した対策を実施しています。
 
 もうすっかり厚生労働大臣として定着してしまった舛添さんです。
 こんにちは。
 もう在任何日になるでしょうか。
 
 昨年末から、仕事を失うと同時に住まいを失った方々が増えておりますので、緊急にハローワークの窓口を中心に住まいの提供や仕事の紹介を行うとともに、失業者を出さないように、雇用の維持に努める企業への助成を大幅に拡充する施策に取り組んでいます。このうち、すでに昨年末において、2万人を超える方々の雇用の維持に関する計画が提出されたほか、現在までに雇用促進住宅への入居の決定が2,500件を超えるなど、施策の活用が進んでいます。
 
 正直最近この問題が大騒ぎするまで、この雇用促進住宅という存在すら知りませんでした。
 国の仕組みもいろいろちゃんと出来てるモンなんですね。
 この前チラッと言いました、どこかの市で失業者があぶれで市役所に怒鳴り込んだという件も、おそらくこの住宅がすでにいっぱいだったからなんでしょう。
 ただ、やっぱりこういうのは地域性があるのでしょうか、こういう記事もあって、なかなか一概に言えない問題でもあるようです。
 
 また、内定を取り消され就職が決まっていない学生や年長フリーターの方々の雇用の確保を図るとともに、過去最大の規模となる4000億円の基金を都道府県に創設し、地域の創意工夫により雇用を生み出す事業を実施いたします。さらに、失業者が増えている非正規労働者の方々に対しては、雇用保険制度の充実をはじめとしたセーフティネット機能の強化を図るなど、緊急的な雇用対策に全力で取り組んでいるところです。
 
 しかしよく考えてもらいたいのは、政府という立場が出来るコトというのは、求人数を増やすコトぐらいなモノであるというコトです。
 例えば景気を良くして企業の雇用数を増やすとか、雇用を増やせば企業に補助金を出すとか、もしくは国や地方が直接公務員として雇うとかですね。
 政府が出来るのはここまでです。
 ここから先、個人が就職活動をして雇われるようになるかどうかは、他人ではどうしようもできません。
 ここから先は自分の問題です。
 例えば、極端な話ですが、野球選手になりたいという人がいたとして、しかしカープとかの球団に入るだけの実力がない人に対しても、とりあえず野球をやっていれば国がお金をあげるからね、とは絶対に出来ないワケです。
 この記事でもありますように、介護会社からJA、養豚業からタクシー会社からラーメン屋まで、さらには地方自治体の臨時職員まで募集をしているのに、応募がかなり少ないという一面もあるようで、こういう状況が全体的にも言えるようなら、もはや政府で出来るコトというのはほとんど無いとしか言いようがないのではないでしょうか。
 政府が出来るコトは全力でやってもらいたいですし、やるべきだと思いますが、それだけでは決して解決しないというコトも忘れてはならないでしょう。
 
 私は厚生労働行政の責任者として、国民の皆さんお一人お一人が安心し、希望を持って暮らすことができる社会の実現を目指してまいります。
 皆様からの更なるご支援、ご協力をお願い申し上げます。
 
 <s>髪の毛に負けず、</s>がんばってください。
 
 
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 ●編集長のひとこと
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 19日、平成21年度予算が国会に提出されました。二次補正予算は、現在参議院で審議が行われています。日本が世界の中で最初にこの不況から脱出するために、いずれもその早期成立が不可欠です。
 
 はい、不可欠です。
 早い成立を待ってます。
 
 麻生内閣は、国民の皆さんと直接対話を行うことが非常に大切だと考えています。「麻生内閣の国民対話 〜強く明るく これからの日本〜」の第1回が31日に宇都宮市で開催されます。今回は道州制について鳩山大臣が皆さんと語ります。参加者の募集は明日まで。ぜひお申し込みください。(松純)
 
 ああこれ、元タウンミーティングですね。
 正直、鳩山大臣がこんなところに出て大丈夫なのかと心配しちゃいますが(笑)、お近くの方は参加してみたらどうでしょうか。
 自分の意見を言う機会はあまりないかもしれませんが、政治家の生の声を聞くだけでも印象は全然違うモノですよ。
 それがまして総理大臣ならなおさらでしょう。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、ローゼン閣下を応援しています。
 

平成21年1月25日

 大規模だから注目されるだけ

 派遣切りの問題では、どうしても企業が悪いんだという論調が強くなりがちですが、ひとつ冷静に考えなければならないコトがあると思います。
 それは、「派遣という業種に就いている限りは、いつかは解雇されるコトになるのはほぼ明白で、もしかしたら突然解雇される可能性も否定できないというコトは派遣の人本人も理解していた」というコトです。
 なにやら一部では、企業が違法的にクビを切っているんだ、ぐらい言っている人もいますが、これは間違いです。
 最初から最後まで、法的なルールを企業が破って強引に解雇したのではありません。
 それは契約時に派遣の人の方も分かっていたコトで、もしそれを知らなかったと言うなら、それこそ社会人としては責められてしかるべき態度と言わざるを得ないでしょう。
 そもそも「派遣」という言葉は、「会社に束縛されない自由な存在=いつ解雇されるか分からない不安定な立場」という意味を内在していると、マスコミがかなり大々的に扱ったせいもあって派遣法が改正された当時からかなり社会的に認知されていたと思いますので、正社員と対比されていたりもしましたし、解雇される将来を予想していなかった人というのはほとんどいない、いてもそれは社会人として見通しが甘すぎたと言っても差し支えないでしょう。
 
 まずここで派遣という雇用形態を能動的に選択したという事実があります。
 厳しいコトを言うようですが、どうしても正社員じゃないとイヤだと言うのでしたら、安易に派遣を選ぶのではなく、頑張って正社員への道を模索すべきだったでしょう。
 もし派遣が正社員並みに一生涯を保障するモノだと思っていたら、それこそ見通しが甘すぎたとしか言いようがありません。
 そもそも今の時代、正社員でも一生涯の保障なんて言えませんし。
 つまり、派遣という道を選んだ人がいつか仕事が無くなるというのは、社会全体で見ても本人から見ても、簡単に予想できたコトです。
 ある意味既定事実と言ってもいいでしょう。
 それを前提に法律があって、企業は考えていて、被雇用者も受け入れたと言えるのですから。
 
 その上で考えるならば、国がその対策をするのは当然です。
 というか派遣である無しに関わらず、失業した人に手を差し伸べ、次の仕事の斡旋をし、もし衣食住すら困窮しているのであればそれなりの対応をするのも、国の責務の一つでしょう。
 これらは通常業務です。
 もしこれらすら出来ていないなら非難されてしかるべきですが、これ以上を求めるのも行きすぎと言わざるを得ません。
 
 本来この問題はこれだけの話のハズなのです。
 正社員だったとしても、派遣社員だったとしても、フリーターだったとしても、ネットカフェ難民だったとしても、ホームレスだったとしても、職を希望するならハローワークなどを通じて国は支援しています。
 そして最悪どうにもならなかったら、生活保護という制度で、最低限度の生活を国が保障しています。
 何か今回の派遣切りの問題で国の制度が悪いとか、公務員の対応が悪いとかいう話やら印象が出てきてしまっていますが、しかし国の対応にことさらなにかまずいようなコトがあったのか、不備があったのか、やえにはちょっとそこまでは思えません。
 
 今回のアメリカ金融危機に端を発した世界恐慌の煽りを受けて失業した人が、「今回の問題は天災のようなモノだから、天災のように対応してくれ」と言ってたのを聞いたコトありますが、この主張は無茶です。
 派遣ははじめから突然解雇されてしまう可能性を常に内在しているからです。
 その解雇が、会社の都合なのか、それとも本人の資質によるモノなのかは、ケースバイケースなのでなんとも言えませんが、どちらにしても派遣である以上は突然解雇されても、契約上は仕方ないコトです。 
 そしてそれは、派遣本人も分かっていたハズです。
 ぜんぜんこれは天災ではありません。
 
 派遣村とか年末とかいう事情のおかげで多くの人の目にとまり、多少の無茶も行政に聞き入れられましたが、それは結局たまたま数が多かっただけに過ぎないとしか言えないでしょう。
 派遣に限らず会社の事情で解雇になっている人はずっと前から今現在進行形で必ず何人かはいるワケで、そういう人たちも含めて政府というモノは公平に対処しなければならないのです。
 国は目立った人だけを救うモノではありません。
 もし失業した人が日本にたったひとりだったとしても、政府はその人を支援する義務があります。
 ただそれだけの話なのです。
 

平成21年1月26日

 相互努力

 やえは、失業した人はすべからく本人の責任だから、政府も誰も手を差し伸べる必要はない、助ける必要なんて全くない、なんて言ってませんよ。
 
 まず先に、議論板で頂いたご意見のいくつかにお答えしておこうと思います。
 法的にどうこうという問題ですが、これはもう前提条件として言うまでもなく、コンプライアンスは当然です。
 法的に問題があると判断し、その上で裁判をするコトは、全ての国民に許された権利ですから、それ自体を批判するコトは誰にも出来ないでしょう。
 またその結果、解雇が不当であると裁判所が判断すれば、当然企業は是正するべきです。
 ただ、こんなのは言うまでもないコトです。
 この前雇用問題に関する前提条件としていくつか書き出しましたが、コンプライアンスなんてわざわざ書く必要もないぐらい当たり前のコトだと思うのですが。
 それから、契約というのは人それぞれケースバイケースですから、全体的な話の中では当てはまらない場合というのはどうしても出てくるとは思います。
 その中で、法の問題は法の問題です。
 法の問題の上で疑うべき問題があるのでしたら、最終的には裁判所で争う必要を視野に入れて主張するのは当然の権利だと思います。
 しかし法に則って行った行為であるモノは、それは粛々と従う必要が、法治国家の国民としてはあるのではないでしょうか。
 少なくとも、法に問題がないのに企業が法を犯しているんだと言わんばかりの主張というのは、責任転嫁を越えて、言いがかりと言われても仕方ないと思います。
 法の問題と倫理の問題をごっちゃにしてはいけません。
 
 もうひとつ。
 労働基準法の適切な運用はされているのか、正社員と派遣社員の格差は社会的に妥当なのかどうか、というお話しですが、これは前提条件としてすでに語ってます
 雇用の問題は色々な面があると思うので、そして一回の更新でそれを全て書き出していてはキリがないので、一回の更新ではどうしてもある面をピックアップしなければまとめきれません。
 しかしその場面しか語っていなくても、こういう問題は常に考えおかなければならないというのは当然の話でして、今回はそれを敢えて前提条件として一回の更新にまとめておきました。
 まずそれをお読みになって下さい。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 さて、話を戻しまして。
 やえは自己責任をことさらに大げさに語って、個人個人の結果責任だけに全ての責任を押しつけるような、そしてだから誰も助ける必要なんて無いと言った覚えは全くありません。
 例えば昨日の更新にしてみても、政府が職を失ってしまった人に対しては、キチンとフォローはすべきだと思っていますし、実際それは行われているし、もしそれが適切に行われていなければすぐさま是正すべきだと書いてあるハズです。
 結果が伴わなかったのは全て個人の責任で、それはもう仕方ないから切り捨てるしかないなんて言ってませんし、そう取られるのは心外すぎて、よく読んでくださいとしか言いようがありません。
 
 そして、その上でよく考えてもらいたいのは、「目立ったモノ勝ち」という風潮は間違っている、むしろそれは国民自身の首を絞めるコトになりかねないコトですよ、と言いたいのです。
 
 派遣村は、ある意味において、その存在は成功したと言えるでしょう。
 国や地方公共団体やNPOや政治団体などから通常以上の支援を得られましたし、企業も直接担当者を派遣村に人を出して雇用の募集をしたという話もあったようです。
 これは、人がたくさん集まって、またマスコミが取り上げて、たくさんの人に注目された成果といえるでしょう。
 派遣村の人はこれでよかった、と言えば語弊がありますが、村と呼べるぐらいの人数が集まったコトは良かったと言えるでしょう。
 しかし、忘れてはいけないのが、派遣村に集まった人だけが日本に存在する失業者ではない、というコトです。
 派遣村の人はそれなりの待遇を勝ち得ましたが、日本にはここまで支援されている失業者ばかりではない現実があるハズなのです。
 これを忘れてると、つまりは同じ失業者の中でも格差が存在しているコト、それを黙認してしまっているコトに他ならないのではないでしょうか。
 派遣村の人達は可哀想だ可哀想だと言うだけでは、実はその行為は他の失業者を見捨ててしまっているコトになってしまっているのではないかと思うのです。
 
 派遣村に集まった人だけを救えば、日本に存在する雇用の問題が全て解決するワケでは全くありません。
 それを考えれば、やえは派遣村だけを特別視するような論調やマスコミの報道の仕方は納得できないのです。
 これは雇用の問題だけでなく様々な問題でも言えるコトで、やえも過去に同じような構図の問題に言及してすが、マスコミに取り上げられて目立てば優遇されるという風潮というのは、これはむしろ平等から遠ざかる、格差を生む構図なのではないかと思います。
 目立たない人、目立つことすらできないような、もっと手を差し伸べなければならない人が、目立つ人の存在によって、ますます支援の手から遠ざかってしまう可能性があります。
 派遣村の人だけでない失業者の人のコトを思えばこそ、政府という公平な存在は目立つところばかりに目を向けるのではなく、全ての国民に公平に支援をしなければならないと、そうやえは思うのです。
 そう書きました。
 派遣村を絶対視するような報道や視点というのは、もっと支援しなければならない人がいるのではないかという視点を失わせ、むしろさらなる格差を生み出している元凶にすらなってしまっているのではないでしょうか。
 
 やえはいつも言っています。
 政府の対策、もしくは役人の対応が悪ければ、それは非難されてしかるべきです。
 だからこそ政府の対策は、しっかりと中身を見て、それについて議論をしなければなりません。
 だからやえは、自民党の政策ビラ(注PDFファイル)を紹介したり、麻生さんのメルマガでいろいろと経済政策を紹介したりしています
 そして、もしこれらが足りないというのであれば、それを正面から議論すべきだと、常日頃言い続けています。
 
 でも多くの国民がしているコトはなんでしょうか。
 経済政策への議論ではなく、麻生さん個人が給付金を受け取るかどうかのコトが、一番大きな関心になってしまっていました。
 
 
 (つづく)
 

平成21年1月27日

 相互努力 (下)

 でも多くの国民がしているコトはなんでしょうか。
 経済政策への議論ではなく、麻生さん個人が給付金を受け取るかどうかのコトが、一番大きな関心になってしまっていました。
 また国会では、その話を仕掛けたのが民主党は、他にも漢字読み取りクイズなんてやって喜んでいる始末
 まぁこんなコトが国民の支持を得られているとはちょっと思えませんけど、しかし次の選挙の結果がどうなるか……ともかく、多くの人は「派遣の人をなんとかしろなんとかしろ」と言いつつも、そのための具体的な政策にはほとんど関心がないというのが現実のところと言わざるを得ないでしょう。
 なんとかしろと言うだけでは問題は解決しません。
 まして総理が給付金を受け取る受け取らないなんて些末な問題が明らかになったとしたとしても、一切雇用問題には影響は出ないでしょう。
 注目すべきは、派遣村とか総理の受け取るかどうかとかいうような、中身の無い、興味本位で注目しているだけではないかと言わざるを得ないような部分ではないと、やえは思います。
 
 政府が努力しなければならない、それは当然です。
 現場においてはハローワークなどを通じて、ひとりひとりの雇用の斡旋等フォローしなければなりませんし、大局においては、個人の力では到底及ばない景気問題などについて対策を打っていかなければなりません。
 政府は努力すべきです。
 
 そして、それと同じように、個人も努力をしなければなりません。
 
 派遣を一方的に解除され失業者になってしまった人は可哀想な人なんだから、黙って待ってればお上が職を自動的に与えてくれる。
 こんな態度は、やえはとてもじゃないですけど許容できません。
 就職氷河期等いろいろと不運な出来事があった人もあるでしょうけど、だからといって他人の力の上にあぐらをかいていいとはならないハズです。
 高度経済成長期やバブル期は確かに就職は今より遙かに楽だったでしょう。
 しかしだからといって、そんな時期と比べて、それと同程度の努力でなんとかなるようにしろ、と言ってしまうのは無茶にも程があります。
 人間の人生においては、どうしても運というモノは存在してしまい、それは残念ながら人によって差が出てきてしまうモノで、結局ある種これも才能と言える部分に含まれてしまうワケですから、運がいい悪いを他人と比べて悪いから埋め合わせしろと言っても、そんなの詮無いとしか言いようがありません。
 運が悪い人もいて、それは時期によってもある、これは事実ですから、就職氷河期とか運悪く当たってしまった人は考慮してほしいというのは分かります。
 分かりますが、しかしそれは努力しなくていいという免罪符では決してありません。
 
 企業に倫理を求めるのは、それは間違ったコトではありません。
 特に日本の風土に合った企業の倫理は、日本が日本としてこれからもあり続けるために必要でしょう。
 しかしこれは、企業だけに求められるモノではないと思います。
 企業に倫理が求められるのと同じぐらい、労働者にも倫理は求められるべきなのではないでしょうか。
 
 雇用の問題は個人ひとり一人の問題ですから、全ての場合のおいてケースバイケースであり、例外というモノはいっぱいあります。
 ただ、その中において、本当に努力をしているのか、他人のせいにしてしまっているのではないか、政治運動が主になってしまっているのではないか、そう言わざるを得ないような人もいるというのは事実だと思います。
 それはそれで指摘する必要があると、やえは思っています。
 特にこういうのはテレビや新聞などの大メディアはほとんど扱いませんしね。
 そしてなにより、もしこういう労働者の倫理が抜け落ちている人が目立ってしまって、結果的にそういう人たちばかりが優遇されるような事態になってしまうと、それは本当に困っている人が困ったまま救われない状態になってしまうコトを許してしまうコトになりかねません。
 目立っている人だけが困っているのではない、という事実から目をそらしてはなりません。
 例えば、派遣村にいた人の中には、元派遣ではなくはじめからあまり働く気のないホームレスがたくさんまぎれていて、ただの食料目当てだったという話がちらほら聞かれますように、これがもし本当であれば、一番損をするのは派遣村にすら行けないメディアにも取り上げられない先日急に解雇されてしまった失業者のハズです。
 「目立った者勝ち」というのは、最も良くない不平等の形だとやえは思っています。
 
 政府も努力する。
 企業も努力する。
 そして個人も努力する。
 本来社会とはこういう相互努力によって成り立っているモノです。
 政府だけが努力すればいい、企業がもっと頑張れば良くなる、これだけでは片手落ちです。
 この大不況の前において、政府が努力するのも当然ですし、企業にはもっと頑張ってもらわなければなりませんが、個人も今まで以上に努力をしなければならないのではないでしょうか。
 そうしてこそ、日本はこれからも力強く前進していけるんだと思います。
 そして、もし政府にしても企業にしても個人にしても、そういう努力が足りないのであれば、どんな立場であっても非難されてしかるべきです。
 でなければ、声が大きい人だけが(時に不当に)得をして、本当に困っている人が困ったままになってしまうのではないでしょうか。
 

平成21年1月28日

 「二次補正案早く出せ」→「でも審議は拒否する」→「年度内には給付は難しい状況」→「民主党政権でこういう日本になるというものも提示したい」

 昨日から今日にかけて色々とニュースになっているのでご存じの方もいると思いますが、やっとこさ、二次補正予算案が成立しました。
 まだ関連法案が通っていませんので、具体的に執行はすぐには出来ませんが、とりあえず見通しが立ったというところでしょうか。
 
 ところで、この補正予算案が通るまで、国会ではとんでもなくゴタゴタしました。
 ねじれ国会ですから衆議院では政府与党案、参議院では野党案が可決されたワケですが、このような場合というのは、憲法の規定によって両院協議会が開かれるコトになります。
 両院協議会とは、まぁ簡単に言うと、衆参の議院の代表者が集まって、違う結論が出ましたけどどうしましょうかというコトを話し合う会議です。
 ただ、お互いに歩み寄りすればまた別ですが、そうでない場合は一方が完全に妥協するというのはあり得ない、妥協してしまうと自分たちの院の存在意義が失われてしまいますから、お互いが妥協し合わなければ合意などあり得ないというのが、そもそもの両院協議会というモノの性格とも言えます。
 その中で特に予算というモノについては、衆議院に優越があると憲法に記載されているので、平衡性になればもう両院協議会で議論するコトは時間の無駄で規定通りに粛々と進めるのが筋というモノでしょう。
 憲法に定められている以上は、それが正論と言えるワケです。
 
 しかし、さすがは民主党、ついに両院協議会でもゴネはじめました。
 詳しい経緯の中身は説明し出すと大変なので省略しますが、しかしなんなんでしょうかね、民主党は年末あれだけ「二次補正を早く提出しろ。年内に提出しろ。それが国民のためだ」とか言ってたクセに、いざ出すとこれです。
 

 両院協 新たな「牛歩戦術」? 政策調整機能が未確立
 
 08年度第2次補正予算案の定額給付金部分を削除した民主党などの修正案可決を受けた26日の両院協議会は、手続き論で紛糾し、開会が大幅に遅れた揚げ句に27日に持ち越しとなった。詳細な議事進行ルールがない点に着目した民主党が「成案を得る」との大義名分を盾に実行した、新手の「牛歩戦術」といえる。

 もうはじめから、中身の議論ではなく、戦術論で民主党は結論を得ようとしてしまっています。
 日本の国会は二院制を取っていますので、この精神を尊重するなら、確かにキチンと話し合って、お互いが妥協し合って、折衷案を模索するというのが一番いい方法で、本道と言えるとは思います。
 ですから、民主党も、そして政府・自民党も、両院協議会で出来るだけ中身についての議論をしてもらい、妥協しあってよりよい予算の中身にしてもらいたいとは思います。
 しかし今回の騒動は、民主党の動きというのは、はじめから運営論ありき、つまり政争ありきの動きでしか無かったと言わざるを得ません。
 この記事をご覧下さい。

 <両院協>引き延ばし、民主内にしこり残す
 
 両院協を舞台に引き延ばしを思いついたのは菅直人代表代行だ。しかし、実行には参院側の協力が不可欠。菅氏の意を受けた石井一副代表が25日夜、東京都内のホテルに輿石東参院議員会長、西岡武夫参院議運委員長と集まり、委員の顔ぶれなどを相談した。

 引き延ばしを「思いついた」とは何事でしょうか。
 もうハナから予算の中身なんて二の次三の次、ただ政府案が通るまでの時間を引き延ばすコト、政局が混乱するコトしか考えてなかったとしか言いようがありません。
 しかもその後、旗色が悪くなったと見るや

 26日夜の幹部会では、仕掛け人の菅氏自ら「もうそろそろいいんじゃないですか」と打ち切りを提案。「あなたが火を付けたんじゃないか」と反発した輿石氏が「政府4演説を強行してきたら本会議に出席するのか」とただすと、鳩山由紀夫幹事長は「衆院は出たいという人が多いですよ」とあっさり。衆参のちぐはぐぶりが際立つ場面だった。

 と、方針一転。
 民主党の中ですらコンセンサスが取れていない、ちぐはぐなドタバタ劇で一番迷惑を被るのは国民だと思うのですが、菅直人議員はそんなコト、思いもしないんでしょうね。
 逆に、菅直人議員以外の民主党で「本会議に出たい」と言っているとされる衆議院の議員さん達は、自分達の案が否決されるのを分かった上での発言でもありますし、この態度は評価できるとは思います。
 これはいかに今の民主党が、党内の意志決定ルールが定まってないのか、上の人間だけで右往左往されてしまう政党なのかの表れなのでしょう。
 一部の真面目な議員さんが可哀想です。
 
 そして極めつけはこれです。

 国会内で記者団に「消費税の問題、定額給付金も終わっていない。民主党政権でこういう日本になるというものも提示したい」と強調した。

 民主党政権下では、こういう日本になるようです。
 つまり、政策ではなく政局で動く政治です。
 やえは、そんな日本はごめんですね。
 

平成21年1月29日

 麻生メルマガレビュー

 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
  ■○■○■   麻生内閣メールマガジン第16号    ■○■○■ 
  □●□●□             2009/01/29    □●□●□ 
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 ☆今週号では、塩谷大臣が教育について語ります。また、人工衛星「まいど
  1号」の開発に携わった棚橋秀行氏からメッセージをいただきました。☆
 
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 ●麻生太郎の「強く明るく」
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 [春に花を]
 昨年11月、1通のお手紙をいただきました。差出人は、宮城県加美町の20歳の女性の方。「来年成人式を迎えるにあたり、新成人へのメッセージがいただきたい」という内容でした。
 この女性の行動力に驚くとともに、こうした依頼を受けたことがうれしくもあり、メッセージを送らせていただきました。
 
 こんにちは、麻生さん。
 連日国会の方は大変そうですね。
 
 「加美町の美しい水芭蕉は、冬を耐え、春に可憐な花を咲かせる。新成人の皆さんも、人生大きな壁に突き当たることもあるでしょうが、花開く春が必ず待ち受けている。この国の未来を創るのは皆さん方自身、日本がどうなるかではなく、日本をどうするか。皆さんの意思とやる気にかかっている。」
 そんな内容でした。
 
 成人式に一国の総理が直接メッセージを送られたとは、なかなか記念な成人式になったんじゃないでしょうか。
 そして「日本がどうなるかではなく、日本をどうするか。皆さんの意思とやる気にかかっている。」って、いい言葉ですね。
 国家が何をしてくれるかではなく、国家に何ができるか、です。
 
 過日、この女性から成人式でメッセージを読んでいただいたというお手紙をいただきました。その手紙の中には、「日本を背負って立つという決意新たに成人を迎えることが出来た」という言葉がありました。
 私が最も伝えたかったことが伝わったことに、深く感動しましたし、丁寧なお礼のお手紙をいただいたことも、うれしく思いました。自らの思いが誤りなく伝わるということは、非常に大切なこと。このメールマガジンも、私の思いを直接、皆さんにお伝えする重要な手段です。
 
 返事までちゃんと送るとは、常識ではありますが、丁寧な方ですね。
 それにしても、「自らの思いが誤りなく伝わるということは、非常に大切なこと」というのは、いろいろと実感がこもってそうです。
 いろいろと(笑)
 結局、こうやって直接の言葉を聞くコト、そして前後の文章もよくよく確認するコトが、なにより「偽り無く伝わる」一番の方法ではないでしょうか。
 揚げ足取りほどバカバカしいモノはありません。
 
 国会では、第二次補正予算が成立しました。私は一刻も早く景気対策を実行に移したい。国民の皆さんの生活を少しでも豊かにしたい。妊婦検診の実質無料化や出産一時金の42万円への引き上げ、高速料金の引き下げなど、生活対策のメニューを、数多く準備させていただいています。
 
 はい。
 色々な妨害がありますが、決して景気対策は給付金だけではなく、様々な観点からの対策が総合的に実行されてこその景気対策ですから、一刻も早くこれらの対策を実行していただきたいと思います。
 例えば高速道路の休日祝日は一律1000円、平日でも最大3割引の対策というのは、単に車で長距離する人が増える、レジャーに行く人が増えるというだけでなく、トラックなどの運輸への対策、またバス旅行会社への追い風にもなり、様々な効果が期待できるワケです。
 ひとつの政策だけでも様々な観点があり、また経済対策もたくさんあるワケで、これらがさらに複合的な効果を生み出すという可能性も考えられるのではないでしょうか。
 そういうところこそシッカリと見ていきたいですね。
 
 定額給付金も、早く皆さんにお配りしたいと強く思っています。しかし、補正予算を実行するための関連法案を、野党が採決しなければ、早く配りたくても配ることが出来ません。
 その関連法案は、未だ参議院で審議すらされていません。野党の「引き延ばし戦術」という大きな壁にあたっています。引き延ばしの理由すら、私には分かりません。
 
 おっと、ここまで直接的に批判するのは珍しいですね。
 昨日も紹介しました民主党の意味不明引き延ばし戦術ですが、しかしこれ、実はなんのために騒ぎにしたのかやえにはよく分かりません。
 というのも、こういう時間稼ぎっていうのは、普通なら国会会期末にやるのなら意味があります。
 国会には期間が定められており、その期間を過ぎれば、審議中の法案等は全て廃案になってしまうからです。
 ですから、民主党としては気に入らない法案があれば会期末に時間稼ぎして、期日までに可決させなければ、それでその法案を潰すコトが出来ます。
 もちろんこれは、法案の中身の議論ではなく、ルールを悪用しての法案つぶしですから、あまり褒められた戦術ではないのですが、しかし実績を作るという一点においては意味が無いとは言えません。
 しかし昨日の件は、そんな実績すら全くあげられません。
 強いて言えば、マスコミが取り上げるコトで国民にアピールできるという意味はあるのかもしれませんが、まぁこの程度で国民が支持するのかどうか、支持してしまう人もいるっぽいですけど、あまりにもお粗末としか言いようがないでしょう。
 一体民主党は何がしたかったのでしょうか。
 
 私は決してあきらめません。景気対策を着実に実行することは、日本に春をもたらすことです。その訪れとともに、豊かさという「花」を咲かせるため、どのような状況にも耐え抜き、全力をあげてまいります。
 
 ※ 総理の新成人にあてたメッセージ(手紙)
 http://www.mmz.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2009/0129c.html
 
 二次補正の関連法案が終われば、次に待っているのは来年度本予算です。
 まだまだ長い道のりですが、どうか頑張ってください。
 
 
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 ●編集長のひとこと
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 昨日、総理は国会で施政方針演説を行いました。演説には、国民の皆さんに、自分の考える政治と政策をわかりやすく伝えたい、という総理の強い思いがこめられていました。「活力ある社会創り」「暮らしの安心」「世界の平和と安定に向けた貢献」という3つの課題に内閣一丸となって取り組みます。
 
 世界の平和と安定に向けた貢献で思い出したのですが、麻生さんが総理になる前に提唱していた「自由と繁栄の弧」はどうなったのでしょうか。
 これ実際に行動に移したら、中国あたりはガクブルどころでは済まないんですよね。
 また自由や正義という建前には滅法弱いアメリカも、日本がこの建前を本気で実行しようとしたら協力せざるを得ないワケで、日本としてはかなりメリットの多い構想だと言えます。
 最近の麻生さんは国内問題や、問題とも言えないくだらないコトばかりで注目されていますが、こういう本気な構想がいまどうなっているのか、国民としては知っておきたい気がします。
 案外最近中国もおとなしい感じですから、ボディブローのようにじわじわ効いているのかもしれませんが。
 
 23日、人工衛星「まいど1号」がH−IIAロケット15号機で打上げに成功。その開発に携わった東大阪宇宙開発協同組合の棚橋秀行さん。地域の力を結集して異業種交流や産学官連携を行い、人工衛星に挑戦した皆さんの努力には本当に頭が下がります。他の地域、分野における『まいど1号』誕生を大いに期待したいと思います。(松純)
 
 まいどって(笑)
 しかし国産ロケットももう15号も打ち上げたんですね。
 これからも、こういう最先端科学技術は日本の独壇場だという自負と自信を取り戻し、経済効果だけでなく、日本人としての誇りになるようがんばってもらいたいです。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、ローゼン閣下を応援しています。