改めて貧困について考えてみます。
まず金曜載せました文章ですが、これ基本的な部分で資料の読み違いをしていました。
端的に言いますと、貧困としているラインの年収の額が、ウィキペディアや一部報道では224万円となっているのですが、これ実は全然違っているようなのです。
実際のラインは、こちらに厚生労働省が資料を出してしますのでご覧いただければと思いますが、金曜の文章は、大部分がこの間違った認識を元にして、この人は貧困者なのかというコトを書いてしまいましたモノで、特に前半はまるで意味をなさない文章になってしまいました。
ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません。
とりあえず貧困と分類される人の手取りは224万円よりもっと低いラインにあるというところを理解していただければ、それで結構かと思います。
ちなみに、相対的貧困率で定義する貧困のラインは
世帯の可処分所得(錘闔謔閨jを世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合
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だそうです。
で今日は、その上で、金曜の更新の後半部分の、「ではこの現実を前にした時どう考えるべきか」という部分を、事実誤認を訂正して、もう一度載せておきたいと思います。
右も左も逝ってよし!!
バーチャルネット思想アイドルのやえです。
おはろーございます。
やえは別に社会弱者救済政策をするなと言っているワケではありません。
それは政府の大切な仕事であり、積極的に行っていく必要があると思っています。
しかし行うなら、キチンとその人達に恩恵が受けられるような制度にしなければなりませんし、同時にそうでない人たちにまで恩恵を与えてしまうようなムダを作ってはならないハズです。
例えば日本の制度の中には「生活保護」という制度があります。
これは、本来何らかの事情で働けない人たちに対し、最低限度の生活を国家が保障するためにある制度です。
この制度なかなか複雑なので一概には言えないのですが、例えばウィキペディアにあります例には
単身世帯 31歳
第1類 40,270円(20-40歳)
第2類 43,430円(単身世帯)
住宅扶助 (最大)53,700円
合計 137,400円(月額)
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とありますように、おそらく現実問題、働かないという条件で考えた上でこれで生活していけるかどうかを考えれば、十分に生活はしていける支給を得られる制度になっていると言えるでしょう。
もちろん子どもがいる場合などはもっと給付額が増える仕組みになっています。
そして本来的な意味で言えば、この支給を元にして生活基盤を作り、その上で仕事を見つけて普通の生活を送って下さいと言うべきところです。
生活保護だけで暮らしていくというのは、本来的な意味からは外れていると言えるハズですからね。
ですから、役所の窓口でこの制度を受けるためのハードルが高いというのも、ある意味当たり前の話であり、もし働きたくないからという理由だけで生活保護を受けるというのは、それはただの甘えでしかないでしょう。
そういう人には給付しないよう気をつけ、そして必要な人にはシッカリと給付をして、次のステップに行ってもらうというのが、生活保護の本来の姿です。
このように、現実の運営に問題が全くないとは言いませんが、その人が望めば、制度的には「貧困」と呼べる生活を強いられるコトは日本ではないと言えるのです。
これはけっこう前にも言いましたが、この問題はある意味イメージの問題とも言えます。
というのも、日本語で表現するところの「貧困」という言葉は、かなり強烈な印象が残る言葉です。
明日にもお米一粒もなくなるような、もうガリガリで生きているのに何の楽しみもひとつもなくて、生きる希望すらなくなってしまうかのような、それほど強いインパクトのある言葉です。
辞書を引いてもですね
ひんこん 0 【貧困】(名・形動)[文]ナリ
(1)まずしくて生活に困っている・こと(さま)。
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とあり、さらにウィキペディアですと
貧困(ひんこん)は、主に経済的な理由によって生活が苦しくなり、必要最低限の暮らしもおぼつかない様子をいう。
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と、かなりしんどい状態の様に表現しています。
しかし、日本国憲法で定めるところの「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に則って制度が作られている生活保護を受ければ、その額を見てもそれなりの生活ができそうだと言うのが妥当であり、それを本当にギリギリの「最低限度」と表現できるのか、まして「貧困」と呼べるのかは、かなり疑問が残るところでしょう。
果たしていま本当に貧困している日本人というのはどういう人なのでしょうか。
少なくとも生活保護を受ければ、まともな生活を送れば、貧困とは呼べる状態にはならないと思います。
もちろん人それぞれ事情があるでしょう。
例えば病気をしているとかです。
そういう人たちに無理に働け、働かない方が悪いんだと言うのは無茶な話ですが、ですからその場合は、その場合でキチンと別の形で国が手助けをすればいいのです。
やえはそれまでを否定するつもりはありません。
そしてそれが足りなければ、法律を作るなりして整備していかなければならないコトでしょう。
大切なのはここです。
もし病気とか様々な特殊な事情で生活保護だけでは生きていけないような人がいるなら、それを手当てする制度を作らなければなりませんし、そのためにこそ、こういう人たちがどれだけ存在しているのかを統計としてとらなければならないハズです。
またこういう人に対しても窓口のハードルが高いのであれば、それは改めなければなりません。
大切なのはそういう「現状に即した統計」です。
政治を動かすのであれば、どれだけ現状を正しく把握しているのかが大切なのです。
そして、冷静な状況判断も、主権者たる国民は求められるのではないでしょうか。
このような記事もあります。
「受ける側に何が必要かを考えてほしい」
「とにかくうれしいです」。金沢市の佐藤洋子さん(45)=仮名=は、年内の母子加算復活が決まり、安心した表情を見せた。
毎月、生活保護費など約二十四万円で暮らす。育ち盛りの小中学生の娘三人との四人家族で、五万円弱の食費は増える一方だ。支給日前の夕食は、具がモヤシだけのお好み焼きやふりかけご飯でしのぐこともある。「ごめん、もうお金ないから」「いいよ」。素直に納得してくれる娘たちには感謝している。
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金沢市にお住まいのこの方ですが、四人家族で生活保護費などを合わせて月24万円で生活しており、また生活保護を受けると国民保険や医療費なども免除になりますから、総額で言えば普通の人に比べてもっと多い計算になるのでしょう。
こちらにこの家族の項目別の生活費が載ってますが、果たしてこういう人を「貧困」と呼べるでしょうか。
生活が楽かどうかは別にしても、インパクトの強い「貧困」という文字で表現するほどの生活ではないと、やえは思います。
そして、生活保護を受ければ、ここまでの生活はできるワケです。
果たして、「貧困」と本当に呼べる人がどれだけいるのか、そしてもし本当に生活保護以下の生活を強いられている人がいるなら、なぜその人達はそういう生活をせざるを得なくなっているのか、ここを考えなければなりません。
他にも日本には生活保護意外にも様々な制度が用意されています。
現場の運用も合わせて、その制度を必要としている人がどれぐらいいるのか、活用している人がどれだけいて、現状で足りている人はどれぐらいいて、足りていない人はどれだけいるのか、そしてその足りていないと感じる要因は何で、どれぐらい足りない人が各段階において何人いるのか、政治を行うにあたってはこういう数字を本来は出すべきでしょう。
単にイメージが先行する、大雑把すぎる貧困なんて言葉を持ち出しても、実際の政治にはなんの意味もなしません。
貧困と一言で済ませてしまうと、そこで原因の追及がストップしてしまいがちになります。
中身をすっ飛ばして、ただ単に「かわいそうな人がいっぱいいる」だけしか見えてきません。
しかしそんな大雑把な感想だけで政治を動かすコトは出来ないハズです。
ただ単にインパクトのある「貧困」というモノを表すのではなく、もっと事細かに、なぜ生活が苦しい状況に追いやられているのか、その原因は自分にあるのか別の要因なのか何なのか、もし自分の力だけではどうしようも無いのであればどれだけ公的な支援が必要なのか、そこをキチッとケースごとに考えなければいけないでしょう。
ざっくばらんに貧困の数を出して、ここにお金をこれだけ出せばいいなんてバラマキする、なんというのは本来の政治ではありません。
最初にも言いましたように、弱者救済政策というのは国家にとってもっとも大切な仕事の1つですから、そこを実際に機能する形として制度設計するためにも、現実に即したデータ元にし、そしてそれを冷静に分析し考えていかなければならないハズなのです。
繰り返しますが、やえは弱者救済政策をするなと言っているワケではありません。
本当に必要であれば、多額の税金を投入するのも致し方ありません。
しかしシッカリと考えなければならないコトは、本当に必要な人だけに必要な額だけを支給するようになっているのかどうかです。
イメージだけが先行してしまうコトによって、本来なら必要のない人にまで支援をしてしまうというのはムダとしか呼びようがありませんし、さらにそれは、真面目にこつこつと生活している人に対して不平等を生み出しているコトになります。
国家が自らの手で不平等を生み出すコトは、あってはならないコトです。
そしてさらに、こうしたイメージ先行の“水増しされた”データを、政争の具にしてしまうのは、あまりにも政治をゆがめる結果にしかなりません。
可哀想とか感情で政治をするのではなく、イメージだけに囚われるコトもなく、キチンと現実を見た正しい政治が行われるよう、国民も冷静に政治もデータも見ていかなければならないでしょう。
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