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平成21年10月19日

 公共工事やダムについての地元に対する考え方

 今日はこちらの書き込みをもとに、公共工事やダムについての地元に対する考え方というモノを考えてみたいと思います。

 307 名前:雲居雁乃:09/10/14 15:08 ID:vYxW8BYnLE
 はじめまして。いつもやえ14歳さんのサイトを興味深く拝見させていただいております。
 
 私は基本的に自民党支持者です。亡父は党員でした。
 ですが、10月13日のダムのエントリーに関しては少し疑問を抱きました。
 
 確かに、その土地に必要なものというのはあると思います。
 しかし、それが本当に必要かどうかはその土地の人だけが決めることではありません。
 受益者負担で作るのであれば何の問題もありませんが、そうでないなら「これはこの地域に絶対必要である!」というアピールを外部に向けてやらなければならないと思います。
 なんだかんだでお金がかかり、そのお金は国民全体の税金なのですから、公共事業の是非の主体はその地方ではなく国民全体にあるべきだと思います。
 それは確かに、ダムは無いよりあったほうがいいでしょう。自分達がお金を出すわけではありませんし、得しかしない話です。
 でも少なくとも、報道を見る限り八ッ場ダムをはじめとする大型公共事業で、私が「これは必要だ!」と思えるものはありませんでした。
 
 勿論、それには大前提として公平性が保障されなければなりません。
 誰かさんの地元「ナントカ王国」岩手県の公共事業だけは、特に精査もされずそのまま続行となるようなことがあるのは言語道断です。
 
 ですが、このような政治力で公共事業が決定するやり方と、やえさんが仰るような地元重視の考えは、結果的に同じではないでしょうか?
 それぞれの地方が主張したいだけ主張して、限られた税金のパイの中からどれだけ多く公共事業を獲ってくるかという従来のパワーゲーム。
 これがいいとは私はとても思えません。
 
 やえさんが思う、公共事業の理想のあり方とは何でしょうか。是非お教えください。

 書き込みありがとーございまーす。
 さて。
 まず「それが本当に必要かどうかはその土地の人だけが決めることではありません」について考えてみます。
 
 今回の八ッ場ダムについては、主に民主党のせいで、望む望まないに関わらず全国的に注目されるコトになりました。
 いまダムの問題と言えば八ッ場ダムで、八ッ場ダムの問題と言えば民主党の公約の問題と、公共工事に関わらずいまもっとも政治の問題で注目されている問題と言えるでしょう。
 しかしですね、だからこそと言えるのかもしれません、全国の多くの人が八ッ場ダムを知るコトが出来たワケです。
 もし民主党が八ッ場ダムを大きく取り扱っていなければ、おそらくほとんどの国民は八ッ場ダムの存在すら知らずに終わっていたコトでしょう。
 そして、同じように民主党につるし上げられているダムが全国に48カ所あるワケですが、その一つ一つを果たして国民は全て把握し知っていると言えるでしょうか。
 実際のところ残念ながらそうではないでしょう。
 やえだって、凍結されているダムの名前をいますぐ全て言えと言われたら、ムリです。
 もし民主党が八ッ場ダムを大きく取り扱っていなければ、国民は八ッ場ダムについて、それが必要かどうか本当に適切に判断できる状態になっていたのかどうか、今の状態でも疑問ですが、ますます疑問としか言いようがありませんし、八ッ場ダム以外の名前も分からないダムについても、「その土地以外の人」は果たして何を基準にどう考えてそれが必要かどうかを判断するというのでしょうか。
 
 だからこそ、やえはいつも公共工事のお話をするとき、よく生まれ故郷である広島のお話を出すのです。
 例えば、広島から島根までちょっと前まで高速道路がつながっていなかった件や、この前言いました広島市内においても未だに水はけが悪く一台しか通れなさそうな狭さのしかも携帯電話の電波すら入らないような道が存在している件について、いったい全国でどれぐらいの人がこの現状を知っているでしょうか。
 そしてもしこの現状が広く国民に知れ渡る前に、もし国税によって改善されたら、それは「悪いコト」なのでしょうか。
 また、やえはこういう道路は改善してもらいたいと思っていますが、他の地域の人が「必要ない」と思ってしまえば、この現状はいつまでも放置され続けてしまう、それが適切な判断と言えてしまうのでしょうか。
 そんなのやえからすれば、実際にその現場を知らない、まして使うワケでもない人が何を勝手なコトを言っているんだろうと思うコトでしょう。
 
 またこれも言いましたが、大都会に住んでいる人は、時に「この日本の中において未だに道路が整備されていない地域なんてあるワケがない」と考えがちであり、なにより最近の国政に関しては都会の意見が通りやすくなっているというのが偽らざる事実でしょう。
 これは人口の差や情報の差が原因かと思われます。
 広島市は100万人都市と言えども、東京23区の人口は800万近くと、8倍の差があります。
 また、「常識」になりがちなテレビのニュースも、「全国ニュース」と言いながら東京の情報が中心だったりしています。
 さらに言えば、それでもまだ広島は全国的に見れば都会の方で、広島より断然田舎の地域はものすごくたくさんあるワケで、下手したら「もう広島はいいだろう」と都会からも田舎からも、その考え方は真逆であるにもかかわらず一致した意見が出てしまう危険性もあり、こういう面を鑑みれば、果たして都会の人や、その地方の人以外が冷静にその土地の事情を考慮して適切に判断できるのかどうか、大変に疑問に思います。
 
 いまもっとも有名なダムである八ッ場ダムだってそうです。
 いくら有名になったところで、所詮それはマスコミ、しかも時にゆがんだ情報を意図的に流すようなマスコミの一方的な情報からしか、多くの一般人は事情を知り得ません。
 御意見板でも、あまり大マスコミが流さないような情報を載せていただいておりますが、それを見るだけでもずいぶん意見が変わるでしょうし、そしてそれは、これだけではない未だまだ地元の人しか分からないような事情や歴史や文化がある可能性を、大きく示唆していると言えるのではないでしょうか。
 特に八ッ場ダムには「歴史」があります。
 いくらその歴史を情報として学んだところで、その歴史を築いてきた人たちの感情までは理解できません。
 例え国税を投入しているとはいえ、そう簡単に外部の人が一朝一夕で判断できるモノではないんじゃないかと、やえは思います。
 
 感情は大切です。
 もし感情を廃し、ただ単に合理性だけを追求するというのなら、それは失敗した共産主義国や中国のように、お上の命令が絶対で、どんな反対があっても武力でそれを排除して、無機質に国家事業を進めれば良いだけでしょう。
 でも日本という国は、歴史を振り返っても、そのような人間の感情を廃する施策を基本的にはとってきませんでした。
 歴史は人が造り、人は感情によって生きる生物だと理解しているからです。
 もちろん国家事業ですから国家的な視点は大切ではありますが、しかしそれは地元の事情や感情を無視していいという意味ではないハズです。
 国民の意思は政治において大切な指針の一つですが、その国民の一部である地元の人の意志は、より重きを置かれるのはある意味当然なのではないでしょうか。
 
 
 (つづく)
 

平成21年10月20日

 公共工事やダムについての地元に対する考え方 (2)

 「外部に向けたアピール」というお話が出ました。
 しかし、これは一見正しいように見えて、実は傲慢な考え方な気がしてなりません。
 
 というか、現実的には不可能でしょう。
 これだけ全国の注目を集めている八ッ場ダムでさえ、おそらく外部の人間には理解し得ない情報や感情がたくさんあるのに、全然注目されていない地域の公共工事なんて、果たしてどれぐらいの手間暇とお金をかければ全国にアピールできるというのでしょうか。
 勝手にキー局のテレビ局がなにかで取り上げて注目されるというのでしたらお金はかかりませんが、仮にそのようなコトがあっても、それだけで全国津々浦々の公共工事が必要な地域をカバーできるとは思えません。
 広島市の、携帯電話の電波が届かない道路を造るために、全国にそれを理解されるまでアピールするというのは、費用対効果を考えても、かなり非現実的な話でしかないでしょう。
 
 地方にはそんな手間暇お金はありません。
 
 また、なによりですね、日本の公共工事は戦後から東京などの都会を優先的に行ってきたという事情があります。
 これは日本の復興や経済成長のために、都会にお金を集中させた国策であったワケですが、当時は有効な手だてだったのは確かですし、そしてそれが成功したというのは誰の目から見ても明らかでしょう。
 それを否定するつもりはありません。
 しかしそれは、都会だけにお金を、国税をつぎ込めばいい、それで全てだと言うモノではないハズです。
 ただ順番があっただけのコトではないのでしょうか。
 
 すなわち、都会には無制限にジャバジャバ税金をつぎ込んで発展させたくせに、次の段階である地方の番になったら急に「お前ら自分に分かるように自分から説明しろ。説明がつかないなら税金は使わせない」と言ってしまうのは、それはあまりにも傲慢な考え方なのではないのかというコトです。
 そもそも日本は歴史的に中央と地方の格差が小さな国家です。
 もちろん格差が無いとは言いませんが、しかし小さくする努力をするのは大変に意義のあるコトでしょう。
 日本の強さすばらしさは、地方が独自の文化をそれぞれ持つコトによって、全体的な力を持てるところだと思います。
 日本が戦争に敗れて急いで復興しなければならなかったから中央に集中してお金と力を注がなければならなかったというのは仕方ないにしても、しかしその必要が無くなったいま、いきなり地方を切り捨てにするような考え方はいかがなモノなのではないでしょうか。
 
 以前の更新で書きましたように、やえは別に八ッ場ダムに対して無批判に工事を進めるべきだと言っているワケではありません。
 地元の人たちが言うコトが全て正しいんだなんて、いままで一言も言ったコトはありません。
 やはりそのダムがあるコトによって得られる利益や、同時に不利益を考える必要も当然あるとは思っています。
 その利益や不利益の中には、やはり地元の事情や人間の感情もあるハズではないのかと、議論する際にはそれも重要な論点の一つではないのかと言っているのです。
 
 いまの八ッ場ダムをめぐる議論は、結局無機質なお金だけのお話にしかなっていません。
 全ての国民が議論するコトは間違ってはいませんが、しかし議論するために地方からアピールして全国国民に宣伝しろと言ってしまうのは、様々な意味で違いますし、不可能です。
 お金を議論の基準の一つにするコトは必要なコトですが、それと同じように地元の事情も大切ですし、そして外部の人は自分が外部の人であるコトを自覚した上での議論も必要でしょう。
 一方的に「アピールしない方が悪い」かのような言い方は、言い換えれば不可能なコトを課題にした数の暴力にしかならないコトになりかねません。
 八ッ場ダムの例を見るまでもなく、外の人から見れば知り得ない情報は必ずあるのです。
 それを全て知っているかのような言い方は、傲慢でしかないでしょう。
 
 もちろんお金は無限ではありません。
 ある程度どこにお金を使って、どこに使わないようにするかというのは、どうしても決めなければならないコトです。
 ではその峻別をどうするのか。
 民主主義においては、その議論や判断のために、議員という存在がいるのではないでしょうか。
 
 
 (つづく)
 

平成21年10月21日

 公共工事やダムについての地元に対する考え方 (3)

 しかしもちろんお金は無限ではありません。
 ある程度どこにお金を使って、どこに使わないようにするかというのは、どうしても決めなければならないコトです。
 ではその峻別をどうするのか。
 民主主義においては、その議論や判断のために、議員という存在がいるのではないでしょうか。
 
 国会にしても地方にしても、なぜ選挙区が全体ではなく一部の地域に限られているのかと言えば、やはりその議員は、その地方の代表者であり代弁者である代議員だからです。
 その地方独特の事情や文化や歴史をよく知っているその地方の代表者を選び、そういう人たちが集まって議論するコトによって、結果的に全体にバランスがとれた結論を得るコトが出来るというのが、政治のあり方なのです。
 前回言いましたように、地元の人間だけがいちいち国民全体に事情を説明して公共工事をアピールするなんていう行為は、あまりにもコストパフォーマンスの悪い、ムダな行為でしかありません。
 現実的に無可能なコトでしかないでしょう。
 しかしそれでも、お金は無限ではないので、どこかを選んでどこかを削るという作業をしなければなりません。
 だからこそ、そうした作業をするために、議員という存在があるハズなのです。
 
 よく流れを思い浮かべてみてください。
 民主主義の理想型のひとつは、国民一人一人が高い責任のもとに全ての政策についての決定に関わるコトです。
 良く例に持ち出されるのが、古代ギリシアのポリスの政治形態でしょう。
 確かにこれは民主主義の究極系と言えるかもしれません。
 そして、地元の人間がその事情をアピールし、国民ひとりひとりが八ッ場ダムについて考えて結論を出すという手法は、このようなポリス的な政治手法と言えるでしょう。
 しかし現実的に、いまの日本でこれが可能かどうかは、とても疑わしいとしか言いようがありません。
 だからこそいまの民主主義というのは、政治に携わる人間を少数選挙で選び、その少数の人が政治を動かしていくという、間接民主主義である代議員制を採っているワケです。
 そして基本的に、その地域から出ている代議員は地域の代表者であり代弁者です。
 すなわち、その地域の声そのものであるとするのが、いまの制度なワケです。
 もちろん現実的には色々と齟齬が出てきますが、しかしタテマエというか、制度的にはそういう存在が代議員であり、地元のアピールとか事情の説明とかそういう政治的なめんどくさい、手間がかかり、普通の人では出来ないようなコトを一手に任されているのが代議員なのです。
 それを専門に議論して結論を出していくのが国会などの政治の場なのです。
 議員達が議論した結果、そこに公共工事が必要だと判断されれば、それはそれで大きな結論のひとつになると言えるのではないでしょうか。
 
 岩手のダムの話ですが、これが本当に民主党幹事長の豪腕一存で決まったのであれば、とんでもない話です。
 そもそも賄賂をもらって公共工事をどうこうしようとするコト自体が違法行為であり、それに準ずる行為をけしからんというのは当然です。
 こういう違法行為はどんどん取り締まるべきです。
 しかしだからと言って、代議員たる政治家の議論や判断を一切信用しないと言うのは、これは民主主義の崩壊につながる極論でしかありません。
 ある一定の地域に選挙区を限定してその地方の代表者を選ぶという形にしている以上、「地方の声の集合体」が日本の政治です。
 権力の集中にはある程度監視が必要ですが、同時にある程度尊重するというのも、大切な国民の義務でしょう。
 
 それだけにやえは、八ッ場ダムがある選挙区から民主党が候補者を立てなかったコトには、大変に疑問に思わざるを得ないのです。
 もしかしたら民主党としては、候補者を立てて直接負けたら具合が悪いと思って立てなかったのかもしれませんが、やえに言わせれば、そんなのどちらにしても立てなかった時点で不戦敗でしかありません。
 全体としての結果ももちろん大切ですが、本当に地元の人たちの声を、選挙という公的な世論調査で形に示すというコトは、とても大切なコトだったハズです。
 例えその地域を除く国民全体の意志が八ッ場ダム中止だとしても、その地域が継続を願っているコトに対し、それを一方的に、声すら聞こうとせずに潰そうとするのであれば、それは数の暴力にしかなりません。
 民主主義において国民ひとりひとりが直接政治に関わる数少ないチャンスが選挙です。
 民主党はその貴重な場において、マニフェストの大きな部分に関わる選挙区において立候補者を出さなかったのは、あまりにも軽率すぎる態度でしかありません。
 いつもいつも民主党は「国民の声を」なんて枕詞にして代弁しているつもりになっているようですが、マニフェストに名指して挙げていた地域のその声に、耳を傾けようとすらしなかったその姿勢はあまりにも不誠実であり、やもすれば声を黙殺するために行われた民主主義の精神を踏みにじる行為だと言われても仕方ないのではないでしょうか。
 
 八ッ場ダムだけの関してそれをどう評価するかという問いには、やえはちょっと答えられません。
 やえには八ッ場ダムの地元の事情や感情は理解できませんし、ダムや治水に関しても専門的な知識を持ち合わせていませんので、学術的な判断も出来ません。
 よって、分からないとしか言いようがありません。
 しかし一方、やえは地元の人間として、広島にはもっともっと道路行政を活発にしてもらいたいと思っています。
 いままで出した例以外にも、広島は三角州の町であるという事情もあって、町の規模に比べれば渋滞しやすいと言えるでしょうから、まだまだ広島市の中心部においても造らなければならない道路はたくさんあると思います。
 また道路以外にも、必要な公共工事はたくさんあると思っています。
 こういうやえの思いに対し、果たして都会の人や、また広島より田舎の人というのは、どう感じてどう考えるでしょうか。
 そしてこのやえの思いは、ただの地域エゴと呼ぶべきモノなのか、はたまた大局的長期的に見れば日本のためになる考え方なのか、果たしてどう評価されるモノなのでしょうか。
 
 「公共事業の理想のあり方とは何か」という問いは、非常に難しい問題です。
 これは、「理想の税の使い方とは何か」という、政治の究極の問いに等しい問題です。
 例えば、民主党の子ども手当は本当に必要なのか、賛否両論分かれるところでしょう。
 
 
 (つづく)
 

平成21年10月22日

 鳩山メルマガレビュー

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 ┃         鳩山内閣メールマガジン第3号         ┃
 ┃                  2009/10/22         ┃
 ┗・・・… ---−−−━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━−−−--- …・・・┓
 ┃          鳩山由紀夫の「ゆう&あい」          ┃
 ┗・・・… ---−−−━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 [コンクリートから人へ]
 9月16日に総理に就任してからあっという間に1カ月が経ちました。自分なりに精一杯頑張ってきたつもりですが、国民のみなさまには、何か今までの政治とは違うぞ、政治が変わりつつあるぞと感じて下さっているとしたら嬉しいです。
 
 こんにちは、鳩山さん。
 ところでメルマガの発行が一律で夕方になったみたいで、やえとしましたらちょっとレビューしにくいので、なんとか朝に戻してほしいところです。
 
 さて鳩山内閣が発足して1ヶ月というコトですが、ごめんなさい、鳩山さんが特に何か政策を進めたのかどうか、やえにはあまり印象がありません。
 あるとしたら、排出ガス25%削減をやると国連の場で大見得切ったぐらいで、しかもそれは「日本国民ならやれると信じてる」と他人事のように丸投げしてしまっているだけで、いまだに何ら具体的な方策が見えてきません。
 それから、例えば去年の同時期に発足した麻生内閣は、9月24日に発足し同月29日には国会を開いて所信表明を行っていますが、9月16日に発足した鳩山内閣は未だに国会を開いていません。
 のんびりしてますね。
 
 これまでの政治では、大臣たちは官僚が用意した舞台で、台本に沿って、あらかじめ決まった台詞を一言一句そのまま読み上げていました。だから、その意味では、閣僚の間で意見が不一致であることは少なかったかも知れません。でも、官僚任せにしてしまった結果、時として国民のみなさまの声が届かない政治になってしまいました。
 新しい政権では、このような官僚中心の行政を、私たちの大臣、副大臣、大臣政務官の「政務三役」が中心となって、国民のみなさまの思いを受けとめる行政へと「政治主導」で大きく作り変えることにしました。
 
 これまでの政治のその「台本」というモノは、それができあがるまでの課程において大いに政治家の意志が反映される形になっていたと、やえは認識しています。
 例えば人権擁護法案の時には、当サイトがレポートしましたように、国会に法案が提出される前に自民党の議員さん達が議論して、中身を変えたり法案提出そのものを結果的には止めたワケです。
 これは、大臣や副大臣だけの一部の議員だけの意志ではなく、多くの議員さんが議論に参加した上での結果です。
 一方いまの民主党政権は、大臣と副大臣と政務官のごく少数の議員だけが全てを決めるシステムと言えるでしょう。
 こちらのシステムの方が意志決定は早い場合が多いですから、一概にそれが悪いとは言いませんが、しかし少なくとも「(いままでの政治は)時として国民のみなさまの声が届かない政治になってしまいました」と言ってしまうのは、かなり語弊があるでしょう。
 自分たちのシステムを説明されるのは結構ですが、他人を批判し、しかも事実をねじ曲げ中傷まがいに言うのはいかがなモノでしょうか。
 
 未だに慣れない試行錯誤の状態ですので、大臣間で意見の合わないこともあります。でも、むしろその状況をさらけ出すことは、議論の透明性を国民のみなさまに示すことですので、私は悪いことではないと思っています。大事なことは、最後に閣議という意思決定の場で、国民のみなさまの意思を尊重しながら政治主導で一つにまとめ切ることです。
 
 大臣間で意見が合わない場合、いままでの民主党は「内閣不一致だ」と国会の内外で大騒ぎしていたように記憶しているのですが、気のせいでしたっけ?
 
 例えば、予算編成では、今まで、少しでも多くの予算を獲得することが大臣の仕事でしたが、今回、これを180度転換し、「無駄遣い」を無くすことに重点を置き、それぞれが「査定大臣」となって、各省庁の予算の無駄を徹底的に削るよう、「がんばれ」とハッパをかけています。
 この結果、先週閣議決定した補正予算の見直しでは、2兆9千億円を超える予算の執行を停止することができました。その分の予算は、みなさまの暮らしに、真に役に立つ政策、経済にしっかりとプラスの効果をもたらす分野で有効に使わせていただきたいと考えています。
 来年度予算についても、国民のみなさま方に約束しましたマニフェストに掲げた事業の実現を最優先する一方で、不要不急な事業など徹底して無駄を削る予算編成を進めていきます。
 
 これは以前も言いましたが、本当にそれがムダなのかどうかこそを説明してもらいたいんですが。
 執行停止した予算の中には、例えば首都高の耐震化工事の予算も含まれているようですが、いつ何時大地震がくるか分からないのに、これまで停止して大丈夫なんですかね。
 この予算はもしかしたら来年度予算に付けるのかもしれませんが、結果的に来年度予算まで大地震が起きなければ結果オーライではありますけど、しかしそれは本当に運でしかない結果論であり、現実論である政治のやるコトではないでしょう。
 鳩山総理が、必ず来年度まで大地震が起きないと根拠を持っておられるならいいんですが、その根拠を聞かせてもらいたいです。
 さすがに宇宙からのメッセージとか言わないですよね。
 
 あと、来年度の予算の概算要求が、過去最大の95兆円に達するコトについてはスルーでしょうか。
 同時に、赤字国債を増刷せざるを得ないコトについても、そういうコトこそここでしっかりと説明してもらいたいところです。
 
 特に、行政刷新会議において、事業仕分けを公開で実施し、予算の無駄を明らかにします。先行的に実施した地方公共団体では、1割ほどの予算削減効果がでています。さらには、特別会計などにも切り込んでいき、赤字国債の発行をできる限り抑え込んでまいります。
 
 「できる限り」ではなく、選挙前は「増発しない」と言ってたんですから、その通りにしなければならないハズです。
 さらっと自分の言ったコトを変えようとしないでください。
 
 一方で、経済に目を転じると、わが国の景気は、失業率が高い水準にあり、依然として厳しい状況です。つい最近、政府は日本の貧困率を初めて発表しました。15.7%という高い水準でした。今まで、政府はこのような望ましくない数字の発表は行ってきませんでしたが、これからは敢えて公表することにいたしました。公表することによって、みなさまと共に対策を作ることができるからです。
 特に、年末に向けて、みなさまにとって最も重要な雇用対策にしっかり取り組むべく、私が本部長を務める緊急雇用対策本部において、緊急雇用対策を具体化し、実行してまいります。
 
 貧困率については、やえはこの数字どうもアテにならないような気がしてなりません。
 この数字というのは、国民の収入の平均値より半分以下の人の割合、という数字で、例えば資産家の人とか、定年退職して収入がもう無い人も「貧困層」に組み込まれる仕組みになっていますので、高齢社会になればなるほど貧困率が上がるという、ちょっと変な統計数字です。
 また例えば、ある国の収入の半分が800万円という国があったとしましょう、すると貧困層は400万円以下になりますが、果たして400万円以下の年収の人を「貧困」と呼んで適切なのかどうかは、かなり疑問ですよね。
 もちろんこれは極端な例ですが、しかし平均が上がれば上がるほど収入が変わらなくても貧困者数が増えるというのがこの統計の中身であり、つまりいままで貧困層でなかった人が生活の中身が変わらないのにいつの間にか貧困層に組み込まれていた、なんてコトもあり得るような、そんな数字でしかないのです。
 近年日本では「貧困」という言葉が流行っているようですが、しかし未だに「貧困とは何か」という定義をしっかりと議論できていない気がしてなりません。
 日本語で表現する「貧困」という言葉はかなりインパクトのある、明日のお米が1粒もないとかそんな悪いイメージがある言葉ですが、一部の生活保護受給者の中には「母子加算がなくなると回転寿司に行くお金もなくなる」と言ってしまう人もいるようで、果たしてそれは貧困なのかかなり疑問に思わざるを得ません。
 もちろん本当に困っている人もいるのでしょうから、全ての生活保護受給者がそうとは言いませんが、しかしまずは「貧困」という言葉がどういう人が当てはまるのかという議論は、一度しっかりとした方がいいと思います。
 
 鳩山内閣の国の財政に関する方針は、「コンクリートから人へ」です。これまでの箱もの中心の予算から、みなさまの雇用と暮らしを守る予算に変えていきます。乞うご期待ください。
 
 そうなるように期待してます。
 
 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━−−−--- …・・・┓
 ┃              編集部から              ┃
 ┗・・・… ---−−−━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 「今週はどのような意見をいただいたか?」
 毎週のメルマガ編集会議は、この一言から始まります。読者の皆様からお寄せいただいたご意見、ご感想を読み込みます。皆様の内閣への期待や日本を思う真剣な思い。鳩山内閣もこのメルマガも、この皆様の思いが原動力となっています。
 さて、最近スポーツ界の若い日本人選手の活躍が続々と伝えられていることは、嬉しいかぎりです。今週号には、このたび現役生活を終えられたプロテニス選手の杉山愛さんに登場していただきました。
 およそ16年間にわたり、4大大会に62回連続して挑戦。これは、世界でも歴代最多記録です。今回は、テニスを通じて「身近な問題」として取り組んできた「乳がん」の早期発見に向けた活動について、熱い思いを語っていただきました。私たち編集部も、杉山さんのように、常に挑戦し続けるメルマガでありたいと思います。
 
 杉山さん、最後は結果を出せずに残念でしたが、その記録は賞賛に値するモノとして記憶されるコトでしょう。
 これからも様々な場でご活躍されるでしょうことを期待しています。
 ただ、ごめんなさい、この鳩山メルマガがどのように挑戦し続けているのかよく分かりません。
 ぜひともレビューしがいのあるメルマガにしていただきたいと思っていますので、頑張ってください。
 まずは朝発行を目指していただければうれしいです(笑)
 

平成21年10月26日

 貧困についてもう一度

 改めて貧困について考えてみます。
 
 まず金曜載せました文章ですが、これ基本的な部分で資料の読み違いをしていました。
 端的に言いますと、貧困としているラインの年収の額が、ウィキペディアや一部報道では224万円となっているのですが、これ実は全然違っているようなのです。
 実際のラインは、こちらに厚生労働省が資料を出してしますのでご覧いただければと思いますが、金曜の文章は、大部分がこの間違った認識を元にして、この人は貧困者なのかというコトを書いてしまいましたモノで、特に前半はまるで意味をなさない文章になってしまいました。
 ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません。
 とりあえず貧困と分類される人の手取りは224万円よりもっと低いラインにあるというところを理解していただければ、それで結構かと思います。
 ちなみに、相対的貧困率で定義する貧困のラインは

 世帯の可処分所得(錘闔謔閨jを世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合

 だそうです。
 
 で今日は、その上で、金曜の更新の後半部分の、「ではこの現実を前にした時どう考えるべきか」という部分を、事実誤認を訂正して、もう一度載せておきたいと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 やえは別に社会弱者救済政策をするなと言っているワケではありません。
 それは政府の大切な仕事であり、積極的に行っていく必要があると思っています。
 しかし行うなら、キチンとその人達に恩恵が受けられるような制度にしなければなりませんし、同時にそうでない人たちにまで恩恵を与えてしまうようなムダを作ってはならないハズです。
 
 例えば日本の制度の中には「生活保護」という制度があります。
 これは、本来何らかの事情で働けない人たちに対し、最低限度の生活を国家が保障するためにある制度です。
 この制度なかなか複雑なので一概には言えないのですが、例えばウィキペディアにあります例には

 単身世帯 31歳
 第1類 40,270円(20-40歳)
 第2類 43,430円(単身世帯)
 住宅扶助 (最大)53,700円
 合計 137,400円(月額)

 とありますように、おそらく現実問題、働かないという条件で考えた上でこれで生活していけるかどうかを考えれば、十分に生活はしていける支給を得られる制度になっていると言えるでしょう。
 もちろん子どもがいる場合などはもっと給付額が増える仕組みになっています。
 そして本来的な意味で言えば、この支給を元にして生活基盤を作り、その上で仕事を見つけて普通の生活を送って下さいと言うべきところです。
 生活保護だけで暮らしていくというのは、本来的な意味からは外れていると言えるハズですからね。
 ですから、役所の窓口でこの制度を受けるためのハードルが高いというのも、ある意味当たり前の話であり、もし働きたくないからという理由だけで生活保護を受けるというのは、それはただの甘えでしかないでしょう。
 そういう人には給付しないよう気をつけ、そして必要な人にはシッカリと給付をして、次のステップに行ってもらうというのが、生活保護の本来の姿です。
 このように、現実の運営に問題が全くないとは言いませんが、その人が望めば、制度的には「貧困」と呼べる生活を強いられるコトは日本ではないと言えるのです。
 
 これはけっこう前にも言いましたが、この問題はある意味イメージの問題とも言えます。
 というのも、日本語で表現するところの「貧困」という言葉は、かなり強烈な印象が残る言葉です。
 明日にもお米一粒もなくなるような、もうガリガリで生きているのに何の楽しみもひとつもなくて、生きる希望すらなくなってしまうかのような、それほど強いインパクトのある言葉です。 
 辞書を引いてもですね

 ひんこん 0 【貧困】(名・形動)[文]ナリ
 (1)まずしくて生活に困っている・こと(さま)。

 とあり、さらにウィキペディアです

 貧困(ひんこん)は、主に経済的な理由によって生活が苦しくなり、必要最低限の暮らしもおぼつかない様子をいう。

 と、かなりしんどい状態の様に表現しています。
 しかし、日本国憲法で定めるところの「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に則って制度が作られている生活保護を受ければ、その額を見てもそれなりの生活ができそうだと言うのが妥当であり、それを本当にギリギリの「最低限度」と表現できるのか、まして「貧困」と呼べるのかは、かなり疑問が残るところでしょう。
 果たしていま本当に貧困している日本人というのはどういう人なのでしょうか。
 少なくとも生活保護を受ければ、まともな生活を送れば、貧困とは呼べる状態にはならないと思います。
 
 もちろん人それぞれ事情があるでしょう。
 例えば病気をしているとかです。
 そういう人たちに無理に働け、働かない方が悪いんだと言うのは無茶な話ですが、ですからその場合は、その場合でキチンと別の形で国が手助けをすればいいのです。
 やえはそれまでを否定するつもりはありません。
 そしてそれが足りなければ、法律を作るなりして整備していかなければならないコトでしょう。
 大切なのはここです。
 もし病気とか様々な特殊な事情で生活保護だけでは生きていけないような人がいるなら、それを手当てする制度を作らなければなりませんし、そのためにこそ、こういう人たちがどれだけ存在しているのかを統計としてとらなければならないハズです。
 またこういう人に対しても窓口のハードルが高いのであれば、それは改めなければなりません。
 大切なのはそういう「現状に即した統計」です。
 政治を動かすのであれば、どれだけ現状を正しく把握しているのかが大切なのです。
 
 そして、冷静な状況判断も、主権者たる国民は求められるのではないでしょうか。
 このような記事もあります。

 「受ける側に何が必要かを考えてほしい」
 
 「とにかくうれしいです」。金沢市の佐藤洋子さん(45)=仮名=は、年内の母子加算復活が決まり、安心した表情を見せた。
 毎月、生活保護費など約二十四万円で暮らす。育ち盛りの小中学生の娘三人との四人家族で、五万円弱の食費は増える一方だ。支給日前の夕食は、具がモヤシだけのお好み焼きやふりかけご飯でしのぐこともある。「ごめん、もうお金ないから」「いいよ」。素直に納得してくれる娘たちには感謝している。

 金沢市にお住まいのこの方ですが、四人家族で生活保護費などを合わせて月24万円で生活しており、また生活保護を受けると国民保険や医療費なども免除になりますから、総額で言えば普通の人に比べてもっと多い計算になるのでしょう。
 こちらにこの家族の項目別の生活費が載ってますが、果たしてこういう人を「貧困」と呼べるでしょうか。
 生活が楽かどうかは別にしても、インパクトの強い「貧困」という文字で表現するほどの生活ではないと、やえは思います。
 
 そして、生活保護を受ければ、ここまでの生活はできるワケです。
 
 果たして、「貧困」と本当に呼べる人がどれだけいるのか、そしてもし本当に生活保護以下の生活を強いられている人がいるなら、なぜその人達はそういう生活をせざるを得なくなっているのか、ここを考えなければなりません。
 他にも日本には生活保護意外にも様々な制度が用意されています。
 現場の運用も合わせて、その制度を必要としている人がどれぐらいいるのか、活用している人がどれだけいて、現状で足りている人はどれぐらいいて、足りていない人はどれだけいるのか、そしてその足りていないと感じる要因は何で、どれぐらい足りない人が各段階において何人いるのか、政治を行うにあたってはこういう数字を本来は出すべきでしょう。
 単にイメージが先行する、大雑把すぎる貧困なんて言葉を持ち出しても、実際の政治にはなんの意味もなしません。
 
 貧困と一言で済ませてしまうと、そこで原因の追及がストップしてしまいがちになります。
 中身をすっ飛ばして、ただ単に「かわいそうな人がいっぱいいる」だけしか見えてきません。
 しかしそんな大雑把な感想だけで政治を動かすコトは出来ないハズです。
 ただ単にインパクトのある「貧困」というモノを表すのではなく、もっと事細かに、なぜ生活が苦しい状況に追いやられているのか、その原因は自分にあるのか別の要因なのか何なのか、もし自分の力だけではどうしようも無いのであればどれだけ公的な支援が必要なのか、そこをキチッとケースごとに考えなければいけないでしょう。
 ざっくばらんに貧困の数を出して、ここにお金をこれだけ出せばいいなんてバラマキする、なんというのは本来の政治ではありません。
 最初にも言いましたように、弱者救済政策というのは国家にとってもっとも大切な仕事の1つですから、そこを実際に機能する形として制度設計するためにも、現実に即したデータ元にし、そしてそれを冷静に分析し考えていかなければならないハズなのです。
 
 繰り返しますが、やえは弱者救済政策をするなと言っているワケではありません。
 本当に必要であれば、多額の税金を投入するのも致し方ありません。
 しかしシッカリと考えなければならないコトは、本当に必要な人だけに必要な額だけを支給するようになっているのかどうかです。
 イメージだけが先行してしまうコトによって、本来なら必要のない人にまで支援をしてしまうというのはムダとしか呼びようがありませんし、さらにそれは、真面目にこつこつと生活している人に対して不平等を生み出しているコトになります。
 国家が自らの手で不平等を生み出すコトは、あってはならないコトです。
 そしてさらに、こうしたイメージ先行の“水増しされた”データを、政争の具にしてしまうのは、あまりにも政治をゆがめる結果にしかなりません。
 可哀想とか感情で政治をするのではなく、イメージだけに囚われるコトもなく、キチンと現実を見た正しい政治が行われるよう、国民も冷静に政治もデータも見ていかなければならないでしょう。
 

平成21年10月27日

 中身のないマニフェスト

 今日はちょっと時間がありませんので、簡単にこの記事へのコメントを。

 八ツ場ダム「再検証」 国交相「予断持たずに」
 
 前原誠司国土交通相は27日の閣議後の記者会見で、事業の中止を表明した八ツ場ダム(群馬県)について「再検証のプロセスを取らせてもらいたい」と述べ、他のダムと同じように治水、利水や環境面などで事業の必要性を改めて検証する考えを示した。国交相は「地元住民と話ができていない。これをなんとか打開したい」と再検証の狙いを説明した。
 国交相は就任直後に「政権公約(マニフェスト)に書いてある」として八ツ場ダムの中止を表明したが、地元住民は強く反発。住民との対話はいまも実現していない。
 国交相は会見で「予断を持たずに再検証することを約束する」と述べ、再検証の結果次第では中止の方針を軌道修正することに含みを持たせた。地元住民が「中止ありきでは会えない」と主張していることに配慮したとみられる。
 ただ国交相は「マニフェストに掲げた八ツ場ダム中止の方針は堅持する」とも述べた。

 これおかしいですよね。
 だって、そもそも「なぜダムを中止するのか」という部分がはじめから抜け落ちているからです。
 中止するなら中止する理由が、普通は必ずあるハズです。
 しかし前原大臣は、この段階になって「再検証する」と言い出しているワケで、つまりそれは、『八ッ場ダムの工事を中止する理由が未だに理解していない』というコトを物語っていると言えるでしょう。
 強いて理由らしきモノを言うのであれば、それは「マニフェストに書いてある」というコトだけです。
 
 全く持って意味が分かりません。
 マニフェストに載っているコトは見れば分かりますが、ではなぜ八ッ場ダムを中止するのか、その理由が理解できないまま民主党はマニフェストにそれを載せたというのでしょうか。
 いえ、そうとしか思えません。
 
 政治には必ず理由があります。
 ダムなら、治水のため利水のため、また災害対策や発電のためなどの理由があるでしょうし、他にも道路建設だって、ハコモノだって、郵政民営化だって、それなりの理由はあります。
 大義名分と言ってもいいでしょう。
 もちろんその理由が、理に適っているかどうかは別です。
 だからこそ、まずそれを実行する場合大義名分を立て、その上で、それが理に適っているかどうかを国会なりで議論して、吟味して、実行するかどうかを決めるワケです。
 なににしても、議論するにしても、必ず理由が、大義名分が必要なワケです。
 
 八ッ場ダムだってそうです。
 作りたいと言っている方、当時の自民党政権や東京都などの6の都県知事さんなどは、キチンと大義名分は提示されています。
 それが正しいか正しくないかはここでは触れませんが、しかしそれを検証するためにも、前原大臣はダムを中止する大義名分を示さなければなりません。
 これでは議論にすらなりません。
 どうしていまこの段階で検証すると言って、前原大臣は疑問に思わないのでしょうか。
 本来なら、民主党が自らのマニフェストに載せる前に、八ッ場ダムについて視察などを含めて細かい検証と、その上での議論をして、明確に中止すべき理由を明らかにして明示してから、マニフェストに初めて書けるというモノでしょう。
 どうして理由も分からず適当にマニフェストに書いたのか、つまり適当に政治を行おうとしたのか、理解に苦しみます。
 
 民主党のマニフェストには、その大義名分すらないと、前原大臣は暗に言ってしまっているのです。
 結局「ダム中止」と書けば一般大衆にウケると、田中康夫元長野知事のようにしか思っていなかったのではないかと、勘ぐらざるを得ません。
 これでは民主党のマニフェストは、「政権公約」ではなく、ただ単に「国民にウケるための客寄せパンダ」でしかなかったと言えてしまうでしょう。
 そんなマニフェストにどんな価値があると言うのでしょう。
 そしてそのマニフェストを看板にした選挙に、どれだけの意義があったと言えるのでしょうか。
 
 民主党は、今の本当に検証しなければ理解できないような段階にあるのであれば、国民に対してやらなければならないコトがあるのではないでしょうか。
 

平成21年10月28日

 「一見弱者」を排除してこそ真の弱者救済が成り得る

 御意見板での書き込みですが、誤解されたままではアレですので、レスいたします。
 まずは引用です。

自分が指摘するのも何なのだが
 
http://www.dpj.or.jp/policy/manifesto/seisaku2009/18.html
に書いてあるように読めますがね。
 
治水政策の転換(みどりのダム構想)
ダムは、河川の流れを寸断して自然生態系に大きな悪影響をもたらすとともに、
堆砂(砂が溜まること)により数十年間から百年間で利用不可能になります。環境負荷の大きいダム建設を続けることは将来に大きな禍根を残すものです。
自然の防災力を活かした流域治水・流域管理の考え方に基づき、森林の再生、自然護岸の整備を通じ、森林の持つ保水機能や土砂流出防止機能を高める「みどりのダム構想」を推進します。
なお、現在計画中または建設中のダムについては、これをいったんすべて凍結し、一定期間を設けて、地域自治体住民とともにその必要性を再検討するなど、治水政策の転換を図ります。
 
ダム計画見直しはこれに基づいたものでしょう。
大義名分は民主党にもある(これが正しいかどうかはまた議論が必要でしょうが)

 さて。
 八ッ場ダムに関しては、民主党は名指しでマニフェストにこのように書いています

 川辺川ダム、八ッ場ダム建設を中止し、生活再建を支援します。

 八ッ場ダムと川辺川ダムは、「建設凍結」ではなく「中止」と、ハッキリと明記しています。
 つまりこの2つのダムについては、検討する段階をすでに終えて(いるハズ)中止すると決定しているんだと民主党は言っているワケです。
 また前原大臣も同様に、「マニフェストに掲げた八ツ場ダム中止の方針は堅持する」とおっしゃっています
 民主党マニフェストには911さんがご指摘の部分もありますが、しかし八ッ場・川辺川ダムの方が項目が上であり、こちらの方が優先されると読むのが自然でしょう。
 それは前原大臣の発言からも証明されると言っていいと思います。
 
 八ッ場ダムと川辺川ダムは、もはや「中止」であり、これは民主党の中では決定なのです。
 
 よって、八ッ場ダムと川辺川ダムには、ご指摘の民主党マニフェストにある「これをいったんすべて凍結し、一定期間を設けて、地域自治体住民とともにその必要性を再検討」という部分は掛からないコトになり、すなわちご批判の「ダム計画見直しはこれに基づいたものでしょう」は当てはまらないものと解釈すべきと考えます。
 
 以上、少なくとも、八ッ場ダムと川辺川ダムについて、なぜ中止するのかその理由が分かりません。
 もしどこかにあればご指摘いただければと思います。
 ありがとうございます。

 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 生活保護の問題や派遣労働者の問題を取り上げると、すぐにムキになる人がいます。
 昨日のやえの更新に対してもそうですし、過去これらの問題を取り上げた時もそうですが、弱者的な人を批判するようなコトを書くと、弱者を叩くなんて何事だ、弱者の本当のつらさを知らないんだ、お前がその身になってみろ、というような言葉を投げかける人がけっこういます。
 あの小林よしりん先生も、どうも自己責任という言葉が嫌いなようで、派遣村バッシングに対しても強い嫌悪感を隠さず批判していたコトもありました。
 
 確かに、ネットの内外を問わず、弱者になったのは自分の責任じゃないか、税金を使って弱者救済の政策なんて一切必要はない、なんていう意見も一部にはあります。
 無いとは言いません。
 しかしやっぱりこれは一部だけのモノだと思いますし、少なくともやえはそんな風には思っていません。
 昨日も繰り返し言いましたように、やえは弱者救済政策は国家の重要な仕事のひとつだと思っていますから、必要な場面には必要なだけ政策を進めなければならないと考えています。
 
 昨日の更新でやえが何を言いたいのか、その主題を、ムキになっている人や弱者批判バッシングする人は、よく読んでよく考えてもらいたいです。
 昨日の更新は、『弱者を救済するためにも、大雑把なイメージだけが先行するようなデータではなく、現状に即したデータをとるべきだ』という主が本題です。
 そしてそれこそが、真に弱者を救済する道だと、やえは思っています。
 
 正しくないデータは、むしろ真の弱者救済の道を閉ざす結果になりかねません。
 派遣村なんかが顕著ですが、実際派遣村に集まった人の中には、元々ホームレスの人とか派遣切りには全く関係ない人とかがけっこう紛れ込んでいたのは、紛れもない事実です。
 弱者批判バッシングの人はこの事実を指摘するだけでもバッシングを始めるワケですが、でも派遣村の趣旨からして名前からしてやはり派遣の仕事をしていないホームレスの人が混じっているというのは、正しいあり方とは全く言えないでしょう。
 しかも、そんな派遣村の趣旨とは全く関係ないホームレスとかの人の存在を黙認した上で、主催者や一部マスコミはデータを発表します。
 「派遣村には○○人集まっています」と。
 これはなぜでしょうか。
 答えは簡単です。
 数が多い方がセンセーショナルであり、世の中から注目を集めやすいからです。
 例えば「派遣村には5人しか集まりませんでした」と言ったらどうでしょうか。
 たぶん注目は集まりません。
 年末のあのときのような大騒ぎには全くならなかったでしょう。
 だから主催者も一部マスコミも、趣旨とは関係ないホームレスが紛れているコトを知っていながら、それを黙認して、しかも“水増し”したデータを発表したワケです。
 
 そしてこのデータは、いつしか事実化してしまいます。
 「こんなに大勢派遣切りにあった人がいて、明日の食事すらままならない人がこんなにして、いったい政府はいままで何をしてきたのか」という論調につながるワケです。
 これは政治の問題であり、「政争」に他なりません。
 事実、厚生労働省が色々と動いたワケですから、これは完全に政治問題です。
 しかしよく考えてもらいたいのは、そもそも最初の政治が動くキッカケとなるデータは、これは捏造された水増しされたウソのデータだというコトです。
 すなわち、政治がウソによって動いたコトになるのです。
 一部マスコミは、政治を批判するためにウソのデータを黙認したのです。
 批判するコトが最初から決定事項としてあり、そのために現状を無視してデータを改竄したのです。
 これはあまりにも歪んだ形だとしか言いようがありません。
 
 派遣村は、実際の支援を求めるコトよりも、注目されるコトの方を優先させているとしか言いようがありませんでした。
 
 念のために言っておきますが、おそらく派遣村に集まった人の中には、本当に派遣切りにあって年を越すのが難しい人もいたんだろうと思います。
 そういう人には行政はしっかりと措置を執らなければならないでしょう。
 しかし派遣村は注目されるコトの方を優先にしたために、そういう本当に救済が必要な人たちに対する、現状に即したきめ細かい措置からは、むしろ遠ざかってしまったのではないでしょうか。
 例えば寝床ひとつとってもそうです。
 確か東京都が施設の開放などを行っていましたが、派遣村の人数が多いと、やはり解放できる施設にも限りがありますから、自ずと限界が来ます。
 また、施設を開けるというコトは、つまり休みのところの公務員を出勤させるコトに他なりませんから、やはり数が多ければ多いほど、税金がそれだけかかってしまうワケです。
 しかし、その派遣村には、多数のホームレスが紛れ込んでいました。
 これにより、もしかしたら本当に支援が必要な人があぶれてしまった可能性も否定できませんし、税金など余分な無駄は確実に多量に発生したとしか言いようがないのです。
 これでは、真の弱者救済など出来はしないでしょう。
 
 正しくない現状を無視したデータは、政争の具に利用され、本当に救済すべき人へのサポートがむしろ遠ざかる結果にしかなりません。
 
 本当に弱者を救済すべきと考えている人は、弱者のフリをしている人(やえはこれを「一見弱者」と呼んでいます)を排除し、データをとるなら現状に即した正しいデータを作るように、むしろ積極的に行動すべきです。
 これをせずして、ただただ救済救済と叫び、さらにやえのような主張にすらバッシングをするというのは、ただ単に自分がいい人と思われたいだけのパフォーマンスでしかないのではないでしょうか。
 「弱者救済」と言えばそれだけで自分は正しい位置にいられると、自分に酔ってしまっているだけなのではないでしょうか。
 現実を見ましょう。
 貧困論もそうです。
 ただただ、ものすごいインパクトのある「貧困」という言葉を世に広めて、それだけで政治を動かすという「政争」をしていては、目立つ人だけが優先となって、アピールすら難しい本当に困っている人がますます埋没する結果になってしまうでしょう。
 そうではなく、本当に真に困っている人を救済するのであれば、そういう人が現状どれぐらいいて、なぜ困っているのか、どのように困っているのか、どうしてほしいのか、そういう「エラーの無いデータ」を作る必要があるでしょう。
 マスコミの考え方は、センセーショナルで目立って注目が集まればいいのでしょう。
 そうすればスポンサーからお金がもらえるのですからね。
 しかし政治はそうではありません。
 普通に生活する人やマスコミにむしろ注目されないようなとてもとても困っている人こそをシッカリとサポートするのが、本来の役割のハズです。
 政治にパフォーマンスは必要ありません。
 もし本当に弱者救済が必要であると考えるのであれば、この構図を正面から見据えなければならないでしょう。
 
 やえは、本当に真に困っている人がいるのであれば、それは政府がサポートすべきだと思っています。
 だからこそ、正しくないデータを自ら改竄し作り上げて政争の具にしようとする人や団体や『一見弱者』を批判するのです。 
 それこそが真に困っている人への救済になる道だからです。
 

平成21年10月29日

 鳩山メルマガレビュー

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       内閣広報室からのお知らせ(2009/10/29)
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 平素より、鳩山内閣メールマガジンのご愛読ありがとうございます。
 本日配信予定としておりました鳩山内閣メールマガジン第4号でございますが、国会での代表質問への対応のため、鳩山総理の原稿の準備が遅れております。大変申し訳ありません。
 明日以降、準備が整い次第配信させていただきますので、ご理解のほど宜しくお願い申し上げます。
 
 えー……。
 
 うーんと、困りましたね。
 まぁ仕方ないですよね、鳩山総理、忙しいですもんね、とっても。
 異例の総理就任から所信表明までものすごく長い期間があって、その間ファッションショーとか高級料理屋とか奥様と行かれていて、昨日の海上自衛隊と韓国籍民間船との事故に際しても、第一報が入ってから20分後には田園調布のご自宅に帰られましたぐらいですけど、やっぱり国会がありましたら忙しいですもんね。
 メールマガジンごときにご多忙の総理大臣に無理は言えないですもんね。
 仕方ないです。
 お時間がありましたら、ぜひ発行をお願いします。
 
 仕方ないですけど、やえとしては困りました。
 というワケで、いまからちょっと気になるニュースを探して、コメントするコトにします。
 

 「その指摘そっくりお返ししたいです」28日の鳩山首相
 
 ――今日の答弁について、誰がどのように作ったか。自民党に対して「あなたに言われたくない」といった挑発的表現が目立ったが、そうしたレトリックで個々の問題についての説明責任を果たしていないという指摘があるが。
 
 「うん、その指摘をそっくりお返ししたいですけどね。わたくしは率直に申し上げた。すなわち、前政権、旧政権が、様々な失政をおこなった。そのツケが国民の皆さんに今、回ってきていると。そのツケをわれわれとしては新たな政権でいかにして早く、ツケをなくしてですね、より、新しいきれいな状況に戻していくかと、今、それを行わなきゃならない。だからこそ無駄遣いをなくせという大号令のもとでいま行動していると、という時であります。にもかかわらず、例えば、巨額の概算要求をしているとかですね、国債をたくさん発行されるんじゃないかとか、いうようなことを盛んにおっしゃるもんですから、そのことに対して若干、私なりの思いを申し上げた。すなわち、今日は誰が作ったかって当然、いろいろとデータを集めることにおいて、皆さんで協力をして努力をしていただいたことは事実です。ただそれを、私が、当然のことながら、私なりに書いたものもたくさんあります。そういったものを基づいてすべて私の目で判断をして、自分なりに大きく手を入れて、そして自分の言葉で極力話そうと努力をいたしました」

 えーと、ごめんなさい。
 やえの読解力が足りないのかもしれませんが、結局総理が何を言いたいのかよく分かりません。
 誰か解説していただけないでしょうか。
 
 最近よく民主党や鳩山総理は「自民党政権時代のツケ」なんて言ってますが、これは民主党が野党の時から変わらないですけど、民主党の言葉は一方的な決めつけレッテルが非常に多いんですよね。
 一言で「ツケ」とか言ってますが、果たしてどの政策がどのように失敗だったのか、それを具体的に説明したコトがありません。
 「ムダ」もそうですね。
 例えば、先の選挙の大きな争点のひとつであり、自民党が落ち目・民主党が伸びる大きなキッカケとなった後期高齢者医療制度でも、あれだけ大批判していた制度のくせに、まして野党時代に「後期高齢者医療制度を即時廃止し老健を復活させる法案」を提出しておいて、いざ政権を取ったら今のところの後期高齢者異例制度を現状維持しています。
 民主党は言っているコトとやっているコトが違うのに、そういう中身を隠して、なんとなく全体のイメージだけで決めつけるような「ムダ」とか「ツケ」とかいう言葉でごまかしているのです。
 これはかなり卑怯な物言いですよね。
 もう与党なんですから、そういう適当なコトを言って逃げるのではなく、具体的に発言してほしいです。
 所信表明も代表質問も、自分一人の世界にこもっているかのように、抽象論の演説に終わってしまっていますし。
 
 それからこれに関連してもう1つ。
 なんだか鳩山総理は、巨額の概算要求や赤字国債の増刷まで「自民党時代のツケだ」とか言ってごまかそうとしていますが、しかし麻生前総理が出していた来年度の概算要求は、鳩山総理の95兆円より全然少なかったです。
 もちろん国債の発行額もです。
 これのどこがどうツケなのか、やえにはさっぱり理解できません。
 なんでもかんでも「自民党時代のツケだ」と言えば批判がかわせると思っているなら、あまりにも人を馬鹿にした話でしかないでしょう。
 
 
 次のニュースです。

 臨時国会 肝炎患者・被爆者「立法の約束守って」
 
 「新政権は約束を守って」。26日から始まった臨時国会に、肝炎患者や被爆者が不安を募らせている。新政権が支援や救済の立法を約束していながら、臨時国会では上程の見通しが立っていないからだ。民主党が議員立法の原則禁止を掲げるため、政府提出以外の法案を取りまとめる場すらない。鳩山由紀夫首相が所信表明演説で掲げた「命を大切にする政治」の実現を求める声は国会に届くのか。

 やえくりっぷでもとりあげたのですけど、このニュースの注目は
 
 「民主党が議員立法の原則禁止を掲げるため」
 
 この部分です。
 民主党が政権を取ってから噂には聞いていましたが、まさか本当に実行しているとは思いませんでした。
 
 いやーすごいですね、民主党は。
 たぶん小沢幹事長の強権独裁なのでしょうけど、立法府は行政府の言いなりになれと言ってしまっているのは、本当にすごい勘違いっぷりです。
 民主主義国においてはだいたい三権分立が確立していますが、しかし国によって三権のパワーバランスというモノは微妙に違います。
 例えば大統領制の国は、大統領は国民から直接選挙で選ばれる国家元首でありますから、行政府である大統領がとても強い場合が多いです。
 しかし日本は大統領制ではありません。
 総理大臣は国民から直接選挙で選ばれるワケではありません。
 では日本の場合、三権のどこが一番強いと言えるのかと言えば、それは憲法に「国権の最高機関」と定められていますように、立法府である国会が最も権威を備えていると言えるでしょう。
 
 もちろん実質的というか、実務的には、行政府の長が様々な強い権限を持っているのは事実です。
 しかしそれでも建前的権威というモノは大切にしなければなりませんし、システム的にもその順列というモノは、やはり立法府が上です。
 いくら行政府がやりたいコトがあったとしても立法府でダメだと結論が得られれば出来ないワケですからね。
 総理大臣を指名するのも国会ですし、日本の行政府は立法府である国会があってこそ成り立つ機関であるというのが、日本国家のありようなのです。
 
 だけど小沢民主党のやり方は、まさにこれをひっくり返す考え方です。
 民主党のやり方は、行政府があって立法府があるという考え方です。
 いくら選挙に勝ったとは言え、国家の大原則まで否定し出すとは、どこまで増長しているのでしょうか。
 よく小沢幹事長は「一回生の仕事は選挙だ」と言ってますが、しかし議員の一番の仕事は当然国会であり、選挙はその手段でしかないハズなんですが、どうしてこの発言がまったくスルーされているのか不思議でなりません。
 小沢民主党の独裁ぶりは、本当にひどいモノです。
 民主党政権になってから、日本がどんどんおかしな方向に行っている気がしてなりません。
 
 
 最後にこのニュースです。

 <参政権>推進議員固め着実に 新人中心に念押し 大阪本部懇談会 「通常国会で」と民主側
 
 第45回衆議員選挙(8月30日)から2カ月。永住外国人への地方参政権付与に賛同する候補者を支援した民団は、本部・支部単位でこの間、地元選挙区で当選した推進派の新人議員を中心に、規模の大きい会合あるいは個別面談の形式で親交を深め、選挙運動支援を通じて培った連携の強化に取り組んでいる。9月28日の兵庫本部(車得龍団長)に続き、大阪本部(金漢翊団長)が17日に民主党国会議員を招いて会合を持った。勉強会・懇談会・フォーラム形式の会合はさらに広がりを見せそうだ。
 【大阪】民団大阪本部は17日、大阪韓国人会館に民主党大阪府連の衆院議員15人、同参院議員2人を招いて、早期付与実現に向けた政策懇談会をもったのに続き、約500人が参加する当選祝賀懇親会を開いた。
 参席議員全員がスピーチを行い、「しっかりやって恩返ししたい」「人権を守るためにも必ず」「指紋押捺撤廃の時も頑張った。地方参政権でも期待に応える」など力強い発言が相次ぐと、会場は熱気に包まれた。

 「しっかりやって恩返ししたい」?
 はぁ、日本の国会議員が、どう在日本大韓民国民団に恩を受けたというのでしょうか?
 なんの恩を受けたのでしょうか?
 在日韓国人の団体ですから、当然参政権はないですから投票していないでしょうし、それともお金ですかね?
 しかし外国人からの献金は法律で禁止されているハズなんですけどね。
 いったいぜんたい、民主党の国会議員はどういう恩を民団から受けているのでしょうか。
 とても気になるところです。
 
 まぁそれはともかく、外国人参政権問題は本当にまずいところに来ていると言えるでしょう。
 なぜやえがこの問題に反対しているかは特設ページをごらんいただくとしても、しかしあえてこの度の選挙で民主党がマニフェストに載せなかったこの法案のコトをここまでごり押ししようとしているのか、なんともかんとも、そういう政党なんだと言わざるを得ません。
 そもそも自らのマニフェストすら守れていない政党が、いったいどうしてこのようなコトに血眼を挙げているのか、民主党には日本のために政治を行ってほしいと心から願います。
 
 来週はメルマガレビューができるコトを期待します。
 

平成21年10月30日

 弱者救済のための正しいデータ

 ここは今後の弱者救済論にとっても大切な部分になってきますので、重複する内容が多いとは思いますが、繰り返し取り上げます。
 一行メッセージボードの書き込みです。

 貧困率のデータは正しいんでしょ?

 つまりこれは、やえは先日の更新でいろいろとごちゃごちゃ言ってるけど、厚生労働省の出した貧困率のデータは正しいんでしょ? というコトなんだろうと思います。
 そしてそれは、正しいからこそこのデータを利用して政治が行われるコトに、なんの問題があるの? とつながるのではないかと推察されます。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 まずはですね、「正しい」と一言で言っても、「どのように正しいのか」という問題があるワケです。
 今回厚労省が出した相対的貧困率のデータは、役人などが捏造していなければ、数字としては正しいのでしょう。
 そこを疑うつもりはありません。
 ただし、それを「貧困率」と呼んでいいのかどうか、という部分に疑問があるワケです。
 
 この相対的貧困率はどのように導き出されたかと言いますと、厚労省によれば

 世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合

 となっていますから、「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」の結果としては、これは間違いなく正しいと言えます。
 ですから「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」が日本では約16%近くいるというのは、紛れもない事実でしょう。
 そこは疑いの余地がありません。
 しかしここで重要なのが、果たしてそれを「貧困率」というたった一言の言葉で表して適切かどうかなのです。
 「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」で出した数字がイコールで「貧困率」と呼んで本当に正しい表現と呼べるのかどうか、ここを考えなければならない問題であるワケなのです。
 もっと言うと、外国語では分かりませんが、少なくとも日本語で言う「貧困」とはものすごいインパクトのある言葉であり、そのインパクトに「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」が釣り合うかどうか、ここを考えなければならないのです。
 
 確かにこの相対性貧困率というのは、OECD(経済協力開発機構)が世界基準のひとつとして定めている統計ですから、見方によってはひとつの指針ではあろうとは思います。
 しかし、その統計がどれだけその国の実情を正しく反映できるのか、またそれをその国の政治に反映させるに十分価値のあるモノかどうかというのは、また別問題です。
 他の国はよく知りませんが、日本の場合、この統計を元にして「貧困者がこれぐらいいますよ」と言ってしまうと、その割合の人が明日の食事もままならない、昨日の話で言えばホームレスなどを除く本当に明日困っている派遣村住民の人だけの数のように想像してしまいます。
 そして、政治もそれを元に、批判や政策を実行してしまうワケです。
 でもそれだと先日言いましたように、無意味な政争が始まり、結果的に大変な無駄や、真に困っている人への対策がむしろ遠ざかる結果になってしまうのではないかと思うのです。
 いくらOECDの基準とは言え、「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」が日本の政治にとって意味のある統計なのか、そしてそれを「貧困率」と表現していいのか、ここはよく考えなければならないでしょう。
 
 数学の問題ではないんです。
 これは国語の問題と言っていいでしょう。
 もしくは心理学の問題であり、イメージやインパクトの問題なのです。
 
 そもそも、なんのためのデータを取るのか統計を取るのかを考えなければなりません。
 なんのためか。
 それは、政治を実際に動かすためであり、もっと言えば、困った人を手助けしサポートをするためです。
 すなわち、統計を取るコトが先なのではなく、統計とは困った人を助けるために政治が実情を知るために行うモノであるのです。
 よって、データを取る際において最も大切なのは、「手助けが必要な困っている人がどれだけ存在するのか」という部分なのです。
 当たり前ですよね。
 弱者救済が政治の使命の一つであるコトはその通りですので、そのためにも、果たして真に手助けな人がどれぐらいいるのか知らなければ、政治はその人たちにどのようなサポートが必要なのかを考えるコトが出来ませんし、そもそも存在を知らなければ手助けを予算と時間を割いて実行しようという動機にすらならないワケです。
 政治にとって大切なデータというのは、『政治のサポートが必要な人がどれだけ存在しているか』です。
 変な話ですが、本当に貧困している人というのが確定できたとしても、それが政治的なサポートを必要しないのであれば、政治の上ではその統計は必要としない統計でしかないと言えてしまうワケです。
 重要なのは「サポートが必要な人」です。
 政治にとっては型通りの統計的な数字がほしいのではありません。
 
 日本語で表現するところの「貧困」と聞いてしまうと、それに該当する全ての人は直ちに速やかに政治の手助けが必要な人であるととらえるのが、おそらく普通の感覚ではないでしょうか。
 しかし、「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」であるなら、その全てが本当に政治の手助けが必要な人かどうかは、かなり疑問の残るところでしょう。
 「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」の統計の存在自体は否定しませんし、人によってはこの統計が必要な人もいるんでしょう、よく分かりませんが、それは否定しません。
 だけど、これをそのまま政治に反映させるべき統計か、政治に必要なデータかどうかは別問題です。
 これは派遣村の問題と同じ構図といえるでしょう。
 確かに「派遣村に参加した人数」という意味においては主催者発表は正しい数字をおそらく出しているんだろうと思いますが、しかしそれはイコールで「派遣切りにあった本当に政府が手助けしなければならない人数」ではないワケです。
 一言で「貧困」や「派遣村参加者」と言っても、それが必ずしもそれが政治的な現状を正しく反映しているとは限らないコトを知っておかなければなりません。
 
 こういう問題はけっこう多い問題ではないでしょうか。
 例えばよくマスコミを賑わす統計で、国別幸福度とか住みやすさ度とかありますけど、そのタイトルだけ見ればインパクトがあるワケですが、よくよく考えればそのデータにどれだけ意味があるのかは、ちょっとよく分からないというところなのではないでしょうか。
 これで政治が動かなければただのお遊び的なモノで済みますが、政治が動くほどのコトであれば、やはりキチンと検証なり議論なりしなければなりません。
 そうでなければ、この前言いましたとおり、真に政治の手助けが必要な人に、その手が差し伸べられない結果になりかねないのですから。